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2024年12月19日木曜日

traverse04 前書、traverse, 2003

 

traverse 4 新建築学研究第4号

  

 9.112001)以降何かが変わってしまった。圧倒的な軍事力を背景にアメリカ合衆国は世界を動かし始めたようにみえる。イラク戦争は、たった3週間という短期間で、多くの予想を裏切って、終結したのであった。果たしてパックス・アメリカーナPart2がくるのであろうか。もしかすると、テロという火種を孕むことによって世界史は半世紀後退したとみるべきではないのか。

 しかしそれにしても、メソポタミア文明の遺産がバクダード博物館や各地の遺跡から大量に略奪されたという事実には唖然とするばかりだ。イラク戦争の連日の報道は、ウル、ウルク、ラガシュ、バビロン、そしてバクダード、サーマッラーなどの古代都市の位置関係を叩き込むように教えてくれた。チグリスとユーフラテスに囲われた人類最古の都市文明を育んだ肥沃な土地が戦場であった。この人類史に対する横暴冒涜は絶望的である。

 そしてSARS(新型肺炎)の発症である。医療技術の進歩にも関わらず、次々と新たなウィルスが出現するのは、現代文明のどこか致命的欠陥をついているのではあるまいか。また、SARSの蔓延はグローバリゼーションの複雑な関係を明るみに出し、世界経済をも翻弄しつつある。

 日本では2003年問題が進行しつつある。未曾有の不況であるにも関わらず、この空間の供給過剰は一体何故なのか。東京だけではない。京都の都心も時ならぬマンション建設ラッシュである。建築業界が存亡の危機を迎えているにもかかわらずである。

 この奇妙な現実を分析したい。そして、本質的な議論をしたい。時代に対して敏感でありながら、深い思索を重ねたい。traverseの願いである。                 

 

             

(布野修司 / 編集委員会)

2024年12月17日火曜日

食うことと建てること,学芸出版社,建築思潮Ⅴ,1997

 「建築家」の居る場所,世紀末建築論ノート,学芸出版社,建築思潮1997(『裸の建築家』収録)


世紀末建築論ノートV 「建築家」の居る場所

布野修司

 

食うことと建てること

 

 SSFは真摯な議論の場であり続けた。どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の制度的枠組みの中では限界が大きいのである。すなわち、普通の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶことを基本とするから、現場校も必要だ。

 しかし、議論だけしてても始まらない。それで生まれたのがSSFスクーリング(実験校)である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。職長クラスの参加者を募った。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。ヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であった。

 SSFの実験校は既に移動大学である、というのが僕の見解である。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。SSFが飛躍する大きなきっかけになったのは、KSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いである。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立は大きな関心を集め出すことになった。しかし、「職人大学」設立への運動は今始まったばかりである。専門工事業に限らず、建設産業界全体の取り組みが問われている。問題は、建設業界を支える仕組みなのである。

 

2023年8月25日金曜日

ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402

  ナイアガラ・ホテル,at,デルファイ研究所,199402


ナイアガラ・ホテル   ラワン         東ジャワ インドネシア         布野修司

 

 東ジャワ、スラバヤの南九十キロのところにマランという町がある。十八世紀にコーヒー生産のセンターとして大きくなった都市だ。中心部のアルン・アルン(広場)の回りには、庁舎、学校、教会などオランダ時代の建造物が残されている。気候は年中日本の春のようで過ごしやすい。第二次世界大戦中にはスラバヤに上陸した日本軍がここに軍営を置き駐屯している。沿岸部の大都市住民にとっては高原の避暑地である。あるいはスラバヤに野菜などを供給する後背都市である。

 マラン近郊はかってはヒンドゥー王国の中心地域であった。東ジャワ期のヒンドゥー遺跡が数多く残っている。チャンディ・バドゥット(九世紀)、チャンディ・グヌン・ガンシール(十世紀)、チャンディ・キダル(十三世紀)、チャンディ・ジャゴ(十三世紀)、チャンディ・ジャウィ(十四世紀)、チャンディ・シンゴサリ(十四世紀)などがそうである。

 そのマランの北、一八キロのところにラワン      という町がある。今はスラバヤーマランハイウエイがすぐ側を走っている。ボゴールの植物園のブランチであるプルウォダディ・ガーデンを除いて見るものは少ないのだが、ここにナイアガラ・ホテルというちょっとした掘り出し物の建築がある。ストモ通りにある五階建てのアール・ヌーヴォーのホテルである。

 アール・ヌーヴォーの建築はインドネシアでは珍しいが、こんな田舎にと不思議な気がする。聞けば、一九一八年にブラジルの建築家によって建てられたという。このナイアガラ・ホテルの建設にはどんな物語が秘められているのであろうか。ますます不思議さはつのる。

 以前は大邸宅、マンションであったらしい。エコノミークラスの部屋にはバスがついていない。もともとあった数多くの部屋を利用してホテルに改造したのである。居間がロビーに転用されている。ステンド・グラス、木彫、階段の手摺、相当なレヴェルである。どうやって職人を集めたのか。周辺にはすぐれたクラフトマンが存在していたのであろうか。木彫りの彫刻などは土着の職人のものに違いない。

 一九一八年に五階建ての建造物である。その頃、スラバヤ、ジャカルタだって五階建ての建物はほとんどなかったのである。実に不思議だ。

 屋上に登るとアルジュナ山が東に見える。西には、三六七六mのスメル山がある。ジャワ島は本州の半分ぐらいであろうか、そこに三千メートル級の山が沢山ある。スメル山はもちろん、メール(マハメール)山からきている。須弥山だ。ヒンドゥー教の聖山である。一九一一年、一九四六年と爆発、活火山である。そしてまた、ブロモ山がある。東ジャワで最も美しいとされ有名なカルデラ火山である。屋上からの眺めは抜群だ。名前の知れないブラジルからの建築は絶対意識したに違いない。

2022年10月5日水曜日

企画の役割,デザイナーになるか,総合者であり続けるか,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921123

 企画の役割,デザイナーになるか,総合者であり続けるか,日経アーキテクチャー,日経BP社,19921123

企画(者)の役割                        布野修司

                 

 何故企画か。何故企画者なのか。建築を全体的に統合する主体や職能が今見失われつつあるからだと思う。社会の複雑化に伴い、社会的分業がますます進行する。建築のあり方もそれに伴い複雑となる。建築技術の専門化、細分化が加速するなかで、誰が建築をまとめるのか、わからなくなってきた。要するに、建築の発注システムの変化、あるいは、大きく建築生産システム全体の変化がその背景にあると思う。

 建築の全体を総合する役割は、本来、少なくとも理念的には、建築家の役割であった筈だ。しかし、建築家をとりまく状況は激しく変化した。バブルとともに川上から参入してきたのが、広告代理店であり、不動産屋・ディベロッパーであり、銀行であり、保険会社である。もともと建築家というのはお金に弱い。また、法律に弱い。それに加えて川下の技術に弱いときたらまさに「裸の王様」である。状況について行けないのは当然だ。

 こうした中で、建築家がとりうる道は二つである。ひとつは「デザイナー」、「アーティスト」に徹することである。その場合、総合の役割は企画者なり、サイト・マネージャーなり、別の主体が担うことになる。もうひとつはあくまで建築全体についての総合者であることに拘ることである。それが如何に可能か、企画者の登場によって建築家に問われているのはかなり決定的なことである。






2022年5月23日月曜日

ポサランの教会,at,デルファイ研究所,199205

ポサランの教会,at,デルファイ研究所,199205 


H.M.ポントのポサランの教会

                布野修司

 

 

 東南アジアの近代建築については日本ではほとんど知られていないのだが、興味深いものが多い。宗主国の近代建築運動に呼応しながら植民地で活躍した建築家が少なくないのである。オランダの建築家、H.M.ポントはそうした建築家のひとりだ。

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは一九一一年、二七才の時のことである。もともと彼が生まれたのはジャカルタである(一八八四年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。

 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究に仕事のウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それを自らの作品に用いようとしたのであった。

 インドネシアでの彼の作品はそうした試みの積み重ねである。代表作は、バンドン工科大学(一九二〇年)であろうか。ミナンカバウ族、バタック族の民家をイメージさせるその屋根の連なりには、いささか度肝を抜かれる。とにかく迫力がある。

 さらに、それを上回る珠玉のような傑作が、東ジャワのクディリ      の近郊、ポサラン         の教会(一九三七年)である。小さな作品だけれど、実に見応えがある。様々な、独特の形態の屋根がリズムをつくって楽しい。石積みのベルタワーやフェンスには丹念に積み上げられた味がある。架構は、伝統的形態をとるかのようで、極めて意欲的に大胆なテンション構造が採用されている。うねるような内部空間は、トップライトからの光で、さらにダイナミックに見える。H.M.ポント自身は、インドネシアン・ゴシックと呼んだのだというが、確かに、伝統の形態と近代的架構方法が緊張関係の中に釣り合っている。

 インドネシアの建築家たちは、H.M.ポントをインドネシアのA.ガウディーという。この作品をみて、なるほどそうかなとも思う。丁寧に手作りで心を込めてつくった気配が濃厚にある。構造と形態の関係についての真摯な追求がそこにある。