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2025年12月7日日曜日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F02 多民族が磨いた東欧の真珠

リヴィウ(リヴォフ)、Lviv、ウクライナ Ukraina 


リヴィウはウクライナ西部の州であり、州都の名もリヴィウである。現在、キエフに次ぐウクライナの中央都市である。

地形的には、北にヴォルイニ丘陵、南にはカルパート山脈に挟まれており、変化ある地形に富んでいる。また、丘陵山地が州の中央を横断しており、これが分水嶺を形成している。この丘陵地の北の平原部には、バルト海へ繋がる西ブーフ川とプリーピャチ・ドニプロー川水系で、南側の平原は黒海へ繋がるドニエステル川水系となっている。リヴィウの気候は、温帯大陸性で年間降水量が700mm-1000mmであり、ウクライナ国内では水資源の豊富な地域となっている。そのため、リヴィウの中部より南には森林ステップが広がっている。

歴史的には、リヴィウ州域はモラヴィア王国滅亡後、12世紀までキエフ大公国の一部であった。その後、キエフ大公国が分裂し、リヴィウの西部はペレムイシュリ公国、東部はズヴェニーホロド公国、北部と中部はヴォロディーミル・ヴォインスキー公国の一部となった。その後、ハーリチ公国領、ハーリチ・ヴォイルニ公国領となる。都市としてのリヴィウはこの時代から重要な交易地として、ハーリチ・ヴォルイニ年代記では1256年に初出する。リヴィウという名前は、クニャージホラー(クニャージの山という意味で現代のヴィソーキイ・ザーモクにあたる)に要塞を建設したハーリチ・ヴォイルニ公国王のダニイロ・ロマーノヴィチ・ハーリツキー公が自身の息子であるレフにちなんで命名されたことが由来する。そのレフ・ダニイロヴィチの治世にリヴィウはハーリチ・ヴォルイニ公国の首都となった。14世紀中ごろから、リヴィウはポーランド王国の支配下に置かれる。1356年にマクデブルク都市法が制定され、ドイツ人商人が多く流れ込んだため、リヴィウの現代の街並みにドイツ的性格が形成される。ここから1434年から1772年にわたって、ポーランド王国のルーシ県の県庁所在地となった。15世紀までは主にドイツ人によって市政や司法が行われていたが、16世紀以降は住民の多くはポーランド化していった。1772年の第一次ポーランド分割によりオーストリア帝国に併合され、帝国の北東部にあたるガリツィア・ロドメリア王国の首都となる。ウクライナのほかの地域はロシア帝国の支配下にあり、ウクライナ語に対する弾圧が強かった。しかし、政治、文化的自由の享受されたオーストリア帝国のハプスブルク治下であったリヴィウはウクライナの民族運動が起こった。そのため、リヴィウではウクライナ語の出版物が活発に行われていた。このような背景をもとに、リヴィウはポーランド、ウクライナ文化の中心地として大きな存在となる。ロシア革命の後、西ウクライナ人民共和国が1918年に誕生し、リヴィウを首都に定めたが短命に終わる。その後、リヴィウは再びポーランド領となる。1939年には独ソ不可侵条約によって、ソヴィエト連邦ウクライナ領に編入されたが、第二次世界大戦中にドイツ軍によってリヴィウは制圧される。ナチス・ドイツ支配下ではポーランド総督府レンベルク県の県庁所在地となるが、第二次世界大戦後にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その後、1991年のソ連崩壊によって、リヴィウは独立したウクライナの都市となる。

このような戦争の続いたリヴィウだが、その歴史地区は奇跡的に戦火を免れた。様々な国の伝統が融合したこの地区は1998年に「リヴィウ歴史地区」として世界文化遺産に登録された。この歴史地区に存在する中世から近世にかけて作られた石造りの美しい街並みはヨーロッパの真珠と呼ばれる。様々なヨーロッパ諸国の文化伝統を残したこの場所はリヴィウの歴史を反映している。現在においてもリヴィウは交通網が発達し、ウクライナと世界を結ぶ国際的な交易ルートの要としてその役割を果たしている。

参考文献

竹内啓一ほか(2016,『世界地名大辞典6 ヨーロッパ・ロシアⅢ』, 朝倉書店

古田陽久+古田真美(2000), 『世界遺産ガイド-北欧・東欧・CIS編』

風早健史(2013, 『全部わかる世界遺産〈上〉ヨーロッパ/アフリカ』, 成美堂出版

伊東孝之ほか(1998, 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』, 山川出版社

臼杵陽(2009)『イスラエル』 岩波書店

笈川博一(2010)『物語 エルサレムの歴史』 中央公論新社







 


2025年12月6日土曜日

ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


 E25  再現都市

ワルシャワWarsaw,マゾフシェ Masovia県,首都、ポーランド共和国 Republic of Poland


 ワルシャワは、第二次世界大戦末期に壊滅的な破壊を受けた都市である。そして、戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現された、実にユニークな都市である。

 1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、ワルシャワはドイツ軍の空襲に晒され、その占領下におかれた。ポーランド政府は、パリ次いでロンドンを拠点として抵抗運動を開始するが、ワルシャワ市内のユダヤ人はワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、国内の絶滅収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所)に送られた。そして、19448月のワルシャワ蜂起は、63日の戦闘の末ドイツ軍によって鎮圧され、多数の市民が殺戮され、市内の建物のほとんど85%が破壊された(図1)。

 その後、ソ連がドイツ軍を排除し、その解体(1989年)まで、ポーランドは衛星国家となるのであるが、ワルシャワ北部の旧市街スタレ・ミアストStare Miastoとその北に隣接する新市街ノウェ・ミアストNowe Miastoは、以前の姿に忠実に再現された。再利用できる建築要素はもともとあった場所に用いられた。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。煉瓦は潰してふるいにかけられ、再生可能なのである。何故、こうした忠実な復元が可能になったかと言えば、18世紀の画家ベルナルド・ベッロットが描いたヴェドゥータ(都市風景画)が残されていたからである(図2)。また、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にワルシャワ工科大学の建築学科の学生が描いた写生画も資料とされた(図3ab)。

 ワルシャワ市民は、廃墟と化した市街地をソヴィエト流の社会主義都市計画による新たな都市に作り替える計画を拒否し、「意図と目的をもって破壊された街並みは意図と目的をもって復興させなければならない」という信念と「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下に復元するのである。

 ワルシャワの起源は9世紀頃に遡り、要塞化した集落が存在したとされるが、その名が史料に現れるのは1285年で、当時のワルシャワは、マゾフシェ公爵領に属する漁業を主とする寒村であったとされる。その後、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入され、16世紀末にジグムントⅢ世がポーランド王宮をクラクフよりワルシャワに移転、1611年にワルシャワは正式にポーランド・リトアニア共和国の首都となる。

 ポーランド・リトアニア共和国(15691795)は1617世紀のヨーロッパ世界において、オスマン帝国に次ぐ広範な領土を支配した国であった。16世紀は、ポーランドの黄金の時代とされる。ヤギェウォ朝(13861572)の王家は、イタリアの諸都市と親しく交流して、後期ルネサンスの影響を大きく受けた。クラクフの街の建築群がイタリアとの関係を示しているが、1543年に地動説を唱えたN.コペルニクスが学んだのもクラクフ大学である。

 しかし、18世紀末に至ってポーランド・リトアニア共和国は消滅することになる。3次にわたって、周辺の強国、ブランデンブルグ・プロイセン、帝政ロシア、ハプスブルグ帝国によって分割されるのである。1795年の第3次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれ、1807年にナポレオンがワルシャワ公国を建てるが、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世がポーランド国王の座につくことになる。

 独立を喪失してから、ワルシャワは繰り返し、ポーランド国家再興運動の中心地となるが、ロシアによって制圧される。ポーランドが独立を回復し、ワルシャワが再び首都となるのは、第一次大戦後のパリ講和会議においてである。しかし、真の独立を達成するのはソ連邦の解体を待たねばならなかったのである。

 ワルシャワは、市内を流れるヴィスワ川の中流域に位置する。標高100mほどの平地で、ヴィスワ川は、北北西に向かって流れ、約350km先の港湾都市グダニスク(ダンツィヒ)でバルト海に注ぐ。ヴィスワ川は大きく時計回りに湾曲してクラクフに至る。

 ヴィスワ川西岸に接するように位置する王宮を中心とする旧市街スタレ・ミアストは1611年のワルシャワ遷都以前に形成された市街地であり、その北に隣接する新市街ノウェ・ミアストは、1611年に市街地となった地区である。また、中心市街地(シルドミェシチェは、18世紀以降、主として共産主義時代に開発された地区である(図4)。

 戦前期からのオフィス街とユダヤ人住宅街(ケッヒラー)の一部がその主要部を占める。第二次世界大戦中に、ナチスがユダヤ人地区にワルシャワ・ゲットーを設置したが、戦争末期に破壊されている。現在は、ワルシャワ中央駅、文化科学宮殿など、近代的な高層ビルが建つ。

 スタレ・ミアスト、ノウェ・ミアスト、クラクフ郊外通り、新世界通りおよびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含むワルシャワ歴史地区は1980年ユネスコの世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された。

 

【参考文献】

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center & NHK


1

2

3ab

4 ワルシャワ1914

Old map of Warsaw (Warszawa) vicinity in Poland by Wagner & Debes, Leipzig

 

 


2025年12月5日金曜日

クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E23 北方ルネサンスの古都

クラクフ Kraków,マウォポルスカ県Województwo małopolskie,ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska

 

 


 ポーランド王国(1038頃~1569)の首都として知られるクラクフの起源は10世紀に遡る。グロッドgrod(城塞)的な城壁で囲われた集落遺構が発掘されたヴィスラ河上流左岸のヴァヴェルの丘が発祥地とされている。11世紀に王宮が移されて首都となると、急速に都市形成が行われた。司教座が置かれ、ヴァーヴェルの丘のサン・ミシェル教会を始め多くの教会が建設されるが、ほとんどが13世紀までの建設であるとされる。

東ヨーロッパの都市の形成は、グロッドと呼ばれる防御壁で囲われる都市核ができる段階、それに教会地区や商人地区が加わる段階、そして、都市法によって市制が整備される段階に分けられるが、クラクフはこの3段階目の典型だとされる。1257年にクラクフは市の権利を授与され、旧市街に残っている中央広場や街並も作られた。中央広場は中世都市の広場としては最大規模のもので(約40,000㎡)、中央にスキェンニツェ(織物会館)、西南脇には旧市庁舎の時計塔、南側には聖ヴォイチェフ協会がある。また、13世紀から15世紀にかけて、ヴァヴェル城を中心として当時の城を取り囲んだレンガや石造りの城壁が建設されている。

モンゴル(タタール)の襲撃によって破壊されるが、14世紀に入るとカジミェシュⅢ世(大王)(13331370)の下でクラクフは最盛期を迎える。ヨーロッパの人口が半減したとされる黒死病(134849)の流行時もポーランドは影響を受けていない。黒死病蔓延の元凶とされたユダヤ人が大量に流入したのもクラクフの繁栄につながる。カジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ、当時ヴィスラ川の中州であった土地自治区として提供した。ユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がってい

 大王は、ヴァヴェル城や街並みを形成する建築物をゴシック様式に改築し、また、ポーランド最古の大学となるヤギェウォ大学(クラクフ大学)を創設している(1364年)。コペルニクスが通うことになるこのヤゲェウォ大学は多くの優れた卒業生を世に送っているが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も入学しており、以来半生をクラクフで送っている。

続くヤゲェウォ王朝(13861586)に、ポーランド王国は全盛期を迎えるが、ジグムントⅠ世(150648)は、イタリア人建築家バルトロメオ・ベレッチを登用して、ヴァヴェル城内の大聖堂に金色のドームを戴くジグムント礼拝堂を建立する。その当時のルネッサンス建築が現在もなお多く残っている。ポーランド王国は、ヴェネツィアと国境を接しており、ルネサンスの文化、芸術は共有されていたと言っていい。ジグムント・ヴァザⅢ世の時代はバロック文化が普及する。

 ヤゲェウォ王朝が断絶すると、王権の弱体化が進み、1609年にジグムント・ヴァザⅢ世は首都をクラクフからワルシャワに遷す。そして、17世紀前半の30年戦争、18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃し、18世紀後半には3度のポーランド分割によってオーストリア領となった。その後、1809年にワルシャワ公国に入り、1815年のウィーン会議に基づいて、様々な自治権を回復していくことになる。そして、クラクフは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たしたとされる。第一次世界大戦後にポーランドが独立を果たすが、第二次世界大戦時にドイツ軍の占領を受けた。ヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが造られた。クラクフの歴史上、ポーランド国内でも多くのユダヤ人がが居住し、ホロコーストを逃れるため、ユダヤ人はアメリカ合衆国やイスラエルなどへ移住した。現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬、ユダヤ人による「シャローム」祭が開催される。

クラクフが世界文化遺産に登録されたのは、制度創設初年度の1978年である。


図1 クラクフ

(http://www.discusmedia.com/maps/polish_city_maps/3606/

 

【参考文献】

ノーウィッチ、ジョン・ジュリアス(2016)『世界の歴史都市』福井正子訳、柊風社(Norwich, John Julius(2009), “Great Cities in History”, Thames & Hudson)。

伊東孝之、井内敏夫、中井和夫『新版 世界各国史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998

瀬原義生(1993)『ドイツ中世都市の起源』未来社

沼野充義『読んで旅する世界の歴史と文化中欧 ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー』新潮社、1996

ポドレツキ・ヤヌシ『クラクフ:バベル城・旧市街・カジミェシ地区:ポドレツキ・ヤヌシの写真100選』Wydawnictowo”Karpaty”-Andrzej Laczynski1995

 

 


2025年12月4日木曜日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E24歴史に翻弄される自由都市

グダンニク Gdańsk, ポメラニア Pomeranian, ポーランド Poland

 

 

 

 

 


グダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)における定住を始めたのはゴート族や古プロイセン人であり、その後、79世紀にスラブ人が定住した。979年にはスラブ人のポーランド公ミェシュコ一世は、モトワヴァ川がヴィスワ川に合流するところに小島の砦と集落を置き、土盛りと木杭による二重の防塁を築いた。西に続く集落は後に「古都市」(スタレ・ミャスト)に発達する。

ポーランドにおけるスラブ人の支配は不安定な状況が続く。しかし、リューベックとヴィスビューの間にあり、さらにはノヴゴロドまで至るバルト海交易の中継地としての地理的条件から、各地の商人が移住してきて、グダニスクは交易都市として生長する。核をなす「主都市」(グウォヴニ・ミャスト)地区は、1224年にリューベック都市法を採用し、自治権を得る。

1226年、ポーランド王は古プロイセン人をキリスト教化すべく、ハンガリー地域にいたドイツ騎士団を呼び寄せた。ドイツ騎士団はグダニスクの約50km東にマルボルク城を建設して拠点とし、布教活動を展開する。1308年にはブランデンブルク辺境伯がドイツ地域から侵攻し、ポーランド王が騎士団に助けを請うたのを契機に、騎士団が強引にポメラニア地方を支配することとなる。グダニスク市民は抵抗したが、成功しない。1343年には騎士団のもとにクルム都市法に転換させられるが、市長と参事会を選ぶ権利を獲得する。1361年にはハンザ同盟に加わる(同盟が解消される1661年まで)。騎士団は商業活動を支援し、経済発展はさせたが、都市の自治は制限した。

スラブ人の築いていた木と土の砦は騎士団によって煉瓦造の強固な城に改造され、その西にオシェク地区のやや複雑な市街が形成された。その際に「古都市」地区にあった初期の市街地は壊される。

「主都市」はバルト海からヴィスワ川を遡ってモトワヴァ川へと入る交易船の港町として、川岸を船着き場とするグリッドプランで計画される。それは、1340年頃にマリア教会堂が今日見られるように大規模に改築されてゆき、歪みを生じる。 東西に走る主軸ドゥーガ(長い)通りの中ほどには市庁舎が建つが、ここから東側が幅広くなり、街路型市場広場のドゥーギ・タルク(長い市場)となる。川辺に出る「緑の門」までの細長い広場には、破風付きの都市建築が密に並んで濃密な都市空間が形づくられた。市域は二重の濠で囲まれ、ドゥーガ通り西端には三連の門を持つ都市門が築かれたが、後に凱旋門が追加され、華麗な歴史的文化財となって残る。中央に聳える「囚人塔」の複合建築は赤い煉瓦壁を見せ、中世、近世の地域伝統の建築装飾をまとう。市街地内の各街路がモトワヴァ河岸に出るところは門屋となっており、そのひとつであるシェロカ(広い)通りの門は繁栄当時の木造機構の巨大なクレーンを残している。

その後、「主都市」を北に延伸するようにして、騎士団は独立した新都市を建設する。ここにはドミニコ会の聖ミコワイ教会堂と修道院、聖ヤン教会堂、聖霊慈善院の宗教施設が林立した。騎士団は後にこれを手放し、両地区は一体化し、一筋の市壁と幅広い濠、モトワヴァ川で囲われる。

やがて市壁と濠の外にも市街地が拡大していく。南の濠の外には、モトワヴァ川沿いに広がる造船用地の後背市街地が形成され、独立した「郊外都市」(スタレ・プシェドミェシチェ)となる。他方、北西にも、古い川筋を取り込んで直交街路網の新市街が建設される。それは「古都市」と名付けられているが、スラブ人の初期市街地があったからである。また、モトワヴァ川の対岸には船着き場に穀物倉庫が並び、「穀物倉の島」(スピフレシェ)地区が生まれるが、市街化は進まない。これら三つの地区も16世紀に入る頃にはそれぞれの市壁を備え、独立した自治を持つ都市群をなした(図1

15世紀にはポーランド王とドイツ騎士団の争いは一進一退し、その狭間にあってこの地域の諸都市が結束して「プロイセン同盟」を組んでポーランド王を支援する。しかし、グダニスクは騎士団による残虐な反撃も受けている。経済力を増していったグダニスク市民は、王に服従し、また抵抗しつつ、三つどもえの争いを通して自治権を拡大していった。

16世紀にはポーランド王との不和から占領され、また17世紀には第二次北方戦争の際にスェーデン軍によって占領されるなど、軍事的な危機が続く。グダニスクには近世型の城塞都市理論が導入され、東側の湿地帯に円弧を描くように稜堡式城塞が築かれ、西側は丘を取り込みつつ、高度の稜堡技術による複雑な城塞が築かれる(図2

18世紀にはポーランド分割、プロイセン王国への編入、19世紀にはナポレオン戦争などと政治環境は激動を続け、20世紀には第一次大戦後、改めて「自由都市」として自立する。1939年、グダニスク港への攻撃で第二次世界大戦が始まる。そして市街地は空襲で壊滅したものの、戦後、歴史的景観が復元された。ドイツ系市民が追われ、抑圧的な社会主義政権が続いた後、1980年のレーニン造船所に始まる「連帯」の運動は社会主義体制の終焉の先駆けとなる。歴史に翻弄されながらも自由都市の精神は今も息づいているようである。

【参考文献】

Otto Kloeppel, "Das Stadtbild von Danzig in den drei Jahrhunderten seiner großen Geschichte", Kafemann, Gdańsk, 1937.




 図1 1520年頃のグダニスク復元図(Kloeppel, 1937 所収)

図2 17世紀グダニスクの西からの眺め(Merian1643年)

 


2025年12月3日水曜日

ヴィリニュス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ヴィリニュス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


D12  独立なき都市

ヴィリニュスVilniusズーキア地方Dzūkija、首都, リトアニアLithuania

ヴィリニュスは、リトアニア東部の中心に位置し、丘陵地に囲まれた都市であり、バルト三国の中で唯一海に面していない首都である。また、ネリス川とヴィリニャ川の合流点の二つの谷間でもあり、ヴィリニュスの名前の由来はヴィリニャ川からきている。

ヴィリニュスは13世紀に当時のリトアニア大公ゲディナミスによって築かれたとされている。このことについては伝説が残っている。ゲディナミスはある日狩猟にでた日に夢を見た。鉄の鎧を纏った狼のような生き物が丘の上で吠えている夢である。このことを異教の神官に訪ねたところ、

「狼の建つ場所は街を意味し、鉄の鎧は何物にも屈しないことを意味する。そして狼の遠吠えのように世界に知られる」

と言われ、ゲディミナスは夢と同じように丘の上に城を築いた。現在、ヴィリニュスがある場所である。ゲディミナス城は現在存在せず、ロシア占領時に破壊されてしまった。現在あるゲディミナス塔は城壁の一部である西の塔を再建したものであり、ここからヴィリニュス旧市街地と新市街地を見ることができる

ユネスコ文化遺産に登録されているヴィリニュス旧市街地はネリス川沿いに位置する。ヨーロッパの中でも旧市街地としては最大となり、バルト三国の各首都と異なり、城壁による明確な境界がほとんど残っていない。特徴としては路地が入り組んでおり、街を構成する建築物は、バロック様式が多いものの、ゴシック様式やルネッサンス様式といった多様な様式が残っている。また、旧市街地を含めヴィリニュスの街中には数多くの教会が存在し、ローマン・カトリック派が主として多数存在する。

この旧市街地への入口の一つには夜明けの門がある。16世紀初めに建設された城門の一つであり、現存する最後の門となる。夜明けの門は始めメディニンカイ門と呼ばれており、二階には奇跡を起こすといわれる聖母マリアの肖像が飾られている。建設された時期にはイタリア文化の影響を受け始めており、夜明けの門はルネッサンスの影響を受けている。

同じようにルネッサンスの影響を受ける建築物は聖ミカエル教会がある。16世紀から17世紀にかけて建造された建物ではあるが1655年コサック(軍事共同体)の襲撃等によって破壊され、幾度も修理、改修されている。また、リトアニア大交宮殿もあたり、15世紀に建設された。現在あるものはロシア帝国によって破壊されたものを再建したものである。

 ゴシック様式では、聖アンナ教会が15世紀末に建設された。33種の赤レンガによる造りは細かい細工が施され美しい。逸話としてナポレオンが「この教会を持ち帰りたい」と言ったという。

 ヴィリニュスで最も多いバロック様式の建築物は、聖ペテロ・パウロ教会、聖三位一体教会、ヴィリニュス大学が残っている。

聖ペテロ・パウロ教会は新市街地にあるが外装に7年、内装に30年かかった美しい教会である。ロシアからの開放記念として17世紀に建設された。聖三位一体教会は東方帰一教会であり宗教的にも珍しい。リトアニア・ポーランド王国時にウクライナへ進攻していた影響である。ヴィリニュス大学は1579年創立のヨーロッパの中でも古い大学である。建物内には四季のフレスコ画が残されている。1795年のポーランド分割時の反ロシア運動の中心となる。

 これまでに書いたようにリトアニアは多様な宗教と建築様式の残る街である。同じように異なる民族の人々も暮らしている。このような街が形成された要因として周辺諸国との関わりが大きい。リトアニアという国が成立してからも幾度も侵攻を受けた。特に関係が深かったのがポーランドとロシアである。ポーランドとは一時期共和国となり、カトリックの信仰やルネッサンス様式が持ち込まれる。15世紀には実質的に、リトアニアはポーランドの支配下となっていた。この共和国は18世紀末には分割されてしまいロシアによる支配を受けるようになる。これによりロシア正教の影響が大きくなる。リトアニアはロシアによって工業化が進み、19世紀には新市街地が誕生し広がっていった。また、ヴィリニュスの都市部には多くのユダヤ人が住んでおり、当時のユダヤ文化の中心となった。その後ポーランドとドイツに占領され街は幾度も破壊されてしまう。1940年リトアニアがソ連に併入されるようになるとリトアニア地方や隣国からさらに多くの人がヴィリニュスの北側に移り住むようになる。

このように隣国との戦争、侵攻、占領など国の存在を脅かされながらも独立したリトアニアは多民族、多宗教、多種の建築様式といった異なるものが混在するヴィリニュスは、街を歩きながら様々な年代を感じる街である。

原 翔『バルト三国歴史紀行Ⅲ リトアニア』彩流社、2007

志摩 園子『物語 バルト三国の歴史』中公新書、2004


 図 各年代の領地の変化

駐日リトアニア共和国大使館https://jp.mfa.lt/jp/jp/8008/8009/8010

 図 ヴィリニュスの街並み TRIP HUNTER

http://the.trip-u.com/16697


2025年12月2日火曜日

キエフ(キーウ):布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

キエフ(キーウ):布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F01 キーウ 東欧最古の都市

キエフKiev , キエフ特別市,ウクライナUkrine


 キエフは、ソビエト連邦解体後独立したウクライナの首都である。都市圏人口は約400万人である。2014年のロシアのクリミア侵攻で、ロシア系住民が支配的なクリミア自治共和国が切り離されたかたちとなり、ロシアとEUとの関係悪化で不安定な状況にある。1986年に原発事故を起こしたチェルノブイリ(プリピャチ市)はキエフの北100km、ベラルーシとの国境に位置する。

ドニエプロ川中流域に位置するキエフの起源は、西ローマ帝国が崩壊した中世初期に遡る。考古学の発掘によって、5世紀から6世紀にかけての集落遺構が発見されており、6世紀のゴート人の記録に「ドニエプロ川の町Danapirstadir」という呼称が見出されるという。ただ、都市形成が開始されるのは、ノルマン人の侵入以降である。『ルーシ年代記(原初年代記)』(1113年)によれば、ノブゴロドを征服した「伝説上の人物」リューリクの死後、一族を率いて南下したオレーグ公によって、「諸都市の母」としてキエフ国が設立(882年)される。

公国は、キエフを拠点に南ロシアに勢力を拡大していくことになる。当初の街は、ドニエプロ川の西岸の小高い段丘の上に位置した。そして庶民は山麓に住むようになる。前者は古キエフと呼ばれ、後者はポジール(下町)と呼ばれる。古キエフは次第に拡大し周囲に防護柵や土塁が設けられた。

オレーグ公は、907年にコンスタンチノープルに遠征し、通商条約を結ぶ。また、ビザンツ帝国領のクリミア半島に侵攻を試みたりする。その後、ウラジーミル大公の受洗(988年)によってキエフ公国はキリスト教化されることになる。12世紀までにキエフには17の修道院が建設されている。

キエフ公国は、しかし、諸公の対立に抗争によって分裂していく。首都もウラジーミル・スーズダリ公国によってクリャジマ河畔に移される。モスクワの文献初出とされるのがキエフ大公国のユーリ・ドルゴルーキー(手長公)が最初の会合を行った(1147年)場所としてあるが、その大公が築いたのがクレムリンである。

そして13世紀前半、モンゴルの侵略を受ける。以降240年の間、キエフを中心とするルーシの大地はモンゴルの支配下に置かれる(タタールのくびき)。モンゴル支配のダメージは大きく、モンゴル後も中心はモスクワ・ロシアに移動し、キエフは数世紀にわたってその重要性をとりもどすことはなかった。

16世紀に入ってポーランド・リトアニア共和国が形成されると、キエフはポーランド王国に加盟した。その後、ドニエプル川の中流に興ったコサックの統治下に入り、やがてキエフはその中心として栄えるが、最終的にはロシア帝国に編入される。

1811年に大水害が発生し、下町ポジールは崩壊したが、建築家V・ゲステによって復興都市計画がなされた(図①②)。このゲステの計画により、ポジールの街区は四角に整理され、不規則な道路配置から規則正しい道路配置へと変化した。

 ロシア革命時(図③)には、ウクライナ人民共和国として独立宣言し、1918年にはドイツ帝国を後ろ盾としてウクライナ国が建設されたが(図③)、ボルシェビキが侵攻に屈する。ソ連時代初期にはウクライナ・ソビエト共和国)の首府は、ロシア人ユダヤ人の多いハルキウに置かれた。第二次世界大戦後は比較的早い時期に復興を果たし、「英雄都市」の称号を贈られている。

東岸には、社会主義時代に建設された集合住宅群があり、郊外には富裕層向けの高級マンションなどの高層建築が建ち並ぶ。ソ連時代に建設された工場地帯は住民増加によりスーパーマーケットなどの商業施設になるなどの多くの施設再編が見られる。

キエフの中世に建造された歴史的建造物は少なからず残されている。中でも代表的なのは聖ソフィヤ大聖堂で、1032年に建造され、11世紀から13世紀半ばまではルーシの大司教座であった。キエフの聖ソフィア大聖堂と関連する修道院群及びキエフ・ペチェールシク大修道院は、1990年に世界文化遺産に登録されている。


Mezentsev, V. I. and L. Heretz, The Emergence of the Podil and the Genesis of the City of Kiev, Problems of Dating Harvard Ukrainian Studies 10 (1/2), 1986.

栗生沢猛夫「ロシア中世都市をめぐる若干の問題点 : キエフ・ルーシにおける都市の発生とその史的展開について」『史学雑誌』88巻 公益財団法人史学会 1979

土肥恒之(207)『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社

1 ポジール地区 Mezentsev, V. I. andL.Heretz, ,1986,pp67



2 ポジール地区の区割り Mezentsev, V. I. andLHeretz, ,1986,pp65

図3 Map of Kief tramキエフ交通局1918 





2025年12月1日月曜日

ボローニャ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ボローニャ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


ボローニャ ヨーロッパ最古の大学都市

 ボローニャは,イタリア共和国北部に位置し,イタリアを代表する4つの都市である,ローマ,フィレンツェ,ヴェネチア,ミラノに囲まれたエミリア=ロマーニャ州を中心とするポー川流域地方の中小都市である。地中海側にある都市,ピアチェンツァからアドリア海側の都市,リミニまでイタリア半島の東西約250kmを結ぶエミリア街道の中央付近に位置する。アペニン山脈やポー川南部の平野や丘に囲まれており,東西南北を結ぶ交通の要を担うことから,農業や工業,文化交流がさかんな都市である。

 現在,ボローニャは主に3つの都市基盤によって成立している。1つはヨーロッパ最古の大学,ボローニャ大学である。人口の4分の1を学生が占めており,それに伴って早くから経済や産業成長の後押し,インフラ整備のきっかけをつくってきた。続いて製造業である。ボローニャは,1970年代の経済低迷期に親会社から独立したスピン・オフ企業が集まり競争しながらも互いを補完し,助け合う「3C(cluster=集積、competition=競争,collaboration=協力)(星野 2006:27 )と呼ばれる産業モデルを構築し経済復興を果たし,成功を収めた。最後に農業である。ボローニャが属するエミリア=ロマーニャ州は,穀物と畜産の主産地であり出荷先は全ヨーロッパをカバーしている。

 ボローニャの起源は,紀元前6世紀にエトルリア人が築いたポー川流域地方の町「フェルシナ」とされている。その後,ローマ帝国時代「ボノーニア」で現在のボローニャ地区最古の市壁(1次市壁)が建設される。(1)

 1088(推定),ローマ法を学ぶ為,学生が組合をつくり教授を招いたことがヨーロッパ最古の大学,ボローニャ大学のはじまりとされている。12世紀以降,様々な学問が芽生え,発展し,国内外を問わず学生や,職人,召使いなど様々な人種や階層の人々が集まると,やがて自治都市「コムーネ」を造り繁栄時代へと突入する。人口が増えてくると新たに城壁が建設され,13世紀までに2度の地区拡大が行われている。(1)

 ボローニャの市壁は,マッジョーレ広場とそれを囲む市庁舎など多くの建物と対の役割を担っているといえる。市壁は軍事的役割を担い,広場や建物は取引・政治・裁判といった経済や政治などのための場所として機能した。この頃に,エミリア街道の東西へ接続する街路も形成され,12~13世紀は歴史地区の骨格が造られた時代といえる。また,現在,街のシンボルとなっている2つの塔(ボローニャの斜塔と呼ばれる),この頃の貴族の名家が自分たちの権力を示すために競って建てたものの一部であり,高い方が「アシネッリの塔」,低い方が「ガリゼンタの塔」と呼ばれている。

 14世紀後半,マッジョーレ広場に市の守護神ペトローニオを祀ったサン・ペトローニオ聖堂が着工されたが現在も未完成である。聖堂内部は広大で,当初の設計通り完成していたらおそらく世界最大規模の教会になっていたとされている。

 19世紀,イタリア統一国に参入し,経済危機からの脱却を図るべく改革計画が行われた。10年の間に,市内の主要道路は馬車4台分までに拡幅され,住居も2層分の増築(例:2階ならば4,3階ならば5)が行われた。その後も,富裕層によるボローニャの歴史的中心街の再建計画により,ボローニャの境界線を広げるべく市壁などを対象として,様々な取り壊しが行われた。また,第二次世界大戦の空爆によって,街は荒廃してしまったが,戦後,市民は再び街を再建するべく協働し,破壊された街並みの修復を行った。

 1969,新市街地の開発による農地縮小や農業衰退への懸念,また,職住近接型住宅の要求が強まり,「歴史的市街地整備計画」に基づく歴史的市街地の再開発が行われた。この計画は,住民参加のもとで,「低成長の中,自分たちはどのような環境で,どのように暮らすべきか」(星野 2006:147)を議論し,日常のコミュニティの営みを守ることがもっとも大切であるとする庶民のための低価格住宅構想である。これ以降,郊外の公営住宅に向けて使われていた資金は,歴史的市街地の老朽化した住宅群の買収や修復,再生に振り分けられた。買収した建物は,既存の外観を維持したまま,内部を鉄筋コンクリート構造に,設備は近代の物に更新された。また,間仕切りの変更や,屋根裏部屋などのスペースを活用し,住宅個数を増やした。

 現在のボローニャは,城壁跡につくられた環状道路に囲まれた旧市街地と,その周りに広がる新市街で構成されている。旧市街の中心にはマッジョーレ広場があり,それに面してポデスタ館(かつて神聖ローマ帝王が任命した行政長官の官邸)やサン・ペトローニオ聖堂が向かい合うよう建っている。以前12箇所あった城門は,地域の規模拡大に際して9箇所まで減少したものの,現在も街の目印として親しまれている。また,長い歴史の中で築かれた建物や道が,「ポルティコ」と呼ばれる街路に面して並ぶ回廊によって結ばれており,ボローニャの特徴的な街並みをつくっている。

住居の構成について,ボローニャのサン・レオナルド地区を事例に紹介する。サン・レオナルド地区ではスキエラ型もしくはそのスキエラ型住居が統合されて造られたリネア型住宅が並んでおり(2) ,ポルティコにより統一的なファサードをつくりだしている。住宅は1階部分を店舗や仕事場として利用し,2階以上には主人一家や従兄弟などが住む。2階への階段はそれぞれ独立して設けられており,1つの住宅の中に複数の住戸が入る。裏側の庭の向かいには別の住宅の庭が面している。もともと街道に沿って線的に発達したスキエラ型住宅は,その構造を残しながらも,都市の規模拡大に伴い,街道沿いのみならず街区全体で面的に発展していくのである。


参考文献

布野修司編『世界住居史』昭和堂,2005年。

星野まりこ『都市を創る市民力――ボローニャの大実験』三推社,講談社,2006年。

三上禮次『都市計画と住民参加――ボローニャの試み』自治体研究社,1991年。



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...