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2024年8月25日日曜日

パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,2005年10月10日

パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,20051010

 

前川国男と京都会館

2005年10月10日

京都会館

                                2005926

「京都会館シンポジウム」タイムスケジュール  

                                    松隈 洋 

テーマ:前川國男と京都会館

日時:20051010日(月・祝)13301730   場所:京都会館 会議場 

■事前の打合せなど

 ・パネラー司会者の集合時間   :1130

   建物を見学しながら意見交換  :11301230

   会議室にて食事をしながら打合せ:12301330

■シンポジウム本番の進行表

1:あいさつ                    13301335   5

      □松隈 洋(京都会館シンポジウム実行委員会・京都工芸繊維大学助教授):シンポジウムについての主旨を説明し、パネラーと司会者を紹介の後、布野さんへマイクを渡す。

2:司会者の言葉           13351350   15分      □布野修司(滋賀県立大学教授・前川國男展実行委員)

:『建築の前夜―前川國男文集』而立書房1996年刊の序論と時代解説を担当し、戦後モダニズム建築にも関心を寄せる立場から、前川國男とその築がもつ意味についてお話しいただき、基調講演へとつなげる。

   前川国男を知っていますか?

日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。


 

丹下健三の先生が前川国男

 

それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[i]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である

 

  一回の出会い 近代建築とは何か 宮内嘉久 『前川国男』 作品集がない

 

 日本最初の近代建築家 分離派・創宇社

     コンペ問題 定款様式

 

 建築生産の工業化:プレモス テクニカル・アプローチ

 建築家の職能

  デザイン?? 「京都会館」

 

 今、もっともラディカルな建築家はつくらない建築家である、という衝撃発言

 

 つくることは暴力

 壊すことも暴力

 

 

3:基調講演「京都会館と戦後モダニズム建築」    13501430   40

      □石田潤一郎(建築史家・京都工芸繊維大学教授)               

       :「関西のモダニズム20選」の選定委員主査を務めた経験から、日本の戦

        後モダニズム建築の歴史的な意味について概説し、京都会館のもつ独自

        の価値をお話しいただく。液晶プロジェクター使用。

 

              《休憩 10分》

 

4:シンポジウム「京都会館と前川國男を語る」    14401530   50

     ①事前の見学会と基調講演を踏まえての発言

岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)

:ご自身の前川建築や京都会館との出会いから、その価値についてお話し

 いただく。←偶然にも、岸氏は、京都会館が竣工した当時の前川國男と

 同年齢の建築家の一人である。

□横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)

       :最晩年の前川國男に接した最後の所員の一人としての経験から、前川の

        製図室での姿や、何故、前川事務所へ入ったのか、ルイス・カーンとの

        比較など、個人的なエピソードを交えてお話しいただく。

     ②京都会館と戦後モダニズム建築の価値を巡って

     ③京都会館が今後より良い状態で使われるために必要なことは何か など…。

 

         《質疑や会場からの発言を受ける》

  

A:京都会館は、京都府下の高等学校吹奏楽コンクール会場として長く使われ、いわば、

  「吹奏楽の甲子園」としての歴史をもつ。その関係者から、使用者として京都会館

  への思いをお話しいただく。

 

B:今年の3月、ドコモモ100選展のシンポジウム出席のために来日した、ボローニャ

  大学教授で建築歴史家のマリステラ・カーシアート会長が、来京し、京都会館を見

  学された。京都会館の伝統や環境に根ざしたたたずまいに感動したそうである。そ

  のカッシアート氏から届いたメッセージを紹介する。/布野修司

 

5:各パネラーからまとめの発言をいただき、司会者の布野修司氏がしめて終了。

     シンポジウムの内容については、記録を残し、将来的には活字化する予定。

 

 

    見学会の進行表

1.  第1ホールの客席へ見学者が入場

2.  舞台袖から、京都会館館長、松本正治氏があいさつ

3.  京都会館の概要と見学会についての案内/松隈 洋

4.  舞台での音楽?

5.  自由見学に入る。

 

《 「京都会館」シンポジウムと見学会 企画書 》         2005814

 

 

    タイトル

 

「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年 

 記念シンポジウムと見学会

 

    リード文

 

京都会館は今年で開館45周年を迎えます。戦後、疲弊し荒廃していた京都に市民文化の拠点をつくろうと、さまざまな人々が尽力し、厳しい財政事情の中で建設されたのが、京都会館でした。以来45年、たくさんのコンサートや催しが行われてきた文化施設として、岡崎地区の景観を形づくるものとして、今や風景そのもののように周辺環境に溶け込み、その存在感のあるたたずまいは、長く市民に愛されてきました。

竣工当時には、日本建築学会賞や建築年鑑賞を受賞し、また近年では、2000年に、関西における代表的な近代建築との評価がなされて、「関西のモダニズム建築20選」に選ばれました。そして、2003年には、世界的な近代建築の評価と保存を提唱する国際組織である、DOCOMOMOの日本支部と日本建築学会によって、日本を代表する近代建築「DOCOMOMO100選」にも選定され、今や世界へとその価値が伝えらつつあります。

さらに、今年は、設計者である建築家・前川國男(19051986年)生誕100年の節目の年にもあたっています。1223日からは、その仕事の全貌を紹介するはじめての展覧会が、JR東京駅構内にある東京ステーションギャラリーで開催される予定です。

こうした機会にあわせて、京都会館のシンポジウムと、普段は見ることのできないホール内部や舞台、楽屋、屋上などを含む、全館の見学会を企画しました。京都にとって、日本にとって京都会館がどのような歴史的な意味をもち、その建築的な価値はどこにあるのか、前川國男は京都会館に何を実現させようとしていたのか、京都の美しい秋を背景に、広く深く考えます。

 

 

    データ

 

日時:20051010日(月・祝)13301730

 

場所:京都会館 会議場(定員300名)

 

主催:京都会館シンポジウム実行委員会

 

協力:前川國男展実行委員会・京都会館

 

 

    スケジュール

 

1部 シンポジウム  133015301230受付開始)

 

テーマ:前川國男と京都会館

 

司会:布野修司(滋賀県立大学教授)

 

パネラー:岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)

     横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)

     石田潤一郎(京都工芸繊維大学教授)

 

 

2部 京都会館 見学会    15301730

 

案内:松隈 洋(前川國男展実行委員会事務局長・京都工芸繊維大学助教授)

 

 

    参加方法

 

申し込み不要(当日先着順)

満員の場合はご入場いただけない場合があります。

 

    参加費用:第1部、第2部共通(資料代を含む)

 

一般  1000円

学生   500円

 

 

    問い合せ先:京都会館シンポジウム実行委員会

 

6068342

京都市左京区岡崎最勝寺町13

京都会館内 京都会館シンポジウム実行委員会

TEL0757716051

 

 

    「生誕100年・前川國男建築展」のご案内

 

会期:20051223日(祝・金)~200635日(日)

会場:東京ステーションギャラリー

   JR東京駅・丸の内中央口下車・赤煉瓦駅舎内

   〒1000005 東京都中央区丸の内19‐1

   TEL:03-32122485

      ホームページ:http://www.ejrcf.or.jp

















前川国男と戦後近代建築

                        布野修司

 

 日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。

 それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[ii]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である。

 敗戦直後、鮮やかに日本の戦後建築の行く末を見据え、確実に第一歩を踏み出したのは前川國男であった。戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、まずは、戦時中(1944年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品と目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは1947年のことである。1947年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の6月である。

 興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場が基本に置かれるのである。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった1947年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド)同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。1947年から1951年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(1948年 前川3等入選)の不明瞭さが示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(1956年)の住民の建設3加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、5期会結成(1956年6月)に3加することになる。

 しかし、敗戦から5〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 1952年には、「日本相互銀行本店」が完成する。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、1954年に竣工する(1955年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。また、1955年、坂倉準三、吉村順3とともに「国際文化会館」を設計する。さらに、「京都文化会館」、「東京文化会館」と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然である。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(1955年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、1959年には、日本建築家協会会長(~1962年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 しかし、職能確立への道半ばで、バブルの帰趨を見ぬまま前川は亡くなることになる。丹下健三がやがてバブルに翻弄され、日本の戦後建築の帰趨を示したとすれば、前川國男にとって日本の近代建築は、最後まで「未完」であった。   (建築批評・滋賀県立大学教授)



[i] 拙稿、『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)所収(布野修司建築論集『国家:様式・テクノロジーーー建築の昭和』、彰国社、1998年)

[ii] 拙稿、『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)所収(布野修司建築論集『国家:様式・テクノロジーーー建築の昭和』、彰国社、1998年) 

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