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2025年10月2日木曜日

アーグラーとファテープルシークリ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



I04 アクバルの都

アーグラAgra,ファテープルシークリFatehpur Sikri,ウッタル・プラデーシュ州Uttar Pradesh,インドIndia


ムガル朝を興したバーブルは,インド支配の拠点としてアーグラの地を選ぶ。その後ムガル朝の首都はファテープル・シークリー,ラーホールと移り,シャー・ジャハーンによるシャージャーハーナーバード建設によって,最終的にデリーが帝都となるのであるが,アーグラ,ファテープル・シークリー,ラーホールの三都市はその後もムガル朝の中枢都市としての座を維持する。

 アーグラはインド北西部,デリーの南約200キロに位置し,タージ・マハルの所在地として名高い(図1)。その起源は、16世紀初めにローディー朝のシカンダルによって建設された都市に遡るが、南北に流れるヤムナー川が西に大きく湾曲する東岸に城砦が築かれ,城砦とは別にやや離れたところに都市が発達した。

アクバルは,ヤムナー川の西岸のローディー朝時代から残るバダンガル砦を解体し,アーグラ城(図2)を建設する。都市の中心はヤムナー川西岸に移り,今日のアーグラの骨格ができあがる。都市は「アクバラーバード」と名付けられる。

一方,アクバルは1569年にファテープル・シークリーの建設を始め,157484年はそこを首都とする。さらにその後1598年までラーホールに首都を移している。ただ、この間,アーグラは実質的にムガル朝の首都の地位を保ち続けた。

アクバルからアウラングゼーブまで4代の皇帝により整備されたラール・キラ(「赤い城」)と呼ばれるアーグラ城城内には,ディワーニ・アーム(「公謁殿」,ディワーニ・カース(「内謁殿」)といった宮廷施設や後宮,モーティー・マスジッド(「真珠モスク」)と呼ばれる王室専用モスクの他,バーザールまで設けられた。

インド古代の建築書で『マーナサーラ』における「カールムカ」のモデルが採用されたという説があるが、18世紀のアーグラを描いた地図(図3)をみると,以下のようなことがわかる。

①アーグラ城を中心として都市が形成されたが市壁は存在せず,タージ・マハルがもうひとつの核となっていた。

②ヤムナー川に沿って貴族や諸侯のハヴェリが多数建設され,ヤムナー川河岸が高級住宅地を形成していた。

③アーグラ城の西側に広場状の大バーザールがあり,そこから伸びる通りのいくつかはバーザールとなっていた。

④広場から北へ伸びる通りを中心軸とし,ジャーミー・マスジッドやアクバリー・マスジッドなど主要な宗教施設がその通り沿いに配された。

⑤バーザールとなっている主要な通りから細い路地が伸び,それらは狭く,不規則に曲がりくねりながら迷路状の街路ネットワークとなり,居住地区を形成していた。

ファテープル・シークリーはアクバルの計画のもと,ムスリム建築家ワハーブッディーンWahabuddinとムハンマド・ヤクブMohammad Ya'qubによって設計された。王宮は,極めて整然と計画されている(図4)。アーグラは、王宮,ジャーミー・マスジッドなどの宗教施設,バーザール・キャラバンサライといった商業施設等から構成されるが,河川の沿岸に立地していないため, 水の確保は都市の死活問題であった。水源は地下水または雨水で,それを確保し,利用するためにバーオリーや深堀井戸,ビルカbirka(地下貯水池)といった施設が造られた。ビルカは,王宮の正方形の貯水池の下,ジャーミー・マスジッド中庭の地下などに設けられた。さらにキャラバンサライの北西にも井戸が設置されている。

ファテープル・シークリーの都市構成の特質をあげると以下のようになる。

 ①岩石台地を中心軸とするほぼ長方形の範囲を都市の領域として市壁で囲み,その岩石丘上に都市の主要施設を配した。また丘陵地区をムスリムの居住地とし,丘下をヒンドゥーの居住地とするなど,都市空間の大まかなゾーニングが行われた。

 ②王宮を城壁で囲む城砦化をせず,他の宗教的・商業的施設と一体的に計画された。軍事都市としてよりも行政機能を重視した都市であった。

 ③都市内に主要幹線道路を計画的に敷設し,市街地空間の形成,発展にひとつの秩序を与えようとする意図がみられる。

シャー・ジャハーンのデリー遷都によって,アーグラは首都の座を譲ることとなる。その後ムガル朝の衰退とともに18世紀後半にはジャート族,マラータ軍などの侵攻,掠奪に遭い,19世紀の初頭にはイギリス東インド会社領に編入された。当時アーグラは衰退の極みにあり,人口は3万人ほどであったと言われる。しかしその後イギリスによってアーグラ城の南方にカントンメント(兵営地区)が,北西方には行政機関,病院などを核とする新市街が形成され,アーグラは新旧の両市街からなる都市へと発展していくことになった。


【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008530






 

 


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