「建築家」の居る風景・・・そこには依然として富士山がよく似合うのか
A ja ja ja~n!
B 何だそりゃ!? 「今晩は。ビートルズです、ぼくたち」とか、「子の刻参上」とか、てっきり格好良く来ると思ったら。いきなりーーーー?。
A 富士山見たか? 『ja』(一九七七年一〇ー一一月)見たか? これja
B 度し難いね。まるで渡辺豊和*[i]の『建築美』創刊号(一九七七・夏)、石山修武*[ii]の「怪談 三義人邂逅・一幕一場」にて石井和絋*[iii]こと「多義」登場の場面じゃないか。一体何事ジャ。ジャー・ジャーって。『アン・アン』『ノンノ』は古いですよ。『モア』だとか『クロワッサン』だとか・・・それにしてもニューファミリー向けの雑誌って全然ふるわないって言うじゃないの。ニューファミリーなんて、何処にも存在しなかったてわけだよ。
A これは一種のスキャンダルだね。POST-METABOLISMのニューウェイブだってさ。明日の日本建築を担う建築家の総勢三六人。しかも、悪意に充ちた序列、番付つきだよ。
B 「一寸待て、車は急に止まれない」。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」。富士山とか、ニューウェイブとか。序列・番付とかおよその見当はつくがね。何でそんな目くじらたてんのかね。・・・「ジャーナリズムは、われわれにその日暮らしの旅(ジャーニー)を強いる。夥しい「事件」が毎朝毎晩、律儀に届けられてくるが、それはほとんど、われわれのまわりで何が起こっているのか、という問いを発せさせないためであるかに見える」なんて言ってみたくなるじゃないか。スキャンダルがありうるとしても、その生産また再生産は、ジャーナリズムにとって日常的な自己運動の展開にすぎないはずだ。
A しらけるな。君はいつもそうして「ゴドーを待ちながら」か。しかし、到来の気配や兆候は、われわれの周辺には漂ってはいないさ。スキャンダルはスキャンダルさ。日常生活に染み込んだ不可能性の意識とないまぜになった「子の刻幻想」。しかし、君らはいつも「子の刻五分過ぎ」・・・いや、三回り半遅れのマラソンマン。
B 壮大なるピエロだな。君の身振りも判らんでもないがね。まあ、やってくれ。そのスキャンダルというやつ。悪意に充ちた何とかというやつを解説してくれよ。
A まず、富士山だ。遥か上空に雲があって、そのなかに太ゴチでKENZO TANGE*[iv]、そしてメタボリズム・グループ*[v]が居る。雲上人というわけだ。
B KAZUO SINOHARA*[vi]なんてのもあるね。雲上人のなかに。
A どうも、一九三〇年生まれ以降ということで線を引いたらしい。いつか『A+U』で石井和絋+鈴木博之*[vii]の「アンダーフォーティ」(七七年一月号)とかなんとかいうのがあったよな。あれが下敷きになっている。同じコンビだ。この構図を描いたのは。
B やっぱり「多義」じゃないか。それにしても鈴木博之とは気になるねえ。
A 一九三〇年で線を引くから、メタボリズムの旗手、黒川紀章*[viii]が入ってくる。海外の知名度から磯崎新*[ix]と左右に並べて、風神、雷神。以下、石山修武、石井和絋、安藤忠雄*[x]0がその後継者。
B 後継者と書いてあるのかい。
A 書いてある。続いて、木島安史*[xi]1、相田武文*[xii]2。Architext*[xiii]3らの四〇代を分断するわけだ。木島安史なんてのは鈴木博之好みなのかな。以上は四頁プラス論文つきだ。一寸格が落ちて、MONTA MOZUNA*[xiv]4、TOYOO ITO*[xv]5、TOYOKAZU WATANABE、ZO ATELIER*[xvi]6が各三頁。
B ZOねえ。気になるねえ。
A 何なら解説しますよ。わりと丁寧に紹介してあるけど、やはりストレインジ・フォルム(奇妙な形)が売られているニュアンスがあるかな。関係ないけど、ピーター・クックが象を絶賛したらしいよ。とにかく以上がベストイレブンで一部。以下二部一六人、各二頁。三部九人、各一頁となっている。一部でも磯崎一〇頁、黒川八頁と微妙に差がつけてあるし、その差異化の意図は透けるように明確だよ。KUROSAWA*[xvii]7が二頁で、SONE*[xviii]8が一頁だ。
B なるほどね。それが君のいうスキャンダル、悪意に充ちた序列・番付か。随分細かな詮索をしたもんだ。遊びとしては面白いんじゃないの。『建築評論』八号(一九七三年五月)でも幾つか番付つくっているし、鈴木博之は、「<引用と暗喩の建築>の建築家」(『都市住宅』 七七年七月号)で、そうした試みをすすめ、ほのめかしていたじゃないか。そりゃあ、ピンでとめられた側にしてみりゃあーいやピンでとめられなかった奴は余計だろうけれどー頭にくるかもしれないだろうが、こうした番付評価は悪意に充ちてたほうが、いいにきまってる。問題は・・・。
A こうした構図の提出される場所とコンテクストだろ。この構図は、もとより、そのコンテクストを見据えて、それなりの戦略のなかでしかも世界へ向けて、提出されているはずだ。
B 富士山は決して赤くはないが、「ぼくと富士山との間にあるいろんなものが、ぼくを中心に大きな円を描きながら回っている」んだね。ところで、最近は風呂屋の壁のペンキ絵にも、富士山は少ないんだよ。君なんか知る由もないだろうがね。
A そうだ。まず富士山が問題だ。確かに何で、富士山をバックにしなきゃいけないのかね。石井和絋にしても、鈴木博之にしても、俺らよりはるかにインターナショナルな視野で日本の建築文化をみれるはずではないか。そうしたなかで日本の展開を位置づけることは可能なはずだよ。たとえば、イタリアを中心とする最近の動向との絡みでやれなかったのかね。POST-METABOLISMということで、日本の建築家をすべて梱包して輸出する。どうも胡散臭いねえ。何も日本という枠をはめなくても、日本ほど情報が集まるところはないんだから、別の輸出の仕方はいくらでもありそうなもんだ。この輸出入のあり方は、どうしようもなく日本的だよ。だから富士山だ。何もめぼしいところに気をつかって皆拾い上げて、しかも序列をつけて出すことはない。序列にしても、さまざまな視点からのそれが用意されていいんじゃないか。仮に、ニューウェイブなるものが存在するとしてもだ。・・・・と、こうだろ。
B 「昭和日本」ー「日本天皇制民主帝国クリンアップ机上作戦透視図」(『流動』)なんての知ってる?
A POST-METABOLISMという問題のたて方は、C.ジェンクスのPOST-MODERN ARCHITECTUREなんてやつより、超えるべきものを具体的に見据えている点で、ひとまずよしとしよう。六〇年代日本建築の支配的イデオロギーとしてのメタボリズムだ。しかし、こうした問題のたて方で、一番ひっかかるのは、まず黒川紀章だろ。メタボリズムのイデオローグではないかもしれないが、少なくとも饒舌なアジテイターではあった彼が、同様POST-METABOLISMの旗手でありうるということは、一体どういうことだ。・・・常識的には、そこに特殊日本的な事情と、メタボリズムなるものと同時にポスト・メタボリズムなるものの薄っぺらさとを読みとるだろうな。受け手としてはね。
B 母さん、僕のメタボリズム、どうしたでせうね。・・・その時傍で咲いていた車百合の花は、もうとうに枯れちゃったでせうね。・・・今夜あたりは、あの峪間に、静かに雪が降りつもっているでせう。・・・ニュー・ウェイブも遠からず、枯れたり、雪が積もったり、どうしたでせうね、ってことになるんじゃないの。真砂なす数なき砂のその中に染み込んでさ。
A いや、ニュー・ウェイブなんてのは、明らかにフレーム・アップだよ。POST-METABOLISMは、何も新しい運動でも組織でもイデオロギーでもないさ。命名者たちだってくどいくらいに断っているさ。だから、問題は、フレームの措定と、その方向づけの語り口、その内的必然性じゃないのかね。彼らが、POST-METABOLISMの指標として挙げるのは、テクノロジーの直線的な進歩に対する信仰の拒否、そして、それが決してトータルな拒否にあらず、つかず離れずで用いること・・・よくわからんな・・・そして社会へのアプローチだ・・・ますます、判らんという顔をしているな・・・さらに、形態のもつ意味の重要性についての認識だ・・・これは了解するかな・・・。
B 僕の韓国の友人ならこういうね。ビビンバ(●ハングル)と一言。日本の建築は、少なくとも雑誌みてる限りにおいてビビンバだっていうのが彼の口癖でね。一匙ごとに味が違うってわけさ。
A POST-METABOLISM=ビビンバというのは異議ないね。しかし、その序列の尺度はどうなるのか。石井和絋は、エンターテイナーとして認められているらしいから、とりあえずおいて・・・鈴木博之は、その判断に歴史家としてのそれが当然入るはずだろう。彼は少なくとも「同時代における歴史叙述と批評」(『建築雑誌』 七七年九月号 特集「同時代史ー日本近代建築史の問題」)の問題に意識的なはずだ。これを彼の同時代批評の実践とみれば、実に興味深いじゃないか。伊藤ていじが、いつかの『新建築』の「月評」(七七年九月)で彼について実にうまい批評をしてたけど、この人一寸気を使いすぎるね。上にも下にも、右にも左にも。
B ところで君なら、このビビンバ状況をどう語るのかね・・・
A 俺なら、まず象だろ、そいで石山、安藤、・・・
B おいおい、話のレヴェルが違う。組合せを変えて、構図を描きゃいいってもんじゃないだろ。それにみんなベストイレブンじゃないか。
A あれ!
B 表層の流れに伴走するのもいいが、道化の役割は荷がかちすぎるんじゃないのかね。君のように、むきになって、別の構図を提出したところで、先行する構図を定着することに力をかすことになるだけさ。活字の物神化というか、写真や言葉のイメージの商品化というか、その物神崇拝によって倒立するなよな。
A ジャーナリズムは、その日暮らしの旅を強いるか。
B 私的な会話のエクリチュールがジャーナリズムのそれと位相を異にしえないところに、問題があるね。ミニコミとか、同人誌とかが、自立した回路で成立しにくい状況がね。
A 自立メディア幻想ね。ミニコミ・マスターベーション論なんて興味あるさ。『建築美』なんてのはそうかもしらんが、『レフォール』(七五年夏)は一寸違うだろ。言語の党派性の問題かな。まてよ、話は終わってないぜ。
B 『建築雑誌』で、建築ジャーナリズム特集やってるんだよ。近江栄さんらしい企画だよ。向井正也さんなんか「わが国の建築アカデミーの一拠点、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が、主集のテーマとして「建築ジャーナリズム」をとりあげるということは、おそらく、学会の歴史はじまって以来のことではなかろうか」なんて大変なもち上げようだぜ。「アカデミズムの世界には、不似合な突然の異変に、とまどいすらおぼえ」ながらも、「革命的」だなんていってる。
A まてよ。俺の記憶だと、建築ジャーナリズムが、『建築雑誌』で問題になったことは主集という形ではないにせよ、戦後にもあるぜ。たとえば「建築ジャーナリズムの動きをたどるー関係誌二〇年の歩み」(五六年四月)なんてそうだろ。しかし、それにしても、アカデミズムがジャーナリズムを主題化するという状況はどういうことだろう。奇妙な構図だよ。仮に、両者が理想的に対立するという常識を前提にしてだがね。
B 建築ジャーナリズムが問われる状況は、ちゃんと歴史的にも押さえておく必要があると思うよ。君なんかとくにね。そこには、幾つかの対立の構図がある。ジャーナリズムとアカデミズム、マスコミとミニコミ、専門誌と大衆紙、建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズム、ものとことば、地方と中央、インターナショナルとナショナル・・・・。特に、現役編集者の弁は、他から求められたとはいえ、自らの職能を問うという、彼らにとって日常的な、それでいて最もシビアな問いだから、それなりにしたたかさはあるよ。
A だから、俺としてはだな・・・このPOST-METABOLISMを素材にだなー建築文化の今日的状況をだな・・・その閉鎖性と貧困とをだな・・・いわゆる建築家のいる風景にだな・・・富士山がだな。
B まあ、おいおいやるさ。