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2025年2月13日木曜日

スクオッターのいる風景,at,デルファイ研究所,199206

 

スクオッターのいる風景

                布野修司

 

 東南アジアの大都市を特徴づけるのが河沿いのこうした風景である。スクオッター(不法占拠者)たちの織りなす風景だ。

 農村から流入してきた人々は、空いている土地をみつけて住みついた。大抵は居住に適さないために放置されていた土地である。湿地帯が多い。あるいは未利用の公共用地が選定される。中でも目立つのが、鉄道沿線沿いの空間である。そして、スクオッターたちの居住地を最も象徴する風景がこうした河沿いの風景なのである。

 スクオッターたちのこうした居住区は、しばしば、マージナル・セツルメント(境界的(周縁的)居住地)と呼ばれる。考えてみれば、古来、河川敷は河原者たちの空間であった。境界線(所有関係)が曖昧だということもあろう、異人、他所者、乞食(ほがい)人、流れ者、流浪の民が集まってくるのが河原だったのである。

 写真はインドネシアのスラバヤのあるカリ(川)である。物理的な居住環境の条件として、もっと劣悪な場所ももちろん多いのであるが、ここだけは印象深い場所である。十年見続けてきたからである。幾たびに訪れる場所である。

 このカリの近くに大きな市場があって、ここの住人たちは、パサール(市場)に関わる仕事に携わっていた。パサールには人が集まる。人が集まれば、色々なサービスが必要になる。例えば、人々が食事をとるから、各種の屋台が集まってくる。ラーメンや雑炊、焼き鳥に野菜サラダ(ガドガド)、実に種類は多い。仕事を分けあって、みんなで稼ぐのである。

 このカリに住んでいたのは、東ジャワの農村から出てきた人々であった。同じ村から来たというグループも住んでいた。意外かもしれないけれど、こうした不法占拠地区にも、きちんとした住民組織がある。インドネシアの場合、隣組(ルクン・タタンガ)、町内会(ルクン・ワルガ)というコミュニティー組織の秩序は徹底しているのである。

 住居の一方の壁は、表通りの邸宅の裏壁である。ちゃっかり借用している。河の両側とも、奥へ至る通路が真ん中を通っている。河に迫り出した部分が洗濯したりする作業スペースである。驚いた事に中程には井戸が掘られてあった。

 彼らは、税金を納めているのだと主張していた。何がしかのお金を支払って、居住を認めてもらっていたのである。行政当局も追い立てても、すぐ舞い戻って来るのだから目をつぶらざるを得なかったのである。

 ところが、二年ぶりに訪れてみて驚いた。住居が跡形もなく撤去され、鉄格子がはめられているのである。ついに命運つきたか、と感慨に浸りながらよくみると、なにやら、小屋掛けのようなものが見える。再び不法占拠が始まっているのだ。

 また来るときには、果たしてもとのように雑然とした風景が蘇っているのであろうか。

 

  


2025年2月11日火曜日

書斎の私   東京-京都の移動する書斎,建築文化,199203

 書斎の私                       布野修司

 

 この半年は東京と京都を往復する生活が続いたから、随分と本を読んだ。といっても、新書が中心である。東京・京都間はざっと目を通すのに丁度いい時間なのである。新刊の新書はほとんど全部読んだ。『デパートを発明した夫婦』、『芭蕉の門人』、『現代アフリカ入門』、『産業廃棄物』、『竹の民俗誌』、『東京の都市計画』、『キャッチフレーズの戦後史』、『客家』、『漫画の歴史』、『国境を越える労働者』・・・、要するに乱読である。鞄の中に3、4冊の本が入ってないとなんとなく暇を持て余しそうで、つい軽くて重ばらないものを買い占めて乗車することになる。従って、この間の私の書斎は専ら新幹線の車中ということだ。

 本来の書斎たるべき研究室は、着任早々インドネシアに出かけたこともあって、未だそれらしい相貌をしていない。そこで、かなり意識的に読んでいるのは京都に関する本である。不案内な土地についての情報が欲しいという直接的な動機がある。もともと古代史には興味があるので、具体的な土地の雰囲気を肌で感じながら、京都や奈良の歴史の本を読むのは楽しい。春からは京都の町を歩こうと思う。いつの日か我流(がりゅう)の京都論が書ければと思う。

 専門的に読むのは、アジア、それもインドネシア関係の本が多いのだけれど、最近病みつきになりそうなのが、風水、マナサラ(インドの建築書)、プリンボン(ジャワの風水書)に関する本である。『風水思想とアジア』(渡邊欣雄 人文書院 一九九〇年)、       デ・フロート、『中国の風水思想ーー古代地相術のバラードーー』(牧尾良海訳 第一書房  一九八六年)、『朝鮮の風水』(村山智順 朝鮮総督府 一九三一年 国書刊行会・覆刻 一九七二年)、『龍のすむランドスケープ』(中野美代子 福武書店 一九九一年)、『中国人のトポス』(三浦國雄 平凡社)・・・、随分と風水に関する本がある。秘かなブームになっているのかもしれない。マナサラ、プリンボンとの比較が楽しみなのである。

 

2025年2月5日水曜日

デザインを売る新商売 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 デザインを売る新商売          

                布野修司

 

 このところずっとデザイン・ブームである。ポストモダニズムのデザインが喧伝されて久しいのであるが、それを支えてきたのは、まずは、ファッション界やアパレル産業など流行に敏感な先端部門であった。そして、様々な商業部門が続いた。すなわち、商業建築のデザインがポストモダニズムのデザインを採用することにおいて、建築デザインは脚光を浴びてきたのであった。

 ところが最近すこし様子が代わってきたようにみえる。大手企業、商社がデザインの専門部署を設立したり、異業種同士が手を結んでデザインを研究するネットワークをつくったり、デザインがこれまで以上に商品として着目されつつあるのである。雑誌『室内』(2月号)が「「デザイン」を売る新商売」と題してデザインビジネスの新たな動向を紹介している。

 建築関連の様々な企業がデザイン・スクールを設立したり、デザイン情報誌を出したり、デザイン・ミュージアムを開設したりするのは自然であろうが、商社が何故デザインなのか。総合商社はなんでも扱うのであるから不思議はないともいえる。しかし、その商社がデザインに眼をつけ始めたということは、モノばかりでなく、デザインが一般的な商品となることを確実に示していよう。確かに、今や、はるか以前からモノよりイメージの時代なのである。

 では何故、異業種や大企業がデザインをテーマにするのか。デザインのもつ統合力が求められているからである。異業種や大企業の各部門を統合するイメージが求められ、コーポレート・アイデンティティー(CI)としてデザイン戦略が必要とされているのである。

 デザインがビジネスになることは、建築家にとっていいことかもしれない。事実、幾人かの建築家は方々で売れっ子である。しかし、全体としてみるとどうか。建築の分野がありとあらゆる分野から蚕食されつつあることを意味してはいないか。

  

 

2025年2月4日火曜日

世紀末建築論の予兆 ,建築思潮Ⅰ『未踏の世紀末』,学芸出版社,199212

 世紀末へ


世紀末建築論の予兆           

                布野修司

 

 世紀末である。この世紀末へ向かう十年の間に建築に何が起こるのであろうか。フランス革命の頃、ルドゥやブレーなどの建築家が現れ、球体や円錐形など斬新な建築ヴィジョンを提示したのが一八世紀末である。産業革命からロシア革命にかけて近代建築の胎動において、鉄という素材を駆使したアールヌーヴォーの華が開いたのが一九世紀末である。そうした世紀末を思い浮かべてみると、何となく激動の予感がしてこないか。

 革命、あるいは急激な社会変動が、建築的想像力を刺激し、解放することは以上を思い浮かべるだけでも明らかである。今、湾岸戦争が世界を揺さぶりつつある。東欧の民主化が加速度的に進み、ソビエトの体制が搖れている。世界の枠組みが大転換するなかで、建築もまた大きく変化していくのであろうか。

 そうした世紀末を見通すかのような本がでた。磯崎新と多木浩二による対談集『世紀末の思想と建築』(岩波書店)である。帯に「建築と批評をめぐる現在にケリをつける徹底対談」とある。ケリがつけられているかどうかは疑問であるが、忙しすぎて全く議論がなくなったかのような日本の建築界に一石を投じていることは間違いない。

 「六八年にすべての源があった」で始まる対談は、この二五年を五年づつ五期に分けて振り返っている。六八年は、「五月革命」の年である。世界中で学園闘争の嵐が吹き荒れた年である。この文化革命が結果として産んだのは何だったのか。果してポストモダニズムに行きつくより他に道はなかったのか。政治、資本主義、テクノロジー、形而上学等々、建築をめぐってテーマは拡散するのであるが、全体の通奏低音になっているのは六八年におけるラディカリズムの行方である。

 全ての枠組みが失われつつあるかにみえる現在、建築の根拠は何なのか、創造の源泉は何なのか。それを見抜いた建築家のみが世紀末を生き抜き、二一世紀への展望を持つことができる。対談を読みながら、そんなことを思う。



2025年2月1日土曜日

マレー半島のミナンカバウ,at,デルファイ研究所,199212

 マレー半島のミナンカバウ,at,デルファイ研究所,199212

マレー半島のミナンカバウ

                布野修司

 

 ミナンカバウ             族と言えば、西スマトラである。パダンからブキッティンギにかけて三百万人が居住する。現存する世界最大の母系制社会を形成することで知られている。

 そのミナンカバウ族の住居もまたよく知られている。多様なインドネシアの住居の中でも代表的なものとしてしばしばとりあげられるところだ。

 棟が弓のように曲線を描く。両端はゴンジョング         と呼ばれる尖塔である。屋根は切妻もしくは入母屋で、地域によって異なるのであるが、横から見ると水牛の角に見えるというので、水牛の角をシンボライズしたという説がある。ミナンカバウとは、マレー(インドネシア)語で、「勇敢な水牛」(勇敢な        水牛       )という意味なのだがどうか。

 平面構成は規模によって異なる。日本のゴンジョングを持つ、九本柱の家、あるいは十二本柱の家が原型であるが、大きい家になるとゴンジョングを四本、さらに六本持つものがある。

 ただ、基本的な構成原理は同じで明快である。平入りで中央に入り口が設けられ、前面は家族のための共用スペースとして用いられる。後ろ側がスパン毎に壁で区切られ、それぞれ既婚女性の家族に割り当てられる。大規模な住居では五十室(スパン)に及ぶものもあったという。また、家の前には一対の米倉が置かれるのがフォーマルである。

 ところで、ミナンカバウ族というと、もうひとつムランタウ          (出稼ぎ、広義には知識、富、名声を求めての出村)慣行で知られる。ジャカルタなど西スマトラ以外に多くが移り住むのであるが、マレーシアのマラッカ近郊、ヌガリ・スンビラン(九つの国の意)州にも出かけている。

 興味深いのがその住居である。一見、西スマトラの住居とは全く違うのである。同じ民族でありながら住居形態が違う。地域的な条件が異なれば、住居の形態も異なるのは当然なのであるが、一方、出身地域の住居形態をそのまま建てるということもよくある。ジャカルタやスラバヤへ出てきた地方出身者が田舎と同じ様な住居を建てるのがその例である。

 しかし、ミナンカバウの住居が横へ伸びていくパターンであるのに対して、ヌガリ・スンビランのミナンカバウの住居は、前から奥へ縦方向へ伸びていく。いくつかの棟を前から後ろへ並べて行くのである。みるところ、この形式は必ずしもマラッカ周辺の伝統的民家ではなさそうだ。この差異は何によるのか、このへんが面白いところである。

 さらに面白いことがある。前面の建物の棟の左右を注意して見て欲しい。少し、斜めに上がっている。本家ように優美な曲線ではなく、ぎこちない直線であるが端部が沿っている。これをどう解釈するか。マレー半島へ移住していったミナンカバウ族はそこに自らのアイデンティティを表そうとしたのではないのか。


2025年1月31日金曜日

マンクヌガラ宮殿のプンドポ,at,デルファイ研究所,199211

マンクヌガラ宮殿のプンドポ,at,デルファイ研究所,199211


マンクヌガラ宮殿のプンドポ

                布野修司

 

 プンドポ         というとジャワの伝統的住居に固有な建物、スペースである。壁のない屋根だけのオープンなパヴィリオンとして、主屋の前に置かれ、フォーマルな集いや儀礼に使われる。このプンドポは、ソロ(スラカルタ)のクラトン(王宮)、マンクヌガラ宮殿                      の小プンドポである。ここはダイニング・ホールとして使われる。

 設計者は、オランダの建築家、H.T.カールステンである。蘭領東インドでH.M.ポントと並び称せられる建築家であった。H.T.カールステンは、ポントに比べるとはるかに多くの作品を手掛けている。    年に、H.M.ポントから事務所を譲り受けると、まず、依頼を受けたのが、このマンクヌガラ宮殿の増築である(         年)。プンドポ・アグン(主殿)の改修より、この小さなプンドポがこじんまりといい。気に入られたのであろう。    年から    年にかけてもマンクヌガラ宮殿の仕事をしている。

 スマランの保険会社のオフィス(    年)、ソボカルティー劇場          年 を始めとして、ソロの中央駅(    年)、ジョクジャカルタのソノブドヨ博物館(    年)などが、H.T.カールステンの代表作である。

 H.T.カールステンにとって、伝統建築と近代技術をどう調和するかが大きなテーマであった。彼が力説したのは、ヨーロッパのスタイルをそのままジャワへ持ち込むことが誤りである、ということである。あくまで、生きているジャワのスタイルを出発点にすべきことである。また、彼は、伝統的な建築技術を新しい材料や建築に適用しようとしている。このプンドポの軽快な構造もその試みのひとつである。

 H.T.カールステンの仕事は、さらに広い。住宅問題や都市計画の分野の仕事である。社会への関心を失わなかったのがH.T.カールステンである。その都市計画思想について詳述する余裕はないのであるが、前提として予め退けられていたのは、ここでも西欧の理論をそのまま適用すればいいという態度である。スタティックなマスタープランではなく、ダイナミックな計画、有機的な全体性の必要も彼の強調するところである。

 こうしたH.T.カールステンの仕事は、一方で、都市計画法の制定につながっていくのであるが、戦前期のインドネシアで注目すべきなのがカンポン・フェアベタリング(                   カンポン改善事業)である。このオランダによるカンポン・フェアベタリングは、今日のカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )の先駆とも見なされる。カンポンの居住環境にも意を注いだのがH.T.カールステンである。

 H.T.カールステンは、    年、日本軍の収容所で死んだ。  才であった。

 

 

2025年1月27日月曜日

ジープニー,at,デルファイ研究所,199210

ジープニー,at,デルファイ研究所,199210 


ジープニー

                                 布野修司


 

 マニラを初めて訪れたのは一九七九年のことだけど、いきなり度肝を抜かれたのがジープニーのデザインであった。ジープニーというのは、フィリピンを訪れたことがある人であれば誰でもご存知であろう、ジープを改造した乗合自動車のことである。それぞれが実に派手派手しく、思い思いに飾りたてられている。過剰なデザインの競演。日本のトラック野郎も真っ青である。

 マニラの町を無数のジープニーが騒々しく走り回る。マニラといえばジープニーというのが僕のイメージである。マニラの都市景観の一部にジープニーはなっている。

 しかし、それにしても人は何故車を飾りたてようとするのであろうか。日本でもトラックに限らず、改造車ブームがある。日本では、一部マニアの趣味にみえるのであるが、ジープニーをみると、車を飾りたてたいという欲望はもう少し一般的なようである。他の国では、アフガニスタンの派手な乗合バスも有名である。人目を引きたい、自分のものであることを誇示したい、キッチュの原理がそこにもあるといえるであろうか。

 僕が興味をもったのは、ジープニーのデザインを支える部品のシステムである。勝手気ままにデザインされているようでいて、実はその自由さを支えるシステムがあるのである。そして、ジープニーの装飾システムは、身近な生活に想像以上に侵入しているのである。

 そこここのバランガイ(住区)を歩く。そこら中でジープニーの修理が行われている。そして思い思いの装飾品が手作りで作られている。大抵中古品だ。そして、屋台のようなオートショップでは、各種の装飾部品が売られているのである。

 ジープニーの工場もいくつか行ってみた。裸のままのジープが並んでいた。もちろん、新品(?)のジープニーもあるけれど、多くは裸のままで売られ、それぞれで仕上げを行うのが一般的なのである。

 裸の躯体、エンジンなどの内燃機関、装飾・仕上げ、三つの部分系はある意味で明快である。そして、少なくとも仕上げの段階は誰にも開かれている。好き勝手にデザインができる、そうした余地がそこに生み出されるのである。

 ジープニーに余程魅せられたのだろう。一冊の写真集をものしたのが、E.トーレスとE.サンチアゴである(註1)。出たばかりのその本を手に入れて、これはR.ヴェンチューリの『ラスベガス』に匹敵すると、何となくにんまりしたことを思い出す。その本によると、六〇年代は、ペンキで絵を画く程度であったという。馬やミラーや旗など矢鱈に装飾部品がつけられるようになったのは七〇年代のことである。

 九〇年代に入って、石油資源の節約、交通問題を理由として、ジープニーは次第に少なくなりつつあるという。そうだとすると、ジープニーを飾りたてたいという欲望は、果して、どこに向かうのであろうか。

2025年1月17日金曜日

四本柱のモスク,at,デルファイ研究所,199207

 四本柱のモスク,at,デルファイ研究所,199207


四本柱のモスク

                布野修司

 

 モスクといえば、玉葱坊主である。中近東の壮麗なモスクがすぐ頭に浮かぶ。しかし、東南アジアになるとだいぶ様子が違う。

 東南アジアのイスラーム国家というとマレーシアとインドネシアであるが、どうも未だにモスクのスタイルを確立しかねているようにみえる。多様なスタイルが並存しているのである。もちろん、モデルはイスラームの中枢地域に求められ、玉葱形のドームが木造でつくられたりしているのであるが、何故かしっくりこないようなのだ。というより、偶像崇拝禁止の宗旨からであろう、キブラ(メッカの方向)にミフラーブ(ニッチ、窪み)をもうけるだけで、あっけらかんとした空間だけがあればいいというのが一般的態度なのである。

 そこで興味深いのは、土着の建築形態や様式がまず借用されることである。インドネシアの場合、例えば、ヒンドゥー教の寺院であるチャンディがモスクとして利用された。残っている例では、東ジャワのクドゥスのモスクがよく知られている。

 また、ジャワの場合でいうと、ジョグロと呼ばれる伝統的民家の架構形式が用いられた。ジャワで最初にイスラーム化されたというデマのモスクやマタラム王国の王都であるジョクジャカルタやスラカルタ(ソロ)のクラトン(王宮)やモスクもそうである。もっとも、土着の木造建築の技術をベースにするのは極く自然のことであろう。

 そうした中で、インドネシアのモスクの初期形態と思われるのが、この四本柱のモスクである。これは、ロンボク島の北部山地、バヤンという村のモスクであるが、この形態のモスクは南部のスンコルという村にもある。そして今建設されるRC造のモスクの多くもこうした形態を採っているところをみると、少なくともロンボク島のモスクは木造の四本柱のものが原型になっていると考えていいのではないか。

 この四本柱のモスクの形態はどこから来たのか。まったくの推測であるが、ジャワ、バリで見られるタジュクという方形(ほうぎょう)の形式からではないか。ハイサイド(高窓)から光を採る形式は、三重、五重のバリ島の寺院の塔の形式によく似ている。しかし、よく見るとプロポーションが違う。形態と規模だけでみると、北スマトラのバタック・カロの住居によく似たものがあるが、その住居には明かり窓がない。

 バヤンは、イスラーム化されたにもかかわらず、土着の文化を保持するワクトゥー・トゥル(正統派ムスリムは、ワクトゥー・リマ(一日に五回お祈りするという意味)という)と呼ばれる人々の集落である。中には梁から吊るされた太鼓がある。また、ミフラブの前には水の神ナーガを象徴する装飾を施されたミンバール(聖書台)がある。イスラームと土着の文化が接合する状況においてこうしたモスクが生み出されたことは間違いないのであるが、果たしてどうか。

2023年10月17日火曜日

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...