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2024年8月14日水曜日

ロスト・アイデンティティの世界:建築1979,螺旋工房クロニクル024,『建築文化』,197912

 ロスト・アイデンティテイの建築界

 

 公取問題

  一九七九年九月十九日、公正取引委員会(橋口収委員長)は、日本建築家協会(海老原一郎会長 略称「家協会」)に対して「違法宣言審決」を下した。建築家すなわち建築士事務所の開設者は、独占禁止法にいう事業者か否か、また建築事務所の開設者を構成員とする家協会は事業者団体か否か、をめぐって一九七六年三月一八日の第一会審判以来二三回にわたって争われてきた問題について、一つの結論が出たわけである。

 審決主文*[i]は、各紙で報道されたとおりである。要するに、審判開始時に違反とされた行為、協会独自の報酬規定、建築設計競技規準中の会員の参加制約および賞金、報酬規定、憲章中の報酬競争禁止等を自主的に廃止、排除することにおいて、現在は事業者団体に該当しなくなっており、家協会に対して格別の措置を命じない、というものである。この公取審決に対する家協会の対応を中心とした位置づけは、「公取審決ーー家協会は職能団体の筋を守れたのか」*[ii]や「公取委の審決を受けて」*[iii]などにおいて、すでに出そろっているといえるだろう。

  「家協会としては、憲章や諸規定の改廃という大きな損失と犠牲を出したわけだが、とにかく職能の基本理念が認められた点に意義を認めようとしている。ところが、これを報道した一般紙は、主文の前段に視点をすえ、「建築家協会に独禁法違反の事実」「自由業といえどもカルテル行為があれば事業者と認定」といった記事を一斉に流したため、当の家協会会員をはじめ、建築界全体に大きなショックを与える結果となった。従って、ここ当分の間、日本建築家協会はその総力を挙げて、審決の全貌を正確に周知徹底させ、一般紙によって生じた同協会のイメージダウンの回復を図らなければならないようである。」*[iv]というのが、比較的冷めた一般の反応である。

  指摘されるように、いわゆる「公取問題」は、家協会という団体の事業者性だけに限って争われたものである。審決は、個々の会員の事業者認定については意識的に言及するのを避け、かつて存在したその「カルテル」行為についてのみ焦点を当てたものである。家協会の理念化する建築家像なり職能の問題は、はじめから公取委の関心の埒外に置かれていたといってよい。もともと、かみ合わない論争であり、家協会が法的裏付けのない建築職能論を振りかざすことに、社会的に意味はあるにしても、独禁法に抗するには自ずと限界もあったのである。

 

 日本建築家協会と「建築家」

  ある意味では、七〇年代を通じて問われ続けてきた公取問題は、内部告発に端を発したことが示すように、家協会自体の問題であったといいうる。問われたのは、必ずしも建築家とは何かではなく、家協会とは何か、その団体の事業者性だけだからである。理念ではなく、具体的な家協会の存在形態が現実のコンテクストの中で問われたのである。建築界全体の共有化された問題として必ずしも問われなかったように思えるのは、それ故にである。しかし、問題自体は極めて象徴的に、建築をとりまく状況を示しているということはできよう。

  西欧の一九世紀的な建築家の理念と日本の現実との乖離は、明治以降一貫して問われてきたはずであり、その乖離は広がりこそすれ狭まることはなかった、というのが僕らの認識である。それはついに定着することはなかったと言ってもいい。何よりも、家協会の特異な、特権的な存在自体がその乖離を示していたはずである。そして、公取問題を契機として、その理念と現実との乖離は、最終的に家協会の内部矛盾として露呈してきたと考えられるのである。

  いわゆる建築家の理念、職能の理想を掲げ、それを体現していることを自負する家協会が、その矛盾を引き受けるのは当然といえよう。しかし、そうした意味での建築家はすでに解体していると考え、その理念の有効性をすでに根底的に疑ってかかるものにとっては、事業者団体としての届け出を出さなくても済んだから「まずまずの成果」であるとか、「公取委の首脳部にも見識の持ち主」がいて、かろうじて職能の灯が残されたという意識がほとんど問題にならないことはいうまでもない。「自由業にも独禁法のメス」というのが世の趨勢であり、グローバルなプロフェッションの危機において、職能法の成立の見通しも暗い中で、そうした理念が具体的な指針たりえないことはすでに明らかだからである。

 「職能法請願の国会デモをやるというのはいかがなものか。負けっぷりの良いことも武士のたしなみ、デモなどという女々しいことはやらず、敗戦処理として建設省通告による二五条の報酬規定ーことにそのポイントの技術料の適用など、研究すべきではあるまいか(どうなれば廃棄した料率と同じ結果になるのかといった現実性を含めて)」といった見解*[v]や、「入札をしない会」(鬼頭梓*[vi]ほか)の発足がまだしも具体的な対応を示している。

  事業者団体としての届け出を出さなくても済んだ家協会、体質改善した家協会とは何か。現実にいかなる力をもち得るのか。そこには、多くの議論がすでにある。

 理念や精神や倫理の問題を純化させていくのが一つの道であるという。しかし、そうした理念や精神や倫理がいかにもろいものであるかは、歴史の教えるところでもある。

 職能防衛から文化活動へ、ウェイトを移行する(せざるをえない)のだという。確かに文化としての建築という視座は広範に意識化されつつあるといってよい、しかし、ある意味ではそれも言われ続けてきたことである。文化としての建築とは何か。家協会の問題に即していえばそれが、エリート建築家の文化サロンの枠の内にとどまるのか、より広範な問題領域を組織していけるかどうかはこれからの問題である。いずれにせよ、そこでは、これから何ができるか、いかに闘っていくのか、何を創り出していくのかという問いが投げ出されているだけなのである。

  僕らは、すでに、日常的な行為の中で、具体的にそうした問いを問いつつある。全く新たな「建築家」像が生み出されるとしたら、その中にしかない、というのはむしろ前提である。過去の建築家像を理念化すること、安易な建築家幻想は有害ですらある。建築界の分断化された状況の中で、むしろ、関係ない、というのが、とりわけ若い世代の偽らざる実感であろう。そうした意味では、状況は絶望的であるといってもよい。公取問題は、それをこそ確認させるのである。

  それが、僕らの八〇年代を前にした出発点の状況であり、そうした意味でのみそれを記録にとどめておく意義があるといえるであろう。

 

 芸術かウサギ小屋か

  「「芸術」かうさぎ小屋か」*[vii]という軸によって、「近代日本の建築界」を切ってみせたのは堀川勉である。彼は、「歴史の真の争点はいつの時代にあっても隠されている」(花田清輝)、「建築も政治と全く同様に巨額の金銭の移動をともない、権力の物質的装置として機能するために容易にその素顔を窺うことができない」といいながら、次のようにいう。

  「ここで端的に「近代日本が建築界に与えた状況とはいかなるものか」と問うとすれば、それは建築界における様々な分断的状況であると答えることができる。そのうち最大の分断的状況が、建築生産の商品化としての側面と、建築の芸術としての側面への分断である。前者がウサぎ小屋をそれとして意識せずに、資本主義生産にはげむための理論や技術の生産に従事する多数派(ウサギ小屋派=非芸術派)であり、後者がウサギ小屋を漠然と感知しながら、自己の大衆性を認めず自己と大衆を切り離し、ウサギ小屋の存在から眼を逸らせて「芸術」としての建築を疑わない少数派(「芸術」派)である」。

  もちろん、こうした構図はいささか乱暴であり、建築非芸術論争*[viii]の枠を出てないように見えるかもしれない。しかし、堀川が、その「両派が分離することも、あるいは中立の立場でどちらの派にも属さないことも不可能な事情」を、建築をめぐる概念の全体性と部分性において問題にするとき、少し異なった脈絡を提示しているように思えるはずである。彼は、分断的二重構造が一挙に露呈し固定化してきたのは、「芸術の完全なる自立もまた、政治の優位性理論が誤っているように、ありえないことを浮かび上がらせた」一九三〇年代であったという。その時代に「ほとんどの建築家が芸術についての物神崇拝に陥り、芸術と芸術品の区別がつかなくなり、今日のように芸術の抜け殻を愛するようになった」、「ウサギ小屋の生産を理論的に否定できるのは本来彼らだけであり、彼らの責務であったのに、それが不可能であった」というのである。僕らの置かれている状況は、少なくとも、そうした歴史的パースペクティブにおいても確認さるべきものと言えるであろう。芸術とか文化を不用意にもち出しても始まらないのである。

  堀川勉は、「建築の問題が大衆の存在をかかえ込みながら、実は完全にスレ違ったレヴェルで展開されてゆく」今日の状況において、「建築生産が社会的に〈生産ー分配ー消費〉されるべきものであるなら、社会(主義)政策=国家政策=芸術行為であるような建築論(それは建築論ではなくなっている)がまず生み出されなければならない」という。こうした言い方が多くの問題を含んでいることはいうまでもない。しかし、建築家は事業者ではないといった議論の平面を抜け出ることにおいて、はるかにポレミカルである。

 宮内嘉久*[ix]の「持たざる建築家の肌理、反・特権的マイスター論のために」*[x]0が唯一それに答えている。彼は、芸術派対ウサギ小屋派の対立図式に、もう一つの隠れた眼差し、専門職業(プロフェッション)にまつわる「特権」(「この隠微にして魔性の力。それは支配的階級の中からの距離によって測られ、かつ支えられる」)に対して注がれるべき眼差しを付け加える。彼のいう、「特権をもたない建築家」は、今のところ中世の棟梁、ロマネスクのマイスターを理念化することにおいて、いわゆる近代における「特権的建築家」像を裏返しているにすぎない。過去における建築家像を理念化することにおいては、パラレルだ。「はだしの建築家」という理念についても、中国なら中国のコンテクストにおける建築家像を理念化することにおいて、同じような問題を指摘しうる。しかし、そうした眼差しがポレミークをさらに広げることは確かだ。それを具体的コンテクストにおいて問題とする意味は少なくともあるからである。

 

 野武士たち

  建築家の概念あるいはアイデンティティが厳しく問われつつある今日の状況の中で、建築ジャーナリズムの表層で飛び交う、とりわけ若い建築家たちの言説は、状況に潜むそうしたポレミークとは一見無縁であるように見える。彼らは、最も皮相なレヴェルでは、「状況からの自立」、「建築の自立」を標傍しながら、「とんでもない目を疑うような形態」の作品をひっさげて、「わけのわからない建築論」をふり回しているように一見みえる。「平和な時代の野武士たち」*[xi]1と槙文彦は、若い建築家の作品を丹念に見て回った後、彼らをそう呼ぶ。彼は「都市が今日どうしようもないから、また都市と建築を分離して〈芸術的建築〉に向かう姿勢が、そして都市問題は他の人たちのすることとする風潮が、若いジェネレーションにもかなり浸透しつつある状況に私は深く考えさせられてしまう」というのである。「平和な時代」というアイロニカルな規定も、「野武士たち」という呼び方も、総合建築時評と銘打った文章の内容自体も、槙自身の建築界における位置、位相をうかがううえで極めて興味深いものであるが、若いジェネレーションに対するそうした見方は、すでに一般化されつつある。そうした声は次第に強くなりつつあるといってもよい。

  しかし、そうした若いジェネレーションの、一見、無秩序な現れ自体が状況そのものを物語っていることは認めねばならない。「より広い社会的コンテクストを持った戦場」にのぞんで欲しいと槙はいう。都市に踏みとどまっているという自負がそういわせるのであろうか。けれども六〇年代初頭に一斉に都市づいていった建築家が、後退に後退を重ねてきたのは紛れもない事実である。彼は、磯崎新*[xii]2と篠原一男*[xiii]3の「猥雑な都市はどうしようもないから自分の建築は防御型か攻撃型にならざるを得ない」という意見と感慨を、危険な悪影響を及ぼすものであるというのであるが、問題は影響などという次元にはとどまらないのである。また、「社会的コンテクストを持った戦場」へという言い方は、〈芸術派建築〉との抜き難い対立図式を前提とすることにおいても、必ずしも説得力をもたない。その最良の部分においては、〈芸術派〉でも〈社会派〉でもない、そうした図式を越えたところでさまざまな模索がなされていると見ることができるからである。

  若いジェネレーションを「平和な時代の野武士たち」と位置づける槙に対して、より積極的に評価し、位置づけ、その存在の意義を徹底的にとらえ返そうとするのが鈴木博之である*[xiv]4。その作業は、例によって極めて党派的である。雑誌『エピステーメー』から抜書きのような建築論を振り回すエピステーメー派とか、日本においては形態遊戯の域を出ない「ナショナリズム」は、評価が薄い。建築史家としての鈴木のこうした腑分けは、大いに興味深いのであるがここではどうでもいい。問題は彼が「現実の社会に対するアクチュアリティ」において、若いジェネレーションを評価することである。「アクチュアリティをもち、しかも方法論を芸術至上主義的な概念や手法としてアクセサリー化せず、ある意味では強引にアクチュアリティに直結させてしまおうと目論んでいる建築家たちが、今やさまざまに出現しつつあるのである。それぞれの方法論は異なっていようとも、方法論と現実に対するアクチュアルな行動との接続の仕方において、彼らは共通している」という彼の位置づけは、明らかに槙文彦の位置づけとはずれている、あるいは逆のヴェクトルをもつものであるといってもよい。

  また、鈴木は、その共通項を「私的全体性」なる概念でとらえようとしているかにみえる。日本において必要だったのは「国家意志の造形に身を捧げる主流としての建築観か、あるいは私的世界の全体性を確保するアーキテクト像のいずれかだったのである」と乱暴にいいながら、「全体性という概念を世界の立場からではなく、私の立場から据え直したときに、まだまだ豊かな建築的可能性が現れてくるように思われる」というのである。

 こうした鈴木博之の若いジェネレーションの位置づけは大きな問題をはらんでいると思う。私を支える基盤が問題となるとき、国家に私性を対置してもはじまらないのである。私性とは何かがもっと問われてしかるべきであろう。「郊外の住宅地が巨視的にみれば疎外された近代人の巣箱にすぎないとしても、そこには私的な全体が込められている」というのも首をかしげざるをえない言い方である。疎外された近代人の私的全体性とは何か。早速、富永譲の住宅には私的全体性がない、といった訳のわからない批評が出されたりするのもおかしな話である。少なくとも、私的全体性なる概念を国家や世界に対置することによって、若い世代を位置づけることは有効ではないように僕には思われる。

  いずれにせよ、少なくとも建築ジャーナリズムの世界では、絶望的な分断化された状況を背景としながら、ここしばらくの間、そうした若い世代の評価をめぐって議論が続くであろう。皮相なレッテル張りや線引きの争いのレヴェルではなく、新たな建築論の構築を目差して生産的な議論が積み重ねられる必要がある。

 

 閉じた建築言語

  こうした、建築をめぐる議論の場は狭い。極めて限定されているといわねばならない。それをとりわけ象徴的に示したのが山口瞳の「建築文化」*[xv]5と、村松貞次郎の「いわゆる建築以前の文章について」*[xvi]6である。直接的には、いずれも建築家の文章について、日本語としてなっていないという指摘である。これについては、志摩康介の「俗の視界」*[xvii]7が正当な位置づけを与えているのであるが、単に文章レヴェルの問題ではなく、建築をめぐる議論の場の問題として受け止めねばならない、というのがその一つの総括だ。

  「他のジャンルとの共通のボキャブラリーというのが、お互いの恣意的な部分をとり払った後に残る最大公約数であるなら、いまのところ建築の側からその公約数を拡大するほかあるまい」と志摩はいう。また「一般のメディアにおける建築の議論の活性化という部分にも可能性は求められてはいるが、現状は文化全体との強烈な浸透圧の差によって、建築の断片が吸い出されていき、やがては雲散霧消せざるをえないといった観がある」ともいう。

  おそらく、ものとことばをめぐって、根本的な議論がなされることがその一つの前提であろう。いわゆる記号論にしても、篠田浩一郎の「構造的思惟と美学」*[xviii]2が言うように、視覚言語あるいは建築言語と言語との基本的な関係を踏まえる作業を抜きに展開されているのは致命的である。記号論自体が知のファッションと、とり違えられかねない状況の中で、その用語自体を無批判に借りてきても何の意味もないのである。

  知根源的なあり方を問うこと、建築の側からそうした問いを発していくこと、それはある意味では、今日の状況における建築家の一つの戦略でもある。裏返せば、そうした状況に追い込まれているといってもよい。「文化としての建築」といった言い方が盛んに口にされるのも、同じ位相である。しかし、それはいかに可能か。インタージャンルに建築の言葉を開いていくことは容易ではない。それ以前に建築の言葉を研ぎすます必要があろう。そうしたレヴェルにおいてもまた、建築(の領域)のアイデンティティが問われているといえるのである。

 



*[i]

*[ii]  『日経アーキテクチュア』、七九年一〇月一五日号

*[iii]  『新建築』、七九年一一月号

*[iv]  K/B NEWS、『建築文化』、七九年一一月号

*[v]  浦辺鎮太郎、「公取委問題私見」

*[vi]  鬼頭梓

*[vii]  『日本読書新聞』、七九年六月四日号

*[viii] 建築非芸術論: 野田俊彦(一八九一横浜生~一九二九)の東京帝国大学工学部建築学科卒業論文。「建築非芸術論」(『建築雑誌』 一九一五・一〇)「建築非芸術論の続」(『建築雑誌』 一九一六・一二)。素朴な「用美の二元論」が前提される明治から大正にかけての建築界にあって、徹底した合理主義建築論を展開するものとして大きな議論を呼んだ。平行して「虚偽構造」(シャム・コンストラクション)をめぐる議論(建築構造はそのままファサードに表現されるべきだという主張)もあった。

*[ix] 宮内嘉久 一九二六年東京生~。東京大学第二工学部建築学科卒業(四九)。建築ジャーナリスト、編集者。『新建築』『国際建築』の編集を経て、建築ジャーナリズム研究所設立。一貫して建築ジャーナリズムの確立に尽力する。『建築ジャーナル』誌顧問。『廃墟から』『少数派建築論』など。また、『一建築家の信条』『前川國男・コスモスと方法』など前川國男の仕事をまとめることに尽力する。

*[x]  『日本読書新聞』、七九年七月九日号

*[xi]  『新建築』、七九年一〇月

*[xii] 磯崎新 いそざき・あらた。一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xiii] 篠原一男 一九二五静岡~。東京工業大学建築学科卒業(五三)。同助教授(六二)、教授(七〇)。「久我山の家」で住宅作家としてデビュー。「住宅は芸術である」という金言とともに作品としての住宅の水準を打ち立てる。「から傘の家」「白の家」「地の家」「未完の家」など数多くの傑作を世に問うた。一連の住宅作品で日本建築学会賞(七一)。理論家としても知られ、建築のポストモダンについても発言を続ける。「東京工業大学百周年記念館」「熊本県警察署」など。

*[xiv]  「貧乏くじは君が引く」、『新建築』七九年九月号、「私的全体性の模索」、『新建築』、七九年一〇月号

*[xv]  『週刊新潮』、七九年八月二三日

*[xvi]  au』、七九年三月号

*[xvii]  『建築文化』、七九年一〇月号

*[xviii]  『建築雑誌』、七九年四月号

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