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2024年12月13日金曜日

博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510

 博覧会都市計画,現代のことば,京都新聞,199510


博覧会都市計画                    002

布野修司

 

 「世界都市博覧会」の中止はどうやら既成事実となったようだ。青島都知事の決断は、選挙公約のあり方、行政の継続性など様々な波紋を広げつつあるが、博覧会と都市計画のこれまでのあり方にも決定的なインパクトを与えた。スクラップ・アンド・ビルド(建てて壊す)型の博覧会を都市開発の呼び水にする従来の手法は根底から見直されていいと思う。

 一八五一年のロンドン万国博覧会以降の博覧会の歴史については、吉見俊哉の『博覧会の政治学』(中公新書)が詳しいのだが、博覧会は常になんらかの政治的機能を担ってきた。例えば、ネーション・ステート(国民国家)の形成、近代産業国家の形成と密接に関係がある。オリンピックと同じように、その開催は国力の表現の場であり、国威発揚の機会であった。

 一九七〇年の大阪万国博の開催は、国際社会への日本のプレゼンスという意味ではかなり大きな意味を担った。また、その後の博覧会のノウハウを蓄積したという意味でも重要である。しかし、その後の博覧会はその性格を変えていったように見える。沖縄海洋博(一九七五年)、筑波科学技術博(一九八五年)と限定された地域の開発手段として定着していくのである。数年前、市政施行百周年ということで全国各地で行われた博覧会もそうだ。MM(みなとみらい)21の開発へつないだ横浜博がその典型である。

 イヴェントとしての博覧会の会場建設のために公共投資をしてインフラ(基盤)整備を行い、跡地利用を民間に委ねるのが博覧会方式である。なぜ、会場施設を壊してしまうのか、不思議に思う。万国博覧会協会の規定であると言うけれどからくりがある。恒久的な施設ということになると時間もかかるしお金もかかる。自治体としては民間の資金を活用したい。民間の企業、特に建設業にしてみれば、二度の投資の機会となる。地域活性化のためには実にうまい手法というわけだ。

 しかし、考えてみるとバブリー(泡のような)手法である。社会資本の蓄積という視点からは全くの無駄だ。仮設的な会場施設にかけるお金を継続的にまちづくりに投資した方が長い目でみればいいに決まっている。また、なぜ、インフラ整備が遅れている地区を選んで投資するのか。インフラが既に整備されている地区を充実させる方がまちづくりとしてはもっと有効である。

 素人の計算と笑うなかれ。今回の「世界都市博覧会」の中止についての暗黙の支持を支えるのは以上のような直感である。日本の都市は、あまりにも仮設的である。スクラップ・アンド・ビルドでやってきた。そうした意味では、博覧会都市である。しかし、僕らが実際に住んでる都市そのものを中止するわけには行かない。都市づくりには時間がかる。フロンティアをもとめて刹那的な博覧会を繰り返す時代は終わった。「世界都市博覧会」の中止は新たな都市計画の時代の始まりを象徴することになると思う。


2024年12月9日月曜日

シティ・アーキテクト,現代のことば,京都新聞,19951120

 シティ・アーキテクト,現代のことば,京都新聞,19951120


シティ・アーキテクト              003

布野修司

 

 JR京都駅の建設現場にクレーンが林立している。鉄骨のフレームが次第に高く組み上がり、巨大な建築物の姿が具体的にイメージできるようになった。そのコンペ(設計競技)の際には景観問題ということで大きな議論が起こったのであるが、その評価をめぐっては、今後の問題も含めて引き続いてしっかりした議論がなされるべきであろう。

 景観問題はもちろん京都だけの問題ではない。バブル期の開発ブームで各地で景観破壊が問題となった。建都千二百年を迎えた日本の古都であり、世界文化遺産に登録される歴史的環境を保持してきたという意味で、京都の景観問題が象徴的に取り上げられたのであるが、それぞれの地域で、個性ある豊かな街並みをどうつくるかは大きなテーマである。

 ところが、それぞれの町に固有の町並みをつくるその方法となるといささか心許ない。各自治体で、景観条例がつくられ、景観形成のためのマニュアルがつくられるのであるが、どこも似たりよったりという問題がある。地域の景観のアイデンティティを唱いながら、同じ基準、同じマニュアルであるというのは矛盾である。京都市ではこの間の景観問題を踏まえて、市街地景観条例の大改正を行ったのであるが、それでも条例や基準のみでは限界がある。高さの基準を守っていればいい景観が創れるというわけではないからである。

 景観のあり方は、場所によって、地区によって異なる。市の全域を一律に規定するのは肌理細かい街角の表情を創り出すのには馴染まないのである。

 そこで今注目を集めているのが、マスター・アーキテクト制あるいはアーバン・アーキテクト制(建設省)と呼ばれる制度手法である。色彩や形態を一律に規定するのではなく、場所毎に、プロジェクト毎に、一人ないし、複数の信頼のおける建築家に調整を委ねるやり方である。ヨーロッパにおけるシティ・アーキテクトあるいはタウン・アーキテクトの制度がモデルになっている。

 例えば、京都であれば各区単位にマスター・アーキテクトをおいて、マスター・アーキテクトの委員会を統括するシティ・アーキテクトを考えるわけである。本来、建築行政、都市計画行政の一環としての景観審議会等がその役割を果たせばいいのであるが、個々のデザインの問題までとても眼が行き届かないし、行政内部に相応しい人材がいるとは限らない。それをサポートする建築家なり、デザイン・コミッティが必要ではないかという提案である。

 もちろん、問題は数多い。ヨーロッパのシティ・アーキテクトはかなりの権限をもつのであるが、日本ではどうか。その報酬をどうするか、任期をどうするか。当面試行錯誤が必要かもしれない。しかし、最大の問題は、シティ・アーキテクトとしての能力と見識を備えた建築家が日本にどのくらいいるのかということである。

2024年10月29日火曜日

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」

 

布野修司

 

 本書のもとになったのは、「ファシズムの空間と象徴」と題された論文(『人文学報』、第五一号(一九八二年)、第五五号(一九八三年)である。その二本の論文をもとに『アート・キッチュ・ジャパネスクー大東亜のポストモダン』(青土社、一九八七年)がまとめられ、さらにタイトルと装いを変えて出版された(一九九五年)のが本書である。

 実は、この一連の出版に評者は深く?関わっている、らしい。最初の二本の論文を送ってもらい、「国家とポスト・モダニズム建築」(『建築文化』、一九八四年五月号)で井上論文に言及したのがきっかけである。この言及はいたく井上氏を刺激したらしい。その経緯と反批判は長々と「あとがき」に記されている。その「あとがき」に依れば、この間、布野論文を除けば本書に対するほとんど表立った批評がないのだという。

 筆者の文章は、磯崎新の「つくばセンタービル」、大江宏の「国立能楽堂」などが相次いで完成し、建築のポストモダニズムが跳梁跋扈する中で、「国家と様式」をめぐるテーマが浮上しつつあることを指摘するために井上論文に触れたにすぎない。文章全体が一般の眼に触れることはなかったから、反批判のみが流布する奇妙な感じであった。幸い『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ、一九九八年)に再録することができたから、本書をめぐる数少ない批判の構図は明らかになることになった。

 争点は「帝冠様式」の評価をめぐっている。「帝冠様式」あるいは「帝冠併合様式」とは、下田菊太郎という興味深い建築家によって「帝国議事堂」(現国会議事堂)のデザインをめぐって提唱されるのであるが、簡単に言えば、鉄筋コンクリートの躯体に日本古来の神社仏閣の屋根を載せた折衷様式をいう。具体的には、九段会館(旧軍人会館)、東京帝室博物館など、戦時体制下にいくつかの実例が残されている。

 「「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式だというのがこれまでの通説であるが、「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式ではない(さらに、日本にファシズム建築はない)」というのが本書の主張である。もちろん、本書は「帝冠様式」のみを扱うわけではない。「忠霊塔」コンペ(設計競技)、「大東亜建築様式」の問題など全体は四章から構成され、一五年戦争期における「建築家」の「言説」を丹念に追う中で、建築界が抱えた問題に光を当てようとしている。しかし、全体としてテーマとされるのは以上のような「通説」の転倒である。

 それに対して、布野が指摘したのは、何故、そうした通説が転倒されなければならないのか、という本書が担う政治的立場である。本書には随所に「どんな(建築)イデオロギーも、意匠のための修辞にすぎない」「モダニズムが「日本ファシズム」と徹底的に戦ったことなど、一度もない」「”大東亜建設記念営造計画”が社会的にになった役割は、戦争協力という点から考えれば、無視しえるものだ」といった挑発的な断言を含んでおり、大きな違和感をもったのである。「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」と書いた。いたくお気に召さなかったらしい。

 ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、「建築様式史上の造形の自立的変遷」にのみ焦点を当てる本書を得ても、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即即解散(一九三〇年)から建築新体制の確立(一九四五年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、一九九五年)でも触れるように、建築技術、建築組織、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。

 それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとるにたらないものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファシズムというべきではないのか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。

 「帝冠様式」をキッチュとして捉えるのは慧眼である。「帝冠様式を日本のファシズム建築様式ととらえる通俗的な見方を否定して、上から与えられた、あるいは強制された様式としてではなく、大衆レベルによって支えられ、下から生み出された様式としてとらえる視点」は興味深い。なぜなら「国民へ向かって下降するベクトルが逆転して国家へ向けられるそうした眼差しの転換をこそファシズムの構造が本質的に孕んでいたとすれば、そうした視点から、大衆的な建築様式と国家的な建築様式との関連をとらえ直す契機とはなるはず」だからである。

  屋根のシンボリズムについてはその力(強制力)をもう少し注意深く評価すべきであろう。民族や国民国家のアイデンティティあるいは地域なるもののアイデンティティが問われる度に、「帝冠様式」なるものは世界中で生み出されるのである。また、建築における「日本的なるもの」、についてももう少し掘り下げられるべきであろう。本書の「あとがき」には、井上氏も、植民地における帝冠様式など残された課題を列挙するところである。

 一五年戦争期における日本回帰の諸現象と建築における日本趣味とは果たして関係なかったのか。「モダニズムが日本ファシズムと結託した」という命題はもう少し具体的に検証されるべきではないか。問題にすべきは、「日本的なるもの」のなかに合理性をみるというかたちで、近代建築の理念との共鳴を見る転倒ではないか。日本建築の本質と近代建築の本質を同じと見なすところに屈折はない。その屈折のなさが、科学技術新体制下における建設活動を支えたのではないか。本書に対する未だに解けない違和感は、数々の断言によって、例えば以上のような多くの問いを封じるからである。

 

2024年8月27日火曜日

阪神淡路大震災と戦後建築の五〇年,建築思潮Ⅳ,199502

 阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年

世紀末建築論ノートⅣ

布野修司

 

都市の死

 阪神・淡路大震災直後に次のように書いた。

 

 西宮から三宮まで、被災地を縫うように歩いた。相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つがそこにあった。

 横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。全てがバラバラで、町のここそこがゴミ捨て場になったかのようだ。航空写真からは実感できない光景だ。

 五〇年前日本の町の多くは廃墟であった。一面の焼け野原から出発し、懸命に戦後復興を果たし、高度成長を遂げ、そして今や日本は世界有数の国となった。その繁栄を象徴する現代都市が一瞬にして機能を停止する。そんなことがあっていいのか。この五〇年の日本のまちづくりは一体なんだったのか。瓦礫の山と化し、バラバラになった町の姿を目の当たりにして、様々な思いがこみ上げてくる。

 何故、こんなに被害が出たのか。都市直下型地震の恐ろしさと共に大惨事の原因が様々に指摘される。灰燼に帰したのは空襲を免れた戦前からの木造住宅の密集地区が多い。倒壊した建造物には確かに古い木造住宅が目立つ。しかし、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の建造物でも横転したものがある。倒壊しなくても決定的なダメージを受けたものが少なくない。その象徴が高架鉄道であり、高速道路である。現代都市の脆さ、防災体制の不十分性、危機管理の諸問題も様々に指摘される。歩き回ってみると、色々気づく。このとてつもない大震災の経験はディテールに至って克明に記録され、かけがえのない教訓とされねばならない。

 例えば、一階に南面して大きな開口部をもつ居間を設け、二階に個室群を設ける日本の家屋の構造は、果たして都市住居としてふさわしいものであったのか。無惨にも押しつぶされた一階を見ると、一階には壁の量がもう少しバランスよく必要であるように思えてならない。日照の点からも二階に居間を設けるパターンは何故考えられて来なかったのか。木造は駄目だ、ということには必ずしもならないだろう。耐火建築が火を抱え込んで類焼していったという考えられない事実もある。徹底した検証が必要である。

 しかし、問われているのは単なる技術的な問題ではない。災害に対する心構えの問題でもない。根源において問われるのは、現代都市のあり方、まちづくりのあり方に関わる思想である。都市生活が如何に脆弱な基盤の上に成り立っているのかを嫌というほど今回思い知らされたのである。

 現代都市はひたすらフロンティアを求めて肥大化してきた。ひたすら移動時間を短縮させるメディアを発達させ集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥というのであるが、自然をそこまで苛めて拡大を求める必要があったのか。都市や街区の適正な規模について、あまりに無頓着ではなかったか。

 燃える自宅の炎をただ呆然と見つめるだけという居住地システムの欠陥は致命的である。いくら情報メディアが張り巡らされていても、地区レヴェルの自律システムが余りに弱い。水、ガス、水道というライフラインにしても、地区毎に自律的システムが必要ではないか。交通システム、情報システムにしても、重層的なネットワークを組む必要があるのではないか。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。垣間みた被災地の人々の姿は実に逞しかった。そのエネルギーをこれまでにない都市のあり方へと結びつけていかねばならない。復興の力強い歩みの中に新しいまちづくりの夢を共にみたいと思う△注1△。

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 今も考えていることはそうは変わっていない。

 頭を離れないのは、都市の死、ということである。

 そして、都市の再生というテーマである。

 

文化住宅の悲劇…暴かれた

 

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに入った層がいる一方で、避難所が閉鎖(八月二〇日)されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方、未だ手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者をだした地区がある。これほどに日本の社会は階層的であったか。

 今回の阪神・淡路大震災で最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会の階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 最も大きな打撃を受けたのが「文化(ブンカ)」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。もともとは大正期から昭和初期にかけて展開された生活改善運動、文化生活運動を背景に現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を「文化住宅」といったのだが、今日の「文化住宅」は、従来の設備共用型のアパートあるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝しだしたことに由来する。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。一般的に言えば「木賃(もくちん)アパート」だ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。もっとも、一戸建ての賃貸住宅が棟を連ねるタイプも「文化」といったりする。ややこしい。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだ。

 その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。

 「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 

廃棄される都市……二重の受難

 

 被災地を歩くと活気がない。片づけられた更地が点々と続いて人気の無いせいだ。仮設住宅地も元気がない。活気のあるのは、テント村であり、避難所であり、…人々が懸命に住み続けようとする場所だ。人々の生き生きとした生活があってはじめて都市は生き生きとする、当然のことだ。

 とにかく元に戻りたい、復旧したい、以前と同様暮らしたい、というのが、被災を受けた人々の願いである。

 生活の基盤を奪われた被災者にとって、苦難は二重、三重である。全ての避難所は閉鎖されたのであるが、避難生活が終わったわけではない。当初、三〇万人もの人が住む場所を奪われ、避難所生活を強いられたのであるが、なお、数千の人々が残されている。テント生活など、多くの人が困難な生活をおくっていることには変わりはない。その場所に生活の根拠があり、そこに住み続けるしかない人々がいるのは当然のことだ。

 応急仮設住宅の多くが建設されたのは、都市郊外である。都心に仮設住宅を建てる余地がないのは致命的である。利便性が悪く、空家が出る。同じ場所に住み続けなければ、仕事ができないのだから無理もない。数だけ建てればいいというわけではないのだ。被災し、なお、避難生活を強いられ続ける、二重の受難である。

 仮設住宅での老人の孤独死がいくつも報じられる。コミュニティが存在せず、近所つきあいがないせいである。入居にあたって高齢者を優先したのはいいけれど、その生活を支える配慮がまったくされなかった。被災を受けて、さらにコミュニティを奪われる、三重の受難である。

 さらに復興計画ということで、区画整理が行われる。場合によると、土地の減歩を強いられる。四重の受難である。

 そして、被災した建造物を無償で廃棄したのは決定的である。都市を再生する手がかりを失うことにつながるからだ。五重の受難である。

 特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲の中に再生の最初のきっかけもあったはずである。何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられないのかも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能である。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化す。しかし、それ以前に、我らが都市は廃棄物として建てられているのではないか。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの体質を浮かび上がらせただけではないか。

 

復興計画の袋小路…変わらぬ構造

 

 各地域で復興計画が立案されつつあるけれど、なかなか動かない。区画整理や住宅地区改良の事業計画も、権利者の調整は難しいし、時間もかかる。行政当局としては、予算獲得のために事業決定を急ぎたいのだけれど、住民の意向も尊重されなければならない。ジレンマである。

 しかし、問題はそれ以前にある。阪神・淡路大震災は、決して何かを変えたわけではないのである。

 建築や都市の防災性能の強化がうたわれ、防災訓練がより真剣に行われるのは当然のことである。しかし、危機管理や防災対策のみが強調され、当初からまちの生き生きとした再生というテーマが見失われてしまっている。阪神淡路大震災の復興計画と、関東大震災後の復興計画や戦災復興とはどう違うのか。この戦後五〇年の日本のまちづくりは一体何であったのか、と顧みる視点がほとんどない。

 戦災によって木造都市の弱点は痛感された。それ故、防火区域を規定し、基準をつくり、都市の不燃化に努めてきた。しかし、なお都市が脆弱であった。直下型地震は想定されていなかった。それ故、さらにひたすら防災機能を強化すべきだ、という。地盤改良や耐震基準の強化、既存構築物の補強、防災公園の建設、区画整理…が強調される。同じことの繰り返しである。例えば、なぜ、一七メートルの道路が必要なのか、誰も説明できないままに決定される、そんなおかしな事が起こっている。防災ファシズムというべきか。

 立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。震災とは関係ない以前からの大規模プロジェクトの構想がさりげなく復興計画に含められようとしたりする。国家予算をいかに被災地に配分するかがそこでの焦点である。都市拡大政策の延長である。フロンティアを求めてそこに集中的に投資を行う開発戦略は決して方向転換していないのである。

 震災特需は、建設業者にとって僥倖である。壊して建てる、一石二鳥である。一方で、倒壊した建造物をつくり続けてきた責任、その体制を自ら問うことはない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。地震も過ぎ去れば、単なる天災である。その体験はみるみる風化し、忘れ去られていく。もう数百年は来ないであろう、自分が生きている間はもう来ない、という必ずしも根拠のない楽天主義が蔓延してしまっている。

 住宅復興にしても何も変わらない。とにかく戸数主義がある。数さえ供給すればいい、という何も考えない怠惰な思考パターンがそこにある。そこには、これまでのまちづくりのあり方についての反省は必ずしも無いのである。事業手法にしても、計画手法にしても、既存の制度的な枠組み、官僚的な前例主義に捕らわれて、臨機応変の対応ができないのである。

 復興計画において必要なのは、フレキシビリティーである。ステップ・バイ・ステップの取り組みである。予算も臨機応変に組み替えることが必要となる。しかし、そのとっかかりもない。被災者の生活の全体性が忘れ去られている。

 

大震災の教訓

 

 復興過程にはいくつもの袋小路がある。震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけだ。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ないのである。

 阪神・淡路大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。しかし、その都市や建築のあり方について与えた意味は、決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。

 震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけではない。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。被災した子どもたちのことを考えると、その体験が真に生かされていくのはしばらく先のことである。避難所生活を体験した人々の三十万人という規模は、その拡がりを含めてかなり大きい。大震災の教訓がいずれ社会を変えていくこと、少なくともなんらかの影響を及ぼしていくことは間違いないところである。

 しかし、一方で、震災体験が急速に風化していくのも事実である。地震の体験は必ずしも蓄積されないのではないか、という思いも時間が経つにつれてわいてくる。震災経験が記憶されるのはせいぜい体験した一代か二代までではないか。例えば、伝統的な大工技術は、長年の経験を蓄積してきており、地震にも十分対処できるというけれど、垂直加重についてはそう言えても、今回のような直下型の縦揺れについては疑わしいという。

 何も変わらない、事態が何事もなかったようにしか推移していかないのを見ていると、震災体験をどう継承していくかこそが最大の問題であると思えてくる。震災体験をどう生かすか、阪神・淡路大震災に学ぶことを、いくつか列挙してみよう。

 

自然の力

 なによりも確認すべきは自然の力である。水道の蛇口をひねればすぐ水がでる。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。つい、人工的に環境をコントロールできる、あるいはしていると考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは自然の力の大きさである。そして、そうした自然の力を読みそこなっていること、自然の力を忘れていることが思い知らされる。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからである。関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。また逆に、自然のもつ力のすばらしさも思い知らされる。火を止めるのに緑の果たした役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 

都市の論理

 

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、開発戦略の問題点である。山を削って宅地を造り、その土で海を埋める、一石二鳥とも三鳥とも言われた都市経営の論理は、企業経営の論理としては当然であり、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配する。都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。

 

重層的な都市構造

 

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。具体的に、インフラストラクチャーが機能停止に陥ったのは致命的であった。代替のシステム、ダブルシステムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線が無い。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。多核・分散型のネットワーク・システムである。

 

公共空間の貧困

 

 公共建築の建築としての弱さは、致命的であった。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。公共的なオープンスペースの重要な意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

地区の自律性

 

 目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であったといわれる。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。今回の大震災の最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という声がある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明かである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。

 インフラストラクチャーについても、エネルギー供給の単位、システムについても地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、…多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムの問題としても地区の自律的なネットワークが必要となる。

 

ヴォランティアの役割

 

 一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされたのであるが、まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。一方、ヴォランティアの問題点も意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれているのである。多くは、システムとしてヴォランティアが位置づけられていないことに起因する。

 建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みの中で、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えて行くしかない。

 

建築構造の論理…近代日本の建築と地震

 

 問題は、以上のような教訓をどう生かすかである。その道筋が見えないことに、いささか苛立つ。とにかく、試行錯誤であれ、実践してみること、それなくして何も進展しない。いずれにしてもはっきりしているのは、阪神・淡路大震災の露わにした問題は相当長期間にわたって反芻され続けられねばならないことである。

 しかし、考えてみれば、近代日本において同じ問いは既に繰り返し反芻されて来たのではなかったか。

 近代日本の建築学の発達過程を考えてみるといい。当初から、地震は大テーマであった。辰野金吾が伊東忠太に建築史学の確立を、佐野利器に建築構造学の確立を命じ、託したのが、日本の建築学の始まりとされるのであるが、構造学の確立の必要性を強く意識させたのは濃尾地震であった。西洋から移入されようとした煉瓦造や石造の建造物は地震に対して必ずしも強くないとすれば、西洋建築をそのまま導入することはできない。日本には地震があるという事実は、日本における建築のあり方を大きく規定してきたのである。

 F・L・ライトが設計した帝国ホテルが竣工直後に関東大震災にあい、それに耐えたのはよく知られている。その関東大震災の予兆として一年前に起こった地震で被害を受けた丸ビルが補修強化していたおかげで倒壊を免れたということも明らかにされている。関東大震災は、日本に本格的に鉄骨造、鉄筋コンクリート造を導入するきっかけとなったとみていい。鉄骨造、鉄筋コンクリート造の構造基準、仕様基準が整備されたのは一九三〇年のことであった。また、木造建築に筋交いが導入されはじめるのも昭和初期以降のことである。

 戦前日本における建築構造学をめぐる一大議論は、いわゆる「柔剛論争」である。すなわち、地震に対して柔構造がいいか剛構造がいいかをめぐる議論である。地震において、被害が少ないのはむしろ伝統的な木造住宅であるという事実が一方であり、地震の力を柔軟に受けとめ揺れることによってエネルギーを吸収しようというのが柔構造理論である。当時、既に「免震構造」という概念が出されていた。それに対して、徹底して、建物を固く(剛に)して地震に対処しようとするのが剛構造理論である。震災直後に建てられた岡田信一郎設計の住宅が解体されるのを見たことがあるのであるが、鉄筋の替わりに入っていたのは鉄道のレールであった。とにかく強くというのは一般の感覚であった。論争は、剛構造派の圧勝であった。

 戦後、超高層建築の建設のために柔構造理論が採用される。今回の地震で、「免震構造」や「制震構造」がクローズアップされる。建築構造を支える思想の問題としてその変転は興味深いところである。近代日本における建築を支える思想を雄の思想と雌の思想という対立において捉えようとしたのは長谷川尭である△注2△。建築構造学はデザインの自由を束縛してきたというのが骨子である。耐震基準の強化の歴史は、なるほど、そうした歴史を示しているように見える。しかし、以上のように、建築構造にも柔と剛がある。また、デザインの自由と耐震性の問題とは別の次元の問題である。

 多数の構築物が倒壊し、多くの死者が出た今回の事態は、建築構造理論のよってたつ基盤を問う。構造基準(最低基準)の強化ではなく、性能基準の明示へ、大震災以後、建築基準法の基本的組立てをめぐって議論がなされるのであるが、制度の問題にすり替えられてはならないだろう。安全性と経済性をめぐる議論は建築構造設計の基本であるが、経済性をもとめる社会の側に問題が預けられてはならないであろう。まして、手抜き工事などの施工技術の問題にすり替えられてはならないはずだ。建築に深く内在する問題として受けとめられない限り、何の教訓も得られないのである。

 

所有と利用の制度

 

 阪神・淡路大震災後の復旧・復興をどう考えるか、どう具体的に展開するかは目の前の問題である。しかし、前述のように何も変わらぬ制度的な枠組みがある。

 激震地からかなり離れて、被害を受けた地区がある。あるいは、個々に被害を受けたということであれば、被災地はかなりの広域に広がっている。大震災を受けたけれど、光が当てられない、見捨てられた多くの地区、被災者がいる。そうした地区や被災者のことを考えてみると、被災が個人的受難であり、復旧・復興が基本的に個人の問題であることがはっきりしてくる。これまでと同じ枠組みの中で、復旧・復興を行わねばならない。

 復興が進まないのは当然である。資産を持たない層にとってローンを二重に払うのは容易なことではない。全半壊マンションの建て替えがまとまるのは、個々の事情が多様である以前に不可能に近いのである。

 しかし、考えてみれば、土地や建物の所有をめぐる問題は、地震が来ようと来まいと基本的な問題である。区画整理事業や都市再開発事業、住宅地区改良事業、総合住環境整備事業といった面的整備事業も地震とは必ずしも関係ない。合意形成を図り、計画決定を行うのは同じ手続きである。地震だからといって、計画がまとまる保証はない。

 激震地からはかなり離れているのに、半数以上が半壊全壊した「文化住宅」街がある。聞けば、高度成長期に古材を使って不動産会社がリース用「文化住宅」として売りだしたものという。不在地家主が一〇〇人近い、この三十年で持家取得した世帯が二〇〇近く、応急仮設住宅に住む借家人の世帯が二五〇、権利関係が極めて複雑だ。各層で、復興計画についての要求がまるで異なる。

 こうした地区に復興計画として事業計画が立てられようとすると、当然のことながら、個々の関心は自分の土地がどうなるかである。地主層、持家層にとって、自分の土地が計画域に含まれるかどうか、自分の土地を計画道路が横切るかどうか。区画整理の場合、減歩の問題があるからなおさら関心は高い。また、自分の土地の資産価値がどうなるか、いくらで売れるか、どれだけ高くなるのか、議論の中心は、まずは所有する資産の価値の増減に集中する。そして、最終的にも、自分の所有する土地建物がどれだけの評価を受けるかによって計画への賛否を決定したいというのが一般的である。

 様々な思惑が飛び交い収拾がつかなくなる。不動産業者が暗躍し出す。行政当局も、都市計画的によほど重要な地区でなければ、手間暇をかけて地区をまとめる気はない。予算を使わなくていいから、合意形成を地区のコミュニティに委ねる態度をとる。区分所有法をベースとするマンションの復興の場合も基本的には同じである。ただ、公共機関がどれだけ介入するかが問題である。

 こうして、問われるのは日本の空間のあり方そのものである。公共的な空間は、公共で整備し、維持されなければならない。高速道路が横転し、橋脚が落下するといった事態は論外である。病院や学校など公園など社会資本としての環境の整備も公共サイドの役割である。しかし、住宅はどうか。あるいは、住宅を中心とする地区の環境はどうか。市場原理に委ねられるだけである。公共住宅の供給も市場メカニズムに基づいて行われるだけである。公民の間で、日常的環境をつくっていく主体、すなわちコミュニティや非営利組織(NPO)など、共の部分が見失われている。

 阪神・淡路大震災によって、分譲住宅離れが進行しつつある。一方、賃貸住宅の性能の向上が求められつつある。戦後一貫して上がり続けた土地と建物の価格は初めて下がりつつある。土地の価格が上がらないとすれば、土地への投機行動は意味がなくなる。土地の所有に関わる観念が大きく変わる可能性がある。土地の所有と利用が分離されている現状から、一体的な利用へ、所有より環境の質へ、住宅及び住環境の公共化へ、もしかすると動きが展開するかもしれない。

 被災者にとって、ヴォランティアとの関係やコミュニティ内の関係について貴重な体験がある。新しいまちづくりの芽があるとすれば、被災時の共の体験であろう。コレクティブハウジングなど、共有空間を最大化する住宅モデルが生みだされるとすればひとつの萌芽となる。

 都市の欠陥は、住宅の問題でもある。戦後五〇年の間、都市住宅の型を必ずしも創りあげてきていないことが致命的である。

 

都市の再生

 

 都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画のテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 そこで、建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。これまた震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていい。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、まったく元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 壊しては建て、建てては壊す、というスクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップの一つの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。実際、復興都市計画の枠組みに大きな変更はないのである。

 しかし、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックэ・・э再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。こうしてたどたどしく考えてくると、戦後建築の思想の根幹に行き当たる。すなわち、メタボリズムである。

 乱暴に言い切れば、メタボリズムは、結果として、スクラップ・アンド・ビルドの論理、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを裏打ちするイデオロギーに他ならなかった、というのが結論である△注3△。

 しかし、問題の立て方として、変わるものと変わらないもの、基幹設備と個々の建造物を、システムとして区別するその設定はおそらく間違ってはいなかった。都市のインフラストラクチュアも大きな問題を抱えていることが白日の下にされたのであるが、全てが消費のメカニズムに吸収される、そんな論理が支配したのが戦後五〇年である。

 都市の骨格、すなわち、アイデンティティをつくりだすことに失敗し続けているのが日本の建築家である。単に、建造物を凍結的に保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、……ここでも議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を▽抉▽△えぐ△りだす。しかし、その解答への何らかの方向性を見いだす契機になるのかどうかはわからない。

 半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるはずだ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

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一九九五年九月一九日  スラバヤにて  

 

〈注〉

 

注1 「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』など

注2 長谷川尭『雄の視角 雌の視角』相模書房、一九七六年

注3 布野修司『戦後建築の終焉』れんが書房新社、一九九五年

 

2023年12月15日金曜日

変わるものと変わらぬもの、布野修司編:日本の住宅 戦後50年, 彰国社,1995年3月

布野修司編:日本の住宅 戦後50年, 彰国社,19953


 

変わるものと変わらぬもの

布野修司

 

 プロセスとしての住居

 戦後50年、日本の住宅はどう変わったのか。身近に振り返ってみよう。この半世紀に日本の住宅は歴史的大転換を遂げたといっていい。それぞれの住宅遍歴の足跡にもその変化の歴史をうかがうことができる筈である。

 1949(昭和24)年に生まれた筆者がどのような住宅遍歴を経てきたかについては実は既に書いたことがある。『住宅戦争』の「F氏の住宅遍歴」*1がそうだ。その都度場当たり的に住宅選択を積み重ねて来たように思っていたのであるが、それぞれの住居は時代の断面を浮かび上がらせて我ながら興味深いと思ったのである。

 生まれたのは藁葺きの民家、祖父の家である。出雲地方(島根県)に典型的な田の字型プラン(四ツ間取り)である。向かいに納屋があり、奥に続く畑の入り口に牛舎があった。出雲地方の民家といえば、築地松の散居村が有名である。棟が緩やかに反っており、他の地域とは明らかに違う。こうして地域毎に特色を残してきた民家は、戦後50年を通じてほぼ失われるに至った。茅葺き、藁葺き屋根がみるみる消えたのは1960年代の10年であった。

 生後8ケ月で移り住んだのが公営住宅である。1950年のことだから、ダイニング・キッチンを生んだ公営住宅の標準住宅51C型以前のタイプである。建築面積10坪。四畳半と六畳の二間に三畳の板の間と台所。戦後知られるようになった記号を使えば2D・Kだ。戦後日本の原住居といっていい住居である。床の間はなく、風呂もない。

 この戦後日本の原住居に結局18歳まで暮らすことになるのだが、妹ができ、弟が出来て、親子五人ではいかにも狭い。増改築が行われるのは当然であった。住居(ハウジング)はプロセスなのである。

 最初に風呂場を建てた。庭先に別棟で小さな小屋を建てた。自力建設である。近くの川原から小石を大量に運んできて割栗石にした。懸命に手伝った記憶がある。セルフビルド体験であった。大都市でも壕舎やバラックに1960頃まで住んだのだから、自力建設は何も珍しいことではなかった。最近では、余程余裕のある環境でなければ自力建設などできないだろう。

 中学に入る頃、大規模な増改築が行われる。公営住宅が払い下げられることが明らかになり、持家になる頃である。所有意識とセルフエイド行為は明らかに関係している。また、小学校入学、中学校入学が増改築のきっかけになるのも一般的なパターンである。「成長する家」という概念は、公共住宅に取り入れられることはなかったのであるが、実にリアルな概念である。

 しかし、よく住めたと思う。三年ほど前、京都の公務員宿舎に移り住んで3Kの空間を追体験するにおよんで、つくづく思う。住宅は広さなのだ。そして、環境なのだ、と。記憶の中の原住居の周辺には自然にみちていた。魚釣り水浴び、とんぼとりにメダカすくい、三角ベースやビー玉、メンコ、かくれんぼ・・・ありとあらゆる遊びの場所はそこら中にあった。兎も飼い、鶏も飼った。狭苦しかったという記憶はほとんどないのである。

 上京して、民間の学生寮に住んだ。鉄筋コンクリートの5階建て80室。ワンルーム、作りつけのベッド。今なら、大規模なワンルーム・マンションといった方がわかりやすいかもしれないが、寮は寮であり、食堂と共同浴場、洗濯場、トイレ等は共用である。集団生活の最初のトレーニングの場となった(向かいの部屋に佐伯啓思がいた)。こうした集団生活の場も少なくなりつつある。集まって住む経験というのは一旦故郷を離れるとそう一般的ではない。

 続いて、賄い付き下宿、木賃アパートと下宿遍歴を経て、庭先鉄賃、民間分譲マンション、そして、公団分譲住宅へ至る。「方荘号字」住み替え双六を辿った。一戸建てを建てる経験のみがまだない。

 親が土地を所有するかどうかで住宅遍歴は全く異なる。職業によっても異なる。また、住んだ場所によっても異なる。二世帯住宅やコーポラティブ・ハウス、建売住宅、プレファブ住宅、入母屋御殿、・・・様々な住居形態は見られるけれど、およそ想像がつくのではないか。首都圏でここ1、2年で供給されるマンション住戸の平均的イメージは、3LDK、20坪である。面積的にはむしろ後退している。驚くべき画一化である。地域性を喪失し、画一化の度合いを強めてきたのが戦後50年の日本の住まいである。

 

 戦後家族とnLDK

 現代日本の家族と住居を象徴するのは、nLDKという単純な記号である。日本の現代住居のモデルとしてnLDKが成立し、定着したたことこそ戦後最大の出来事である。

 このnLDKという住居形式とnLDK家族モデルはどのようにして成立したのか。誕生年がわかる。一九五一年である。51Cがその暗号だ。

 51Cについてはよく知られていよう。51Cとは公営住宅の標準プラン(間取り)につけられた符号で、一九五一年のC型という意味である。何故、この51Cという符号が記憶されるかと言えば、この51C型において、日本の戦後住居を象徴するDK(ダイニング・キッチン)が生み出され、2DKが誕生したからである。

 2DKはどのように生み出されたか、その原理とは何か。極めて単純な原理といっていい。食べる場所と寝る場所を区別することを第一原則とする、また、隔離就寝、すなわち、夫婦の寝室と子どもの寝室を分けることを優先する、そのために限られたスペースのなかで台所と食堂を一緒にする(ダイニング・キッチン)のもやむを得ない、というよく知られた食寝分離論*2がその基本原理である。公共住宅の住戸形式として考案されたこのDKという空間は、一戸建ての住居形式にも取り入れられ、近代住居のシンボルとしてあっという間に日本中に広まることになったのであった。

 建築的原理としてのその後の日本の公共住宅の住戸形式の展開もわかりやすい。食寝分離→公私室の分離→個室の確保という分離の論理と規模拡大の論理がその基本にある。実際、モダンリビングと呼ばれる居間空間が住居の中心に置かれ、2DKから3LDKへ、日本の標準住居が移行していったのは1960年代のことである。因みに、日本住宅公団が「全国統一標準設計」を確立するのは63型である。すなわち、1963年のことであった。

 日本の近代家族の成立をめぐって、戦前家族と戦後家族の連続、不連続の問題が議論される。日本の「家」制度は、決して封建遺制などではなく、近代において成立したものであることが主張され、戦前戦後の一貫性がむしろ強調される。家父長制の存続、一般的に言えば、近代家族に固有の抑圧性の存続がそこでの焦点である。また、核家族を近代家族の要件とするかどうかが問題となる。

 しかし、住居形式をみる限りにおいて、戦前戦後の転換は明らかである。床の間をもった和室や玄関は戦後の過程を通じて決してなくなりはしなかったけれど、その床の間の空間はある意味でプラス・アルファのスペースで家長の場所ではなくなって行く。戦前において、明治末から大正のはじめにかけて、武家住宅を基礎にして成立しつつあった中廊下式住宅に対して、「居間中心型住宅」が提案されるけれど、必ずしも一般化したわけではない。銘々膳からチャブ台へという変化も明治中頃からはじまっているが*3、一家団らんがすぐさま実現したわけではない。「食卓の民主化」の契機になったのはやはりダイニング・キッチンにおける椅子とテーブルの食事形式の一般化によってである。ダイニング・キッチンそしてnLDKという明快な形で家族の形が規定されるのはやはり戦後になってからである。

 このnLDKという住戸型がモデルとするのは核家族である。夫婦とその子ども、n人によってLDKを共有する形は、逆に、日本の戦後家族を規定していったということもできる。大家族制から核家族の自立、そして、核家族における個の自立という住み手の主体性の獲得を物質的に裏付けると同時に、戦後復興から高度成長期にかけて、都市化という社会変動を裏打ちしながら、労働力再生産の単位を一元的に核家族へと編成していく装置がnLDKでもあった。

 

 戦後住居と建築家

 戦後住居と建築家をめぐって振り返ってみよう*4。戦後まもなく、建築家にとって住宅の問題は最大の課題であった。住宅に対して、戦後50年、建築家がどう関わってきたのかは戦後建築史の大きなテーマである。

 ①戦後まもなくの、「住宅近代化」の指針は、浜口ミホの『日本住宅の封建制』(1950年)の「床の間」追放論、あるいは玄関廃止(玄関という名前をやめよう)論に典型的に示されている。また、最も包括的な指針となったのが、西山夘三の『これからのすまい』(1948年)の「新日本の住宅建設に必要な十原則」である。

 ②住宅問題に対するアプローチには、いくつかのレヴェルが想定されたが、「建築家」は、まず第一に、新たな住宅像の提示という役割を担うことになった。小住宅コンペにおけるモデル住宅の提案、最小限住宅のプロトタイプの創出に多くのエネルギーが注がれた。

 ③具体的な住居モデルの提示は、a.公的な住宅供給を前提とした回路、およびb.住宅の工業生産化を前提とした回路、そして、c.個別住宅設計の回路の三つにおいてなされた。三つの方向は、決して最初から分離していたわけではないが、やがて、その役割分担は明らかになっていく。a.は、集合住宅を対象とし、その住戸型、標準型をテーマとした。西山夘三とそのシューレ、吉武泰水とシューレなどが主体となる。b.は、戸建て住宅を対象とし、工業化手法そのものをテーマとした。前川国男(MID)、池辺陽、広瀬鎌二、増沢殉、内田祥哉などとそのシューレが先導的に担うことになる。

 ④「建築家」の住宅への関心は、しかし、1950年代に入って次第に薄れていく。ビルブームとともに、民間のオフィスビルや公共建築が主題となっていくのである。より具体的に、③のa.b.c.のそれぞれの方向をそれぞれ現実化する体制が用意されていったということがある。住宅金融公庫法の成立(1950年)、日本住宅公団の設立(1955年)、そして、ミゼットハウスの登場(1959年)である。

 ⑤基本的には、住宅の設計を原点とする建築家の真摯な活動は続けられるのであるが、近代住宅の現実化の過程で、日本住宅の伝統が問い直される。清家清らの「新日本調」、「ジャポニカ」の登場と伝統論争が1950年代半ばの状況を象徴する。近代住宅の理念を啓蒙していくモダニズムの立場と民衆の生活レヴェルからの変革を考えるリアリズムの対立がそこには既にあった。一般的には、小住宅作家として活動することが民衆の現実にアプローチする回路として重要視されていた。

 ⑥1960年代初頭、「建築家」の住宅との関わりは質的転換を遂げる。篠原一男の「住宅は芸術である」と八田利也の「小住宅作家ばんざい」が時代の転換を象徴する。1960年、年間新築住宅戸数60万戸。今日の水準からすれば、三分の一の数字であるけれど、高度成長期を迎え、圧倒的な量の建設が行われ始めたという背景がある。第一、1960年代を通じて、住宅産業が成立する。第二、日本住宅公団を中心とする公共住宅の供給が軌道に乗り出す。第三、建築家にとってアーバン・デザイン、都市計画が主題となる。ニュータウン計画も具体化されていく。日本の住宅のあり方をリードするのは住宅公団であり、1970年代以降、住宅メーカーがイメージ・メーカーとなって行く。そうした中で建築家は何をなしうるのか。作品としての住宅、芸術としての住宅がそこで仮構されたのである。

 ⑦1960年代を通じて建築家の関心は都市構成論に向けられる。そうした中で都市住居のあり方がテーマとなる。西沢文隆のコートハウス論、大谷幸夫のUrbanics試論がその代表である。しかし、その具体的な展開は大きな流れとはならなかった。建築家による住宅へのアプローチの次のステップのメルクマールとなるのが東孝光の「塔の家」である。理念のみでなく、都市に住むというしたたかな意志を建築化する象徴的な表現となった。1960年代末から1970年代始めにかけて、『都市住宅』誌が建築家と住宅の関わり合いのある断面を示している。プレファブ住宅が日本の社会に位置づく一方、建築家に住宅設計を依頼するクライアントが層として成立してきたことを示している。

 ⑧1970年代の前半に時代の転換点がある。それを象徴するのが毛綱毅曠の「反住器」であり、石山修武の「幻庵」である。それ以降、建築のポストモダンの流れが住宅において明らかになって行く。また、原広司の「最後の砦としての住宅設計」という意識、あるいは「住居に都市を埋蔵する」という方法意識が状況を表している。即ち、第一次、第二次のオイルショックを経験した1970年代は、一般の「建築家」にとって住宅の設計が限定された表現の場であるという意識があった。そこで、近代住宅、モダンリビング、nLDKを超える試みが住宅設計における課題とされた。そして、1980年代になって、バブル期をピークに、歴史的様式や装飾の復活、地域主義、ヴァナキュラリズム、コンセプチャリズム、・・・・百花繚乱のポストモダン状況が訪れる。

 ⑨高度成長期の終焉は、一見、住宅に関わるパラダイムの転換をもたらす。高層から低層へ、新規開発から再開発へ、画一性から多様性へ、・・・そして、量から質へ。こうした中で、低層高密度型の集合住宅が定着しはじめる。「六番池」、「桜台コートビレッジ」などがその先駆けである。また、槙文彦の数期にわたる「代官山集合住宅」は、都市型集合住宅創出の数少ないモデル・ケースとなっている。公共住宅の設計に建築家が関わる形が一般化し始める。

  ⑩住宅生産の変革は戦後建築家の大きな課題であったが、大野勝彦の「セキスイハイムM1」を先駆的仕事として、1980年代に入ると、住宅メーカーやディベロッパーを指導したり、企画型住宅を設計したり、建築家が住宅産業に積極的に関与する形態がみられるようになる。住宅生産の全体の中で大きなウエイトをしめるに至った住宅メーカーにインボルブされる形で仕事をするパターンも定着していく。

 ⑪1980年代後半、公共住宅の分野で新たな展開が開始される。「ベルコリーヌ南大沢」のマスター・アーキテクト制や熊本アートポリスにおけるコミッショナー・システムなど、新たなプロジェクトのシステムが導入されるとともに、景観形成、脱nLDKがテーマとなる。プロジェクト・システムとしては、磯崎新プロデュースのネクサス・ワールドもインパクトが大きい。外国人建築家によるハウジングの試みも、新たな位相である。

 ⑫1980年代初頭から展開された「地域住宅(HOPE)計画」は、地域型住宅のモデルを生んだ。また、地域に根ざした一群の建築家を生み出しつつある。また、その運動とも平行しながら、木造住宅の再評価の動きが展開されつつある。古民家再生の試み、古材のリサイクルなどの動きもある。また、雨水利用、太陽熱利用、ビオトープなど環境共生住宅(エコハウス)が主題とされつつある。

 

 これからのすまい:日本の課題

 戦後50年において、殊に、1960年代以降において、日本の住宅は決定的に変化したとみていい。決定的なのは、日本の住居全体がnLDKの単なる集合と化したことである。このnLDKという住居形式が理念化したnLDK家族モデルは、社会集団の単位をnLDKという単位に切り分けることにおいてラディカルであった。日本において1960年前後に登場した工業化住宅(プレファブ住宅)は、今や、年間の住宅生産の二割近くを占めるに至るのであるが、その前提としてnLDKという単位の成立が不可欠であった。住宅の工業化=商品化のためには、住居を計量可能な容器へと還元することが必要であり、具体的土地と一旦切り放す必要があった。nLDKという住居の記号化は、空間の商品化の趨勢と軌を一にするものでもあった。家族(核家族)の自立のために、住居を容器に還元する大きな役割を果たしたのがnLDK家族モデルなのである。

 核家族モデルが日本においてこうまで一般化したことは、ある意味で日本社会の均質性を示している。北海道から沖縄まで、同じnLDK住居モデルというのは、グローバルにみて極めて特異である。オイルショック以降、住宅の地域的なあり方が様々な形で提唱されるのであるが、それは日本の住宅から地域性が失われていったことの裏返しであった。また、住居の画一化が批判され、個性に基ずく多様性が主張され、様々なスタイルの住宅が現れ始めるのであるが、ポストモダン・デザインの百花繚乱にも関わらず、nLDKというパターンが揺らいだわけではない。それほど生活そのものが画一化されているのである。

 核家族モデルをnLDKという住居形式として定着させてきた日本のあり方に対して既に大きな疑問が提出されつつある。社会全体の高齢化や女性の社会進出による少子化といった現象に見られるように家族の形態が実態として多様化し、核家族の理念が揺らぎだしたことがその背景にある。また、身近な生活レヴェルでの国際化が進行し、文化的背景を異にする外国人と共住していく状況が生まれつつあることもある。そうした新たな状況を迎えて、コレクティブ・ハウジングなど多様な家族のあり方、住まい方が求められつつあるのに、決定的なのことは、そうした多様な家族のあり方をnLDKという空間モデルが原理的に許容しないことである。アルファルームとかフレックスルーム、キャラクタープランやフリープラン、ペア住宅、シニア住宅等々・・・新たな住戸形式が模索されつつあるようでnLDKという枠は揺らいではいない。問題は、どのような家族形態を規範モデルとするかである。住宅メーカーが極めて保守的に平均的モデルにターゲットを当て続けるとすれば、新たなモデルを提示する役割は建築家のものとなろう。

 家族関係がどうなっていくのかは、住居形式のみの問題では勿論無い。社会全体の編成の問題である。所有と使用の関係、社会的な規範、制度の問題が大きい。ただ、住居形式のモデルとしては、多様な家族関係をどう空間的に保証するか、nLDKを超える空間形式が原理的に問われているのである。

  多様な家族関係を考える場合に同時に問われているのが、所有の問題と共に、集合の問題である。戦後日本に定着し、日本の都市景観を変えた団地計画において、必ずしも、集合の論理は突き詰められてこなかったようにみえる。住宅・都市整備公団が199412月に出した「先導的な事業・技術開発」というパンフ*5に年表があるけれど、まちづくりの手法としては、「4時間日照」、「近隣住区理論」、「平行配置」、「連続プレイロット」、「歩車分離」といった概念から必ずしも豊富化されているようには見えない。「囲み配置」、「準接地」、・・・「マスター・アーキテクト制」と集合の論理そのものへの切り込みは希薄なのである。外部空間に関わる概念は比較的豊富化してきたのであるが、問題は内部と外部の関係である。そして鍵となるのは、共有空間である。多様な家族関係、集団関係をどのような共有・共用空間によって媒介していくか、様々な実験がもとめられているといえるであろう。

 課題は、積層形式における共有空間である。要するに、都市型住宅としてどのような集合住宅をプロトタイプとするかというテーマである。街路型住宅、景観形成型住宅がテーマとされるけれど、問題は型であって、ファサード・デザインではないことは明らかであろう。山本理顕の「雑居ビルの上の住居」(「Rotunda」、「Gazebo」)から「hamlet」、「保田窪団地」団地、「緑園都市」への試みは貴重である。また、「NEXT21」は、問題点も含んでいるが、一般解への試みと言っていい*6。日本の集合住宅の抱える問題点は、集住の論理の欠如(集住形式が確立されていない・日当たり南面指向が配置を規制・町並み形成に寄与していない・都市型住宅になりえていない・共有空間の欠如)、歴史の論理の欠如(社会的ストックになりえない・仮住まい意識の問題・高齢化の問題・日本の住まいの伝統の問題)、多様性原理の欠如(画一的なプランニング・経済原理の優先・政策の貧困)、地域性の論理の欠如、直接性の原理の不在等、既に広く確認済みである*7。キーワードだけは用意されてもいる。停滞なく緩慢にでも多様で地道なな実践が積み重ねられていくことだけが指針である。

 日本の住宅生産がどうなっていくのか、住宅産業はどう展開するのか、産業化の流れはどう帰着するのか、住宅生産供給主体はどう棲み分けていくのか等々は大きなテーマである。

 フローからストックへ!、スクラップ・アンド・ビルドではなく社会基盤としての住環境を!とよくいうのであるが、果たしてそれは可能か。住宅着工戸数を加えてみると、この30年で日本の住宅はそっくり建て替えられたことになる。要するに、日本の住宅は現在30年を耐用年限としてリサイクルしつつあるのであるが、これを50年、100年の循環に切り替えることは実際如何に可能なのか。容易ではないだろう。住宅生産者社会の編成、ひいては日本の産業構造、国民総生産の動向にかかわるからである。建設産業の従事者が例えば半減するとすれば、自ずと建設戸数は減少するし、耐用年限は伸びる。建築家として、個別になしうることは、素材を素材としての生命を全うさせる、あるいは再生循環させるありかたを追求することかもしれない。住宅メーカーのセンチュリー・ハウジング(百年住宅)は信用できない。

 日本の住宅地の景観は、日本の住宅生産構造のそのままの表現でもある。それが雑然としているとすれば、住宅生産システムが多様で混沌としているからでもある。この生産システムの雑然とした棲み分けの構造をどうすべきか。地域に固有な町並み景観の形成という観点からも再編成が考えられるべきであろう。景観形成のための材料や部品が安定的に供給されるシステムが地域毎に成立する可能性は果たしてあるのか。

 例えば、住宅メーカーやディベロッパーの住宅供給戦略の中で、地域の住宅生産システムはどうなっていくのか。まず、地域という概念をどう捉えるか。前提となる地域とは具体的には何なのか。特に、地域の住宅生産システムという時の地域とは何か。何らかの閉じた系が想定されているのか。そのスケール、空間的広がりをどう考えるか。あるいは、地域を問題とする戦略的意味は何か。

 地域の住宅生産システムのモデル、型にはどのようなものがあるか。生産者社会の組織体制、システムの内部と外部、およびその相互関連のネットワークはどのようにあるべきか。地域の住宅生産システムの担い手は誰か。その再生産の様式(後継者の養成)はどのように保証されるか。要するに、地域におけるこれからの住まい・まちづくりのあり方はどうあるべきか。 

 ひとりの建築家の営為を超えたテーマといっていい。そうした大きな制度的枠組みの中で、建築家は、住宅に対してどう取り組むのか。環境共生、ストック形成というけれど、個々の仕事で道筋をつけていく以外に方法はないのである。ただ、地域には多様な住宅ニーズがあり、それを満たすシステムが用意さるべきであるとすれば、建築家の仕事もその方向とは無縁ではありえないであろう。

 10年前に建築家の新たな戦略目標について考えたことがある*8。バブルで見向きもされなかったけれど、もしかすると、バブルが弾けて、よりリアルな指針となりつつあるのかもしれない。住宅産業化の流れの中で、「アーキテクト・ビルダーの原理」を探る道はないか、「小さな回路」を自律的に構築することはできないか、「地域に固有なハウジング・システム」を持続的に担う方法はないか、「住宅=町づくり」の方法を展開できないか、・・・*9

 戦後まもなくのように建築家が特権的に住宅のモデルを提示するスタイルは無効であるにしても、「建築家」は、多様な住宅像を型として創り出していく役割は持ち続けることになろう。 
























2023年11月24日金曜日

アジア都市建築研究会 講演・リスト、京都大学・滋賀県立大学、1995~2009 

 アジア都市建築研究会 講演・リスト、京都大学・滋賀県立大学、1995~2009 

 

第0回  「ラホールの都市空間の構造」山根 周 (京都大学)1995/04/24

 

第1回 「カメレオンシティー〜マレーシアに見た多民族居住の魅力〜」宇高 雄志(京都大学) 1996/04/19

 

第2回 「台湾 台中の住居集落〜社頭・埔心・大芽埔・下城里〜」齋木 崇人、横井 信子(神戸芸術工科大学)、堀内 研自(聚文化研究所) 1996/04/19

 

第3回  「韓国における都市空間の変容」 韓 三建(蔚山大学) 1995/07/21

 

第4回 「ひさし・植え込み・水」 沢畑 亨(水俣市久木野ふるさとセンター) 1995/10/20

 

第5回 「インドネシア・ロンボク島の都市、集落、住居とコスモロジー」 牧 紀男(京都大学)、山本 直彦(京都大学) 1995/11/24

 

第6回 「『東洋建築』の発見 〜伊東忠太をめぐって〜」 青井 哲人(神戸芸術工科大学)         1995/12/15

 

第7回 「台湾の町に何が起こっているか?〜台湾の社区総体営造(まちづくり)に関して〜」黄 蘭翔(台湾中央研究院 台湾史研究所)      1996/01/19

 

第8回 「日本のコリアタウンと私」吉田 友彦(京都大学) 1996/02/16

 

第9回 「タイの居住環境改善の試み」薬袋 奈美子(東京都立大学)、寺川 政司(神戸大学) 1997/02/21

 

10回 「タイとフィリピンのにおける居住環境整備〜15年後のコアハウス〜」田中 麻里(京都大学)赤澤 明(京都大学)1996/04/19

 

11回 「ジャイプール 〜ヒンドゥーの理想都市:インドの歴史都市の空間構成について〜」荒 仁(三菱総合研究所) 1996/05/17

 

12回 「サイバー・アーキテクチュア Cyber Architecture」浜田 邦裕(濱田建築事務所、京都精華大学) 1996/06/21

 

13回 「十五年戦争と建築 <帝冠様式>とは何だったのか?」井上章一(国際日本文化研究センター)、布野修司(京都大学) 1996/07/19

 

14回 「四川省羌族の住居と集落」高岡 えり子(京都女子大学) 1996/10/18

 

15回 「熱帯植民地都市計画序説〜旧)イギリス植民地の公衆衛生と都市計画〜」泉田 英雄(筑波大学) 1997/11/15

 

16回 「京都の都市空間と地蔵」竹内 泰(三菱地所) 1996/12/20

 

17"The Influence of Buddist Bihara on the Formation of Patan City of Kathmandu Valley" Mohan Pant(京都大学) 1997/01/17

18回 「新店市広興里の集落空間と祭祀構造」闕銘崇(京都大学) 1997/02/21

 

19回 「インド都市研究への視点 〜植民都市を中心として〜」飯塚 キヨ 1997/05/23

 

20回 「新旧2つのデリー」応地 利明(京都大学) 1997/06/20

 

21回 「巡礼都市・ラサ 〜チベット・ラサの都市空間構成〜」森田 一弥(森田一弥建築研究所) 1997/10/17

 

22回 「都市・[余白]−風景 〜京都の都市空間構成〜」渡辺 菊眞(京都大学) 1997/11/21

 

23回 「植民都市研究の枠組について〜Robert Home "Of Planting and Planning" に即して〜」安藤 正雄(千葉大学) 1997/12/19

 

24回 「ネパール・マンダラ 〜ネワール集住地の空間構成」黒川 賢一(竹中工務店)1998/01/16

 

25回 「日本植民地と神社造営〜台湾・朝鮮における神社の歴史と現在〜」青井 哲人(神戸芸術工科大学)1998/02/20

 

26回 「到胡同去(ダオ フォトン チュイ)!〜胡同に行こう!」鄧 奕(京都大学) 1998/04/17

 

27回 「地域とのかかわり 〜しまね・アジアの経験から〜」脇田 祥尚(島根女子短期大学) 1998/05/22

 

28回 「市場空間の成立と変容 〜香港都市形成史の一断面〜」木下 光(関西大学) 1998/06/17

 

29"The Future of Indonesian Cities in regional context before and after the Crisis" Johan Silas(スラバヤ工科大学、京都大学) 1998/11/02

 

30回 「発展途上国における地域開発と歴史的環境の保存〜パキスタン・ガンダーラ遺跡保存事業の経験から」増井正哉(奈良女子大学)1998/12/25

 

31回 「生活行為の屋外展開についての一考察〜中国での路上観察を通して見た人々の生活と空間意識」山村 高淑(東京大学) 1999/02/19

 

32回 「旧満州における日本人居住者の存在形態 〜奉天市を事例として〜」Rosalia AVILA-TAPIES(京都大学) 1999/04/16

 

33回 「日本城下町論 〜ユーラシア都市史のなかにおける〜」応地 利明 (京都大学) 1999/05/21

 

34回 「東北アジア近代における都市空間の形成〜ロシア極東・中国東北地方を事例として〜」佐藤 洋一 (早稲田大学) 1999/06/25

 

35回 「カリンガ族の集落と住居」平田 隆行(神戸大学) 1999/10/25

 

36回 「北タイ・アカ人の家屋とその継承」清水 郁郎(総合研究大学院大学) 1999/12/16

 

37回 「ヨーロッパ列強進出期(1600-1800年)における〜世界のオランダ植民地の都市計画〜」Ron van Oers(デルフト工科大学) 2000/03/10

 

38回 「921集集大震災災後の重建計画および社区総体営造」林 宜萱、闕 銘崇(京都大学) 2000/04/28

 

39回 「西欧近代の都市計画とアパルトヘイトシティ〜南アフリカ植民都市論〜」佐藤 圭一(京都大学) 2000/06/02

 

40回 「タイにおける都市と農村の住居」田中 麻里(群馬大学)2000/06/16

 

41回 「ChaophrayaDelta南部地帯における水辺集落に関する研究〜Bankoknoi上流域圏内を対象に〜」Terdsak Tachakitkachorn (Chulalongkorn University2000/10/13

 

42回 「中国における住環境整備の最前線」梁 咏華(中国建築技術発展研究センター) 2000/10/27

 

43 "Planning and Growth of Nepalese Cities  Through History" Prof. Sudarshan Raj Tiwari (Institute of Eng., Tribhuvan Univ, Kathmandu) 2000/11/02

 

44回 「アーメダバードとパタン(グジャラート、インド)の空間構成」根上 英志(神戸大学) 2000/12/22

 

45回 「『聖地』・ヴァラナシ 〜宗教都市の都市空間構成」柳沢 究(京都大学)2001/04/20

 

46回 「インド西部地震現地調査報告 〜被害状況と災害マネージメント〜」牧 紀男(防災科学技術研究所)、山根 周(滋賀県立大学)2001/05/25

 

47 "Social and Spatial Structure of Kathmandu Valley Towns -The Case of Thimi- " Mohan Pant モハン・パント(京都大学) 2001/06/15

 

48"Gentrification in Urban Conservation : The Case Study of Rattanakosin Historic Center of Metropolitan Bangkok" Jaturong Pokharatsiri King Mongkut工科大学 都市計画学科) 2001/10/08

 

49回 「旧満州大連市における住宅供給の起源とその展開〜南山住宅地区を中心として〜」山本 麻子(京都大学) 2001/11/28

 

 

50回「ロンボク島の空間構造」脇田 祥尚(島根女子短期大学・講師) 2002/12/21

 

 

51回「植えつけられた都市 〜英国植民都市の形成〜」ロバート・ホーム(東ロンドン大学・講師) 2002/02/24

 

 

52回「オランダの国土・地域政策 〜計画がすべてに優先する国」角橋徹也(神戸大学) 2002/04/26

 

 

53 「『清代・乾隆京城全図』から見た都市空間の解読」DENG YI トウ・イ(神戸大学・工学博士) 2002/05/24

 

54回「フィリピンの都市計画と住宅建築の形成と展開」山口 潔子(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科) 2002/06/28

 

55回 「ムンバイ、ブラックタウンの空間構成とチョール」池尻 隆史(千葉大学) 2002/10/28

 

56回 「コチン(インド)の文化遺産保存区域の空間構成」山田 協太(京都大学) 2002/11/28

 

57回 「日本植民地期における韓国の日本人自由移民漁村の形成とその過程−巨文島・巨文理を対象として」朴 重信(京都大学) 2002/12/27

 

58回 「諏訪大社の御柱祭」下平 わか奈(京都大学) 2003/04/25

 

 

59回「植民地期のPMロードとプリンセスストリートにおける沿道整備事業」重富 淳一(大阪大学) 2003/05/23

 

60回「間接統治下の王宮都市:インド・マイソール市の都市改造について」 池亀 彩(京都大学) 2003/06/27

 

61‘French Colonization and changes of Djenne and Bamako city forms, Rep of Mali Tradition and modernization of West African cities’ Moussa Dembele(京都工芸繊維大学) 2003/11/28

 

62‘Religious Infuluences on Laying Out of Historic settlements in Sri Lanka:スリランカの伝統的都市・村落の配置における宗教的影響)’ Samitha Manawadu(モラトゥワ大学助教授)2003/12/26

 

特別講演 ポルトガル植民都市計画Clara Mendes, Ph.DFull Professor, Geography and Urban Planning,  Faculdade de Arquitectura da  Universidade Tecnica de Lisboa2004/04/26

 

63回「Stupa and Swastika--The Planning principles of Patan, Kathmandu Valley Mohan Pant(京都大学) 2004/04/30

 

 

64回「三浪津の鉄道町における日式住宅の形成とその変容」趙聖民(滋賀県立大学大学院修士課程)2004/05/28

 

65‘21st Century Sri Lankan Architecture’ Samitha Manawadu(モラトゥワ大学助教授)2004/06/25

 

66‘Challenge in Tradition: Raft House Community in Thailand’ Dr. Chaweewan DenpaiboonInstructor, Faculty of Architecture, Thammasat University2004/10/27

 

67‘FORMATION AND TYPOLOGY OF SHOPHOUSE IN THE OLD CHINESE QUARTER OF PATANI, THAILAND:タイ・パタニーの旧華人居住地のショップハウスの形成と類型に関する考察’ Nawit ONGSAVANGCHAI(京都大学)2004/11/30

 

68回 「日本植民地期における韓国の日本人移住漁村の形成とその変容」朴 重信 (工学博士・京都大学)2005/04/28

 

69回 「東九条(京都)の在日朝鮮人集住地区の形成過程と居住空間の変容に関して」韓勝旭(京都大学大学院博士課程) 2005/05/27

 

70回(第2期第1回) 「韓国の邑城」韓三建(蔚山大学建築学部副教授)2007/10/26

 

71回(第2期第2回) 「西安旧城・回族居住地区の空間構成」川井 操(滋賀県立大学大学院博士課程)2007/11/22

 

72回(第2期第3回) 「バドレシュワル、ムンドラ、マンドヴィの都市空間構成〜インド・カッチ地方にみるインド洋海域の港市の構成〜」岡村 知明(滋賀県立大学大学院博士課程) 2008/01/25

 

73回(第2期第4回)「アジア都市論の再構築−中国都市史研究を素材として−」応地 利明(立命館大学教授) 2008/03/26

 

74回(第2期第5回) 「日本植民地期における韓国・鉄道町の形成とその変容」趙 聖民(滋賀県立大学大学院博士課程) 2008/04/25

 

75回(第2期第6回) 「フィリピンの聖アウグスティヌスの教会の建築様式について」Jimenez Verdejo, Juan Ramon(滋賀県立大学・講師) 2008/05/23

 

76回(第2期第7回) 「変容する聖地の都市空間:ヴァーラーナシー」柳沢究(神戸芸術工科大学・特別研究員)2008/06/27

 

77回(第2期第8回)「砂上の楼閣をこえて−あらたなる東南アジア史のために−」佐藤 浩司 (国立民族学博物館)、「興亡の世界史−海洋世界のネットワーク−」応地 利明 (京都大学名誉教授)2009/03/27

 

78回(第2期第9回) 「タイ・ルーイ族住居の空間構成とその変容に関する考察」チャンタニー・チランタナット(滋賀県立大学大学院博士後期課程)2009/06/26