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2024年4月30日火曜日

植民地支配と建築家、書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』、SD,199704

書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』
植民地支配と建築家 

布野修司

 

 間違いなく労作である。そして、一見ハンディな本のようでていて、とてつもなく重い本である。

 本書のもとになったのは『二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動に関する研究』という学位請求論文(東京大学 一九九二年)である。そこで時間をかけて丹念に掘り起こされた圧倒的な事実が本書を大きく重みづけている。そして、「二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動」が「日本による中国東北地方への侵略・支配に対して、大なり小なり貢献していたのは確かである」という、全体として扱うテーマの大きさが本書をさらに重いものとしている。

 全体は7章からなる。大連軍政署および関東都督府()、満鉄()、満州国政府()、ゼネコンとフリー・アーキテクト()の前半においては、それぞれ「建築組織」と「建築家」群像が克明に調べられ列挙(リストアップ)された上で、主要な建築(活動)が紹介される。そして後半の3章は、建築様式(Ⅴ アール・ヌーヴォーvs中華バロック)、自然条件と建築材料あるいは都市防火と美観(Ⅵ 異境での建築活動)についての考察を踏まえて、総合的考察(Ⅶ 中国東北地方支配と建築)がなされている。

 最初の建築家、前田松韻が東京帝国大学建築学科を卒業直後にダルニー(大連 ダーリニー)に渡ったのが1904年。そして、池田賢太郎、岡田時太郎が続いた。日露戦争とともに中国東北地方における「建築家」の活動が開始される。以後、15年戦争期にかけて、日本人建築家たちがどのような建築を建てたのか、様々なエピソードとともに記述されている。京都府技師であった松室重光が大連市役所を建てる経緯、大連医院の設計をめぐる米国フラー社の途中解約事件、内地に先駆けた集合住宅、大連近江町住宅を設計した太田毅、安井武雄の満鉄時代、遠藤新と土浦亀城の中国東北地方での活動。かって薄暗い書庫で『満州建築協会雑誌』の頁をめくったことを思い出した。とても書かれたものだけからはわからない興味深い事実が随所に記されていて実に刺激的である。

 日本帝国主義の満州支配の拠点であったといっていい大連の南山地区には今猶1910年代から20年代にかけて日本人によって建てられた住宅が今も猶残っている。大連理工学院の陸偉先生と一緒に調査する機会があった。内地に先駆けてアパートメントハウス関東館(1919年)が建てられている。ゾーニング(用途地域性)も内地京都(1924年)に先駆けている。満州が日本の実験場であったという評価も一方でそれなりに了解できた。大連市はこの南山地区を「保存的開発地区」に指定したのであるが、何を保存し、何を開発すればいいのか、僕自身考え続けている。本書全体がそうした問いに関わっている。

 一個の建物ならもう少し簡単かも知れない。朝鮮総督府(韓国中央博物館)のように如何に傑作であろうともPC(ポリティカリー・コレクトネス)問題として、壊されるべき建築はあるのである。しかし、町そのものは生きられることによって自らのものとなるプロセスがある。南山地区は既に半世紀を超えるそうした歴史がある。本書に微かな不満が残るとすれば、究極的にタイトルが示すように日本の「建築家」からの視点が全体として強調され、建設され残された集団としての住宅地や町の方からの視座が隠されてしまっていることである。

 



 

2024年4月26日金曜日

住まいの大切さを力説,居住福祉 早川和男著,共同通信,19971116

 「住居は人権である」というのがかねてからの著者の主張である。「健康で文化的な生活」を営むためには「安全・快適で安心できる住居」がなければならない。本書の第2章「健康と住居」にも、住居が「貧困」であるが故に引き起こされる傷病について多くの事例があげられている。「狭さはストレスとして現れ、家族の人間関係をおかしくする。不眠、抑うつ症状、精神分裂症状、あるいはケンカ、離婚などの家庭崩壊にいたることもある」などというのは極端にしても、住居の大切さが力説されている。

 著者は、毎年、釜ケ崎に越冬パトロールに出かけるのだという。冒頭にその経験が語られている。「寄せ場」や大都市の地下コンコースを住処とする「ホームレス」を目の当たりにすると、まさに「住居は人権である」という主張は実感できる。しかし、一般にわが国において、住居についての権利意識は薄い。住居の取得は住宅市場のメカニズムに委ねられるだけだ。そこで著者が提出しようとするのが、「居住福祉」という概念、「住居は福祉の基礎」というテーゼである。

 阪神・淡路大震災の経験が決定的であった(第1章「阪神・淡路大震災に学ぶ」)。最も多くのダメージを受けたのは、高齢者、障害者、在日外国人等々、要するに社会的弱者である。老朽化した住居の密集する地区が最も被害を受けた。隠されていた現代日本の「住宅問題」が露わになった。

 そこで「居住福祉」をどう展開するか。「高齢者と居住福祉」(第3章)の問題、わが国の居住政策への批判(第4章「居住福祉原論」)など、海外の事例、制度の紹介を豊富に加えて論じられている。そして具体的な行動指針が提示される(第5章「居住福祉への挑戦」)。鍵となるのは運動である。広範な「居住権運動」「居住福祉」運動が組織されねばならない。そこで大きなネックとなっているのが居住者の受動性なのである。



2023年9月18日月曜日

シンポジウム:司会:関西建築界の将来,横尾義貫,佐野正一,東孝光,橋本喬之,久徳敏治,日本建築学会近畿支部,1997.11.14

        日本建築学会近畿支部創立50周年 記念シンポジウム

                            関西建築界の将来

                                            

      主催 日本建築学会近畿支部 創立50周年記念事業委員会/記念シンポジウム委員会

                                            

                                            

 関西建築界の50年を簡単に振り返り、現状の問題を鋭く指摘した上で、関西建築界の活力ある未来を展望する。建築基準法等法制度の問題、インスペクター制度、職人問題等、日本の建築界の諸問題をめぐって大いに議論したい。また、関西建築界のルネサンスの方向性を21世紀に向けて宣言したい。



                                                  

                      日 時 11月14日(金)

           13:30~16:30 (開場:午後1時)

                          場 所 綿業会館本館大会議場

          大阪市中央区備後町2-5-8 tel 06-231-4881 定員300

                                      参加費 無料

                              事務局 日本建築学会近畿支部

                  tel 06-443-0538 fax 06-443-3144

              〒550 大阪市西区靭本町1-8-4 大阪科学技術センター内

                                            

                                            

  司会 布野修司(京都大学)  副司会 田渕基嗣(神戸大学) 記録 鵜飼邦夫(日建設計)

                                            

                                        基調講演

            横尾義貫 関西建築界の歴史と課題

        佐野正一 関西建築設計界の歴史と課題

                                            

                                            

                                          討論

                              東 孝光(大阪大学名誉教授)

佐野正一(安井建築設計事務所)

                                  橋本喬行(日建設計)

                                  久徳敏治(竹中工務店)

                              横尾義貫(京都大学名誉教授)

                                            

                                            

                                            

                                            

                                        テーマ群

                          関西と関東、関西と日本、関西とアジア

                      建築基準法等法制度のあり方/性能規定/違反建築

                  建設業界の諸問題/設計入札・談合/コンペ(設計競技)

      建築家の職能/建築士制度/資格制度/インスペクター(検査士)制度/シティ・アーキテクト制

                                      建築技術の未来

                                        職人問題

                                    関西建築界の役割

● 13:30-16:30(3時間)

 第一ラウンド 関西建築界の歴史と問題点(60分)

  まず、基調講演として横尾先生、佐野先生に歴史を振り返りながらの現状分析をお願いします。

  それぞれ25分

 

   1 横尾義貫先生 関西建築界の歴史と課題

   2 佐野正一先生 関西建築設計界の歴史と課題


   質疑 以上に対して、東、橋本、久徳の三先生からひとことづつコメント下さい。 10分


 第二ラウンド  建築界の現状と問題点(45分)

   橋本、東、久徳の3先生から、各15分程度、建築界の問題点をご指摘下さい。

   

      3 橋本喬行先生 建築生産の再定義       

   4 東 孝光先生 設計入札 コンペ、コミッショナー制(仮) 

   5 久徳敏治先生 建設業の展望 時の流れ 時の要請 時を求めて


休憩 15:15~30


 第三ラウンド 関西建築界の将来(30分)


   まず、3~5の橋本、東、久徳の三先生の発言に対してコメント下さい。   それに対し、若干のディスカッション。


 第四ラウンド フロアに開いたディスカッション 30分

 最後に一言

  

 テーマ群

      関西と関東、関西と日本、関西とアジア

      建築基準法等法制度のあり方

       違反建築

      建設業界の諸問題

       設計入札・談合

       コンペ

      建築家の職能

       建築士制度

       資格:インスペクター制度

       シティ・アーキテクト制

      建築教育

      建築技術の未来

      職人問題 

      関西建築界の役割




石田 関西の近代建築 施主の違い 施主に圧倒される 顧問ではなく 技術家 雇い人にすぎない。 一対一の人格的評価 一家言ある施主 人物重視 新しもの好き 

 様式建築     パトロンの消滅 

 モダニズム 論理性を要求 片岡安で終わった


Dr.Shuji Funo

Department of Architecture and Environmental Design

Faculty of engineering

Kyoto University

Yosidahonmati,sakyo-ku

kyoto,Japan

E-Mail i53315@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp

tel.fax 075-753-5755

創立50周年記念シンポジウム



ポスター:グラフィック・デザイナーについて

 西岡勉 京都近代美術館ポスター、建築思潮表紙 10~20

 杉野良子 菊地信義の弟子

 小山・・



5-4 アジアと建築の未来


 会場 京都市国際交流会館

    KBSスタジオ


 後援メディア KBS 京都新聞?


 参加者:関西建築系大学所属留学生・OBおよび指導教官

     阪大/京大/神戸大/奈良女子大/大阪市大/京都工業繊維大学/神戸芸術工科大学/立命館大学/大阪芸術大学/京都精華大学/明石高専・・・・各大学最低5人 最低50人~100人参加

  

 時間 I 10:00~12:00

        Ⅱ 13:00~15:00

    Ⅲ 15:30~17:30

    Ⅳ 19:00~

 

     

 基調講演  高谷好一(滋賀県立大学 京都大学東南アジア研究センター)

      「多文明社会の構図」


 ディベート:徹底討論 21世紀と日本(関西)

       それぞれ5名程度意見発表を行う。

               中国、韓国、台湾、インドネシア、タイ、フィリピン、・・・・・・・

       

 第一部 アジアと日本の未来

          コーディネーター:高谷好一

            A

      B

      C

      D

      E


 第二部 アジアの都市と日本

     コーディネーター:モンテカセム 佐々波秀彦

            A

      B

      C

      D

      E


 第三部 アジア建築の未来

     コーディネーター:重村力

            A

      B

      C

      D

      E



 第四部 日本文化の諸問題

      日本の建築界:教育・職能・資格・・・・研究と実践

     コーディネーター:布野修司

            

      A

      B

      C

      D

      E


●現実的には上のⅡ、Ⅲの時間帯で、ふたつのセッションぐらいか。



  5-5 建築をめぐる人々と建築界の将来

            何より駄目な関西建築界

      建築界の構造転換


 場所 綿業会館


        司会 布野修司


      佐野正一 大阪市中央区島町2-4-7 安井建築設計事務所

           06-943-1371 fax 06-945-4340

      横尾義貫 607 山科区大塚南溝町10

            075-581-2565

           

      久徳敏治  573 枚方市東香里2-21-25

           0720-54-5601

      東 孝光  107 港区南青山3-6-1

           03-3403-5593

      橋本喬行  横浜市港北区下田町1-1-1-117

      03-3408-7125-7129ext 045-561-3086

    ・・・・・・

      建築基準法

      設計入札

      談合

      資格:インスペクター

       違反建築


      関西建築界とは

         

 

2023年7月5日水曜日

おわりに、住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日

 あとがき、住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論,朝日新聞社,1997年10月25日



おわりに

  夢に現れる場所や空間に興味を持ち、克明に夢の記録をとり続けた建築家の話を聞いたことがある。その建築家によれば、採集した夢のほとんどが住宅を舞台とするのだという。しかも、その大半が生まれ育った住まいだという。

 夢の記録はいかにして可能なのか、記録者が分析者であることによって、夢の内容はどう影響されるのかは、夢解釈や夢の現存在分析の問題であり、僕にはよくわからない。だから、その建築家の分析結果が一般化できるかどうか確信がない。しかし、僕には思い当たることがある。

 建築を学び始めた学生に住宅設計の課題を出すと、その設計案にはどこかしら生まれ育った住まいの面影が表れるのである。例えば、間取りが似ていることがよくある。「夢の住まい」「理想の住まい」を設計しなさいといっても同じである。何となく現実の住まいに似てしまう。だから、もっと自由な発想で、というのが僕らの口癖である。しかし、空間体験がなければなかなか発想も豊かにはならない。未知の空間はそう簡単には設計できないのである。様々な空間を経験すること、実際に行って見ること、見るだけでなく触って、そして全身で感じること、それが夢の住まいを自由につくる第一歩である。

 「夢の住まい」も現実の「ウサギ小屋」を超えることはないという認識は、一方で僕らをうんざりさせるかもしれない。しかし、夢の舞台として住まいが繰り返し現れているのだとすれば、僕らの存在にとってそれだけ現実の住まいが重要であるということである。

 住まいの夢は、従って、単に住宅の夢ではないであろう。まして、お金さえ有れば買えるというものでははないだろう。住まいの夢と住まいの夢は自由で多様な生き方に関わっている。

 本書では、現実の住まいを規定し、縛っている様々な制度について順に考えてみた。土地、家族、空間、環境、技術、世界観などによって、住まいは様々に規定されている。とても一元的に理解することはできない。住まいのあり方は極めて複合的な諸要素からなる文化の表現である。僕らの住む都市の風景が貧しいのだとすれば、それは単純な制度や原理によって容易に理解可能だからである。

 所有形式(所有ー無所有、定住ー移住、恒久ー仮設)、集合形式(独居ー群居、男性ー女性、複数家族ー核家族)、空間形式(有限ー無限、限定ー無限定、自由ー不自由)、環境形式(場所ー無場所、自然ー人工、地下ー空中)、技術形式(画一性ー多様性、自己同一性ー大衆性、地域性ー普遍性)、象徴形式(生ー死、コスモスーカオス、永遠ー瞬間)がそれぞれの章に割り当てたテーマであり対となる鍵語群である。もちろん、各章は独立するわけではなく、相互に関連している。二分法によって、どちらかはっきりさせようというわけではない。僕らの「住まいの夢と夢の住まい」は両極の間をさまようのみである。

 住まいの夢は、もちろん、個人によって様々であろう。無所有の夢、ノマドの夢、独居の夢・・・といっても、誰もが実現できるとは限らない。所有より住むことそのものへ、多様な関係を許容する住まいのあり方へ、規模よりも共有された秩序へ、場所の固有性へ、自己表現へ、そして生きている住まいへ、・・・「住まいの夢と夢の住まい」を考える素材が提供できたとすれば望外の幸せである。

 本書のもとになったのは、『群居』という同人雑誌に「アジア住居論」と題して連載していた文章である。思いつくままテーマを選んで気楽に連載していたのであるが、一冊の本にまとめるにあたって全く新たに構成し直した。ほとんど書き下ろしと言っていい。連載のみならず、これまでの著書で考えてきたことも必要に応じて取り込んでいる。

 本書はもちろんぼくひとりの力によって書かれたのではない。共に調査をしてきた研究室の若い友人たちとの共同作業がもとになっている。また、インドネシアのスラバヤ工科大学のJ.シラスとその仲間たちとの交流も同様である。『群居』の仲間たちとの議論も貴重である。本書の執筆と平行して、R.ウオータソンの『生きている住まい』を翻訳する作業を若い仲間と行ったのであるが、東南アジアの住まいについての実に豊富な事例の多くをR.ウオータソンの著書に負っている。『生きている住まい』がなければ、本書をまとめる踏ん切りがつかなかったかもしれない。また、東南アジア学の手ほどきを受けた京都大学東南アジア研究センターの諸先生方、特に立本成文、高谷好一の両先生、さらに「イスラームの都市性」に関する研究をご一緒して以来、最近の「植民都市の比較研究」まで、ロンボク島調査などフィールドを指導していただいている応地利明先生には常に大きな知的刺激を受けてきた。特に記して感謝したい。

 「アジア住居論」の迷路に踏み込んで右往左往している僕に本書をまとめるよう薦めて下さったのは赤岩なほみさんである。すぐにとりかかったけれどなかなかまとまらない。フィールドが面白くて新しい興味がどんどん沸いてくるせいである。一応まとめてからも冗長さを削ぎ落とすのにさらに三年はかかったであろうか。赤岩さんとの共同作業は貴重な経験であった。本書が多少とでも読みやすくなっているとすれば彼女のおかげである。 

2023年7月1日土曜日

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331

エコ・サイクル・アーキテクチャー,日刊建設工業新聞,19970331


 エコ・サイクル・アーキテクチャー

 PLEA(パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー)釧路国際会議(一月八日~一〇日)に出席する機会があった。出席するといっても、最終日の最後のシンポジウム「エコロジカルな建築」(司会:小玉祐一郎 問題提起者:ビヨン・ベルグ ヴァリス・ボカルダース 討論者:A.de ヘルデ、J.クック、A.トンバジス、岩村和夫、大野勝彦、野沢正光、布野修司)にコメンテーターとして出席しただけだから、全貌はとても把握するところではない。しかし、登録者数が一二〇〇名にもおよぶ大変な国際会議であり、今更ながらであるが、環境問題への関心の高さを思い知った。幸い天気には恵まれたのであるが、厳冬の釧路に集った多くの参加者の熱気に圧倒された。また、数多くの論文発表に大きな刺激を受けた。

 ベルグ氏はノルウエイの建築家で、生物学者も参加するガイア・グループを組織し、エコ・サイクル・ハウスの実現を目指す。総体的な生態原理に基づいて、住居を自然のサイクルと相互交渉するひとつの過程としてとらえようとしているのであるが、建築材料について絞った提起があった。興味深かったのは、モノマテリアルという概念である。モノマテリアルにも一次、二次が区別され、一次のものは木、藁、土など、要するに生物材料、自然材料である。二次モノマテリアルは、工業材料であるが単一素材からなるもの、鉄、ガラス、コンクリートなどである。厳密な定義については議論が必要であるが、基本はリサイクルが容易かどうかで材料を区分するのである。

 自然の生の材料であること、製造にエネルギーがかからないこと、公害を発生しないこと、フェイス・トゥー・フェイスの関係を基礎としてつくられること、という基本を踏まえて提案された木造住宅のモデルが興味深かった。全て木材を主体とするモノマテリアルでつくられ、手工具だけで組み立てられるのである。

 ヴォカルダー氏は、スウェーデンの建築家、研究者で、エコロジー学校の運動に取り組んでいる。学校施設をエコロジカルに設計計画することにおいて、環境教育をまさに実践しようというのである。いずれも、刺激的な報告であった。

 釧路が会場に選ばれたことが示すように、今回は、寒い地域の「エコロジカルな建築」について考えようということであった。そうした意味では、長年、東南アジアの居住問題を考えている筆者にはシンポジウムの席は、座り心地が悪かった。しかし、環境問題には、国際的な連帯が不可欠であり、南北問題を避けては通れない、というベルグ氏の発言もあって、「湿潤熱帯」では「エコロジカルな建築」の考え方も違うのではないか、といった発言をさせていただいた。高緯度では、ミニマルな建築がいい、というけれど、湿潤熱帯では、気積を大きくして断熱効果を上げるのが一般的である。実際、湿潤熱帯には伝統的民家には巨大な住宅が少なくないのである。小さい建築が少資源につながるというけれど、大きくつくって長く使う手もある。地域によって、エコ・サイクル・ハウスのモデルが違うのはその理念に照らして当然なのである。

 完全木造住宅のモデルはわかりやすいけれど、建材の地域循環はどのような規模において成立するのかも大テーマである。木材資源は日本でも豊富といっていいが、山を手入れする労働力がない。輸入材の方が安い、という現実をどう考えるか。建材をめぐる南北問題をどう考えるか。熱帯降雨林の破壊はどうすればいいのか。シンポジウムの席でいろいろ刺激を受けたのであるが、つい考えるのは東南アジアのことであった。実をいうと、J.シラス(スラバヤ工科大学)をはじめとするインドネシアの仲間たちと湿潤熱帯用のエコ・サイクル・ハウスのモデルを考えようとしているせいでもある。

 二一世紀をむかえて、爆発的な人口問題を抱え、食糧問題、エネルギー問題、資源問題に直面するのは、熱帯を中心とする発展途上地域である。経済発展とともにアセアン・テン地域にも急速にクーラーが普及しつつある。一体地球はどうなるのか、というわけであるが、クーラーを目一杯使う日本人の僕らがエコ・サイクル・ハウスを東南アジ諸国に押しつけるなど不遜の極みである。まず、隗よりはじめよとJ.シラス先生に怒られながら、暑い国のエコ原理を学ぼうと少しづつ勉強をはじめたところである。


 

2023年6月30日金曜日

公開コンペになぜ応募がない,日刊建設工業新聞,19970221

 公開コンペになぜ応募がない,日刊建設工業新聞,19970221

公開コンペに何故応募がない 9701

布野修司


 ある県の公共建築の公開コンペ(設計競技)の審査委員を引き受けて、不思議な思いをした。あるいは、不思議でも何でもないかもしれない。もし不思議でないのなら、誰か解説して欲しい。

 このコンペは二段階で、まだ、一段階目を終えたところだ。一段階目は、条件付き公開コンペで五社を指名する。二段階目は、五社が競う。二段階ともプロポーザル方式である。一段階目は参加表明書、二段階目は技術提案書の審査で、それぞれ実績、組織形態等の他、一段階目はA4二枚、二段階目はA3三枚の範囲内で提案内容を示すことが求めらる。

 プロポーザル方式については多くの議論が残されているように思う。人を選ぶというのであるが、実績に差がないとすれば選びようがないではないか、と基本的に思う。具体的な土地の具体的なプログラムについての提案がなければ、その建築に最も相応しい建築家は選びようが無いというのが意見である。それに、プロポーザル方式ということで、報酬が少ないことも問題だと思う。設計入札に替わって、プロポーザル方式のコンペが広まるのはいいけれど、実施に当たっては工夫が必要である。行政手間や設計手間の簡素化といった観点からのみの発想でなく、すぐれた公共建築をつくりあげるための多様な手法が選択さるべきだ。プロポーザル方式については、いつか具体例に即して問題にしたいと思うけれど、今回はそれ以前の問題である。

 参加資格は、一級建築士が三人以上、五〇〇〇平米メートル以上の実績である。指名願いは提出していなくても、同等の事項を参加表明書に記載してもらうことで選定後指名願いを出してもらうという条件である。従って、オープンである。といっても、一級建築士の数と実績の条件があるから条件付きである。

 参加表明書を提出したのは二九社であった。多いのか少ないのか分からない。不思議に思ったのは、いわゆる組織事務所の参加がほとんどなかったことである。大手設計事務所となると二九社中二社のみだったのである。

 いったいどういうことか。

 要項には、地域との関係を重視することが唄われていた。当該地域での実績、地元設計事務所とのJV(ジョイント・ヴェンチャー)の可能性などについての記載項目が設けられていたことが大きな制約になったのであろうか。しかし、そうとも思えない。地域の気候風土への理解と実績を重視するのは極自然である。また、地元設計事務所への配慮もある意味では当然だと思う。公開コンペということで、すぐれた県外設計事務所の能力を借りるにしても、地域の建築家が切磋琢磨する経験の機会は与えられるべきだからである。応募したのは、いわゆるアトリエ派事務所と地元事務所とのJVの形が目立った。これからのひとつの方向かもしれない。

 しかし、それにしても実績十分の大手組織事務所が公開コンペに応募しないとはおかしな話である。例によって、単年度予算の枠のせいで、周知期間が短かったことは事実である。それが二九社と公開コンペにしては応募数が少なかった理由かもしれない。しかし、知らなかったから応募しなかったということは考えられないことだ。忙しすぎて人員を割けないというのであろうか。建設業界がそんなに景気がいいとは聞こえてこない。

 もしかすると審査員の構成が影響するのであろうか。審査委員の顔ぶれによって求められる提案と当選可能性を読むというのは当然のことである。しかし、組織事務所が敬遠する審査委員会の構成とは一体なんだろう、と他人事ではない。建築界に奇妙な棲み分けがあるのだろうか。



2023年6月29日木曜日

景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

 景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

景観条例、全国初の勧告やむなし

                970301

 「建築物西側のバルコニーの外側の壁面から、建築基準法(昭和二十五年法律第二百一号)第四二条第一項第四号の規定に基づき指定された「都市計画道路三・三・十号袖師大手前線」の境界線までの距離を、五メートル以上確保し、その空地を高木により緑化すること」

 以上のような勧告に対して「当該勧告を受けた者がこれに従わないので、規定による公表する」との内容が県報に載った(一月三一日)。景観条例に基づく勧告が公表されたのは、全国で初めてのことである。

 幾人かの文学者が愛であげた美しい景観を誇る湖の畔(ほとり)にそのマンションは現在建設中である。九階建てのそのマンションは、当初一〇階建てで計画され、何故かこの間の経緯の中で一階切り下げられたのであるが、一見そう変わったデザインをしているわけではない。都会では一般に見かけるマンションであり、湖のある地方都市でもとりたてて珍しいわけではない。ただ、そのマンションが建つ場所が一九九一年に制定された景観条例に基づく景観形成地区に指定されているのが大きな問題であった。

 県の景観審議会は、景観自然課に届出の事前の相談があった時点から議論を重ねてきた。正式の届出がなされて以降は、建主や設計者からのヒヤリングも行った。景観審議会は原則として公開である。現在、全国二〇〇にのぼる景観審議会のなかでも先進的といえるだろう。新聞やTVの取材にもオープンである。従って、この間の経緯は全て公表されているのであるが、「勧告公表やむなし」というのが、審議会委員である筆者も含めた全員一致の結論であった。

 周知のように、景観条例は建築基準法や都市計画法に比べると法的拘束力がほとんどない。「お願い条例」と言われる由縁である。建築基準法上の要件を充たしていれば、確認申請を許可するのは当然である。裁判になれば、行政側が敗訴すると言われる。

 しかし、それにも関わらず勧告という事態になったのは、そのマンションがまさに条例の想定する要の地にあり、この一件をうやむやにすれば条例そのものの存在が意味がなくなると判断されたからである。「景観条例は一体何のためにあるのか」というのが委員共通の思いであった。

 県外の建主にとって理不尽な条例に思えたことは想像に難くない。近くには景観形成地区から外れるというだけで七五メートルの高層ビルが同じく建設中なのである。その高層ビルも景観審議会にかかったのであるが、その場合は条例の規定には抵触するところはなかった。今回は明らかに条例違反であり審議会としても認められなかったのである。

 景観形成上極めて重要な場所であり、公的な利用が相応しい敷地である。だから、公共期間が買収するのが最もいい解決であり、審議会委員の大勢もそうした意見であった。県にはそのための基金もあるのである。しかし、買収価格をめぐって折り合いがつかなかった。

 問題は、階数を削ればいいだろうと、建主が着工を強行したことである。その行為は「お願い条例」である景観条例の精神を踏みにじるものであった。地域のコンセンサスを得る姿勢が欲しかった。

 景観条例に基づく勧告公表は不幸なことである。その結果、景観条例の精神が貶められたのを憂える。しかし、一方、法的根拠をもつより強制力のある景観条例を求める声が高まるのを恐れる。それぞれ地域で、よりよい景観を創り出す努力が行われること、その仕組みを創りあげることが重要であって、条例や法律が問題ではないのである。

2023年6月28日水曜日

国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

 国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

国際協力何のため

 京都大学の東南アジア研究センターの派遣研究員としてインドネシアを訪問してきた。今回はテーマ発見ということで滅多にない優雅な旅であるが、結局はいくつかの仕事をこなすことになった。当然といえば当然である。

 ひとつは、LIPI(インドネシア科学院)の東南アジア研究チーム(社会科学院 主宰:タウフリク・アブドゥラ)と東南アジア都市研究について議論してきた。昨年「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」という国際シンポジウム(一九九六年六月)に招かれた経緯があり、その後の研究計画の進展が興味深かったのである。幸い国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)の助成金が得られて、さらに二年継続されることになっていた。そう大きなお金ではないが、実に効果的である。LIPIが中心になって東南アジア都市研究を展開する、そうした時代になったのである。

 LIPIの都市研究チームは、都心のクマヨラン・ニュータウンと郊外のBSDニュータウンをとりあげて比較研究しようとしている。クマヨランには、廊下、台所、トイレを共用する形のルーマー・ススン(集合住宅)がある。その調査を手伝うことになった。クマヨランのカンポン(都市内集落)に以前から居住していたひとたちのルーマー・ススンで、各種のコミュニティ活動が活発に展開されている。

 何故、日本の国際協力チームは、カンポンのひとたちを追い出そうとしたのか。僕らに突きつけられた問いである。一九八〇年代半ばに、ジャカルタのど真ん中といっていいクボン・カチャンのカンポン再開発で、日本チームが計画したルーマー・ススンがある。その計画も結果として、カンポンの従前居住者を追い出すことになった。日本の国際協力チームは概して評判が悪い。

 ふたつめは、ジョクジャカルタのガジャマダ大学で、マリオボロ地区という王宮前の都心地区の保存的開発をめぐる授業に特別講師として参加した。また、再開発のための研究方法をめぐって講義も行った。大学院生といっても、インドネシ各地の大学の講師陣であり、半期のプログラムで具体的な地区を設定し、フィールド・サーヴェイを行い、様々な分析をもとに提案をしようとする姿勢には共感を覚えた。一方、そうしたプログラムに対して、日本の国際協力チームは無縁である。フィールドに出ることはなく、冷房の効いた部屋でコンピューターを自由自在に操っている。何事かの仕事をしていることはわかるけれど、一体何の仕事なのか。

 巨大な行政機構の中にいて個人のできることは限られている。しかし、大きなお金を使いながら首を傾げる例も少なくない。個人でもわずかなお金でもやれることはある。

 みっつめは、スラバヤで環境共生住宅の実験住宅を建設する打ち合わせを行った。(財)国際建設技術協会のプロジェクトである。かねてから、湿潤熱帯におけるモデル住宅開発の必要性を感じてきたが、実効に移すことになった。建設費はわずかであるが大きな意義を持っている。

 要するに言いたいのは、国際協力や援助は金額ではないということである。やりようによってはいろいろできる。国際協力基金(アジア財団)のように日本文化の理解のために懸命な仕事がなされている反面、一体何をしているのかという援助の形態も少なくない。さらに、日本の価値体系をそのまま押しつける態度がほとんどである。現場から発想しない。言われたことを無難にこなすだけのそんな派遣は要らないと思う。




2023年6月10日土曜日

AERA編集部編:建築学がわかる,AERA Mook,朝日新聞社,1997年9月10日

AERA編集部編:建築学がわかる,AERA Mook,朝日新聞社,1997910
AERA編:建築学がわかる,AERA Mook新版,朝日新聞社, 2004810

建築学の20

住居論

●どんな学問領域か

  住居を対象とする学問分野はとてつもなく広範囲にわたる。人がいかに住むかというテーマであればほとんど全ての分野が関わるといっていいのではないか。アリストテレスは『政治学』の中で、ポリスを村々の連合体、村をオイコスの共同体と定義し、オイコスすなわち家を社会生活の最小単位とした。このオイコスの学の系譜を考えると、エコノミー、エコロジーといった言葉がオイコスを語源とするように、住居論は政治経済社会の全般に関わってきたことがわかる。

 建築学における住居論は、まず住居の物理的な特性を考えることを出発点とする。すなわち、住む場所を形づくる諸要素、物や空間(部屋)の配列にまず関心をもつ。そして、具体的に住居を建てること、居住空間を創り出すこと、計画・設計・建設のための諸技術に関わっている。建築学は、およそ、骨組みの性能に関する構造系、音、熱、光、空気、水などの運動に関わる環境系、間取りや意匠に関わる計画系という三つの分野からなるが、住居論についても三つの系から様々なアプローチが行われている。

 住居論は決して個々の住居を対象にするのではない。住居がどう集合するか、そしてどういう町を形づくっていくかも大テーマである。都市計画、地域計画の分野にも必然的に広がりをもつ。さらに特に社会的弱者の住宅問題をどう解決するかは住居論の中心的課題であり続けている。住居論は、住宅政策、社会政策の分野にも当然関わりをもつのである。

●その面白さ 、魅力は

 なんといっても面白いのは一筋縄ではいかないことである。とても工学や建築学の枠内におさまりきらない。また、住居は全ての人に身近である。誰もが考えることができ、そして建てることができるのも魅力的である。

 住宅の間取りを考えてみる。間取りは一体どうして決まるのか。例えば、家族関係によって異なる。職業によって異なる。親族原理や、生業形態、社会的関係によって様々に規定されている。住宅の形を思い思いに考えるのは実に楽しいことである。住宅の形は、雨や雪、台風といった自然条件によっても規定されるが、個々人の好みにもよる。住居のあり方は住み手の自己表現である。世界中の住居や集落、都市のあり方を調べて、住居をめぐる多様な原理を学ぶのが最大の楽しみである。

 住居や集落は地域の生態系に基づいてそれぞれ一定の原理によってつくられてきた。例えば、それぞれ規模や意匠は違うけれど家並みとしては調和のとれた景観をつくりだしてきた。地域で採れる同じ材料でつくるからである。町並み景観は土地の住文化の表現である。そうした地域に固有な住居集落の成り立ちを明らかにすることはまちづくりを考える大きなヒントになる。

 住宅を実際建ててみることはさらに楽しい。様々な創意工夫が建築家の一番の楽しみである。誰でも建築家になりうる。ところが、いま、日本で住宅は建てるものではなく、買うものになってしまっている。カタログや展示場で選ぶだけになっている。残念なことである。 

●目下のテーマは

 この一〇数年間、インドネシアのスラバヤを中心として都市カンポン(集落)について調査研究してきた。人々が密集して住む地区を歩き回って住居の図面を描いたり、インタビューしたりする。文化人類学的手法に近いかもしれない。調査結果をもとに新しいタイプの集合住宅を実験的に建ててみた。スラバヤ工科大学のJ.シラス教授のチームとの共同研究である。

 また、都市だけでなく、時間を見つけては山間部など東南アジアの各地に残る民家を調べて回った。日本の住居の伝統と比較するのは実に刺激的である。さらにここしばらく、ロンボク島のチャクラヌガラという都市とインドのジャイプールという都市の比較を試みつつある。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がどう棲み分けするかその原理を明らかにするのがテーマである。また、二つの都市は格子状の街路パターンをしており、京都のような日本の都市を含めた中国やインドの都城との比較研究が目的である。もうひとつの視点は、都市型の住居をどう考えるかである。アジアには集合住宅の伝統は比較的希薄であるが、ヨーロッパとは違った伝統がある。そうした研究のためにカトマンドゥ盆地やイスラーム圏にも足をのばしつつある。これからは住居研究も国際的な共同研究が不可欠である。21世紀には危機的な状況を迎えるとされる居住問題、エネルギー問題、環境問題にどう対処するかは大問題である。そうした大テーマに関連しては、湿潤熱帯用の環境共生住宅(エコサイクル・ハウス)についての実験を開始したところである。

 

私の好きな日本の建築家

 新居照和・ヴァサンティ

 徳島で活躍する建築家夫妻。といってもまだ住宅作品がいくつかできたところだから無名に近い。石山修武、大野勝彦、山本理顕、渡辺豊和、毛綱毅曠、元倉真琴といった好きな建築家は数多いけれどそれぞれエスタブリッシュメントになってしまった。最近好きなのはこのご夫妻のように地域で頑張る建築家たちである。ヴァサンティさんはインド人。共にアーメダバードの建築学校でドーシに学んだ。ドーシはL.コルビュジェやL.カーンのインドでの仕事を助けたことで知られる。インド第一の建築家といっていい。期待するのは、インドという風土で建築を学んだ体験と培われた眼である。単に地域に埋没するのではなく、世界と地域を同時に視野におさめながら表現する方法である。同じ意味でアジア人に限らず日本で仕事する若い欧米人にも期待したい。新居さんはインドで徹底して絵画を学んだオーソドックスな建築家である。一方、新居夫妻は合併浄化槽の設置運動など環境問題にも積極的に関わる。実にユニークである。


プロフィール

Shuji Funo、 京都大学建築学科助教授、1949年島根県生まれ、東京大学大学院博士課程中退、著書に『スラムとウサギ小屋』『住宅戦争』『カンポンの世界』『住まいの夢と夢の住まい』など








 

2023年5月27日土曜日

集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

 集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

元倉真琴論

集まって住む原理

布野修司

 

 コンペイトウ

 元倉真琴はいわゆる派手な建築家ではない。奇を衒った造形を弄んだり、流行の哲学用語をまぶした難解な建築論を振り回したりする建築家とは資質が違う。

 熊本アートポリスの竜蛇平団地で日本建築学会賞を受賞することがなければ一般にはそう着目されなかったかもしれない。こつこつと作品を作り続ける堅実な建築家であり、そうだと思われてきた。

 同世代の建築家と比べてみるとわかりやすいだろう。元倉は東京芸術大学の出身だ。例えば、東大の石井和紘。彼の場合、口八丁手八丁の建築家(?)のイメージがあるが、建築家としてのデビュー以前になにがしかのスターであった。学生時代から建築ジャーナリズムでその名を轟かせていて、直島小学校による幸運なデヴューも二〇代半ばと早い。例えば、早稲田の重村力。彼は建築家’70行動委員会の闘士であり、やがて象グループのスポークスマンの役割を任じることになる。東京芸術大学の修士課程を終えて槙文彦の事務所へ入所することになる元倉の場合、ごくオーソドックスに建築を学ぶ道を選んだように思える。

 見るところ、東京芸大系の建築家には文章書きは少ない。いわゆる、寡黙に器用に建築を作り続けるタイプの建築家が多いという印象がある。吉村順三スクールと言えばわかりやすいのだろうか。良質のモダンリビング住宅を作る「うまい」住宅作家のイメージがある。『住宅建築』誌が比較的そうした作家の動向をフォローしているところだ。住宅の設計をベースにしてきた元倉真琴も基本的にはそうした住宅作家の系譜に位置づけられるのであろうか。

 しかし、僕の見る元倉真琴は少し違う。ただ、質の高い住宅を寡黙に作り続けるといったタイプでは決してない。僕は元倉真琴の少し下の弟の世代として接してきたのであるが、彼もまた石井和紘や重村力と同様、「スター」であった。彼は、井出健、松山巌らと「コンペイトウ」というグループを結成していて、真壁智治、大竹誠らの「遺留品研究所」とともに、なにやら面白そうなフィールド・スタディーを『都市住宅』誌などにたて続けに発表していたのである。僕ら(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)が、「雛芥子(ひなげし)」と名乗るグループを結成したのは多分に「コンペイトウ」の影響であった。そして、「コンペイトウ」の書斎学派と言われた井出健、松山巌の二人と僕らは、すぐに出会うことになった。雑誌『Tau』を通じて知り合い、同時代建築研究会などで親しく交わることとなったのである。「コンペイトウ」という若き建築集団は七〇年代初頭の建築ジャーナリスムにその初々しい足跡を鮮やかに残している。

 

 「最近代式住宅の作り方」

 元倉真琴について、まず指摘すべきはその驚くべき一貫性である。その初心に拘り続ける軌跡になるほどと思う。もちろん、その初心が何で、一貫性が何かが問題である。元倉真琴の初心は、幸いなことに、『アーバン・ファサード』(住まいの図書館出版局 一九九二年)にうかがうことができる。自ら、その初心を振り返る一書をものしてくれているのである。

 初出の日付を見ると、一九七一年から七二年にかけての『都市住宅』誌がその舞台だったことがわかる。記憶が蘇ってくる。「雛芥子」のメンバーは、その頃大学の三,四年生だ。建築を学び始めた僕らは元倉の作品を貪るように読んだのである。その内容の中心は元倉真琴の修士設計であった。

 強烈な印象に残っているのは「最近代式住宅の作り方」である。

 」その作法は主に二つである。「置くこと」と「くっつけること」である。」。単純な言い切り方が新鮮だった。

 1.まず始めにキュービックなBOX 2.屋根を斜めにカットする 3.床を空間に自由に置く 4.はしごをかける 5.床を持ち上げる 落とし込む 6.装置を置く 内部空間完成 7.外皮に穴をあける 8.外部に出っ張り装置をつける 9.内部外部のペインティング

 ああこうやって住宅は設計するのか、簡単なんだ、などと受け止めたわけではない。チャールズ・ムーアなど当時話題を呼んでいた建築家の作法を見事に分析して見せた鮮やかさに何か(皮肉めいた意図)を感じたのだと思う。

 いずれにせよここにあるのは原理的な思考である。この原理的思考は、今日の「FH(フューチャー・ハウジング)保谷2」まで変わらない。そして、その思考がフィールド・サーヴェイに基礎を置いて組み立てられるところに大きな特徴がある。街を歩きながら、元倉真琴は考え始めた。変わるものと変わるもの、変転する表層と都市の構造を読みながら、ある原理、作法を求めてきたのである。

 

 アーバン・ファサード 

 「なぜ、「私の街」を歩いたかについて」の中で元倉は書いている。

 「当時私は何というテーマを持てないまま、ただ興味のあるものだけをひたすら身近に集めてくるということをやっていた。C.ムーアやR.ヴェンチューリのやり方。B.ルドフスキーの扱うようなプリミティブな世界。C.アレグザンダーの方法論。自分たちで建築をつくってしまうこと(セルフビルド)。ドーム・クック・ブックやホール・アース・カタログ。そして街を歩いて採集すること。キッチュ。ポップ。マンガ・・・など。」。

 ここで挙げられている世界は僕らの世代が共有していたものだ。セルフビルド、ヴァナキュラー建築、・・・建築の問題をごく身近な日常の身体感覚において捉えるのが僕らの出発点であった。

 元倉は、さらに次のように言う。

 「製図板に向かうより、街を歩くことがよりラジカルであった。街頭闘争や新宿西口のフォーク集会のように、街は状況によって全く違った者になることを知った。そして、街は対象化されるものではなく、自分たちで獲得できるものだと考えた。みんな都市について考えていた。そして多くの人たちが街を歩き、街に参加し、考え、そして表現した。屋台を採集する者。木賃アパートを調査する者。・・・・」。

 「都市は巨大な着せ替え人形だ!」というサブタイトル、あるいは『アーバン・ファサード』というタイトルにしても、元倉の関心が建築の表層にのみあるかのような誤解を与えるかもしれない。自ら明言するように、元倉の方法は、R.ヴェンチューリに大きな触発を受けたものだ。『コンプレッキシティ・アンド・コントラディクション・イン・アーキテクチャー』(『建築の多様性と対立性』 伊藤公文訳 鹿島出版会 一九八二年)『ラーニング・フロム・ラスベガス』(『ラスベガス』、石井和紘、伊藤公文訳 鹿島出版会、一九七八)は、僕らのバイブルであった。

 その理論が、表層デザインに拘る多くのポストモダン建築を産んだのは確かだ。しかし、元倉の立脚点は、以上のように異なる。「街は自分たちで獲得できるものだ」という認識があってアーバン・ファサードなのである。

 

 ブリコラージュの世界

 「実際の都市を見ると、日常的に変化をしているのは、基本的システムに無関係な表面であり、置かれたり、付加されたりしたところであることがわかる。」という認識は、都市のマイナーなエレメントとその集合の形態へ眼を向けさせる。しかし、だからといって基本的システムに無縁な要素に集中すればいい、というわけではないのである。「日常的な個々の意識によって個別的に変化し、その変化の集合体が都市全体を変化させていると認識したとき、私たちが都市環境について考えねばならないことは明確になると考えているのである。つまり、都市の日常的変化の内容と人の生活の現象との関係だ。」と書いているのである。

 「中心テーマは「個の自律性」「個から全体へ」「日常性へ」そして「解放」であった」。

 ブリコラージュだと松山巌はいう(「ブリコラージュの街」『アーバン・ファサード』解説)。

 「元倉が街で見ようとしたものも、確立した何か、単一な価値の中にある何かではなく、人々が参加し、補完し、それ自体は消えても、連綿として痕跡を伝える何かではなかったろうか。たとえば、看板やポスター。決まった大きさなどなく、手元にある材料で作られる。例えば、植木鉢。何かを梱包していた発泡スチロールの箱が鉢に替り、みかん箱が棚になる。人々が街のなかで、見つけ出し、みずから器用に工作する。すなわちブリコラージュする世界である。」

 松山もこのブリコラージュの世界を共有していた。元倉と松山の交流については、松山巌の『闇のなかの石』(文芸春秋 一九九五年)が触れている。「カオス」の章だ。コンペイトウの仲間で蓼科にセルフビルドの小屋を建てたこと、東京上野の「アメ横」調査のことなどが追想されている。五階建ての共同ビルに建て変わった「アメ横」について、松山はつぶやく。

 「調査し、分析しその上でビルを考えても結局はこうした白らけた箱を造ったに違いないとも、いや、全く別のものが造れた筈だとも想う。アメ横の中を歩き廻って求めていたものは一体何であったのか。」

  文筆家と建築家に二人の道は分かれた。松山の方が建築を突き抜けたというべきであろうが、建築以前に何かが共有されていたことは間違いない。

 

 集合住宅から街へ

 元倉真琴は、一貫して自らの仕事の奇跡を振り返る。

 一戸から二戸へ、二戸から四戸へ、四戸から八戸へ、その作品は徐々に拡がってきた。「岸上邸」(一九八一年)、「高橋邸」(一九八二年)、「小田原の住宅」(一九九五年)は、都市型住宅の原型としてのコートハウス(中庭型住宅)の試みである。「星龍庵」(一九九三年)は、テラスハウスの系列として連続的に街並みをつくる試みである。「巣鴨の二世帯住宅」(一九九四年)は、集合住宅の原型である。「QUAD」(一九九〇年)は四戸の集合住宅である。そして、「池上の集合住宅」(一九八九年)は八戸の集合住宅である。

 個が集まって街をつくるというテーマが執拗に試みられているのは一目瞭然である。小さなエレメントがどう集まると街になるのか、それが一貫するテーマである。

 「静宏荘」(一九九三年)では、三階建て五八戸のアパートメントハウスとなった。そして、日本建築学会賞を受賞することになった「熊本県営竜蛇平団地」(一九九三年)がある。街のモデルへと到達したとみていい。「S市営住宅団地案」(一九九四年)、「長野市今井ニュータウンF2ブロク」(一九九六年)、「大阪府営なぎさ団地」(一九九六年)とプロジェクト案が続く。

 建築家としてのトレーニングの上では、槙文彦を師としたことも一方で大きいと思う。建築家による集合住宅作品として評価の高い「代官山ヒルサイドテラス」に一貫して関わってきた経験は決定的である。その数期にわたる建設プロセスは、都市的なコンテクストにおける住居集合のあり方のひとつの解答、モデルとなっているのである。その仕事の全容は、『ヒルサイドテラス白書』(住まいの図書館出版局、一九九五年)にまとめられるところである。

 元倉を自らの以上のような奇跡を振り返るにあたって、しばしば、九龍城の写真を引く。いまや解体されて跡形もないのであるが、個々ばらばらに増改築を繰り返したような高層ビルのファサードである。あるいは、ニーベルソンという彫刻家の多様な形態がつまった箱を積み上げた作品を取りあげる。個々はばらばらで、それが集まってひとつの街をつくりあげる、その方法を一貫して追及してきたのである。

 元倉は最近「アジア的な住まい環境のモデル」ということを口にし出している。下町育ちらしい身体感覚に基づいているのだと思う。次のステップのテーマは見えているらしい。

 

 FHプロジェクト

 一方でたどり着いたのが「FH(フューチャー・ハウジング)プロジェクト」である。大成プレファブとの協同による「工業化工法による集合住宅のプロトタイプ」設計の試みである。

 もちろん、以上のような一貫するテーマの延長にFHプロジェクトはある。しかし、工業化工法を前提とすることにおいて、ひとつの制約を与えられると同時に、別の可能性も開くものである。集合住宅生産の工業化という課題は日本においてようやく現実に問われ始めたところであり、建築家が真に取り組むべき課題である。元倉は、ごく自然にその課題に向かったのだといえる。繰り返すように、元倉はもとより単なる住宅作家としてなど出発していないのである。

 FHプロジェクトにおける元倉の提案はさすがと思わせるものだ。集合住宅についてじっくり考え続けてきた建築家ならではのコンセプトの提示がある。例えば、立体ユニットの提案がある。各ユニットを媒介するインターフェイシング・ユニットの提案がある。住戸ー集合住宅ー街あるいは住居ー道ー集合住宅のヒエラルキーをこれまでのスタディーに従ってシステム化するのである。

 FHプロジェクトの特徴は、例えば、大阪ガスの「NEXT21」プロジェクトと比べてみればはっきりするであろう。「NEXT21」の場合、基本的なコンセプトは立体的な人工地盤である。諸インフラがビルトインされたスケルトンとして躯体が構築され、そこに既存の生産システムによる個々の住宅が組み込まれる。オープンなシステムが目指されている。

 それに対して、FHプロジェクトは、居住空間は領域ユニットとして予め限定される。建築家として空間の型を提案する構えは崩されていない。そして、サブシステムも空間の分節として意識され、街をつくっていく表現の問題として捉えられている。

 もちろん、元倉真琴のプロトタイプが唯一の正解ということではないだろう。また、それが日本の風土に根づいていくかどうかは別問題である。しかし、こうした試みこそ建築家の仕事ではなかったか。そうした意味では元倉の仕事は際立っているといえはしないか。もっと数多くの実験が繰り返されるべきなのである。

 コンペイトウの仲間たちと街を歩き回って考え続けたことを具体的にプロジェクトとして展開しうる、そんな時代がようやく訪れた。その地に足のついた持続する志をつくづく頼もしく頼りに思う。

 


2023年5月6日土曜日

篠原修vs布野修司対談、自然景観と建築について考えるシンポジウム、鳥取県建築士事務所協会、鳥取県民文化会館、1997年12月7日

 篠原修vs布野修司対談、自然景観と建築について考えるシンポジウム、鳥取県建築士事務所協会、鳥取県民文化会館、1997年12月7日  13:00~、

 

布野修司(ふのしゅうじ)

京都大学工学部助教授/工学博士

 

 

経歴

1949年 島根県生まれ

1972年 東京大学工学部建築学科卒業

1976年 同大学院博士課程中途退学 同助手

1978年 東洋大学講師

1984年 東洋大学助教授

1991年 京都大学助教授~至現在

「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究」(学位請求論文)で、日本建築学会賞(論文賞)受賞(1991年)。現在、建築フォーラム(AF)、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)などで活動。建築同人誌『群居』編集長。

 

著書

『戦後建築の終焉・・・世紀末建築論ノート』      れんが書房新社  1995

『戦後建築論ノート』                                     相模書房      1981

『スラムとウサギ小屋』                                   青土社        1985

『住宅戦争』                                             彰国社    1989

『カンポンの世界』                                       パルコ出版   1991

『これからの中高層ハウジング』              丸善          1992

『建築・町並み景観の創造』                              技報堂    1993

『十町十色』                       丸善          1994

『戦後建築の来た道行く道』         東京都設計者厚生年金    1995

『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(布野修司編)       彰国社    1990

『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』       新曜社    1993

『見える家と見えない家』                 岩波書店    1981

『建築作家の時代』(布野修司 藤森照信 柏木博 松山巌)   リブロポート  1987

『悲喜劇・1930年代の建築と文化』 (同時代研究会編)  現代企画室  1981

『作法と建築空間』(日本建築学会編)                     彰国社    1990

『新建築学体系1 建築概論』(大江宏編)                 彰国社        1982

『建築計画教科書』(建築計画教科書研究会編)             彰国社        1989年他

 

主な委員

1991年~        建築文化・景観問題研究会座長(建築技術教育普及センター)

1991年~        出雲市まちづくり景観賞審査委員長

1993 8月~1995 7月 滋賀県景観審議会委員

1993 8月~1997 3月 島根県しまね景観賞審査委員

                        島根県景観審議会委員

専門

 地域生活空間計画(建築計画 都市・地域計画)


 

鳥取県建築士事務所協会

自然景観と建築について考えるシンポジウム

1997年12月7日  13:00

 

  はじめに

 京都の景観問題 : 建築文化景観問題研究会

 島根県・滋賀県景観審議会委員  出雲まちづくり景観賞委員

  全国景観会議 

 

  ●テーマと結論

  アーバン・アーキテクト シティ・アーキテクト タウン・アーキテクトをアーバン・デザインの仕組みの中で位置づけたい その日本的コンテクストの中で考えたい

 

      マスターアーキテクト制

     :熊本アートポリス CTOクリエイティブ・タウン岡山 富山のまちの顔づくりプロジェクト:コミッショナー制

      シティ・アーキテクト:ベルリン

   建築市長:シュヴェービッシュ・ハル市34000

    大市長・・市長2 建築市長と財政担当市長 企画局が建築市長補佐

     ローテンブルグと違って新しいデザインも

   都市デザインコミッティー:ミュンヘン市 月一回

    フリーの建築家4 都市計画課3 建築遺産課1 州の建築遺産課1

    3年毎にメンバー入れ替え 権限は勧告のみ 否定拒否はしない

    →景観アドヴァイザー制度 景観パトロール

 

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    景観問題とは

  なぜ都市デザインか

  なぜ景観問題か:まちのアイデンティティーか。

   景観とは何か:landshaftlandscape 土地に固有な

       風景 風情 風水 景色 風光 ・・・

   まちのアイデンティティを消すもの:近代建築の理念

       ポストモダン 入母屋御殿

 

 1.景観形成の基本原理

      ・・・・『建築・まちなみ景観の創造』(技法堂)

 

   景観形成の指針ー基本原則

       地域性の原則

    地区毎の固有性

        景観のダイナミズム

    景観のレヴェルと次元

    地球環境と景観

        中間領域の共有

   景観形成のための戦略

    合意形成

    ディテールから

    公共建築の問題

    タウンアーキテクト

    まちづくり協議会

    景観基金制度

 

 2.景観形成の手法と問題点・・・具体的な事例を通して

 

 

 素朴な疑問

   ・京都の景観問題→高さのみが問題か

 

   ・景観条例と景観マニュアル・・・規制と規制緩和→誘導

     60年代後半 66金沢 倉敷 高山 京都     全国200→400

     1975 伝統的建造物保存地区 神戸 景観形成地区

     80年代 モデル事業 

     →伝統的建造物の登録制1996

    景観条例→地区詳細計画の日本版という位置づけ

     形態規制の問題 法的根拠 

     規制の根拠

      美観地区、風致地区は1919年より 屋外広告物取締法とリンク

      美観地区が生きているのは京都だけ 東京は条例をつくっていない

     →市街地景観整備条例 千代田区 鎌倉←法的根拠もつ

     ←専門家がどう関わるか

 

   ・公共建築の発注方式

     

     ・景観審議会は何をするのか:

    湖畔の高層建築:景観基準を守ればいいのか:視点場

      建築的配慮:立地が既に問題

      建築家の姿勢:コンセプトの稀薄性      

 

 ●SRIC DESIGN FORUM PROJECT 95 について

  『明日の都市デザインへーーー美しいまちづくりへの実践的提案』

 

意識醸成○調査

   ・デザイン・サーベイ

   ・景観評価 現状把握

    建築士によるモニター:写真撮影 記録

    町並みウオッチング 景観百選 景観記録

    ・・・ユニークな地域把握 校歌 方言 湧水分布 海からの景観

   ・景観賞  →マンネリ化

       各種イヴェント、啓発事業とのリンク

       アーバン・デザイン行政とのリンク

       顕彰委員会の構成の問題

    →アーバン・デザイン・コミッティーとのリンク

 

企画・計画

  

   ・街づくりの主体・・・縦割り行政の弊害

        駅前再開発:補助金制度:所有区分

    

 

   ・「伝統」と「地域」のステレオタイプ化

              出雲大社と古都慶州

              植民地建築・・・バタビア城と朝鮮総督府

              オーセンティシティと世界遺産

        本物 真実性 コピーとレプリカ  木造と石造

        維持管理のシステム/セッティング・周辺環境

 

   ・立体模型・・・ファーレ立川

  

    ・百年計画のすすめ・・・奈良町百年計画

                          京都グランドヴィジョン

 

実践○

 

  ○環境と建築のコラボレーション

   ・隙間のデザイン

     土木と建築 高架下のデザイン 空き地のデザイン

 

  ○工業製品

   ・景観材料・・・アジアの景観を探るーー材料の未来

    THINK GLOBALLY,DESIGN LOCALLY

        生態的側面、形式美学的側面、文化的側面、経済的側面

        PRESERVATION OF LANDSCAPE , CREATION OF URBAN LANDSCAPE

        MANAGEMENT OF URBAN SPACE

    HOLISTIC APPROACH , LONG-TERM LANDSCAPE MASTER PLAN ,

    ECOLOGICALLY SOUND AND SUSTAINABLE DEVELOPMENT(ESSD)

    VISUAL COMPLEXITY

        SENSE OF LANDSCAPE   SENSE OF PLACE

        サラダ・ボール: 一元的理論 アダプタブリー・リユース

        水の文化 アジアの多様性

 

    ○法制

      ・町家再生という課題・・・防火規制

    木造建築の再生手法

     ①文化財保護法982 833

     ②建築基準法313

     ③建築基準法672

     ④都市計画区域の変更

  ○保存

    伝健地区42箇所

       登録文化財

    美観地区・風致地区

    屋外広告物法 禁止区域 自家用広告物は除外 創意工夫がない企業がつくる

    国立公園内

 

  ○アート構築物

    ファーレ立川

 

    ○調整

 

   ・公共事業の発注方式・・・公開ヒヤリングコンペの経験

 

      ・パートナーシップ方式・・ワークショップ方式

 

 

 3.景観形成と「アーバン・アーキテクト」

 

   ・「アーバン・アーキテクト」とは

    「シティ・アーキテクト」「タウン・アーキテクト」

    「コミュニティ・アーキテクト」

 

   ・地と図・・・・何故、アーバン・アーキテクトか

 

   ・アーバン・アーキテクトの仕事

 

 

2023年3月26日日曜日

漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997

 漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997


  漂流する日本的風景                  磯崎新+原広司 司会:布野修司           


  布野  ・・・「漂流する日本的風景」という詩的なタイトルなんですが、具体的には建築家と地域計画というテーマを考えたいと思います。地域計画の在り方はどうあるべきか、建築家の役割なんなのか、いま何を手掛かりに、何を根拠に設計していくのか、さらに日本の建築家は何を為すべきかというところまで拡げて議論できればと思います。明日香は日本の原点、あらゆる意味での原点というところがあります。この歴史的風土と景観、地域・自然というところに絡めて、原さんから口火をお願いします。

    

空間の捉え方ーーー容器と場

     ・・・・建築家が空間を、そして地域とか場所というものを考えていく時には、大きく二つの捉え方があると思います。一つは、空間は容器である、入れ物であるという考え方です。たとえば、明日香村ならば、まず村の境界があり、奈良県という境界があり、次に日本という国の境界がある。それぞれの境界、入れ物をはっきりさせていく捉え方です。もう一つは、場という考え方です。大きくても小さくともかまわないが、中心という捉え方です。その場合、どこからどこまでが、という境界がありませんから、ここら辺りが山のピークであるとか、あるいは文化の中心であるとか、そういうことになる。この二つの捉え方が、空間をあつかう場合に昔からあります。

 一般的に、文化を発信していくときには、場に期待をするわけです。そうすると場所に対する考え方というのは、じつは本来非常に拡がりをもっているのではないかということがいえる。仮に境界というものを考えたとしても、その境界を常に大きくして考えていく。「自分たち」というところを限定しないで、段々容器を大きくして考えていく。そういうふうに、文化とか、歴史とか、風景とかを考えていくことが重要ではないかと思います。とかく区画されたなかで考えると、この地域ではこれをしてはいけないとか、何かというと、ゾーニングの理論で展開されがちです。

 僕らは日常的には、行政的な捉え方というものに慣れています。国家の境界というものが今日では最強の境界としてあります。どちらかというと空間とか地域という場合には、容器として捉える癖があると思います。地域計画を考えた場合、ある行政区画のなかで上手くやっていかねばならないということになります。行政的な慣習に慣らされて、入れ物としての空間だけを考えがちである。でもそれでいいのか、という感じがします。

 「日本的風景」というものも同じです。僕らは、空間の性質を考えるときには、常に二つを同時にもっている。境界の中で考えることと、連続的に拡がっていく中心という考え方とを、同時にもっている。地域を考える時にも、それを同じに捉えていくことが必要ではないか。「日本」であるとか、「明日香村」ということを考えたときに、あまり、ここからここまでということにこだわるのはどうか。

 自分たちの場所の歴史を掘り下げていく、考古年代までも掘り下げていき、ある一つのものを探しだしたとします。すると探したものが普遍性をもたないで、その場所、限られた境界の中だけでの話になりがちになるのではないかと思われるわけです。場として考えてみれば、それは中心ですから、拡がりがどんどんでてくる。自分たちの場所性というか、それは限られたものではなくなってくる。

  布野  ・・・原さん、ちょっとよろしいですか。いきなり難しい話から始まりましたが、地域とか地域性をどう捉えるかという問題をまず説明されようとしたわけですね。その前提として、空間というのには容器としての空間と、場、場所としての空間の二つ大きくあるという話から始められた。わかりやすいのは、行政的な区画を予め決めて発想するのは、限界があるということですね。限界という言葉はお使いにはなりませんでしたが、多少問題があると指摘された。地域とか地域性をいう場合は、概念そのものに問題がありますよ、そういう問題提起ですね。

    ・・・・そうですね。

  布野  ・・・例えば「景観」といったときには、行政的な区画とは違い、歴史的な風土とか自然とかに関わるわけですね。行政的な区画とは必ずしも一致しない。「景観」ということで少し先回りすると、そういうことですか? 「日本的な風景」といったときには、明日香とか奈良とか、あるいは京都といった、盆地的な景観がある種の共通の特性を形つくっている。それが日本の地域性をつくっている、という指摘もあるわけですけど、「場」から発想していくとどこまで拡がって行くんでしょう。地理的に離れていても共通性をもつということもあるわけですね。

 

    

「日本」という呼称

 

    ・・・・ここで問題にしようとしているのは「日本的」とか「明日香的」とかいったことが、何処から出てきているのかが問題です。「日本」とか「明日香」というある境界があって、そういうものが出てくるのではない。空間的境界に捕らわれすぎているのではないかと危惧するわけです。そういうものから解放されていく手段として、場が片一方にあるわけです。そこで考えると、風景というのはどうなるのか。新たな空間の概念を必要とするようになってくるのではないか。それはなんだろうということを、まず最初の問題提起としたかったんです。

  磯崎  ・・・前置きを用意してきたんですが、それは後にします。原さんに続けて、僕なりのお話をしてみようと思います。いま議論されているなかで、「日本的な景観」あるいは「明日香的な景観」という特定の場所の名前のついた景観を、われわれはどう解釈していけばいいのかというの問題がでてきました。それと同時に「何何的」という場所を特定する場合の、境界の輪郭の捉え方をむしろ問題にしておかないといけない、そうおっしゃったんだと思います。これは議論を整理する上で、明解な問題設定のしかただと思います。

 そこで一つの具体的な例を申し上げます。いま「日本的」という表現がでてきていますが、「日本的」というのはどういう風に生まれてきたのか? 実はこれは「日本」という呼称がどうやってでてきたのかを考えてみればいいのではないかと思います。おそらく七世紀ぐらいまでは、「日本」なんていうものはなかった。そういう呼称もなかったのではないか。ところが七世紀半ばに、中国と衝突して、百済の応援にいって負けて帰ってくるという事件が起こります。帰ってきて外圧の危機にさらされる。その直後、とうとう新羅と唐の連合軍の何千人かが、北九州に駐留するという事態になる。そういうなかで天智天皇が亡くなり、壬申の乱が起こるという大変動がありました。この大変動のあと、こうした外圧に対して「ここ」を守らなくてはならない、あるいは「この場所」を独立させてゆかねばならないという、一種のナショナリズムが生まれる。その時に、初めて「日本」という呼称がでてきた。これが僕が歴史から学んだことです。もちろんその前に聖徳太子が「日出ずるところの……」とか言ったということはありますが、その時はまだ「日本」とは呼んでいなかったと思います。

 そういうふうに、外に対して、外部に対して内部の、ひとつの共同体が自分自身を関係においてはっきりさせるときに、初めて「何何」という呼称が生まれ、「何何的」という表現がでてくる。それは特定の場所、たとえば「明日香」とか、たとえば「奈良」とかという具合に、地域の呼称が生まれてくるときも同じです。この呼称を外に対して、「ここまでは自分の領域なんだ」ということを名前で示そうとするわけです。「みはらすかぎりのあの範囲まで…」と、昔は決めていたようですが、そういうことを聞くと、特定の呼称は自分自身が外との対応をするときに初めてでてきたことだというがわかると思います。

    

反復される原初の景観

 

  磯崎  ・・・そう考えていくと、たとえば明日香村の風景、奈良の風景、京都の光景、景観という呼び方をする、その呼び方は何から起こったのか、という問題がでてきます。その地域に文化が発生したときに、まわりの山や海や川や野原を組み合わせて出来上がってきたものと、なにがしかの人工物が当時は必ずあったわけですが、その関係において景観はできたわけです。景観というのは僕の考えでは、その文明が特定の場所に発生した時の光景を、ずっーと呼び続けている。つまりその後は、文化の発生した状態を反復するために、「何何的」という呼称を常に呼び続ける。こういうことになってきているのではないか。ですから常に景観を議論するときに、たとえば「京都的」といえば、東山、西山、北山という山で囲まれたあの平地と桂川と鴨川の流れる場所というのが議論のベースになります。それは京都を組み立てたときに、既にその景観はあった。それとの関係において成立した景観ですから、それをいまに至るまで反復しようとする。もし議論があるとすれば、それを崩すものを排除しようとするときでてくる。それだけのメカニズムで、いまの一般的な議論は動いているのではないか。奈良に関してもまったく同じではないか。

 では、明日香の場合はどうか。やはり一つの時代に、この明日香に文明というか文化が、特定の文化が生まれたわけですね。その時にここで生活した人が、いちばん最初に文化が出来たときに見ていた景色が、おそらく明日香村の景観であった。いまはそれに比べてどうなったか、単純に比較において議論がなされていくのだろうと思います。

 それ以外の問題の設置の仕方というのは、ほとんど現実問題として、一つ特定の場所で議論するときには無理があるという気がします。

 僕は今日初めて明日香村を訪れ、時間があったので石舞台までは足をのばしました。それほどたくさん拝見できたわけではありませんが、少なくとも僕は地図をみるかぎりでは、明日香から昔の藤原京付近の光景はつながっているものだと思っていました。が、実は違うということが、今日よくわかりました。写真にはこの景観はほとんど映りませんから、来てみて初めてわかった。来てみて初めて、「ああそうか、そうだったのか」というのが理解できました。というのも、奈良の南半分と吉野の間は、古代の歴史とその時代の記録、たとえば万葉集などにでてくる、いろいろな言葉や光景や叙述や事実を手掛かりにイメージを組み立てているわけです。保田与重郎     ★1   という桜井で生まれて育った人がおられますが、個人的にはこの人の文章をたくさん読んでいます。彼の文章で、これは明日香の光景だと思っていたわけですが、実はそうではなかったようです。明日香というのは別の光景だったのだということが、今日わかりました。それが実感なんです。

 おそらく橿原や桜井という地形から奈良三山といわれる山を見ながら、どのように景観との関係をつくりだしてきたのか。たとえば三輪山がどうだったかという景観の考え方は、常に万葉集や古事記にたち返っていく。そのなかで、はじめてイメージが浮び上がってきます。おそらく明日香村の光景には、そのもう一つ前、あるいはそれと重なる時代の別の光景があったんだと思います。それをどう解釈していくのか、彼らはどう解釈していたのか、それをいまもう一度、今日の状況のなかでどう見ていくか、そういうことじゃないか。

 すると原さんの出された境界という問題設定、輪郭をどこに設定するのかということが重要になります。これは、おそらく行政単位ではないだろう。その時期に発生していた文明のひろがり方、そこで共通の光景として見ていた一定の範囲の古代の人たちが、そういうものから生まれてきた共通の感覚、頭の中に焼き付いたあるイメージでもって、いまのここ範囲でどうだということではなかったと思います。村の境界がどこまで拡がっているのか、どこまで他の要素が入っているのか、それはいろいろな形で勉強してみる必要はありますが、行政区画とは違う形であった。おそらく特定の文化が生まれたときの地域の拡がりとの関係においてでてきているというのが、僕の感じていることなんです。

 

    

外部からの視線

 

  磯崎  ・・・景観というときに、その内部ではなく、常に外部の視線のほうが重要なんですね。いま景観というのは、なぜ議論されるのか。そこに住んでいる人は、もう見慣れている。自分の身のまわりで、自分の必要に応じて組み立て直していく。それがごちゃごちゃ言われる必要もないんじゃないかと思っている。おそらくそう考えているでしょう。それに対して、特定の場所の呼称、あるいは国の呼称が、外部との関係で生まれたということは先ほど言いました。いまその外部とは観光客の視線です。外から来た人が、明日香はこういうものだった、と思いながら見にくる。この外の目に対して、いまの景観や環境的なものが、どのような特徴をもっているのかを説明をしなきゃいけない。あるいはその景観を守る、景観を固めていく時の、その原型をとらなきゃいけない。明らかにこれは外からくる視線なんだろうと思います。それは村の外ということではなく、ここで生まれてきた文化的な領域、ある拡がりの外ということです。逆に言うと、六世紀、七世紀、八世紀という、その時代の景観だったかもしれない。その時代にとっては外部である現在、二〇世紀という別の距離から、われわれの住んでいる今から、もう外である昔を振り返ってみる。これも外部の視線だろうと思います。こういうものが、どのように絡んでいるのかを見ればいいのだと思います。

 僕の考えでは、出発点つまり物事のはじままりの地点に、時間的にも空間的にも返っていく。それを見ることによって、われわれは単純に反復させている。そういう点で景観の問題を具体的にとりだせば、簡単明瞭になるんではないかと思います。

  布野  ・・・景観や地域をめぐっての、大きな理論的な枠組みをいただきました。たとえば明日香に百済から宮廷人などの渡来人がきたときに、自分たちの都であった扶余(ふよ)の記憶というか原型をもとめて、明日香を捜し当てたという説があります。藤原京についても、発掘が進むなかで、“大藤原京”とでも呼ぶ説が浮上してきています。奈良に匹敵する規模があったのではという、立ち上がりのところでの考古学的な知見がでてきています。そうなると地域の原イメージも変わってくるのでしょうか。

 少し、プラクティカルな質問をしてみます。そのなかで、地域起こしや、地域計画、景観を考えるときに、どういう仕掛けができるか。具体的に明日香という舞台でどのような地域計画なり、まちづくりが可能か。如何ですか?

  磯崎  ・・・その扶余の都というのは?

  布野  ・・・明日香の地形が、扶余の都とそっくりだという説があるわけです。

  磯崎  ・・・百済から移住した人たちが組み立てた場所、国といえば国であると。国をつくるときに昔の光景を思いながら、その場所を探したということですね?

  布野  ・・・こんなこと言っていいんでしょうか? 村長如何ですか?

  会場  ・・・(明日香村の関村長)はずれてはいませんね。

  布野  ・・・そうですか。ナラというのはクニという意味ですよね。韓国語では。

  磯崎  ・・・そういう形で、似た景色を探してつくるという例は、歴史上ほかでも見つかるように思います。あの時代の人たちの持っていた、自分たちのコミュニティ「失われた世界」に対してのノスタルジーを、この明日香で現実に組み立てようとしたんだと思います。少なくともこの特定の場所というものを考えれば、すでに選ばれてしまった場所というか、それがいちばん最初にスタート地点として考えることですね。そのオリジンはそうだったと言えますが、議論としてはこの場所に来てから、設営して設備して、一つの文化というか文明を組み立てていった。

  布野  ・・・常に地域なり景観は外から決められる。あるいは文化が発生する原初の景観なり、構えが反復されるだけだという、鋭い指摘がありました。原さんの言葉で再度整理されるとどうなりますか。

 

 

    

歴史の遡行と系列

 

    ・・・・問題を整理するというよりは、もっと拡張したほうがいい。境界というのが内と外の視点でちがうことは、磯崎さんの話で明解になりました。漠然としているけれど、歴史にあるクライマックスというものがあるとします。たとえば律令制度が出来あがったときには最も高揚した時期があって、それがある場所性を規定する起源になっているという意見があります。そんなふうに考えてみると、クライマックスというのは常に過去にある、古いところにあるという考え方にならざるを得ない。そこから如何に解放されていくのかが課題ではないかと、僕は思っているわけです。

 歴史というのは、ある見方をつくっていくことであり、時間的な系列がある。しかし、歴史というものをわれわれは、とかく根源的なるものというか、溯行したものというように捉えがちですが、必ずしもそういうものではない。クライマックスというのは過去にあったと考えがちだが、はたしてそうなのだろうか? 生きるというのは、そういうふうに物事を捉えることだろうかな、というのが基本的に僕にはあります。それは系列ではないか。系列自体が、時間的に変化していくものということなんですが、その系列をどういうものとして考えるのかということです。

 よく話すんですが、南米の文学者であるボルヘス     ★2   がこう言ってるんです。彼に「カフカと先駆者たち」という論文があり、こう書いています。世間の人々はカフカがどういう系列からでてきたのかという理解の仕方をする。ところがカフカ自身が、その前に書いた作品でもって、その次に書く作品を説明するものではない。系列というものを歴史を辿って説明しようとすると、絶対にできない。それは逆である。カフカが、たとえば『城』という小説を書いたときに、初めて系列は生まれる。つまり、歴史とか時間的系列というものはそういうものである。ある事件が起こったときに、その事件が系列というものを作りだすんだ、そういう考え方をボルヘスは言っているわけです。僕はこれはまったく正しいと思っている。

 クライマックスはどこかにあるかもしれない。僕らも建築をつくって、それじゃ歴史のクライマックスになれるようなものをつくれるのかというと、そうではないと重々知っているけれども…。知っているけれど、われわれがつくるということは、常にその系列を逆に溯行する方向にある、そういうものを整理することにあるんだと考えた方がいいんじゃないかと思います。だから、風景といったときに、たとえば景観といったときに「記念すべき景観」というものがあるということはよくわかります。わかりますが、それがどういうものであるかというのは、ある時だれかが上手く振り分けたとか、歴史家が整理したということがあって、初めてそれは「記念すべき」だといえる。

  布野  ・・・ものすごくわかりやすく言いますと、ある地域計画を新しく立てたとする。するとその瞬間に、そういう系列が見えてくるということですね。必ずしも歴史の筋道をたてて、たとえば歴史的な環境を保存していく、守っていくのとは違う系列がある……。

    ・・・・違うんじゃないか……という気がしてるんです。

  布野  ・・・これも重要な視点ですね。建築家の役割は、むしろ、新しい系列を提起する役割があるわけですね。

 

    

ロストパラダイスとユートピア

 

  磯崎  ・・・原さんの発言を反復することになりますが…。僕は時間の問題はこのように考えています。いわゆる近代という時代になって、われわれが思考を開始した時点と、それより前の時点では、物事の捉え方はかなり違っていたのではないか。少なくとも、一八世紀とそれ以前には断絶がある。断絶が起こった理由というのは、このようなことです。

 時間というものを、本来は絶対時間が過去から未来に向かって、均等の順序で流れていっているという概念があった。それに対して、思考の形式というものはまったく逆らっていて、一つの時点から過去に向かって溯行していく。つまり「遡っていく」という思考の仕方をはじめたのが一八世紀です。その時に何を考えはじめたのかというと、いわゆる「ロストパラダイス」ですね。失われた何か、何かあった素晴らしい時点、時を捜していく、回復していくという考え方です。このロストパラダイスという考え方は、別な意味で、われわれの思考の出発をどこにもつかという、ものの考え方の出発点を探すという時に時間を遡っていくのとまったく同じ形式のものとしてでてくる。

 実は時間というものが過去に向かって遡っていくことができるのならば、未来に向かって加速することもできるはずだと、おそらくは考えただろうと思います。それが「ユートピア」の考え方です。ユートピアというのは、未来にある場所を先取りするという考え方です。これは時間を短縮して、未来を現在に引きもどそうとしていく考え方です。これはロストパラダイスという、失われた時、失われた場所に対する思い入れ、ノスタルジーという風なものとは、まったくベクトルを反対にした考え方です。近代の特徴というのは、私の考えでは、これを同時にはじめたということなんだと思います。背景には、科学的な思考としては時間が過去から未来に流れていくことは知っていながら、われわれの思考の形式というものは、それを短縮したり溯行したり逆行したりしている。そうなってくると、遡り方や短縮の仕方、そのやり方が各人で違うわけです。各人で違うということは、別のやり方で遡るということもあるわけです。別のルートで未来を探しているということもあるわけです。各人各様であって、時間が実は一つではなくて、歴史というのは多様な時間で成り立っている。歴史は、無数の時間がよりあわさってできている。一人一人の歴史解釈は違ってくる。一人一人の未来イメージは違ってくるのは当然なのです。

 こういうことをやり始めたのがどうも近代で、これが一本であると思わせた体制が、ついこの前までありましたけれど、いまはバラバラの違う糸なんだとみんなが見ている。だから常に過去の解釈は変ってくる。その時に誰が言い当てたのかということが、もっとも強力で説得力があるということになる。そうするとかなりそこで道筋が見えてくる。だけどそれは必ずひっくり返されるというのが、歴史の常識だと思います。

 そういうふうに解釈していけば、先ほど原さんがだされたボルヘスの例。ボルヘスはまさに、未来へ行くのか過去に行くのか、時間の中で動こうとする時に、あるルートをひとつバンとどこかに設定する。そこから生まれてきたチャンネルが全部に流れていく、そういう時間の中の動き方を発見するということが重要なんだと言ったんだと思います。

 ですから、おそらく原さんの意見と僕の意見が共通するところは、特定の誰もが承認すること、たとえば八世紀の時点の明日香というものが、誰もが共通として認めることはおそらく不可能だと思うところなんです。ただ、八世紀の明日香に接近する仕方を、各人各様がもっていて、各人がいまそれを見ている。僕はそのことを、一つの場所が常に立ち返るような引力をもっている、思考を共有しているということを、さきほど反復を繰り返しているんだと言ったわけです。

 

    

解釈としての地域計画

 

  布野  ・・・ではそうしたなかで、建築家はどいう仕事をしていけばいいのでしょうか。たとえば、さきほど村長が、挨拶の中で、明日香村は日本の原点ということで景観保存を施策としてずっーと展開されてこられたと言われた     ★3    。地域とか自然とか歴史や文化を大事にしながら、それは展開してきたということでした。景観保全ということでは、村長も開発規制や高さ制限の問題を指摘されました。それをやると、一方で産業が衰退してしまい、あるいは過疎の問題がおき、農業がへたりこんだり、結局はそもそもの景観が維持できないということが生じる。非常に戯画化した言い方ですが、そんなことも考えられます。そうした地域計画の課題に対して、建築家というのはいったい何をやればいいのか?

    ・・・・ひとつの地域計画というものは、ひとつの解釈であるということです。解釈を新たに設計するものだということです。だから景観というものは、明日香村なら明日香村の歴史の総体、飛鳥の時代から今日までは飛んでいるのではなく、ちゃんとした歴史が脈々とあって、その歴史自体を現状をも含めてどのように解釈すればいいのかを示すこと、それが地域計画であると思います。だから明日香の景観はどのようなものかというと、こういうものだという決まった定式があるのではなく、それに対する新たな定式を見せるような何かができればそれでいいのではないか。仮に大失敗すれば、その次のまた歴史を建て直せばいいわけです。再興すればいいわけで、それをずっーと繰り返してやっていくことが、景観計画とか地域計画というものではないか、という気がするわけです。修正ができないとすれば、それは歴史の内容だと思います。

 建物のことならば簡単に修正できるのではないでしょうか。前に「京都」をテーマに磯崎さんと話したことがありますが     ★4    、端的に言えば、建物は壊せばいいわけです。大失敗だったら壊せばいい。景観の問題というのはたいしたことはないと僕は思っているんです。たいしたことがないというのは、人間の生死に絡む都市の問題と比べればということです。たとえば交通事故で、いま約一万人の人間が毎年、都市で死んでいるわけです。こういう問題には建築家はお手上げです。ようするに難しい問題には言及しないで、まあ「タバコでも禁止させおくか」というような、禁止を徹底することで共同体を維持してるような最近の傾向に非常に似ていると思います。重要な問題は解決しないでいるわけです。

 だから景観の問題は、一人の人生、命の問題に比べれば問題ではないわけですよ。そういうふうに考えると、壊すことはできるだろうと思います。まあ社会がそれを簡単に許すかどうかはわかりませんが…。ある程度、大胆に解釈をやってみて、そのように考えればいいんじゃないかと思います。それで駄目であれば、もう一度やり直す、次の世代へ託すというように、多様な解釈を次の世代へ伝えるようなやり方が、僕はいいと思います。

 

失敗したら壊せばいい?・・・評価基準の問題

 

  布野  ・・・壊せばいいと言われたのは、建設中の京都駅ビルのことでもありますね。いささか大胆というか、乱暴な意見なような気がしますが、原理的にはそうなりますね。地域計画というのは一つの解釈であって、そのつど新たに設計し直せばいいというのはよくわかります。壮大な無駄をしては困りますけど、うまく共有できる解釈を行うのが建築家ということなのでしょうか? 磯崎さんは、明日香というもののイメージは、誰もがある反復を共有することによってなりたってきたといいながら、一方、近代においては誰もがある共有をすることは有り得ないんだということを言われました。地域計画というのは解釈だ、そうした設定というのをやるのが建築家だと考えていいのでしょうか?

  磯崎  ・・・この建物も壊さなくてはならないかもしれない(笑)。おそらく解釈をさまざま加えていくと、この場所には大きすぎるとか、姿を考えなくてはいけないということは起こるでしょう。そういう議論が、さきほど言った解釈であり批評である。また計画を組立る原理を探すときの手掛かりにするようなものだと思います。そうすると建築家として、どういう視点から、いまこの時点で何かの評価基準を組み立ってていかないといけない。単純に間違ったら壊せばいいというだけでは、簡単で無茶苦茶やって誰かに壊してもらうことになる。やりたい放題やっておけばいいというのでは困る。とりあえず何かの評価基準をつくらなくてはならない。この評価基準のつくりかたが、いちばん混乱して難しい状態になっているんだと思います。

 と言いますのは過疎の問題がでましたが、文化的な施設あるいは生活環境が乏しいと、また労働環境が乏しいと、どうしても過疎化して離村するということが簡単に起こります。それに対して引き留める方法は何かということが、常にでてきます。そして、これは全国様々なところで「村おこし」とか「まちづくり」という議論がなされているのと、まったく共通の問題なんです。僕の生まれた湯布院の街もそうです。湯布院は一望のもとに見渡せる小さな盆地で、数件の宿がある寂れた場所だったんです。村おこしが成功して、そこが何件かのスポットができたことによって観光地になってきた。そこまではいいんですが、今度は類似の施設がどんどん増えていく。たくさんの人が入ってくる。そうなると、いま問題になっているのは環境が壊されるということです。つまり新しい意味での環境破壊が、成功したが故に街に抱え込んでしまったという矛盾が起きています。湯布院の中心部は、週末になると一種の盛り場のようになって、みんなしょうがないからここから逃げようなんて論議にもなってきている。マイナスがあるんだけれど、それをプラスに転化すると、こんどはしすぎちゃって過剰になってしまった。

 そんなことから考えると、新しいことを付け加えなければならないということは言えるけれど、それはある意味でのバランス、均衡のなかで動いていくと思うのです。個々でどういう問題が起こっているのかはわかりませんが、たとえば一〇メートルなり一二メートルの建物規制は結構だ。地域で様々な建築素材を規制するのも、まあいいだろう。イタリアのトスカーナ地方では、何か建物を追加しようということであれば、伝統的な赤瓦と石積み以外の材料を使ってはいけないということがある。日本でもそれに近いことをやっている所はたくさんあります。ただ、それがいいかどうかという議論はやりにくくて、やっておけばマイナスにはならない。ただそれだけの理由で規制はやっているような状況です。その条件をさらに超えるようなよい提案はあるのかと言えば、一般論としてはやりにくくて、現在はできるだけ新しい施設はやめろというのが一般的な風潮になっている。それが極端にいくと、チャールズ皇太子が歴史的な様式をもったものしかロンドンにはいらないといって、新しい建築を排除していったようなことが起きる 

   ★5    。排除のなかで、あれこれ無理してハイテク建築が進出していくという構図がありました。

 湯布院は歴史がありませんから、雰囲気だけの問題でしかありませんが、明日香は歴史遺産もあり、その絡みのなかで都市化の問題もあります。それと上手くいくような建築様式というか素材というか、そういうものがはたして議論されているのか、いいと見られているのかという問題がある。大袈裟にいうと、僕からみると戦争前の帝冠様式の問題、日本様式はこう、東洋様式はこうで、だから屋根をつけなさいというのと、ほとんど同じ議論にしか見えてこない。おそらく景観の問題を建築家として議論するならば、そういう所へ立ち返って建築の問題を議論してもらったほうがいいのではないかと思います。

    

全国一律の景観行政

 

  布野  ・・・景観行政の問題でしたら、私も多少意見を持ち出しています。日本の約二百ほどの自治体がいま「景観条例」を持った段階です。ここ数年で四百ぐらいにはなるだろうという状況だそうです。その「景観条例」たるもの、ほとんどどこも同じだということです。「景観マニュアル」がつくられ、磯崎さんが言われたように高さを決める、あるいはもう少し踏み込んで素材を決めて、色を決めていくということがなされる。ところがそれは矛盾するわけです。「地域に固有の…」と言いながら、全国一律の規定だったりするわけです。どこかの先進県なり、先進自治体の真似をしてつくるわけで、都市計画コンサルは同じ文章に写真だけを入れ替えて提案するというおかしなことが起こっている。そういうものであれば、むしろ能力のあるアーキテクトに任せたほうがいいという考えが、たとえば磯崎さんの「熊本アートポリス」であったんではないかと思うんですがどうでしょう。

 以前に磯崎さんともお話しましたが、条例やマニュアルをつくるよりも、建築家がもう少し地域の景観に責任を持つような仕組みが日本でもできないか、ということを考えたことがあります。熊本アートポリス以降、仕組みの面でも磯崎さんはいろいろな仕掛けをなさってます。たとえばコミッショナーシステムとかプロデューサーシステムなどがあります。建築家が何をしていけばいいのかという話で、そのあたりの評価、現時点での考えをお聞かせ願えませんか?

  磯崎  ・・・熊本の例でいえば、葉祥栄さんがやったガラスが多くて木材を使った建物、石井和紘さんは構造が変っているんだけど木造と瓦屋根という建物、伊東豊雄さんは本当に軽い鉄骨がでてくる建物、安藤忠雄さんは相変わらずコンクリートが地下に埋まっているという建物。こうしたまったく違う建物がアートポリスでは生まれてきている。これはどういうことかというと、一つの様式で、一つのスタイルで解決というのはできない。むしろそれぞれの建築家が、その場所をどのように解釈して、自分のデザインがうまく適合するかということを、自分自身に問いながら、上手くいったものだけが評価されている。

 建築に関していうと、さきほど無理に帝冠様式の議論をしたように、日本で瓦屋根を載せるのは多かれ少なかれ帝冠様式とコンセプトは同じですから、こういうことがはたしていちど議論されながら、そのまま宙づりになって、姿を代えていま現われているという、歴史的な経緯もあります。その基本的な問題というのは、建築というものの理解の仕方、解釈の仕方というものが、あくまでスタイル、見かけのスタイルだけにこだわり、あるいはそこだけが評価基準になっていることが多いことにあるのではないか。それがポピュラーでわかりやすい手掛かりなんだけど、議論があまりにもそれに引きずられているのではないかというように思います。瓦屋根だけがいいというのはマイナス側を押えている。そこにガラス張りの建物があっても、上手くあう解決方法があるのではないかと、僕は個人的には思ったりしています。

     

帝冠様式と佇まい

 

  磯崎  ・・そうやってみると、建築の佇まいみたいなもの、あるいは道路や公園や庭園といったものがつくられときに生まれてくる、特定の気配みたいなもの。そういう、言葉にならないけれど、われわれがその場所に行って感じられるもの。本当は建築が環境と関わっていて、さらにその中から独特の繋がりをだそうというようなことを考えていく時には、僕は個人的には、いい佇まいがあるかないかということが評価に影響していいんではないかと思います。だけど「いい佇まい」というのは、なんでみたらいいのか。一見では見えなくて、感じなくてはならない。感じるというのは人によって違う。そうすると評価基準にはならないという意見もあるのですが、最終的にはそういうものとして環境を感知している。いま流行りの現象学的な視点を追いつめてゆけば、そういうものをちゃんと評価できる基準がでてくるだろうと思います。

 みんな難しいことを言うけれど、プラクティカルな問題から避難するわけにはいかない。とにかく、帝冠様式とは違う視点をださないといけないということは、ひとつ決定的にあるのではないかと思います。

  布野  ・・・佇まいを評価する方法を、アーキテクトに任せることのほうが早いのではないか、というのが僕の意見です。

  磯崎  ・・・それはまったく同じ意見です。つまり文書にしたり、指導要綱にしたりということではまったく駄目で、ある独特の個性をもった解釈のできる建築家の判断に個別の委ねることが必要です。

  布野  ・・・チャールズがロンドンに責任をもつと言ったら、彼に任せるわけです。チャールズに建築家の資質があるとすればですよ。彼は、建築学校つくったんですよね。C.アレグザンダーなんかはチャールズの好みらしいですね。ただそれが永久にというわけにはいかない。五年任期で、任期が終わった段階で次のシティアーキテクトなりが気に入らなければ、原さん流に言うならそれをぶっ壊すと。少々乱暴な話ですが…。若い建築家が、個々の地域計画とか景観に関わっていく時にどうすべきかについては、原さんは如何ですか?

     

法制度を変えよ・・・マスタープランはいらない

 

    ・・・・問題は、ある都市、地域において離散的に配置された施設の良し悪しの問題だと思います。この問題というのは、まったく局小的な景観とか佇まいの問題ですから、かなり建築家に任されていいんじゃないかと思うのです。ところが、ある広いゾーンをどうするのかということがでてくる。そういう時にどうするのか。あまり上手い方法というのを持っていない。ある行政域で条例を決めてやるといっても、条例というのはあまり信用できないという感じがあります。なぜ信用できないかというと、ものとは関係しないレベル、理念のようなところでものを決めているところが法律にはある。すごく悪いものを規制するのにはいい方法かもしれませんが、それによって全体が歴史的に浮上するチャンスがあるにも関わらず、それを殺しているということがあると思うんです。

 すると、あるゾーンの構想を立ててみる作業というのが、絶対に必要になんだと思います。その形式をどのようにするのか。いわゆるマスタープランといわれていたものを、どのような形で描くのか。描き方はいろいろあるとは思います。それを描いてみて、軸にして検討していくことが絶対に必要なんじゃないですかね。

  布野  ・・・離散的に配置されるというのは、具体的には公共建築のことをいわれているのですか?

    ・・・・たとえば、都市において、他は砂漠でも知らないよと、こことここに建てる場所だけは面白く建てればいいじゃないかというのが、現実問題としてあります。しかし、あるいは広い原野の中で、昔のように間隔をおいて建てるというならそれでもいいでしょう。

  布野  ・・・公共建築というか、都市のモニュメンタルな建物について誰がやるのかという問題はあるかと思います。ようするに、能力のある建築家がやればいいということですが、一方で「広いゾーン」と言われたのは、たとえば住宅だったりするわけですね。われわれはよく「地と図」という言い方をしますが、グラウンド(地)をつくっていくようなところをどうやっていくのか、それが問題ですね。マニュアルをつくったり、形態や色を規制したりすることでコントロールしようとするアーバンプランナーの立場からは、世の中は優秀な建築家ばかりではないから規制が要りますよという議論になって、なかなか収斂していきません。最後に言われた、マスタープランは要りますよということについては、以前にもお二人のなかで話題にでたことがあるかと思います。

 磯崎さんはむしろ、マスタープランは止めなさいと言われている。岐阜県で女性四人に公営住宅団地の建て替えをやらせたときに、マスタープランなしでやってくださいと言われた。能力ある建築家が集まってやれば、マスタープランなしでもある種の全体のコーディネイトションができる。そんなことが、「地」の部分でも考えられるのではないかと思います。僕が、タウン・アーキテクトを発想するのもそうしたねらいからなんです。

  磯崎  ・・・行政が、特に建設省がいま使える法律は二しかなくて、一つは建築基準法ともう一つは都市計画法です。これに派生している条例はたくさんあって、いろいろな個別の開発方針や補助金もそこからでてくる。これはどういうことかというと、マスタープランを上からつくって、能力のない街の建築家たちは、それに基づいて、その枠の中でやりなさい…というお上の発想がそのまま法律になっている。これが僕のいまの二つの法律に対する解釈です。この二つをつぶして変えない限り、ほんとうは行政の人たちも困るんですね。それしか実際に住民に対する手段がないわけです。もともと悪い法律しかないにも関わらず、それを良いがごとく言いくるめなくてはならない、二枚舌を使わざるを得ないような状況が現実に起こっている。建設省の人たちにも、それは全部わかっている。わかっているけど、どうしょうもない。改正しても枠は変えられないので、重箱の隅をほじくるようなことになる。みんな頭がいいから、小さい部分をほじくるような法律をたくさんつくる。つくればつくるほど、ものが動きにくくなる。こういう矛盾を過去五十年くらいやってきたのが日本である。いま本当に行き詰まってきたのは、そこに原因があると本気で思っています。

     

マスター・アーキテクトとタウン・アーキテクト

 

  布野  ・・・マスター・アーキテクト制ということをおっしゃったことがありますね。一人が全体を統括する形の内井さんのいうマスター・アーキテクト制と違う発想ですよね。

  磯崎  ・・・審議会でそういうことを言っても、やりますとは言うんだけれど、実際に何時になったらできるのかわからない。そういう実状です。それを見て感じるのは、上から決めていくしかできないマスタープランだけしかないんだけれど、それを一度忘れて、その場その場で、これの方がより面白い、いい解決方法ではないかというものを探す。それがじわじわ動いてできあがるほうが、ネットワークが将来できあがるほうがいい。そのほうがリアリティがあるし、現実問題として無理が起こらない。できるだけマスタープランをつくろうとしている上の悪い作用を及ぼさないようにしてくれと…。少なくともそれをサスペンドしてほしい。そういうことをいつも考えるわけです。熊本の場合でもマスタープランはつくりませんでした。岐阜の場合もマスタープランなしで、四人で議論しているうちに、何時の間にかマスタープランらしきもの、同じものができあがる。そいうやりかたが実際にやろうと思えば、できるはずなんです。そして、それをより効果的にするには、基本的な大きな枠組みを法律のレベルから変えて欲しいというのは、いつも思います。

  布野  ・・・いまの脈絡でいきますと、原さんが必要だといったマスタープランは、少し違うようですね?

    ・・・・磯崎さんのも実はマスタープランであり、そういうやり方があるんだと思います。従来の意味で、それはマスタープランと呼びたくないんだと、磯崎さんはおっしゃるんだろうとは思います。言葉、概念として、いままでと違うことをやったんだから、それはマスタープランと呼びたくない。そういうことだと思うんです。しかし、何らかの形で全体に対する言及は欠かせるかといえば、そうはならない。磯崎さんは、おまえら勝手にやれというようにまかしたという決定をしたわけですよね。そこが極めて重要ですよね。そこの所を、いろいろな段階でどのようにやるべきかを考えたものこそがマスタープランだと思います。言葉がまずければ、計画の作り方というのが、おそらく必要ではないのかなと思います。

  磯崎  ・・・マスタープランというと語弊があるかもしれませんが、そういう種類のものはいったい何だろうかと僕は思っていたんです。たとえば大昔に、藤原京はここでいいんじゃないかというのを、誰が決めたのか? 何故ここがいいんじゃないかと決めたのか? 平城京もそうですし、平安京も同じことです。そう決めたときに、ここはなかなかいいと見つけてきた人がいるはずです。平安京の場合には、それは風水師らしい、道教のコンセプトがあって…などと、少しずつ復元がなされつつあるようです。彼らはその場所へ行って、この場所はいけるとかいけないということを、感でもいいんですが、理屈づけて決める。ただ一番最初に、ここはいけるというふうに思う、何かがあったと思うのです。たとえば吉野などは、誰も風水理論で説明していなくて、山岳密教や山城云々で言われたりしますが、やはりあの場所へ行くと、何か不思議なものがたちあらわれてくるような、山の佇まいも含めて、そうした気配がたちこめています。おそらくそれを感じたから、あそこを探したのだと思います。

 だから、いまマスタープランをやれる人は、そういうものがわかる人、理屈じゃなくて、感じられる人。昔は陰陽師がいて役をもらっていましたが、いまは都市計画家として図面を引いたというレベルではなく、もっと別のレベルでの感覚をもった人が、判断力をもっている人がでてくればいいと思うんです。世の中を見渡すと、職業的に僕はそれは建築家がいちばん近い存在だと思います。建築家という領域の中から、それを養成する以外にしようがないと思います。

  布野  ・・・かなりの層が必要だと思います。そうでないとタウン・アーキテクトはなりたたない。

     

分散論の限界と高層建築

   会場  ・・・明日香という地域からは少し離れますが、原さんの新梅田シティや建築中の京都駅ビルを見せていただくんですが、その建築哲学のようなものを聞かせていただけませんか?

  布野  ・・・短い時間で建築哲学を語れというのはずるいですが、原さんいかがですか?

    ・・・・それは非常に長い話になると思います。なぜああいうこと、高層化をするのかというのは、地域計画ということとも、日本の原風景ということとも密接に関わることなので、お答えしようと思います。

 日本では分散論がさかんで、集中というのは間違いで、いろんなものを分散したほうがいいんだという議論が基本的あります。その考え方は、僕らがいろいろな形でみている日本の原風景、日本的風景というものは、自然の中に調和的にものがあって、比較的ものが離散的に配置された、のどかな風景であるから、人間の快適な生活のために今日まで続けているんだということですね。では近代化ということが、いったい日本の状態、分散という問題にどう影響を及ぼしたのか? われわれのなかにある景観、日本的・村落的な、ある景観のイメージを引きずって都会に集まってきた人たちが、どんどんスプロールしていく。そういう現象の結果、いまでは自然が都市化される面積は、一年あたり三三〇平方キロメートルほどの速度をもって侵食していくんです。それは、東京都の都市化された面積が約一千平方キロですから、三年に一つ東京都ができてくるというスピードで、都市化が進んでいる。過疎などの問題があるんですが、そういう現実が数字として示されています。ワールドウオッチ研究所というところがだしてきたデータによれば、たとえば日本と台湾と韓国については一九五〇~六〇年代から今日までに、農耕耕作面積を半分に減らすということになっています。

 だから景観とかいう問題もありますが、僕はどちらかといえば、人間が生きる環境領域を限定していったほうがよいという考え方にたちます。いま砺波平野や出雲平野にみられるような散居村形式で住もうとすれば、その分散論のモデルをつくってみると、空きが二十メートルほどしかとれないわけです。のどかな散村型の風景の延長で、人間の欲望の解決策を追求していったときに、どのようになるのか? 都市と農地をぜんぶ足して、そのなかにバァーと人間をばらまくモデルを描いてみると、日本における昔の離散型集落での平均距離は、およそ八十メートという結果が得られました。それが現在では大幅に縮まってきて、分散的に生きる構図自体は危機になってきています。

 

  布野  ・・・いまのお話は関心は日本の国土レベル、地球環境レベルでの考えかたと理解していいですか。

    ・・・・いや地球全体に及ばないように話しているつもりです。それはもっと大変な問題があるんです。日本に限定して考えてみても、おそらく、新梅田シティとか京都駅ビルとかでいちばんわかりやすい話は、なぜ高層化するのかということだと思います。僕はその話をしているつもりですが、単純に言えば、人間はもう住む領域をここで止めて、限定した都市再開発をせよということです。少なくとも日本はそうすべきだ。もしみんなが、快適さのために広い面積が必要だといえば、その限定した中で生きるべきだということなんです。世界は一年に九千万人の人口が増える、一日二五万人が増えるというスピードが現実なわけです。

  布野  ・・・東京が九つ、一年でできるわけですね。

    ・・・・そう。そのなかで日本人が、いったい何を主張し、何を理念として生きていくのか? 大袈裟なんですが、それに僕は国家とかは好きではありませんが、そういうことだと思います。環境問題などで、発展途上国でも何をしては駄目、あれは駄目といわなければならない現実が目に見えているわけです。だけど温暖化の問題にしろ、なんにしろ解決しなくてはなりません。いまは餓死した人は無視したりしていますが、その状況の中で都市に住む人たちに、餓死してはいけない、住居はみんな平等にもたなくてはいけない、という理念をたてたならば、いったい世界でどういう都市形態を考えればいいのか? その時に、やはり分散論は駄目だ、無理だと僕は思いました。

 いろいろデータを調べると、日本は特にアウトなんです。だからわれわれの中にある、幻想的な日本的風景とか地域性とかは、根本的に誤っている、錯覚しているのではないかということを、僕はズーっと長いあいだ思っているわけです。それは集落調査をしたとき、アフリカの餓死していく子供たちに遭遇し、帰国してすぐ食料自給率や人間が生きていくうえでの農地の必要性について調べてみたんです。そしたら大変なピンチであることがわかった。そのことを「朝日ジャーナル」などで発表すると、お前は農本主義者だと言われたんです。時あたかも、外国産の食料がすごい勢いで入ってきて、飽食の時代が始まったんです。公害問題こそみんな注意しましたが、世界の農耕地のピンチについては誰も言及しなかったんです。

 リアリティとしてはいまでも、誰もこうした意識をもっていない。だけど遡っていくと、今日の最初の話にもつながりますが、世界的状況でもし物凄い飢餓状態がでてくれば、その時に「日本的風景」とか何かは、いったいどういうものになるのか。それは、今とはガラッと変るわけです。

   

「持ち家政策」の欺瞞

 

  磯崎  ・・・結論はかなり似ているんですが、プロセスが違うんです。僕は、日本政府が過去四十年くらいとり続けてきた「持ち家政策」をずっーと批判してきたつもりなんです。諸問題の根源はすべてここにあると思ってもいる。たとえば政治は五五年体制、官僚機構は四〇年体制というようにいわれていますが、その状況は依然として変らない。五五年体制がつくった最大の政治的課題というのは、日本中を総中産階級化するために「庭付一戸建住宅を持つことができるよ」という幻想を、まず組み立てた。それがすべての政治的課題であるとして、歴代政府がずっーとやってきた。かれこれ四十年ほどになるわけです。それは、大きな会社にみんな所属し、そこで土地取得、住宅建設のローンを組み、それを銀行が保証する。とはいえ、それを裏書するのは自分の所の会社であるから、永久雇用をしなければ、それはできない。つまり会社が縛ることができる。と同時に、あらゆる金融、担保の取り方、一切合切が、各人が庭付一戸建住宅が持ち得るんだという幻想に向かって、日本の政治や経済が組み立ててスタートした。これが五五年体制で始まったんですね。その末端とでもいうべき後始末が、後始末さえできないのですが「住専」です。銀行がパンクしてダウンしているのも、バブルが崩壊したのもその後始末です。ちょうど過去五年くらいの間に、日本政府がとり続けてきた問題が壊滅状態になってきたことは誰もが知るところです。

 その根源は、実は都市政策であり、住宅政策である。それに関わってきているわれわれ、建築家や都市計画家が、その細部を埋めるためこれまで作業をさせられてきたという関係の中でできあがってきている。大都市が壊滅していったというのは、おそらく庭付一戸建というものがとり得ないにもかかわらず、依然としてそれを持っている。細かくやって細部を穴埋めしようとはしています。高層化して立体分譲ができるようになるまでに、ものすごく時間がかかって、いたしかたなく立体分譲をやるという政策をとらざを得ないことになる。結局、本質的な解決にはならなくて、五五年体制のときに持った一戸建の推進に、すべて戻ってきているんだと思います。

 原さんの言われたことは、このようにして出来上がったものが、もう少しマクロに見たらそれ以上の危機が押し寄せているということだと思います。僕は個人的にそこの問題に関しては、土地とその他に住みわけするという考えが必要で、適切な考え方だと思います。都会で住む人でさえ、大都市で働かなければならない人でさえ、同じ条件をということで同じ幻想を与えてしまったことにいちばんの問題があった。彼らを第一次機械時代のロンドンのような、劣悪な生活条件に置くこと。都市とはそういうものなんだ、劣悪な生活条件なんだということを、冷たく認識させるようにする。近代の都市計画は“太陽と緑と空間へ”ということが、あるいは田園都市が一般化したように、第一次機械時代の都市の劣悪条件に対する批判としてのみ組み立てられた。そこで組み立てたられた法則というのは、いままで構造的な変化をもたらすことが、実はできなかったわけです。それをいじましく日本は解釈し、政策にしてしまった。それがいまの元凶なのではないか。

 そこから跳ね返って、いまの都市計画の構成の仕方、政策のつくられ方、それを受けとる住民サイドの意識、庭を諦めるとか、緑を諦めるとかいう、幾つかの条件をやらない限り都市には住めないということをはっきりしたほうがいいのではないか。都市に住むには、それだけの利便があるわけです。それに対して、こちらが何かを捨ててそれをもらわなくてはならない。それは空間と緑と太陽かもしれない。近代都市計画が狙った、この三つの幻想としてのスローガンをぜんぶ捨ててもらって都市に住み、たとえば文化であるとか便利さであるとか、新しいメディアであるとかをもらっていく。そんなことしかないのではないか。上手い具合にバランスをとって両方できるというふうに言うのは、これは政治的詐欺である。理論的にも、成り立たないものを言いくるめるという詐欺である、そういう状態がいま起きていると思います。

   布野  ・・・ほぼ時間が尽きました。以上でこのシンポジウムを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

           (一九九六年一〇月二六日、明日香村中央公民館)   

   

★1 昭和初期(一九一〇~八一年)の評論家。亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」を創刊、その中心的指導者として活動した。古典への思慕とドイツロマン派を切り結んだ独自の発想による飛躍の多い硬質な文体が魅力的。

★2 アルゼンチンの詩人・作家(一八九九~一九八六年)。ヨーロッパで教育を受け、二〇年代にラテンアメリカに前衛詩の派をつくる。幻想的な小説で知られ、多くの詩集、小説がある。

★3 公開シンポに先立ち、明日香村長関義清氏に発言をいただいた。日本書記、古事記の舞台となっている明日香村は、都市計画法で「明日香村歴史的風土保存地区」として守(=規制)されている。建物規制もおこなわれており、高さ、形態、色などにも規制がある。

★4 磯崎新+原広司「京都あるいは消滅する都市」、「建築文化 特集“建都一二〇〇年の京都”」一九九四年二月号、彰国社

★5 プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)著の『英国の未来像・建築に関する考察』で、伝統的なイギリスの建物や風景が、近年次々とこわされていく事実に直面して、彼はこれではイギリスは滅びると感じた。そこで破壊を食い止め、再び古き良きイギリスの美しさを取り戻すために、「何世紀もの間、建築家や建設業者を導いてきた規則やパターンを少し発展させる」必要があるとして、その「規則やパターン」を「一〇原則」にまとめた。

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 この記事は、建築フォーラム主催「建築思潮・明日香村会議」として、一〇月二六日、奈良県明日香村と吉野山・東南院で開催された公開シンポジウムを収録している。同イベントでは、磯崎新+原広司「“漂流する日本的風景”~地域計画と建築家の役割」と題する公開シンポジウムと、お二人を含む建築家五〇人の合宿会議が行われた。