阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年
世紀末建築論ノートⅣ
布野修司
都市の死
阪神・淡路大震災直後に次のように書いた。
西宮から三宮まで、被災地を縫うように歩いた。相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つがそこにあった。
横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。全てがバラバラで、町のここそこがゴミ捨て場になったかのようだ。航空写真からは実感できない光景だ。
五〇年前日本の町の多くは廃墟であった。一面の焼け野原から出発し、懸命に戦後復興を果たし、高度成長を遂げ、そして今や日本は世界有数の国となった。その繁栄を象徴する現代都市が一瞬にして機能を停止する。そんなことがあっていいのか。この五〇年の日本のまちづくりは一体なんだったのか。瓦礫の山と化し、バラバラになった町の姿を目の当たりにして、様々な思いがこみ上げてくる。
何故、こんなに被害が出たのか。都市直下型地震の恐ろしさと共に大惨事の原因が様々に指摘される。灰燼に帰したのは空襲を免れた戦前からの木造住宅の密集地区が多い。倒壊した建造物には確かに古い木造住宅が目立つ。しかし、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の建造物でも横転したものがある。倒壊しなくても決定的なダメージを受けたものが少なくない。その象徴が高架鉄道であり、高速道路である。現代都市の脆さ、防災体制の不十分性、危機管理の諸問題も様々に指摘される。歩き回ってみると、色々気づく。このとてつもない大震災の経験はディテールに至って克明に記録され、かけがえのない教訓とされねばならない。
例えば、一階に南面して大きな開口部をもつ居間を設け、二階に個室群を設ける日本の家屋の構造は、果たして都市住居としてふさわしいものであったのか。無惨にも押しつぶされた一階を見ると、一階には壁の量がもう少しバランスよく必要であるように思えてならない。日照の点からも二階に居間を設けるパターンは何故考えられて来なかったのか。木造は駄目だ、ということには必ずしもならないだろう。耐火建築が火を抱え込んで類焼していったという考えられない事実もある。徹底した検証が必要である。
しかし、問われているのは単なる技術的な問題ではない。災害に対する心構えの問題でもない。根源において問われるのは、現代都市のあり方、まちづくりのあり方に関わる思想である。都市生活が如何に脆弱な基盤の上に成り立っているのかを嫌というほど今回思い知らされたのである。
現代都市はひたすらフロンティアを求めて肥大化してきた。ひたすら移動時間を短縮させるメディアを発達させ集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥というのであるが、自然をそこまで苛めて拡大を求める必要があったのか。都市や街区の適正な規模について、あまりに無頓着ではなかったか。
燃える自宅の炎をただ呆然と見つめるだけという居住地システムの欠陥は致命的である。いくら情報メディアが張り巡らされていても、地区レヴェルの自律システムが余りに弱い。水、ガス、水道というライフラインにしても、地区毎に自律的システムが必要ではないか。交通システム、情報システムにしても、重層的なネットワークを組む必要があるのではないか。
現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。垣間みた被災地の人々の姿は実に逞しかった。そのエネルギーをこれまでにない都市のあり方へと結びつけていかねばならない。復興の力強い歩みの中に新しいまちづくりの夢を共にみたいと思う△注1△。
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今も考えていることはそうは変わっていない。
頭を離れないのは、都市の死、ということである。
そして、都市の再生というテーマである。
文化住宅の悲劇…暴かれた
阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに入った層がいる一方で、避難所が閉鎖(八月二〇日)されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方、未だ手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者をだした地区がある。これほどに日本の社会は階層的であったか。
今回の阪神・淡路大震災で最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会の階層性の上に組み立てられてきたことだ。
ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。
最も大きな打撃を受けたのが「文化(ブンカ)」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。もともとは大正期から昭和初期にかけて展開された生活改善運動、文化生活運動を背景に現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を「文化住宅」といったのだが、今日の「文化住宅」は、従来の設備共用型のアパートあるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝しだしたことに由来する。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。一般的に言えば「木賃(もくちん)アパート」だ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。もっとも、一戸建ての賃貸住宅が棟を連ねるタイプも「文化」といったりする。ややこしい。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだ。
その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。
「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。
廃棄される都市……二重の受難
被災地を歩くと活気がない。片づけられた更地が点々と続いて人気の無いせいだ。仮設住宅地も元気がない。活気のあるのは、テント村であり、避難所であり、…人々が懸命に住み続けようとする場所だ。人々の生き生きとした生活があってはじめて都市は生き生きとする、当然のことだ。
とにかく元に戻りたい、復旧したい、以前と同様暮らしたい、というのが、被災を受けた人々の願いである。
生活の基盤を奪われた被災者にとって、苦難は二重、三重である。全ての避難所は閉鎖されたのであるが、避難生活が終わったわけではない。当初、三〇万人もの人が住む場所を奪われ、避難所生活を強いられたのであるが、なお、数千の人々が残されている。テント生活など、多くの人が困難な生活をおくっていることには変わりはない。その場所に生活の根拠があり、そこに住み続けるしかない人々がいるのは当然のことだ。
応急仮設住宅の多くが建設されたのは、都市郊外である。都心に仮設住宅を建てる余地がないのは致命的である。利便性が悪く、空家が出る。同じ場所に住み続けなければ、仕事ができないのだから無理もない。数だけ建てればいいというわけではないのだ。被災し、なお、避難生活を強いられ続ける、二重の受難である。
仮設住宅での老人の孤独死がいくつも報じられる。コミュニティが存在せず、近所つきあいがないせいである。入居にあたって高齢者を優先したのはいいけれど、その生活を支える配慮がまったくされなかった。被災を受けて、さらにコミュニティを奪われる、三重の受難である。
さらに復興計画ということで、区画整理が行われる。場合によると、土地の減歩を強いられる。四重の受難である。
そして、被災した建造物を無償で廃棄したのは決定的である。都市を再生する手がかりを失うことにつながるからだ。五重の受難である。
特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲の中に再生の最初のきっかけもあったはずである。何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられないのかも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能である。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。
阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化す。しかし、それ以前に、我らが都市は廃棄物として建てられているのではないか。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの体質を浮かび上がらせただけではないか。
復興計画の袋小路…変わらぬ構造
各地域で復興計画が立案されつつあるけれど、なかなか動かない。区画整理や住宅地区改良の事業計画も、権利者の調整は難しいし、時間もかかる。行政当局としては、予算獲得のために事業決定を急ぎたいのだけれど、住民の意向も尊重されなければならない。ジレンマである。
しかし、問題はそれ以前にある。阪神・淡路大震災は、決して何かを変えたわけではないのである。
建築や都市の防災性能の強化がうたわれ、防災訓練がより真剣に行われるのは当然のことである。しかし、危機管理や防災対策のみが強調され、当初からまちの生き生きとした再生というテーマが見失われてしまっている。阪神淡路大震災の復興計画と、関東大震災後の復興計画や戦災復興とはどう違うのか。この戦後五〇年の日本のまちづくりは一体何であったのか、と顧みる視点がほとんどない。
戦災によって木造都市の弱点は痛感された。それ故、防火区域を規定し、基準をつくり、都市の不燃化に努めてきた。しかし、なお都市が脆弱であった。直下型地震は想定されていなかった。それ故、さらにひたすら防災機能を強化すべきだ、という。地盤改良や耐震基準の強化、既存構築物の補強、防災公園の建設、区画整理…が強調される。同じことの繰り返しである。例えば、なぜ、一七メートルの道路が必要なのか、誰も説明できないままに決定される、そんなおかしな事が起こっている。防災ファシズムというべきか。
立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。震災とは関係ない以前からの大規模プロジェクトの構想がさりげなく復興計画に含められようとしたりする。国家予算をいかに被災地に配分するかがそこでの焦点である。都市拡大政策の延長である。フロンティアを求めてそこに集中的に投資を行う開発戦略は決して方向転換していないのである。
震災特需は、建設業者にとって僥倖である。壊して建てる、一石二鳥である。一方で、倒壊した建造物をつくり続けてきた責任、その体制を自ら問うことはない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。地震も過ぎ去れば、単なる天災である。その体験はみるみる風化し、忘れ去られていく。もう数百年は来ないであろう、自分が生きている間はもう来ない、という必ずしも根拠のない楽天主義が蔓延してしまっている。
住宅復興にしても何も変わらない。とにかく戸数主義がある。数さえ供給すればいい、という何も考えない怠惰な思考パターンがそこにある。そこには、これまでのまちづくりのあり方についての反省は必ずしも無いのである。事業手法にしても、計画手法にしても、既存の制度的な枠組み、官僚的な前例主義に捕らわれて、臨機応変の対応ができないのである。
復興計画において必要なのは、フレキシビリティーである。ステップ・バイ・ステップの取り組みである。予算も臨機応変に組み替えることが必要となる。しかし、そのとっかかりもない。被災者の生活の全体性が忘れ去られている。
大震災の教訓
復興過程にはいくつもの袋小路がある。震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけだ。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ないのである。
阪神・淡路大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。しかし、その都市や建築のあり方について与えた意味は、決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。
震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけではない。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。被災した子どもたちのことを考えると、その体験が真に生かされていくのはしばらく先のことである。避難所生活を体験した人々の三十万人という規模は、その拡がりを含めてかなり大きい。大震災の教訓がいずれ社会を変えていくこと、少なくともなんらかの影響を及ぼしていくことは間違いないところである。
しかし、一方で、震災体験が急速に風化していくのも事実である。地震の体験は必ずしも蓄積されないのではないか、という思いも時間が経つにつれてわいてくる。震災経験が記憶されるのはせいぜい体験した一代か二代までではないか。例えば、伝統的な大工技術は、長年の経験を蓄積してきており、地震にも十分対処できるというけれど、垂直加重についてはそう言えても、今回のような直下型の縦揺れについては疑わしいという。
何も変わらない、事態が何事もなかったようにしか推移していかないのを見ていると、震災体験をどう継承していくかこそが最大の問題であると思えてくる。震災体験をどう生かすか、阪神・淡路大震災に学ぶことを、いくつか列挙してみよう。
自然の力
なによりも確認すべきは自然の力である。水道の蛇口をひねればすぐ水がでる。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。つい、人工的に環境をコントロールできる、あるいはしていると考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは自然の力の大きさである。そして、そうした自然の力を読みそこなっていること、自然の力を忘れていることが思い知らされる。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからである。関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。また逆に、自然のもつ力のすばらしさも思い知らされる。火を止めるのに緑の果たした役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。
都市の論理
都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、開発戦略の問題点である。山を削って宅地を造り、その土で海を埋める、一石二鳥とも三鳥とも言われた都市経営の論理は、企業経営の論理としては当然であり、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配する。都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。
重層的な都市構造
都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。具体的に、インフラストラクチャーが機能停止に陥ったのは致命的であった。代替のシステム、ダブルシステムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線が無い。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。多核・分散型のネットワーク・システムである。
公共空間の貧困
公共建築の建築としての弱さは、致命的であった。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。公共的なオープンスペースの重要な意味を教えてくれたのが今回の大震災である。
地区の自律性
目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であったといわれる。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。今回の大震災の最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という声がある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明かである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。
インフラストラクチャーについても、エネルギー供給の単位、システムについても地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、…多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムの問題としても地区の自律的なネットワークが必要となる。
ヴォランティアの役割
一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされたのであるが、まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。一方、ヴォランティアの問題点も意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれているのである。多くは、システムとしてヴォランティアが位置づけられていないことに起因する。
建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みの中で、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えて行くしかない。
建築構造の論理…近代日本の建築と地震
問題は、以上のような教訓をどう生かすかである。その道筋が見えないことに、いささか苛立つ。とにかく、試行錯誤であれ、実践してみること、それなくして何も進展しない。いずれにしてもはっきりしているのは、阪神・淡路大震災の露わにした問題は相当長期間にわたって反芻され続けられねばならないことである。
しかし、考えてみれば、近代日本において同じ問いは既に繰り返し反芻されて来たのではなかったか。
近代日本の建築学の発達過程を考えてみるといい。当初から、地震は大テーマであった。辰野金吾が伊東忠太に建築史学の確立を、佐野利器に建築構造学の確立を命じ、託したのが、日本の建築学の始まりとされるのであるが、構造学の確立の必要性を強く意識させたのは濃尾地震であった。西洋から移入されようとした煉瓦造や石造の建造物は地震に対して必ずしも強くないとすれば、西洋建築をそのまま導入することはできない。日本には地震があるという事実は、日本における建築のあり方を大きく規定してきたのである。
F・L・ライトが設計した帝国ホテルが竣工直後に関東大震災にあい、それに耐えたのはよく知られている。その関東大震災の予兆として一年前に起こった地震で被害を受けた丸ビルが補修強化していたおかげで倒壊を免れたということも明らかにされている。関東大震災は、日本に本格的に鉄骨造、鉄筋コンクリート造を導入するきっかけとなったとみていい。鉄骨造、鉄筋コンクリート造の構造基準、仕様基準が整備されたのは一九三〇年のことであった。また、木造建築に筋交いが導入されはじめるのも昭和初期以降のことである。
戦前日本における建築構造学をめぐる一大議論は、いわゆる「柔剛論争」である。すなわち、地震に対して柔構造がいいか剛構造がいいかをめぐる議論である。地震において、被害が少ないのはむしろ伝統的な木造住宅であるという事実が一方であり、地震の力を柔軟に受けとめ揺れることによってエネルギーを吸収しようというのが柔構造理論である。当時、既に「免震構造」という概念が出されていた。それに対して、徹底して、建物を固く(剛に)して地震に対処しようとするのが剛構造理論である。震災直後に建てられた岡田信一郎設計の住宅が解体されるのを見たことがあるのであるが、鉄筋の替わりに入っていたのは鉄道のレールであった。とにかく強くというのは一般の感覚であった。論争は、剛構造派の圧勝であった。
戦後、超高層建築の建設のために柔構造理論が採用される。今回の地震で、「免震構造」や「制震構造」がクローズアップされる。建築構造を支える思想の問題としてその変転は興味深いところである。近代日本における建築を支える思想を雄の思想と雌の思想という対立において捉えようとしたのは長谷川尭である△注2△。建築構造学はデザインの自由を束縛してきたというのが骨子である。耐震基準の強化の歴史は、なるほど、そうした歴史を示しているように見える。しかし、以上のように、建築構造にも柔と剛がある。また、デザインの自由と耐震性の問題とは別の次元の問題である。
多数の構築物が倒壊し、多くの死者が出た今回の事態は、建築構造理論のよってたつ基盤を問う。構造基準(最低基準)の強化ではなく、性能基準の明示へ、大震災以後、建築基準法の基本的組立てをめぐって議論がなされるのであるが、制度の問題にすり替えられてはならないだろう。安全性と経済性をめぐる議論は建築構造設計の基本であるが、経済性をもとめる社会の側に問題が預けられてはならないであろう。まして、手抜き工事などの施工技術の問題にすり替えられてはならないはずだ。建築に深く内在する問題として受けとめられない限り、何の教訓も得られないのである。
所有と利用の制度
阪神・淡路大震災後の復旧・復興をどう考えるか、どう具体的に展開するかは目の前の問題である。しかし、前述のように何も変わらぬ制度的な枠組みがある。
激震地からかなり離れて、被害を受けた地区がある。あるいは、個々に被害を受けたということであれば、被災地はかなりの広域に広がっている。大震災を受けたけれど、光が当てられない、見捨てられた多くの地区、被災者がいる。そうした地区や被災者のことを考えてみると、被災が個人的受難であり、復旧・復興が基本的に個人の問題であることがはっきりしてくる。これまでと同じ枠組みの中で、復旧・復興を行わねばならない。
復興が進まないのは当然である。資産を持たない層にとってローンを二重に払うのは容易なことではない。全半壊マンションの建て替えがまとまるのは、個々の事情が多様である以前に不可能に近いのである。
しかし、考えてみれば、土地や建物の所有をめぐる問題は、地震が来ようと来まいと基本的な問題である。区画整理事業や都市再開発事業、住宅地区改良事業、総合住環境整備事業といった面的整備事業も地震とは必ずしも関係ない。合意形成を図り、計画決定を行うのは同じ手続きである。地震だからといって、計画がまとまる保証はない。
激震地からはかなり離れているのに、半数以上が半壊全壊した「文化住宅」街がある。聞けば、高度成長期に古材を使って不動産会社がリース用「文化住宅」として売りだしたものという。不在地家主が一〇〇人近い、この三十年で持家取得した世帯が二〇〇近く、応急仮設住宅に住む借家人の世帯が二五〇、権利関係が極めて複雑だ。各層で、復興計画についての要求がまるで異なる。
こうした地区に復興計画として事業計画が立てられようとすると、当然のことながら、個々の関心は自分の土地がどうなるかである。地主層、持家層にとって、自分の土地が計画域に含まれるかどうか、自分の土地を計画道路が横切るかどうか。区画整理の場合、減歩の問題があるからなおさら関心は高い。また、自分の土地の資産価値がどうなるか、いくらで売れるか、どれだけ高くなるのか、議論の中心は、まずは所有する資産の価値の増減に集中する。そして、最終的にも、自分の所有する土地建物がどれだけの評価を受けるかによって計画への賛否を決定したいというのが一般的である。
様々な思惑が飛び交い収拾がつかなくなる。不動産業者が暗躍し出す。行政当局も、都市計画的によほど重要な地区でなければ、手間暇をかけて地区をまとめる気はない。予算を使わなくていいから、合意形成を地区のコミュニティに委ねる態度をとる。区分所有法をベースとするマンションの復興の場合も基本的には同じである。ただ、公共機関がどれだけ介入するかが問題である。
こうして、問われるのは日本の空間のあり方そのものである。公共的な空間は、公共で整備し、維持されなければならない。高速道路が横転し、橋脚が落下するといった事態は論外である。病院や学校など公園など社会資本としての環境の整備も公共サイドの役割である。しかし、住宅はどうか。あるいは、住宅を中心とする地区の環境はどうか。市場原理に委ねられるだけである。公共住宅の供給も市場メカニズムに基づいて行われるだけである。公民の間で、日常的環境をつくっていく主体、すなわちコミュニティや非営利組織(NPO)など、共の部分が見失われている。
阪神・淡路大震災によって、分譲住宅離れが進行しつつある。一方、賃貸住宅の性能の向上が求められつつある。戦後一貫して上がり続けた土地と建物の価格は初めて下がりつつある。土地の価格が上がらないとすれば、土地への投機行動は意味がなくなる。土地の所有に関わる観念が大きく変わる可能性がある。土地の所有と利用が分離されている現状から、一体的な利用へ、所有より環境の質へ、住宅及び住環境の公共化へ、もしかすると動きが展開するかもしれない。
被災者にとって、ヴォランティアとの関係やコミュニティ内の関係について貴重な体験がある。新しいまちづくりの芽があるとすれば、被災時の共の体験であろう。コレクティブハウジングなど、共有空間を最大化する住宅モデルが生みだされるとすればひとつの萌芽となる。
都市の欠陥は、住宅の問題でもある。戦後五〇年の間、都市住宅の型を必ずしも創りあげてきていないことが致命的である。
都市の再生
都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画のテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。
そこで、建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。これまた震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていい。
戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、まったく元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。
壊しては建て、建てては壊す、というスクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップの一つの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。実際、復興都市計画の枠組みに大きな変更はないのである。
しかし、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。
果たして、日本の都市はストックэ・・э再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。こうしてたどたどしく考えてくると、戦後建築の思想の根幹に行き当たる。すなわち、メタボリズムである。
乱暴に言い切れば、メタボリズムは、結果として、スクラップ・アンド・ビルドの論理、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを裏打ちするイデオロギーに他ならなかった、というのが結論である△注3△。
しかし、問題の立て方として、変わるものと変わらないもの、基幹設備と個々の建造物を、システムとして区別するその設定はおそらく間違ってはいなかった。都市のインフラストラクチュアも大きな問題を抱えていることが白日の下にされたのであるが、全てが消費のメカニズムに吸収される、そんな論理が支配したのが戦後五〇年である。
都市の骨格、すなわち、アイデンティティをつくりだすことに失敗し続けているのが日本の建築家である。単に、建造物を凍結的に保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、……ここでも議論は大震災以前からのものである。
阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を▽抉▽△えぐ△りだす。しかし、その解答への何らかの方向性を見いだす契機になるのかどうかはわからない。
半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるはずだ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。
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一九九五年九月一九日 スラバヤにて
〈注〉
注1 「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』など
注2 長谷川尭『雄の視角 雌の視角』相模書房、一九七六年
注3 布野修司『戦後建築の終焉』れんが書房新社、一九九五年
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