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2023年12月26日火曜日

芸術とコンテスタシオン,螺旋工房クロニクル004,建築文化,彰国社,197804

芸術とコンテスタシオン*[i]    

 

  芸術の廃棄は、芸術に対応する〈諸価値〉を永らえさせようとする意志が強固なだけに、いっそう必要なのだ。われわれは一から十まで芸術のなかで生きている。遠からずわれわれは、睡眠中に芸術を食い、それを消費するようになるだろう。芸術の廃棄は、芸術作品の流布に当たっている機構の真っただ中でのみ実行されうる。われわれは敵の領土に生きているのだから、敵の領土内でこそ最初の勝利は可能であり、実現されるだろう。さし当たって芸術の廃棄以外に突破口はない。

                       アラン・ジュフロワ『芸術の廃棄』一九六八年*[ii] 

                     

  ボブ・ディラン*[iii]がやって来た(七八年二月一七日)。全一〇回の公演で延べ一〇万人を動員するという。Far East Tour 1978。一九六六年のオーストリア公演についで、二度目の例外的な海外公演である。

  数枚のレコードによる追体験。あるいはディランが岡林信康*[iv]や吉田拓郎*[v]に与えた偉大な影響を通した擬似体験。いわば遅れてきたディラン体験者でしかない僕にとっても、その来日が、否応なしに記憶の底から呼び起こしてくるものがあることは事実である。

  グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスからコロンビアレコードに拾いあげられて、処女アルバム『ボブ・ディラン』を吹き込んだのが一九六一年。二年後には、公民権運動の高揚のなかで、カリスマ的存在に祭りあげられていた。そして、一九六五年。あの劇的な、ニューポートでの〈転換〉、Its all over now, baby blue.――フォークからフォーク・ロックへ、プロテストソングの放棄?  へ――。そして『ブロンド・オン・ブロンド』を経て事故、沈黙。復活……。ボブ・ディランの軌跡は、少なくとも六〇年代において、極めて先鋭に時代を映していたのであり、私的な体験とないまぜになって記憶されているのである。

  しかし、それにしても、なぜ、ディランは、日本に来たのか。多くのディラノロジストが、その意味と意義について、やかましく言挙げしてみせるに違いない。ディラン神話の諸形態(とりわけその日本的形態)、日本の音楽資本と呼び屋の企業戦略と、それが支える大衆文化の構造など、興味はつきない。

  ディランが来日する二日前(二月一五日)、極めて興味深いシンポジウム(公開講座)が東京の郊外でもたれた。

 場所:和光大学芸術学科D棟三階小講堂

 報告:アラン・ジュフロワ*[vi]

 司会:針生一郎*[vii]

 討論参加:西永良成、千葉成夫 通訳:竹原あき子

 テーマ:芸術と政治

  アラン・ジュフロワの名も、六〇年代末の特定の時空と結びつけられて記憶されている名である。仮に、その名は忘れ去られていたとしても、その〈芸術の廃棄〉という鮮烈なアジテーションは記憶されているだろう。しかし、最近まで、僕らが彼について知りうる情報は、「五月革命」*[viii]直前に書かれて、「五月革命」に大きな影響を与えたとされる『芸術の廃棄』*[ix]と、「五月革命」敗北直後に書かれた『芸術をどうするか――芸術の廃棄から革命的個人主義へ――』*[x]0の二篇の論文にすぎなかった。従って、彼の昨夏に続いた二度目の来日が、その特定の時空を想起させ、この一〇年の時の流れを対象化することを強いることは決して不自然ではない。

 この偶然に重なった二つの来日は、芸術あるいは表現におけるプロテストあるいはコンテスタシオン(異議申し立て)のスタイルについて、なにがしかを想い起こさせる。確かに、それを受け入れる文化の構造、さまざまな知的活動に与えるインパクトの差異の考察もそれなりに興味深い。しかし、ディランはディラノロジストにまかせておこう。僕はとりあえず、出掛けていって、僕の内なるディラン神話の崩壊、その詩と肉声とインストゥルメントの真実を確認すればいい。いま、書きとめておきたいのはA.ジュフロワのほうである。

  A.ジュフロワにとって、『芸術の廃棄』以降の一〇年とは何か。「五月革命」の総括と実践。彼の今日的な活動とその置かれているコンテクスト。日本へ来ることの意味。それを企画した呼び手の戦略。そして、そのことが日本の文化状況にいかなるインパクトを与えうるのか。A.ジュフロワの提起を受け止めうる観衆(受け手)はどこに存在するのか。

 「問い――芸術と政治の関係は、芸術にとって必要なのか、政治にとって必要なのか、あるいは両者にとって必要なのであろうか。もし、両者に必要であるとすれば、芸術は政治に何をもたらし、そしてまた政治は芸術に何をもたらすのであろうか?  芸術に異議を申し立て、芸術の廃棄をもくろみ、日常生活と芸術の合体を意図した後、ついにわれわれは現在、政治自体に異議を申し立てようとし、政治を日常生活に合体させようとする。しかし、政治がその制度の内側で機能しているように、芸術は、その制度の真っただ中で自己を表現し続けている。これまで続けてきた異議申し立てが失敗したかのように、また、芸術が反―芸術をのみ込み消化したかのように、そして政治が反―政治をのみ込み消化したかのように、あらゆることが過ぎ去っているのである。……」

 と、A.ジュフロワは、新たに書きおろしたメッセージを読みあげ始めた*[xi]1。それは、予想外にアクティブで戦闘的なメッセージであったといわねばならない。一つには、左翼連合の分裂をはらみながらも保革逆転の予想される仏総選挙を前にした政治的緊張が背景にあった。彼が最も批判の槍玉に挙げたのは、ベルナール・アンリ・レヴィ*[xii]2らのヌーボー・フィロゾーフの動向である。例えばソレルス*[xiii]3にみられるような「五月革命」を経て、マオイズム(毛沢東主義)へ、そして反マルクス主義へという一つの典型的な軌跡が、現在の政治的コンテクストのなかで、露骨で、危険な役割を果たしつつあることに対する批判と思想闘争は、いま、彼にとって極めて重要な、アクチュアルな課題なのである。さらに、彼は一月末に、ジル・ドゥルーズ*[xiv]4らとともに西ベルリンの大学長へ、体制へ異議を申し立てる学生にも門戸を解放することを要請する《TUNIX》(何もするな、落着こう、という意味)と呼ばれる抗議行動を組織したばかりであるという。

 彼は、また、一九七七年華々しくオープンした、ジョルジュ・ポンピドー・センター*[xv]5で「ギロチンと絵画――トピノ=ルブラン*[xvi]6とその友人たち」という展覧会を組織したばかりである。トピノ=ルブランはダヴィッドの弟子で、フランス革命中最もラディカルに生き、ギロチンにかけられた画家であるが、フロマンジェ、デュフール、モノリ、エロら七人の現代画家に、現代のギロチンと呼ぶべきものを描かしたのである(二月一五日の会場では、スライドで、その幾つかが解説された)。ジェラール・フロマンジェを中心とする。ジュフロワが《新歴史絵画》と呼ぶ一連の動きは、フーコー*[xvii]7やドゥルーズも注目しているらしいが、彼にいわせると、フランスにおいて、現在、最も政治と芸術にかかわっている動きだという。

 すなわち、ジュフロワの芸術と政治をめぐる議論は、決して、図式的、観念的なものではありえない。まして、手垢にまみれた、政治の優位性論や芸術の党派性論の位相にはない。現実の緊張関係、リアリティに裏づけされた具体的なそれなのである。〈芸術は、政治に、衝動的エネルギー、反抑圧的自由、即興的能力をもたらす。政治は、芸術に発明の能力と集団的組織をもたらす〉と彼がひきとるとき、それがダイナミックな現実の過程に裏打ちされたものであることを同時に想起すべきなのである。それゆえ、彼の先鋭なラディカリズムは、一貫してその言葉の端々は活動に息づいているようにみえる。〈視覚の革命〉、〈芸術の廃棄〉、そして〈革命的個人主義〉。彼のキー・コンセプトである〈オブジェクトゥール〉(本義の《異議を申し立てる人》にオブジェを用いるものの意味をからませた語)、〈テクスチュアリズム〉らの衝撃力は、いささかも失われていないように思える。A.ジュフロワに初めて出会う若い世代の素直な共感がそれを示していた。

  確かに、〈芸術の廃棄〉は、挑発、プロヴォケーションにすぎなかった。例えば、「考えることはできるが、実際には、実現不可能な作品をすべて展示し、書くことはできるが実際には公刊できない文章を出版する」というスローガンは、冷静に考えてみれば、不可能性の表現であったのである。ちょうど自己否定という言葉のもちえた意味と同様であろうか。しかし、それは逆に不可能性の表現であるがゆえに、常に有効であるともいえるのである。

  「五月革命」は敗北であった。しかし、A.ジュフロワには必ずしも挫折感はない。さまざまな分野において、「五月」から生まれた考え方の浸透をみたからである。例えば、彼がとりわけ強調するのは、エコロジストの運動の意義である。居住環境整備と結びついたその運動に、僕らが学ぶべきことは多い。

  アラン・ジュフロワの活動の軌跡は、『〈五月革命〉以後のフランス美術と政治』*[xviii]8や『視覚の革命』*[xix]9によって、あるいは『ケージを聴くデュシャンを聴く』*[xx]0その他の断片的な翻訳*[xxi]1によって、一般的に明らかにされつつあるといえるであろうか。

  トロッキー*[xxii]2をめぐる個人的体験。ブルトン*[xxiii]3との出会い。そして、シュルレアリスム*[xxiv]4運動からの早すぎる除名、追放。デュシャン*[xxv]5との交流、熱烈なるゴタール*[xxvi]6支持*[xxvii]7、ソレルスとの往復書簡、アラゴン*[xxviii]8との関係等々。A.ジュフロワの軌跡は、戦後の一側面を映してきた。特に六〇年代に入って「反―裁判」の組織から、『視覚の革命』、『芸術の廃棄』、『革命的個人主義』を著していく過程は、実に興味深い。

 A.ジュフロワの詩を中心とした作業の全体は、やがて紹介され、さまざまな角度から検討されることであろう。少なくとも、最初の美術論集『視覚の革命』をめぐって議論が展開されるはずだ。「見えることの構造」の解明あるいは「見ることの神話」の解体がテーマだ。

 「作品を、芸術とその歴史だけを物差しにして判断するのをやめ、物事の総体的な意義が明らかになる領域での有効性に従って具体的にその役割を量ること」。

 また「《つくり手としての芸術家》の機能を見るものの側に転換させることを狙いとする見ることの革命」。僕らの初発の、しかも持続的な問いは、眼差しの革命にかかわるものなのである。

  また、革命的個人主義と組織(あるいは党)、創造的主体と革命的個人との関係、あるいは、それらを含む知識人の問題など、ジュフロワの提起する問題は多様である。

  僕らは、A.ジュフロワの持続的な問いと活動に拮抗しうる問いや活動を持続しえているのか。彼のさらなるアジテーションに答えうるような作家や作品、諸活動を現実的に生み出しえているであろうか。

  針生一郎らによって組織された場は、それなりにA.ジュフロワの提起に、答えうる受け手を見いだしえていた。若い学生たちの問いは、真摯であり、攻撃的ですらありえた。彼らは、学費値上げ闘争と表現の問題を追求しつつあり、それなりの熱気が反映していたのである。それは、ラップ=ストラクチュアと呼ばれるのだが、闘争の一つの表現として管理棟を梱包してしまったというのである。彼らの想像力がクリスト*[xxix]9のそれを越ええていないとしても、それが特殊な限定された場において実現されたにすぎないにしても、評価されてよいはずである。しかし、それは、既にありえてしまったスタイルでもあった。

 六〇年代末の過程(五月革命、大学闘争)以降、状況をより困難にしているのは、あらゆるコンテスタシオン(異議申し立て)をのみ込み消化してしまう制度の転換であるといってよい。文化的回収の自己運動が巧妙化していくなかで、例えば、実現不可能な作品を展示することが可能となったりするのである。「ギロチンと絵画」展が、ポンピドーセンターにすっぼりと収まりきって一〇〇万人をも動員してしまう状況が、それを物語っている。ポンピドーセンターは、実にすぐれた文化装置であることを示したのである。「五月」以降の芸術家たちが戦術を変えていったのは当然のことなのであった。問題はその戦術である。そして、その戦術が、必ずしも一般的に語りえない点なのである。

  磯崎新*[xxx]9は、「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってもいい」という*[xxxi]0。また「方法上のラディカリズムと社会的変革のラディカリズムとは、あの一九三〇年のシュルレアリスム・グループの、コミュニズムをめぐっての分裂に典型的にみられるように、おそらく相容れないものである。方法がホットな自己表出と結びついているかぎり、この溝はおそらく埋まらないかもしれない」ともいう。おそらく、A.ジュフロワの提起は、磯崎とは逆のベクトルで、この問題にメスをいれるモメントとなるであろう。

  ここでは、ささやかな幻想を込めて、また、現実の多様な展開への期待を込めて、A.ジュフロワの五月革命直後に出した三つの指針を記しておこう。

 ①きのうまでの《芸術》を、投機と保有の対象とは別のものにすること。

 ②今日までの《諸芸術》、すなわち文字言語、視覚言語、聴覚言語の商業的回路のなかで利用されてきたのとは違った、コミュニケーションの形態をつくり出すこと。

 ③この仕事にたずさわることのできる人と接触し、彼らを再び糾合すること。

 この仕事とは何か。

 



*[i] 一九七〇年代末、第二次オイルショック直後、時代は暗かった。まさか「黄金の六〇年代」が復活することになろうとは誰も予想できなかったのではないか。「芸術」の廃棄というスローガンは、一九六〇年代末のものだ。「芸術の廃棄」以後、どういう方向を見いだすのか、が一九七〇年代の課題であった。そして、いまもなお課題であり続けている。螺旋工房クロニクル 一九七八年四月

*[ii] 峯村敏明訳、『デザイン批評』No 1969.01

*[iii] ボブ・ディラン Bob Dylan  一九四一ミネソタ~。本名ロバート・ジンマーマン。アメリカの歌手、作詞作曲家。「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind)を発表して(六二)、公民権運動の中で広く歌われ、一躍時代の寵児となる。しかし、六五年「ミスター・タンブリンマン」などでロックの要素を取り入れ、フォークソングから音楽的に転換、物議をかもす。六〇年代後半、レコードが大ヒット。七〇年代には音楽活動に翳りが見えた。来日はかっての反体制のイメージが薄れつつあるタイミングであった。八〇年代に入ると、作品に宗教的な臭いが強くなっていく。

*[iv]  岡林

*[v]  吉田拓郎

*[vi]  アランジュフロア

*[vii] 針生一郎

*[viii] 五月革命 一九六八年五月、フランスで起こった学生たちの運動を中心に起こった社会危機。ベトナム反戦、大学の管理強化への反発をモメントとする、六七年一一月のパリ大学ナンテール校舎の学生ストライキが発端。六八年三月、ナンテール校舎占拠。ソルボンヌなどに波及。五月三日、集会中の学生を警察が排除し衝突が起こったことから学生層の総反乱へ、さらに、労働組合のゼネストも招く。ド・ゴール大統領は、二九日、国民議会の解散、選挙によって事態を収拾する方針を発表する一方、選挙の強制排除によって事態の沈静化を計る。選挙は六月二三日、三〇日に行われド・ゴール派の共和国擁護同盟が圧勝。しかし、翌六九年四月、ド・ゴールは地方改革と上院改組をめざす国民投票で破れて辞任、一一年の政権の座から去ることになった。

*[ix] デザイン批評No 1969.01

*[x] デザイン批評No 1969.06

*[xi] その後、別に西永・千葉両氏によるインタビューが「読売新聞」に二回にわたって掲載された。「表現運動は政治を撃つ」78.03.13. No.1947

*[xii]  レヴィ

*[xiii]  ソレルス

*[xiv]  ドゥールズ

*[xv]  ポンピドゥーセンター

*[xvi]  トビノ・ルブラン

*[xvii] ミシェル・フーコー Michel Foucault 一九二六~八四。フランスの哲学者。七〇年以降、コレージュ・ド・フランスの教授。構造主義の代表的思想家。『狂気の歴史』(六六)『監獄の誕生』(七五)。監獄、病院など近代的制度=施設の根源を問う。『言葉と物』(六六)『知の考古学』(六九)『性の歴史』(七六~)などによって知の根源を問う。

*[xviii] 『美術手帖』、七七一一

*[xix] 西永良成訳、品文社、一九七八年

*[xx] 『エピステーメー』 七七・一一

*[xxi] ほかに、『アンドレアス・パーダーの死』『世界』(七七年二月)がある)

*[xxii] トロッキー Lev Davidovich Trotskii  一八七九ウクライナ~一九四〇。ロシア革命の指導者。本名ブロンシテイン L.D. Bronshtein。一八九八年、シベリア流刑、マルクス主義を本格的に学ぶ。一九〇二年脱走。社会民主労働党の機関誌『イスクラ』の寄稿者になる。一九〇五年、ロシアで革命が起こると永久革命論を立てて帰国。再びシベリア流刑脱走。第一次世界大戦中は急進的な反戦の立場をとる。一九一七年の二月革命後帰国、ボリシェビキに入党、一〇月革命の作戦立案実行に当たる。一八年赤軍創設。二三年、レーニンが廃人となると、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンの三人組と対立、二九年国外追放処分。当初トルコに住んで『わが生涯』(三〇)『ロシア革命史』(三二)を書いた。四〇年、メキシコで暗殺された。『文学と革命』(二三)『若きレーニン』(二五)など。 

*[xxiii] アンドレ・ブルトン Andre Breton  一八九六タンシュブレー~一九六六。フランスの詩人、思想家。一九一九年、アラゴン、スーポーらと『文学』誌創刊。自動記述(オートマティスム)の実験を行い、シュルレアリスム理論の基礎をつくる。二〇年、パリのダダ運動に参加。ツァラと対立。二四年、シュルレアリスム宣言。二五年、共産党入党まもなく脱会。『ナジャ』(二八)『通底器』(三二)『狂気の愛』(三七)など。

*[xxiv] シュルレアリスム Surrealisme  超現実主義。一九二〇年代はじめにブルトンらによって開始された文学・芸術運動。自動記述によって思考の純粋かつ原初的姿に触れることをめざす。夢や催眠術、霊媒現象の実地研究から理性の統御を受けないオートマティックな思考を確認、シュルレアリスムと名付ける。二四年「シュルレアリスム宣言」発表。六六年のブルトンの死まで運動は様々な形で持続される。日本にも、滝口修造による自動記述の実験(二九~三一)などによってシュルレアリスム運動がもたらされた。

*[xxv] マルセル・デュシャン Marcel Duchamp  一八八七ブランビル~一九六八。フランスの美術家。既成の芸術概念を否定し、現代美術に多大な影響を与えた。『花嫁』(一九一二)で油絵放棄。一五年から八年間、2mx3mのガラス板に『独身者たちによって花嫁は裸にされて、さえも』(通称『大ガラス』)という大作を作り続け、未完のまま残す。第一次世界大戦中にニューヨークでマン・レイらとニューヨーク・ダダ運動を起こす。米国籍取得。レディ・メイドのオブジェを並べる作品をつくり続ける。

*[xxvi]

*[xxvii] 『愛と政治の地平線のかなたへ――J=L.ゴタール論――』、『季刊フィルム』創刊号、六八一〇など。ジャン・リュック・ゴダール Jean-Luc Godard 一九三〇パリ~。フランスの映画監督。映画研究誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から『勝手にしやがれ』(五九)でデビュー。ヌーベルバーグの旗頭となる。『女と男のいる舗道』(六二)『恋人のいる時間』(六四)『気狂いピエロ』(六五)『東風』(六九)『パッション』(八二)『カルメンという名の女』(八三)など。

*[xxviii] アラゴン Louis Aragon  一八九七~一九八二。フランスの詩人、小説家。一九年、ブルトン、スーポーらとともに雑誌『文学』創刊。パリのダダ運動を経てシュルレアリスム運動の主要メンバーのひとりとなる。詩集『永久運動』(二五)など。共産党入党、シュルレアリスム運動を離れ、ロシア革命賛美の詩集『ウラル万歳』(三四)など、社会主義リアリズムを唱える。第二次世界大戦中はレジスタンス詩の傑作を数多く発表。大戦後はフランス共産党中央委員をつとめた。『共産主義者たち』(四九~五一)など。

*[xxix]

*[xxx] 磯崎新 一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xxxi] 建築の解体










 

2023年11月11日土曜日

大腸癌 布野哲郎 記 父の発病から永眠まで (昭和五十三年八月・九月のメモから) 1978

 祖父 布野寛蔵 死去 の記録

丸山ワクチンに頼る、そんな時代があった。食道顔

        布野哲郎 記                           

 父の発病から永眠まで              (昭和五十三年八月・九月のメモから)

 

  八月十日(木)晴  夜晩く帰宅すると、知井宮(宣さん)から十時過ぎ電話があったとのことでこちらからかけてみる。

  父が身体の不調を訴え、七日県立中央病院で診察を受けた。今日再審でレントゲン写真を撮った結果、食道癌と診断された。明十一日更に胃カメラを呑む予定だが本人はもとより誰にも内密にしていると云うことだった。  こちらから、手術その他治療について、また入院等の対処の仕方について、明日医師に万事相談してみるように云って、十一時前電話を切る。大変ショックだった。

  十一日(金)晴  休暇を取って終日在宅、高校野球のテレビを見る。父の件詳細わからないまま、雑賀町小室と、広島寛威さんに電話して置く。

  十二日(土)晴  六時半ころ宣臣から、今日午後から出てくると電話があった。九時半出社、午後一時半退社、石原に行って癌に良いという酵素を分けて貰って帰宅する。

  宣臣が出松来宅、父の様子を詳しく聞く。春頃から不調だったようだが、最近はご飯が喉に詰まって食が進まない。七月末頃から病院で診て貰うように云っていたけれどなかなか行かなくて、やっと今月の七日に初めて県立中央病院で診察を受けた。はっきりしないので、十日の再診には宣臣がついて行った。内科の診察の後レントゲン写真を撮った。宣臣にだけ食道癌だと告げられた。十一日の再診は内科、外科、放射線科を回った。どの医師の所見も病状が進んでいて手の施しようがない、高齢でもあるし、手術も放射線治療も出来ないということであった。

  母には勿論話さないことにする。光恵さんには良く話して協力して貰うことにする。夜小室に来て貰って協議する。総合病院で積極的な治療がないなら、今後は自宅療養で開業医(加藤先生が良い)に診て貰うことにして、予め加藤先生の了解を得て置いて中央病院から回して貰うことにする。

  十三日(日)晴  知井宮に電話して、十五日隆栄と裕子と三人で仏様拝みに行くと連絡する。序でに加藤先生に連絡して盆休中でもお願いにお邪魔させて貰うように頼ませる。夜十四日十一時頃会って貰えると連絡が入る。

  十四日(月)晴  九時過ぎ小室に来て貰って出雲市加藤医院に出かける。日本生命にダイヤモンド婚の記念プレゼントを申し込むため、出雲市役所で父母の戸籍抄本を取って、宣臣と待ち合わせして十一時加藤医院に行く。先生は十二時過ぎに往診から帰宅、経過と事情を説明して父は自宅療養として、先生に往診して貰うよう頼む。先生は、明治は辛抱強いからネ!と飽きれていたが快く引き受けて貰った。寿司を馳走になり一時半に医院を辞して、更に三人市役所で打ち合わせして、三時半頃松江に帰宅。留守中修司が電話してきていて、広島の寛威さんから連絡を受けて東京で会ったら、溺れるものは藁をも掴むのたとえで、丸山ワクチンのことを云っていたと。

  十五日(盆休)晴  十時前日本生命松江支社で、父母ダイヤモンド婚プレゼントの申し込みをして、一畑デパートで蜂蜜を買って、十二時前の汽車で隆栄と裕子と三人で知井宮に仏様拝みに行く。お墓にも参り、田岐屋え仏様拝みに行く。父、母ともゆっくり話す。父は自分の室で布団は敷かず小さな扇風機をかけて横になっている、便所には一人で行く皆と一緒にお茶は飲まない。五時半のバスで出雲に出て松江に八時頃帰る。裕子が結婚したいと云う相手の人について詳しく聞く。

  十六日(水)晴会社は休む。物置から丸山ワクチンの記事が載っている文藝春秋を引っ張り出す。隆栄と裕子は帰京乗車券の買い求めと、泰広の蒲団をチッキで発送するため街に出る。夜修司と丸山ワクチンのことで電話連絡、裕子の結婚相手についても話して合えたら合ってみてくれと頼む。修司は九月初めに帰松すると云う。裕子に知井宮のお祖父ちゃんの病状について話す。結婚相手については、今の段階では面識もないので、一般論だとして自分の意見を話しておく。

  十七日(木)晴  会社から外出の序でに今井書店、園山書店で『癌は征服された』の本を探すも見当たらず、退社帰宅途中黒田書店で丸山ワクチンの本を買う。裕子は<やくも3号>にて上京する。

  十八日(金)晴  五時半退社。知井宮から電話連絡、十七日中央病院再診、十八日加藤医院初診。

  十九日(土)晴  市立病院吉岡事務局長に連絡して、杉原先生に会って貰えることになり、十時前から約一時間丸山ワクチンについて聞く。病院では使用しないと。

  二十日(日)晴  中林恒夫氏を見舞う、生協病院退院につき古志原の宅に。随分悪いのか本人に会えず。夕方丸山ワクチンの本を小室に回す。

  二十一日(月)曇  知井宮から今日も連絡なし。

  二十二日(火)晴  縁側敷居直しと雨戸直しに八時に大工さん来る九時過ぎ出社。石原で酵素を分けて貰って七時帰宅。夜美智子さん、裕子より見舞いの電話。知井宮に電話して様子を聞く。

  二十六日(土)晴  二時半帰宅。知井宮から宣臣が出て、丸山ワクチン使用について加藤先生にお願いした結果や、父の様子について聞く。酵素2000cc渡す。

  二十七日(日)晴  夕方小室が来たので丸山ワクチン使用その他昨日宣臣との話伝える。費用等纏め役頼むと。

  二十八日(月)晴  宣臣から加藤先生にお願いした丸山ワクチン関係の書類が整ったと電話連絡があり東京え行くことにする。

  二十九日(火)晴  八時松江駅で特急券寝台券申し込み、八時半東京修司に電話して、三十一日上京するので、日本医大の受付日を確認の件頼む。二時特急券、寝台券購入、五時半退社。宣さんからレントゲン写真、医師の証明書届いている。夜修司、宣臣と電話で打ち合わせ。東京行き準備、疲れていて眠い。

  三十日(水)晴  朝合銀駅前支店で預金引き出し九時二十分出社。専務に三十一日休暇の了解をとり三時退社。入浴その他支度して五時三十七分出雲号で丸山ワクチンをとりに行く。

  三十一日(木)晴  七時東京駅に着く。七時半修司と待ち合わせ朝食後日本医科大学付属病院へ、八時三十分受付後、しばらく待ってスライドを見たりいろいろ説明を聞いて、十一時三十分丸山ワクチンを受け取り病院を出る。八重洲口に回り<やくも5号>の特急券が取れたので、修司と昼食後一時三十六分の<ひかり>で離京八時四十分帰宅する。

  九月一日(金)曇  会社を休む。知井宮に電話して宣臣十時過ぎに来る。丸山ワクチンを渡して打ち合わせして十一時半頃より出雲市加藤医院へ同道する。先生にワクチン注射の件頼み打ち合わせして、一時医院を辞して中央病院へレントゲン写真を返納する。一時半出雲市駅で宣臣と別れて汽車で四時頃帰宅。新聞切り抜き休養。

  二日(土)曇  六時十分~七時二十分隆栄と自転車で竹内神社に参拝する。夜知井宮より電話、父加藤医院へ連れて行って丸山ワクチンA皮下注射。以後九月四日より自宅で光恵さんが注射する。

  四日(月)晴  古志原栄子から電話で、三日知井宮に行って来たと様子を知らせてくる。

  五日(火)曇  父散髪に行ったと。

  六日(水)晴  石原から見舞いの葡萄が届けられる。宣臣から二日以降の様子知らせてくる。

  七日(木)晴  夜大阪恵之から電話して来たので知井宮の状態を話す。見舞いに酵素を分けて貰って送ってくれと頼まれる。

  九日(土)晴  二時退社、ユニコンに寄って四時頃まで江沢社長から食道癌で亡くなられた母堂の治療経験について聞く。猿の腰掛けの煎じ薬、痛み止の注射と、医師と、看護婦と、付き添い家族等々。夜宣臣から電話、今日加藤先生に往診を頼み二時頃から先生が来て腹水を五00ccくらいとってぶどう糖の点滴をして貰った。江沢さんの話を少しする。

  十日(日)曇時々雨  九時過ぎに家を出て十一時知井宮へ。父の様子今日は痛みがなくお粥が一杯食べられた、石原からの葡萄美味しく食べられた。ぶどう糖点滴二本目、ワクチン今日五本目、咳も少い。五時過ぎのバスで出雲に出て汽車で帰宅。夜小室と、大阪恵之と、広島寛威に電話して知井宮の様子を知らせる。

  十一日(月)雨  五時四十五分退社、夜十時宣臣から電話、父発熱(三十七度八分)加藤先生往診腹水抜き取りは止めて、ぶどう糖に利尿剤を入れて点滴栄養補給する。先生が良い抗癌剤があるがと云って、帰り際に薬をとりに来いと云われたので、行ったら朝夕使用の新しい坐薬三日分渡された。

使用すべきかどうか。(抗癌剤と丸山ワクチン併用の問題)父は鬼門の清めとりんご汁を盛んに云う、懸命である。

  十二日(火)小雨後曇  今日は熱なし、点滴、丸山ワクチン(B)六本目。

  十三日(水)晴  夜泰広から電話明日帰松する。十時半宣臣から電話、本日三時往診腹水八00ccをとった二回目、ぶどう糖点滴。咳はひところより回数はうんと減り、弱くなっている。粘液がたくさん咳と共に上がる。食事は殆ど喉を通らない、重湯のようなお粥を茶碗に少し。岡田の叔母が見舞いに見えた。小室に連絡して置く。

  十四日(木)曇  点滴、丸山ワクチンA七本目、粉薬も水で飲めない。錠剤にしてもらってくれということで、丸薬をなめているように云われて貰ってくる。坐薬はなかった。重湯程度のものも殆ど喉を通らない。泰広帰松、知井宮のお祖父ちゃんの病気、大学院の試験、今後の進路等について話し十二時半就寝。

  十五日(敬老の日)晴  朝宣臣から電話、十四日母また脛が悪く勝部先生に行った。父は加藤先生の往診がないのを心細く思っており、入院して良くなるんだったら入院したいらしい。易で云う崇りを気にして、須佐の大宮さんに行ってお払いして貰うよう頻りに頼むので、これから(十五日)横丁の姉と一緒に須佐に上がる。医者はそろそろ入院をと云うが、どうが良いだろうかと。

  もうしばらく入院しないで自宅で頑張るよう宣臣に云って、午後古志原の栄子に来て貰って父の病状を詳しく話し、協力を頼む。夕方六時頃修司帰松、父の病状経過、裕子の結婚、修司のマンション購入、頭金預貯金等々話して十二時半就寝。

  十六日(土)曇  修司、泰広知井宮に見舞いに行かせる。隆栄が知井宮からの連絡で新聞社に電話してくる。父は昨夜から痛くて苦しむ。朝加藤医院で坐薬と痛み止めを出して貰って注射した。だらだらと眠りと覚めとの繰り返しだと。五時半退社帰宅、修司から知井宮の様子を聞く。入院を考えていて明日知井宮で相談したいと。午後二時半頃加藤先生が往診されて腹水一000ccくらい抜き取り点滴する。丸山ワクチン八本目注射。入院は中央病院を当たってみることにする。

  十七日(日)晴  修司、泰広、やよいで二十世紀梨を購入、手荷物にして発送、十四時五十二分やくも五号にて上京。

  小室の車で栄子と三人知井宮に行く。十五日父が苦しみ、十六日腹水をとって小康を得ているが、十八日には入院させるか、病室次第とゆうことで看護体制を協議する。恭子が夜昼付き添うと云うので頼むことにした。松江に三人帰ったのは七時半頃。夜宣臣から電話があって、あの後で恭子は自分とこの孫を預かると云うことでもめて御破算。この件小室に電話して置く。

  十八日(月)晴  十時過ぎ宣臣から新聞社に電話。昨夜から父の様子がおかしいハア ハア 云って口開けて眠り続ける、声を掛けると薄目を開けてまたすぐ眠る。とても大儀でもの言う気力もなさそう、顔色も悪く医者の往診を求めているが、遠方は通知したが良いかと。医師の往診の結果にするように云う。その後電話なし。帰宅後宣臣から電話、広島、大阪、郁子に知らせた。血圧最高七0、点滴二本続ける、丸山ワクチン。医者は危険な状態で今は動かせない。遠方は通知したが良いと云う。広島大阪に通知。

  十九日(火)曇  知井宮に電話して昨夜からの様子を聞く。変わったことなし、今朝のところ昨日より良いようだ、痛みもないと云っている。食事は全然喉を通らない。昨夜十時過ぎ広島の寛威、今朝大阪の八木の叔母さんと恵之が来ていると。九時半出社五時半退社。電話なくこちらから宣臣に電話を入れて様子を聞く。医師の往診あり、熱三十七度一分、血圧少し上がる、痛みはなし、咳もあまり出ない、粘液も上がらない、食物は全然喉を通らない、渇きに氷をなめていて氷を欲しがる。医者は頚部が固くなっていてそこにも転移していると云う、昨日より良いがもう痛みもあれっきりだろうとのとのことである。点滴のみ。

  二十日(水)雨  小室に電話して知井宮の様子を知らせて置く。いつものとおり出社。隆栄が知井宮に電話して栄子に様子を聞く。加藤先生往診点滴、丸山ワクチン十本目。寛威、恵之それぞれ帰る。夕方江津のきくえ叔母さん来て一泊。

  二十一日(木)曇  三時過ぎユニコンの山田さん、江沢社長からの猿の腰掛け届けてくれる。夜電話して様子を聞く。今日は痛まなかった、朝煎茶碗に一杯重湯が喉を通った。父は絶えず食べよう食べようと意欲を持っている。酵素を催促する、氷を欲しがる。朝中央病院の病室が開いたので今日午前中に入院しないかと連絡があったが、当分動かせないということで断った。加藤先生往診。隆栄、知井宮の煮豆をする。

  二十二日(金)曇  隆栄知井宮に障子貼り手伝い。

  二十四日(日)曇  十一時四七分の汽車、出雲からタクシイで知井宮午後一時、見舞金五万円、二十世紀梨一箱。恭子、小室来ている。足、手が腫れている。手は二、三日前から、目を開いたりつむったり、口が乾く氷をなめる、一時間に一回くらい寝返り、起きて座りたがる。腹水が溜っている。時々起こしてくれとせがむ。

  加藤先生六時頃往診、静脈注射痛み止め、後で点滴しようとするも血管が出なくて入らない。出来なかった。十一時半頃小室と共に知井宮を辞し帰宅、一時過ぎ就寝。

  二十五日(月)曇  朝栄子に電話して知井宮に行って貰うことを頼む。隆栄も朝預金引き出しの後

知井宮に行かせる。

  二十六日(火)  五時七分電話で起こされる小室知井宮から。自転車で南口へ出て五時四十分の下り列車で出雲市、タクシイで知井宮に六時四十分に着く。七時過ぎ皆起きてきて加藤医院へ電話を入れておく。八時様子が変わる。皆枕元に集まる。加藤先生来られて八時八分父は永眠する。

  八時四十分頃栄子、隆栄来る。親戚関係宣臣が通知する。あり合わせのもので交替で朝食だけ済ませると、隣の勝部正さんに諸事取り仕切ってもらうようお願いする。光明寺さんに枕経を上げて貰う。それぞれ手続き連絡の上、出棺は明日、葬儀は光明寺二十八日十時と決定する。広島からも来て通夜。

  二十七日(水)晴  朝までに大阪からも城崎からもみんな来て、九時から納棺する。一ノ谷火葬場

で火葬する。遠方の親戚も多く着替えもあるので、二十七日は小室の車で松江に帰宅する。

  二十八日(木)曇  五時過ぎ起床、六時家を出て小室の車で幸子さんと隆栄と四人で知井宮へ、七時過ぎ着いて朝食、九時二十五分胎泉寺から来られる。法名釈浄寛居士。花輪、弔電整理、係の人と打ち合わせ、十時葬儀。

  二十九日(金)昨夜来雨昨夜は母と共に父のやすんでいた室で寝た。夢は見なかった。雨はかなり降る、朝、市の典礼から来て祭壇を片付ける。十一時頃から会葬の御礼回りのため松江に向かう、十二時半帰宅。中電、松陽ビル、県庁、市役所、新聞社、ユニコンと回り三時半頃帰宅。小室は宣臣と共に再び知井宮へ、十時頃就寝。