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2024年8月26日月曜日

いい建築と悪い建築,日経アーキテクチャー,19960408

  いい建築と悪い建築

布野修司

 

 いらない建築などはない。あるのはいい建築と悪い建築だけである。

 どんな建築であれ、建てられるからにはいる建築である。たとえ悪い建築であっても、最低、それを建てる設計者や施工者や部品メーカーにとってはなにがしかの利益をもたらすのであるから、いる建築である。

 建てない方がいい、あるいは別の建築を建てた方がいい、というのであれば枚挙に暇がない。というより、ほとんど全ての建築がそうだ。稀に、人里離れたところに、要するに開発に取り残されて建ち続けた建物が傑作ということになる。

 いい建築とは何か。いい悪いは見方による、などとは言わない。そういうと、いるいらないも見方によるということになる。

 いい建築とは壊されない建築である。壊されない建築なんかありうるのか。永久に壊れない建築は物理的にはあり得ないけれど、原理的には方法が3つだけある。ひとつは永遠につくり続ける方法である。永遠に未完であればいい。式年造替による形式保存の方法も入れてもいい。もうひとつは最初から壊れたものをつくればいい。廃墟価値の理論だ。そして、最後はつくらないことである。つくらない建築は壊れることはない。すなわちいらない建築である。

 しかしそれでも建築家であればつくるのであるから、いらない建築はないのである。つくるのであれば、ただひたすらいい建築をつくればいい。いらないと言われてもどうにか使える、壊すと言われてもなんとか再生できるそんな建築が求められる時代が来ていると思う。

2024年8月18日日曜日

建築家のいる風景,そこには依然として富士山が似合うのか,螺旋工房クロニクル001,建築文化,彰国社,197801

 「建築家」の居る風景・・・そこには依然として富士山がよく似合うのか

 

 A ja ja jan

 B 何だそりゃ!? 「今晩は。ビートルズです、ぼくたち」とか、「子の刻参上」とか、てっきり格好良く来ると思ったら。いきなりーーーー?。

 A 富士山見たか? 『ja』(一九七七年一〇ー一一月)見たか? これja

 B 度し難いね。まるで渡辺豊和*[i]の『建築美』創刊号(一九七七・夏)、石山修武*[ii]の「怪談 三義人邂逅・一幕一場」にて石井和絋*[iii]こと「多義」登場の場面じゃないか。一体何事ジャ。ジャー・ジャーって。『アン・アン』『ノンノ』は古いですよ。『モア』だとか『クロワッサン』だとか・・・それにしてもニューファミリー向けの雑誌って全然ふるわないって言うじゃないの。ニューファミリーなんて、何処にも存在しなかったてわけだよ。

 A これは一種のスキャンダルだね。POST-METABOLISMのニューウェイブだってさ。明日の日本建築を担う建築家の総勢三六人。しかも、悪意に充ちた序列、番付つきだよ。

 B 「一寸待て、車は急に止まれない」。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」。富士山とか、ニューウェイブとか。序列・番付とかおよその見当はつくがね。何でそんな目くじらたてんのかね。・・・「ジャーナリズムは、われわれにその日暮らしの旅(ジャーニー)を強いる。夥しい「事件」が毎朝毎晩、律儀に届けられてくるが、それはほとんど、われわれのまわりで何が起こっているのか、という問いを発せさせないためであるかに見える」なんて言ってみたくなるじゃないか。スキャンダルがありうるとしても、その生産また再生産は、ジャーナリズムにとって日常的な自己運動の展開にすぎないはずだ。

 A しらけるな。君はいつもそうして「ゴドーを待ちながら」か。しかし、到来の気配や兆候は、われわれの周辺には漂ってはいないさ。スキャンダルはスキャンダルさ。日常生活に染み込んだ不可能性の意識とないまぜになった「子の刻幻想」。しかし、君らはいつも「子の刻五分過ぎ」・・・いや、三回り半遅れのマラソンマン。

 B 壮大なるピエロだな。君の身振りも判らんでもないがね。まあ、やってくれ。そのスキャンダルというやつ。悪意に充ちた何とかというやつを解説してくれよ。

 A まず、富士山だ。遥か上空に雲があって、そのなかに太ゴチでKENZO TANGE*[iv]、そしてメタボリズム・グループ*[v]が居る。雲上人というわけだ。

 B KAZUO SINOHARA*[vi]なんてのもあるね。雲上人のなかに。

 A どうも、一九三〇年生まれ以降ということで線を引いたらしい。いつか『A+U』で石井和絋+鈴木博之*[vii]の「アンダーフォーティ」(七七年一月号)とかなんとかいうのがあったよな。あれが下敷きになっている。同じコンビだ。この構図を描いたのは。

 B やっぱり「多義」じゃないか。それにしても鈴木博之とは気になるねえ。

 A 一九三〇年で線を引くから、メタボリズムの旗手、黒川紀章*[viii]が入ってくる。海外の知名度から磯崎新*[ix]と左右に並べて、風神、雷神。以下、石山修武、石井和絋、安藤忠雄*[x]0がその後継者。

 B 後継者と書いてあるのかい。

 A 書いてある。続いて、木島安史*[xi]1、相田武文*[xii]2Architext*[xiii]3らの四〇代を分断するわけだ。木島安史なんてのは鈴木博之好みなのかな。以上は四頁プラス論文つきだ。一寸格が落ちて、MONTA MOZUNA*[xiv]4、TOYOO ITO*[xv]5、TOYOKAZU WATANABE、ZO ATELIER*[xvi]6が各三頁。

 B ZOねえ。気になるねえ。

 A 何なら解説しますよ。わりと丁寧に紹介してあるけど、やはりストレインジ・フォルム(奇妙な形)が売られているニュアンスがあるかな。関係ないけど、ピーター・クックが象を絶賛したらしいよ。とにかく以上がベストイレブンで一部。以下二部一六人、各二頁。三部九人、各一頁となっている。一部でも磯崎一〇頁、黒川八頁と微妙に差がつけてあるし、その差異化の意図は透けるように明確だよ。KUROSAWA*[xvii]7が二頁で、SONE*[xviii]8が一頁だ。

 B なるほどね。それが君のいうスキャンダル、悪意に充ちた序列・番付か。随分細かな詮索をしたもんだ。遊びとしては面白いんじゃないの。『建築評論』八号(一九七三年五月)でも幾つか番付つくっているし、鈴木博之は、「<引用と暗喩の建築>の建築家」(『都市住宅』 七七年七月号)で、そうした試みをすすめ、ほのめかしていたじゃないか。そりゃあ、ピンでとめられた側にしてみりゃあーいやピンでとめられなかった奴は余計だろうけれどー頭にくるかもしれないだろうが、こうした番付評価は悪意に充ちてたほうが、いいにきまってる。問題は・・・。

 A こうした構図の提出される場所とコンテクストだろ。この構図は、もとより、そのコンテクストを見据えて、それなりの戦略のなかでしかも世界へ向けて、提出されているはずだ。

 B 富士山は決して赤くはないが、「ぼくと富士山との間にあるいろんなものが、ぼくを中心に大きな円を描きながら回っている」んだね。ところで、最近は風呂屋の壁のペンキ絵にも、富士山は少ないんだよ。君なんか知る由もないだろうがね。

 A そうだ。まず富士山が問題だ。確かに何で、富士山をバックにしなきゃいけないのかね。石井和絋にしても、鈴木博之にしても、俺らよりはるかにインターナショナルな視野で日本の建築文化をみれるはずではないか。そうしたなかで日本の展開を位置づけることは可能なはずだよ。たとえば、イタリアを中心とする最近の動向との絡みでやれなかったのかね。POST-METABOLISMということで、日本の建築家をすべて梱包して輸出する。どうも胡散臭いねえ。何も日本という枠をはめなくても、日本ほど情報が集まるところはないんだから、別の輸出の仕方はいくらでもありそうなもんだ。この輸出入のあり方は、どうしようもなく日本的だよ。だから富士山だ。何もめぼしいところに気をつかって皆拾い上げて、しかも序列をつけて出すことはない。序列にしても、さまざまな視点からのそれが用意されていいんじゃないか。仮に、ニューウェイブなるものが存在するとしてもだ。・・・・と、こうだろ。

 B 「昭和日本」ー「日本天皇制民主帝国クリンアップ机上作戦透視図」(『流動』)なんての知ってる?

 A POST-METABOLISMという問題のたて方は、C.ジェンクスのPOST-MODERN ARCHITECTUREなんてやつより、超えるべきものを具体的に見据えている点で、ひとまずよしとしよう。六〇年代日本建築の支配的イデオロギーとしてのメタボリズムだ。しかし、こうした問題のたて方で、一番ひっかかるのは、まず黒川紀章だろ。メタボリズムのイデオローグではないかもしれないが、少なくとも饒舌なアジテイターではあった彼が、同様POST-METABOLISMの旗手でありうるということは、一体どういうことだ。・・・常識的には、そこに特殊日本的な事情と、メタボリズムなるものと同時にポスト・メタボリズムなるものの薄っぺらさとを読みとるだろうな。受け手としてはね。

 B 母さん、僕のメタボリズム、どうしたでせうね。・・・その時傍で咲いていた車百合の花は、もうとうに枯れちゃったでせうね。・・・今夜あたりは、あの峪間に、静かに雪が降りつもっているでせう。・・・ニュー・ウェイブも遠からず、枯れたり、雪が積もったり、どうしたでせうね、ってことになるんじゃないの。真砂なす数なき砂のその中に染み込んでさ。

 A いや、ニュー・ウェイブなんてのは、明らかにフレーム・アップだよ。POST-METABOLISMは、何も新しい運動でも組織でもイデオロギーでもないさ。命名者たちだってくどいくらいに断っているさ。だから、問題は、フレームの措定と、その方向づけの語り口、その内的必然性じゃないのかね。彼らが、POST-METABOLISMの指標として挙げるのは、テクノロジーの直線的な進歩に対する信仰の拒否、そして、それが決してトータルな拒否にあらず、つかず離れずで用いること・・・よくわからんな・・・そして社会へのアプローチだ・・・ますます、判らんという顔をしているな・・・さらに、形態のもつ意味の重要性についての認識だ・・・これは了解するかな・・・。

 B 僕の韓国の友人ならこういうね。ビビンバ(●ハングル)と一言。日本の建築は、少なくとも雑誌みてる限りにおいてビビンバだっていうのが彼の口癖でね。一匙ごとに味が違うってわけさ。

 A POST-METABOLISM=ビビンバというのは異議ないね。しかし、その序列の尺度はどうなるのか。石井和絋は、エンターテイナーとして認められているらしいから、とりあえずおいて・・・鈴木博之は、その判断に歴史家としてのそれが当然入るはずだろう。彼は少なくとも「同時代における歴史叙述と批評」(『建築雑誌』 七七年九月号 特集「同時代史ー日本近代建築史の問題」)の問題に意識的なはずだ。これを彼の同時代批評の実践とみれば、実に興味深いじゃないか。伊藤ていじが、いつかの『新建築』の「月評」(七七年九月)で彼について実にうまい批評をしてたけど、この人一寸気を使いすぎるね。上にも下にも、右にも左にも。

 B ところで君なら、このビビンバ状況をどう語るのかね・・・

 A 俺なら、まず象だろ、そいで石山、安藤、・・・

 B おいおい、話のレヴェルが違う。組合せを変えて、構図を描きゃいいってもんじゃないだろ。それにみんなベストイレブンじゃないか。

 A あれ!

 B 表層の流れに伴走するのもいいが、道化の役割は荷がかちすぎるんじゃないのかね。君のように、むきになって、別の構図を提出したところで、先行する構図を定着することに力をかすことになるだけさ。活字の物神化というか、写真や言葉のイメージの商品化というか、その物神崇拝によって倒立するなよな。

 A ジャーナリズムは、その日暮らしの旅を強いるか。

 B 私的な会話のエクリチュールがジャーナリズムのそれと位相を異にしえないところに、問題があるね。ミニコミとか、同人誌とかが、自立した回路で成立しにくい状況がね。

 A 自立メディア幻想ね。ミニコミ・マスターベーション論なんて興味あるさ。『建築美』なんてのはそうかもしらんが、『レフォール』(七五年夏)は一寸違うだろ。言語の党派性の問題かな。まてよ、話は終わってないぜ。

 B 『建築雑誌』で、建築ジャーナリズム特集やってるんだよ。近江栄さんらしい企画だよ。向井正也さんなんか「わが国の建築アカデミーの一拠点、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が、主集のテーマとして「建築ジャーナリズム」をとりあげるということは、おそらく、学会の歴史はじまって以来のことではなかろうか」なんて大変なもち上げようだぜ。「アカデミズムの世界には、不似合な突然の異変に、とまどいすらおぼえ」ながらも、「革命的」だなんていってる。

 A まてよ。俺の記憶だと、建築ジャーナリズムが、『建築雑誌』で問題になったことは主集という形ではないにせよ、戦後にもあるぜ。たとえば「建築ジャーナリズムの動きをたどるー関係誌二〇年の歩み」(五六年四月)なんてそうだろ。しかし、それにしても、アカデミズムがジャーナリズムを主題化するという状況はどういうことだろう。奇妙な構図だよ。仮に、両者が理想的に対立するという常識を前提にしてだがね。

 B 建築ジャーナリズムが問われる状況は、ちゃんと歴史的にも押さえておく必要があると思うよ。君なんかとくにね。そこには、幾つかの対立の構図がある。ジャーナリズムとアカデミズム、マスコミとミニコミ、専門誌と大衆紙、建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズム、ものとことば、地方と中央、インターナショナルとナショナル・・・・。特に、現役編集者の弁は、他から求められたとはいえ、自らの職能を問うという、彼らにとって日常的な、それでいて最もシビアな問いだから、それなりにしたたかさはあるよ。

 A だから、俺としてはだな・・・このPOST-METABOLISMを素材にだなー建築文化の今日的状況をだな・・・その閉鎖性と貧困とをだな・・・いわゆる建築家のいる風景にだな・・・富士山がだな。

 B まあ、おいおいやるさ。




2024年8月17日土曜日

「方法としての「戦後建築」・・・80年代の建築が語り出される前に・・・」,螺旋工房クロニクル013,『建築文化』,1979 01

 方法としての「戦後建築」 

 

 「近代建築は人間の建築である。その故にこそ近代建築を可能ならしめるものは人間への限りない愛情を本質とする『在野の精神』に対する深い理解と遑しい自信とでなければならない。

 単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思ふ時の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはゐられない。ならば機能の満足による調和の実現、云ひかへれば人間性の幸福な発展をあくまで追求する近代建築精神一般はーーー単に建築をその対象とするだけにとどまらずーーー家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、更に政治経済の凡ゆる人間形成の基本的原理としての意味をもつと考へられるからである。並に我々の近代建築精神の陶治と大方の愛情と理解とを希って我々の貧しい論抄の刊行を決意し、これを「PLAN」と名づける。」*[i]

 

 戦後五〇年を経て、「戦後」は最終的に死語になりつつある。あるいは、完全に歴史になりつつある。しかし、「戦後」の抱えた問題はこれからも繰り返し問われることになろう。戦後建築の初心を表す言葉が「PLAN」である。「近代」あるいは「PLAN」が輝いていたのが戦後間もなくである。七〇年代末に「戦後」評価をめぐる議論があった。昭和五〇年を経て、戦後も三〇年を超えた段階で、「戦後」を歴史的に総括する時期が訪れたということであろう。以下の文章は、「八〇年代の建築が語り出されるまえに」という副題がつけられていた*[ii]。「戦後」という枠組みは、八〇年代末に至ってその解体が確認されるのであるが、その十年も前から既に議論が展開されていたことは記憶されていい。「方法として」「戦後建築」を問題にする意味は意識され続けていたのである。

 

 

 江藤淳と本多秋五の戦後評価をめぐる論争*[iii]が波紋を広げつつある。焦点はもっぱら、ポツダム宣言における無条件降伏の意味、それを一つのクリティカルな争点とする同時代認識をめぐって、戦後(文学)を一挙に無化してしまおうとする、近年とみに「政策」イデオローグ(「治者」のイデオローグ、国家自立のイデオローグ)としての立場を露わにしてきた江藤淳の役割、身振りである。すかさず、真継伸彦、中上健次等のコメントが出され、やがて、秋山駿*[iv]や岡庭昇*[v]、また、南坊義道*[vi]、さらに大江健三郎*[vii]を巻き込みつつある。

 このいわば《ポツダム宣言論争》とでも呼ぶべき応酬は、いたずらに江藤淳の政治的な役割を浮彫りにし、論争それ自体、本多・江藤が「互いにそれぞれの立場で、物語、小説の定型に手玉に取られている」(中上健次)ものにすぎないと言えるかもしれない。しかし、そこに、戦後そのもの、なしくずにされつつある戦後そのものを根底的に問い直す契機が潜在していることは確かである。

 それは、かつて六〇年代初頭の佐々木基一の「『戦後』は幻影だった」に端を発する「戦後文学」論争*[viii]とは位相を異にしつつあるし、六〇年代末以降の戦後批判を経過することにおいて、また、政治的コンテクストと否応なく絡められることにおいて、今日における切実な課題となりつつあるはずである。いわゆる「意匠としての戦後否定」をそれは超えねばならないのである。

 そうした意味で、岡庭昇が、「体制イデオローグである江藤氏がなにやら「ポツダム体制打破」を呼号し、本多氏が擁護にまわっている皮肉さ」を揶揄し、「この論争が共有している(してしまっている)前提を、つまり場の成立そのものを認めない」としながらも、「ただ、思想的に不毛であれ、場そのものが虚構である指摘をとおして、「戦後の敗退」を積極的な契機に切りかえてゆくための、重要な手がかりを提供しているとおもう」と引きとり、大江健三郎が「批評家よ、戦後文学をその最低の鞍部で越えるな、それは誰の得にもならないだろう」という、かつての本多秋五自身の言葉を冒頭に引きながら、「江藤淳の提出した疑義を契機にして、僕はあらためて戦後文学、戦後文学者について読んだり考えたりすることをした」と、より根底的に「日本文学、戦後文学を決して後退のおこらぬ、後退しえぬ一点にまで、はっきり推し進める契機ともなりえるもの」としての竹内の戦後(文学)批判を引き受けようとすることは、真摯で正統な態度というべきであろう。

 江藤淳の論の展開に含まれる多くの矛盾、そのドラスティックな軌跡(転向)、現在担いつつある政治的役割とその内的、外的必然性については、批判者がこぞって指摘するところでもあるし、多言を要しない。矛盾や転向の指摘は、そうした実証的、論理的批判を超えた「尊王攘夷」的「ナショナリズム」や秩序防衛のイデオロギーのアジテーターの役割をますます明らかにするのである。問題はこの江藤淳の戦後批判をどうとらえ直すかである。そこに示される同時代認識をどうとらえなおすかである。

 一方で、大江健三郎と岡庭昇の江藤批判の差異は興味深いと言わねばならない。岡庭が論争の場そのものを認めないのに対して、大江は明らかにその場を前提としながら、六〇年代末の『万延元年のフットボール』をめぐる江藤との決定的対立、絶交(江藤・大江論争)をひきずりながら、反江藤の立場を展開しようとしていることにおいて、結果として、本多(近代文学派)擁護、戦後文学擁護(もちろん、全面肯定ではありえない)を引き受けようとする。そこには、すなわち、世代の差を含めた「近代文学」(派)の評価にかかわる差異があるのである。また大江が、作家として、文学表現の問題としてとらえようとするのに比して、岡庭は、政治的なコンテクストを含めたより広いコンテクストにおいて「戦後の敗退」をとらえようとしているとも言える。したがって、文学論のレヴェルでは、この論争の場そのものとは別の派絡を提示する中上健次を大江に比すべきと言えるかもしれない。しかし、いずれにせよ、それらは基本的には、僕らの同時代認識をめぐって展開されつつあるのである。

 江藤淳の同時代認識は「戦後文学は仇花」あるいは「戦後文学はそもそも存在しなかった」とまで言い切りながら、存在する唯一の尺度として「昭和文学」という範疇を提出するところですでに明瞭に示されてきた。菅孝行*[ix]や岡庭昇*[x]0が、その「昭和文学」というカテゴリーの提出をめぐって執拗な批判の作業を展開してきているのである。すでに、この新たな論争の種はまかれていたといってよい。まさに、そうした脈絡において、江藤淳は新たな攻撃の対象として本多秋五を選んだにすぎないのである。その同時代認識り差異は、菅孝行の次のような方法意識において鮮明に浮かび上がっていると言えるであろう。

 ●彼(江藤淳)は、戦後(あるいは少なく見積もって戦後文学)において「確立された価値の再検討」を通じて、それを否定し、昭和に「確立された価値」の根拠に回帰することになる。すなわち、ここでは連続面が価値に連なり、非連続性が虚妄とされる。

 これに対して、例えば私が、戦後を問題にする立場は、全く異なっている。江藤が「昭和に確立された価値」を自らの尺度としてとり込んでいるのに対し、それを批判の対象と考えるのである。すなわち、「昭和」の連続性を支える、ひとつの「確立された価値の再検討」をめざしている。したがって戦後過程とは、昭和期前半の二〇年間に「確立された価値」を再検討し、その価値の根拠を解体し、新たな未成の価値の根拠を再形成する過程であることによって、昭和=戦前・戦中の過程に対して非連続であるべきものでありながら、それを貫徹しえなかった過程であるとみなすほかはないのである。

 ●昭和に形成された「価値の再検討」の話題は、昭和の廃絶であるというしかないだろう。当然、昭和史をひとつの連続性たらしめているものは、決して普遍的な価値の根拠たりえないし、決して日本の地域的特殊性を、世界性へ到達せしめ得ないという判断を前提としている。

 ●昭和は、まさに廃絶すべき負の対象として連続している、というべきであろう。断じて、昭和は、戦後を否定して回帰すべき、正の価値の根拠として存在しているのではないのだ。(「文学における〈昭和〉の廃絶」)

 

 岡庭昇も、ほぼその問題意識を共有し、戦後に「近代」を願望する誤謬を正確に指摘しながら、次のように言う。

 ●わたしは、十五年戦争下の時代、つまり戦前の昭和は、明らかに転形期とみなされるべきだと考える。むしろ、日本近代における、最も可能性にとんだ状況だったのではないか。“昭和”とは、ひと言でいえば危機と戦争の時代である。明らかに日本的近代という虚構の支配原理が、危機に直面し、危機をのりこえるために戦争という、よりデフォルメされた形姿をもとめざるをえなかった。言い換えるなら、日常が物語たりえなくなりかけたとき、はるかに物語らしい物語である戦争が用意された。

 ●わたしは、国家は昭和をひとつながりのものとして自立しており、十分にそのことに自覚的である。といった。もしわれわれが、十五年戦争下を転形期としてとらえなおし、よくその思想的な可能性を再評価しなおしつつ、戦後をわれわれの手によって撃つことができなてなら、ついに物語の外に出ることはできない。否「敵」に釣り合うことさえ、できないはずである。(「江藤淳――物語のなかの演技者)

 ●昭和文学などという特殊なカテゴリーは、実は存在しない。日本の近代文学は「昭和」も「戦後」も決定的な転換のメルクマールとはさせないほどに一貫した負性としてある。ただ、あえて昭和文学というカテゴリイをたてるとすれば、「日本近代の文学表現を縦につらぬく「規範」の成熟と衰頽のときという観点においてであり、それはそのまま日本近代というフィクシャスな共同性規範が「露出」した時代という意味で、重要な視座となりうるのである。(「昭和文学の視座」)

 

 こうした、菅や岡庭の方法意識を僕もまた共有する。日本の近代建築をとらえる際に欠かすことのできない視点がそこにあるからである。江藤・本多論争に、建築の現在が引き受けねばならぬ問題への解答の契機も含まれているはずなのである。例えば、川添登が戦前・戦後の連続性を正のものとしてとらえ、近代天皇官僚建築家(吉田鉄郎、丹下健三等)に対して、村野藤吾、堀口捨巳、吉田五十八、白井晟一の再評価を主張し、また戦時体制下における国民建築、国民住居の重要性を強調するのをみれば、問題の偏在は明らかではないか。

 また、「昭和建築」という範疇をつとに提出したのは長谷川尭であった。もちろん、それをネガティブな契機として提出することにおいて、その役割は江藤淳のそれではない。しかし、彼は「大正建築」の再評価、その裏返しとしての「昭和建築」=近代合理主義の建築の否定に急で、「戦後建築」そのものを一挙になしくずしにする役割を担いかけはしなかったか。また、例えば「日本の現代建築」*[xi]1が「戦後建築」をとらえ返そうとするとき、こうした同時代意識をめぐる議論が当然クリティカルに投影されるはずではないのか。

 いま確かに、「戦後」という言葉はひどく色褪せてしまっている。その言葉のうちに含まれていたはずの、それ以前の歴史過程に対する断絶、批判、優位の響きはすでに失われているかのようである。とりわけ、六〇年代末以降の過程において「戦後なるものの幻影の中で太平の夢をむさぼってきた諸制度が根底的に問い直される」なかで、僕らは「戦後」なるものが虚構にほかならないことを嫌というほど思い知らされたのである。今にして思えば、「もはや戦後ではない」という宣言が経済白書によってなされた頃ほど「戦後」が信じられていたときはなかったのである。その頃を起点とする高度成長の終焉、あるいは五五年体制の崩壊といったさまざまな戦後の終焉に立ち会いつつある僕らには、戦後の過程は、ありうべき戦後がなしくずしに無化されていく過程にほかならなかったように見える。そして、そうした眼差しには、むしろ戦前・戦後がのっぺりつながって見えてくるのである。

 僕は、六〇年代の建築に対するささやかな総括を試みながら、その過程に、戦前・戦後を通じて一なる昭和の過程や、さらにそれを含み込む日本の近代の過程をみていた。そこでは、自らの現在を直接的に用意した時代の具体的なコンテクストへのこだわりが先行しており、むしろ問題意識としては、抽象的、一般的に近代批判の問題をたてがちな思考を具体性のなかにつなぎとめようとするもので有ったのであるが、六〇年代の建築のあり様に対する批判は、即、戦後建築批判であり、ひいては近代建築総体に対する批判へつながっていくのである。僕らが担わされている問題はすでに戦前に用意されていたという意識がそこにあった。そうした意識は、すでに一般化されたものといってよいであろう。磯崎新の『建築の一九三〇年代』は、明らかに、そうした意識に貫かれたものである。三〇年代と七〇年代を重ね合わせる意識において、また、三〇年代における「日本的なるもの」をめぐる議論を五〇年代の伝統論の展開へストレートに結びつける視点において、戦前・戦後は一つの過程としてとらえられているのである。

 しかし、こうした歴史意識によって必ずしも僕らに展望が開けるわけではない。それは、あくまで後ろ向きのパースペクティブなのである。もどかしいのは、同じ連続性において終戦の閾をとらえるにしても、ポジティブに捉えるか、ネガティブにとらえるかによって大きく歴史的展望を異にするにもかかわらず、それを明確に区別する指標が定かではない点である。僕らがいま痛切に意識していなければならないのは、六〇年代末以降に一挙に顕在化してきた近代合理主義、科学主義、進歩主義、テクノクラシーに対する批判が、観念のレヴェルではさまざまな反近代の意匠をまとった潮流へ容易に回収されていく構造をもっていたということである。

 戦後的なるものは幻想にすぎなかった。そして、いま僕らはその戦後幻想の解体のはるか彼方にある。しかし、問題はさほど単純ではないのである。確かに、戦後幻想は否定されなければならない。それによって、僕らはすぶずぶの日本の近代を対象化することができる。けれども、戦後幻想の否定によって、ありうべき戦後そのものを否定することは不毛なことではないのか。菅孝行の言うように*[xii]2、戦後幻想が批判された止揚されなくならない理由は、それが、あたかも八・一五以前の歴史過程への非可逆的な総括の所産であることを装いながら、実はすり抜けの虚構であり、戦後性の名において死守されるべきものを解体し、戦前戦中の過程へと順接させるイデオロギー装置にほかならないからである。

 戦後性の名において死守さるべきものとは何か。ありうるべき戦後とは何であったのか。終戦後まもなく、廃墟を前にして幻想されていたものは何であったのであろうか。

 さまざまな反近代の意匠は、反合理のロマンの跋扈を許すことにおいて、戦後批判そのものを無化してしまう。そうしたとき、僕らの批判の原点は宙に舞うのである。ありうべき戦後を、あえて一つ指標としてたてねばならないとすれば、そうした趨勢を見据えるからである。そうでなければ、僕らは日本の近代の重さを暗鬱なる胃の腑の底で反芻するにとどまるだけである。

 建築において、ありうべき戦後が一つの指標としてたつかどうかは知らない。戦後建築に、戦後幻想の解体の彼方においてなおかつこだわらねばならないものがあるかどうかはわからない。しかし、一挙に、より大きな歴史の過程を対象化するまえに、戦後性の名において死守すべきものについて思いをはせておくことは無意味ではないはずである。少なくとも戦後派世代にとって、戦後のもつ意味は計り知れなく大きいはずではなかったか。それは、僕らの想像力が到底届かない衝撃力をもち得ていたのではなかったのであろうか。

 いずれにせよ、僕らは一度は戦後幻想のゼロ地点へ立ち戻ってみなければならないはずなのである。それは決して、心情的な、焼跡や廃墟への追憶やロマン的な回帰ではなく、菅孝行のいう「方法としての戦後」意識、思想の指標としてのありうべき戦後としての理念、抽象をもとにした歴史のレクチュールである。

 もちろん、それは歴史をさまざまに時代区分して、作品や諸表現を文類し直したりする作業とは区別されねばならない。明治一〇〇年とか、昭和五〇年とか、戦後三〇年といった時間のくぎり方それ自体が問題ではないのである。少なくとも、僕にとって「昭和」は現在を批判的にとらえ返すための虚構のフレームでしかない。「ありうべき戦後」も、とりあえずの虚構の指標なのである。それきは単に「戦後」に「昭和」をもち込んだり、「昭和」に対して「大正」を、あるいは「近代」に対して「前近代」を代置することではない。

「現在を批判するのに過去をひき入れ、過去を批判するのに大過去をひき入れる方法は、ただただ過去へむかってユートピアを求めて遡及する倒錯した永遠革命のイメージしか構成することができない」のである。

 やがて、八〇年代の建築についての展望が語り始められるかもしれない。否、ポストモダンやポストメタボリズムにかかわる議論において語り始められていると言うべきであろうか。その際、戦後建築が果たして仇花であったのかどうか確認される必要があろう。戦後建築史も、ようやく(否、すでに)書かれる時期に達したはずである。戦後建築の幻想の解体によって、確かに日本の近代建築の史的展開もよりよく見えてきたのである。そうした史的パースペクティブのなかで、戦後建築は本当に無化されるのであろうか。戦後建築は存在しなかったと言いうるのであろうか。

 いずれにせよ、僕らもまた、こう言うべきであろう。「戦後建築」をその最低の鞍部で越えるな、と。

 



*[i]前川國男、『PLAN』一「刊行のことば」、一九四七.一二.一 

*[ii] 布野修司、「方法としての「戦後建築」」(螺旋工房クロニクル013)、『建築文化』、一九七九年一月号

*[iii] 江藤淳「“戦後歴史”の袋小路の打開」『週刊読書人』七八年五年一日、「文芸時評」『毎日新聞』七八年八月二九日、「戦後文学は仇花」『週刊読書人』七八年八年二九日、「本多秋五氏の『戦後固定論を駮す――今こそ“神話の時代”に引導を渡すべきだ」『朝日ジャーナル』七八年一〇月二〇日、本多秋五「『無条件降伏』の意味」『文芸』七八年九月ほか

*[iv] 読売新聞「文芸時評」

*[v] 「江藤淳――物語のなかの演技者」『現代の眼』七八年一二月 特集=危機のイデオローグ

*[vi] 「戦後文学は徒花か」『第三文明』七八年一二月

*[vii] 「文学は戦後的批判を越えているか」『世界』七八年一二月 特集=文化――状況へ

*[viii] 戦後文学論争

*[ix] 『延命と廃絶 昭和の時間と文学の党派性』

*[x] 『文学と批評的精神』

*[xi] 『新建築』七八年一一月臨時増刊

*[xii] 『戦後思想の現在』

2024年8月16日金曜日

地域主義の行方,中間技術と建築,螺旋工房クロニクル008,建築文化,彰国社,197808

 地域主義の行方――中間技術と建築――

 

 1

  日本には、ひとつの妖怪が跋扈しつつある、という。

  「日本をひとつの妖怪が行く。地域主義という妖怪が、ふるい日本のあらゆる権力は、この化け物を退治しようと、神聖な同盟をむすんだ。保守と革新を問わず、既成の政党、既成の組織、そして既成の思想集団……」と、やがて「各地域に棲む一人一人によって書かれるべき」地域主義宣言を、玉野井芳郎は、ちょうど一五〇年ほど前に草された一つの宣言になぞらえてみせる。「保守も革新も、だれもよくわからない、既成の思想では仲々理解しがたい」、そういう点で〈地域主義〉には、そのあまりにも有名な宣言の冒頭の名文章を想起させるような何かがあるのだという[1]1。

  〈地域主義〉と呼ばれる思想と諸潮流があらゆる権力と緊張関係を生み出しているかどうかは知らない。おそらく、今のところはそうではあるまいと思う。その力が強大となり、妖怪の物語に一つの宣言を対立させるほど、時期が熟しているとは思えないのである。確かに、それはやがて各地域に棲む一人一人によって書かれるべき質のもの、しかも地面の上に書かれるべき質のものであろう。そうした意味で、その動向にはわかりにくさがつきまとう。〈地域〉とは何か、という基本的な問いに対する解答のひろがりをみても実にさまざまである。〈地域主義〉自体は揺れているのである。そのわかりにくさを妖怪と呼べば、呼べるかもしれない。

  しかし、それにもかかわらず、今日、〈地域主義〉と呼びうるような潮流が現れてくる時代的背景については十分了解しうる。すなわち、端的にいって、その諸潮流は、六〇年代的なるもの(高度成長、産業社会の論理、近代化、工業化、都市化等々)に対する批判(ないし反動)を共通のモメントとしているといっていいのである。そうした意味で、その行方は七〇年代を位置づけるうえで、また八〇年代を占ううえで、極めて興味深いといわねばならないであろう。〈地域主義〉とは何か。それはいかなる形態をとって定着するのか。あるいは定着しないのか。

  現在、日本で〈地域主義〉としてくくられようとする諸潮流は、グローバルにも確認することができる。アメリカにおけるオールタナティブ運動やフランスのエコロジー運動あるいは第三世界におけるさまざまな試みに通底する背景をそこにみることは可能なはずである。その運動のスローガンや主張に、多くの共通の方向性、モメントを見いだすことは困難ではないのである[2]2。

 地域の自立(自主管理)、生態系への注視、環境・資源の保護、第一次産業の再生、反生産主義あるいは反成長主義、分権主義、中間技術の使用……。E.F.レュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』[3]3を共通の背景として想起すればよいのかもしれない。もちろん、日本におけるさまざまな運動や〈地域主義〉の潮流と、オールタナティブ運動やエコロジー運動との質的差異や位相のずれは興味深い問題である。おそらく、〈地域主義〉という形での知のレベルの結集が先行するところにも、日本の特殊性をうかがうことができるであろう。それが、日本の近代の問直しにかかわっている以上、日本の近代化のもつ歪みや特殊性を引き受けねばならないことは当然なのである。

  日本の近代化の過程において、地域なり地方が今日のように主題化される時期をいくつか見いだすことができる。こうした歴史の遡行は地域という概念を明確化しえないままには、ラフなものでしかないのであるが、例えば、明治末期の『地方(ぢかた)の研究』の新渡戸稲造をはじめとして、柳田国男、石黒忠篤、小田内通敏らの郷土会創立の頃、さらに、昭和初期の、権藤成卿の「農村自治」論、橘孝三郎の「国民社会的計画経済」論等の農本主義思想が展開される頃がそうである。

 いずれも、農村の疲弊、解体に対する危機意識が広範に顕在化してきた時期といえるであろうか。〈地域主義〉の潮流が、柳田国男のアクチュアリティの再発見の動向と並行し、あるいは、それが農本主義イデオロギーへ行きつく危険を批判されたりするのも、先行するそうした時期の問題の構造との同相性を一面においてもっていることを示しているのである。したがって、七〇年代における〈地域主義〉が、日本の近代の構造のなかで、幾度か繰り返しみられるそうした地方や農村の主題化とどのように位相を異にしうるか――例えば、中央と地方、農村と都市のディコトミーとその対立図式をいかに超えるかも、問われていくことになるはずである。

 

 2

  増田四郎、古島敏雄、河野健二、玉野井芳郎を世話人とする地域主義研究集談会が結成され、最初の大会がもたれたのは、一九七六年一〇月(東京)のことである。その後、京都(七六年一一月)、熊本(七七年三月)、青森(七七年一〇月)と大会が開かれることによって、〈地域主義) という言葉自体は定着しつつある。

  七〇年代に入って、〈地域主義〉という言葉に積極的な意義を与えた一人に杉岡碩夫がいる。彼は、中小企業近代化のもつ矛盾に出くわす過程において、その克服の方向を〈地域主義〉という言葉で表現するのである[4]4。彼によれば〈地域主義〉とは、「中央集権的な行政機能や社会・経済・文化の機能を可能な限り地方分散型に移すことであり、その過程でわたくしたちの生活をより自主性のある自由なものに転換していこうという展望、つまり一種の“文化革命”の主張である」[5]5。

 こうした方向性はある意味で明快であり、おそらく多くの共有するところであろう。七〇年代に入って、地方や地場産業、自然や農業へ、近代化、工業化、都市化によってとり残されたものへ、眼差しが注がれ始めたことは、さまざまの分野に共通にみられるのである。地方史や地域史の試みの提唱や地方学の提唱なども、そうした趨勢を示すものであった。また、各地方自治体による都市計画や地域計画の流れは、六〇年代における段階とは明らかに様相を異にしてきている。「都市―コミュニティ計画の系譜の流れ」[6]6において、奥田道大は、その転換を「総合計画」の段階から「コミュニティ計画」の段階への移行として総括しながら、いくつかの方向性を示している。

 こうした趨勢にあって、〈地域主義〉という形での知のシューレの結成は、ネーション・ワイドのコンセンサスの形成といったレベルでまずそれなりの機能を果たしつつある。そして、細分化された諸科学への批判、専門知への自己批判と結びつくことによって、インター・ディシプリナリーな場の設定という機能を果たしつつある。〈地域〉という概念が、そうした領域の設定と、さまざまな局面からの作業を媒介するのである。おそらく、後者の意義により大きなウェイトを置くことができよう。「こんにちの地域主義の潮流は、もしも、その主張のなかに学者や文化人の自己批判がこめられていないとすれば、単に新たな流行の一つをつけ加えたにとどまる」(河野健二[7]7)はずだからである。すなわち、とりわけ近代経済学批判や科学批判、テクノロジー批判などと結びつけて、〈地域主義〉は位置づけられ、理解されるべきなのである。

 〈地域主義〉にかかわる理論的関心は、多局面にわたっている。『地域主義』の第Ⅰ部「地域主義の課題」では、水、土地、労働力、金融、エネルギー、技術、生産、流通、交通、自治、言語等について問題が整理されているのであるが、地域の自立のためには、地域の生活や生産を支えるあらゆるものが問題となってくるのである。そうしたなかに、槌田敦等の資源物理からのエネルギー論あるいは技術のエントロピー論[8]8、玉野井芳郎の広義の経済学への展望[9]9を含む近代経済学批判の動向、農業の再生をめぐる諸論考など、注目すべき理論的検討をみることができる。エコロジー、中間技術、地場産業、農薬(自然農法、有機農法)、地方自治、自主管理、産直、地域メディアをめぐるテーマが、〈地域主義〉のプロブレマティークを形成しているのである。

  一方、こうした知の結集に対する危惧がないわけではない。むしろ、そうした形のシューレの形成が、本来、問題の根源にあるわからなさを増幅し、訳のわからないわからなさを蔓延させつつあるともいえるのである。〈地域主義〉とは、山本陽三のいうように、「地域主義といった一つの輪があるのではなく、各地にポツポツと、そう名付ければそのようにも思える生活の実践があるといったこと」[10]10であり、五〇年か一〇〇年たって、社会学者や社会史学者が、ある時期のある種の生活の仕方を総括して「地域主義」と名付けるといったもの」、「それを当の実践者が墓の下から、ニヤニヤ笑って見ているといった態のもの」のはずなのである。

 この理論と実践の転倒は、諸外国の運動と決定的に異なる点かもしれないし、それは〈地域主義〉の主唱者たちも十分意識しているところであろう。現在、〈地域主義〉の運動として示されるさまざまな事例や試みは実に多様であり、そのレヴェルも位相も異にする多くのものを含んでいるように思えるのであるが、それは、〈地域主義〉のための諸条件が現実には未熟であることを示しているはずである。〈地域主義〉という妖怪は、その困難性を覆い隠す役割を担う危険ももっているのである。

それに、理論のレベルにおいても、〈地域主義〉には本質的な困難性がつきまとっている、といえる。しかも、それはあらゆる局面で究極的に同一の構造の問題にいきつくといえるだろう。

 清成忠男は、〈地域主義〉において、さまざまな意味において「中間」ないし「媒介」が重視されることを説く[11]11のであるが、それは逆に、そこに共通の問題が存在することを示しているのである。公有でも私有でもなく、共有、巨大技術でも土着技術でもなく、中間技術といった主張がそれである。すなわち、いま問われているのは、「それぞれの〈地域〉が部分であると同時に全体であり、中心でありうるような結合様式」であり、「〈地域〉が諸学のひからびた抽象からよみがえるためには、絶えずこのような逆説に耐えるだけの緊張を保持せねばならない」[12]12のである。

  こうした〈地域〉の概念――部分であると同時に全体でありうるような――は、原広司[13]13がいうような意味で、いまのところ、空間的なイメージを欠いているといわねばならない。〈地域主義〉の行方が気にかかるのは、そうした根源的な意味においてでもある。

 

 3

  建築の分野においても、地域主義あるいはリージョナリズムがこれまで幾度か主題化されてきた。しかし、それは、一般にデザインの問題としてたてられてきたといっていい。戦後まもなくの新風土主義あるいは新日本調、さらに五〇年代初めの伝統論は、世界的視野におけるリージョナリズムの展開と考えられるし、五〇年代末から六〇年代初頭にかけては国内における地方なり地域性がそれなりに話題とされた。また、六〇年代末からのデザイン・サーヴェイの流行は、リージョナリズムの展開とみなすことができる。

  もちろん、民家研究や郷土建築研究、農村建築研究の流れに、建築家の地方や農村への関心を跡づけることは可能であるが(それは、一般的には、計画的ロゴスの史的展開が示すように、農村を近代化し、地方を中央化していくヴェクトルをもったものであったといえるであろう)、今日、言われているような意味で、建築における〈地域主義〉が主題とされてくるのは、七〇年代後半に入ってからといってよい。歴史的環境の保存や住民参加、種々のまちづくり運動の過程において、そうした潮流が現れてきたのである。私たちは、その先駆的な試みを、例えば、象グループの沖縄の仕事に見いだすことができる[14]14。その山原の地域計画と建築活動は、すでにさまざまな場所で紹介され、各方面に強烈なインパクトを与えつつあることはよく知られていよう。

  その計画理念や方法――水系単位の開発、自力建設、「逆格差論」および建築表現へのアプローチに、私たちは多くのことを学ぶことができるはずである。こうしたさまざまの試みを〈地域主義〉としてくくるかどうかは、とりあえず問題ではない。こうした実践に学ぶことのほうが先決であろう。〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、建築が生み出されてくるその一つの方向性を、それは示しているはずである。私たちのさしあたっての関心は、そうした方向性を確認しながら、建築における中間技術のあり方をさぐることであろうか。もちろん、それが自立的に追求されることはありえない。具体的な活動の過程で、創造されねばならないものであることは言うまでもないことである。

 中間技術(                       )は、適正技術(                 )、代替技術(                 )、生態技術(         )、地域技術(               )、ホーリスティック・テクノロジー、ラディカル・テクノロジー、ソフト・テクノロジーといったさまざまな呼び方をされつつあるものであり、それぞれの呼称がその特性を示しているといえるであろう。E.F.シュマッハーのいう中間技術は、大衆による生産、プルードンの「工・農協同体」を想起させるとされる「農・工構造」の創設への方向性のなかで位置づけられており、巨大技術と伝統技術の中間に位置し、両者を媒介するものとして規定されている。

 玉野井芳郎の整理によれば、小規模性(非資本集約性)、生態系への適合、地域共同体に固有な高度の伝承性と個性の三つがその特性である。

 また、清成忠男の紹介する  ジェクイエ        による中間技術の特徴は、①地域の文化的・経済的条件と両立すること、②労働手段やプロセスは地域住民の管理の下で運用されること、③可能な限り地域の資源を利用すること、④他地域から資源や技術を導入する場合には、地域で何らかのコントロールを行うこと、⑤可能な限り地域のエネルギーを利用すること、⑥生態系にとって健全であること、⑦文化的破壊を避けること、⑧結果が妥当でない場合には、地域が修正可能なようフレキシブルな状況を用意しておくこと、⑨研究や政策は、地域住民の福祉や地域の創造性などの極大化を配慮し運営されるべきことである。

  このような方向性をもった中間技術は、いまのところ、風力発電や太陽熱、地熱の利用、汚水の処理、有機農法といった形で具体的にイメージされているにすぎない。G.ボイルとP.ハーバーは、中間技術の具体的テーマを、食物、エネルギー、シェルター、オートノミー、材料、コミュニケーションの六つにわけて整理している[15]15が、シェルターの項で具体的にイメージされているのは、仮設構造物、ヴァナキュラーな架講、土を用いた建造物、自力建設による住宅である。

  いずれにせよ、建築における中間技術の追求は、興味深い局面をきり開いていくことであろう。五〇年代のMID同人によるテクニカル・アプローチとは、逆の方向性をもつのであろうか。ガジルによれば、中間技術の開発には三つのアプローチがある。一つは伝統技術の改良、一つは、近代技術の適応・調整、最後は、直接それ自体の開発である。その開発がどのような過程を経てなされるのか、その開発の主体はどのように形成されるのか、そして、そうしたプロセスと技術の開発はどのような建築的表現を生むのであろうか。

  〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、そうした建築における中間技術がどのように生み出され、根づいていくかは〈地域主義〉の行方に、少なからずかかわっているはずである。

 



[1]1 玉野井芳郎、清成忠男、中村尚司、『地域主義』、「序 地域主義のために」、学陽書房、一九七八年

[2]2 宮川中民、「エコロジー運動の展望と課題」、『展望』、七八年七月号。「世界エコロジー運動の新しい潮流」、『朝日ジャーナル』、七八年六月三〇日号

[3]3 『人間復興の経済』、斉藤志郎訳、佑学社、一九七六年

[4]  杉岡碩夫、『中小企業と地域主義』、日本評論社、一九七四年

[5]  杉岡碩夫、『地域主義のすすめ 住民がつくる地域経済』、東経選書、一九七六年

[6]6 ジュリスト総合特集     『全国まちづくり集覧』、有斐閣、一九七七年

[7]7 前掲『地域主義』

[8]8 槌田敦、『石油と原子力に未来はあるか』、亜紀書房、一九七八年

[9]9 『地域分権の思想』、東経選書、一九七七年。『エコロジーとエコノミー』、みすず書房、一九七八年

[10]10 「「ゲリラ」と地域主義」、『地域開発』、一九七七年六月号、『地域主義を考える』、地域開発センター、一九七七年

[11]11 「地域主義における「中間」の意義」、『地域と経済』、一九七七年

[12]12 前掲註  はしがき

[13]13 「地域とインターフェイス」、『世界』、一九七八年五月号

[14]14 「特集 象グループ・沖縄の仕事」、『建築文化』、一九七七年一一月号

[15]15 ラディカル・テクノロジー


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...