「Bio City」49号[12月下旬刊行]:テーマ:災害コミュニティ・デザイン(仮題)5,000字
復興まちづくりとコミュニティ・アーキテクト
布野修司
三月一一日一四時四六分、たまたま自宅にいて国会中継をみていた。国会議事堂が揺れて大騒ぎになって、少し間を置いて遠く離れた彦根の自宅も揺れた。続いてテレビの仙台の若林区を襲う津波の映像に釘付けになった・・・・二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありと思い出した。その時、気がつくとバスや車、そして船が転がっていた。ゴール周辺で五〇〇人が亡くなった。
悪夢の再現である。否、確実にそれ以上である。加えて、一度起これば全てを失う原発の致命的問題(メルトダウン)が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。
あまりの事態に言葉を失う中で、やがてある思いがこみあげてきた。
被災地の最も深い現場から、無数のコミュニティ・アーキテクトたちを育てよ。
裸の建築家
阪神淡路大震災によって建築家の無責任と無力を強く感じさせられ、また、コミュニティ(地域社会)のもつ力(潜在力、復元力、絆力)について再認識させられて『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(二〇〇〇年)を書いた。そこで、地域診断からまちづくりまで一貫して担う新たな職能の必要性を提起した。そして、言っているだけでは始まらないと、京都コミュニティ・デザインリーグ(京都CDL)の活動を開始した。京都CDLは、様々な事情に翻弄されてあえなく活動停止に追い込まれたが、その活動の記録は『京都げのむ』1~6号(二〇〇一~二〇〇六年)に残されている。その後、懲りもせず、新たな職能の必要性を説いて、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座(滋賀県立大学)を設立することになった(『地域再生 滋賀の挑戦 エコな暮らし・コミュニティ再生・人材育成』新評論、二〇一一年)。
この間、インド洋大津波に遭遇し、その復興支援に通う中で、また、西スマトラ地震(2009年)の復興まちづくりに関わる中で、地域社会を支える新たな職能の必要性をますます強く感じた。安心・安全のためのまちづくりの主体はコミュニティである。地域再生、地域活性化のためには、地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そして、東日本大震災を前にして確認すべきは、まちづくりの仕組みの大転換こそが必要であるということである。復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、地域社会再生のためのシステム構築でなければならない、と心底思う。
番屋と会所
震災直後から、仙台に住む宮城大学の竹内泰准教授から次々に報告があがってきた。都市別、建物種別、地区別に被災状況が実に的確でよくわかった。この状況に対して何ができるのか。報告を受けとり続ける誰もが考えた。そこで開始されたのが「番屋プロジェクト」である。漁を再開するためには、仮設でも、漁師が集まる番屋が欲しい。生活の復興と産業の復興は同時。仮設住宅だけでなく、仮設産業施設も必要である。南三陸町の志津川を皮切りに、歌津田の浦、東松原、気仙沼市唐桑と次々に若い学生たちが「番屋プロジェクト」に参加してきた。
南三陸町歌津田の浦の番屋建設は、上述の近江環人(コミュニティ・アーキテクト)および「木興プロジェクト」(近江楽座)をうたう学生たちのプロジェクトである。滋賀県立大学の陶器浩一教授のグループは、気仙沼に見事な「竹の会所」をつくりあげた。東海大学の杉本洋文教授のグループは逸早く公民館を建てた。数多くの建築家たちが、被災地支援に動いてきた。多くの被災地は、地域社会が拠って立つすべてを失った。集まる場所が無いのである。復興まちづくりのためには、その拠点が必要である。求められているのは単なる提案ではない。アクションプランである。しかし、個人として、また個々のグループとしてできることは限られている。問題は、被災地で活動する無数の動きを様々なかたちで支えながら、その支援の仕組みを長期にわたるサステイナブルな仕組みに作り上げることである。
コミュニティ主体の復興計画
災害発生まもなくの緊急事態、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上で第一に拠り所になるのはコミュニティ(近隣)である。個々の場所における相互扶助活動である。大災害では、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。東日本大震災では、町長を含め、町役場職員の過半が津波に流されてしまうという事態も発生した。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らない。東日本大震災で津波に襲われて甚大な被害を受けたのは、日本で最も津波対策を行い、避難訓練もしてきた地域である。しかし、その対策がうまく機能したかどうかは疑問である。
災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域社会である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、阪神淡路大震災の時には単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域と生活基盤の密接な関係を考慮するのは復興計画の前提である。東日本大震災では、阪神淡路大震災の経験が活かされているように思う。しかし、そこにコミュニティ主体の復興という思想は希薄である。
いうまでもなく、復興計画で徹頭徹尾問われるのは地域における合意形成である。高所移転、集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。
以上のように、災害時に関わらず、まちづくりの基礎は地域社会にあるにもかかわらず、地域社会をまちづくりの主体とする仕組みが日本にはない。都市計画審議会等都市計画決定の手続きは形式的で、地域社会の参加は必ずしも保証されていない。自治体の都市計画に関わる施策は縦割りの組織による事業、補助金制度が主体となっており、その枠組みに縛られている。
大きなヴィジョンと小さなプロジェクト
復興計画のためには大きなヴィジョンが必要である。復興計画が共通に目指すべき前提として問われているのは、日本の社会、経済、政治、文化、産業、国土など全ての編成の問題であり、東京一極集中の構造を多極分散型に転じていくことだと思う。
大災害は常にその社会に潜在している矛盾、軋轢、差別を明らかにする。日本社会の全体があまりに被災地域に多くを委ね強いてきたということが今回の大震災で大きくクローズアップされた。部品産業の問題、日本の食を支える水産業の問題、そして原発・エネルギー問題がまさにそうである。日本の産業構造の歪みを是正するためには被災地域に大きな投資を行う夢あるヴィジョンが欲しい。また、エネルギー政策として、原子力発電に頼らず自然エネルギーに代替していくことは大きな流れになっていくであろう。多様なエネルギー源が各地域に確保されるシステムが必要であることは誰の眼にも明らかになった。日本再生、地域社会再生のためのシステム構築のために、自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)の実現への方向性は揺るがない、と思う。もちろん異論もあろうけれど、地域の将来ヴィジョンは地域自らが提案し、自ら選び取るという仕組みこそが重要であり、地域住民の日常生活を支える持続的な仕組みの構築こそを復興計画の中に組み込むことが前提である。
大きなヴィジョンと大規模プロジェクトは異なる。日本の現在の国力、財政事情を考える時、被災地全域に一律平等に大規模な投資を行うことは不可能であろう。もちろん、選択と集中は国策としてあっていい。しかし、復興計画の立案、実施に当たって地区住民の参加を前提とすると、合意形成のためには、小規模プロジェクトを積み重ねるのが基本となると思う。ステップ・バイ・ステップ(段階的)アプローチが必要である。
被災地では、様々な形で、既に自力の復興がなされつつある。間違いなく、最終的に依拠すべきは地域の力である。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが基本的指針である。しかし、喫緊の問題は日々の生活であり、日々の復興である。自力による仮設住宅建設、産業拠点建設、仮設の市街地建設は許容されていい。それが段階的アプローチである。
地域の生態系に基づく居住システム:循環と継承
地域には地域の、また同じ地域でも地区毎に、歴史があり、個性がある。地域は、そこに住む住民の生業のあり方に従ってかたちをもっている。復興計画は、地域の、そして地区の歴史的、文化的、固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、被災地全体に画一的なやり方はなじまない。それぞれの町はそれぞれの地形に基づいて復興計画を立案するのが自然である。
前提とすべきは、地域の自然生態系であり、その基盤の上に築き上げられてきた社会、経済、文化の歴史的複合体である。まずは、地域の自然条件を、またポテンシャル(潜在力、復元力)を、今回の被災状況に照らして、またこれまでの災害の歴史も加えて確認することが出発点になる。津波の力が人知をはるかに超えたものであることは誰の眼にも明らかになったのである。
そして、復興計画に地域の自立循環の仕組みが組み込まれるべきである。低炭素社会をめざす自立循環システムと相容れない建設投資が持続性をもたないことははっきりしているのである。水、電気、ガスといったエネルギー循環についてすぐさま地域循環を実現することは、原発問題が示すように容易なことでではない。指針となるのは、一個の住宅であれ、自律型エコハウス(オウトノマス・ハウス)をめざすことである。そのための技術体系は既に準備されている。全ての住戸にソーラーバッテリーを!というのはわかりやすいけれど、それだけで解決というのは短絡思考である。エコハウスの技術をそれぞれの地域で練り上げていく必要がある。
地域の歴史的文化遺産も大きなダメージを受けた。今回全てを押し流されてしまった地区が少なくなく言葉を失うが、地区の固有性を維持していくために、可能な限り復旧、再生するなど、歴史的文化遺産は大きな手がかりとなる。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。
コミュニティ・アーキテクト制
少子高齢化が進行し、地方中央の格差が拡大するなかで、日本各地で地域社会そのものが衰退しつつあるという大問題がある。何も中産間地域に限る話ではない。人口十万人程度の地方都市の中に、六五歳以上が過半を超える限界集落が存在するのである。復興計画の前提として構想されるべきなのが、地域社会そのものの再生計画である。
言うまでもなく、まちづくりの実施主体としての基礎自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。
一方、地域社会が自らの要求を自ら地区計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となる。また、地区計画に関しては専門的知識も必要とされる。
そこで期待されるのが、「公共」自治体と地域社会の関係を媒介するコミュニティ・アーキテクトなのである。アーキテクトというけれど建築家に限定するわけではない。まちづくりの仕掛人、組織者、支持者(サポーター)など地域社会を維持していくキーパースン的役割を果たす人材の総称がコミュニティ・アーキテクトである。様々なヴォランティア・アソシエーション、NPO(非営利組織)もその中核に含まれる。地域診断からまちづくりへのプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす職能が地域社会再生のために不可欠である。コミュニティ・アーキテクトがカヴァーすべき仕事の範囲は、非常時・日常時、身近な住まいから国際的活動まで広大かつ多様である。
布野修司/ふの・しゅうじ
1949年島根県生まれ/1972年東京大学工学部建築学科卒業/1974年同大学大学院修士課程修了/1976年東京大学工学部助手/1984年東洋大学工学部助教授/1991年京都大学工学部助教授/京都大学大学院工学研究科助教授/2005年滋賀県立大学大学院環境科学研究科教授・日本建築学会建築計画委員会委員長・英文論文集委員長/2010年~滋賀県立大学環境科学部長・研究科長/元『建築雑誌』編集委員長/日本建築学会賞論文賞,1991/日本都市計画学会論文賞,2006/主な著書に『戦後建築の終焉』、『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』、『曼荼羅都市』『建築少年たちの夢』他
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