布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
I04 アクバルの都
アーグラAgra,ファテープルシークリFatehpur Sikri,ウッタル・プラデーシュ州Uttar Pradesh,インドIndia
ムガル朝を興したバーブルは,インド支配の拠点としてアーグラの地を選ぶ。その後ムガル朝の首都はファテープル・シークリー,ラーホールと移り,シャー・ジャハーンによるシャージャーハーナーバード建設によって,最終的にデリーが帝都となるのであるが,アーグラ,ファテープル・シークリー,ラーホールの三都市はその後もムガル朝の中枢都市としての座を維持する。
アーグラはインド北西部,デリーの南約200キロに位置し,タージ・マハルの所在地として名高い(図1)。その起源は、16世紀初めにローディー朝のシカンダルによって建設された都市に遡るが、南北に流れるヤムナー川が西に大きく湾曲する東岸に城砦が築かれ,城砦とは別にやや離れたところに都市が発達した。
アクバルは,ヤムナー川の西岸のローディー朝時代から残るバダンガル砦を解体し,アーグラ城(図2)を建設する。都市の中心はヤムナー川西岸に移り,今日のアーグラの骨格ができあがる。都市は「アクバラーバード」と名付けられる。
一方,アクバルは1569年にファテープル・シークリーの建設を始め,1574~84年はそこを首都とする。さらにその後1598年までラーホールに首都を移している。ただ、この間,アーグラは実質的にムガル朝の首都の地位を保ち続けた。
アクバルからアウラングゼーブまで4代の皇帝により整備されたラール・キラ(「赤い城」)と呼ばれるアーグラ城城内には,ディワーニ・アーム(「公謁殿」),ディワーニ・カース(「内謁殿」)といった宮廷施設や後宮,モーティー・マスジッド(「真珠モスク」)と呼ばれる王室専用モスクの他,バーザールまで設けられた。
インド古代の建築書で『マーナサーラ』における「カールムカ」のモデルが採用されたという説があるが、18世紀のアーグラを描いた地図(図3)をみると,以下のようなことがわかる。
①アーグラ城を中心として都市が形成されたが市壁は存在せず,タージ・マハルがもうひとつの核となっていた。
②ヤムナー川に沿って貴族や諸侯のハヴェリが多数建設され,ヤムナー川河岸が高級住宅地を形成していた。
③アーグラ城の西側に広場状の大バーザールがあり,そこから伸びる通りのいくつかはバーザールとなっていた。
④広場から北へ伸びる通りを中心軸とし,ジャーミー・マスジッドやアクバリー・マスジッドなど主要な宗教施設がその通り沿いに配された。
⑤バーザールとなっている主要な通りから細い路地が伸び,それらは狭く,不規則に曲がりくねりながら迷路状の街路ネットワークとなり,居住地区を形成していた。
ファテープル・シークリーはアクバルの計画のもと,ムスリム建築家ワハーブッディーンWahabuddinとムハンマド・ヤクブMohammad
Ya'qubによって設計された。王宮は,極めて整然と計画されている(図4)。アーグラは、王宮,ジャーミー・マスジッドなどの宗教施設,バーザール・キャラバンサライといった商業施設等から構成されるが,河川の沿岸に立地していないため, 水の確保は都市の死活問題であった。水源は地下水または雨水で,それを確保し,利用するためにバーオリーや深堀井戸,ビルカbirka(地下貯水池)といった施設が造られた。ビルカは,王宮の正方形の貯水池の下,ジャーミー・マスジッド中庭の地下などに設けられた。さらにキャラバンサライの北西にも井戸が設置されている。
ファテープル・シークリーの都市構成の特質をあげると以下のようになる。
②王宮を城壁で囲む城砦化をせず,他の宗教的・商業的施設と一体的に計画された。軍事都市としてよりも行政機能を重視した都市であった。
③都市内に主要幹線道路を計画的に敷設し,市街地空間の形成,発展にひとつの秩序を与えようとする意図がみられる。
シャー・ジャハーンのデリー遷都によって,アーグラは首都の座を譲ることとなる。その後ムガル朝の衰退とともに18世紀後半にはジャート族,マラータ軍などの侵攻,掠奪に遭い,19世紀の初頭にはイギリス東インド会社領に編入された。当時アーグラは衰退の極みにあり,人口は3万人ほどであったと言われる。しかしその後イギリスによってアーグラ城の南方にカントンメント(兵営地区)が,北西方には行政機関,病院などを核とする新市街が形成され,アーグラは新旧の両市街からなる都市へと発展していくことになった。
【参考文献】
布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月30日
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