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2023年3月8日水曜日

パッシブ・ソ-ラ-・システム・イン・インドネシア,雑木林の世界93,住宅と木材,199705

パッシブ・ソ-ラ-・システム・イン・インドネシア,雑木林の世界93,住宅と木材,199705

雑木林の世界93

パッシブ・ソーラー・システム・イン・インドネシア

布野修司

 「エコ・ハウス・イン・スラバヤ」(雑木林の世界75)を構想し、「パッシブ・アンド・ロウ・エナジー」(雑木林の世界92)で予告したインドネシア版エコハウス(環境共生住宅)のモデル住宅を実際に建設することになった。正直に言って、意外に早い展開である。(財)国際建設技術協会(IDI)の途上国技術協力プログラムの一環として取りあげられることになったのである。

 京都大学の東南アジア研究センターの派遣でインドネシアを訪れる機会があり(三月一二日~三〇日)、スラバヤにも足を伸ばし、具体的なデザインについて検討することになった。今回は、事前アナウンスメントということであったが、スラバヤ工科大学(ITS)の学長とプロジェクトの実効についてまず基本的に合意することになった。

 様々な経緯があり、様々な形態が模索されたけれど、結局、IDIとITSとの協力関係として実行することになった。そう大きくないお金であり、用地もITSキャンパス内に容易に確保できることから、また、建築確認等手続きもよく知ったネットワークにおいてスムースにできることから、スラバヤをプロジェクトの実施場所に推薦したのは僕である。J.シラス教授をリーダーとするスラバヤのチームとは、もう一五年近くのつき合いである。長年のつき合いに基づく、J.シラス教授への絶対的信頼が背景にある。

 初年度で建設を行い、二年度では測定を行う。

 さて、どういうモデルを考え、建設するのか。一応、事前に、案をつくったのであるが、とても予算が合わないことがわかった。僕らとしては、戸建て住宅ではなく、集合住宅(ルーマー・ススン)のモデルを実験すべきだという判断があり、どうしてもある程度の規模が必要となるのである。

 丁度、J.シラス教授が自宅を建設中であり、工事単価が参考になる。いくら物価の違いがあるとはいえ、可能なのは戸建て住宅程度の規模である。そこで、スケルトンだけつくって、次第に仕上げるという案が浮上しつつある。

 建設後、一年かけて測定を行うこともあり、完全に内装を仕上げないものも含めていくつかのタイプをつくってみよう、というのがひとつのアイディアである。

 技術的に検討しているのは、ダブル・ルーフ、ソーラーチムニー(ダブル・ウオール)、クール・チューブ、ロング・イーブズ(シャドウイング)、デイライティング、ソーラー・バッテリー、クロス・ベンチレーション、イグゾウスト・ヴェンチレーション・・・等である。

 カタカナで書くと、何やら新技術のようであるが、基本的な概念はパッシブであり、人工的な機械力に頼らず、自然の力、エネルギーを有効利用しようということである。

 ダブル・ルーフ、ダブル・ルーフは、空気層を挟んで廃熱と断熱効果をねらう。また、ソーラー・チムニーは、各戸の廃熱をねらう。

 共用空間はできるだけポーラスな(他孔質)にし、クロス・ヴェンチレーション、さらに垂直方向を加えたトリプル・クロス・ヴェンチレーションを考える。ソーラー・チムニーも構造システムと合わせて採用したい。また、吹き抜けも、昼光利用と合わせて考えたい。

 夜間冷気を蓄える工夫も是非考えたい。地盤が悪いことから、ボックス・ファンデーションを考えており、半地下をクール・ボックスに使う。

 天井輻射冷房、壁体輻射冷房を考えたい。太陽は豊富なところだから大いに利用する。給湯に利用する技術はそう難しくないし、既に普及しつつある。また、給湯については一般の庶民レヴェルではあまり必要とされていない。

 問題は冷房である。ソーラー・バッテリーによるポンプで水を循環させることを考える。最も実験的なところであるが、ポーラスな全体構造と矛盾がある。輻射の効果を上げるためには、空間を密閉する必要があるのである。しかし、床が冷えるだけで、気持ちがいい。とにかくやってみたらどうかというのが素人考えである。

 構造はスケルトンとインフィルを分離する。また、基盤構造と上部構造を分離する。基盤構造は、ボックス・ファンデーションと鉄筋コンクリートのフレーム、ソーラー・チムニーと水循環パイプを組み込んだ床からなる。上部構造は木構造で考える。

 断熱材にはイジュク(砂糖椰子の繊維)を用いたい。できるだけ地域産材を使うのが方針である。しかし、イジュクについては手に入らないし、高いという。ココナツの繊維も集めるのはなかなか大変らしい。代替の材料を考える必要がある。また、材木については白蟻の害があるという。実施設計になると色々問題が出てくるものである。

 スラバヤは南緯七度の南半球にあるから、太陽は北にあるのが普通である。日本の感覚と違うから戸惑う。南から陽が当たるのは一年のうち、三分の一程度である。建物の方向をどう設定するか、が問題となる。実際の敷地条件にも左右される。

 想定される敷地に行ってみると、意外に風が強い。海に近いせいである。通風を考えるのはいいけれど、強風を制御する装置が必要である。また、風力発電が考えられるかも知れない。クール・チューブについては、近くに適当な樹林がないことから難しいかもしれない。

 と、以上のようなアイディアと技術を盛り込んだ設計案をJ.シラス教授と議論し始めたところである。建設が楽しみであるが、施工に当たっては大問題もある。

 地元の建設業者によれば、安くできるのは明かである。しかし、日本側としては、品質の保証を考えると、日本の標準仕様を考えると、どうしても地元業者によるより高くなる。日本政府の援助として、品質が気になるのは当然である。しかし、現地で普通に建てられている仕様によれば、はるかに大きなものの建設が可能である。矛盾である。また、現地で一般的に建てられるものでなければ普及しないはずである。矛盾である。なんとかうまくやりたいと思う。

 実験施設は、生態環境研究センターとして継続利用が考えられているけれど、その将来計画との兼ね合いもポイントである。増築システムが必要とされるのである。 

2023年3月7日火曜日

パッシブ・アンド・ロ-・エナジ-・ア-キテクチャ-,雑木林の世界91,住宅と木材,199703

 パッシブ・アンド・ロ-・エナジ-・ア-キテクチャ-,雑木林の世界91,住宅と木材,199703

雑木林の世界91

パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー

布野修司

 PLEA(パッシブ・アンド・ロウ・エナジー・アーキテクチャー)釧路国際会議「持続可能な社会に向けてー北の風土と建築」(主催:日本建築学会 PLEA1997日本実行委員会 実行委員長・小玉祐一郎 於:釧路市観光国際交流センター 一月八日~一〇日)に出席する機会があった。最終日の最後のシンポジウム「エコロジカルな建築」(司会小玉祐一郎 問題提起者:ビヨン・ベルグ ヴァリス・ヴォカルダー 討論者:J.クック(アメリカ)、A.de ヘルデ(ベルギー)、A.トンバジス(ギリシャ)、岩村和夫、大野勝彦、野沢正光、布野修司)にコメンテーターとして出席しただけだから、全貌はとても把握するところではない。しかし、登録者数が一二〇〇名にもおよぶ大変な国際会議であり、今更ながらであるが、環境問題への関心の高さを思い知った。

 OMソーラー協会の全面的バックアップもあり、工務店、地域ビルダーの参加も多かったし、釧路市民の関心も高かったように見える。何よりも、東京からフェリーでワークショップを行いながら参加した若い学生諸君の参加が賑やかであった。幸い天候には恵まれたのであるが、極寒の釧路を吹き飛ばす熱気が会場に溢れていた。また、数多くの論文発表に大きな刺激を受けた。

 PLEAについては、ほとんど知るところがなかったのであるが、第一回(一九八二年)のセントジョージ島(バミューダ)から回を重ねてもう一四回になるという。日本では第八回の奈良(一九八九年)に続いて二回目である。

 ベルグ氏はノルウエイの建築家で、生物学者も参加するガイア・グループを組織し、エコ・サイクル・ハウスの実現を目指す。生態原理に基づき、自然のサイクルと相互交渉する建築がその理念である。

 まず、興味深かったのは、モノマテリアル(単一素材)という概念である。モノマテリアルも一次、二次が区別される。一次モノマテリアルは、木、藁、土など、要するに生物材料、自然材料である。二次モノマテリアルは、工業材料であるが単一素材からなる、鉄、ガラス、コンクリートなどである。その厳密な定義をめぐっては議論が必要なように思えたけれど、要はリサイクルが容易かどうかで材料を区分するのである。

 自然の生の材料であること、製造にエネルギーがかからないこと、公害を発生しないこと、フェイス・トゥー・フェイスの関係を基礎としてつくられること、という基本原理を踏まえて提案された完全木造住宅のモデルが面白い。簡単なジョイントのみでなりたち、手工具だけで組み立てられるのである。塗料の問題が残るが、極単純かつラディカルな発想である。もちろん、木造一系統でいいのか、という疑問も沸いてくる。いわゆるスケルトン、クラディング、インフィルとシステム系統を考えて、リサイクル・システムを考える必要はないか。いずれにしても、日本ではどうも徹底しない。木造住宅といっても、木材の使用率は二五パーセント以下ではないか。

 ヴォカルダー氏は、スウェーデンの建築家、研究者で、エコロジー学校の運動に取り組んでいる。学校施設をエコロジカルに設計計画することにおいて、環境教育をまさに実践しようというのである。身近な環境をまず変えていこうという姿勢には感心させられた。日本でもエコロジー学校はつくられてもいいのである。マニュアルはつくられるけれど、一個一個の積み重ねが日本の場合弱い。二人の問題提起によって彼我の差異を様々感じさせられたのであった。

 釧路が会場に選ばれたことが示すように、今回は、寒い地域の「エコロジカルな建築」について考えようということであった。そうした意味では、長年、東南アジアの居住問題を考えている僕にはシンポジウムの席は、座り心地が悪かった。しかし、環境問題には、国際的な連帯が不可欠であり、南北問題を避けては通れない、というベルグ氏の発言もあって、「湿潤熱帯」では「エコロジカルな建築」の考え方も違うのではないか、といった発言をさせていただいた。

 高緯度では、ミニマルな建築がいい(ベルグ氏)、というけれど、湿潤熱帯では、気積を大きくして断熱効果を上げるのが一般的である。実際、湿潤熱帯には伝統的民家には巨大な住宅が少なくないのである。小さい建築が少資源につながるというけれど、大きくつくって長く使う手もある。地域によって、エコ・サイクル・ハウスのモデルが違うのはその理念に照らして当然なのである。

 建材の地域循環はどのような規模において成立するのかも大テーマである。国際的建材流通をどう考えるか。戦後植林した樹木が育ち、木材資源は日本でも豊富といっていいが、山を手入れする労働力がない。輸入材の方が安い、という現実をどう考えるか。建材をめぐる南北問題をどう考えるか。熱帯降雨林の破壊はどうすればいいのか。シンポジウムの席でいろいろ刺激を受けたのであるが、つい考えるのは東南アジアのことであった。

 実をいうと、小玉祐一郎氏の指導で、J.シラス先生(スラバヤ工科大学)をはじめとするインドネシアの仲間たちと湿潤熱帯用のエコ・サイクル・ハウスのモデルを考えようとしているせいでもある(雑木林の世界75「エコハウス イン スラバヤ」 一九九五年)。小玉祐一郎氏が釧路会議に出席をもとめたのは、「もう少し勉強しろ」という意味だったと、壇上で気がついた次第である。おかげでエコ・サイクル・ハウス・イン・スラバヤは実現に向かって動き出しそうである。

 二一世紀をむかえて、爆発的な人口問題を抱え、食糧問題、エネルギー問題、資源問題に直面するのは、熱帯を中心とする発展途上地域である。経済発展とともに急速にクーラーが普及しつつある。一体地球はどうなるのか、というわけであるが、クーラーを目一杯使う日本人の僕らがエコ・サイクル・ハウスを東南アジ諸国に押しつけるなど身勝手の極みである。まず、隗よりはじめよ、とJ.シラス先生に怒られながら、暑い国のエコ原理について設計しはじめたところだ。

 心強い身方がいる。釧路会議でも一緒だったのであるが、太陽エネルギー研究所の井山武司氏である。彼自身自宅をオートノマス・ハウスとして設計しており、今回はそれを発表したのであるが、熱帯についてはそれ以前に実績がある。バリ島にエコ・ハウスのモデルをすでに建設しているのである。


2023年2月10日金曜日

エコハウス イン スラバヤ,雑木林の世界75,住宅と木材,199511

 エコハウス イン スラバヤ,雑木林の世界75,住宅と木材,199511

雑木林の世界75 

エコハウス イン スラバヤ

           

布野修司

 

 このところ毎年休みになると出かけるのであるが(休みにしか時間がとれないということだ)、この九月は(九日~三〇日)いささか忙しい旅になった。インドネシアのスラバヤでのスケジュールを終えたところで、この原稿を書き始めたところである。

 最近は、ノートパソコンとファックスのおかげで、ほとんど日本にいるのと変わらない。環境が変わって緊張感があるから、規則正しい生活をすればかえって仕事ははかどる。これからシンガポールへ向かい、アジア都市計画学協会の第三回国際会議で論文発表をした後、ソウルへ向かう。韓国では、植民地化における都市変容に関する研究の一環で、蔚山を中心に調査を行う。

 スラバヤでの最大の仕事は、後になってぞっとするのであるが、スラバヤ工科大学の創立三〇周年記念の同窓会での講演であった。大学院学生への記念講義ということで気楽に出かけて、準備もそこそこで何とかなると思っていたのであるが、二〇〇人を超える人の前での記念講演ということで正直縮みあがってしまった。

 しかし、こんな経験は何度もしているではないか。いきなり学長と学部長の居並ぶ会議に出席させられたこともある。用意した論文を飛ばし飛ばし読んでもなんとかなる、と度胸を決めた。幸い、図版を豊富につけた論文のコピーが全員に配られていたから、関心のある人は読んでもらえばいいと勝手に思う。J.シラス教授がインドネシア語への抄訳を引き受けてくれたのも心強かった。

 演題は、というか論文のタイトルは、「チャクラヌガラーーーインドネシアのユニークなヒンドゥー都市・・・アジアの都市計画におけるグリッドの伝統」である。

 チャクラヌガラについては、本欄(雑木林の世界   一九九二年二月)で触れたけれど、ロンボク島にある実に綺麗な格子状の街路パターンをした都市だ。大袈裟に言うと、僕らが発見した都市である。インドネシアの友人達は、一八世紀にバリのカランガセム王国の植民都市として建設されたチャクラネガラにちてほとんど認識していなかったのである。

 講演というか、論文発表の出来はともかく、内容そのものは、手前味噌かもしれないけれど、好評であった。ワシントン大学の政治学部のレフ教授が同席していて、彼はインドネシアの政策立案に影響を及ぼすほどの高名な政治学者らしいのだが、面白いと誉めてくれた。また、ロンドン大学のジオフリー・ペーン教授は、自分が編集に関係している『ハビタット・インターナショナル』や『オープン。ハウジング』などいくつかの雑誌に掲載を紹介してあげるといってくれた。

 スラバヤ工科大学では、別に日本の建築教育についての講義を頼まれた。大学院教育が始まったばかりで、どのような教育をし、どのようなレヴェルを期待するかについて議論があり、日本の例を参考にしたいという。内情を詳しく説明するのはしんどい話であるが、研究室とそのメンバーが今やっていることを中心に説明することにした。同行していた山本直彦君にも自分のテーマと研究室の活動を話してもらったのであるが、用意していった阪神・淡路大震災の写真の方が関心を集めたようであった。

 スラバヤでは、毎年のように行うカンポン調査、昨年から続けているマドゥリーズに関する島調査、ことしつけ加えたテングル族の調査でめまぐるしかった。僕がいる間に予備的調査を完了し、あと一ヶ月半は山本君に合流した三井所君が泊まり込み調査することになる。イスラーム化されたジャワ島に孤立するようにヒンドゥー教徒が住んでいる。それがテングル族で、西ジャワのバドゥイである。ヒンドゥーとムスリムの棲み分けに関するテーマは広がりそうである。ガジャマダ大学のアルディ・パリミン先生、バンドンのストリスノ氏によれば、チレボンの近くにヒンドゥー教徒の村があることが分かったという。また、バリに一〇〇パーセントムスリムのコミュニティがあるという。

 バリ島を中心にロンボク島を押さえ、マドゥラ島もほぼ様子が分かってきた。スラバヤを拠点にスラウェシ、カリマンタンにも広げていったら、というのがJ.シラスのアドヴァイスである。また、出来たばかりの大学院レヴェルでは、共同研究をやろうということになった。

 ところで、タイトルのエコハウスである。東南アジア(湿潤熱帯)におけるエコハウスについては、小玉祐一郎氏、遠藤和義氏などと研究プロジェクトを組んできたのであるが、具体的なモデル設計をしようということになっていた(雑木林の世界   一九九四年八月)。

 今年は、日本の環境共生住宅に関する資料をもっていって議論しようとしたのであるが、アイディアは用意されていた。J.シラス邸を新築するので、それをモデルにしようというのである。

 敷地を見に行ったのであるが、間口一五メートル、奥行き三〇メートル、日本のことを思うと実にうらやましい。この設計に、色々な知恵を盛り込もうと言うのである。

 三層構成で、コンクリートのボックス(地盤が弱いため)+石・煉瓦+木造の構成にすること。風の道をとること。日照をよく考えること。スラバヤでは、八ヶ月は北から太陽が当たり、残りの四ヶ月は南から当たる。井戸を二カ所掘り、土壌浄化法を試みること。天井輻射冷房をおこない、大型の扇風機のみとすること。雨水利用を考えること(スラバヤでは年に一二パーセントしか、降雨がない)。樹木は、小さいヤシとカリマンタン産のブンキライというジャティ(チーク)より堅い木を中心に植える。その場でアイディアが出てくる。

 バーベキューの出来る庭をつくろう。日本も参加するのだからジャパニーズタッチのテラスもどうだ。最上階はライブラリーにして、学生が自由に利用できるようにしよう。ゲストルームも欲しい。こちらも段々勝手にエスカレートしていく。夢がどんどん脹らむのである。

 議論している内に、プランが一案出来てしまった。J.シラス家の事情としては雨期になるまでに基礎を打ちたいという。ということは一一月には着工である。アイディアを盛り込むためには急ぐ必要がある。予算の問題もあるから、少しづつ実験を積み重ねていくことにはなると思うけれど、いささか忙しい。

    シンガポールにて              

 

2023年2月6日月曜日

東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

 東南アジアのエコハウス,雑木林の世界60,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センターセンタ-,199408

雑木林の世界60 

東南アジア(湿潤熱帯)のエコハウス(環境共生住宅)

 

                布野修司

 

 今年の連休(五月二日~一〇日)は、かねてから通っているインドネシア・ロンボク島のチャクラヌガラの町を歩いた。応地利明先生(京都大学東南アジア研究センター教授)と二人で、聞き取り調査を行ったのである。聞き取り調査といっても簡単なもので、各戸のカーストを聞くのである。バリ人のヒンドゥー社会にはカーストが存在するのである。簡単といっても、町の全域になるから、歩いたのは一日八キロから一〇キロになろうか。カーストの分布図を作ることによって都市計画の初期の範囲がおよそ確定できるのではないかというのがねらいである。

 チャクラヌガラというのは、本欄でかって触れた(「ロンボク島調査」雑木林の世界  )ことがあるけれど、バリ・カランガセム王国の植民都市で18世紀に建設された。その極めて整然とした格子状パターンの都市がどうしてできたのか、探ってきたのである。また、イスラーム教徒とバリ人(ヒンドゥー教徒)の棲み分けに興味があった。ロンボクは三度目であったが、ひと区切りついた。今年中には報告書を書くことになる。

 東南アジア研究も長くなったのであるが、今年は「重点領域研究」として「地域発展の固有論理」を考える研究会(原洋之助(東京大学東洋文化研究所)座長)がある。この一五年で、東南アジアの各国は目ざましい発展を遂げた。また、遂げつつある。東南アジア全域に、普遍原理としての市場原理が浸透しつつあるようにみえる。そうした中で、地域発展の固有の論理というのがありうるのであろうか。地域性というのは存続しうるであろうか。地域の生態系はどうなっていくのか、等々がテーマである。

 また、新しいテーマとして、エコハウスについて考察・考案しようというプログラムがある。旭硝子財団から研究助成を頂くことになったのである。その目的、構想は以下の如くである。

 まず、東南アジアにおける伝統的な住宅生産技術の変容の実態とその問題点を明らかにしたい。この間の伝統的民家、集落の変化は極めて激しい。伝統的な住宅生産技術は大きく変容してきた。まずはその実態を把握する必要がある。特に焦点を当てるのは、次に挙げる四つである。

 ①工業材料および工業部品の導入とそのインパクト

 ②空気調和技術の導入とそのインパクト

 ③施工技術の変容とインパクト

 ④住宅生産組織の変容

 伝統的な住居集落については、これまでテーマにしてきたのであるが、「地域の生態系に基づく新たな住居システム」を具体的に考察するためにさらにつっこんで調査したいということである。

 また、様々な試みの中から具体的な要素技術を収集し、評価する。当面焦点は絞らず、あらゆる分野にまたがってみてみたい。計画技術、材料技術、施工、設備・環境工学のそれぞれに関して、可能な限り情報収集したい。この十数年で東南アジアも大きく変わりつつあり、AIT(アジア工科大学)、マレーシア工科大学、タイ工業技術研究所、スラバヤ工科大学、また、インフォーマル・グループのビルディング・トゲザー(バンコク)、フリーダム・トゥー・ビルド(マニラ)等々、それぞれに取り組みが重ねられているはずである。

 地域産材利用のその後はどうか、リサイクル技術はどのように展開されているか、パッシヴ・クーリングなどはどうか、雨水利用やバイオガスについてはどうか、まず、現状を把握したい。

 ジョクジャカルタにディアン・デサというグループというか財団がある。彼らは伝統的なコミュニティーや技術、生活の知恵をベースとすることによって、ハウジング活動のみならずトータルに農村コミュニティーに関わっていこうとしている。具体的に、例えば、バンブー・セメントによる雨水収集、バイオ・ガス利用の新しい料理用ストーブに関してのアセスメントなどを試みている。一〇年前に出会ったのであるが、その後の展開はどうか。是非、再び訪問して、その経験に学びたいものである。

 先進諸国の取り組みや日本の過去現在の取り組みについても事例を収集する必要がある。竹筋コンクリートについては、日本に何本もの論文がそんざいしているのである。そうした様々な事例を検討しながら、最終的には、湿潤熱帯におけるエコ・ハウス・モデルを提案できればと思う。また、実際に実験的につくってみたい。

 今のところ、以上のような構想とプログラムだけである。建設省建築研究所の小玉祐一郎先生と工学院大学の遠藤和義先生と研究会を始めたところだ。小玉先生は、環境共生住宅については第一人者といっていいと思う。湿潤熱帯のエコハウスについては、取り組みが遅れているということである。遠藤先生は、これを契機に東南アジアの住宅生産組織についての研究を開始したいという。十年ほど前に全国十地域で住宅生産組織研究を一緒に開始した経緯があり、若い研究者を加えて組織的に十年計画でやっていきたいという。楽しみである。

 フィリピンについては、ルザレスさん(京都大学森田研究室)がピナツボ火山の被災者の応急ハウジングの調査を行う。地域産材利用、廃棄物の再利用に興味がある。また、牧紀夫君(京都大学小林研究室)も、災害復興応急住宅についての研究を開始しており、それを手伝う。バリ、フローレスに続いて、リアウ地震(南スマトラ)、ジャワ津波の調査を行う。

 また、研究室の田中麻里さんは、タイの建設現場の飯場の居住環境についての研究(AIT修士論文)に続いてタイの農村部の調査を計画中である。また、脇田祥尚君たちはスンダのバドゥイを調査する予定である。また、吉井君は、建材流通の問題を修士論文にする予定である。

 それぞれの研究テーマを展開しながらも、ある程度組織的に情報が収集できるのではないかと期待しているところである。

 エコハウスのモデルになるのは、おそらく、伝統的な住居集落のあり方とそれを支えてきた仕組みである。ヴァナキュラーなハウジング・システムである。それに何をどう学ぶかが一貫して問われているのだと思う。

 


2022年7月24日日曜日

最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409

 最終審問者としての歴史,『科学』特集「建築と法律」,岩波書店,200409

科学9月号 特集:建築と法律 何がよい建築か

最終審問者としての歴史

布野修司

 

都市はひとつの作品である。都市に住み、建築行為を行うことは、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。

都市の建設は一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。

 建築とは何か、をめぐっては古来気の遠くなるような議論がある。「建築architecture」という言葉の語源は、知られるように、ギリシア語のアルキテクトンである。アルケー(arche 根源)のテクネーtechnē(技術)がアーキテクチャーである。カエサルに捧げられたウィトルウィウスの『建築十書』は、「建築家」はありとあらゆる技術、学問に通じている必要があると言い、「建築」をつくり挙げるための諸原理と方法をこと細かく示している。「建築」には一般に「用」「美」「強」の全てが関わる[i]

 しかし、「建築」の語源を明らかにし、数多の「建築論」を下手くそになぞって見たところで、「何がよい建築か」がわかるわけではない。むしろ、一般的に「建築」を論ずることが、「建築」と非「建築」あるいは「建造物building」を予め区別する特権意識に結びついていることを指摘しておいた方がいい。感覚的価値としての美を定義づけることで「美学」なるものが成立するともに、「技術」と「芸術」が分離し、同時に「建築」と「建造物」も分離されることになった。「建築家」が専ら価値を置くのは「ファイン・アートとしての建築」である。

 しかし、全ての建築行為が、都市(建築環境built environment)=「集団的歴史的作品」への参加であるという観点に立てば、その評価の視点や軸は、閉じた「建築」の世界のそれとは自ずと異なる。建築行為は、実に多様な視点、多様な水準、多様な次元で評価できるのであって、「何がよい建築か」について一般的に語ることはできないのである。具体的な建築物の評価をめぐって議論を積み重ねることこそが重要である。

 第一に確認すべきは、「よい建築」すなわち多様な水準、次元で評価しうる建築、ということである。様々な方式の設計競技において、総合評価と称して、様々なチェック項目を点数化して総和をとったり、それを総工費で除して比較したりすることが行われるが、「よい建築」とはそうした一元的な評価を超えるものである。「ただ安ければいい」「法律さえ守っていればいい」というわけにはいかないのである。

 多様な評価が可能ということは、その建築が多様な価値をもっているということである。個々の建築物がそのために最低限備えるべきは、ディテール(部分詳細)とコンセプト(理念)である。コンセプトがなければ多様な解釈、読解に基づく議論は起きないであろう。また、訪れるたびに(日々)新たな発見があるような、また、周到に考え抜かれたディテールがなければ魅力は薄いであろう。

 多様な評価は、当然、社会的評価を含むから、公共性、社会的合理性が大きな鍵になる。私有地だからといって勝手にデザインしていいということにはならない。街並み景観、相隣関係などあるルールが前提されている必要がある。その場所に相応しいルールを自ら提示するのが「よい建築」である。

 それを誰が判断するのか(という大問題についてはここでは留保せざるを得ない)。単純に住民の多数決によればいいというわけにはいかない。そこにはある「眼」が必要である。問題はその「眼」を社会的にどう担保するかである

「何がよい建築か」を最終的に判断するのが歴史であることははっきりしている。様々な意味で「長持ちする」建築が「よい建築」である。使い勝手がいい、容易に壊れない、維持管理がしやすい、耐用年限が長い、・・・というだけではなく、変化に対応でき、多くの人に愛される、・・・といった社会的耐用性も当然求められる。歴史に耐え、多くの人々の記憶に保持され続ける建築こそが「よい建築」である。それを如何に鋭く感知して見抜くかが「眼」の問題である。

 



[i] 『ウィトルーウィウス建築書』、森田慶一訳注、東海大学出版会、1969年、1979年。ウィトルウィウスに依れば、「建築」は、オルディナティオordinatio(量的秩序:尺度モドゥルスに基づいて全体を整序すること)、ディスポシティオdispositio(質的秩序:配置関係を統一的に収めること)、エウリュトミアeurythmia(美的構成)、シュムメトリアsymmetria(比例関係)、デコルdécor(定則:慣習、自然、様式)、ディスプリブティオdistributio(配分:材料、工費)の6つの原理、概念からなる。