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2024年8月9日金曜日

ラディカリズムの行方,見えなくなった構図,建築文化,彰国社,198910

  ラディカリズムの行方・・・見えなくなった構図

 

 磯崎 ラディカリズムのレヴェルにおいては、彼はもはや、ぼくが七〇年代の初めにつつましくやったものをはるかに超えているし、どこまで行くか、というのにかけている人たちだと思うんですね。それは、連中ももう腰を据えているはずだと思うから、やはり七〇年代は頑張ってもらわないといけないのだ。

 原 彼らのやっている手法とか全体的な文脈を見てみると、微妙な差異があるんだね。

 布野 個々にですね。

 原 そう。……あと五年もすると距離がだんだん出てくると思うんです。それで、ある立体的な構造というのが出てくればすごくおもしろい。だれが正統なのか、アウトの中の正統なのか、ということもわからなくなってしまって、みんなそれぞれに存在理由をもつようなかたちで、建築家が分布する……、というような像が初めて出てくるのじゃないか、彼らが頑張れば。……

 ……七〇年代では磯崎さんがある意味でヘゲモニーをもっていたと思う。この次には、センターみたいなものがなくなるような状態が出てきてほしいと思うんです。……低いレヴェルで拡散しているのはやさしいけれども。……

………

 磯崎 布野さんはちょっと下のジェネレーションですね。だから、その下のジェネレーションから彼らがどう見えているか聞きたいところです。

 布野 世代が近いから、ぼくの場合はシンパシーはもつわけですよ、当然。だけど、全面的に乗れるかというと、ちょっと違う面があるんですね。……もうちょっと下になると、彼らを見ていて、つぶされるか、ビチッと立体的な場を広げてくれるかを見て表現し出すのじゃないかという……(笑)。わりとそういう感じなわけですよね。

      鼎談「建築・そのプログレマティーク」 磯崎新、原広司、布野修司*[i] 

 

 ニュー・アンダー・フォーティー

 編集長「突然なんですけど、最近の若い人たちをどう思ってらっしゃいますか? 」………「建築を勉強する若い建築少年が、少なくなったという話ですか。それなら『室内』*[ii]にちょっと書いたんですけどね」

 編集長「いや、ほんとに、本誌(『建築文化』)連載の『戦後、建築家の足跡』に登場する大先生ですら知らない、という若い人が多いんですよね。でも、その話じゃなくて、布野さんたちの世代の下、アンダー・フォーティーの建築家たちなんですけど、どうなんでしょう。いろいろ出てきたんですが」………「どんな建築家がいて、どんなもんつくってるんだか、よく知らないんだけど。雑誌を見てると随分器用な人たちが多いね。上の世代が、下手に見える。でも、そんなに印象に残る人が思い浮かばないんだけど、面白い人がいるんですか」

 編集長「竹山聖とか、小林克弘とか、宇野求とか、團紀彦とか、高崎正治とか、やたら威勢がいいんですよ。全共闘世代の、布野さんたちの世代は、三宅理一さんにしても、八東はじめさんにしても、杉本俊多さんにしても、藤森照信さんにしても、陣内秀信さんにしても、松山巌さんにしても、みんな評論家とか、歴史家になっちゃったでしょう。だから、建築家がいない。下の世代は、楽でいい、もう俺たちの時代だって、言ってるんですよ………「竹山、小林、宇野なんてのは、よく知ってるけど、そんなこと言ってんですか。團くんも、昔、エスキスみたことあるし、高崎くんには、智頭のコンペで縁があったし、その後の活躍を期待してるんですけどね。しかし、全共闘世代に建築家がいないなんていったら、怒られるんじゃないの。なんせ、数は沢山いるんだから。でも、卒業時に、オイルショックにかかって、なかなか、自立する条件がなかったということはあるかもね。それに、当時、前川國男大先生が「いま最もラディカルな建築家は、つくらない建築家である」なんていった時代だったから、建築を捨てた(あきらめた)という学生も多かったということもある。評論や歴史へ向かったというのも、それなりの理由があるんだけど、社会が建築についての評論を要請するから、目立つということであって、建築家がいないなんてことは、言えないんじゃないの。どういう意味で言ってるんだろう。今は、全く別の理由で建築についてのこだわりがなくなってるよね。「リクルート・コスモス」なんかに行くの多いもんね。銀行とか証券会社とか、ね。一方、いまは仕事が多すぎて、若い人たちが、どんどん独立する条件が出来てる。上の世代が、一〇年苦労したのに比べると、デビューしやすいかもね。しかし、忙しすぎて潰れなきゃいいけどね」

 編集長「その辺のことでいいんですけど、ちょっとお願いできませんかね。建築家の世代論について。全共闘以後とか、ニュー・アンダー・フォーティーとかいうことで」………「そんな、無理だよ。だいたい、建築家の世代論というのは、五期会あたりで終わらせていいんじゃないの。世代論というのはうさんくさいからね。下手すると、世代論の背後には、エリート意識がのぞくでしょう。建築ジャーナリズムのイニシアティブをめぐる。一般的にも、権力闘争のにおいがする。それに、実際問題なのは、実年齢じゃなくて、精神年齢なんだよね。だいたい、先行世代だって、磯崎、原から、山本理顕、高松伸まで、世代的には幅があるでしょう。渡辺豊和さんのように、年のわりに信じられないぐらい若いのもいるしね。世代というより、状況に対するスタンスの問題じゃないの。それにね.世代が問題になるときには、世代を規定して枠にはめてやろう、そして、大抵は批判してやろう、という意思や主張が明快にあるもんでしょう。上からでも、下からでも。若い世代の誰だったか、われわれの戦略目標とはなにか、とかなんとか書いていたような気がするんだけど、戦略目標を問うようじゃ駄目なんじゃないの。すでに共有されていて、具体的に先行する世代にぶつけるというかたちじゃなくては。彼らには、明快な主張と理論の展開の用意があるのかしら。どうも、建築はうまいんだけど、内に向かって、自分の世界に、閉じこもってるって感じがあるんだけど。それに、何か、みんなヴァリエーションに見えちゃう……」

編集長「いや、その辺りでけっこうなんですけど」………「いや、そんな無責任な。これ以上言うことないんだけどなあ」

 

 個室に封じ込められた人類?

 この夏、多摩ニュータウンで開かれた「ニュータウン再考・・浮遊する快適空間」と題するシンポジウム*[iii]に参加する機会があった。パネラーは、ほかに三浦展(パルコ出版『アクロス』編集部)、山崎哲(劇作家、犯罪評論)、吉田真由美(映画評論)の諸氏である。テーマは、ニュータウン再考。サブタイトルには「高度成長・団塊の世代そして新しい街づくり」とある。随分と拡散的である。結果として議論の中心となったのは、団地という家族の空間であった。連続幼女誘拐殺害事件が、世間の耳目を集めている真っ最中であり、その事件の舞台が近接していることもあって当然のように大きな話題になったのであった。

 議論に参加しながら思ったのは、日本社会の閉鎖化の深度のようなことである。地域共同体からの家族の自立へ、家父長制的な家族から核家族へ、そして個の自立へ、と戦後の過程において日本社会が開かれてきたように見える一方で、実際に進行してきたのは、個をひとつの閉じた空間に押し込めていく過程ではなかったか。

 器としての住まいを見ると、その推移は比較的わかりやすい。食べるスペースと寝るスペースの分離(食寝分離DK誕生), 公的なスペースと私的なスペースの分離(公私室分離、モダンリビングの誕生、プライバシーの確保)、個室の自立、といったことが次々に主張され、そして具体的なものとなっていったのである。家族の自立(核家族化、マイホーム主義)、個の自立というスローガンのもとに展開された建築家の論理は、住戸の広さを獲得していく以上の論理ではなかったのだけれど、結果として、日本中に蔓延したのはnLDKという住戸形式であった。nLDKの空間がほとんどつながりなく積層するのが、ニュータウンの空間である。

 しかし、いまnLDKという住戸形式によって象徴される家族像(nLDK家族モデル)が揺らいでいる。バラバラの個の単なる集合へと変容しつつある。住居が、単に、個室の集合へと還元されつつある、と言えば、わかりやすいであろうか。個室に封じ込められた個をオルガナイズするのが、さまざまな情報メディアである。各個室には、それぞれに、電話、TV、AV機器など(個電製品)があふれかえる。世界のあらゆる情報に開かれ、しかし、物理的には閉じた個室が浮遊し始めている。

 連続幼女誘拐殺害事件については、決してフィジカルな空間の問題ではない。金属バット殺人事件も、コンクリート詰め殺人事件も、すべて、建築家のせいにされたんじゃかなわない、と思わず口にしてはみた。しかし、考えてみれば、建築家も危ういのではないか。デザインの差異を競いながら、閉じた世界へとますます内向しながら、「浮遊する個室」をつくり続けているのが、結局は建築家の現在なのではないか。モダンリビングを解体すること、nLDKを解体すること、近代建築批判の課題は、若い建築家たちには、どのように引き受けられつつあるのであろうか、などと思ったのであった。

 

 大いなる迷走:団塊の世代って何?

 主催者の狙いの中心は、実は、多摩ニュータウンの居住者の一割余りを占める「団塊の世代」を問う、ということであった。しかし、ひとりの若者によるショッキングな事件のせいで、むしろクローズアップされたのは、若者論の方であった。『大いなる迷走・・団塊世代さまよいの歴史と現在』*[iv]をまとめた三浦展の提起も, いささか遠慮がちであった。他のパネラーが、すべて団塊の世代ということもあったが、何となく、高度成長=団塊世代=ニュータウン=幼女誘拐といった議論の構図が出来てしまいそうだったからである。

 三浦展がひとつ話題にしたのは、団塊世代は全国各地で同じように生まれながら、移動が多く、現在、例えば、多摩ニュータウンのような大都市の周辺に住む割合が多いのは何故か、ということであった。それに対しては、そうでない人もいるでしょう、というのがひとつの答えであり、そう言うと、それ以上に議論のしようがない。それに、年齢によって、すなわち、年齢によって居住地の選定が限定されるということであれば、世代によらず、時代によらず、そうだったはずなのである。

 『大いなる迷走』をのぞいてみよう。

 「終戦直後の一九四七~四九に生まれた約八〇〇万人は、これまで実にさまざまな呼び名で呼ばれてきた。「ベビーブーム世代」、「フォーク世代」、「全共闘世代」、「ニューファミリー世代」、「団塊世代」、「ニューサーティ」……。戦後四四年の日本社会の変化と歩みをともにしてきた彼らは、おそらくは純粋に世代論の対象として語られた最初の世代であろう。消費のマーケットとして、新ライフスタイルのリーダーとして、あるいは社会の変革者として、常に分析され、期待され、恐れられてきた。彼らは終生、注目され論じられるべく運命づけられているかのようだ。団塊世代がついに四〇歳となった今、彼らが再び世代論の俎上にのせられようとしているのも無理はない。」

 冒頭の一節である。何となく違和感の残る書出しである。「純粋に世代論の対象として語られた最初の世代」というのはどういうことか。世代論というのは、「戦中派」とか「昭和ひとけた」とかなんとか、もうすこし、一般的に語られ続けてきたのではないのか。純粋な世代論の対象とは何だろう。誰が対象にし、語ったのだろう。誰が、団塊の世代を、分析し、期待し、恐れてきたのであろう。誰が、終生、注目し、論ずるのであろう。誰が、再び世代論の俎上に載せ、誰が、そのことを無理ない、と思うのであろう。あるコンテクストが前提とされているようでいて、それが曖昧にぼかされた言い方をされるので、気味が悪いのである。

 前提される視線とは何か。あらかじめはっきり言ってしまえば、それは、マーケティングの視線ということになろう。あるいは、資本が量をとらえる視線といってもいい。『大いなる迷走』のあとがきは「団塊世代を一つの理論的枠組みの中に押し込めること」は、非常に困難であり、「個人個人の現在置かれている状況は極めて多様であり、安易な単純化・図式化を許さない」というのであるが、結果としてそこで取られているのは、統計的手法のようなものである。「団塊世代を、過去においては政治的かつ風俗的存在として、現在においては経済的存在としてのみとらえる視点では、この世代の本質はみえてこない」と言いながら、一定のフレームに収めようとする。そこには、無意識であれ、ある意思が感じられるのである。でもまあ、世代論とはそういうものである。

 団塊の世代とは、戦後日本の「ユダヤ人」である。集団就職の金の卵世代である。団塊世代は、共和国の夢を追い続けている。団塊世代女性はクロワッサン主婦である。団塊世代は、郊外で市民運動を展開し始めている。団塊世代の父はアウトドア志向である。等々、団塊の世代に対してさまざまなレッテルが張られるが、むしろ興味深いのは、下の世代との差異が強調される次のような指摘である。

 「団塊世代より一〇歳若い昭和三〇年代生まれは、物心がついた時にはすでに高度経済成長が始まっていた。この世代は、物の豊かさやテレビの面白さや広告の魅力を否定することが生来的にできない。もちろん、物質的豊かさやコマーシャリズムの虚偽性も理解できるが、それを全否定すれば、彼らの生活基盤そのものを切り崩すことになることを彼らはよく知っている。……日本のどこに住んでいても、テレビが彼らの意識を近代的な未来社会へ向かわせた。まさにその点に、団塊世代と昭和三〇年代生まれの本質的な違いがある。彼らは、マスメディアと商品がつくりだす疑似環境・記号環境としての消費社会に、ごく自然に接することができる。彼らにとってそれはすでにひとつの自然だからである。」「一般に団塊世代は、感性の世代ではあるが、感性を論理化できる世代ではない。彼らの中では、感性と論理は常に矛盾・対立している。感性は、論理によって抑圧されるものであり、また、論理からの解放のためにあるのだ、というのが彼らの認識である。が、論理化されない非合理な感性はファナティックな政治運動の推進力にはなりうるが、経済活動(コマーシャリズム)に乗ることはできない。言い換えれば、経済の論理の支配する企業社会・官僚制の中では、感性は抑圧されるばかりである。しかし、一九八〇年代は、まさにこの感性の論理化・商品化を目指して、多くの企業がしのぎを削った時代であった。感性は、抑圧されるどころか、新製品のように次々と大量に生み出され、宣伝され、流通され、販売され、もてはやされ、消費され、消えていった。……団塊世代にはまだ、個人の感性を商品化することに対する抵抗が強いが、昭和三〇年代生まれにはそれがなかったのである。」

 

 見えなくなった構図:リーディング・アーキテクトの消失

 マスメディアとコマーシャリズムがつくり出す疑似環境・記号環境としての消費社会を自然のものとするか、違和感をもつか、あるいは、感性の論理化・商品化に対して抵抗感をもつかどうか、というのは、決して世代の問題ではないだろう。『大いなる迷走』は、YMOの細野晴臣や、糸井重里や川崎徹に代表される広告文化人、都市の中の廃墟をトレンドスポットに変えてしまった建築家・松井雅美、日産の開発に携わったコンセプター坂井直樹のように、感性時代の先端を走るトレンドリーダーとしての団塊世代も存在するけど、少数派だという。しかし、僕に言わせれば、むしろ、感性の商品化を戦略化する一線で活躍してきたのは、全共闘世代のような気がしないでもない。建築の分野でも、感性の論理化を盛んに主張し、若い建築家をリードするのは、三宅理一のような全共闘世代の評論家なのである。

 しかし、感性を商品化することを戦術化できるかどうかは、建築家を区別する大きなポイントとなろう。問題なのは、マスディアやコマーシャリズムを所与のものとして前提し出発するかどうか、である。ア・ブリオリに、「建築」とか、「建築家」という理念を前提とするのではなく、消費社会の現実の中から、幾人もの「建築家」が生まれ始めているとすれば、大きな状況の変化なのである。果して、若いそうした建築家たちが陸続と生まれつつあるのであろうか。

 冒頭の鼎談は、ちょうど一〇年前のものである。そこでは、ある見取り図が何となく、語られようとしている。そこで、「彼ら」ということで具体的にイメージされていたのは、伊東豊雄から、高松伸まで、いまでは四〇代の何人かの建築家たちである。当時、アンダー・フォーティー、その鼎談で、落胤の世代と呼ばれている連中である。「彼ら」は、その後、どのように状況と渡り合ってきたのか。ある意味では、予想どうり「立体的な場」を広げてきたのであろうか。

 しかし、そうだとすれば、いま、アンダーフォーティーと呼ばれる世代は、どのような場を広げつつあり、一〇年後に、どのような場を広げると予想されるのか。いま、それを具体的に語りうるであろうか。いささか、こころもとない。建築家の役割が全く変わっていく、そういう予想があるのである。

 「彼ら」は、八〇年代を通じて、エスタブリッシュされていく。言ってみれば、彼らのラディカリズムは、建築界において次第に認知されていった。建築界でもっとも権威があるとされる日本建築学会賞のような賞が「彼ら」に次々に与えられたことが、それを示している。「彼ら」が社会的に認知されていくのに、大きな力をもったのがマスメディアである。建築ジャーナリズムの枠を超えたメディアに「彼ら」は、戦線を拡大することにおいて、それぞれの存在基盤を獲得してきたのである。原広司が予言したように、センターみたいなものがなくなるような状態が、出現してきたように見える。

 しかし、興味深いのは、「彼ら」の微妙な差異である。近代建築に対する根源的批判を出発点とする「彼ら」の方向性については、これまで折にふれて書いてきた*[v]のであるが、当初からその方向性を巡っては、微妙なというより大きな差異があった。それゆえ、建築ジャーナリズムの上のみならず、連夜のように激しい議論が闘わされていたのである。

 しかし、現在、その方向性を巡る差異は、逆に見えなくなりつつあるような気がしないでもない。近代建築の方向性をめぐる差異が、デザインの差異に還元されて、併置されてしまうのである。とても、「立体的な構造」とはいえないのではないか、と思えるのである。まさに「低いレブェルで拡散している」状況が訪れつつあるのである。こうなると、すぐさま群雄割拠である。八東はじめが、疑似アヴァンギャルドとか言って、歯ぎしりするのであるが、差異の主張はそこでは等価である。デザインの差異、感性の商品化のロジックのみがそこで問われる。単にデザインのみではない。ファッションすらもそこでは問われる。歌って、踊れて、しゃべれる、そんなタレントが、そこでは要請されつつあるのである。

 

 ラディカリズムの死:「大文字の『建築』と「建築批判」

 思うに磯崎新が、あからさまに「転向」を口にしながら、「大文字の建築」などということを言い出さざるをえなかったのは、以上のような状況を特権的に差異化したかったからではないか、と思う。「大きな物語」の崩壊と不可能性のみが論じられねる中で、無数の「小さな物語」が蔓延する状況に対して、そう言ってみたい気分は、わからないでもないけれど、ついに最後の言葉を吐いたな、という感じである。

 その磯崎に対して、『建築雑誌』で質問を投げかける機会があった*[vi](。その回答によると、建築家の仕事も、すべて、この「大文字の『建築雑誌』というメタ概念を把握しているかどうかで、評価できるという。「大文字の『建築』」というメタ概念こそが、建築的言説を成立させる論理と枠組みのすべてをしばりあげている制度である」というのだ。その制度としての「建築」の解体こそが問題ではなかったか、と問えば「それへの違反、免脱、破壊、解体、そして脱構築の作業がなされながら、おそらく、いま、明らかにされつつあるのは、『建築』とは、そのすべを成立させている論理を根底において支えている、名付けようのなかった何ものかを指すのだ」という。

 そこでは、近代建築批判も建築批判も無化される。世代も、時代も、状況も、問題とはならない。あまりに超越論的な地平へと到達してしまったものである。

 磯崎については、これまで幾度か論ずる機会があった*[vii]のであるが、その過剰な言説よりも、そのラディカリズムの行方にのみ興味があった。その行き着く先が、言説の上で明らかになったということであろう。

 そうした、磯崎の「大文字の『建築』」を鈴木隆之が執ように問うている*[viii]。彼が繰り返し主張するのは、「建築」なんて、ないのだ。すべてが「建築」でしかない、という認識だけがありうる、ということだ。あるいは、すれちがった思い入れかもしれないけれど、その指摘の多くに共感を覚えながら読んだ。

 制度としての建築をいかに解体するのか、「建築」から、いかに逃亡するか、という矛盾に満ちた問いを出発点にするとき、とりあえずの解答はそう言うしかない。少なくとも、僕の場合、磯崎の「建築の解体」とハンス・ホラインの「あらゆるものが建築である」というスローガンを同じものとして受け止めながら、原広司のいう「建築に何が可能か」を指針としてきたのである。「大文字の『建築』」というメタ概念は、一切の問いを停止させてしまう。

 ところで、鈴木隆之の、こうした「建築批判」の視座は、彼に属する世代に固有なものなのだろうか。そうではあるまい。状況とのスタンスとして、常に要求されてきたものであろう。むしろ、重要なのは、「建築」なんてない、すべてが「建築」である、という状況が具体的に現れ始めていることだ。そして、それを認識することである。デザインの差異が次から次へと消費される、消費社会の神話と論理が支配する中で、「大文字の『建築』」というメタ概念を知っているかどうかが決定的なのだ、と言おうが言うまいが、どうでもいいことである。

 「建築」なんてない、すべてが「建築」でしかない、という言説は、もちろん両義的である。マスメディアとコマーシャリズムがつくり出す疑似環境・記号環境としての消費社会そのものが、そうした言説を成立させるからである。「大文字の『建築』」などという概念とは無縁にこの状況を突破する筋道に、少なくとも、僕は関心があるのである。などと、言えば、やはり「団塊の世代」に特有なものいいということになろうか。

 『大いなる迷走』は、次のように締めくくられている。

 「戦後日本の社会と文化の中で、常に“アウトサイダー”的な役割を演じてきた彼ら(ユダヤ人! )が、「大いなる迷走」の果てに、ついに何ものかを見いだし、創造する日は来るのであろうか? 」

 果たしてどうか?



*[i]  「建築文化」四〇〇号記念、八〇 二

*[ii]  “室内室外”「国際買いだしゼミナール」八九 五

*[iii]  司会=高橋博史 八八・八・二六多摩市公民館

*[iv]  PARCO出版

*[v]  「戦後建築の終焉? 近代建築批判以後の建築家たち」『建築作家の時代』(リブロート)所収など

*[vi]  八九 一「特集 ポスト・ポストモダニズム」

*[vii]  「磯崎新論・・引用と暗喩ラディカル・エクレクティシズムの行方」『近代思想』、七八 一二月など)

*[viii]  「建築批判・・「大文字の建築」とはなにか」『思潮』No.





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