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2024年12月18日水曜日

職人大学へ,新建築,199907

 職人大学へ,新建築199907


職人大学へ

布野修司

 

 いまムンバイ(ボンベイ)である。かってのネイティブ・タウンを歩き回っている。立ち寄った本屋ですばらしい写真集を見つけた。”The Indian Courtyard Houses"(T.S. Randhawa, Prakash Books,1999)。今年出たばかりだ。ジャイプールやアーメダバードのハヴェリなど多少調べだしたけれどインド各地にはさらに奥深くすばらしい都市型住宅がある。都市の伝統の厚みの違いであろう、日本の都市が実に薄っぺらに思えてくる。冒頭に「本書は、これらのすばらしい建物を設計し建設した無名の職人たちに捧げる」とある。職人世界の活き活きとした存在とまちの景観は密接不可分なのである。

 1990年11月27日、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)という小さな集まりが呱々の声を上げた。サイト・スペシャルズとは耳慣れない造語だが、優れた人格を備え、新しい技術を確立、駆使することが出来る、また、伝統技能の継承にふさわしい、選ばれた現場専門技能家をサイト・スペシャリストと呼び、そうした現場の専門技能家、そして現場の技術、工法、機材、労働環境まで含んだ全体をサイト・スペシャルズと定義づけたのである。横文字にせざるをえなっかたのが癪であったが、要は建設現場で働く職人の社会的地位の向上、待遇改善、またその養成訓練を目的とし、建設現場の様々な問題を討議するとともに、具体的な方策を提案実施する機関がSSFである。スローガンは当初からわかりやすく’職人大学の設立’であった。主唱者は日綜産業社長小野辰雄氏。中心になったのは、待遇改善に極めて意欲的な専門工事業、いわゆるサブコンの社長さんたちである。

 顧問格で当初から運動を全面的に支援してきたのは内田祥哉元建築学会会長。内田先生の命で、田中文男大棟梁とともに当初からSSFの運動に参加してきた。最初話を聞いて、大変な仕事だという直感があった。藤沢好一(芝浦工業大学)、安藤正雄(千葉大学)の両先生にすぐさま加わって頂いた。また、土木の分野から三浦裕二(日本大学)、宮村忠(関東学院大学)の両先生にも加わって頂いた。それからかなりの月日が流れ、その運動はいま最初の到達点を迎えつつある。具体的に「国際技能工芸大学(仮称)」が開学(20014月予定)されようとしているのである。バブルが弾け、「職人大学」の行方は必ずしも順風満帆とは言えないが、SSFの運動がとにもかくにも大学設立の流れになった、ある種の感慨がある。

 当初はフォーラム、シンポジアムを軸とする活動であった。海外から職人を招いたり、マイスター制度を学びにドイツに出かけた。議論は密度をまし、職人大学の構想も次第に形をとりだしたが、実現への手掛かりはなかなか得られなかった。そこで兎に角はじめようと、SSFパイロットスクールが開始された。第一回は19935月の佐渡(真野町)でのスクーリングであった。その後、宮崎県の綾町、新潟県柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町、茨城県水戸とパイロットスクールは回を重ねていく。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、各地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきた。

 そして、SSFの運動に転機が訪れた。KSD(全国中小企業団体連合会)との出会いである。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。”職人大学”の構想は必然的に拡大することになった。最早、SSFの手に余る。KSDは全国中小企業一〇〇万社を組織する大変なパワーを誇っている。

 KSDの古関忠雄会長の強力なリーダーシップによって事態は急速に進んでいく。「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった(19961月)。村上正邦議員の総括質問に、当時の橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。「職人大学」設立はまもなく自民党の選挙公約になる。

 めまぐるしい動きを経て、国際技能振興財団(KGS)の設立が認可され、設立大会が行われた(199646日)。以後、財団を中心に事態は進む。国際技能工芸大学が仮称となり、その設立準備財団(豊田章一郎会長)が業界、財界の理解と支援によってつくられた。梅原猛総長候補、野村東太(元横浜国大学長)学長候補を得て、建設系の中心には太田邦夫先生(東洋大学)が当たることが決まっている。用地(埼玉県行田市)も決まり、1997年にはキャンパス計画のコンペも行われた。

 国際技能工芸大学(仮称)は、製造技能工芸学科と建設技能工芸学科(ストラクチャーコース、フィニッシュコース、ティンバーワークコース)の二学科からなる4年生大学として構想されつつある。その基本理念は以下のようである。

 ①ものづくりに直結する実技教育の重視、②技能と科学・技術・経済・芸術・環境とを連結する教育・研究の重視、③時代と社会からの要請に適合する教育・研究の重視、④自発性・独創性・協調性をもった人間性豊かな教育の重視、⑤ものづくり現場での統率力や起業力を養うマネジメント教育の重視、⑥技能・科学技術・社会経済のグローバル化に対応できる国際性の重視

  教員の構成、カリキュラムの構成などまだ未確定の部分は多いがSSFの目指した”職人大学”の理念は中核に据えられているといっていい。もちろん、「職人大学」がその理念を具体化していけるかどうかはこれからの問題である。巣立っていく卒業生が社会的に高い評価を受けて活躍するかどうかが鍵である。


2024年12月17日火曜日

食うことと建てること,学芸出版社,建築思潮Ⅴ,1997

 「建築家」の居る場所,世紀末建築論ノート,学芸出版社,建築思潮1997(『裸の建築家』収録)


世紀末建築論ノートV 「建築家」の居る場所

布野修司

 

食うことと建てること

 

 SSFは真摯な議論の場であり続けた。どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の制度的枠組みの中では限界が大きいのである。すなわち、普通の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶことを基本とするから、現場校も必要だ。

 しかし、議論だけしてても始まらない。それで生まれたのがSSFスクーリング(実験校)である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。職長クラスの参加者を募った。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。ヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であった。

 SSFの実験校は既に移動大学である、というのが僕の見解である。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。SSFが飛躍する大きなきっかけになったのは、KSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いである。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立は大きな関心を集め出すことになった。しかし、「職人大学」設立への運動は今始まったばかりである。専門工事業に限らず、建設産業界全体の取り組みが問われている。問題は、建設業界を支える仕組みなのである。

 

2024年8月28日水曜日

職人大学の創立に向けて,建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立,日刊建設工業新聞,19961115

 職人大学の創立に向けて,日刊建設工業新聞,19961115

 

建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立 

布野修司(京都大学助教授)

 

 「職人大学」の設立を目指す国際技能振興財団(KGS)が労働省の認可を受け、日比谷公会堂で盛大に設立大会が行なわれたのは、四月六日のことであった。母胎となったのは、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)である。その設立は一九九〇年十一月だから、小さな産声をあげてからほぼ五年の月日が流れたことになる。

 サイト・スペシャルズとは、サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)に関する現場のこと全てをいう。職人、特に屋外作業を行う現場専門技能家の地位が不当に低く評価されている。その社会的地位の向上を実現するために「職人大学」をつくろう、と立ち上がったのが小野辰雄国際技能振興財団副会長をはじめとする専門工事業の皆さんであった。

 SSF設立当初からそのお手伝いをしてきたけれど、建設業界のうんざりするような体質にとまどうことも多かった。しかし、そうした中で頼もしく思うのは専門工事業の力である。とりわけSSFを支えてきた専門工事業の皆さんには頭が下がる。ゼネコンが川上志向を強め現場離れして行く中で、現場の技術を保有するのは専門工事業である。その未来に大いに期待したい。

 ゼネコンは管理技術のみに特化して空洞化しつつある。その実態を明らかにしたのが「職人問題」ではなかったか。建設産業を支えてきた職人が切り捨てられていく。誰が職人を育てるのか。問題は、日本の学歴社会の全体、産業界の編成全体に関わる。SSFは当初、精力的にシンポジウムを開催した。ドイツ、アメリカ、イギリスから職人、研究者を招いて国際シンポジウム行った。ヨーロッパのマイスター制度などに学ぶためにドイツへ調査に出かけてもいる。職人養成のためのシステムのみならず、職人育成のためのソーシャル・カッセ(社会基金)の役割、その仕組みに注目すべきものがあると考えたからである。

 SSFは真摯な議論の場であり続けた。どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の制度的枠組みの中では限界が大きいのである。すなわち、普通の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶことを基本とするから、現場校も必要だ。

 しかし、議論だけしてても始まらない。それで生まれたのがSSFスクーリング(実験校)である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。職長クラスの参加者を募った。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。ヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であった。

 SSFの実験校は既に移動大学である、というのが僕の見解である。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。SSFが飛躍する大きなきっかけになったのは、KSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いである。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立は大きな関心を集め出すことになった。しかし、「職人大学」設立への運動は今始まったばかりである。専門工事業に限らず、建設産業界全体の取り組みが問われている。問題は、建設業界を支える仕組みなのである。


 

2023年2月19日日曜日

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604

 職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604


雑木林の世界80

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在

 

布野修司

 

 職人大学の設立を目指し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の社会的地位の向上を願うサイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の結成とそのスクーリングなどの活動については本欄でも何回か紹介してきた(雑木林の世界        )。その結成は一九九〇年一一月。もう六年目に入る。ようやく、具体化への道筋が見えかかってきたような気がしてきた。以下にSSFの現在を報告したい。

 「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった。見るともなく見ていた参議院での総括質問のTV中継で「職人大学」という言葉が耳に飛び込んできた。村上正邦議員の質問に、橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。いささか驚いた。今まで興味もなかった急に国会が身近に感じられたのも変な話であるが、橋本首相の国会答弁は、SSFの活動がこの間大きな広がりを見せつつあるひとつの証左である。

 産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。

 簡単に言えば、村上議員の質問は以上のようであった。もちろん、膨大な質問の一部であるが、日本の産業構造、教育問題、社会の編成に関わる問題として「職人大学」というキーワードが出された印象である。考えて見れば誰にも反対できない指摘であろう。「興味をもって勉強させていただきます」というのは当然の答弁であった。

 SSFのこの間の活動は、スクーリングを主体としてきた。佐渡に始まり、宮崎の綾町、柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町と五回を数え、茨城県水戸で六回目を準備中だ。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、SSF理事企業と地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきている。

 大学をつくるということが、如何に大変なのかは、大学にいるからよくわかる。そして、大学で教員をしながら大学をつくろうとすることには矛盾がある。シンポジウムなどでいつも槍玉に挙げられるのであるが、何故、今いる大学でそれができないのか、それこそ大きな問題である。

 言い訳の連続で答えざるを得ないのであるが、国立大がであろうと私立大学であろうと、職人を育てる教育をしていないことは事実である。それを認めた上で、現場を大事にする、机上の勉強ではなく、身体を動かしながら勉強するそんな大学はどうやったらつくれるか、それが素朴な出発点である。

 居直って言えば、偏差値社会の全体が問題であり、職人大学をつくることなど一朝一夕でできるわけはない。少しづつ何かできないかとお手伝いしてきたのである。

 本音を言えば、スクーリングを続けていくこと、それが職人大学そのものへの近道であり、もしかすると職人大学そのものなのだ、という気がないわけではない。

 可能であれば、文部省だとか労働省だとか建設省だとか、既存の制度的枠組みとは異なる、自前の大学をつくりたい、というのがSSFの初心である。できたら、自前の資格をつくり、高給を保証したい、それがSSFの夢である。

  しかし、そうした夢だけでは現実は動かない。また、この問題はひとりSSFだけの問題ではないのである。日本型マイスター制度を実現するとなると、それこそ国会を巻き込んだ議論が必要である。

 この間、水面下では様々な紆余曲折があった。五五年体制崩壊と言われるリストラクチャリングの過程における政界、業界の混乱に翻弄され続けてきたといってもいい。

 SSFの結成当時、バブル全盛で、職人(不足)問題が大きくクローズアップされていた。SSFを支えるサブコン(専門工事業)にも勢いがあった。しかし、バブルが弾けるといささか余裕が無くなってくる。職人問題などどこかへ行きそうである。SSF参加企業のみなさんにはほんとに頭が下がる思いがする。後継者育成を社会的なシステムとして考えるコモンセンスがSSFにはある。

 筆を滑らせれば、「住専問題」などとんでもないことである。紙切れ一枚で、何千億を動かすセンスのいいかげんさには呆れるばかりである。現場でこつこつと物をつくる人々をないがしろにするのは心底許せないことである。

 大手ゼネコンにもこの際言いたいことがある。ゼネコンは一貫してSSFに対して冷たい。ゼネコン汚職の顕在化でゼネコンの体質は厳しく問われたけれど、重層下請構造は揺らがないようにみえる。ゼネコンのトップが数次にわたる下請けの構造に胡座をかいて、職人問題、職人大学問題に眼を瞑ることは許されないことである。末端の職人問題については、それぞれの企業内の問題として関心を向けないゼネコンは身勝手すぎるのではないか。SSFの会議では、しばしばゼネコン批判が飛び出す。

 そうした中で、SSFとKSD(全国中小企業団体連合会)との出会いがあった。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。職人大学も全産業分野をカヴァーすべく、その構想は必然的に拡大することになったのである。

 全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDには全国中小企業八〇万社を組織する大変なパワーを誇る。

 SSFには、マイスター制度や職人大学構想に関する既に五年を超える様々なノウハウの蓄積がある。KSDのお手伝いは充分可能であるし、まず、最初は建設関連の職人大学を設立しようということになった。

 その後、様々な動きを経て、財団設立が認可され、その設立大会(一九九六年四月六日)が行われようとしているのが現在である。もちろん、SSFと財団の前途に予断は許されない。ねばり強い運動が要求されているのはこれまで通りであろう。