蘇る黄金の60年代
路上観察などという趣味も余裕もないのだけれど、路上を歩けばやたら目につくのが工事現場であり、建築解体の騒々しさであり、建築計画のお知らせの看板である。もちろん、産業構造の転換で火の消え入りそうな町ではそんなことはないのであろうが、東京では犬も歩けば工場現場に当たるといった、そんな感じである。東京の全域を観察して歩くわけではないから確かなことはいないのであるが、都心でも郊外でも、そこら中に見られるのが工事現場であり、建設予定の空地である。
とにかく異常である。「東京異常現象」と題して雑誌『群居』4号で特集を組んでみたのであるが、全くもって遅きに失した感がある。異常も続けば正常となる。自分とは無縁と知りつつ、空地を見ると一万円札が敷きつめているように見えてしまうのは、庶民の悲しい性であろうか。やがて固定資産税や相続税として自らにはね返ってくると思えば、あるいはこのままでは住むところがなくなるではないかと思えば、怒りもこみ上げてくるのであるが、今はただ呆然である。
ある高名な建築家が設計した建築界ではよく知られた住宅作品が、土地ごと売却され、壊されるという話を聞いた。また一五年ほど前に建てられた、これも建築ジャーナリズムでは著名な建築家の手になる住宅を建て替えて、マンションにする計画の依頼が別の建築家にあったという話を聞いた。建築家の作品も形なしである。土地の価格がすべてであり、建築は零である。この地価狂乱のなかでは、建築の設計という行為は空しく思えてくる。極端にいえば、建築は建ち上がった瞬間に消え去る運命にある。華々しいデザインもジャーナリズムの紙面を飾るのみで、あとはいつ壊されても仕方がない。あるいは土地の値段と建築の値段を比べれば、建てないほうがましだということにもなりかねないのである。
一方、建築業界は活気づいている。小さな設計事務所も仕事が増え、一息ついたという話をよく聞く。職人は足りず、目の回るような忙しさだという。まるで高度成長期のようにビッグ・プロジェクトが打ち上げられ、具体的されつつある。不況になると、密かに地震待望論がささやかれるのが建設業界であるが、それも納まった感がある。震災、戦災、列島改造といった大激変によって生み出される需要を糧に発展した建設業界にとって、この間の東京大改造の諸プロジェクトは、願ったり叶ったりの糧と考えられているのであろう。まさに「土建屋国家」日本である。
今、東京は確かに揺れ動きつつある。もしかすると、歴史的な大転換の時を迎えようとしているのかもしれない。少なくとも、東京オリンピックの頃の大改造に匹敵するほどの大改造が進行しつつあることは事実である。その象徴が、都庁舎の新宿移転である。都心そのものが、西へ大きく移動しつつあることである。一方で、下町の活性化が声高に叫ばれるのであるが、裏を返せば下町が地盤沈下しつつあるということである。また、殊更に山の手に対して、川の手という言葉がつくり上げられ、大川端や東京湾岸部にビッグ・プロジェクトが構想されるのも、水辺や海辺にしか外延的延長の余地がないからである。都心に開発の余地がなくなるとすれば、開発の余地に従って、都市の重心が移動していくのは資本の動きとしては必然である。ターゲットとされたのは公有地である。また、都心に開発の余地がなくなるとすれば、その再開発が課題とされるのも資本の論理としては必然である。
国際都市として、世界の一つの中心都市へと脱皮するために、オフィス空間が足りないというのが口実とされるが、背景にあるのは巨大な国際経済のメカニズムであり、莫大な金あまり現象である。内需拡大を国際的に求められるなかで、国内において、とりあえず、最も効率的に利潤をえるために、東京の土地が集中的にターゲットとされ、余剰資金が投入されつつあるのである。壮大なるマネーゲームである。
東京への一極集中の問題点は、過去幾度となく指摘されてきた。つい先頃も、小松左京の『首都消失』*[1]のような思考実験的SFが話題を呼んだところである。そして、今再び、この異常な地価狂乱を前にして、遷都論、分都論、あるいは展都論(首都圏近郊に首都機能を分散する)がささやかれ始めるのであるが、現実を圧倒的に支配しているのは改都論であり、どうも迫力がない。もう行きつくところまで行って、突然のカスタストローフ(例えば、決定的な水不足や大停電、地震による壊滅)を迎えるしか、この趨勢は止めようがないように思えるほだ。
しかし、それにしても、歴史は再び繰り返すのであろうか。まるで六〇年代の再来である。建築家が次々に未来都市のプロジェクトを発表し、一斉に都市づいていったのは六〇年代初頭のことであった。そして、今、再びチャンス到来とばかりに、一部の(?)建築家たちは東京改造論のビッグプロジェクト推進の旗振り役を務めつつある。それも、四半世紀前のプロジェクトがそのまま蘇ったかのような印象である。例えば、丹下健三の「東京計画一九六〇」や菊竹清訓の「海上都市計画」は東京湾埋立論や埋立地(一三号地)の新副都心計画において再び光が当てられ、突然リアリティをもったものとして見直されつつあるのである。
この四半世紀の間、日本の建築界はめまぐるしい変転を遂げてきた。少なくとも、建築に対する見方が高度成長期からオイルショックを経て低成長期へ至る過程で、大きく変換してきたことは、ここで振り返る必要はないであろう。六〇年代初頭に次々と打ち上げられた建築家による未来都市のプロジェクトは、大規模開発が続くなかで現実性を問われながらも、一九七〇年の大阪万国博(エキスポ七〇)までは輝かしいものと考えられていたと見ていい。もちろん、開発に対して保存が鋭く対置され、計画の現実化に当たっては、日照権や公害の問題をてこにした批判が一方で呈示され続けたのであるが、時代の趨勢は楽天的な未来を信じさせていた。しかし、七〇年代に入って、状況は一変する。オイルショックによるエネルギー問題、資源問題の顕在化が決定的であるが、大阪万国博の会場構成に示された未来都市のイメージは、一瞬にして色褪せたものとなったのであった。
楽天的な未来主義は影をひそめ、建築の巨大主義の問題点や都市計画の理想と現実との圧礫がさまざまに指摘され始める。六〇年代を通じて支配的であった建築の理念、すなわち近代建築や近代的な都市計画の理念が徹底的に問題とされ、それを批判的に媒介することによって、新たな建築や都市のあり方の模索が開始されてきたのが、この間の経緯である。少なくとも建築ジャーナリズムの表層における言説を見るかぎりにおいて、近代建築批判の顕在化以降の建築、都市にかかわるパラダイムの転換は極めてドラスティックであり、以上は大方の共通の認識となっていたといっていいであろう。また、単に言説のレヴェルにとどまらず、現実に建てられる建築物も六〇年代とは全く異なった形を取り始めていたといえるはずである。
しかし、この間の時ならぬ東京大改造を口実とするビッグプロジェクトの復活は、一瞬のうちにそうした経緯を無化するかのようである。もちろん、今、次々に発表されている諸プロジェクトがすべて実現するかどうかは明らかではない。予断は許されないにせよ、日本経済の動向によっては、画餅に帰す可能性は大きい。それに再開発ということであれば、時間もかかる。さらに、こう地価が急騰すれば、プロジェクトそのものが成り立たなくなるということも出てこよう。むしろ、大半の建築家や都市計画家は冷ややかに事態の推移を見ているというのが、本当のところかもしれない。建築界全体が浮き足だっているわけではないであろう。しかし、まるで六〇年代初頭を思わせる都市プロジェクトの浮上は、この四半世紀の日本の建築の歴史を振り出しに戻すかのように思えることも、事実である。この四半世紀は建築にとって一体何であったのか、そうした問いを反芻させるのである。
東京大改造のビッグプロジェクトをポジティブに推進する立場においては、この四半世紀は明らかに連続的である。建築や都市についてのヴィジョンをプロジェクトにして提示し、その社会的、技術的実現の可能性を問うスタイルが、彼ら(「世界建築家」としての近代建築家)のものである。そして、そのプロジェクトの実現については現実の諸条件によるが、やがて科学技術の発展がそれを可能とすると考えるのが彼らである。六〇年代初頭における未来都市の諸プロジェクトが具体化されなかったのは、社会的な条件が整わなかったからであり、決して、それ自体に問題があったからではなく、いってみれば早すぎたのである。高度成長期には、重工業に重点的に投資がなされ、社会資本としての建築や都市に資本を行う余裕はなかったのであるが、世界でも一、二を争う経済大国となった現在、ようやく、かつてのプロジェクトを実現する機会が訪れた。今こそ、後世に残る都市の建設が行われる必要がある。おそらく、この間の東京大改造を推し進める建築家の意識は、以上のようであろう。
もちろん、歴史的にこの四半世紀を評価するのは、後世の歴史家の役割に属することである。われわれに問われているのは、建築の六〇年代についての批判、あるいは近代建築批判の行方である。もし、この間の東京異常現象を前にして、建築家や都市計画家がただ手をこまねいて実態の推移を見守るしかないのだとすれば、それ自体無意味と化すのではないかということである。
まず確認されるべきことがある。一つは、この間の近代建築批判が必ずしも地についたものではなかったことである。もとより、近代建築批判の課題は、単なるデザインの問題ではない。土地と建築、空間のあり方、あるいはテクノロジーのあり方の根底にかかわっており、それゆえ、すぐさま解答が見いだせるようなそうした課題ではないことは明らかなことであった。しかし、この間の近代建築批判は、単にデザインの問題に終始してきたきらいがある。いとも容易に、アンチテーゼが提示され、多様なデザインが現れてきたのであるが、それらはやがてポストモダンのデザインとして一括され、根底にある問題はむしろ覆い隠されてしまったのである。華々しいポストモダン建築論の展開にもかかわらず、現実の空間のあり方を規定してきたのは、この間の地価狂乱を生み出す、そうしたメカニズムである。近代建築批判の提起、ポストモダン論の展開、そして、ポストモダニズム批判という形で議論の円環が閉じられようとしているのだとすれば、問いは正しく振り出しに戻ったといっていい。現代資本主義社会における空間の生産と消費のメカニズムに対して、それをどのように批判するか、そして、その批判をもとにどのような建築や都市のあり方が構想できるかが、そこでの一貫する課題である。そうした初発の問いと、それがいつのまにか見失われてしまってきたことを今更のように思い起こさせるのが、この間の地価狂騒である。
さらに、もう一つ確認されるべきことがある。この間の都市論、東京論の隆盛の役割と位置づけについての確認である。個々の論者の論や視点の差異はもちろん問題とされなければならないが、全体として指摘しうるのは、都市批判の視点が希薄化していることである。あるいは、否、都市論をめぐっても、近代建築批判の問題と同じような問題を確認できるであろう。この間の都市を読む諸作業は、それぞれに近代都市のあり方についての批判を、意識的にであれ、無意識的にであれ、含んでいたといっていい。都市が歴史や記憶や自然を重層化させて生きたことを、さまざまに指摘し、再発見していくことは、ますます均質化し、場所との固有なかかわりを失いつつある現在都市に対する批判の作業である。しかし、単にそうした都市の記憶を再発見し、指摘するだけにとどまるとすれば、それだけのことである。問題は、現代の都市を規定しつつある支配的な理論とそれぞれの都市を読む視点が、どうクロスするかである。都市論ブーム、東京論ブームは、都市を読む楽しさを増幅するのみで、その基本的な問いを覆い隠すのである。
先端技術を駆使した未来都市のためのビッグ・プロジェクトが具体化しつつある一方で、ポストモダンの都市論が専らレトロブームを拡大させつつあるのは奇妙な構図であるが、互いに相補的であることは明らかであるし、もし、歴史が前者の方向にあるとすれば、おそらく、後世の歴史家は、後者を、都市が歴史や記憶を失っていく過程における悲鳴にも似た作業なり現象としてクールに位置づけることになろう。それにしても不思議なのは、今都市において起こりつつあることを記録する構えを取った都市論が、いっこうに浮上してこないことである。都市論ブーム、東京論ブームがいたずらに過去への関心のみを喚起し、都市の楽しさのみをうたい上げることにおいて、都市の負の現実を見ないとすれば、あらかじめそれを覆い隠す役割を担っていると見ていいのである。
この間の東京一極集中異常現象をめぐって、土地政策、住宅政策など公的施策の問題を指摘するのはある意味では簡単である。公的施策がほとんど無策に近く、またしても後手後手に回ってしまったことについては、うんざりするほどの指摘がなしえよう。まして、この間の大都市圏を中心とした地価狂乱が公有地払い下げによる民活路線によって引き起こされてきたことについては、何をか言わんやである。
しかし、公的機関の無策や制度の不備を指摘するだけでは、問題の半分を指摘したことにしかならない。暗然として指摘せざるをえないのは、問題の半分がわれわれ自身のうちにあるということである。いうまでもなく、この間の地価狂乱を支えているのが空前の住テクブームであるということである。もちろん、資産をもっている層と資産をもたない層とでは、全く事情が異なっているといってもいい。しかし、わずかの頭金で行われるワンルーム・リースマンションへの投資がいい例であろう。住テクはすでに一般化しているのである。空間の生産と消費のメカニズムを、いってみればわれわれ自身が支えているのである。問題の根は深いといわざるをえないのである。
問題は、もちろん、ひとり建築や都市計画の分野のみの問題ではない。単純な処方箋がただちに見つかるとも思えない。むしろ、警戒すべきは楽天的な理論がばらまかれることである。かといって、突然のカタストローフやローンの一斉不払いといった事態を夢想するだけでは、ラディカルかもしれないけれど、建築家や都市計画家としては怠惰のそしりを免れない。すでに幾度となく繰り返されてきた結論ではあるが、土地と建築の根源的な関係、空間の新たなあり方と、制度をめぐって具体的なプロジェクトを積み重ねるなかで、試行錯誤を繰り返すほかあるまい。少なくとも再開発なら再開発において、何が起こるのか、批判的に記録しておくことが必要であろう。たかがこの四半世紀の経験ですら、いとも簡単に忘れ去られるのである。
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