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2024年8月16日金曜日

地域主義の行方,中間技術と建築,螺旋工房クロニクル008,建築文化,彰国社,197808

 地域主義の行方――中間技術と建築――

 

 1

  日本には、ひとつの妖怪が跋扈しつつある、という。

  「日本をひとつの妖怪が行く。地域主義という妖怪が、ふるい日本のあらゆる権力は、この化け物を退治しようと、神聖な同盟をむすんだ。保守と革新を問わず、既成の政党、既成の組織、そして既成の思想集団……」と、やがて「各地域に棲む一人一人によって書かれるべき」地域主義宣言を、玉野井芳郎は、ちょうど一五〇年ほど前に草された一つの宣言になぞらえてみせる。「保守も革新も、だれもよくわからない、既成の思想では仲々理解しがたい」、そういう点で〈地域主義〉には、そのあまりにも有名な宣言の冒頭の名文章を想起させるような何かがあるのだという[1]1。

  〈地域主義〉と呼ばれる思想と諸潮流があらゆる権力と緊張関係を生み出しているかどうかは知らない。おそらく、今のところはそうではあるまいと思う。その力が強大となり、妖怪の物語に一つの宣言を対立させるほど、時期が熟しているとは思えないのである。確かに、それはやがて各地域に棲む一人一人によって書かれるべき質のもの、しかも地面の上に書かれるべき質のものであろう。そうした意味で、その動向にはわかりにくさがつきまとう。〈地域〉とは何か、という基本的な問いに対する解答のひろがりをみても実にさまざまである。〈地域主義〉自体は揺れているのである。そのわかりにくさを妖怪と呼べば、呼べるかもしれない。

  しかし、それにもかかわらず、今日、〈地域主義〉と呼びうるような潮流が現れてくる時代的背景については十分了解しうる。すなわち、端的にいって、その諸潮流は、六〇年代的なるもの(高度成長、産業社会の論理、近代化、工業化、都市化等々)に対する批判(ないし反動)を共通のモメントとしているといっていいのである。そうした意味で、その行方は七〇年代を位置づけるうえで、また八〇年代を占ううえで、極めて興味深いといわねばならないであろう。〈地域主義〉とは何か。それはいかなる形態をとって定着するのか。あるいは定着しないのか。

  現在、日本で〈地域主義〉としてくくられようとする諸潮流は、グローバルにも確認することができる。アメリカにおけるオールタナティブ運動やフランスのエコロジー運動あるいは第三世界におけるさまざまな試みに通底する背景をそこにみることは可能なはずである。その運動のスローガンや主張に、多くの共通の方向性、モメントを見いだすことは困難ではないのである[2]2。

 地域の自立(自主管理)、生態系への注視、環境・資源の保護、第一次産業の再生、反生産主義あるいは反成長主義、分権主義、中間技術の使用……。E.F.レュマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』[3]3を共通の背景として想起すればよいのかもしれない。もちろん、日本におけるさまざまな運動や〈地域主義〉の潮流と、オールタナティブ運動やエコロジー運動との質的差異や位相のずれは興味深い問題である。おそらく、〈地域主義〉という形での知のレベルの結集が先行するところにも、日本の特殊性をうかがうことができるであろう。それが、日本の近代の問直しにかかわっている以上、日本の近代化のもつ歪みや特殊性を引き受けねばならないことは当然なのである。

  日本の近代化の過程において、地域なり地方が今日のように主題化される時期をいくつか見いだすことができる。こうした歴史の遡行は地域という概念を明確化しえないままには、ラフなものでしかないのであるが、例えば、明治末期の『地方(ぢかた)の研究』の新渡戸稲造をはじめとして、柳田国男、石黒忠篤、小田内通敏らの郷土会創立の頃、さらに、昭和初期の、権藤成卿の「農村自治」論、橘孝三郎の「国民社会的計画経済」論等の農本主義思想が展開される頃がそうである。

 いずれも、農村の疲弊、解体に対する危機意識が広範に顕在化してきた時期といえるであろうか。〈地域主義〉の潮流が、柳田国男のアクチュアリティの再発見の動向と並行し、あるいは、それが農本主義イデオロギーへ行きつく危険を批判されたりするのも、先行するそうした時期の問題の構造との同相性を一面においてもっていることを示しているのである。したがって、七〇年代における〈地域主義〉が、日本の近代の構造のなかで、幾度か繰り返しみられるそうした地方や農村の主題化とどのように位相を異にしうるか――例えば、中央と地方、農村と都市のディコトミーとその対立図式をいかに超えるかも、問われていくことになるはずである。

 

 2

  増田四郎、古島敏雄、河野健二、玉野井芳郎を世話人とする地域主義研究集談会が結成され、最初の大会がもたれたのは、一九七六年一〇月(東京)のことである。その後、京都(七六年一一月)、熊本(七七年三月)、青森(七七年一〇月)と大会が開かれることによって、〈地域主義) という言葉自体は定着しつつある。

  七〇年代に入って、〈地域主義〉という言葉に積極的な意義を与えた一人に杉岡碩夫がいる。彼は、中小企業近代化のもつ矛盾に出くわす過程において、その克服の方向を〈地域主義〉という言葉で表現するのである[4]4。彼によれば〈地域主義〉とは、「中央集権的な行政機能や社会・経済・文化の機能を可能な限り地方分散型に移すことであり、その過程でわたくしたちの生活をより自主性のある自由なものに転換していこうという展望、つまり一種の“文化革命”の主張である」[5]5。

 こうした方向性はある意味で明快であり、おそらく多くの共有するところであろう。七〇年代に入って、地方や地場産業、自然や農業へ、近代化、工業化、都市化によってとり残されたものへ、眼差しが注がれ始めたことは、さまざまの分野に共通にみられるのである。地方史や地域史の試みの提唱や地方学の提唱なども、そうした趨勢を示すものであった。また、各地方自治体による都市計画や地域計画の流れは、六〇年代における段階とは明らかに様相を異にしてきている。「都市―コミュニティ計画の系譜の流れ」[6]6において、奥田道大は、その転換を「総合計画」の段階から「コミュニティ計画」の段階への移行として総括しながら、いくつかの方向性を示している。

 こうした趨勢にあって、〈地域主義〉という形での知のシューレの結成は、ネーション・ワイドのコンセンサスの形成といったレベルでまずそれなりの機能を果たしつつある。そして、細分化された諸科学への批判、専門知への自己批判と結びつくことによって、インター・ディシプリナリーな場の設定という機能を果たしつつある。〈地域〉という概念が、そうした領域の設定と、さまざまな局面からの作業を媒介するのである。おそらく、後者の意義により大きなウェイトを置くことができよう。「こんにちの地域主義の潮流は、もしも、その主張のなかに学者や文化人の自己批判がこめられていないとすれば、単に新たな流行の一つをつけ加えたにとどまる」(河野健二[7]7)はずだからである。すなわち、とりわけ近代経済学批判や科学批判、テクノロジー批判などと結びつけて、〈地域主義〉は位置づけられ、理解されるべきなのである。

 〈地域主義〉にかかわる理論的関心は、多局面にわたっている。『地域主義』の第Ⅰ部「地域主義の課題」では、水、土地、労働力、金融、エネルギー、技術、生産、流通、交通、自治、言語等について問題が整理されているのであるが、地域の自立のためには、地域の生活や生産を支えるあらゆるものが問題となってくるのである。そうしたなかに、槌田敦等の資源物理からのエネルギー論あるいは技術のエントロピー論[8]8、玉野井芳郎の広義の経済学への展望[9]9を含む近代経済学批判の動向、農業の再生をめぐる諸論考など、注目すべき理論的検討をみることができる。エコロジー、中間技術、地場産業、農薬(自然農法、有機農法)、地方自治、自主管理、産直、地域メディアをめぐるテーマが、〈地域主義〉のプロブレマティークを形成しているのである。

  一方、こうした知の結集に対する危惧がないわけではない。むしろ、そうした形のシューレの形成が、本来、問題の根源にあるわからなさを増幅し、訳のわからないわからなさを蔓延させつつあるともいえるのである。〈地域主義〉とは、山本陽三のいうように、「地域主義といった一つの輪があるのではなく、各地にポツポツと、そう名付ければそのようにも思える生活の実践があるといったこと」[10]10であり、五〇年か一〇〇年たって、社会学者や社会史学者が、ある時期のある種の生活の仕方を総括して「地域主義」と名付けるといったもの」、「それを当の実践者が墓の下から、ニヤニヤ笑って見ているといった態のもの」のはずなのである。

 この理論と実践の転倒は、諸外国の運動と決定的に異なる点かもしれないし、それは〈地域主義〉の主唱者たちも十分意識しているところであろう。現在、〈地域主義〉の運動として示されるさまざまな事例や試みは実に多様であり、そのレヴェルも位相も異にする多くのものを含んでいるように思えるのであるが、それは、〈地域主義〉のための諸条件が現実には未熟であることを示しているはずである。〈地域主義〉という妖怪は、その困難性を覆い隠す役割を担う危険ももっているのである。

それに、理論のレベルにおいても、〈地域主義〉には本質的な困難性がつきまとっている、といえる。しかも、それはあらゆる局面で究極的に同一の構造の問題にいきつくといえるだろう。

 清成忠男は、〈地域主義〉において、さまざまな意味において「中間」ないし「媒介」が重視されることを説く[11]11のであるが、それは逆に、そこに共通の問題が存在することを示しているのである。公有でも私有でもなく、共有、巨大技術でも土着技術でもなく、中間技術といった主張がそれである。すなわち、いま問われているのは、「それぞれの〈地域〉が部分であると同時に全体であり、中心でありうるような結合様式」であり、「〈地域〉が諸学のひからびた抽象からよみがえるためには、絶えずこのような逆説に耐えるだけの緊張を保持せねばならない」[12]12のである。

  こうした〈地域〉の概念――部分であると同時に全体でありうるような――は、原広司[13]13がいうような意味で、いまのところ、空間的なイメージを欠いているといわねばならない。〈地域主義〉の行方が気にかかるのは、そうした根源的な意味においてでもある。

 

 3

  建築の分野においても、地域主義あるいはリージョナリズムがこれまで幾度か主題化されてきた。しかし、それは、一般にデザインの問題としてたてられてきたといっていい。戦後まもなくの新風土主義あるいは新日本調、さらに五〇年代初めの伝統論は、世界的視野におけるリージョナリズムの展開と考えられるし、五〇年代末から六〇年代初頭にかけては国内における地方なり地域性がそれなりに話題とされた。また、六〇年代末からのデザイン・サーヴェイの流行は、リージョナリズムの展開とみなすことができる。

  もちろん、民家研究や郷土建築研究、農村建築研究の流れに、建築家の地方や農村への関心を跡づけることは可能であるが(それは、一般的には、計画的ロゴスの史的展開が示すように、農村を近代化し、地方を中央化していくヴェクトルをもったものであったといえるであろう)、今日、言われているような意味で、建築における〈地域主義〉が主題とされてくるのは、七〇年代後半に入ってからといってよい。歴史的環境の保存や住民参加、種々のまちづくり運動の過程において、そうした潮流が現れてきたのである。私たちは、その先駆的な試みを、例えば、象グループの沖縄の仕事に見いだすことができる[14]14。その山原の地域計画と建築活動は、すでにさまざまな場所で紹介され、各方面に強烈なインパクトを与えつつあることはよく知られていよう。

  その計画理念や方法――水系単位の開発、自力建設、「逆格差論」および建築表現へのアプローチに、私たちは多くのことを学ぶことができるはずである。こうしたさまざまの試みを〈地域主義〉としてくくるかどうかは、とりあえず問題ではない。こうした実践に学ぶことのほうが先決であろう。〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、建築が生み出されてくるその一つの方向性を、それは示しているはずである。私たちのさしあたっての関心は、そうした方向性を確認しながら、建築における中間技術のあり方をさぐることであろうか。もちろん、それが自立的に追求されることはありえない。具体的な活動の過程で、創造されねばならないものであることは言うまでもないことである。

 中間技術(                       )は、適正技術(                 )、代替技術(                 )、生態技術(         )、地域技術(               )、ホーリスティック・テクノロジー、ラディカル・テクノロジー、ソフト・テクノロジーといったさまざまな呼び方をされつつあるものであり、それぞれの呼称がその特性を示しているといえるであろう。E.F.シュマッハーのいう中間技術は、大衆による生産、プルードンの「工・農協同体」を想起させるとされる「農・工構造」の創設への方向性のなかで位置づけられており、巨大技術と伝統技術の中間に位置し、両者を媒介するものとして規定されている。

 玉野井芳郎の整理によれば、小規模性(非資本集約性)、生態系への適合、地域共同体に固有な高度の伝承性と個性の三つがその特性である。

 また、清成忠男の紹介する  ジェクイエ        による中間技術の特徴は、①地域の文化的・経済的条件と両立すること、②労働手段やプロセスは地域住民の管理の下で運用されること、③可能な限り地域の資源を利用すること、④他地域から資源や技術を導入する場合には、地域で何らかのコントロールを行うこと、⑤可能な限り地域のエネルギーを利用すること、⑥生態系にとって健全であること、⑦文化的破壊を避けること、⑧結果が妥当でない場合には、地域が修正可能なようフレキシブルな状況を用意しておくこと、⑨研究や政策は、地域住民の福祉や地域の創造性などの極大化を配慮し運営されるべきことである。

  このような方向性をもった中間技術は、いまのところ、風力発電や太陽熱、地熱の利用、汚水の処理、有機農法といった形で具体的にイメージされているにすぎない。G.ボイルとP.ハーバーは、中間技術の具体的テーマを、食物、エネルギー、シェルター、オートノミー、材料、コミュニケーションの六つにわけて整理している[15]15が、シェルターの項で具体的にイメージされているのは、仮設構造物、ヴァナキュラーな架講、土を用いた建造物、自力建設による住宅である。

  いずれにせよ、建築における中間技術の追求は、興味深い局面をきり開いていくことであろう。五〇年代のMID同人によるテクニカル・アプローチとは、逆の方向性をもつのであろうか。ガジルによれば、中間技術の開発には三つのアプローチがある。一つは伝統技術の改良、一つは、近代技術の適応・調整、最後は、直接それ自体の開発である。その開発がどのような過程を経てなされるのか、その開発の主体はどのように形成されるのか、そして、そうしたプロセスと技術の開発はどのような建築的表現を生むのであろうか。

  〈地域〉の生活と生産にトータルにかかわるまちづくりの過程で、そうした建築における中間技術がどのように生み出され、根づいていくかは〈地域主義〉の行方に、少なからずかかわっているはずである。

 



[1]1 玉野井芳郎、清成忠男、中村尚司、『地域主義』、「序 地域主義のために」、学陽書房、一九七八年

[2]2 宮川中民、「エコロジー運動の展望と課題」、『展望』、七八年七月号。「世界エコロジー運動の新しい潮流」、『朝日ジャーナル』、七八年六月三〇日号

[3]3 『人間復興の経済』、斉藤志郎訳、佑学社、一九七六年

[4]  杉岡碩夫、『中小企業と地域主義』、日本評論社、一九七四年

[5]  杉岡碩夫、『地域主義のすすめ 住民がつくる地域経済』、東経選書、一九七六年

[6]6 ジュリスト総合特集     『全国まちづくり集覧』、有斐閣、一九七七年

[7]7 前掲『地域主義』

[8]8 槌田敦、『石油と原子力に未来はあるか』、亜紀書房、一九七八年

[9]9 『地域分権の思想』、東経選書、一九七七年。『エコロジーとエコノミー』、みすず書房、一九七八年

[10]10 「「ゲリラ」と地域主義」、『地域開発』、一九七七年六月号、『地域主義を考える』、地域開発センター、一九七七年

[11]11 「地域主義における「中間」の意義」、『地域と経済』、一九七七年

[12]12 前掲註  はしがき

[13]13 「地域とインターフェイス」、『世界』、一九七八年五月号

[14]14 「特集 象グループ・沖縄の仕事」、『建築文化』、一九七七年一一月号

[15]15 ラディカル・テクノロジー


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