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2026年2月5日木曜日

traverse07 前記, traverse, 2006

 Traverse07 前記

 

 

 9.11(同時多発テロ)以降の激動する世界において、5年の長きにわたって続いた日本の政権が変わった。日本の社会がどういう方向に向かうかは不明であるが、再び、転換の時を迎えつつあるように思える。traverseを創刊して7年、短い期間ではあるけれど、とにかく世界はめまぐるしい。

この間の政治改革、規制緩和路線は、IT企業関連のヴェンチャー・ビジネスの跳梁跋扈を招来し、新たな潮流を作り出したかに見えたが、ヒーローたち(ヒルズ族)の相次ぐ逮捕で、勢いを失ったように見える。そして、前政権が残した「負の遺産」(格差社会の拡大)の方がより強く指摘されつつある。

 建築界にとって、この間の「耐震偽装問題」(姉歯事件)は致命的であった。確認審査の民間への開放、「第三者検査機関」の導入は、民営化の一環と考えられ、日本社会全体に通底する問題がそこにはある。既に、多くの議論がなされ、問題点が洗い出されつつあるが、はっきりしているのは、この問題が、個人のモラルや能力の問題にとどまるものではなく、建築界全体のシステムの問題であることである。そして、この日本の建築界全体の構造的問題は、既に「阪神淡路大震災」によって決定的に明らかになっていたことである。建築界の構造転換は遅々として進んで来なかったのである。資格制度の強化、保険制度の導入など、これを機に制度的な枠組み設計に向かうチャンスともみるが、前途多難のように思える。

 昨年は前川國男生誕百周年、今年が没後二十回忌ということで、展覧会が各地で行われ、大変な観客を集めているという。昨年の「吉村順三展」も万単位の観客を集めた。来年には「白井晟一」展が開かれるというから、ちょっとした建築家回顧ブームである。これも時代が大きく変わっていく感覚を強めているのであろう。『建築の解体』『神殿か獄舎か』をどう読んだかの特集もあり、70年代回顧の様相もある。

 来年は『2007年問題』の年である。団塊の世代が大量退職する。この世代が、どうするのか、こそが問題である。若い諸君は、この巨大なマーケットを大いに活用すべきだと思うけれど、如何。

 

布野修司/編集委員会

 

2026年2月4日水曜日

traverse06 はじめに, traverse, 2005

 Traverse06 はじめに

 

インド洋大津波の当日(20041226日)、スリランカのゴールに居て命拾いした。その時のことは求められるままに書いたが、世界史的事件だったといっていい。スリランカなど、地震など全くなく、7世紀に編まれたという『マハーヴァムサ』という古文書に依れば、紀元前2世紀頃、王女が波にさらわれたという伝承が記されているだけだという。それが津波だったとすれば、実に2200年ぶりだったことになる。

ゴールで400人、周辺で2000人、スリランカ全体で33000人が亡くなった。何かできることはないかということもあって、7ヶ月にインド・スリランカの津波被災地を訪れてきたのであるが、特に、スリランカの場合、未だに津波の爪痕が生々しい。海岸線から100m以内に建築禁止令が出されたせいである。しかし、それにしても津波の力は相当のものである。

コロンボ周辺は死亡者こそ少なかったものの、海岸部に居住していた不法占拠者たちが大きな被害を受けた。各国のNGOがまるで援助を競うようにプロジェクトを打ち上げつつあるが、応急仮設住宅建設の段階は終わり、復興住宅建設が今後の大きな課題である。仮設住宅地は、共同施設もそれなりに用意され、コミュニティもしっかりしていて、独居老人が人知れず亡くなるといった状況には全くない。

坂茂、セシル・バルモンドといった有名どころが、復興住宅を手がけるというが具体的なプロジェクトについては不明であった。今のところ日本の影は薄いように思われた。何かうまいプロジェクトが組めないものか。

振り返って日本で、信じられないような電車事故が起こった。電車というのがかくもひ弱なボディをしていたとは。経済的合理性のみ求める管理運営体制がしきりに問題にされたが、早さを求めて軽量化を追求してきたその方向に同じような問題はないのか。

改革、改革のスローガンが叫び続けられてついに総選挙である。改革の実は果たして上がっているのか、正直わからない。確かなことは世代交代が確実に進行しつつあることである。(布野修司)

 

 

2026年2月1日日曜日

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010

最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生

 

                      布野修司

 

 「建築メディアのあり方について」というのが編集部の依頼である。『fin』から『traverse』まで、ガリ版雑誌から三万数千部の読者がいる日本建築学会の『建築雑誌』まで、振り返ってみると、随分と「雑誌」の発行に関わってきた。何を考えて「雑誌」メディアに拘って来たのか、自らの軌跡を振り返ってみたい。『雑口罵乱』という建築メディアについて考える材料は提供できると思う。そもそも「批評としての建築」あるいは「エディターとしての建築家」をめざしてきたような気がしないでもない。

 

 『fin』―終わりの始まり―

出雲(島根県)から上京し,大学に入学したのは一九六八年四月のことである。『建築少年たちの夢』(彰国社、2011)に書いたけれど、その年,パリで五月革命が起こり,六月,日大に続いて東大も全学ストライキに突入,一〇・二一国際反戦デーの示威行動に「新宿騒乱罪」が適用,・・・そして,翌年一月の安田講堂陥落へ,激動の一年であった。その後も全共闘運動が日本中に広がりをみせる騒然とした中で学生時代を過ごした。

しかし、学生生活が困難を極めたということは全くない。入学して二か月もしないうちに全学ストライキになったー学生がストライキすることがあるのだー。時間を持て余して、毎日映画をみて過ごした。年間200本以上、それが大学院時代にかけて数年続いたと思う。いつのまにか一端(いっぱし)の「映画少年」になっていた。

渋谷、新宿、池袋、時として銀座にも、名画座、文芸座といった小さな映画館があって、150円とか200円だった。テレビが寮(目黒区駒場の民間の寮で、向かいの部屋には、今や著名な論客と知られる佐伯啓思がいた)になかったということもあるけれど、映画に力があった時代だ。DVDを借りてきて好きな映画をみる、ダウンロードした映画を電車の中で見るなどという時代など夢にも思いもしない。土曜日になるとオールナイトでヤクザ映画を一気に5本見る。高倉健さん、菅原文太がヒーローの時代で、山場が来ると歓声が上がって拍手が映画館を包んだ。夜が明けて公園で寝ていると決まって職務質問を受ける、そんな日々だった。

魅かれたのは、J.L.ゴダール(『勝手にしやがれ』『女は女である』『気狂いピエロ』『アルファヴィル』・・・)に大島渚(『無理心中日本の夏』『絞死刑』『 帰って来たヨッパライ』『新宿泥棒日記』『少年』『東京戦争戦後秘話』『儀式』・・・)だ。もちろん、ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた欧米の監督たちや日本のアヴァンギャルドと呼ばれた監督たちの作品も軒並み見た。映画館を梯子したのである。

自然に映画を見てあれこれ議論するようになり、『映画批評』という雑誌を手にするようになった。こむつかしい議論になんとなく魅かれ、ついに趣味が昂じて『fin』というガリ版刷りの雑誌(というにはあまりにも貧相なリーフレット)を下宿(杉並区下高井戸の賄付の間借である。そういう時代もあったのだ)の友人と一緒に出した。現物は、ビラやノートやろくでもないものどもと一緒に段ボール箱に詰めて何処かに置いてあると思うけど、誰に配ったのか覚えていない。

僕の「雑誌」への拘りは『fin』に始まる。

 

TAU』・・・雛芥子の頃

建築学科に進学することになったーその理由についてはどっかに書いた気もするけれど、ここでは省略しようー。しかし、教室で建築を勉強した記憶はない。図面を引いたり、測量したり、現場で学んだことのほうが多いと思う。「竹の会所」や「木興プロジェクト」の諸君が被災地支援に出かけて行って、教室で学ぶ何倍ものことを学ぶのと一緒である。

当時,僕ら(杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司・・・)は「雛芥子」という集団名を名乗って活動していたのであるが,三里塚の鉄塔のガセットプレートの原寸図を描いたり,民家を移築したり,塹壕の測量をしたり,援農(農作業の手伝い)をしたりする一方で,「ドイツ表現主義映画」[1]の映画会を連続開催したり,「黒テント」[2]の芝居のプロデュースをしたり・・・僕の学生時代も結構忙しかった。

ドイツ表現主義の映画会をしたり、芝居のプロデュースをしたりしたのは明らかに「映画少年」の関心そのままである。映画を見まくったのが僕の何かを変えたように思う。いつのまにか「演劇少年」にもなっていた。布野修司建築論集Ⅱは『都市と劇場』(彰国社、1998年)と題する。その中に収めた「祭師たちの都市戦略」「燃え上がる都市―未来派の叛乱」という原稿は『同時代演劇』という雑誌に書いたものである。その後も劇場をめぐっては随分書いてきたー建築史は美術史の枠の中で書かれるのであるが、演劇史の範疇としても書かれるべきであるというのが僕の持論となったー。この『同時代演劇』の版型は、『群居』もそうで、『雑口罵乱』とも同じであるが、僕の雑誌メディアの原型でもある。

この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU[3](商店建築社)である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三年一月)。続けて,「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[4]を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビュー?である。そこで,僕らは「遺留品研究所」(真壁智治,大竹誠,・・)「コンペイトウ」(井出建,松山巌,元倉真琴・・・)など兄貴分と出会った。

メディアとは、人と人を媒介する場である。

 

『建築文化』「近代の呪縛に放て」シリーズ

学生時代に,「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(一九七五~七七年)のコア・スタッフに招かれたのが運命であった。伊東豊雄をトップに,長尾重武[5],富永譲[6],北原理雄[7],八束はじめ[8],布野修司というのがメンバーで,僕は最年少であった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[9]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていたのだと思う。この企画で,渡辺豊和,毛綱モン太(毅曠),大野勝彦,石山修武,安藤忠雄といった建築家たちに次々出会った。この場で考えたことは,建築を考える原点であり続けている。「近代の呪縛」をどう解き放つか,近代建築をどう批判的に乗り越えるかがシリーズのテーマであったが,まずは直近の過去,一九六〇年代の建築のあり方をどう乗り越えるか,これが問題だ,と僕は思った。そして建築の一九六〇年代を問うことが僕の出発点となった。連載の最後に「六〇年代の喪歌」(『建築文化』,一九七七年一〇月)という文章を書き,そして,この文章を冒頭に置いて,『戦後建築論ノート』(相模書房)[10]を書いた。『建築文化』誌は既にないが、このころの『建築文化』は、真摯な議論の場を用意するという意味で、実に生き生きとしたメディアであったと思う。

『雑口罵乱』も、次々と若手建築家を招待して議論を展開してきている。その議論の中に、未来の建築を考える無数のヒントがあることは間違いない。断言していい。

 

『同時代建築通信』・・・小さなメディアの必要

「近代の呪縛に放て」シリーズに参加するのと並行して、宮内康さん、堀川勉先生とともに「同時代建築研究会」(昭和建築研究会)を組織することになる。

宮内康(本名は、康夫)は言うなればペンネームである。何故か、本人自ら「康(こう)」の名を好み、みんなも「康さん、康さん」と呼んだ。神戸で生まれ、長野県の飯田で育った。高校の一年先輩に、建築家、原広司がいる。康さんについては、『怨恨のユートピア―宮内康の居る場所』(「怨恨のユートピア」刊行委員会、れんが書房新社、2000年)に譲りたい。

同時代建築研究会が出したのが『同時代建築通信』である。第一号は1983323日付である。ワープロ雑誌であるが、ロゴは、松山巖さんによる。第一号の冒頭に宮内康は「自前のメディアについて」と題して以下のように書く。

「私たち研究会の活動の主旨は、テーマを狭く建築の領域に限らず、出来るだけ多くの領域に、さしあたって「建築」を足がかりとして広げ、そうすることによって、私達の想像力をより豊かなものにし、思考をより予見的なものにしようとすることにある。テーマを、想像力を思い切って広げよう。・・・・」

建築メディアについて、は考えているのであるが、「建築」が問題なのではない、という認識がここにある。さしあたって「建築」を足がかりにして、・・・「何をするのか」というのは忘れないでほしいと思う。何をやっていくにせよ、何で「建築」なの!?ということは常に問われることになる。『雑口罵乱』がすごいのは、雑口罵乱になんでも議論しようということだと思う。

もうひとつ、議論したことを記録する、というのが原点である、ということがある。同時代建築研究会は、『同時代通信』をもとに二冊の本『悲喜劇・1930年代の建築と文化』(同時代研究会編,現代企画室, 1981年)と『現代建築-ポスト・モダニズムを超えて』(宮内康・布野修司編,新曜社,1993年)を出した。活字にするという行為の中で議論が深まるのである。

「同時代建築研究会」の活動と並行して、東洋大学に「鯨の会」が結成された。研究室の卒業生を含めた議論の場である「鯨の会」は、「談話室」と同じといっていいが、もう少し開かれていたかもしれない。その活動を記録するメディアとして創刊されたのが『鯨通信』である。

その創刊号に次のように書いている。

「・・・研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会が・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、・・・」

やはり場の必要性があってのメディアなのである。

小さなメディアは必要である。しかし、ツィッターの世界に記録性と議論を深める契機があるかどうか、いささか疑問に思っている。ずいぶん、テープ起こしをしたけれど、ものすごく勉強になる。『雑口罵乱』の編集そのもの、議論を紙に定着する過程に、そしてそれを読者に届ける過程に大きな意義がある。

 

『群居』―ハウジング計画ユニオンHPU

 『戦後建築論ノート』を書いた後、ハウジング計画ユニオンHPUというグループに参加することになった。そして『群居』という雑誌を創刊する。メンバーは、大野勝彦を中心に石山修武、渡辺豊和、布野修司が設立し、野辺公一、高島直之、松村秀一らが加わった。『群居』は、198212月に『創刊準備号』、翌年4月に創刊号「特集・商品としての住居」を出して、以降18年間、同人たちの時代の経験と思索を書き留めた。200010月に50号「特集・21世紀の遺言」、そして12月号に『終刊特別号』を出して終止符を打った。

僕は編集長であったけれど、全てをリードしたのは「セキスイハイムM1」で知られる大野勝彦である。確認しておくべきは、『群居』はメディアであって、あくまで「実践」が先であった。HPU(ハウジング計画ユニオン)の結成が先であって、『群居』の創刊が後なのである。

『群居』の初心は公式には創刊宣言[11]に示されている。そして、共有されていたのは小野次郎の「住み手の要求の自己解体をこそー住宅の街路化への提案ー」[1]である。また、石山修武+大野勝彦+布野修司+渡辺豊和の座談会「箱・家・群居―戦後家体験と建築家―」(創刊準備号)「消費社会の神話と住イメージの商品化」(創刊号)「セルフビルドの可能性と限界」(第二号、1983年)「職人幻想と建築家」(第三号、1983年)に生の形で示されている。

建築家の仕事、表現の場が住宅の設計という小さい回路に縮小していくなかで、住宅の生産・流通・消費の全過程を対象化し、具体的に活動を展開すべきだ、というのが共有された方針であった。戦後まもなく、住宅の問題は全ての建築家にとって大きなテーマであった。その初心に帰って、戦後の日本の建築家の歩みを総括したいという思いがあった。

『群居』が取り上げ、議論し、記録したテーマは多岐にわたる。住宅=まちづくりを主テーマに、住宅メーカー、職人、ビルダー、ディベロッパー、プランナー、建築家のそれぞれのアプローチを繰り返し取り上げるなかで、新たな職能のイメージとして浮かび上がったのが、C.アレグザンダーの「アーキテクト・ビルダー」である。

『雑口罵乱』に集う諸君が何を目指すのか、それが問題である。

20年にも及ぶ『群居』の刊行において、実に幅広いテーマを扱った[12]。しかし、建築の表現の問題については充分扱うことができなかったと思う。そういう思いを強く持ち続けていた渡辺豊和さんに引き摺られるように「建築フォーラム(AF)」を結成して、『建築思潮』[13]を創刊する。これは、僕が関西に移住した時期に重なり、手伝った。編集の神様、平良敬一[14]先生の「建築思潮研究所」に出かけて、「建築思潮」という名称の使用を許可してもらったのを思い出す。『建築思潮』には、今日活躍する多くの学生たちの参加を得た。バックナンバーを探してみてみて欲しい。

Traverse

 『群居』の終刊を決めて、もの足りなく思ったのだと思う。京都大学の先生たちと『traverse―新建築学研究』を創刊した。アニュアルでこれは現在も続いている。13号の原稿を送ったばかりである。創刊の言葉は以下のようである。

 「京都大学「建築系教室」を中心とするグループを母胎として、その多彩な活動を支え、表現するメディアとして『Traverse---新建築学研究』を創刊します。『新建築学研究』を唱うのは、言うまでもなく、かつての『建築学研究』の伝統を引き継ぎたいという思いを込めてのことです。『建築学研究』は、1927(昭和2)年5月に創刊され、形態を変えながらも1944(昭和19)年の129号まで出されます。そして、戦後1946(昭和21)年に復刊されて、1950(昭和25)年156号まで発行されます。数々の優れた論考が掲載され、京都大学建築学教室の草創期より、その核として、極めて大きな役割を担ってきました。この新しいメディアも、21世紀へ向けて、京都大学「建築系教室」の活動の核となることが期待されます。

 今日、研究成果の発表の場は、『建築学研究』のころとは比較にならない程多く、新たなメディアの創刊は屋上屋を重ねるように思えるかも知れません。しかし、発表の場が分散化することによって、京都大学「建築系教室」の全体像が見失われてきているという危惧も増しつつあります。創刊の動機のひとつには、お互いの仕事を相互にコミュニケートし、相互に批判し会う場を京都大学「建築系教室」としてもちたいという願いがあります。

 もうひとつの動機として、この間の国際化のめまぐるしい進展があります。外国からの留学生も増え、諸外国の大学、研究所から学術交流を求められる機会も増えつつあります。京都大学「建築系教室」の活動成果を全体として表現することが必要とされます。自由に相互批判できる場をもち、世界へ発信するメディアをもつことによって、広く開かれた場での評価を高めることへつながると思います。

 今日のメディアを支える技術の発展にはめざましいものがあります。メディアの形態も様々な形を模索したいと考えます。学生たち、若い世代にとっても魅力的な場でありたいと考えます。いずれにせよ、どこからアクセスしても京都大学の「建築系教室」の仕事がくっきり浮かび上がる必要があります。

 「建築学の研究範囲は、総ての学術の進歩に伴ひ、極めて広汎なものとなって来た。その研究題目も微にいり細に渉って、益々広く深くなってきた。」と既に『建築学研究』の創刊の言葉(武田五一)にもあります。領域の拡大と専門分化はさらに進展しているのが今日の状況です。問題は、建築をめぐる大きな議論をする場が失われつつあることです。この新しいメディアは、予め限定された専門分野に囚われず、自由で横断的な議論の場を目指したいと思います。「Traverse」という命名にその素朴な初心が示されています。          2000年4月1日」

 まさに、「traverseという命名にその素朴な初心が示されています」である。『同時代建築通信』についても触れたが、自由で横断的であることが大事だと思う。

 そして、持続性も極めて重要である。これは極めて難しい。『群居』が終刊を余儀なくされたのも、経済的問題を含めた様々な要因が絡んでいる。『traverse』は、12号以降、完全に若い学生諸君の編集体制に移行しつつある。持続性を考えてのことである。

『京都げのむ』―京都コミュニティ・デザイン・リーグ

 

 

 

建築雑誌の終焉?

 宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年1213日のことである。その追悼の会が先だって行われた(626日)。「水脈(みお)の会」[2](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。

宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。

宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006729日)[3]が最後になった。

宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[4]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。

『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(20001231日)[5]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、201011号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[6]はラッキーであった。

しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は198612月である。『SD200012月、『建築文化』200412月、『室内』20063月と廃刊が続いた。19945月に創刊された『10+1(INAX)20083月に廃刊となった[7]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。

戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。

宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。

「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」

僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。

 

                          (次号へ続く)

 



[1]

[2] 一九六八年に,六月劇場津野海太郎他),自由劇場佐藤信他),発見の会瓜生良介他)が共同で「演劇センター六八」を創設したのが前身。一九七〇年から黒テントによる移動演劇をはじめ,名称を「演劇センター六八/七〇」と改称。唐十郎率いる「状況劇場」の「赤テント」に対して,「黒テント」と呼ばれるようになった。一九七一年「六八/七一黒色テント」と改称。寺山修司の「天井桟敷」などとともに,六〇年代後半~七〇年代前半の「アングラ」(アンダーグラウンド)演劇ブームを代表する存在となった。現在は「劇団黒テント」が正式名称。「雛芥子」は,安田講堂前での黒テント講演「二月とキネマ」(主演:緑魔子,一九七二年五月)をプロデュースした。

[3] Trans Architecture & Urban.商店建築社が発行した建築月刊雑誌だが,四号で廃刊。近代建築の反省に伴って勃発した試行を過剰に展開した。創刊号に掲載の丹下批判「丹下健三と庁舎建築:レトリックの分析」は,七〇年代における丹下評価の先駆けとなった。(中村文美)

[4] 『都市と劇場・・・都市計画という幻想』(布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,一九九八年六月)所収。

[5] 一九四四年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。七二~八三年東京大学助手。七七~七八年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'八三~八八年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(一九七六年)「天日向家船」(一九九六年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(一九八八年)『ローマ・バロックの劇場都市』(一九九三年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(一九九四年)『ローマイメージの中の永遠の都』(一九九七年)など。詩集に『きみといた朝』(二〇〇〇年)『四季・四時』(二〇〇二年)『愛にかんする季節のソネット』(二〇〇二年)。

[6] 一九四三台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。一九六七年~一九七二菊竹清訓建築設計事務所。一九七二年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(二〇〇三年)。著作に『現代建築 空間と方法』(一九八六年)『近代建築の空間再読』(一九八六年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(二〇〇三年)『現代建築解体新書』(二〇〇七年)など。

[7] 一九四七年横浜生まれ。一九七〇年東京大学工学部都市工学科卒業。一九七七年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て一九九〇年千葉大学工学部教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,一九八三年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,二〇〇七年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。

[8] 一九四八年山形県生まれ。一九七九年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て一九八五年UPM(Urban Project Machine)設立。一九八八年熊本アートポリスのディクレクターに就任。芝浦工業大学教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(一九九七年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(二〇〇二年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(一九八二年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(一九八五年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(一九八六年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(一九九三年)『思想としての日本近代建築』(二〇〇五年)など。

[9] 一九三一年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。一九六〇年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,七〇年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで八二年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(二〇〇三年)など。

[10] 『戦後建築の終焉世紀末建築論ノート』(れんが書房新社一九九五年)は『戦後建築論ノート』の増補改訂版である。

[11] 『群居』創刊の目的:雑誌『群居』創刊の目的は、以下のように簡潔に示される。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出きる限り光を当てること、可能な限りインター・ジャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域との経験交流を積極的に取り上げること等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」(『群居』創刊準備号)。

[12] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略198792116号 本と住まいPART11987122717号 ショートケーキハウスの女たち198852918号 列島縦断・住まいの技術198882519号 ハウジング計画の表1988122220号 住居の空間人類学198942621号 町場-小規模生産の可能性198982522号 都市型住宅再考1989121523号 それぞれの住宅戦争199052024号 日本アジア村-外国人労働者の住まい199083025号 増殖する住宅部品1990122526号 「密室」-子供の空間199142927号 居住地再開発のオルタナティブ199182528号 建設労働1991122529号 X年目の住まい199242330号 住まいをめぐる本の冒険199291231号 日本の棟梁 1992122532号 崩壊後のユートピア199342733号 ローコスト住宅19938534号 在日的雑居論1993111535号 中高層ハウジング199432736号 世界のハウジング199482437号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[13] 『建築思潮』(学芸出版社)。「未踏の世紀末」01199212月創刊)、「死滅する都市」02199312月)、「アジア夢幻」0319953月)、「破壊の現象学」0419962月)、「漂流する風景[現代建築批判]」05(19973)



[1] 『建築文化』、19818月号

[2] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。

[3] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,20072

[4] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,19789月号

[5] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987921

16号 本と住まいPART1                  19871227

17号 ショートケーキハウスの女たち              1988529

18号 列島縦断・住まいの技術                 1988825

19号 ハウジング計画の表現者                 19881222

20号 住居の空間人類学                    1989426

21号 町場-小規模生産の可能性                1989825

22号 都市型住宅再考                     19891215

23号 それぞれの住宅戦争                   1990520

24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい           1990830

25号 増殖する住宅部品                    19901225

26号 「密室」-子供の空間                  1991429

27号 居住地再開発のオルタナティブ              1991825

28号 建設労働                        19911225

29号 X年目の住まい                     1992423

30号 住まいをめぐる本の冒険                 1992912

31号 日本の棟梁                       19921225

32号 崩壊後のユートピア                   1993427

33号 ローコスト住宅                      199385

34号 在日的雑居論                      19931115

35号 中高層ハウジング                    1994327

36号 世界のハウジング                    1994824

37号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[6] 編集委員会幹事として19871月号~198912月号。編集委員として19931月号~199512月号。編集長として20021月号~200312月号。

[7] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。20063月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):SD』(鹿島出版)1965年創刊。200012月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)19675月創刊。198612月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1(INAX)19945月創刊。20083月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)200112月創刊。200312月廃刊。以降特別号として隔年発刊。

2026年1月31日土曜日

「建築少年」についてのメモランダム, 『雑口罵乱』④(談話室,滋賀県立大学), 2010

 最後の『建築雑誌』を目指してー建築メディアの死と再生, 『雑口罵乱』⑥(談話室,滋賀県立大学), 2010


談話室04

「建築少年」たちについてのモメモランダム

布野修司

 

世に「3号雑誌」という言葉がある。

創刊したのはいいけれど、3号で潰れることが多い、という意味である。『雑口罵乱』もいささかペースが落ちてきたようである。テープ起こし、から編集作業、議論したことを記録に残すのは実にいいトレーニングなのだが、うまく回転しなくなると、苦痛になってくる。ツィッターやブログで記録したからもういい、というのかもしれないけれど、紙に定着しながら再度深く考える作業は質が違う。4号は、かなり校正もきちんとするようになったし、注を入れたり、かなり様になってきたのではないか。その分時間がかかった、ということかもしれない。

5号に掲載予定も含むけれど、この間「談話室」を訪れた若い建築家たちについての感想をメモしてみたい。

 

藤村龍至1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。2010年4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちトランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

 

山崎亮1973-)は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

 

石山修武と言えば、馬場正尊1968-)、坂口恭平1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

岡部友彦1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、2010年5月これからのまちづくりを考えるシンポジウムに呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウムに招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。2010年9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は20112月から北京のUAAで働き始めている。

 

 森田一弥1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

 

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...