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2024年8月18日日曜日

建築家のいる風景,そこには依然として富士山が似合うのか,螺旋工房クロニクル001,建築文化,彰国社,197801

 「建築家」の居る風景・・・そこには依然として富士山がよく似合うのか

 

 A ja ja jan

 B 何だそりゃ!? 「今晩は。ビートルズです、ぼくたち」とか、「子の刻参上」とか、てっきり格好良く来ると思ったら。いきなりーーーー?。

 A 富士山見たか? 『ja』(一九七七年一〇ー一一月)見たか? これja

 B 度し難いね。まるで渡辺豊和*[i]の『建築美』創刊号(一九七七・夏)、石山修武*[ii]の「怪談 三義人邂逅・一幕一場」にて石井和絋*[iii]こと「多義」登場の場面じゃないか。一体何事ジャ。ジャー・ジャーって。『アン・アン』『ノンノ』は古いですよ。『モア』だとか『クロワッサン』だとか・・・それにしてもニューファミリー向けの雑誌って全然ふるわないって言うじゃないの。ニューファミリーなんて、何処にも存在しなかったてわけだよ。

 A これは一種のスキャンダルだね。POST-METABOLISMのニューウェイブだってさ。明日の日本建築を担う建築家の総勢三六人。しかも、悪意に充ちた序列、番付つきだよ。

 B 「一寸待て、車は急に止まれない」。「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」。富士山とか、ニューウェイブとか。序列・番付とかおよその見当はつくがね。何でそんな目くじらたてんのかね。・・・「ジャーナリズムは、われわれにその日暮らしの旅(ジャーニー)を強いる。夥しい「事件」が毎朝毎晩、律儀に届けられてくるが、それはほとんど、われわれのまわりで何が起こっているのか、という問いを発せさせないためであるかに見える」なんて言ってみたくなるじゃないか。スキャンダルがありうるとしても、その生産また再生産は、ジャーナリズムにとって日常的な自己運動の展開にすぎないはずだ。

 A しらけるな。君はいつもそうして「ゴドーを待ちながら」か。しかし、到来の気配や兆候は、われわれの周辺には漂ってはいないさ。スキャンダルはスキャンダルさ。日常生活に染み込んだ不可能性の意識とないまぜになった「子の刻幻想」。しかし、君らはいつも「子の刻五分過ぎ」・・・いや、三回り半遅れのマラソンマン。

 B 壮大なるピエロだな。君の身振りも判らんでもないがね。まあ、やってくれ。そのスキャンダルというやつ。悪意に充ちた何とかというやつを解説してくれよ。

 A まず、富士山だ。遥か上空に雲があって、そのなかに太ゴチでKENZO TANGE*[iv]、そしてメタボリズム・グループ*[v]が居る。雲上人というわけだ。

 B KAZUO SINOHARA*[vi]なんてのもあるね。雲上人のなかに。

 A どうも、一九三〇年生まれ以降ということで線を引いたらしい。いつか『A+U』で石井和絋+鈴木博之*[vii]の「アンダーフォーティ」(七七年一月号)とかなんとかいうのがあったよな。あれが下敷きになっている。同じコンビだ。この構図を描いたのは。

 B やっぱり「多義」じゃないか。それにしても鈴木博之とは気になるねえ。

 A 一九三〇年で線を引くから、メタボリズムの旗手、黒川紀章*[viii]が入ってくる。海外の知名度から磯崎新*[ix]と左右に並べて、風神、雷神。以下、石山修武、石井和絋、安藤忠雄*[x]0がその後継者。

 B 後継者と書いてあるのかい。

 A 書いてある。続いて、木島安史*[xi]1、相田武文*[xii]2Architext*[xiii]3らの四〇代を分断するわけだ。木島安史なんてのは鈴木博之好みなのかな。以上は四頁プラス論文つきだ。一寸格が落ちて、MONTA MOZUNA*[xiv]4、TOYOO ITO*[xv]5、TOYOKAZU WATANABE、ZO ATELIER*[xvi]6が各三頁。

 B ZOねえ。気になるねえ。

 A 何なら解説しますよ。わりと丁寧に紹介してあるけど、やはりストレインジ・フォルム(奇妙な形)が売られているニュアンスがあるかな。関係ないけど、ピーター・クックが象を絶賛したらしいよ。とにかく以上がベストイレブンで一部。以下二部一六人、各二頁。三部九人、各一頁となっている。一部でも磯崎一〇頁、黒川八頁と微妙に差がつけてあるし、その差異化の意図は透けるように明確だよ。KUROSAWA*[xvii]7が二頁で、SONE*[xviii]8が一頁だ。

 B なるほどね。それが君のいうスキャンダル、悪意に充ちた序列・番付か。随分細かな詮索をしたもんだ。遊びとしては面白いんじゃないの。『建築評論』八号(一九七三年五月)でも幾つか番付つくっているし、鈴木博之は、「<引用と暗喩の建築>の建築家」(『都市住宅』 七七年七月号)で、そうした試みをすすめ、ほのめかしていたじゃないか。そりゃあ、ピンでとめられた側にしてみりゃあーいやピンでとめられなかった奴は余計だろうけれどー頭にくるかもしれないだろうが、こうした番付評価は悪意に充ちてたほうが、いいにきまってる。問題は・・・。

 A こうした構図の提出される場所とコンテクストだろ。この構図は、もとより、そのコンテクストを見据えて、それなりの戦略のなかでしかも世界へ向けて、提出されているはずだ。

 B 富士山は決して赤くはないが、「ぼくと富士山との間にあるいろんなものが、ぼくを中心に大きな円を描きながら回っている」んだね。ところで、最近は風呂屋の壁のペンキ絵にも、富士山は少ないんだよ。君なんか知る由もないだろうがね。

 A そうだ。まず富士山が問題だ。確かに何で、富士山をバックにしなきゃいけないのかね。石井和絋にしても、鈴木博之にしても、俺らよりはるかにインターナショナルな視野で日本の建築文化をみれるはずではないか。そうしたなかで日本の展開を位置づけることは可能なはずだよ。たとえば、イタリアを中心とする最近の動向との絡みでやれなかったのかね。POST-METABOLISMということで、日本の建築家をすべて梱包して輸出する。どうも胡散臭いねえ。何も日本という枠をはめなくても、日本ほど情報が集まるところはないんだから、別の輸出の仕方はいくらでもありそうなもんだ。この輸出入のあり方は、どうしようもなく日本的だよ。だから富士山だ。何もめぼしいところに気をつかって皆拾い上げて、しかも序列をつけて出すことはない。序列にしても、さまざまな視点からのそれが用意されていいんじゃないか。仮に、ニューウェイブなるものが存在するとしてもだ。・・・・と、こうだろ。

 B 「昭和日本」ー「日本天皇制民主帝国クリンアップ机上作戦透視図」(『流動』)なんての知ってる?

 A POST-METABOLISMという問題のたて方は、C.ジェンクスのPOST-MODERN ARCHITECTUREなんてやつより、超えるべきものを具体的に見据えている点で、ひとまずよしとしよう。六〇年代日本建築の支配的イデオロギーとしてのメタボリズムだ。しかし、こうした問題のたて方で、一番ひっかかるのは、まず黒川紀章だろ。メタボリズムのイデオローグではないかもしれないが、少なくとも饒舌なアジテイターではあった彼が、同様POST-METABOLISMの旗手でありうるということは、一体どういうことだ。・・・常識的には、そこに特殊日本的な事情と、メタボリズムなるものと同時にポスト・メタボリズムなるものの薄っぺらさとを読みとるだろうな。受け手としてはね。

 B 母さん、僕のメタボリズム、どうしたでせうね。・・・その時傍で咲いていた車百合の花は、もうとうに枯れちゃったでせうね。・・・今夜あたりは、あの峪間に、静かに雪が降りつもっているでせう。・・・ニュー・ウェイブも遠からず、枯れたり、雪が積もったり、どうしたでせうね、ってことになるんじゃないの。真砂なす数なき砂のその中に染み込んでさ。

 A いや、ニュー・ウェイブなんてのは、明らかにフレーム・アップだよ。POST-METABOLISMは、何も新しい運動でも組織でもイデオロギーでもないさ。命名者たちだってくどいくらいに断っているさ。だから、問題は、フレームの措定と、その方向づけの語り口、その内的必然性じゃないのかね。彼らが、POST-METABOLISMの指標として挙げるのは、テクノロジーの直線的な進歩に対する信仰の拒否、そして、それが決してトータルな拒否にあらず、つかず離れずで用いること・・・よくわからんな・・・そして社会へのアプローチだ・・・ますます、判らんという顔をしているな・・・さらに、形態のもつ意味の重要性についての認識だ・・・これは了解するかな・・・。

 B 僕の韓国の友人ならこういうね。ビビンバ(●ハングル)と一言。日本の建築は、少なくとも雑誌みてる限りにおいてビビンバだっていうのが彼の口癖でね。一匙ごとに味が違うってわけさ。

 A POST-METABOLISM=ビビンバというのは異議ないね。しかし、その序列の尺度はどうなるのか。石井和絋は、エンターテイナーとして認められているらしいから、とりあえずおいて・・・鈴木博之は、その判断に歴史家としてのそれが当然入るはずだろう。彼は少なくとも「同時代における歴史叙述と批評」(『建築雑誌』 七七年九月号 特集「同時代史ー日本近代建築史の問題」)の問題に意識的なはずだ。これを彼の同時代批評の実践とみれば、実に興味深いじゃないか。伊藤ていじが、いつかの『新建築』の「月評」(七七年九月)で彼について実にうまい批評をしてたけど、この人一寸気を使いすぎるね。上にも下にも、右にも左にも。

 B ところで君なら、このビビンバ状況をどう語るのかね・・・

 A 俺なら、まず象だろ、そいで石山、安藤、・・・

 B おいおい、話のレヴェルが違う。組合せを変えて、構図を描きゃいいってもんじゃないだろ。それにみんなベストイレブンじゃないか。

 A あれ!

 B 表層の流れに伴走するのもいいが、道化の役割は荷がかちすぎるんじゃないのかね。君のように、むきになって、別の構図を提出したところで、先行する構図を定着することに力をかすことになるだけさ。活字の物神化というか、写真や言葉のイメージの商品化というか、その物神崇拝によって倒立するなよな。

 A ジャーナリズムは、その日暮らしの旅を強いるか。

 B 私的な会話のエクリチュールがジャーナリズムのそれと位相を異にしえないところに、問題があるね。ミニコミとか、同人誌とかが、自立した回路で成立しにくい状況がね。

 A 自立メディア幻想ね。ミニコミ・マスターベーション論なんて興味あるさ。『建築美』なんてのはそうかもしらんが、『レフォール』(七五年夏)は一寸違うだろ。言語の党派性の問題かな。まてよ、話は終わってないぜ。

 B 『建築雑誌』で、建築ジャーナリズム特集やってるんだよ。近江栄さんらしい企画だよ。向井正也さんなんか「わが国の建築アカデミーの一拠点、日本建築学会の機関誌『建築雑誌』が、主集のテーマとして「建築ジャーナリズム」をとりあげるということは、おそらく、学会の歴史はじまって以来のことではなかろうか」なんて大変なもち上げようだぜ。「アカデミズムの世界には、不似合な突然の異変に、とまどいすらおぼえ」ながらも、「革命的」だなんていってる。

 A まてよ。俺の記憶だと、建築ジャーナリズムが、『建築雑誌』で問題になったことは主集という形ではないにせよ、戦後にもあるぜ。たとえば「建築ジャーナリズムの動きをたどるー関係誌二〇年の歩み」(五六年四月)なんてそうだろ。しかし、それにしても、アカデミズムがジャーナリズムを主題化するという状況はどういうことだろう。奇妙な構図だよ。仮に、両者が理想的に対立するという常識を前提にしてだがね。

 B 建築ジャーナリズムが問われる状況は、ちゃんと歴史的にも押さえておく必要があると思うよ。君なんかとくにね。そこには、幾つかの対立の構図がある。ジャーナリズムとアカデミズム、マスコミとミニコミ、専門誌と大衆紙、建築ジャーナリズムと一般ジャーナリズム、ものとことば、地方と中央、インターナショナルとナショナル・・・・。特に、現役編集者の弁は、他から求められたとはいえ、自らの職能を問うという、彼らにとって日常的な、それでいて最もシビアな問いだから、それなりにしたたかさはあるよ。

 A だから、俺としてはだな・・・このPOST-METABOLISMを素材にだなー建築文化の今日的状況をだな・・・その閉鎖性と貧困とをだな・・・いわゆる建築家のいる風景にだな・・・富士山がだな。

 B まあ、おいおいやるさ。




2024年8月16日金曜日

地域主義の行方,中間技術と建築,螺旋工房クロニクル008,建築文化,彰国社,197808

 地域主義の行方――中間技術と建築――

 

 1

  日本には、ひとつの妖怪が跋扈しつつある、という。

  「日本をひとつの妖怪が行く。地域主義という妖怪が、ふるい日本のあらゆる権力は、この化け物を退治しようと、神聖な同盟をむすんだ。保守と革新を問わず、既成の政党、既成の組織、そして既成の思想集団……」と、やがて「各地域に棲む一人一人によって書かれるべき」地域主義宣言を、玉野井芳郎は、ちょうど一五〇年ほど前に草された一つの宣言になぞらえてみせる。「保守も革新も、だれもよくわからない、既成の思想では仲々理解しがたい」、そういう点で〈地域主義〉には、そのあまりにも有名な宣言の冒頭の名文章を想起させるような何かがあるのだという[1]1。

  〈地域主義〉と呼ばれる思想と諸潮流があらゆる権力と緊張関係を生み出しているかどうかは知らない。おそらく、今のところはそうではあるまいと思う。その力が強大となり、妖怪の物語に一つの宣言を対立させるほど、時期が熟しているとは思えないのである。確かに、それはやがて各地域に棲む一人一人によって書かれるべき質のもの、しかも地面の上に書かれるべき質のものであろう。そうした意味で、その動向にはわかりにくさがつきまとう。〈地域〉とは何か、という基本的な問いに対する解答のひろがりをみても実にさまざまである。〈地域主義〉自体は揺れているのである。そのわかりにくさを妖怪と呼べば、呼べるかもしれない。

  しかし、それにもかかわらず、今日、〈地域主義〉と呼びうるような潮流が現れてくる時代的背景については十分了解しうる。すなわち、端的にいって、その諸潮流は、六〇年代的なるもの(高度成長、産業社会の論理、近代化、工業化、都市化等々)に対する批判(ないし反動)を共通のモメントとしているといっていいのである。そうした意味で、その行方は七〇年代を位置づけるうえで、また八〇年代を占ううえで、極めて興味深いといわねばならないであろう。〈地域主義〉とは何か。それはいかなる形態をとって定着するのか。あるいは定着しないのか。

  現在、日本で〈地域主義〉としてくくられようとする諸潮流は、グローバルにも確認することができる。アメリカにおけるオールタナティブ運動やフランスのエコロジー運動あるいは第三世界におけるさまざまな試みに通底する背景をそこにみることは可能なはずである。その運動のスローガンや主張に、多くの共通の方向性、モメントを見いだすことは困難ではないのである[2]2。

 地域の自立(自主管理)、生態系への注視、環境・資源の保護、第一次産業の再生、反生産主義あるいは反成長主義、分権主義、中間技術の使用……。E.F.レュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』[3]3を共通の背景として想起すればよいのかもしれない。もちろん、日本におけるさまざまな運動や〈地域主義〉の潮流と、オールタナティブ運動やエコロジー運動との質的差異や位相のずれは興味深い問題である。おそらく、〈地域主義〉という形での知のレベルの結集が先行するところにも、日本の特殊性をうかがうことができるであろう。それが、日本の近代の問直しにかかわっている以上、日本の近代化のもつ歪みや特殊性を引き受けねばならないことは当然なのである。

  日本の近代化の過程において、地域なり地方が今日のように主題化される時期をいくつか見いだすことができる。こうした歴史の遡行は地域という概念を明確化しえないままには、ラフなものでしかないのであるが、例えば、明治末期の『地方(ぢかた)の研究』の新渡戸稲造をはじめとして、柳田国男、石黒忠篤、小田内通敏らの郷土会創立の頃、さらに、昭和初期の、権藤成卿の「農村自治」論、橘孝三郎の「国民社会的計画経済」論等の農本主義思想が展開される頃がそうである。

 いずれも、農村の疲弊、解体に対する危機意識が広範に顕在化してきた時期といえるであろうか。〈地域主義〉の潮流が、柳田国男のアクチュアリティの再発見の動向と並行し、あるいは、それが農本主義イデオロギーへ行きつく危険を批判されたりするのも、先行するそうした時期の問題の構造との同相性を一面においてもっていることを示しているのである。したがって、七〇年代における〈地域主義〉が、日本の近代の構造のなかで、幾度か繰り返しみられるそうした地方や農村の主題化とどのように位相を異にしうるか――例えば、中央と地方、農村と都市のディコトミーとその対立図式をいかに超えるかも、問われていくことになるはずである。

 

 2

  増田四郎、古島敏雄、河野健二、玉野井芳郎を世話人とする地域主義研究集談会が結成され、最初の大会がもたれたのは、一九七六年一〇月(東京)のことである。その後、京都(七六年一一月)、熊本(七七年三月)、青森(七七年一〇月)と大会が開かれることによって、〈地域主義) という言葉自体は定着しつつある。

  七〇年代に入って、〈地域主義〉という言葉に積極的な意義を与えた一人に杉岡碩夫がいる。彼は、中小企業近代化のもつ矛盾に出くわす過程において、その克服の方向を〈地域主義〉という言葉で表現するのである[4]4。彼によれば〈地域主義〉とは、「中央集権的な行政機能や社会・経済・文化の機能を可能な限り地方分散型に移すことであり、その過程でわたくしたちの生活をより自主性のある自由なものに転換していこうという展望、つまり一種の“文化革命”の主張である」[5]5。

 こうした方向性はある意味で明快であり、おそらく多くの共有するところであろう。七〇年代に入って、地方や地場産業、自然や農業へ、近代化、工業化、都市化によってとり残されたものへ、眼差しが注がれ始めたことは、さまざまの分野に共通にみられるのである。地方史や地域史の試みの提唱や地方学の提唱なども、そうした趨勢を示すものであった。また、各地方自治体による都市計画や地域計画の流れは、六〇年代における段階とは明らかに様相を異にしてきている。「都市―コミュニティ計画の系譜の流れ」[6]6において、奥田道大は、その転換を「総合計画」の段階から「コミュニティ計画」の段階への移行として総括しながら、いくつかの方向性を示している。

 こうした趨勢にあって、〈地域主義〉という形での知のシューレの結成は、ネーション・ワイドのコンセンサスの形成といったレベルでまずそれなりの機能を果たしつつある。そして、細分化された諸科学への批判、専門知への自己批判と結びつくことによって、インター・ディシプリナリーな場の設定という機能を果たしつつある。〈地域〉という概念が、そうした領域の設定と、さまざまな局面からの作業を媒介するのである。おそらく、後者の意義により大きなウェイトを置くことができよう。「こんにちの地域主義の潮流は、もしも、その主張のなかに学者や文化人の自己批判がこめられていないとすれば、単に新たな流行の一つをつけ加えたにとどまる」(河野健二[7]7)はずだからである。すなわち、とりわけ近代経済学批判や科学批判、テクノロジー批判などと結びつけて、〈地域主義〉は位置づけられ、理解されるべきなのである。

 〈地域主義〉にかかわる理論的関心は、多局面にわたっている。『地域主義』の第Ⅰ部「地域主義の課題」では、水、土地、労働力、金融、エネルギー、技術、生産、流通、交通、自治、言語等について問題が整理されているのであるが、地域の自立のためには、地域の生活や生産を支えるあらゆるものが問題となってくるのである。そうしたなかに、槌田敦等の資源物理からのエネルギー論あるいは技術のエントロピー論[8]8、玉野井芳郎の広義の経済学への展望[9]9を含む近代経済学批判の動向、農業の再生をめぐる諸論考など、注目すべき理論的検討をみることができる。エコロジー、中間技術、地場産業、農薬(自然農法、有機農法)、地方自治、自主管理、産直、地域メディアをめぐるテーマが、〈地域主義〉のプロブレマティークを形成しているのである。

  一方、こうした知の結集に対する危惧がないわけではない。むしろ、そうした形のシューレの形成が、本来、問題の根源にあるわからなさを増幅し、訳のわからないわからなさを蔓延させつつあるともいえるのである。〈地域主義〉とは、山本陽三のいうように、「地域主義といった一つの輪があるのではなく、各地にポツポツと、そう名付ければそのようにも思える生活の実践があるといったこと」[10]10であり、五〇年か一〇〇年たって、社会学者や社会史学者が、ある時期のある種の生活の仕方を総括して「地域主義」と名付けるといったもの」、「それを当の実践者が墓の下から、ニヤニヤ笑って見ているといった態のもの」のはずなのである。

 この理論と実践の転倒は、諸外国の運動と決定的に異なる点かもしれないし、それは〈地域主義〉の主唱者たちも十分意識しているところであろう。現在、〈地域主義〉の運動として示されるさまざまな事例や試みは実に多様であり、そのレヴェルも位相も異にする多くのものを含んでいるように思えるのであるが、それは、〈地域主義〉のための諸条件が現実には未熟であることを示しているはずである。〈地域主義〉という妖怪は、その困難性を覆い隠す役割を担う危険ももっているのである。

それに、理論のレベルにおいても、〈地域主義〉には本質的な困難性がつきまとっている、といえる。しかも、それはあらゆる局面で究極的に同一の構造の問題にいきつくといえるだろう。

 清成忠男は、〈地域主義〉において、さまざまな意味において「中間」ないし「媒介」が重視されることを説く[11]11のであるが、それは逆に、そこに共通の問題が存在することを示しているのである。公有でも私有でもなく、共有、巨大技術でも土着技術でもなく、中間技術といった主張がそれである。すなわち、いま問われているのは、「それぞれの〈地域〉が部分であると同時に全体であり、中心でありうるような結合様式」であり、「〈地域〉が諸学のひからびた抽象からよみがえるためには、絶えずこのような逆説に耐えるだけの緊張を保持せねばならない」[12]12のである。

  こうした〈地域〉の概念――部分であると同時に全体でありうるような――は、原広司[13]13がいうような意味で、いまのところ、空間的なイメージを欠いているといわねばならない。〈地域主義〉の行方が気にかかるのは、そうした根源的な意味においてでもある。

 

 3

  建築の分野においても、地域主義あるいはリージョナリズムがこれまで幾度か主題化されてきた。しかし、それは、一般にデザインの問題としてたてられてきたといっていい。戦後まもなくの新風土主義あるいは新日本調、さらに五〇年代初めの伝統論は、世界的視野におけるリージョナリズムの展開と考えられるし、五〇年代末から六〇年代初頭にかけては国内における地方なり地域性がそれなりに話題とされた。また、六〇年代末からのデザイン・サーヴェイの流行は、リージョナリズムの展開とみなすことができる。

  もちろん、民家研究や郷土建築研究、農村建築研究の流れに、建築家の地方や農村への関心を跡づけることは可能であるが(それは、一般的には、計画的ロゴスの史的展開が示すように、農村を近代化し、地方を中央化していくヴェクトルをもったものであったといえるであろう)、今日、言われているような意味で、建築における〈地域主義〉が主題とされてくるのは、七〇年代後半に入ってからといってよい。歴史的環境の保存や住民参加、種々のまちづくり運動の過程において、そうした潮流が現れてきたのである。私たちは、その先駆的な試みを、例えば、象グループの沖縄の仕事に見いだすことができる[14]14。その山原の地域計画と建築活動は、すでにさまざまな場所で紹介され、各方面に強烈なインパクトを与えつつあることはよく知られていよう。

  その計画理念や方法――水系単位の開発、自力建設、「逆格差論」および建築表現へのアプローチに、私たちは多くのことを学ぶことができるはずである。こうしたさまざまの試みを〈地域主義〉としてくくるかどうかは、とりあえず問題ではない。こうした実践に学ぶことのほうが先決であろう。〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、建築が生み出されてくるその一つの方向性を、それは示しているはずである。私たちのさしあたっての関心は、そうした方向性を確認しながら、建築における中間技術のあり方をさぐることであろうか。もちろん、それが自立的に追求されることはありえない。具体的な活動の過程で、創造されねばならないものであることは言うまでもないことである。

 中間技術(                       )は、適正技術(                 )、代替技術(                 )、生態技術(         )、地域技術(               )、ホーリスティック・テクノロジー、ラディカル・テクノロジー、ソフト・テクノロジーといったさまざまな呼び方をされつつあるものであり、それぞれの呼称がその特性を示しているといえるであろう。E.F.シュマッハーのいう中間技術は、大衆による生産、プルードンの「工・農協同体」を想起させるとされる「農・工構造」の創設への方向性のなかで位置づけられており、巨大技術と伝統技術の中間に位置し、両者を媒介するものとして規定されている。

 玉野井芳郎の整理によれば、小規模性(非資本集約性)、生態系への適合、地域共同体に固有な高度の伝承性と個性の三つがその特性である。

 また、清成忠男の紹介する  ジェクイエ        による中間技術の特徴は、①地域の文化的・経済的条件と両立すること、②労働手段やプロセスは地域住民の管理の下で運用されること、③可能な限り地域の資源を利用すること、④他地域から資源や技術を導入する場合には、地域で何らかのコントロールを行うこと、⑤可能な限り地域のエネルギーを利用すること、⑥生態系にとって健全であること、⑦文化的破壊を避けること、⑧結果が妥当でない場合には、地域が修正可能なようフレキシブルな状況を用意しておくこと、⑨研究や政策は、地域住民の福祉や地域の創造性などの極大化を配慮し運営されるべきことである。

  このような方向性をもった中間技術は、いまのところ、風力発電や太陽熱、地熱の利用、汚水の処理、有機農法といった形で具体的にイメージされているにすぎない。G.ボイルとP.ハーバーは、中間技術の具体的テーマを、食物、エネルギー、シェルター、オートノミー、材料、コミュニケーションの六つにわけて整理している[15]15が、シェルターの項で具体的にイメージされているのは、仮設構造物、ヴァナキュラーな架講、土を用いた建造物、自力建設による住宅である。

  いずれにせよ、建築における中間技術の追求は、興味深い局面をきり開いていくことであろう。五〇年代のMID同人によるテクニカル・アプローチとは、逆の方向性をもつのであろうか。ガジルによれば、中間技術の開発には三つのアプローチがある。一つは伝統技術の改良、一つは、近代技術の適応・調整、最後は、直接それ自体の開発である。その開発がどのような過程を経てなされるのか、その開発の主体はどのように形成されるのか、そして、そうしたプロセスと技術の開発はどのような建築的表現を生むのであろうか。

  〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、そうした建築における中間技術がどのように生み出され、根づいていくかは〈地域主義〉の行方に、少なからずかかわっているはずである。

 



[1]1 玉野井芳郎、清成忠男、中村尚司、『地域主義』、「序 地域主義のために」、学陽書房、一九七八年

[2]2 宮川中民、「エコロジー運動の展望と課題」、『展望』、七八年七月号。「世界エコロジー運動の新しい潮流」、『朝日ジャーナル』、七八年六月三〇日号

[3]3 『人間復興の経済』、斉藤志郎訳、佑学社、一九七六年

[4]  杉岡碩夫、『中小企業と地域主義』、日本評論社、一九七四年

[5]  杉岡碩夫、『地域主義のすすめ 住民がつくる地域経済』、東経選書、一九七六年

[6]6 ジュリスト総合特集     『全国まちづくり集覧』、有斐閣、一九七七年

[7]7 前掲『地域主義』

[8]8 槌田敦、『石油と原子力に未来はあるか』、亜紀書房、一九七八年

[9]9 『地域分権の思想』、東経選書、一九七七年。『エコロジーとエコノミー』、みすず書房、一九七八年

[10]10 「「ゲリラ」と地域主義」、『地域開発』、一九七七年六月号、『地域主義を考える』、地域開発センター、一九七七年

[11]11 「地域主義における「中間」の意義」、『地域と経済』、一九七七年

[12]12 前掲註  はしがき

[13]13 「地域とインターフェイス」、『世界』、一九七八年五月号

[14]14 「特集 象グループ・沖縄の仕事」、『建築文化』、一九七七年一一月号

[15]15 ラディカル・テクノロジー


2023年12月26日火曜日

芸術とコンテスタシオン,螺旋工房クロニクル004,建築文化,彰国社,197804

芸術とコンテスタシオン*[i]    

 

  芸術の廃棄は、芸術に対応する〈諸価値〉を永らえさせようとする意志が強固なだけに、いっそう必要なのだ。われわれは一から十まで芸術のなかで生きている。遠からずわれわれは、睡眠中に芸術を食い、それを消費するようになるだろう。芸術の廃棄は、芸術作品の流布に当たっている機構の真っただ中でのみ実行されうる。われわれは敵の領土に生きているのだから、敵の領土内でこそ最初の勝利は可能であり、実現されるだろう。さし当たって芸術の廃棄以外に突破口はない。

                       アラン・ジュフロワ『芸術の廃棄』一九六八年*[ii] 

                     

  ボブ・ディラン*[iii]がやって来た(七八年二月一七日)。全一〇回の公演で延べ一〇万人を動員するという。Far East Tour 1978。一九六六年のオーストリア公演についで、二度目の例外的な海外公演である。

  数枚のレコードによる追体験。あるいはディランが岡林信康*[iv]や吉田拓郎*[v]に与えた偉大な影響を通した擬似体験。いわば遅れてきたディラン体験者でしかない僕にとっても、その来日が、否応なしに記憶の底から呼び起こしてくるものがあることは事実である。

  グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスからコロンビアレコードに拾いあげられて、処女アルバム『ボブ・ディラン』を吹き込んだのが一九六一年。二年後には、公民権運動の高揚のなかで、カリスマ的存在に祭りあげられていた。そして、一九六五年。あの劇的な、ニューポートでの〈転換〉、Its all over now, baby blue.――フォークからフォーク・ロックへ、プロテストソングの放棄?  へ――。そして『ブロンド・オン・ブロンド』を経て事故、沈黙。復活……。ボブ・ディランの軌跡は、少なくとも六〇年代において、極めて先鋭に時代を映していたのであり、私的な体験とないまぜになって記憶されているのである。

  しかし、それにしても、なぜ、ディランは、日本に来たのか。多くのディラノロジストが、その意味と意義について、やかましく言挙げしてみせるに違いない。ディラン神話の諸形態(とりわけその日本的形態)、日本の音楽資本と呼び屋の企業戦略と、それが支える大衆文化の構造など、興味はつきない。

  ディランが来日する二日前(二月一五日)、極めて興味深いシンポジウム(公開講座)が東京の郊外でもたれた。

 場所:和光大学芸術学科D棟三階小講堂

 報告:アラン・ジュフロワ*[vi]

 司会:針生一郎*[vii]

 討論参加:西永良成、千葉成夫 通訳:竹原あき子

 テーマ:芸術と政治

  アラン・ジュフロワの名も、六〇年代末の特定の時空と結びつけられて記憶されている名である。仮に、その名は忘れ去られていたとしても、その〈芸術の廃棄〉という鮮烈なアジテーションは記憶されているだろう。しかし、最近まで、僕らが彼について知りうる情報は、「五月革命」*[viii]直前に書かれて、「五月革命」に大きな影響を与えたとされる『芸術の廃棄』*[ix]と、「五月革命」敗北直後に書かれた『芸術をどうするか――芸術の廃棄から革命的個人主義へ――』*[x]0の二篇の論文にすぎなかった。従って、彼の昨夏に続いた二度目の来日が、その特定の時空を想起させ、この一〇年の時の流れを対象化することを強いることは決して不自然ではない。

 この偶然に重なった二つの来日は、芸術あるいは表現におけるプロテストあるいはコンテスタシオン(異議申し立て)のスタイルについて、なにがしかを想い起こさせる。確かに、それを受け入れる文化の構造、さまざまな知的活動に与えるインパクトの差異の考察もそれなりに興味深い。しかし、ディランはディラノロジストにまかせておこう。僕はとりあえず、出掛けていって、僕の内なるディラン神話の崩壊、その詩と肉声とインストゥルメントの真実を確認すればいい。いま、書きとめておきたいのはA.ジュフロワのほうである。

  A.ジュフロワにとって、『芸術の廃棄』以降の一〇年とは何か。「五月革命」の総括と実践。彼の今日的な活動とその置かれているコンテクスト。日本へ来ることの意味。それを企画した呼び手の戦略。そして、そのことが日本の文化状況にいかなるインパクトを与えうるのか。A.ジュフロワの提起を受け止めうる観衆(受け手)はどこに存在するのか。

 「問い――芸術と政治の関係は、芸術にとって必要なのか、政治にとって必要なのか、あるいは両者にとって必要なのであろうか。もし、両者に必要であるとすれば、芸術は政治に何をもたらし、そしてまた政治は芸術に何をもたらすのであろうか?  芸術に異議を申し立て、芸術の廃棄をもくろみ、日常生活と芸術の合体を意図した後、ついにわれわれは現在、政治自体に異議を申し立てようとし、政治を日常生活に合体させようとする。しかし、政治がその制度の内側で機能しているように、芸術は、その制度の真っただ中で自己を表現し続けている。これまで続けてきた異議申し立てが失敗したかのように、また、芸術が反―芸術をのみ込み消化したかのように、そして政治が反―政治をのみ込み消化したかのように、あらゆることが過ぎ去っているのである。……」

 と、A.ジュフロワは、新たに書きおろしたメッセージを読みあげ始めた*[xi]1。それは、予想外にアクティブで戦闘的なメッセージであったといわねばならない。一つには、左翼連合の分裂をはらみながらも保革逆転の予想される仏総選挙を前にした政治的緊張が背景にあった。彼が最も批判の槍玉に挙げたのは、ベルナール・アンリ・レヴィ*[xii]2らのヌーボー・フィロゾーフの動向である。例えばソレルス*[xiii]3にみられるような「五月革命」を経て、マオイズム(毛沢東主義)へ、そして反マルクス主義へという一つの典型的な軌跡が、現在の政治的コンテクストのなかで、露骨で、危険な役割を果たしつつあることに対する批判と思想闘争は、いま、彼にとって極めて重要な、アクチュアルな課題なのである。さらに、彼は一月末に、ジル・ドゥルーズ*[xiv]4らとともに西ベルリンの大学長へ、体制へ異議を申し立てる学生にも門戸を解放することを要請する《TUNIX》(何もするな、落着こう、という意味)と呼ばれる抗議行動を組織したばかりであるという。

 彼は、また、一九七七年華々しくオープンした、ジョルジュ・ポンピドー・センター*[xv]5で「ギロチンと絵画――トピノ=ルブラン*[xvi]6とその友人たち」という展覧会を組織したばかりである。トピノ=ルブランはダヴィッドの弟子で、フランス革命中最もラディカルに生き、ギロチンにかけられた画家であるが、フロマンジェ、デュフール、モノリ、エロら七人の現代画家に、現代のギロチンと呼ぶべきものを描かしたのである(二月一五日の会場では、スライドで、その幾つかが解説された)。ジェラール・フロマンジェを中心とする。ジュフロワが《新歴史絵画》と呼ぶ一連の動きは、フーコー*[xvii]7やドゥルーズも注目しているらしいが、彼にいわせると、フランスにおいて、現在、最も政治と芸術にかかわっている動きだという。

 すなわち、ジュフロワの芸術と政治をめぐる議論は、決して、図式的、観念的なものではありえない。まして、手垢にまみれた、政治の優位性論や芸術の党派性論の位相にはない。現実の緊張関係、リアリティに裏づけされた具体的なそれなのである。〈芸術は、政治に、衝動的エネルギー、反抑圧的自由、即興的能力をもたらす。政治は、芸術に発明の能力と集団的組織をもたらす〉と彼がひきとるとき、それがダイナミックな現実の過程に裏打ちされたものであることを同時に想起すべきなのである。それゆえ、彼の先鋭なラディカリズムは、一貫してその言葉の端々は活動に息づいているようにみえる。〈視覚の革命〉、〈芸術の廃棄〉、そして〈革命的個人主義〉。彼のキー・コンセプトである〈オブジェクトゥール〉(本義の《異議を申し立てる人》にオブジェを用いるものの意味をからませた語)、〈テクスチュアリズム〉らの衝撃力は、いささかも失われていないように思える。A.ジュフロワに初めて出会う若い世代の素直な共感がそれを示していた。

  確かに、〈芸術の廃棄〉は、挑発、プロヴォケーションにすぎなかった。例えば、「考えることはできるが、実際には、実現不可能な作品をすべて展示し、書くことはできるが実際には公刊できない文章を出版する」というスローガンは、冷静に考えてみれば、不可能性の表現であったのである。ちょうど自己否定という言葉のもちえた意味と同様であろうか。しかし、それは逆に不可能性の表現であるがゆえに、常に有効であるともいえるのである。

  「五月革命」は敗北であった。しかし、A.ジュフロワには必ずしも挫折感はない。さまざまな分野において、「五月」から生まれた考え方の浸透をみたからである。例えば、彼がとりわけ強調するのは、エコロジストの運動の意義である。居住環境整備と結びついたその運動に、僕らが学ぶべきことは多い。

  アラン・ジュフロワの活動の軌跡は、『〈五月革命〉以後のフランス美術と政治』*[xviii]8や『視覚の革命』*[xix]9によって、あるいは『ケージを聴くデュシャンを聴く』*[xx]0その他の断片的な翻訳*[xxi]1によって、一般的に明らかにされつつあるといえるであろうか。

  トロッキー*[xxii]2をめぐる個人的体験。ブルトン*[xxiii]3との出会い。そして、シュルレアリスム*[xxiv]4運動からの早すぎる除名、追放。デュシャン*[xxv]5との交流、熱烈なるゴタール*[xxvi]6支持*[xxvii]7、ソレルスとの往復書簡、アラゴン*[xxviii]8との関係等々。A.ジュフロワの軌跡は、戦後の一側面を映してきた。特に六〇年代に入って「反―裁判」の組織から、『視覚の革命』、『芸術の廃棄』、『革命的個人主義』を著していく過程は、実に興味深い。

 A.ジュフロワの詩を中心とした作業の全体は、やがて紹介され、さまざまな角度から検討されることであろう。少なくとも、最初の美術論集『視覚の革命』をめぐって議論が展開されるはずだ。「見えることの構造」の解明あるいは「見ることの神話」の解体がテーマだ。

 「作品を、芸術とその歴史だけを物差しにして判断するのをやめ、物事の総体的な意義が明らかになる領域での有効性に従って具体的にその役割を量ること」。

 また「《つくり手としての芸術家》の機能を見るものの側に転換させることを狙いとする見ることの革命」。僕らの初発の、しかも持続的な問いは、眼差しの革命にかかわるものなのである。

  また、革命的個人主義と組織(あるいは党)、創造的主体と革命的個人との関係、あるいは、それらを含む知識人の問題など、ジュフロワの提起する問題は多様である。

  僕らは、A.ジュフロワの持続的な問いと活動に拮抗しうる問いや活動を持続しえているのか。彼のさらなるアジテーションに答えうるような作家や作品、諸活動を現実的に生み出しえているであろうか。

  針生一郎らによって組織された場は、それなりにA.ジュフロワの提起に、答えうる受け手を見いだしえていた。若い学生たちの問いは、真摯であり、攻撃的ですらありえた。彼らは、学費値上げ闘争と表現の問題を追求しつつあり、それなりの熱気が反映していたのである。それは、ラップ=ストラクチュアと呼ばれるのだが、闘争の一つの表現として管理棟を梱包してしまったというのである。彼らの想像力がクリスト*[xxix]9のそれを越ええていないとしても、それが特殊な限定された場において実現されたにすぎないにしても、評価されてよいはずである。しかし、それは、既にありえてしまったスタイルでもあった。

 六〇年代末の過程(五月革命、大学闘争)以降、状況をより困難にしているのは、あらゆるコンテスタシオン(異議申し立て)をのみ込み消化してしまう制度の転換であるといってよい。文化的回収の自己運動が巧妙化していくなかで、例えば、実現不可能な作品を展示することが可能となったりするのである。「ギロチンと絵画」展が、ポンピドーセンターにすっぼりと収まりきって一〇〇万人をも動員してしまう状況が、それを物語っている。ポンピドーセンターは、実にすぐれた文化装置であることを示したのである。「五月」以降の芸術家たちが戦術を変えていったのは当然のことなのであった。問題はその戦術である。そして、その戦術が、必ずしも一般的に語りえない点なのである。

  磯崎新*[xxx]9は、「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってもいい」という*[xxxi]0。また「方法上のラディカリズムと社会的変革のラディカリズムとは、あの一九三〇年のシュルレアリスム・グループの、コミュニズムをめぐっての分裂に典型的にみられるように、おそらく相容れないものである。方法がホットな自己表出と結びついているかぎり、この溝はおそらく埋まらないかもしれない」ともいう。おそらく、A.ジュフロワの提起は、磯崎とは逆のベクトルで、この問題にメスをいれるモメントとなるであろう。

  ここでは、ささやかな幻想を込めて、また、現実の多様な展開への期待を込めて、A.ジュフロワの五月革命直後に出した三つの指針を記しておこう。

 ①きのうまでの《芸術》を、投機と保有の対象とは別のものにすること。

 ②今日までの《諸芸術》、すなわち文字言語、視覚言語、聴覚言語の商業的回路のなかで利用されてきたのとは違った、コミュニケーションの形態をつくり出すこと。

 ③この仕事にたずさわることのできる人と接触し、彼らを再び糾合すること。

 この仕事とは何か。

 



*[i] 一九七〇年代末、第二次オイルショック直後、時代は暗かった。まさか「黄金の六〇年代」が復活することになろうとは誰も予想できなかったのではないか。「芸術」の廃棄というスローガンは、一九六〇年代末のものだ。「芸術の廃棄」以後、どういう方向を見いだすのか、が一九七〇年代の課題であった。そして、いまもなお課題であり続けている。螺旋工房クロニクル 一九七八年四月

*[ii] 峯村敏明訳、『デザイン批評』No 1969.01

*[iii] ボブ・ディラン Bob Dylan  一九四一ミネソタ~。本名ロバート・ジンマーマン。アメリカの歌手、作詞作曲家。「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind)を発表して(六二)、公民権運動の中で広く歌われ、一躍時代の寵児となる。しかし、六五年「ミスター・タンブリンマン」などでロックの要素を取り入れ、フォークソングから音楽的に転換、物議をかもす。六〇年代後半、レコードが大ヒット。七〇年代には音楽活動に翳りが見えた。来日はかっての反体制のイメージが薄れつつあるタイミングであった。八〇年代に入ると、作品に宗教的な臭いが強くなっていく。

*[iv]  岡林

*[v]  吉田拓郎

*[vi]  アランジュフロア

*[vii] 針生一郎

*[viii] 五月革命 一九六八年五月、フランスで起こった学生たちの運動を中心に起こった社会危機。ベトナム反戦、大学の管理強化への反発をモメントとする、六七年一一月のパリ大学ナンテール校舎の学生ストライキが発端。六八年三月、ナンテール校舎占拠。ソルボンヌなどに波及。五月三日、集会中の学生を警察が排除し衝突が起こったことから学生層の総反乱へ、さらに、労働組合のゼネストも招く。ド・ゴール大統領は、二九日、国民議会の解散、選挙によって事態を収拾する方針を発表する一方、選挙の強制排除によって事態の沈静化を計る。選挙は六月二三日、三〇日に行われド・ゴール派の共和国擁護同盟が圧勝。しかし、翌六九年四月、ド・ゴールは地方改革と上院改組をめざす国民投票で破れて辞任、一一年の政権の座から去ることになった。

*[ix] デザイン批評No 1969.01

*[x] デザイン批評No 1969.06

*[xi] その後、別に西永・千葉両氏によるインタビューが「読売新聞」に二回にわたって掲載された。「表現運動は政治を撃つ」78.03.13. No.1947

*[xii]  レヴィ

*[xiii]  ソレルス

*[xiv]  ドゥールズ

*[xv]  ポンピドゥーセンター

*[xvi]  トビノ・ルブラン

*[xvii] ミシェル・フーコー Michel Foucault 一九二六~八四。フランスの哲学者。七〇年以降、コレージュ・ド・フランスの教授。構造主義の代表的思想家。『狂気の歴史』(六六)『監獄の誕生』(七五)。監獄、病院など近代的制度=施設の根源を問う。『言葉と物』(六六)『知の考古学』(六九)『性の歴史』(七六~)などによって知の根源を問う。

*[xviii] 『美術手帖』、七七一一

*[xix] 西永良成訳、品文社、一九七八年

*[xx] 『エピステーメー』 七七・一一

*[xxi] ほかに、『アンドレアス・パーダーの死』『世界』(七七年二月)がある)

*[xxii] トロッキー Lev Davidovich Trotskii  一八七九ウクライナ~一九四〇。ロシア革命の指導者。本名ブロンシテイン L.D. Bronshtein。一八九八年、シベリア流刑、マルクス主義を本格的に学ぶ。一九〇二年脱走。社会民主労働党の機関誌『イスクラ』の寄稿者になる。一九〇五年、ロシアで革命が起こると永久革命論を立てて帰国。再びシベリア流刑脱走。第一次世界大戦中は急進的な反戦の立場をとる。一九一七年の二月革命後帰国、ボリシェビキに入党、一〇月革命の作戦立案実行に当たる。一八年赤軍創設。二三年、レーニンが廃人となると、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンの三人組と対立、二九年国外追放処分。当初トルコに住んで『わが生涯』(三〇)『ロシア革命史』(三二)を書いた。四〇年、メキシコで暗殺された。『文学と革命』(二三)『若きレーニン』(二五)など。 

*[xxiii] アンドレ・ブルトン Andre Breton  一八九六タンシュブレー~一九六六。フランスの詩人、思想家。一九一九年、アラゴン、スーポーらと『文学』誌創刊。自動記述(オートマティスム)の実験を行い、シュルレアリスム理論の基礎をつくる。二〇年、パリのダダ運動に参加。ツァラと対立。二四年、シュルレアリスム宣言。二五年、共産党入党まもなく脱会。『ナジャ』(二八)『通底器』(三二)『狂気の愛』(三七)など。

*[xxiv] シュルレアリスム Surrealisme  超現実主義。一九二〇年代はじめにブルトンらによって開始された文学・芸術運動。自動記述によって思考の純粋かつ原初的姿に触れることをめざす。夢や催眠術、霊媒現象の実地研究から理性の統御を受けないオートマティックな思考を確認、シュルレアリスムと名付ける。二四年「シュルレアリスム宣言」発表。六六年のブルトンの死まで運動は様々な形で持続される。日本にも、滝口修造による自動記述の実験(二九~三一)などによってシュルレアリスム運動がもたらされた。

*[xxv] マルセル・デュシャン Marcel Duchamp  一八八七ブランビル~一九六八。フランスの美術家。既成の芸術概念を否定し、現代美術に多大な影響を与えた。『花嫁』(一九一二)で油絵放棄。一五年から八年間、2mx3mのガラス板に『独身者たちによって花嫁は裸にされて、さえも』(通称『大ガラス』)という大作を作り続け、未完のまま残す。第一次世界大戦中にニューヨークでマン・レイらとニューヨーク・ダダ運動を起こす。米国籍取得。レディ・メイドのオブジェを並べる作品をつくり続ける。

*[xxvi]

*[xxvii] 『愛と政治の地平線のかなたへ――J=L.ゴタール論――』、『季刊フィルム』創刊号、六八一〇など。ジャン・リュック・ゴダール Jean-Luc Godard 一九三〇パリ~。フランスの映画監督。映画研究誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から『勝手にしやがれ』(五九)でデビュー。ヌーベルバーグの旗頭となる。『女と男のいる舗道』(六二)『恋人のいる時間』(六四)『気狂いピエロ』(六五)『東風』(六九)『パッション』(八二)『カルメンという名の女』(八三)など。

*[xxviii] アラゴン Louis Aragon  一八九七~一九八二。フランスの詩人、小説家。一九年、ブルトン、スーポーらとともに雑誌『文学』創刊。パリのダダ運動を経てシュルレアリスム運動の主要メンバーのひとりとなる。詩集『永久運動』(二五)など。共産党入党、シュルレアリスム運動を離れ、ロシア革命賛美の詩集『ウラル万歳』(三四)など、社会主義リアリズムを唱える。第二次世界大戦中はレジスタンス詩の傑作を数多く発表。大戦後はフランス共産党中央委員をつとめた。『共産主義者たち』(四九~五一)など。

*[xxix]

*[xxx] 磯崎新 一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xxxi] 建築の解体