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2024年4月30日火曜日

2003年5月  任期満了?  されど、しばらくは居残り作業! 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌              布野修司

 

2003年5月    

 任期満了?

 されど、しばらくは居残り作業!

 

 

2003年5月1日

授業の一環で京都の南区調査。

共同通信に「1500号記念特集」の記事。井手さんから送っていただく。

 

2003年5月2日

最終(第23回)編集委員会。最後ということでかなりの出席率。大崎、石田の両幹事は泊まりがけの構えである。

メインは、12月号の特集「建築を学ぶ若い人たちへ」(仮題)。

・「初学者に読ませたい本」をアンケートでリストアップする。

・アンケート先は、学会役員(支部長含む)、調査研究委員会委員長および運営委員会クラ スの主査、学会賞受賞者とする。

・アンケートの主旨は、建築を学ぶ学生(初学者)に読んでほしい本を、専門書1冊、一 般書1冊を目安に挙げてもらう。自著と教科書は外すことが原則。

・アンケート依頼状を整えメールで依頼する(事務局)。次回委員会まで結果を用意する。

 という作業を急遽行ったのだがアンケートの集まりが悪い。いささか不満。

・実際の誌面では1分野=1ページとし、36分野を掲載する。各分野ごとに推薦理由2/3 ページ、学生からの読後コメント1/3を掲載する。分野の選択は布野委員長が検討する。・単なるブックガイドにならないよう、専門性をきちんと抑えてもらうようにする。

 という方針であるが埒があかない。そこで、委員それぞれに執筆候補を挙げてもらう。かなりの人数が上がる。

 結局最終決定できず、編集委員長と松山さんが預かるかたちで終結。

 まずは打ち上げ会へ(一次会)。

 続いて、二次会。予定通りの大カラオケ・パーティ。何故か伊藤圭子委員の夫君府中市長も飛び入り参加。

 気がついたら夜が更けていた。

 

2003年5月7日
次期編集委員長、神奈川大学の岩田衛先生に決定との報。

 そして、早速、新会長インタビューの日程調整。

 

2003年5月10日~12

 親父の見舞いのために松江行。たまった庭仕事に汗を流す。のどにプラスチックの器具をとりつけ、声が若干出せるようになる。

 

2003年5月13

 島根県しまね景観小委員会。久々出席。11年目になるとかで見直したいとか。財政問題もある由。

 

 

2003年5月14

理事会。その後懇親会。若干の感慨を挨拶。この日掲載された日経新聞の松山さんの記事を紹介する。

 

2003年5月15

「6月号担当の皆様
 標記について、「NPOが生む建築」がボツになったため3ページの空きが出ました。古谷先生と相談した結果、勝山さんの巻頭原稿を1ページ増、座談会を2ページ増とします。座談会には写真を沢山掲載したいと思いますので、下記のご提供をお願いいたします。」

と小野寺さんからメール。こういうこともあるから、しばらくはまだ大変だ。

 

2003年5月16

 10月号座談会。石田幹事による鼎談メモは以下の通り。

建築雑誌20038月号特集「日常環境の心理と行動 -実験室からフィールドへ」

2003年5月16日(金)1820時,建築会館

鼎談テーマメモ

■ 環境心理研究との関わり

        簡単な自己紹介を兼ねて

■ 環境心理研究の現状

        現状認識

        問題点は何か

■ 日常環境における心理と行動

        複雑で多様な環境要素

        生理,適応,個人差,履歴,文化...(個別性/共通性)

        具体的な研究,建築作品,事例

■ 環境と人間をどのように捉えるか?

        標準値にかわる設計の考え方は可能か?

        人間⇔空間⇔建築

        環境⇔人間のモデル

■ 将来展望と課題

        取り組むべき課題は?

        環境心理の研究と教育

        学会での位置付け,役割

        建築設計,設備設計との関係

 鼎談者が親しすぎたのか、若干不発の印象。手を加えていただくことを依頼。

 

2003年5月19

宇治市景観審議会(広原盛明委員長)。バスで市内を一周。傍聴人の発言許可について若干の議論。

 

2003年5月22

宇治市都市計画マスタープラン検討部会(岡田憲夫部会長)。

この間、編集委員会で議題になっていた投稿文について、掲載を決定することにする。田中淡先生の原稿が届いたので6月号である。経緯は以下の通り。なんらかの議論に繋がればと思う。

 

 本年1月、経済学を専攻する北海学園大学の川端俊一郎教授から、建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6㎝)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。川端氏は、この論文を委員会に投稿してきたのではない。その手紙には「ご笑覧ください」とだけ記してあるのだが、むしろ編集委員会を騒然とさせたのは、同封されてきた以下の2編の論文であった。

 ・「法隆寺移築説への拒絶反応 -日本建築学会論文集の査読委員が不採用とした理由  の検討-」『北海学園大学学園論集』第113号、20029月(以下、論文①と略称)

 ・「南朝尺のモジュール『材と分』による法隆寺の営造」『計量史研究』Vol.24-No.2、 日本計量史学会、200212月(以下、論文②と略称)

 じつは、この問題は若山滋前編集委員長の代にまで遡って本誌と関係している。20012月、奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、法隆寺五重塔心柱の最外層年輪が西暦594年に遡ると発表し、古代史・建築史の専門家に大きな衝撃を与えた。その最外層年輪は樹皮に近いシラタ部分にあたり、常識的にみて、心柱の伐採年代は594年以降数年程度に納まるだろうから、『日本書記』天智天皇九年(670)に記された斑鳩寺全焼の後に法隆寺西院伽藍が再建されたとする定説との時間差があまりにも大きく、法隆寺非再建説に有利なデータが出現したかにみえたからである。しかし、大半の研究者は冷静を装い、「心柱の転用説」や「部材放置説」を示唆するにとどまっていた。さらに多くの部材の年輪データを集成しない限り、実証性の高い解釈を示しえないと判断していたからであろう。

 ところが、建築史学の門外漢である川端氏が、この心柱の年輪年代に着目し、法隆寺は隋朝成立直後に竣工していた「X寺」を移築したものとする独自の推論を展開し始める。氏は同年6月、まず『北海学園大学学園論集』第108号に「法隆寺のものさし-南朝尺の材と分」と題する論文を発表し、その要約論文「法隆寺の木割」を本誌の建築論壇に投稿した。これに対し、当時の編集委員会(若山滋委員長)は「掲載を見送る」という判断を下したため、氏は正式に建築学会に入会し、同年9月、「中国南朝尺のモジュール〈材と分〉による法隆寺の営造」と題する論文を学会論文集に投稿したのだが、査読の結果は「不採用」であった。この結果を受け入れられない川端氏は、ただちに異議申し立てをおこなったが、特別審査小委員会からも異議申し立てを却下された。

 上記論文①は、建築学会論文委員会から「不採用」と判定されたことに対する猛烈な批判であり、論文②は「不採用」と判定された論文が日本計量史学会誌にそのまま採用されたものである。川端氏の主張は論文②に言い尽くされており、その内容は、

 1)心柱の伐採年代からすると、法隆寺は元の法隆寺が焼失するよりも前に、どこか別の  所で造営されており、それが移築されてきた。その「X寺」はおそらく筑紫にあった。

 2)法隆寺の造営尺は北宋の『営造法式』に記す「材分」のモジュールに基づき、しかも  その基準尺は、関野貞が非再建説の拠り所とした高麗尺ではなく、南朝尺である。

という2点に集約できる。今回編集委員会に送付されてきた短文については、2)の「材分」モジュールを法隆寺だけでなく、中国唐代の木造建築にまでひろげて解釈したものである。これら川端氏の持論は、最近、日本経済新聞2003321日の文化欄に「法隆寺のモノサシ」と題して掲載され(図◆)、また同じく320日には北京の清華大学建築学院において講演されており、徐々にその発言範囲を増幅しつつある。

 編集委員会としては、論文委員会で「不採用」と判定された論文について、その判断を蒸し返すつもりはまったくない。基本的に今回送付されてきた「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」を掲載するかどうか、を審議の対象とした。率直に言うと、「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。これらの諸問題が現状でどこまで解明されているのかを把握するため、川端氏の論文を掲載するとともに、このテーマと係わりの深い日本建築史・中国建築史の専門家にコメントを依頼することにした。ご多忙のなか、貴重な論評をご寄稿いただいた鈴木嘉吉先生、田中淡先生、山岸常人先生に深く感謝申し上げたい。                   (編集委員会)

 

 今年の京都CDL一日断面調査の予定が送られてくる。

200367日第回京都断面調査要項

「平安袈裟斬西南行(へいあんけさぎりせいなんこう)」

  


■主旨

 「京都断面調査」とは京都を人体に見立て、「CTスキャン」を行うかのように、京都盆地内において任意に設定された帯状断面を機械的に踏査するものである。京都のもつ歴史的文脈や地域性をあえて考慮せず、あくまで図式的に調査領域を設定することで、「京都」に対して我々が抱いている様々な先入観・固定観念を払拭し、そこから見えるもう一つの京都像を浮上させることが目的である。
 今回は「断面調査」の原点に還り、意味や場所性が濃厚に附随する軸線(「~通」や「~川」など)沿いを歩行するのを破棄し、「古代平安都城の対角線」(以下、「袈裟斬線」)という、おおよそ意味を見出せないような帯状断面を設定した。
 京都をまさに「袈裟掛け」に突破することで、「京都」概念をも「袈裟斬り」しようという野心的調査である。
 「袈裟斬った」刹那、見える新たな京都を是非堪能していただきたい。

■調査エリア

 古代平安都城の東北角(現御所)と、西南角(現西京極)を結んで得られる「袈裟斬線」沿い。ちなみに袈裟斬る行政区は、上京区、中京区、下京区、右京区、南区の5つにも渡る。
 
 

■調査日時と調査スケジュール

2003年6月7日(土曜日)

 ※雨天の場合は翌日の8日に、8日も雨天の場合は15日に延期される。

 □調査スケジュール

 10:00 御所内饗宴場広場 集合

 10:30 調査開始

        調査 (昼食は各自でとって下さい

 17:00 桂川沿い堤外児童公園 集合

 17:30 懇親会(桂川河原(桂大橋そば))

 19:30 解散

 

2003年5月23

59回アジア都市建築研究会。講師:重富淳一(大阪大学大学院)。
「ムンバイにおける密集地改善手法としての沿道整備に関する報告 植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」 ムンバイにおいて行われた既成市街地の過密化にたいする改善事業、PMロードとプリンセスストリートにおいて行われた改善事業を題材に、都市の形成・過密化から再構造化・改善の過程について報告し、現地の現状について報告する。
 ムンバイは旧大英帝国の植民港湾都市である。旧大英帝国の植民港湾都市においては、その歴史的経緯から人口増加による密集市街地の問題を抱える都市は多い。ムンバイでは、それらの植民都市のなかでも早くから過密化の問題に直面し、改善策が講じられてきた。他の植民港湾都市に先駆けて1896年にムンバイ改善トラストが作られたことや、1910年にボンベイ都市計画法が施行されるなど、当時としては先進的な取り組みがなされてきたのである。この事はムンバイが他の旧植民都市よりも過密化の問題に関して(実験的な)経験を蓄積していることを意味する。 PMロードとプリセスストリート沿道において行われた密集市街地の改善策は、19世紀末から20世紀初頭に執り行われスラムクリアランス的な手法が用いられている。このスラムクリアランス的な手法については、開発時のコスト面及びインパクトについてはゲデスによって批判がなされている。しかし、その改善策に伴う長期的な空間構成の変遷といった観点からの考察はなされていない。それらの事業が行われてから70年から100年経ち、今改めて考察しようとするものである。

2003年5月26

 毎年行っている留学生向けの授業「日本の都市と建築」。どんどん質問が飛んできて、楽しい。

 ライデン大学のアジア研究所に出した掲載原稿が送られてくる。英語のチェックを受けたものだという。

Tokyo: The Declining Capital

From its origins as a small castle town until the end of the Edo era, Tokyo’s urbanization followed an orthogenetic process. In the mid-seventeenth century Tokyo’s population numbered one million, in a league with London and Paris. By the eve of the Meiji Restoration in 1868 Tokyo resembled a huge urban village. Twice destroyed in the twentieth century – by earthquake in 1923 and aerial bombardment in 1945 – Tokyo emerged as a speculator and builders’ paradise, a true global city, in the 1980s. Today Tokyo proper counts over 12 million inhabitants while one-fourth of the Japanese population lives in the greater metropolitan area. The mega-city, warns the author, is awaiting another catastrophe.

 

By Shuji Funo

 

The politically powerful construction industry was one of the motors of rapid post-war economic growth. Relying heavily on the ‘scrap and build’ method, concrete and steel transformed the Japanese landscape. In the late 1960s, construction accounted for over 20 per cent of GDP. High growth gave way to a period of stable but lower growth in the wake of the 1973 energy crisis; heavy industries lost ground to light industries based on advanced science and technology. The focus of urban development shifted from outward expansion to the full development of already urbanized areas. Money generated by the speculative bubble of the 1980s transformed Tokyo into a global city, wired to the dynamic movements of the world capitalist economy.

 

The postmodern city: Tokyo at its zenith

The urban issues Tokyo faced in the mid-1980s were quite different from those it had faced in the past. The city had reached its limits for horizontal expansion. The ‘Tokyo Problem’ and ‘Tokyo Reform’ became pressing issues for debate: scholars and critics discussed the negative effects of Tokyo’s political, economic and cultural dominance, as well as possibilities for relocating the Japanese capital.

In the 1980s Tokyo’s status as one of the world’s financial centres attracted an unprecedented influx of foreign businessmen and workers. The resulting demand for centrally located office space and 24-hour facilities sparked a speculative building rush that dramatically transformed the cityscape. Western architects with postmodern designs were invited to give Tokyo a fashionable facelift, befitting its status as a global city.

Further urban development necessitated the search for new frontiers. The first frontier was unused public land in the city centre. Downtown properties were snapped up by investors, while large real-estate companies launched re-development projects. Many of these destroyed the fabric of existing downtown communities. The second frontier was the sky: Tokyo still had more space in the air than New York. The Manhattan Project, revived after a long hiatus, is currently renewing the central business district around Tokyo Station. The third frontier was under the ground, the so-called geo front. A project to create an underground city of 500,000 inhabitants was seriously proposed. The fourth and final frontier was the Tokyo waterfront, hitherto the home to dockyards and factories. Under the title ‘Urban frontier’, the World City Exposition Tokyo ‘96’ directed expansion towards Tokyo Bay.

New technologies, production systems, and building materials shaped Tokyo’s urban transformation. Since the 1960s air-sealing aluminium sashes have been de rigueur, meaning that all dwelling units are now air-conditioned. So-called intelligent office buildings came into fashion in the 1980s. Domed, climate-controlled stadiums allow football games to be played in the midst of storms. The daily lives of Tokyo’s citizens have become completely divorced from nature; most space in Tokyo is artificially controlled by computer. Electronic conglomerates enjoying symbiotic relations with government are prominent players in this development process. So are the large construction companies, still wielding considerable political power. Tokyo is a temporary metropolis that is constantly changing: in this repeated process of scrap and build, the city is losing its historical memory.

 

‘The 2003 Problem’

Nobody controls a global city like Tokyo; nobody knows who is behind the constant change. Something invisible, which we might call the World Capitalist System, guides the transformation of the Japanese capital.

With the glory days of the bubble economy long gone and Tokyo suffering from economic stagnation and post-bubble debt, a curious phenomenon can be observed. Along the Tokyo waterfront many new office buildings and flats are under construction. The number of high-rise flats newly built in 2002 is said to be unprecedented. Now as before, this construction is driven by the speculative activities of real estate agents and investors. While rumour of ‘The 2003 Problem’ is spreading – companies will move to the waterfront leaving old inner city office buildings unoccupied – predictable oversupply is the result of individual realtors and developers pursuing their own short-term interests, even as they know they will later suffer.

The central government has tried to influence the fluctuating annual number of dwelling units built by reforming tax incentives. The current slogans of the central government are ‘Restructuring’ and ‘Urban rebirth’. What is actually happening, however, is the hollowing out of the inner city. Ishihara Shintaro, governor of Tokyo Metropolitan Municipality, has declared sixteen policy goals, the first of which is to ‘Create an urban city that facilitates a balance of jobs and residences’. It consists of two strategies: ‘Promotion of inner city residence’ and ‘Fundamental reform of the Metropolitan housing system’. The former includes bringing workplaces and residential areas together in the suburban Tama area. The results have thus far been disappointing: the only change for most people has been their place of work. The remaining hope is that old inner city office buildings will be converted into homes.

The central government has established a special board called ‘Urban rebirth’ and has opted to deregulate building codes and urban planning laws to stimulate building activity. Local governments can now rezone areas and make decisions on the restructuring of districts. Most local governments, however, are suffering from financial pressures and lack funds to realize new projects. And while policymakers believe promoting building activity through deregulation is the only way to economic recovery, the idea seems far-fetched.

Tokyo has its natural limits; the city cannot grow indefinitely. Obviously, the city needs powerful leadership and the participation of citizens to implement new ideas. Unfortunately, while formal procedures for citizen involvement have been proposed, they do not function effectively: people seem reluctant to participate when their private circumstances are not affected. Without citizen input, ‘The 2003 Problem’ seems here to stay. Though blackouts and drought already threaten the metropolitan area each summer, the current system of the production and consumption of spaces, however, is controlled by the profit motive, not social or ecological responsibility. Tokyo, on its current course, is awaiting catastrophe.

 

Dr Shuji Funo is professor at Kyoto University and a specialist in the field of Asian design and urban planning. The Architectural Institute of Japan (AIJ) awarded him for his PhD dissertation ‘Transitional Process of Kampungs and Evaluation of Kampung Improvement Program in Indonesia’ (1991). He recently designed Surabaya Eco-House, an experimental housing project, and is now conducting research on Dutch colonial cities.

 

2003年5月30

 京都造形大の授業。吉武先生葬儀。お花を送る。ご冥福を祈る、合掌。

2003年5月31

 任期満了。

 つたない編集長日誌、ご愛読多謝。

 岐阜県加子母村の村役場での木匠塾の打ち合わせに一泊の予定で行く。中津川で藤澤好一先生、安藤先生、藤澤彰先生と待ち合わせ。

2024年1月5日金曜日

ポスト・モダニズム建築批判の不遜,KB Freeway,『建築文化』,彰国社,198312

 ポスト・モダニズム批判の不遜

 

  七〇年代の近代建築批判の多様な試みの一切を無化しようとする、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化があって、この一年もまた建築ジャーナリズムは、「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論を軸として展開してきたように見える。しかし、それが極めて皮相なレヴェルから一向に深化されようとしないのも相変わらずである。見るところ、深化されるべき議論の種は随所にあるけれど、単に言葉だけ、それも手垢にまみれた言葉だけにおいて議論が空回りしているところに建築ジャーナリズムのより一層の衰弱がある。そして、その衰弱の大きな原因は、むしろ「ポスト・モダニズム」批判を展開する側の批判の水準にまずあると言い切っておこう。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論として、とりあえず管見する範囲でいくつか挙げてみよう。まず、松葉一清の『近代主義を超えてー現代建築の動向』*[i]がある。いささか大仰なタイトルではあるが、そのものずばり、建築におけるポスト・モダニズムとモダニズムの相克をとらえながら、建築デザインの現況をジャーナリストの眼でバランスよく浮き彫りにしている。表現の幅を拡大することを基調に、双方を相対化し、それぞれへの批判、ことに、モダニズムの側のポスト・モダニズム的表現の曖昧な取り入れへの批判を含んでいるのが大きな特徴である。一般ジャーナリズムといえば、ニュー・ジャーナリズムの旗手、トム・ウルフによる『バウハウスからマイホームまで』*[ii]が邦訳化された。徹底した近代建築批判の書であり、また「ポスト・モダニズム」建築批判の書でもある。建築家による住宅(近代住宅)に対して「われらの家」(アワー・ハウス)を対置するトム・ウルフの議論の平面は、「ポスト・モダニズム」議論がどうしようもなく建築家集団あるいは建築ジャーナリズムのパラダイム(方言)の内に閉じている日本においては考慮されるべきであろう。

  「ポスト・モダニズム」という概念(というより標語)をめぐっては、それをどう規定するかの問題は依然として残っている。それを批判する側がむしろ意図的に、個々の差異を認めない曖昧な全体概念として用いているからである。しかし、一方、「ポスト・モダニズム」の概念規定の問題は、近代建築そのものについてのとらえ直しを要求する。「近代建築をどう理解するか」*[iii]といった議論がそうである。欧米においては、近代建築の歴史をとらえ直す著作の出版が相次いでいる。日本においても同様の作業は続けられているといわねばならないが、必ずしもその成果は上がっていない。それ自体、日本の近代建築の歴史が薄っぺらである一つの証左であるともいえようが、ここでも一つの問題は、建築におけるモダニズムの立場を再確認する立場からの作業が希薄であることである。近代建築の精神なり理念を疑うことなく前提とし、歴史や現実の厚みを内に省みることなく、感覚的な「ポスト・モダニズム」への反発のみが現れていることである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論と密接にかかわりながら展開されようとしたのが、いわゆる「健康建築論争」である。建築における「健康」という概念をめぐるこの論争は、「ポスト・モダニズム」建築=「不健康」という極めて単純で素朴な決めつけを出発とするものであったが、上空飛翔的な議論に陥りがちな「ポスト・モダニズム」論議を建築家の日常における問題へ引きおろす契機をもつものであったといっていい。事実、論争の軸となった内井昭蔵*[iv]と石山修武*[v]の間の論争にとどまらず、伊東豊雄*[vi]、宮脇檀*[vii]、本多昭一*[viii]、小玉祐一郎*[ix]等を含んだ論争へと広がりを見せようとした。ここで議論の広がりを確認する余裕はないのであるが、基本にあるのは、「健康」という概念が近代建築の精神や理念と密接不可分であり、一方がその概念とそれを支える社会のあり方、ひいては近代建築と建築家そのもののあり方を根底的に問おうとするのに対して、一方は「健康」という概念なり、「健康」な建築をつくる建築家の理念をアプリオリに前提とし、それと現実との落差を問おうとするという構図である。後者の立場は、いうまでもなくオーソドックスな近代建築家のそれであり、そのある種の啓蒙主義なり素朴な市民社会への信頼が疑われようとしない限り、あるいは歴史的な評価を限界を含めて行おうとしない限り、議論はすれ違うことになる。前者の立場にとっては、近代建築家のスタイルについてはすでにあまりにも懐疑的であり、内省のない理念や精神の再確認のみであるとすればアナクロでしかないのである。また、無批判な現実肯定を招くとしか思えないのも確かである。

  内井昭蔵がその「健康建築論」を補足しながら、必ずしもその論が安易な現実肯定ではなく、産業社会のパラダイムそのものの批判をこそ課題とすることを明らかにするとき*[x]0、議論は一つのベースを与えられたといるかもしれない。しかし、CADやTQC、あるいは管理社会の画一化に対置するのが、「健康」であり「個性」であり「イマジネーション」のみであるとすれば、あまりに無防備であり無力であるといるであろう。それはすでにいわれ続けてきたことであり、そのレヴェルにとどまる限り、その限界はすでに明らかであるからである。

  個々の作品をめぐっては、それぞれに議論することがあろう。そこでも「ポスト・モダニズム」論議が大きな影を落としている。例えば、磯崎新の「つくばセンタービル」をはじめとする一連の活動の位置づけは、一つの焦点であり続けているといってよい*[xi]1。建築を自閉的な形態や装飾の遊戯へ追い込み、社会や都市とのコンテクストを見失っているという批判が「ポスト・モダニズム」建築に向けられている以上、都市や社会のかかわりにおいて「ポスト・モダニズム」をどうとらえ直すことができるかは大きな問題であろう。ここでむしろ出発点は、近代都市なり都市計画への批判であり、可能性は「ポスト・モダニズム」の側が握っているといってもいいはずである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる問いを、建築における産業社会パラダイム批判の問題としてとらえるならば、さまざまな問題がさまざまな形で指摘されつつある。しかし、そうしたさまざまな問題を掘り下げる視点をほとんど暴力的に根こそぎにしてしまいかねないのが、丹下・篠原対談「ポスト・モダニズムに出口はあるか」*[xii]2に見られる「ポスト・モダニズム」への皮相な理解である。

  丹下健三*[xiii]3は、ときどき来る若い人によくいうのだという。「あなた、あんまりポスト・モダニズムにコミットしすぎちゃいけませんよ。入口は狭いので一回入ったら出てこれませんよ。かと言ってポスト・モダニズムの行く先には何もないんだ、入ってみたら何もないんだ、だけども出てこれませんよ」と。「フィリップ・ジョンソン*[xiv]4みたいに、ときどき冗談みたいにやっては、片一方ではちゃんと普通のものをやっていく、そのようにレッテルを貼られないようなやり方でやらないと行き詰まってしまうかも知れませんよ」という話もよくするのだという。若い人によく話して聞かせるという、このささやきに似た恫喝は一体何を意味するのか。「入ってしまうと出られなくなる」というのは、どういうことなのか。入ってみもしないのに入ってみたら何もないことがどうしてわかるのかと半畳の一つも入れてみたくもなるのであるが、冗談ではできて、一方でちゃんと普通の仕事をしていればよいというのはどういうことか。冗談ならコミットは、出たり入ったりは自由であるようなものの言い方ではないか。篠原一男も口調を合わせるようにいう。「ポスト・モダニズム」は幕間劇としてあってもいい、僕は参加しませんけど、と。一体、ポスト・モダニズムは、参加したり、しなかったり自由自在なものなのか。

  ここで、とても手軽に語られる「ポスト・モダニズム」とは一体何なのか。また、それと区別される普通の仕事とは何か。「ポスト・モダニズム」の作品にもよいものがあるとか、それは何ですか、などということになると、出口がないとか、行く先には何もないとかいうのがどういう意味なのかさっぱりわからなくなる。所詮、こうしたレヴェルで「ポスト・モダニズム」論議がなされるとすれば馬鹿みたいなものである。あるのは、建築ジャーナリズム内的政治だけである。

  もちろん、「ポスト・モダニズム」をさかなにした対談の言葉尻をとらえてもはじまらないことである。丹下健三のいわんとするところは、その対談を通じて浮かび上がっているはずである。要するに、もう少し現実を見よということである。産業社会、情報社会の代弁者であり表現者であることに、建築家の使命が一貫してあるという主張である。日本の近代建築を主導してきた丹下健三らしい状況認識であり、一貫する立場を表明するものといるかもしれない。しかし、問題はその先にある。そもそも、この間の「ポスト・モダニズム建築」をめぐる議論は、産業社会をどうとらえるかにかかわっており、その現実をどう評価するかがそもそもの出発点といっていいからである。七〇年代半ばから多様に展開されようとしてきた近代建築批判の試みが、一般には、単にスタイルやデザインの問題として展開されてきたことは否めないことである。それにはそれなりの理由があったといっていい。近代建築のテクノクラシー支配に対して、その批判のために、現実の問題を提起することが一つの突破口になりうると一瞬信じられたことも事実である。しかし、それはやはり近代建築批判の矮小化でしかなかったといわねばならない。やがて、近代建築批判の多様な模索が「ポスト・モダニズム」という不用意な概念において一括されるに至ったのも、十分な理由のあることである。「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化の背後には、その近代建築批判の水準そのものが露呈していると見ることができるであろう。

  しかし、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判は、必ずしもそうした脈絡にあるわけではない。近代建築批判を前提としたうえで展開されようとしているわけではない。「ポスト・モダニズム」建築は「不毛」であり「徒花」であり、「不健康」であり、要するに「袋小路」で「出口」のないものであることが、ほとんど一方的に宣言されているだけである。

  そこで対置されているのは何か。端的にいって、産業社会の現実であり、テクノクラシーの体制であり、実務の論理である。そして、それらと密接に結びついたモダニズムそのものの理念や規範である。そこにあるのは批判でも何でもない。「ポスト・モダニズム」がそもそも出発点とした問いそのものを、無化しようとする露骨な意図があるだけである。近代建築の抱えてきた問題を根底的にとらえ直そうとするものにとって、その反批判の水準は極めて政治的であり、犯罪的とすらいるはずである。問いそのものを認めないファッショ的行為といっていいはずである。

  「ポスト・モダニズム建築」に出口がないとすれば、産業社会に変わりうる世界を見い出しえていないからであって、それ以外の理由があるわけではない(情報社会の表現ということであれば、丹下健三がそれを模索しようがしまいが、ポスト・モダニズム建築がすでにその時代の表現たりえようとしているといっていいはずである)。産業社会のリアリティにしがみつき、それを正当化することは自由である。しかし、そのリアリティによって、産業社会のパラダイム・シフトを目指す試みを批判することは全く的はずれといわねばなるまい。産業社会の危機を認識しないものにとって、そもそも「ポストモダン」も「ポスト・モダニズム」もないはずなのである。

  そもそも、丹下をはじめとする建築エスタブリッシュメントたちの「ポスト・モダニズム」批判を支える現実は、丹下が全く認めようとしない第三世界の現実、スクォッター・スラムの世界の評価において極めて明快なものといるであろう。丹下にとって、近代建築の世界制覇、全地球の産業化の道しか眼中にはない。グローバルに見て、どちらにリアリティがあるのか。「東南アジアに仕事が多くなってきているという状態」で、「多少は気をつけますけれどもあんまり考えなくて、日本に建てるものもどこの国に建てるものも気候条件以外はあんまり区別がないんですよ」と言い切るその態度こそが、問題ではないのか。それこそ出口がないのは、産業社会そのもののほうではないのか。丹下健三は一方で、ローテクの活躍する余地を認めようとする。社会的な貢献はするけど、芸術的な貢献はそんなにしないという留保つきで。内井昭蔵は、産業社会批判を話題としながら、I・イリイチを引き合いに出す。I・イリイチのいうように、「インダストリアル社会のパラダイムを根底から否定し、ヴァナキュラーな社会への逆光(?)をなしとげなければ本物の健康の回復にはならないのかもしれない」と。しかし、すぐさまいう。それは極端な危険思想であり、革命的すぎると。こうした言い方で、彼らエスタブリッシュメントたちが守ろうとするものは何か。「ポスト・モダニズム」をめぐる議論は、こうして、不毛な、建築をめぐるどうしようもない問いへ堂々めぐりをはじめつつあるといはしないか。彼らがいかに「大文字の建築」(磯崎)に固執しようと勝手である。しかし、「大文字の建築」を前提とした「ポスト・モダニズム」批判に何の根拠もないことは、はじめからわかりきったことではないか。「ポスト・モダニズム」批判こそ袋小路といるであろう。

  「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題をさまざまな角度から明らかにする」ことをうたう『群居』という小さなメディアを創刊して、早いものでもう一年になる。故小野二郎*[xv]5の「住み手の要求の自己解体をこそーー住宅の街路化への提案」を巻頭文とした創刊準備号を昨年の暮れに出してその構想の一端を明らかにし、四月に、「商品としての住居」を特集テーマとする創刊号によって華々しくデビュー(!?)を飾って以来、七月*[xvi]6、一〇月*[xvii]7と当初どおり刊行してくることができた。所詮、三刊本の世評もものかは、来年度四冊のプログラムもほぼ固まり、現在は「建築家と住宅」を特集テーマとする第四号*[xviii]8の編集作業に追われつつある。ささやかな経験ではあるけど、その作業は、皮相な「ポスト・モダニズム」論議とは無縁である。出口があろうとなかろうと、産業社会の根底的批判こそが大きなテーマである。『群居』に限らず、このところ僕の知っている範囲では、いくつかの小さな雑誌を刊行しようという試みを見ることができる。『R』*[xix]9、『同時代建築通信』*[xx]0、『TASS通信』*[xxi]1、『極』*[xxii]2などがそうである。『同時代建築通信』については、僕自身、同時代建築研究会の一員としてかかわっており、現在三号まで発行されている。こうした試みは、あるいは限られたものでしかないのかもしれない。たまたま、そうした試みが僕の周辺に見られるだけなのかもしれない。一概に、一般化はできないにせよ、こうした試みの背後には『群居』もまたそうであるように、一つは、「ポスト・モダニズム」をめぐって空転する建築ジャーナリズムへの不満があることは事実である。

  しかし、今さら、建築ジャーナリズム論でも、メディア論でもあるまい。言葉を研ぎすましながら、持続的な作業を続けていくしかないことである。出口がないのはどこでも同じであろう。一方にのみ出口がないと言い放つ傲慢さこそ、不遜の極みである。

 



*[i]  鹿島出版会

*[ii]  諸岡敏行訳、晶文社

*[iii]  『新建築』、八三〇一、八三〇五

*[iv]  『新建築』八〇〇九ほか

*[v]  『都市住宅』八二一〇ほか

*[vi]  『新建築』八三〇二

*[vii]  『新建築』八二〇八

*[viii]  『建築文化』八三〇四

*[ix]  『建築文化』八三〇五

*[x]  「健康の建築をめぐって」『新建築』八三〇七

*[xi]  「つくば/磯崎/建築の現在」『建築文化』八三一一

*[xii]  『新建築』八三〇八

*[xiii]

*[xiv]

*[xv]

*[xvi]  第二号、特集テーマ「セルフ・ビルドの世界」

*[xvii]  第三号、特集テーマ「職人考--住宅生産会社の変貌」

*[xviii]  八四〇一

*[xix]

*[xx]

*[xxi]

*[xxii]




 

2024年1月1日月曜日

テクノクラシーと自主管理ーTQCとAT,KB Freeway,『建築文化』,198005

テクノクラシーと自主管理:TQCとAT

 

  大手の建設業を中心として建設業界では総合的品質管理運動=TQC(Total Quality Control)運動が、極めて精力的に展開されつつある。山留めの崩壊、生コンクリートの強度不足といった事故の発生を契機として、一九六七年からZD(Zero Defect 無欠陥)運動を展開し、いち早く、「企業の体質改善と作品の品質を向上させ業績を高めること」を目標としてTQCを導入(一九七六年)、一九七九年一〇月には、建設業界では初めて、すぐれた品質管理体制を実施する企業に与えられるデミング賞*[i]実施賞を受賞した竹中工務店をはじめとして、各企業において膨大なエネルギーと時間がTQC導入のために注ぎ込まれているという。

 一般の製造業においては、統計的品質管理(SQC)の限界を克服すべく六〇年代初めに提唱され、その成功が高度成長を支えたとされるTQC運動が、建設業においては、オイル・ショックを経て、本格的に取り組まれつつあることは、さまざまな意味で興味深いと言える。

  六〇年代を通じて、一貫して近代化、合理化を推し進めてきた建設業がTQCの導入に至らなかったのは、一つには、建設業の歴史的な体質、その産業としての特異性によると言える。大辻眞喜夫は、品質管理に対する認識を建設業が欠いてきた要因を、生産現場、生産条件、生産組織がプロジェクトごとに異なること、重層下請構造の生産形態をとり、それが流動的であること、建物の評価尺度が多様であることなど五点にわたって列挙している*[ii]が、それらはすべて一品受注の現場生産を基本とする建築生産の固有の特質、ひいては建築そのものの本質にかかわるものである。またその特異性は一般には、建設業における近代化を阻む要因としてとらえられてきたものだ。

 そうした意味で、TQCの導入は、建築における規格化、標準化、部品化、そして工業化の進行によって、建築の生産、流動の形態が一般の工業生産品のそれへより近づきつつあること、また、建設業における近代化、合理化がさらに着実に進められつつあり、新たな段階を迎えつつあることを示しているとみることができる。

 また一方では、六〇年代には圧倒的な量の建設に追われて、必ずしも建築の質を問題とする余裕が建設業にはなかったことを、TQC導入のタイム・ラグは示していよう。スクラップ・アンド・ビルドの狂宴が終息するにつれ、それが必然的にもたらした建物の質の低下が、欠陥工事、手抜き工事の問題として指摘され始め、直接的にはそれが引き金となって、建設業においてもようやく品質管理の問題が主題化され始めたのである。

  需要の伸びがかつてのように期待できない状況のなかで、量から質へという転換が意識され、企業戦略の主要なターゲットが品質保証の問題へ移行していくのはある意味で必然である。しかし、品質管理、品質保証は、あくまで一つのスローガンにすぎない。TQCは、品質管理と労務管理を結合し、むしろ、組織全体の合理化を目標とするところにその本質がある。それは中岡哲郎によれば「一つの製品が計画され、市場に出てゆくまでのコースの全体、マーケティング、開発、設計、資材購入、製造工程技術、工程の操業と管理、検査、出荷、販売とアフターサービスといった一連の基幹的な流れを軸に、その周辺に無数に存在する補助労働、事務所のお茶くみから雑役にいたるまで、「品質」をキィワードとしながら、三つの目標、製品の性能、コスト、信頼性、という三つの指標に向かって求心的に組織してゆく技法」*[iii]である。「組織化のすすみすぎた職場で必然的に失われてゆく、全体への関心、職務意識、働くことの意味づけを、品質への関心として、かきたててやること」、小集団の間に連帯意識を生み出し、それをシステムの全体を上向的に貫く求心力に転化させていくこと、自発性を喚起し、しかもそれを一定の枠内に収斂させることがその最大のねらいなのである。

 そうした意味では、建設業は、より高度な管理体制を整備することをこそ大きな目的としていると言える。高度成長の末期に、大手建設業は、付加価値の低い工事請負一本やりから、不動産・住宅部分に手を広げ、オイル・ショックによって一つの挫折を経験した。建築生産を支える構造の変化、低成長期への移行に直面し、それを乗り切るために、現在建設業は新たな対応を迫られつつある。そのために、企業としての組織の強化、整備は不可欠であり、その一貫として、TQC運動が展開されつつあるのである。

  日本の建設請負業は、日本の資本主義の形成、発展の過程と即応する形で、その組織形態を整備し、発展を遂げてきた。三浦忠夫が明らかにするように*[iv]、建設産業の発展と国内資本の形成との間には正確な対応関係がある。また日本の資本主義の構造が生み出す建設需要の内容に対応して、建設業は、それを消化するのに必要な建設技術や施工システムを開発発展させてきていることがわかる。そして、ことに大手の建設業社は、建設の総需要に占めるウェイト、建設技術の開発能力、それを支える組織力によって、近代日本における建築のあり方を大きく規定してきた。

  建設業がテクノクラシーとしての体制を整備しながら、外部環境の変化に着実に対応しつつあるなかで、建築家の存在基盤はますます希薄になりつつある。建設業は、その金融力、技術力、調整能力、責任能力をますます誇り、その総合力において、建築のあり方に対する支配力を強めつつあるのである。

  振り返れば、日本における建築家と建設請負業との関係を支える構造は、すでに昭和の戦前期において成立していた。それを象徴的に示すのが、一九三〇年に第五〇帝国議会に提出された「建築士法」案の不成立である。それは、昭和の初頭、一九三七年までに九回にわたって提出され続けるのであるが、ついに成立をみることはない。

 明治末から大正期にかけて西欧の建築家の理念を掲げながら、次第に定着しつつあった民間の設計事務所は、日本建築士会の結成(一九一七年)に示されるように、その社会的な基盤を拡大しつつあった。そして、大正末には、その存在基盤の法的根拠を求めるまでに至る。しかし、同じように、それまでの個人経営から合名会社、合資会社、株式会社等へ組織形態を変え、近代的企業へと脱皮しつつあった建築請負業との力関係において、それに拮抗しえなかったのである。

  関東大震災から昭和の初めにかけて、ちょうど、大正から昭和への年号の転換を挟んで前後数年の時期は、建築の技術や生産体制が大きく飛躍を遂げる革新期である。鉄筋コンクリート造が本格的に導入され初め、一九二九年には鉄筋コンクリート工事標準仕様書が決定されている。耐震構造理論が全面的に展開され始める。また、建造物の高層化に伴い、施工方法が一変し、戦後における形態とはほぼ近いものとなるのがこの頃である。

 こうした、建築の技術や生産体制のドラマティックな転換に対して、建築家、民間の設計事務所は、すでに対応しきれなかった。新興建築運動が華々しく展開される背景において、日本の建築家の行方は決定的に方向づけられつつあったのである。

  鹿島組が株式会社となるのが一九三〇年のことである。同じく、佐藤工業一九三一年、銭高組一九三一年、島藤組一九三二年、戸田組一九三六年、清水組一九三七年、西松組一九三七年、浅沼組一九三七年、広島藤田組一九三七年と、建設量が戦前においてピークを迎える頃までには、日本の建設業はそれぞれ、その基盤を確立するに至った。

 建設業界は、昭和恐慌時の大淘汰を経て、満州の建設市場を干天の慈雨とし、また、内地の軍需産業への投資ブームを梃子としながら、施工能力を一挙に拡大し、その力を蓄えたのである。強力な戦時統制下において、総合建設業のもつ、その組織形態、職種別企業系列や技能工制度による施工システムは一度は、完全に解体される。しかし、すでに蓄積されていた、施工設計計画、工程計画、技術管理などにおける経験、総合的建設システムを支える管理運営能力は、戦後まもなく、脅威的な復元力を示すのである。

  こうした歴史的パースペクティブにおいて、しかも、テクノクラシーとしての建設業の支配力がますます強まるなかで、建築家のあり方を展望することはますます厳しい。近代建築批判が顕在化してくるにつれて、確かに、一方で、テクノクラシーによる建築に対する疑念もまた拡大しつつある。しかし、テクノクラシーとしての建設業を前提としない建築のあり方を構想することは容易ではないのである。

  建築家に必要なのは、それにもかかわらず、現実の諸条件のなかにその可能性を見いだすことである。例えばTQCの矛盾、問題点はすでにさまざまな形で指摘されている。自主管理のあり方がテクノクラシー化に対して鋭く対置されつつあるのはその一つである。建築技術のあり方、建築の生産を支える構造のレベルにおいて、根源的なパラダイムの転換が行われなければならない。そのためには、テクノクラシーのヘゲモニー下に置かれている建築の技術、建築の生産、流通の仕組みを、個々の建築家、設計者の手の届く、ある意味ではプリミティブなレベルから組み立て直すことが必要である。

  そうした試みは、すでにさまざまな形で追及されつつあると言ってよい。工業化のイデオロギーに対する批判、テクノロジーに対する批判は、新たな技術のあり方を模索するさまざまな運動を生み出しつつあるのである。そうした運動を大きく方向づけているとされるのが、E.F.シュマッハーやI.イリイチらの一連の活動である。日本においても、昨年末には、イギリスのAT(Alternative Technology)運動の理論的支柱の一人となったD.ディクソンの『オルターナティブ・テクノロジー、技術革新の政治学』*[v]が翻訳されており、そうした海外における新たな技術運動については、高木仁三郎、宮川中民、里深文彦、中山茂などによって、精力的に紹介されつつある。

  『二一世紀の建設業・・・その課題と展望を探る』*[vi]は、「文明の発祥と同時に発生した・建設活動の担い手・建設業が、・文化の世紀・二一世紀にクライマックスを迎える日本社会のなかで、次第にその地位を高め、その主役、誇り高き文化のクリエーターとして堂々と登場する舞台装置は十分整っている」と、システム・オーガナイザーの旗主として建設業を位置づけながら、適正技術や中間技術についても触れている。

 しかし、建築におけるATの展開にとって、テクノクラシーとしての建設業は必ずしも必要ない。むしろ、根本的に相容れないと言ってもよい。システム・オーガナイザーとしての役割を果たすために克服すべき課題として、建設労働者の不足の問題、品質保証の問題、建設組織とコミュニケーションの問題、情報収集力や金融調達力の問題とともに建設技術の頭打ちの問題がそこでは挙げられている。確かに、TQCの導入に示されるように、建設業の技術への関心が計画や管理の技術、またシステムの技術へ、ハードテクノロジーからソフトテクノロジーへ向けられつつある裏には、そうした背景があると言えるだろう。しかし、建設技術の頭打ちの問題がATを要求するわけではない。また、高度に発達したテクノロジーのもつネガティブな側面を補完するために、ATが必要とされるわけでもない。ATが目指すのは、全く異なった体系をもった技術のあり方なのである。

  バンコクのAIT(Asian Institute of Technology)では、竹筋コンクリートの実験が行われている。建築にとって、そもそも高度な技術は必要ない、地域の生態系に基づいた身近な素材を用い、それをその地域の固有の表現に結びつけていこうというのが彼らの問題意識である。竹は乏しい鉄の代替物として位置づけられているというより、むしろ、はるかに積極的に位置づけられている。

  確かに、AT運動の大きな二つの流れの一つは、第三世界において、より現実性をもって展開されつつある。しかし、はるかに興味深いのは、先進諸国におけるその展開である。ことに、日本の場合、鉄筋コンクリートや鉄骨に関する技術をはじめ施工機械にしろ、仮設の技術にしろ、何から何まで輸入に頼ってきた。そうした過程で、日本に固有な建築の技術のあり方についての視点は、常にネガティブなものとして位置づけられてきたと言える。少なくとも、新たな視角において建築を支える技術のあり方、その生産の仕組みについて、とらえ直すことが必要であろう。建築におけるATの展開のために見直されているのは、日本で言えば、昭和戦前期の水準の技術である。特に住宅のスケールの技術について、戦後どれだけの展開がなされてきたか見直される必要がある。

  実は、日本においても、戦時中、竹筋コンクリートの研究がさなれている。それは、日本の近代建築の流れのなかでは、位置づけようのないものとして、必ずしも知られていない。「白い家」と呼ばれた住宅作品をはじめとする国際様式を標榜する作品の出現を指標として、日本の近代建築は一九三〇年代に確立したとされている。定着しつつあった近代建築の理念に照らすとき、竹筋コンクリートはアナクロ以外の何ものでもない。ちょうど、帝冠様式が、デザインの側面において、ファシズム体制戦時体制の歪みを示したとされるように、建築の技術の面においてそれを集約的に示したというのが竹筋コンクリートに対する一般的な評価である。

  しかし、そもそも、日本における近代建築の出自には一つの大きな転倒があった。一九三〇年代において、近代建築を標榜した作品の多くは「木造モルタルによって白い壁面の効果をだし、木造建具をペンキで色揚げし、そして無理してでも陸屋根とすることによって少なくとも写真に撮ってスタイルとして見る限りは一応近代建築らしいとみられる作品」(浜口隆一)にすぎない。近代建築の理念が外からもたらされたこと、しかも、スタイルの問題としてまず受け入れられたことをそれは象徴的に物語っている。もちろん、近代建築の理念を支える現実的な基盤が希薄であるという建築家の意識が、スタイルの問題のみを性急に主題化させたと言ってよいであろう。しかし、その転倒に大きな問題が潜んでいたことは言うまでもない。建築における一九三〇年代が近代建築の理念が現実の諸条件との間で葛藤を繰り広げる過程であったことは、例えば、日本的なるものにかかわる議論が示している。しかし、単にスタイルの問題として、そうした問題が争われる限りにおいて、その限界は明らかであったのである。建築の技術、その生産体制のはらむ問題は、建築家によって鋭く指摘され続ける。しかし、それを具体的に担い続けたのは一貫して建設業のほうである。建築家がそれをリードするという形が、理念の上で信じられたのは一九五〇年代までであった。

  問題は、繰り返せば、建築を支える技術のあり方、その生産を支える構造を根底的にとらえ直し、身近で具体的な回路を構想し、その構想のなかで表現の問題を提出することである。テクノクラシーの建築と芸術としての建築の二分法がとてつもなく不毛であることは明らかだ。われわれは、一九三〇年代においてすでにそうした構造を確認することができるのである。


*[i]

*[ii]  「建設業における品質管理の考え方」、『建築文化』・建築経済・〇〇一、一九八〇年一月号

*[iii]  『工場の哲学』、平凡社、一九七一年

*[iv]  『日本の建設産業』、『日本の建築生産』、彰国社、一九七七年

*[v]  田窪雅文訳、時事通信社、一九七九

*[vi]  清水建設、一九八〇