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2025年6月22日日曜日

座談会:北京四合院の新しいかたち-改修しながら住むこと-,建築討論06号、201510

建築討論web | WEB版「建築討論」レポーター報告書12 (aij.or.jp)

座談会:北京四合院の新しいかたち-改修しながら住むこと-

「北京四合院を改修する、住む」

 日時:2015年8月20日(木)16:00〜18:00

場所:zarah cafe(北京市東城区鼓楼東大街46)

 

司会:川井操(滋賀県立大学助教)

参加者:青山周平(建築家/Blue Architecture)、岡本慶三(建築家/ODD)、松本大輔(建築家/FESCH)、方(ZAO 標準営造StandardArchitecture)、ミンミン(ZAO 標準営造StandardArchitecture)、山本雄介(建築家/フリーランス)、京智健(建築家/京智健建築設計事務所)、布野修司(日本大学特任教授)

 

雑院化した四合院を改修する

川井:

まずは一般的な日本的状況として、住宅ストックが満たされるなかで、中古物件を購入し、リノベーションするという事例が益々増えてきています。若手建築家もこれらの改修に関わる機会が多い状況です。北京で建築家として活動される皆さんも、話を伺っているとリノベーションで仕事をしている方々が多い。中でも特徴的なのが北京旧城エリアに残る伝統住宅「四合院」です。さらにいえば四合院内部を増改築し複数世帯が雑居するいわゆる「大雑院」をリノベーションしておられます。あるいは自分たちで雑院を改修して住まわれている方々もおられます。そこで、今回の座談会は、そのあたりをテーマにして進めていきたいと思います。

実際、それぞれの改修プロジェクトを今日一日見学させていただき、各々が全然違うアプローチで設計に取り組んでいることを実感しました。まずは皆さんに改修プロジェクトの概要を紹介していただきたいと思います。

はじめに、最初に物件を拝見したZAO標準営造Standard Architecture(以下、ZAO)による「Micro Hutong 微胡同」(以下、「微胡同」)、「No.8 Cha’er Hutong 微雑院」(以下、「微雑院」)の2つのプロジェクトについて、ZAOスタッフの方さんからプロジェクトの紹介をお願いします。

方:このプロジェクトは、元々四合院に住んでいた住民を全部移住させるのではなく、一部分を保存して、その上で新しいものを取り入れて共存するスペースをつくる、というコンセプトがありました。

用途としては、「微胡同」では、雑院の一画を子供のための図書館に改修し、中庭を子供や住民のための開放的な共有スペースをつくりだすことを目指しました。それに対して、「微雑院」は極端に間口が狭いため、その特性を最大限に生かすことために、子供達のための居住空間を計画しました。

川井:ZAOは2つの異なる敷地を関連づけながら、主に子供を対象にした空間構築をおこない、公共性の獲得を目指しています。

一方で、その他の皆さんのプロジェクトは雑院住宅のリノベーションに特化しています。まずは、同じ四合院の敷地で、2件の改修に取り組まれた青山さんの「景陽胡同の住宅リノベーション」「胡同の最小限住宅」について、プロジェクトのきっかけからお話していただけますか?

青山:プロジェクトのきっかけとしては、『夢想改造家』というテレビ番組の関係者からの依頼でした(『梦想改造家』「首位外籍花美男設計師改造6.8平学区房与奇葩居同吃同住」第二季第四期2015811日放送、放映局:東方工視放映動画 URL:https://www.youtube.com/watch?v=SFTAHDrHHHA&list=PL1OG5YATWAbBp4427_ko3DwvFUf2rIHrb)。プロジェクトの進め方は、まずはテレビ局側が2つの雑院の候補敷地を探してきました。いずれもボロボロで悪列な居住環境の雑院でしたが、そこから1つ選ぶようなかたちで始まりました。家族設定は「二家族のための三つの家」という特殊な条件でした。設計費もなく、施工費のほとんどはテレビ局のスポンサーから出るので、家族自身が出すお金は総工費のほんの一部です。これは一般的なプロジェクトからいうとかなり特殊です。テレビ番組向けに編集された感はありますが、中国でも人気の番組とあって、多くの一般人の目に触れる機会でした。したがって、胡同でもこういうふうに住んでいけるんだ、ということを認知されるきっかけとして考えました。

川井:テレビ局やメディアそのものもこういったリノベーションに関心がある、あるいは四合院、胡同といったものへの価値認識が高まっているということでしょうか?

青山:はい、このテレビ番組は上海のテレビ局ですけど、全国各地の特徴的な物件から選んでいます。例えば、北京だと四合院、上海だと石庫門、重慶だと高層ビルといったように、それぞれの都市環境の中で特徴のあるものを選んでいます。それぞれかなり違う都市状況の中で、個別にどういうリノベーションをしていくのかが番組のテーマです。

布野:その番組はすでに何回放送されたのですか?

青山:去年1年間で13か14回くらい放映されました。今年はすでに4回放送しています。おそらく今年も去年と同様の回数をやるとおもいます。

川井:月1回くらいですか?

青山:週1回です。3、4ヶ月1クール、日本のドラマみたいな感じで。

布野:今日見せていただいたのは何回目くらいのやつなの?

青山:今年の第1回目です。

布野:もう少し情報として聞きたいのが、テレビ局はクライアントをどういうふうに見つけるんですか?クライアントがこういうのを建て替えてほしいと応募してくるんですか?それともテレビ局側が見つけてくるんですか?

青山:この番組をみて、全国から我が家を改修してほしい、という応募が大量にテレビ局に行くそうです。その中からテレビ局としては特徴のある家族だったりとか特徴のある家だったりを選んでいくそうです。

 

雑院を改修して住むこと

川井:青山さんは、テレビ局発信による改修プロジェクトであったのに対し、

岡本さん、松本さんのお2人は実際に雑院を改修して住まわれています。どういった動機だったのか、まずは既存の雑院を「keizo house」として改修された岡本さん、よろしくお願いします。

岡本:僕は2006年に北京に来ました。はじめは、建外SOHOにある設計事務所で働いていて、その近くの外国人が住むようなマンションに住んでいました。その後GRAFTというドイツ系の会社に勤めました。その会社が胡同[1]の中に四合院を改修して事務所をつくったんですね。初めて事務所移転先の胡同に行った時に、こんなところがあるのかと驚きました。四合院内の事務所生活では、中庭で一緒にご飯を食べたりして、すごく楽しいというかリラックスできたんですね。そのころから、ずっと胡同エリアに住んでみたいなと思っていました。ある日、住んでいたマンションの家賃が急に上がって、月々の家賃が5000元から7500元になったんです。2500元を上乗せしてこのまま住み続けるのではなくて、ちょっと思考を変えて、2年間住めばもとが取れると計算して、雑院に先に改修費を投資すれば、綺麗かつマンションと同じ価格で住めるんじゃないかと考えました。

川井:ちなみに家賃が上がったのは何年くらいですか?

岡本:ちょうど2年前の2013年です。もともと北京の家賃はずっと上がり続けていたんですけど、そのマンションの大家さんと仲が良くてずっと定額のままで5年位住んでいました。ところが、ある日突然、大家さんがちょっと女房に申し訳ないということで来月から家賃を上げなければならい、と言われました。じゃあ出て行きますと。そこから不動産会社を回って、雑院を改修出来るところを探しました。

探した雑院の中には、外国人用に綺麗にやっているところもいっぱいありました。しかし、どれも高くて改修できないものでした。今日見ていただいたところは、もうボロボロで、あまり住み手もつかないし、家賃もそれなりにするから、好きに変えていいよっていう許可を頂きました。

川井:ちなみに今の家賃はいくらですか?

岡本:元々は5000元ですが、当初はボロボロだったので交渉して4000元と安くしてもらいました。

松本:僕の自宅は2300元です。1階の面積は18平米しかないので、その分安いんです。

川井:青山さんも雑院にお住まいですが、家賃はいくらですか?

青山:4700元です。

川井:私自身もかつて、北京市内の環状線でいう3環4環あたりに住んでいました。毎年家賃が上がっていくという状況で、引越しを繰り返しながら、だんだん中心エリアから郊外に追いやられていきました。最後は5環にある望京エリアに住む状況になっていました。北京の家賃高騰は2環から外側に関してはものすごい勢いだったんです。今もまだその状況ですよね。一方で中心エリアは割と固定価格ですよね。岡本さんのように、大家との交渉次第とか、松本さんのように平米数がすごい狭いからとか、ある程度安くできる状況が続いている。したがって、この中心に改修して住むというのは、賃貸価格からみて必然的ですよね。

岡本:あと、住環境というところで、トイレは公共のものを使う点です。多くの家が外の公共トイレを使うという点で家賃を高くできないというか、高ければあって当たり前でしょという。それを自分でお金出して、トイレを付けたいというのは、結構お金がかかる、

川井:松本さんも雑院を「WZM56」として改修して住まわれているのですが、そのきっかけをお聞かせください。

松本:僕の場合は、もともと今の雑院に住んでいました。結婚をきっかけに奥さんが北京に来るということで改修したのが大きなきっかけです。岡本さんの改修物件もちょっとお手伝いさせていただいたので、そういう話を色々聞いて、改修しようと決断しました。

改修するにあたって、四合院の中でなにか良いことが出来ないかと思いました。先ほど話にあったように、院内の住宅は、排水管の径が小さいために、トイレを設置することが出来ません。また、老年の方が多くて、僕の隣の家はおじいちゃんと寝たきりのおばあちゃんが住んでいます。毎朝、足の悪いおじいちゃんが、おばあちゃんの排泄物を公共のトイレまで運んでいる。加えて、僕の住む四合院は、北京人と外から来た人が半々なんですね。外から来た人に関しては、やっぱり周囲に対して警戒するじゃないですか。やはり自宅で完結する設備が欲しいわけですよね。

そういう状況を見ていると、共有のトイレ配管設備を変えられるんだったら変えた方が良いんじゃないかと思い、その方法を考え始めました。

川井:住み続ける状況の中で、周りの声を聞いたり、状況を把握する中で、インフラも改修したい、という動機が生まれたわけですね。

皆さんの中で雑院に住んでおられる方で一番長いのは青山さんですよね?いつごろからお住まいですか?

青山:20078年くらいから四合院に住み始めました。ずっと今の所に住んでいるわけではなくて、いくつか色々なタイプのところに住んできました。

川井:住み始めるにあたって、何かきっかけがあったんですか?

青山:それは、岡本くんにちょっと似ているけども、マンションに住んでいると日本と同じ生活感じゃないですか。せっかくなので、旧城エリアで北京らしい生活を感じてみたかった。

川井:山本さんはこの中で一番最近に雑院に住み始めたと伺っています。どういったきっかけだったのですか?

山本:僕は元々望京エリアにあるマンションに松本さんと一緒に住んでいました。でも一人暮らしもしてみたいと思っていました。先ほど家賃の話しがありましたけど、旧城エリアはひとり暮らしも割と安い値段でできるという話を聞いて、引越しする決断をしました。

北京に来た当初は、綺麗好きな僕には雑院は住めないなと思っていました。それから何年かして、住んでみたいなと思い始めました。僕の家はみなさんのようにあまり居住環境が良くないです。公共のトイレを利用していますし、リビングとベッドルームは路地を介して分かれています(写真)。当初はとても住む想像が出来なかったんですよ。これってどういうふうに住むんだろうと思っていた。実際住みはじめたら、皆さんのように改修することによって、清潔になったり住みやすくなったりしたと思うんですけど、僕の場合は、自分自身の心境を変えるように努めました。

川井:岡本さんや青山さんのように「せっかく北京に来たんだから、そういうところに住みたい」という好奇心に加えて、自分自身の心境を変えたのですね。

山本:そうですね。生まれた時から「公共トイレを使っていた」「シャワーをあびるときは外に出ていた」、そのくらい自分に言い聞かせました。今はもう全然抵抗ないですね。

川井:先ほど言ったように、ひとり暮らしできる北京にはマンションがあんまりないんですよね。ワンルームで探そうと思うと、実は雑院が手頃な価格で貸し出されているという状況もあると思います。

中国人の方さんも雑院に住んでいると伺いました。日本人の皆さんは、外から来ているという心境も含めて、雑院に住む大きな動機があります。中国人、特に一人の女性が雑院に住むことには困難もあると思います。どういうきっかけがあったのかを教えていただけますか?

方:私は1年前にスイス留学から中国に戻って来ました。生まれは寧波なので、北京は古い街並みが残る新鮮な街に映りました。一般のマンションとかアパートよりは北京らしい四合院に住みたかったというのがきっかけでした。その中でも自分で床とか壁、天井を自分で雑院を改修できる物件を探しました。そこでは前門から運んできた木柱も使っています。四合院をただ改修するだけじゃなく、身直な材料をアレンジして使いながら、愛着を持って暮らすという気持ちも非常に大切だと思っています。

布野:チョウさんはどういうところに住んでるのですか?

チョウ:今はマンションに住んでいます。ですけど、私もいずれは四合院に住んでみたいです。

布野:そういう発言が欲しかった。

 

「雑院に対する設計解答」

川井:ここで、かつて隈研吾建築設計事務所北京事務所に3年半勤めておられた建築家の京智健さんに、今日一日皆さんのプロジェクトを拝見して、率直な感想を聞いてみたいと思います。よろしくお願いします。

京: 各プロジェクトについて、皆さんがそれぞれ空間の考え方、どういった処置でどういった表現をしたかったのか、自分なりに考えながら拝見していました。松本さんの「WZM56」は、18㎡の極小空間を、ロフトとキッチンリビングのつながり方というのが印象的だなと思いました。単にロフトで繋げるのではなく、手すりを使わずそのまま壁に対して、フィレットをかけて、空間を柔らかくしているところに家具のような役割を持っていて、日本人らしい細かな配慮ができている設計になっているなと思いました。青山さんの「景陽胡同の住宅リノベーショ」「胡同の最小限住宅」は、建築に仕掛けがあふれていて、家具を動かしたりすることで空間を拡張させてながら、拡がりを持たせていると思いました。岡本さんの「Keizo house」に関しては、白いボックスを斜めにふることで空間の通気性を拡張している。それぞれに共通する点として、狭い敷地の中で空間の拡げ方に工夫がされていると思いました。

布野:皆さん設計がうまいよ。それぞれに解答をきちんと出している。

戦後の建築家は最小限住宅でデビューしていったんですよ。みんな、大体そうです。そこでうまく回答を出せない人は大きいのをやってもだめ。そういう建築家の初心みたいな感じで取り組んだのだと思う。だから、この特集は間違いない!

一同:笑

川井:一方でそれぞれに難しい問題はあると思うんです。コミュニティの問題、特に所有関係が非常に複雑な状況だと思うんです。北京の四合院は、政治の動きとともに所有の制度が幾度も変わっています。そういった複雑な状況をいかに設計によって解答したのか教えてもらえますか? まずは、ZAOスタッフの方さん、チョウさんからお聞かせください。

方:私たちは、住む空間、生活する空間の質をあげる目的だけではなくて、胡同、社区全体にどういう貢献ができるか、どういうふうな影響をあたえることができるかについて考えながら設計を始めました。

川井:実際にそれは設計の中でどういう解答によって、胡同や社区すなわち公共性を獲得しましたか。

チョウ:特に増築した部分については、取り壊すという解答ではなくて、そのまま残して、どういうふうに改善していかせるかというのを第一に考えました。

川井:それが中庭部分の共有スペースでは、繰り返されてきた増築そのものの意味をきちんと継続させていってあげたということがあったのですね。

方:新しいものをつくるだけではなくて、もともとあった部分を改善しながらどういうふうにこれから活かせるかについては、大事だと思います。

チョウ:既存の増築した部分もスケールとかは、みんなが交渉しながら、作られたものなので。

川井:住民たちが交渉した中のつくられた「公共性」ということですね。

チョウ:だから残す意味はあるんじゃないかと。

布野:日本人の皆さんは自分のスペース、自分の住居の確保で精一杯なんだよね。よそ者として入ってきて、その中で折り合いつけながらやっている。その点、ZAOはやっぱり攻めているよ。

日本人の皆さんは、胡同との関係みたいなものを、奥まったところで自邸をやるんじゃなくて、多分もう少し外に対してもうちょっと色々と出来ないかというのは問われる。だけど、日本人が勝手にそんなことを北京でやったら大変だよね。

チョウ:土地所有の問題について、中庭は共有のスペースなので、勝手に増築したら自分のものになる。日本の場合は、法律的に規制されているから、中国のようには出来ないですよね。

川井:青山さんのプロジェクトでは、同じ四合院の中に中庭空間を含めた2つの雑院を改修されています。1つは中庭を介した分棟形式、もう1つは房屋一帯。それぞれに設計で工夫された点を教えていただけますか?

青山:それぞれにコンセプトが少し違っています。「胡同の最小限住宅」は、3㎡という極限的に小さいスペースなので、それをどういう風に、使う時だけ大きく使えるかということを考えたプロジェクトです。一方で高さ方向には余裕がある。別棟の中庭キッチンは、高さはいじれないけど水平方向は使う時だけは大きくできる。でも使わない特に大きくしてしまうと、みんなから文句が出ちゃうからそれは出来ない。つまり、ひとつは高さ方向に余裕があって、ひとつは水平方向に余裕がある。それぞれに垂直方向と水平方向の変化というのをどういう風に生活の中で必要な変化で出来るのか、というのを考えました。

「貴陽胡同の住宅」は、もともと3世代5人がすごく仲良く暮らしていて、ほぼワンルームみたいな中に、みんなで寝て、みんなでご飯食べて、みんなでくつろいでいるような生活でした。すごい良い家族の暮らしをしていたから、リノベーションした後に無くしたくないっていうのがありました。リノベーションした後も1階と2階は色んなところで視線的にも空気もつながっていたりとか、色んなとこから見えたりとか、改造した後もマンションの3LDKとか2LDKみたいなことにはならないように気を配りました。

2つのプロジェクトをつなげるコンセプトとして、今回二つの家族の共有する空間どう改修するのか、キッチンを拡張した時に外の空間と一体になって、ご飯を食べるときにはちょうど隣の家のキッチンのところに窓があって、そこから食事が出てくるみたいな、2つの家族がひとつの庭の中でどういうふうに暮らすかということを考えました。

つまり、今回は、住宅にそれぞれコンセプトを持たせながら、どういう風に全体として考えるか、というの考えました。

川井:一つ質問ですが、「胡同の最小限住宅」は日常的には使われですか?

青山:日常的には使わないです。将来、子供が北京の学校に通えるように、最小限あそこで暮らせる感じの場所をつくる。今はまだ夫婦に子供がいないから使われていません。使うとしても、時々来て、あそこで友達とご飯食べたりとか、くつろいだりとかするぐらいです。

方:ちなみに今回の改修費は合計でいくらですか?

青山:50万元です。

川井:青山さんのプロジェクトは、日本的な環境では絶対生まれないですよね。2つの住宅を同時にリノベートしながら、共用空間が非常に曖昧な所有関係にあったなかで生まれた作品ですね。

続いて、岡本さんの「keizo house」 はボックスを振るという操作で、限られた空間を非常に有効的に使っています。改修するにあたって、その発想に至った経緯を教えていただけますか?

岡本:最初に物件を見た時に、部屋の真ん中に壁があって、仕切られた各個室がすごく狭く、奥側のベッドルームは日当たりがまったくなかったんですね。そこで寝たくない。日当たりを全体に入れたい。あとワンルームで使いたいということで。切妻屋根で、高さは結構あるので、ロフトを作りたい。ロフトをつくって、上にスペースがあると色々使えるかなと。壁に対して水平にボリュームを入れてしまうと、そのボリュームの圧迫感を、壁と同じ感じで受けてしまうので、どうにか出来ないのか考えました。そこで、少し斜めに降るということで、少し視覚的に抜けるというのか、空間の抜けができるというのを利用しました。実際に使用してみると、ボリュームを振ることで生まれた三角形の空間はどこに座るか規定しないし、そこまで窮屈に感じない。

自分で新しく組み込んだ機能、お風呂場とかトイレとかキッチンというのは、白く塗ることによって、既存の壁に対してコントラストを付けて見せたらどうか、と考えて設計をしました。

川井:既存壁の表面は削ったんですか。

岡本:そうです。

京:これ、日本でこんなことをしようと思うと、かなり高くつきますよね

岡本:職人いわく、この壁は作ることは出来ないから残すなら残したほうが良いと提案がありました。

僕ももちろん残すつもりでいたんですけど。こういうのはもう作ろうと思っても作れない。ちなみに総工費は200万円程度です。

川井:岡本さんは大家や職人との関係が非常に蜜で、丁寧にコミュニケーションを取りながら、素晴らしい空間が出来ているというのもありますよね。

続いて、松本さん、「WZM56」の改修について、お願いします。

松本:まず、目的が2つあります。まず1つ目は必要最低限の機能を18㎡に入れないといけないということ、2つ目は先ほども言ったようにインフラを整備することで共有空間の使い方が、少しでも良くなるようになにか考えられないかということ。

全体をダイアグラムで示すと、2階にプライベートな空間を持ってきて1階に外部に開放できるような空間を持たせることで、人との関わりがまた違ってくるんじゃないか考えました。(写真)

一般的な雑院に入っても家の中が見えなかったりして、本当に閉ざされた狭い空間だと思います。その中で家の向こうの木が見えるとか、光が入ってくるとか、雑院全体に貢献できるのではと考えました。実際に改修後、隣の家のおじちゃんが、僕が料理をつくってる時に、中を覗いて勝手に入ってきたりして、ちょっとおしゃべりしたりしています。だから雑院の一部分の改修なんですけど、みんなの生活がちょっと良くなったかなと感じています。

布野:家の奥からの隣の雑院の壁が見えて、「ああこれを見せたいんだ」と思った。隣の家と不思議な関係が出来る可能性がある。ここで、是非チョウさんとファンさんにも各々の改修物件の感想が聞きたい。

チョウ:岡本さんの設計手法は、現在進めている雑院プロジェクトと非常に似ています。岡本さんの家のような斜めのボックスを入れることによっていくつかの空間を生むことができる。もともとの大枠は崩さずに、中に小さい部分を生み出すということを試みています。

方:私や山本さんが住んでいる雑院の屋根は、切妻ではなくて、水平なのでそういう高さを活かすことは難しい。やはり松本さんや青山さんの家の様な切妻屋根があって、ロフトをつくったりとか高さで工夫をすることに関心を持っています。

大抵の北京の雑院は、屋根を陸屋根にして改修するのですけど、やっぱり切妻のほうがいろんな工夫が出来るから、今後のテーマとして考えてみたいです。

川井:僕も実測調査で四合院をいくつか描いてきたのですが、断面が非常に面白いですよね。みなさんの改修のアプローチをみても、断面を非常に有効的に使われていると感じました。

山本:一方で周りの公共通路との関係性というか、水平方向にも関心があります。例えば、僕の家は路地を介して向かい合う分棟形式なので、カーテンを全開にしてもよくて、光もたくさん入ってきます。一般的に雑院ではみんなカーテンを閉めていています。理由としてはやっぱり部屋の中を見られたくないから。でもやっぱり勿体無いじゃないですか。だからどういうふうに、その辺をどうやって改修できるのか。そこで全体が変化すればもう少し環境が変わってくるように思う。

川井:これはプライバシーの問題が大きく関わってくると思うんですけど、水平方向に対する設計の工夫をされた点があれば教えてください。

岡本:我が家は実際にカーテンがないです。部屋の中は公共に面しているというよりは大家さんにしかみられることはない。ベッドルームをロフトの上に持っていっているので、窓からみえるキッチンはそれほどプライバシーを必要としません。したがって、プライバシーをあまり気にしていないです。

川井:これは松本さんにも共通しますよね。1階をオープンに見せることで、水平的な抜けを作っていますよね。

松本:そうですね。それと、窓の外にちょうど隣の家の窓がないことも大きいですね。

 

四合院の未来像

布野:ここで皆さんにお願いしたいのは、雑院単体だけじゃなくて四合院全体のモデルでやって見せないといけないんじゃないですか。僕が知っているのは、1990年に、北京清華大学の呉良鏞先生設計の『菊池胡同新四合院』という四合院型集合住宅のモデルが作られたんですね。その後、みんなそっちがいいよという話になっていって、今ではエリア全体に規制がかかっている。次は自分の家ではなくて、仕事としてチャレンジしてほしい。

青山:その時に、今の北京の問題として、例えば四合院全体でプロジェクトをやろうとすると、再開発するために、今住んでいる人たちの家を潰すことにすごいお金がかかってしまいます。そこに建築家が入って再開発して売りだした時に、その値段がすでに一般の人が買える値段ではない、超高給住宅にしかなりえない。それが原因で北京の不動産の市場を個人はもちろんディベロッパーもそれを動かせないし、政府も動かせない。その時に、ひとりひとりが自分で少しずつお金をだして、改造していくというアプローチが今後もっと重要になっていくのではないかなと思います。

布野:それは賛成。すごく賛成なんだけど、建築家としては仮にでも四合院モデルをやって見せたら、実現しなくてもいいかもしれないけど、計画図を介して生活の新しい姿を見せる必要があるかなと思う。

岡本:先ほどの不動産屋の話ですが、借りて自分たちで改修して別の人に貸し出すと、不動産屋は入って来ることができない。そういうところで別の仕組みをつくっていくと大きい規模も出来るんじゃないかと思う。

川井:それでは最後に胡同、四合院、雑院に対する皆さんの展望を聞かせてください。

ファン:現在、私たちは内城の西エリアでもうひとつの四合院プロジェクトを進めています。クライアントは投資会社、用途は住宅です。当然高く売り出すために当初から居住空間を改善しなくてはいけません。今施行期間中なので、9月末に完成する予定です。個人的なものなので、そこでは四合院の新しい空間体験というところを工夫したいと思っています。

川井:続いて青山さんにお伺いします。日本人建築家として中国でやっていく上で胡同、四合院、雑院に対する展望をお聞かせください。

青山:今回のプロジェクトに関しては、典型的な雑院の改造なので、ここでやったことをもう少し普遍的な経験としてまとめたほうがいいかなと思っています。ここでの問題は、胡同ないしは雑院でもほとんど同じ状況が起こっています。例えば、先ほど話にも出たように、四合院の多くは雑院化の影響で水平方向にはほぼ拡張する余裕がないので、垂直方向にしか拡張できない。高さ方向なら屋根を少し上げることもできるし、地下を少し掘る事もできる。そういったところでどういう空間が作っていけるのか考える必要があります。続いて、「採光」の問題があります。雑院の壁については四周がいろんなところに接していて、あまり採光が取れない。だからほとんどの壁は収納とかキッチンに使われてしまう。したがって、どうしても天窓を使わないといけない。天窓をどういう風に使うのか考える必要があります。さらに、「狭い」という問題があります。ひとつの空間をどういう風にして複合的に使うのか。例えば、日本の四畳一間では時間を区切っていろんな使われ方をしていました。その中国版あるいは北京版を考えてみたいです。また、旧城エリアにある四合院の木柱はほとんどが腐っている。実際は構造的な役割を果たしていなかったりしている。それもどういう風に変えていくか。ほとんど同じ形式や構造で作られて、同じ時間が経っているから、同じような問題が同時にいろんなところで起こっています。こういったいろんな小さい問題や知識を積み上げていくと、北京のリノベーションというのは、もう少し体系的に整理できるんじゃないかと考えています。

川井:青山さんは、旧城エリアでの居住経験が長く、実務経験も豊富です。実体験としてこれらの問題に対して、非常に説得力のあるコメントをお話いただきました。

続いて、岡本さんは、四合院の改修物件も多く、さらにはインスタレーションの試みも実践されています。そのあたりを踏まえて今後の展望をお聞かせください。

岡本:現在、僕は日本人パートナーと、ODDという事務所をやっています。これまでに四合院では、2件の住宅と1件のレストランを設計しました。最近では、北京デザインウィーク[2]にも参加し始めて、去年は大柵欄地区で『猫の家』(http://www.designboom.com/architecture/odd-cat-houses-hutong-roofs-beijing-10-09-2014/)というのを設計しました。胡同のもう一人の住民である猫を視覚化するという試みです。道路だけでなくて、屋根の上もどんどん歩いていくということを見せることで、胡同の新たな一面に気づくこともあるんじゃないかなということをインスタレーション的におこないました。

今年の北京デザインウィークでも新しい提案行う予定です。北京の旧城エリアは、マンション地区に比べてマナーはまだまだよくありません。タバコのポイ捨てをする人や立ち小便する人もいる。さらに、北京市内は、今年の6月に室内が禁煙になって、みんな外でタバコを吸うようになったんですけど、胡同に面する壁で火を消したりしている状況です。この人達の喫煙の行動特性を生かせないかと考えています。一つの行動パターンとして排水口にタバコを捨てるというのがあって、「排水口を灰皿にすればいいんじゃない」というプロジェクトを計画中です。設計をすることで行動を変えるのではなくて、すでにある行動に添わせて設計をする、ということを考えています。

川井:行動特性を設計に活かすという試みは非常に面白いですね。これも北京生活が長く、人々の行動をよく知る岡本さんならではの設計手法のように感じました。最後に、松本さんは雑院のインフラを改善するという居住環境整備を自らの発信でチャレンジされました。そのあたりを踏まえて展望をお聞かせください。

松本:まず、北京の人たちというか若い人たちが胡同や雑院にもっと興味を持ってもらいたいと考えています。ただ、知り合いの北京人に聞くと、汚いとか、そういう嫌な印象しかもっていない。だから、まずはトイレや排水環境といったインフラの改善をしていかないといけないと思っています。改修するにあたって、周りの住民たちのの独占的な考え方を体験しました。それが北京人の特徴の一つだと思うんですけど、そういうのを踏まえながらその中でインフラを変えられる一つのビジネスモデルをつくっていけたらなと思っています。今回インフラを整備することが理想だったんですけど、雑院内のある住民の反対を受けてだめになりました。今後は、改修した雑院を長期的に安く借りて、出来るだけ安い費用で整備をおこなう。そして雑院の中でひとつの住宅を改修するだけで全体が良くなるようなモデルケースをつくりたい。それによって中国人が率先して真似をしていけば、国に頼らずに民間さらには個人で、インフラが積極的に整備していけるんじゃないかなと考えています。

川井:末端からのインフラ整備というのは、非常に興味深いですよね。それを日本人が扱うということに面白さがあり、この国でロールモデルをつくる意義や可能性を感じます。

それでは、布野先生から今日一日の感想を一言いただけますか?

布野:僕、今日は想定以上に喋った。黙って聞いておくつもりだったけど、大変面白かったし、ほんといいものを見せていただいた。これをちゃんと日本の建築学会に伝えたいし、そして皆さんの刺激にしていただきたい。

川井:今日は、北京特有の環境下で生まれるリノベーション現象とそのあり方を問いながら、各作品では大変魅力的なものを拝見させていただき、その経緯をきっかけ、設計方法、今後の展望からお聞きすることができました。長時間にわたりお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 

(プロフィール)

青山周平

岡本慶三

松本大輔

山本雄介

京智健

チェン

 

布野修司 ふの・しゅうじ

1949年島根県生まれ。日本大学特任教授

東京大学工学研究科博士課程中途退学、京都大学大学院工学研究科助教授、滋賀県立大学大学院環境科学研究科教授、副学長・理事を経て現職

 

川井操 かわい・みさお

1980年島根県生まれ。滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科助教。滋賀県立大学卒業。同大学大学院修了。博士(環境科学)。都市計画・建築計画。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司、東京理科大学工学部一部建築学科助教を経て、現職。

 



[1] 胡同hutongとは、元王朝時代に計画された首都北京市の旧城内を中心に点在する細い路地のこと。その語源は、モンゴル語で井戸を意味するxuttuxの音訳が起源とされる。

 

[2] 北京デザインウィーク( 以下、BJDW )は、2011年より毎年国慶節に北京市で開催される国際デザインイベントである。BJDWには、毎年2000人以上のデザイナー、機関運営者、各種専門家が参加し、 500万の来場者がある。これまでに主会場となったのは、大柵欄地区、798芸術区、751芸術家区、三里屯地区の4地区である。

 


2025年1月5日日曜日

書評:21世紀の資本と建築の未来〜飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社,2014年)〜,布野 修司,建築討論004,日本建築学会,201504

https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html 

書評001

21世紀の資本と建築の未来

飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)

 

布野修司(日本大学特任教授)

 

力の入った現代建築批判である。

執筆の大きな動機となっているのは、新国立競技場計画設計競技の問題であり、最優秀賞を獲得したザハ・ハディド案(写真1abc)だという。

「らしい」建築とは、ハディド「らしい」建築という場合の「らしい」建築である。確かに、広州大劇院(写真2ab)、北京・銀河SOHO(写真3abなどこの間の一連の作品[1]をみると、ハディド「らしい」建築とはどのようなものかはおよそ理解できる。著者によれば、「そのどれもが、グニャグニャしていたり、壁が反りあがっていたりするものばかりである」。「敷地の条件や、その土地の歴史や風土、周辺環境や気候、予算、あるいは実際にそれを使う人たちのことよりも、彼女自身の建築美学とダイナミズムの方を常に最優先する」建築である。著者は、フランク・O・ゲーリーのルバオ・グッゲンハイム美術館1997年)、 ナショナル・ネーデルランデン・ビル (通称「Dancing Building - "踊るビル"プラハ1995年、写真4)などの一連の作品[2]、レム・コールハウスのCCTV中国中央電視台新本社屋など一連の作品も「らしい」建築とする。

すなわち、世界的に著名な建築家たちの名前がブランドとなった建築が「らしい」建築であり、世界的建築家(アーキスター、スターキテクト)のブランド作品ということだけで選ばれる事態、「資本主義の欲望」の「マーケット」で「建築」が消費されていく「暴走」への危機感が本書の基底にあるという。

問題は、「何者も国家と資本の論理から逃れられない絶望の只中で、未来の建築をいかに構想できるのか」(本書「帯」「誰のための建築か?」)である。

 

 「らしい」建築批判

著者の主張は極めて明快である。

「建築」は「建築家」の自己表現としての「作品」ではない、すなわち「芸術」ではない、故に、「自立した建築」、「美学としての建築」は認められず、「らしい」建築は否定されねばならない、建築は、その場所の歴史性、地域性を踏まえて、使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になってつくるものである、というのが著者の基本的な視点、立場である。

全体は1~9の章(節)に分けられているが、その主張のポイントをまず要約しよう。

新国立競技場のコンペをめぐっては、東京開催も含むプログラムそのものの問題、敷地選定の問題、応募者の選定の問題、技術的問題など様々な問題が指摘されるが、著者が批判の中核に据えるのは、「ブランド建築家」の「圧倒的な造形性」をアピールする作品が極めて政治的な戦略として選定されたという点である(1 新国立競技場計画設計競技、2 ザハ・ハディド案)。

「らしい」建築は、一方「アイコン建築」と呼ばれる。「アイコン建築」は、C.ジェンクスの“Iconic Building(アイコン的建築物)”(2005)に由来するが、「1990年代以降に世界各地で相次いでいるグローバル資本と結びついたスター建築家(スターキテクト)の設計による建築物を総称」するのが「アイコン建築」である。「アイコン的建築物とは、相矛盾するイメージが圧縮された、人目をひく得体の知れない形態を持つ建築物をさす」(3 ブランドとしての建築家)。

著者は、建築がアイコンと化し、建築家がブランドとなり、ともにグローバル資本の商品となりつつあることを確認しながら、一方、建築がアート(美術品)として、美術館に展示される事態をも指摘している。具体的に取り上げられているのは石上純也(「空気のような建築」)である。

如何にこうした事態に立ち至ったのか、著者は大きく歴史を振り返る(4 革命の終焉)。「らしい」建築がとくに顕著になったのは1970年代以降である。著者によれば、1789年のフランス革命が近代の起点であり、それとともに始まった近代化プロジェクトは1968年のパリ五月革命によって終焉を迎える。以降、資本の論理が優位となり、建築はそれに準じていくことになる。ポスト・モダニズム建築はその先駆けであり、建築はイデオロギーではなくスタイルとなり、革命抜きの趣味的なものとなり、スノビズムによって支配されることになった。

そこで著者は、70年代初頭に活動を始めた安藤忠雄と伊東豊雄に焦点を当てながら、日本建築の70年代以降を問う(5 「社会性」からの撤退)。まず取り上げられて批判されるのは、1960年代初頭に「住宅は芸術である」と宣言し、「社会から隔絶された小さな住宅内部にのみユートピアが宿る」とし、「他者性を一切無視して、自閉的で、自己だけが満足できる抽象性の美学」に浸った篠原一男である。そして、その自己閉塞性を離れて、バブル経済とともに本格的に資本主義社会(建築的ブランド社会)へと没入した、安藤・伊東の世代の試みも、近代以降の「大きな物語」(J.F.リオタール)が砕け散った後の「小さな物語」の散乱にすぎないという。詳細は省略するが、それぞれ丁寧に言説と作品が追いかけられている。結論は、それぞれ「らしい」建築を再生産し続けるブランド建築家となったということである。安藤忠雄の作品について、「確かに一般的には、安藤はこれまで地域性を考えている建築家として評価されてきた。地域性を普遍性と融和させ、コンクリート打ち放しの建築なのに温かみがあると評価されてきた。社会と建築との関係性を考える建築家だと評価されてきた。」、だがしかし、安藤の作品は、世界のどの土地に建築を計画しても、そのどれもが同じような、コンクリート打ち放しの箱ばかりである。」K.フランプトンが「批判的地域主義(クリティカル・リージョナリズム)」と評したのは「事実誤認」であり、安藤は自己の定番商品を再生産し続けているだけである、という。

では、どこを目指すべきなのか。著者は、ポスト・モダニズムの潮流の中から現れてきたネオ・モダニズムの動向に眼を向ける(6 ポスト・モダニズムからネオ・モダニズムへ)。ネオ・モダニズムの建築は、1995年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された“Light Construction”展を淵源するというが、具体的には、1990年代後半以降に現れてきた、1910年代から1920年代に出現したモダニズムの建築を踏襲するかのような一群の建築をいう。SANAAの一連の作品にひとつの焦点が当てられるが、ザハ・ハディドが「ザハ・ハディドとシュプレマティズム」展を開催し(2012年)、マレーヴィチやエル・リシツキーの作品と自らの作品を比較するように、モダニズムの建築の出自に眼が向けられ始めるのである。

しかし、ネオ・モダニズム建築に著者が期待するところはない。何故なら、「「社会革命」や「政治性」が不在だからである」。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築のヴォキャブラリーをリサイクルしたり、リバイバルするのみであり、美学の建築であることはポスト・モダニズム建築と変わるところはない。「美学としての装飾性」が「美学としての抽象性」に置き換わっただけであり、引用の対象の違いに過ぎないとする。いずれも「革命的」でなく、「趣味的」である。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築の「パスティシュ」(模倣、物真似)であり、ジャンク(ゴミ)である。

以降、著者のターゲットは伊東豊雄あるいは石上純也に向けられ、とりわけ、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」をめぐって批判が展開される。まず、仙台メディアテーク(2000年)以降の作品における伊東の方法をトレースしながら、伊東「らしい」建築を明らかにする(7 建築は芸術か?)。そして、「らしい」建築に対して、世界中に散りばめられた無名の建築、B.ルドフスキーのいう「建築家なしの建築」を「らしくない」建築として対置した上で、建築と芸術の概念の成立を振り返ったうえで「建築は芸術ではない」ことが確認される。

続いて、東日本大震災以後の「みんなの家」(写真5abc)に関わる伊東豊雄の言説をとりあげて、その「転向」、「自己批判」、すなわち、「作品」「個の表現」を否定し「社会性」を重視する方向をよしとする(8 誰のための建築か?)。すなわち、「場所の歴史性や地域性をよく考え」「使い手のことを第一に考え、素朴で地味な建築を、使い手と一緒になってつくる」ことが建築家の役割だとする。一方、石上純也については、「社会改革」の意識が著しく欠落しており、「高度資本主義システムを、ただ黙って追認しているだけである」と厳しい。

そして最後に、東日本大震災以後、「社会性」の方へと大きく舵を切ったかに見える伊東豊雄について、3.11以後の「被災地の中」と「被災地の外」の仕事を比較しながら、その「作品主義」、「ブランド建築家」の本質は変わらないとする(9 東日本大震災)。「「みんなの家」は、それまでの伊東の「作品」と、その見せ方を少し変えただけのものに過ぎない」、「「みんなの家」と称して、東日本大震災という悲劇の物語を、自分自身の建築家としての「業績」に、都合よく取り込んだ」如何にも伊東「らしい」建築であるとする。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の新国立競技場への態度についても、一貫性がないと批判する。

最後の結論は、いささか投げやりである。

「したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは―これは絶望的な事実であるが―ただ、それだけなのである」

 

「らしくない」建築とは?

 さて、いくつか議論のポイントを抜き出してみよう。

 第一に、以上の結論のみであれば、なんでもあり、ということになりかねないのではないか。本書が鋭く批判する伊東豊雄、安藤忠雄、ザハ・ハディド、レム・コールハウス、フランク・O・ゲーリー、SANAA,石上純也なども、「資本主義システムの論理の中で、実にうまく立ち回っている」ということですんでしまうのではないか。

 第二に、本書は、「らしい」建築批判ということで、一般的に、建築を建築家の個の表現、すなわち作品ととらえる立場、建築を芸術と考える立場を、表現主義、作品主義、建築至上主義・・・として予め排除するとするのであれば、それ以上議論は進展しないのではないか。本書は、芸術の成立をめぐってかなりの頁を割くが、建築とは何か、建築家とは何か、表現とは何か、作品とは何か、芸術とは何か、ということであれば、それぞれ多くの論考があり、議論の歴史がある。

 第三に、著者は、建築の「社会性」を「らしい」建築、「自立した建築」に対置するけれど、「社会性」とは何か、その具体的なありかたは必ずしも明快に論じられていない。

「建築家が「自律した建築」を追求していると仮定したとしても、それは、わずか200年ほど前からの話である」というが、目指すべき建築のあり方は200年前以前の建築のあり方であろうか。

著者は、「らしい」建築に「らしくない」建築を対置して、「建築家なしの建築」に言及する。ヴァナキュラーな建築世界を支える原理に着目するということであれば、その方向性については、評者も含めて、共感し共有する建築家は少なくないと思う。しかし、そうした建築世界を現代においてどう実現していくかについては掘り下げられていない。もちろん、その課題は、著者のみならず、現代建築のあり方を批判する全てが共有すべき課題であるが、建築家など要らない、「使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になって」つくればいいといって済むほど単純ではないだろう。使い手とは誰か、誰がプロジェクトをオルガナイズするのか、誰がつくるのか、建築の主体、建築をつくる方法、仕組みと過程をめぐって様々な問題を議論する必要があるのではないか。

第四に、わかりにくいのが著者の近代建築とその歴史についての評価である。フランス革命を近代の開始と捉え、「市民革命」とともに歩んできた近代建築あるいはモダニズム建築を著者は高く?評価しているように思える。少なくとも近代建築批判の視点は希薄なように思える。近代建築の初心に戻れ!ということであろうか。

著者は、1968年に「革命は終わった」といい、以降、資本の論理が建築を支配するようになったとする。そして、以降に現れたポスト・モダニズムの建築、ネオ・モダニズムの建築などを全否定する。それらには「社会革命」や「政治性」が不在だからだという。であるとすれば、何故「革命が終わったのか」についてのさらなる分析が必要ではないか。そして、未来の建築を構想するためには、現在において「社会革命」がどのように展望されるかを示す必要があるのではないか。

第五に、1968年以降、資本の論理が建築を支配するようになったというが、資本の論理はむしろ一貫しているとみるべきではないか。H.ルフェーブルが社会的総空間の商品化と規定する、不動産が動産化し、土地のみならず建築空間そのものが売買される事態は1960年代に世界中で顕在化していた。今や、空気や水まで商品として売買されるところまで至りつつあるけれど、1970年代以降に建築をめぐって顕在化していったのは、計量可能な空間のみならず、そのイメージすら商品化される事態である。プレファブ住宅もただの箱では売れず、そのスタイル、デザインが売られるようになる。著者が指摘する通り、ポスト・モダニズムの建築の跋扈はまさにそうした資本主義の新たな位相に照応するものであった。指摘したいのは、ヴァナキュラー建築の世界を解体してきたのは、むしろ、近代建築の理念であり、産業化の論理ではないか、ということである。世界中どこでも同じような建築(インターナショナル・スタイル)を建てるという理念は、場所の歴史性や地域性を無視すること前提としており、工業化工法(プレファブ建築)は建築を土地と切り離すことを前提としているのである。

  問題は、産業的空間編成の問題であって、単に建築デザインの問題ではない。著者がいう「社会変革」が空間編成のレヴェルで構想されているとすれば全く異議はない。ポスト・モダニズム建築が、単に空間を覆う表層デザインのレヴェルにおけるスタイルの選択に終始したという指摘もその通りである。

ただ、未来の建築を構想する可能性があるとすれば、原理的には近代建築の根源的批判の上にしかないことははっきりしているのではないかと思う。そして、様々な近代建築批判の具体的な試みの中から可能性を見出すしかないのではないか。多様な試みが、好み、趣味、スタイルのレヴェルにとどまる限り、資本主義システムのうちに回収され続けるであろうことは、著者の指摘する通りである。もしかすると、著者は、個我、オリジナリティ、作品、芸術といった近代的諸概念を廃棄し、超越した地平に建築の未来をみようとしているのかもしれないけれど、「らしくない」建築で覆われた世界がどのようなものか、どのような空間システムによって可能なのか、少なくとも本書において示されているわけではない。

  

「アイコン建築」と21世紀の資本

議論の発端は、「アイコン建築」の出現である。そして、「ブランド建築家」の出現である。

第一に、「アイコン建築」を可能にしたのはCAD,CGなどコンピューター情報技術ICTである。自由自在に形、アイコンを操るトゥールの発達があり、それを実現する施工技術、建築生産技術(BIM)の発達がある。「アイコン建築」は、だからCADBIM)表現主義とも言える新たな動向とみることができる。

第二に、「アイコン建築」が出現する背景にあるのは、四角い箱型のジャングルジムのような超高層がヴァナキュラー化するほど林立する大都市の状況である。経済的合理性の追求が生み出した、画一的で、均質化する都市景観の中で、それを異化する個性的な形態、スタイルが求められるのである。そこに作動するのは資本主義の差異化のメカニズムである。

第三に、クライアントの出現がある。「アイコン建築」を欲求し、実現させたのは、とてつもない富を蓄積した富裕層である。

すなわち、「アイコン建築」はひとり「ブランド」建築家によるものではない。グローバル資本主義の大きな流れの中で生み出されたのが「アイコン建築」である。ただ、「アイコン建築」の「楽園」と言われる中国については、今後の動向を含めて別個の分析が必要であろう。資本統制が敷かれており、世界富裕ランキングに多くが名を連ねているといえ、富を自由に移動できるかどうかは疑問であり、グローバル資本主義の自動運動というわけにはいかないからである。市川紘司がレポート(「21世紀中国建築論とアイコン建築の終焉について」『建築討論』003号)するように、「アイコン建築」統制の動きもある。このこと自体、建築表現と政治の問題として議論すべきであろう。

本書が焦点を当てるのは、いわゆる建築家、それも世界的建築家(スターキテクト、アーキスター)である。著者は、加熱する資本主義システムに加担すると「世界的建築家」を批判するが、「世界的建築家」の相対的地位の下落は明らかである。

近代建築の英雄時代の巨匠たちは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」として理念化される存在であった。近代建築の歴史の過程で国境を越えて活躍する「世界的建築家」が生まれるが、近代建築の理念とそれを実現する建築家の理念は共有されてきたといっていい。しかし、世界資本主義のグローバルなさらなる展開において、建築家は、最早「世界建築家」ではありえないし、その理念も成立しない。問題は、それどころか、「スターキテクト」「アーキスター」と呼ばれる世界的著名な建築家が「ブランド建築家」として資本に使われる事態が出現しているのである。

確かに、ありとあらゆるものを差異化し、商品と化していく資本主義の底知れぬ潜在力をまず認めるべきであろう。しかし、一方、その行く末も見極める必要もある。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)は、18世紀以降今日に至る世界の富の蓄積と分配の歴史を明らかにするが、1970年代以降、資本と労働の格差、持てるものと持たざる者との格差は大幅に増大する。ポスト・モダニズム建築の百花繚乱とますます富を蓄積する富裕層の増大とは照応している。「アイコン建築」の勃興もマクロには富のかなりの比率を所有すると予測されるトップ10%の富裕層の動向と不可分とみることができるであろう。トマ・ピケティの指摘で興味深いのは、20世紀前半の革命と戦争の時代、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代に格差がもっとも縮まっていることである。皮肉なことに、産業革命以降に蓄積されてきた富のストックが破壊されたからだという。

トマ・ピケティの予測によれば、グローバル資本主義の自己運動に委ねられることになれば世界は大きく二分化されていくことになる。そうなると、建築家の世界も「ブランド建築家」と「アーキテクト・ビルダー」(あるいは「セルフ・ビルダー」)に二分化されていくのかもしれない。

 

本書で、最も厳しい批評が加えられているのは伊東豊雄である。その言説のぶれについては、評者も論評したことがあるが[3]、著者が執拗に問うように、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との落差、分裂はこれまでにないもののように思える。この分裂は、磯崎新が1968年に「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」という、その裂け目に通じる分裂かもしれないとも思う。磯崎はこう書いていた(『建築の解体』)。

「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは,その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば,そのデザインの行使過程,ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」「デザインを放棄する,あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」

建築家に一貫するものとは何か、何がそれを要求するのか、何がそれを担保するのか、ということを否応なく考えさせられる。先の評論で「建築の永久革命」と書いたが、伊東豊雄という建築家は、常に新たな建築空間を追い求めてきた建築家だと思う。一貫するもの(例えば様式)が内にある建築家と外にある建築家がいる。後者であれば、「作品」毎に自在に様式を選択、折衷することが一貫する方法である。引用論、記号論、手法論などで理論武装するポスト・モダニズムの建築がまさにそうであった。前者の例としては、著者が挙げるようにコンクリートの箱をつくり続ける安藤忠雄がまさにそうである。伊東豊雄の場合、様式選択主義とは無縁である。造形主義でも、表現のための表現を追求しているわけではない。著者は、方法論の再生産といって非難するが、そうだとすれば、伊東豊雄に一貫するのは方法論である。方法、理論は議論の前提である。何も伊東を弁護しようというわけではない。伊東の「転向」「分裂」は、まずは方法論に行き詰った、理論的に破綻したのではないか、とみるべきではないかということである。「らしい」建築と一括するけれど、個々の方法の差異はみる必要があるということである。方法論には方法論を対置する必要がある。「みんなの家」の方向をよしとするのであれば、それが世界を覆う方法論を鍛えて提示すべきということである。

致命的問題は、建築の方法論なるものが、また、建築を語る言語が、建築界の内部で、建築家の仲間内で閉じていることである。本書が全体として告発するのは、建築専門雑誌などの媒体を含めて、一般的に開かれていないということである。全くその通りである。敢えて言えば、本書における議論も一般には難しいだろう。次元は異なるが、少なくとも、一般にわかりやすい写真や図が欲しかったように思う。閉じていると言えば、この書評もそうなのである。












 



[1] 1998 - ローゼンタール現代美術センター(シンシナティオハイオ州2003年竣工)、2010 - 国立21世紀美術館MAXXI)(ローマ)、2012 - ヘイダル・アリエフ文化センターバクーアゼルバイジャン)等々。

[2] 1989 ヴィトラ・デザイン・ミュージアム(ドイヴァイル・アム・ライン)、1999 メディア・ハーバー・ビル(デュッセルドルフ)、2000 エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクトなど。

 

[3] 「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』彰国社、2011年。


2024年10月24日木曜日

環境ー大きな物語 and/or 小さな物語ー 建築・都市,そして地球,2015年7月17日18:30~20:00 建築会館 建築書店,八束はじめ・布野修司対論シリーズ 第7回:ゲストゲスト 尾島俊雄(環境都市学者),建築討論006号,日本建築学会,201510

  https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/tairon07.html


7回八束はじめ・布野修司対論シリ

環境きな物語and/orさな物語建築・都市、そして地球

 

日時201571718:3020:00
会場日本建築学会 建築書店

環境問題今世紀重要事柄つであることはいうまでもないが、地球環境はひとつであるにもかかわらず、単体レヴェルから地域都市、ひいては地球全体までカヴァしてじることはしい。今回は「対論」シリズをめくくるものとしてこの難事にチャレンジする。

ゲスト

尾島俊雄環境都市学者

1937年生まれ。なる建築設備のスケルをかにえた提言数々行なってきた。最先端技術研究から教育一般的啓蒙活動までカヴァする領域めてく、総合的建築都市学者すべきかもしれない。早稲田大学名誉教授元日本建築学会会長日本景観学会会長()建築保全センター理事長、アジア都市環境学会会長などを歴任

 

八束はじめ(建築家建築批評家芝浦工業大学名誉教授

布野修司建築計画、アジア都市建築史建築批評日本大学特任教授


八束時間になったので、めさせていただきます。今日は7回目にして最終回になります。この企画布野さんとめたのですが、2回目からゲストをおきしています。最初から目算があったわけではないのですが、なんとなく、学会のイベントでもあるから建築学大体分野網羅しようということになりました。最後環境という今日一番重要なテマをげようということで、どなたにおいしようかえて、いままでは布野さんよりをおきしていたのですが、いつかなくて、大家なので恐縮ですが尾島先生におしいただいて、めにふさわしい人選だというっております。

布野でもホントは尾島先生じゃないといけなかったんじゃないの?

八束まあそうなんだけど()。その理由冒頭におししておきたいといます。今回のタイトルにも『きな物語からさな物語へ』というタイトルがついているんですが、は、環境重要なのは、『きい』と『さい』があるとっています。 大学建築学科では、-意匠系教員でしたけど-、スタキテクトを養成する意匠系研究室一見花形というじがあったとうのですが、意匠系研究室は、確実ってています。今非常人気があるのは、-芝浦工大元同僚では、尾島先生のお弟子さん、村上公哉先生でしたけど-、環境系研究室人気があるわけです。設備設計とかメとか、単体建築主体仕事するにさいですが、そこへの就職堅調であるというめてプラクティカルな理由もあるといますが、同時に、きくは地球環境全体、そういうようなきなスト問題になる。ただ、このつはがっているようで実際にはずいぶん距離があるわけです。たとえば建築単体エネ水準げることは、もちろん技術としては向上させるべき課題ですが、地球環境直結するとまでいったらいいぎのはずです。でもとなく、エネとった途端にそれがつながっているようにこえる。日本では60年代公害問題もあって、エコロジ環境問題とかが建築分野えて注目され、世界的にエポックメイキングだったものとしては、72にいろいろとコントラバシャルだったロマー・クラブ委嘱研究の『成長限界』というています。それは地球環境全体のシミュレションをしたでしたけれど、そういう問題一戸一戸建物エネ、あるいは空調なんかのめるというのは、ずいぶん距離があるわけですよね。The Principles of Sustainability』というんでいるのですけれど1、そこでは建築単体なんて全然出てこないのですね、ちょっと建築関係者としては拍子抜けするくらい。同時にこの両方見据えながらをするというようなことをえると、『さい』技術的くの研究をしてらっしゃって、人材事欠かないとうのですが、『きい』はそうでもない。後者だけが重要であるというもりはいささかないのですけれども、そのをずるずるべったりつなげて、個別技術専門化していくのは問題ではないのか、というのが根本的問題意識で、そのために尾島先生におったわけです。

 尾島先生90年代啓蒙的意味めて、相当いっぱいされていて、再読したりしていますが、当時尾島先生われた対象は、1000m超高層とか、大深度地下問題とか、めてきな問題をやられていました。それは20年前くらいので、その神戸・東北があっていろいろご意見変容があるのは当然だといますが、そのめたおかせていただきたいとっています。そのについてまず、全体としての尾島先生基本姿勢を、おしてけるとありがたいのですが。

尾島まず、このような老人をおびいただいてありがとうございます()。めて、のために、とめますと、特別大学ってからしい学問をとったわけではなく、やはりにつまされている。小学校戦災で、富山まれなのですが、まちも学校全滅したわけで、どうしてもがないときていけないことがにしみたんです。学校青空教室で、本当にひどい状態からスタトするとなれば、まずしいと痛切うわけです。富山という北陸のまちが全焼して何千人んだわけです。ですからそういう生活建築をつくるというのは、材料べるものもない時代しいということだから、めて純粋建築れたというのは、それがないからりたいという気持ちだったわけですね。大学りますと、今度はデザイナー希望がいっぱいいて、もデザイナてる希望したわけだけれど、勉強しているうちに、近代建築は、ものすごいエネルギ使うということにづいたわけです。戦争前建物というのは、エネルギ使うことがほとんどなくて、産業革命のおかげで冷房・暖房・照明使いはじめて、空間をつくろうとするとものすごくエネルギ必要だということがわかってですね。一生懸命新しい技術開発しても、一体どうやって維持けることができるのかなと。当時先生が、まさか設備わるとはいもしないのだけれど、門病院設計をされていて、電気りない、冷房いから大変だとか、エネルギ維持費出ないから、病院経営ができないと。これはたりなんだけど、近代建築をつくるのはものすごいエネルギ使うのだなと、維持費かって、メンテナンスがかって…

八束その先生とおっしゃるのは井上宇市先生ですね2

尾島そう。井上先生設計した建物。これはえらいことだなとって、だから設計するよりエネルギ消費量調べていたんですよ。どうやったら病院経営できるのかなと。たまたま大学院んだのは、五月連休立山ってスキ骨折半年んでしまって竹中就職わなくて、大学っただけで、特別理由があったわけではないんです。それで大学にいると今度は、オリンピックの設計で、丹下さん、坪井さんの仕事があって、井上先生一緒にその仕事をしたんです。あの意匠構造設備3めて同格から発注けたんです。

八束設計分離発注ですか?

尾島そうです。そのお手伝いで丹下研にいったら、丹下さんが大理石りたいっておっしゃって、冷房する費用くなっちゃったんですよ。

八束大理石のおかげで()?

尾島当時のオリンピックは10でしたが、10でも鉄板屋根で、15,000もの観客ると、冷房しないとどうしようもなくて、それでも冷房するおがないから、それであの巨大なノズルで、でもってやった。つまり扇風機ですよ。2m/sればいやでもしいですよ。生研勝田先生研究室実験させてもらって、なんとか成立したんです。

布野丹下先生大理石のおかげでそういう知恵まれたわけだ()。

尾島知恵というか、物狂いで、観戦できる環境らないといけないでしょう。あえて環境というならばそういうことになる。じことは磯崎さんのバルセロナのオリンピック競技場もそうで、最後がなくなって、仕方ないから、冷房使えなければ、使ってやろうと。それはしい学問領域いたわけではなくて、建築設備は、照明にしてもにしても電気にしても、建築技術じゃないでしょう。 新国立競技場についても、最初からあの屋根反対してたんです37屋根つけると冷房つけないといけない。東京電力には3,000kwやら5,000kwやらをあそこのために供給するのは無理ですよ。だから最初から屋根つけたら絶対ダメです、お最後になってどこからもてきませんよ、とったら、冷房どころか屋根そのものもくなってしまった。だからお最後決定的になる。つくるだけではなく維持費として。だから、環境特別思いがあるわけじゃなしに、建物をつくったら維持しないといけない、そのためにはいろんなものが必要なんですね。そういうことをやるのは絶対必要学問だから、みんなそんなことやらないし、しいものつくるのに一生懸命だから()。

 大学はスタになるためではなく、本当にいい建築維持するために必要なことをやるのが大学役目だとったので、大学研究するなら、どうしても必要建築、いい建築維持できる建築でいうサスティナブルな建築のための基礎的なことをげて、資料をつくって調査をするのが、大学として不可欠だと。早稲田は、大学にはがいっぱいいまして調査には最適学校だから、まずはられた建物必要かとかを調査する。えてみれば、建築主体だとすれば、環境はその周辺のものはすべてだと。だから主体をつくるためにはまずその環境りをちゃんとさえる。それがわかれば主体がどんなものかがわかってくる。大学なんてそんなことするのが役割だから、スタだったら、専任学校必要なくてですね、作家やっていてたまに学校がいいんじゃないのなんていながら、大学環境学をやっていました。

1. Simon Dresner The Principles of SustainabilityRoutledge 2008

2. 井上宇市19182009東京帝国大学船舶工学科卒業 大成建設 早稲田大学 1962年同大教授 64オリンピック代々木競技場および駒沢公園企画設計および監理において日本建築学会特別賞受賞 

3. これは当初のザハしてのコメント


建築原論環境学

八束建築というのは本来個別室内環境えるためにつくられますので、-これは布野さんの専門ですけれど-「建築学」が成立したときには、最初から、機械設備的意味でなくとも『さな』は、当然成立していたわけで、戦後になっ東大岸田日出刀さんが講義されていた建築計画学にも、今日でいうところの環境計画がほとんどっていました。その、メカニカルエンジニアリングが特化していくことによって、設備系・環境系研究室独立していったという経緯をたどっているといますけれども。

尾島もともと原論設備というのは計画学ですね、最初東京大学だと渡邊要先生なんかは計画学先生で、計画原論必要だから、太陽とかの周辺をやらなければいけないと。そのうち必要なものはかとえば、採光との関係とか、になると照明必要だとか、原論大事だということで、建築計画というのは、学問としては計画学というのは原論みたいなものが中心だったんだけれど。ところが戦後冷房暖房には猛烈にエネルギ必要になって、自立するんです。設備だけで、ものすごいお必要になるし、それだけでしい学問としても必要になってくる。そうなると、大学でも自立しないといけないからとって、構造意匠設備なんてことをしたわけだよね。そこで鈴木成文先生といつも喧嘩してたのは、計画学という学問は、原論・設備があってめて「計画学」で一体だったんですね。

布野原論先駆が、渡邊要先生とか、長倉康彦先生のおさん、長倉謙介先生ですね。昭和めの『高等建築学』シリズの一巻131934)に『計画原論』をいているんですね。「建築計画学」はその段階成立してませんよ。お外国人として、J.コンドルが来日してて、えたかというと歴史HistoryとビルコンBuilding Constructionなんですよ。するに、をどうやってててきたか、そして、どうやっててるかということですね。計画原論かったんですよ。その段々分化して「建築構造」「建築意匠」といった科目ができていくんですが、ようやく、昭和めになって、それ計画原論ができて、現在につながっていく建築学体系ができるんですね。

尾島そうなんです。建築のあるべき姿えるのが原論であるのに、なぜか東京大学がですね、吉武計画学ですね、きっと()。用途別建築学といって、計画学という学問を…

八束ブレクダウンしちゃったんだ。

尾島そう。

布野吉武先生には、建築構造学して、如何に「建築計画学」を成立させるかという問題意識というか、使命感があったといます。建築学体系にデザインとかプランニングとかいう分野をどう確保するかというセンスなんです。そのためには、工学で、論文かないといけない。用途別建築学は、施設計画学といいますが、その縦割りの問題を、この対論シリズでも度々問題にしてきてるんですが、在籍していたときにいたでは、その草創においては、分担して情報収集したがいい、という判断だったようです。結果として、学校学位論文3図書館3とか、ということになったんですね。大学のコミュニティの一定発言力るための、ある意味では戦術だったとえるといます。

尾島工学部建築学だったから、論文くために仕方なしに学問ったってことですよね。

布野吉武先生は、行列理論とか使って、トイレやエレベ規模算定をまずやられた。数式りやすい分野はやりやすかった。

八束学会でこういうことっちゃなんだけど、論文きやすいように分野をブレクダウンしちゃうのは本末転倒ですね。

布野本末転倒ですよ。学会設計計画委員会ができたのが64でしょう。オリンピックのですよ。それが計画委員会わっていくんです。それのプレッシャ内部的にあった。

八束どこからのプレッシャ

尾島内部喧々諤々だったっていう。教育委員会げて、法政大学大江先生とか日大近江先生とかが、教育委員会委員長をやったときも、鈴木成文先生徹底的議論してた。本来なら、計画学設備・原論一緒にならないといけないし、まして論文集までけられたでしょう最近

布野だいぶですけどね()。

尾島いかに人間かってことがわかりますよ ()

布野設備・計画・構造かれてしまったから、「総合論文集」っていうのをつくったんですね。それでも面白論文こないからすってで、そのわりが『建築討論』なんですけれど。

尾島文化んで、分野分野でボスができちゃったからね。でも建築本来総合的なものであるべきだし、だけど総合でといってもけるはいなかったかもしれない。ですから環境学かなんかで特別にジャナルをつくったということよりも、建築のあるべき姿建築とは本来こういうものでなくてはいけないという、建築存在するためには、周辺のこともんでおかなくてはならないという、「あるべき」をずっとやってきただけで、そういうをすると学生はずいぶんまってくるし、そのその課題というのもありますよね。だからその課題解決するために建築家えるべきなのかということを論文題名げると学生まってくるということで、だから研究室ずかしいことに、卒業生850修士250博士60だけはありないくらいにまって、特別環境学とかをやったというわけではないんです。卒業生はデザイナになったり、いろんながいますけどね。

布野井上先生建築設備木村先生建築計画原論外側都市環境という講座名前をつくられたということみましたけれど。領域げるということだったんでしょうか。

尾島水力学電気通信技術にしても、建築技術ではないものをめてこなければいけないわけですね。全部がわかる建築設備教育なんて、できるわけがないですよね。電気通信基礎まで、建築先生べるはずもなければ、その分野論文書けること自体おかしいよね。総合的にこの空間技術やらセンサやら、すべてをえられるスマンみたいな研究者はいないしね。ましてや建築先生設備だとか環境やろうとしたって、ろくなもんじゃないよね。はじめから環境技術者とか先生とかがいるわけではなく、バックアップをするための技術ぶしかない。井上先生船舶工学先生だったから、潜水艦クロズされた空間でいかにすごすかの、兵器開発した先生いた。その先生でいかにきられる環境をつくれるかを必死になってやってきた先生で、いろいろな文献やいろいろな分野体系からんできて、それを建築分野んできていた。体系だった技術だとか学問があるとは、でもえていない。 

 建築建築空間がどうあるべきなのか、どういう建物をつくったらその内部環境とどうちがうのか、にしてもにしても空気にしても、クロズすれば外側環境内側環境ってまったくうわけですよね。つくりげるということはありえないぐらいに、まわりの技術がどんどんんでいく。飛行機、ヨット、いろいろな分野技術者がいますね。なんか完璧にすごいよね。あれだけのスピドでりながら、雨漏りひとつしないですね。完璧にエアコンをして、かな環境をつくるなんてことは、のインテリアの技術からしたら、建築空調建築のインテリアの技術なんてお粗末だよね。いかにくなんてはせいぜい建築設備にもできるかもしれない。そうえると、建築環境とか設備体系化していくというのは、しい。そのことを学生えるような大学講座必要だといます。

八束のおをうかがっていると、建築計画学或いは建築学そのものだったのが、だんだん環境設備になっていっちゃっているようだけれども、はそうではないというようなおこえますね。もっと総合的技術というのか。

ー・エネルギについて

布野井上先生門病院設計手伝われて、とにかく建築というのはエネルギ使うんだというでしたけれども、八束さんがいった『成長限界』がたのが1972で、73年末にオイルショックがあって、ぼくらがエネにかわないといけないというそういう気分のときに、尾島先生はそこらにソー・パネルがったらつぶしますよ、というようなことをおっしゃっていたんですよ。あれはいったいどういう意味だったんですか。

尾島でもはソ反対ですよ。メガソー大反対

布野説明してもらえますか。するにエネルギー使いますね、ということになると、には、エネルギになるのかとったんですね。3.11以降、みんなスマトタウンとかって、ソー・パネルがのっかった住宅団地てられていますよね。

尾島だけにしてえば、やっぱりソというのは太陽電気えるですよね。太陽熱は、でも賛成です。でも、太陽光というのはフリクエンシがあるんですよ。それを電気えても、ものすごく電気になるんですよ。普通ている系統電力というのは、ものすごくのいい電力で、高等電力停電られているわけですね、日本は。それと太陽光でおこした電気をメガソでくっつける。それを調整するためのお、ものすごくおがかかるんですよ。

八束それは日本のような気候条件でということですね?

尾島そうです。

布野現在のメガソじゃなくて、戸建住宅やビルの屋根にソをのっけるのは問題だという脈略だったといます。景観のこととかもめて。

尾島全部載せていった景観だけじゃなくて、それでもって一般電力えましょうという馬鹿てくるから、その費用とメンテナンス、レヴェルからいったら“東京ではやめてくださいよ”ということですね。東京はまだ平均2.5階建なんだけども、高層階建物都心てくる。そのにペタペタっていったときに、とてもじゃないけどたない。都市はやはり都市らしい状態にしておくべきであって、農山村でソけて、くても自分電気とかまかなう、そういうのはでも反対していません。

布野太陽光にフリクエンシがあるのはそうで、に、日本がいかに停電いかということですね。

尾島それを普及させるために、48/kwhるなんて馬鹿ことをね、それをくするために全部中国製のソ輸入してね、その結果ってごなさいよ、1キロワットのソつければ、守屋牧場全滅してるわけよ。ゴルフならまだましですが。

布野かにそういうことがきてしまっているという問題はあるんですけど、やっぱり、制度をやらないと、そっちのいてかない、技術開発とかもまない。

尾島制度は、ちゃんとした電気るなら反対しない。えば、こういう電力だから、こした電力をそこで水素える。電気分解すれば水素になりますから、水素えて水素るぐらいのことをやってくれれば、48じゃなくて10くらいでおこしていかないとわないわけよ。それをるならいいですよ。 

えばね、日本森林があるから、CO26かったんですよね、でもその間伐しないと、炭酸ガスを吸収してくれないんです。その間伐200億円森林組合すということがあったんですよ。間伐をとるために、あっという森林組合っていったの。だけってそのままきっぱなしにしたわけよ。そしたらがもっとれちゃった。だってだけって補助金だけもらったんですよね。らは大反対をして、ってったをちゃんとチップかなんかにちゃんと使うとかね、だから残置材にしないでったをちゃんとってきて、ったる、めたる、という制度にしないと、本当きてこないんですよね。というをした瞬間に、ってこなくなった。

布野手間問題もありますしね。もうつだけ、ソー問題で、発送電分離とかがまって、実際いている。電力供給をフリクエンシ前提にした全部請って調整している会社結構大きくなったりしている。そういう方向もありるんじゃないですか。

尾島電気おこしても電力会社買れというと、送電網とかかなきゃいけないとかフリクエンシ調整するためのおとかもかっちゃう。それで、電力会社りを拒否するとぐわけですよ、政治的利用してね、格好良くジャナリズムがちあげる。それを阻止しようとするとになっちゃうんですよ。だから、ちゃんとした調整していくようながコディネトしていくことが必要で、バイオマスにしても再生可能エネルギをこれからやっていくとしてもね、原子力もそう、本当に、市民りやすいかたちで、最高環境維持しながら、安上りなおかつ、にとって最善方策かと、ちゃんと解説しながら調整するようなはいない。外国のやつをそのままクリエイティブだと、わっとんでやってみたらひどいねとか、あまりにもそういうのがすぎる。


サイエンスフォー・ソサエティ-建築学科位置

八束そういう、あるのゼネラリスト、コディネションをする人材養成というのが建築分野でもめられるということでしょう。環境問題でどうしてもになるのは、議論一種のポリティカルコレクトネスにいっちゃいがちだということです。元々正当なのに、さきほど先生がマスコミのをされたけれども、建前というか、偽善的議論がいっぱいあるわけで、環境だけじゃないけれども、そういうはいっぱいあるんですよね。そういう教育議論学校とか学会ではしてない。

尾島そうです、そうです、まったくそうです。

八束だから技術者養成をするという名目自体間違えてないとうけど、その技術者倫理というのを根底的なとこにってやるだけのが、めて教員充分涵養されていない。

尾島だからサイエンスフォー・ソサエティ、社会のための本当科学なのかとかね、本来あるべき姿、あるべきものとはなのか、と真面目えるような、そういう分野研究者てなきゃいけないし、関心をもってもらう。それにはびる情報がものすごく必要なんですね。最先端分野を、かといって最末端常識れなきゃだめですね。ですから、こういうさな部屋にも、最先端から最末端まで、いは歴史的縄文分野から未来までめた情報んでこなきゃいけないよね。そういう知識本当に、建築設計するたちに、ってくるための解説者教材というのは、ものすごく大事だよね、だから教材1020かに一回抜本見直しをして、勉強しようじゃないかってね。

だから八束先生もそうだけど、大学終わって10だけど、芝浦三浦昌生君とか村上公哉君とかもう一回集めてね、また勉強してる。というのはね、ものすごくわってるんですよ、価値観とか、それからその分野んだイノベション、技術ってしたときに、これまでこれはくて、こっちのほうがいいとってたのが、完全わってるんですよね、もう本当にお価値観1990年代東京土地でもってアメリカをえるような時代は、今考えるとじられないような状況で、がいっぱいあるとかでしょう。らが建築界志したのはいからといってね、てりゃいいって時代思想と、はもう粗大ごみはつくらないでくださいって、それだけ環境わってる。激変している環境して追随しながらですね、しかも都心田舎とでいますよね、要求性能も。それにあわせて追随していくこと自体大変なことでね、そういう意味で、設計者環境をいかに把握して、それを先取りしながら、なおかつ対応していくか、これだけでも、大変なことだといますよね。

八束実際にこういうことをやっているとめて政治的になっていきますよね。価値環境価値でもいいんですけど、それをどうやって評価するかというと。えば田中角栄列島改造をやった、あれは批判されるべきところはあるにしても、不当評価いといいますか、えるべき提案だったとうのですね。さっきの衡平効率かでいうと衡平にいったわけで、効率集中派だから方向なんですけど。でも、地方くと、老人はいっぱいいるけど、緊急場合医療ビスが都会のようにけられない、だからこう、という理屈ですよね、角栄のは。道理にはっている。土建屋とディヴェロッパだけをしたという総括はちょっとうのですね。ただし、それ自体はポリティカルにもコレクトなんだけど、この間何かの雑誌名古屋都市圏にも都心部周辺部でインフラのメンテナンスコストが一桁違うということがいてあって、名古屋ですらそうだとすると、地方くとさらにきくがってきますよね、そのことを格差問題とかをっかけて議論をしすと、これはめて政治的になる。コストとサヴィスのバランスを何処でとるのかみたいなことですから。こういう工学部教員ではまずしない、ということが本当問題で、四年間学部教育現場でそれをやれるかというと時間らないからしいといますけど、学校分業でもわないとうし、そういうことをやる高等教育機関というのがないと、どうものないまま各論技術的でだけで議論していくというのは、どこかで間違える可能性がある。

尾島理工学部長になったのは理工学部建築科はダメだよと建築学部にしなきゃいけないということでね、それは建築学会もそうだったんだけど、どうしても建築学部作りたいと、いうことで学部長になったんですよ。理工学部を、理学部・工学部・建築学部けましょうということで、学部長150票対50完全3学部けることにした。そして3学部けることにしたらですね、当然理・工・建かれるとったわけ、ところが若干連中はね、建築だけで入学試験就職面倒をみる労力何回るのは大変だし、理工歴史があって人集めやすいとかね、いいとこどりするとやっぱり理工学部をつけたほうがだねと、結局創造理工とか先進理工とか基幹理工とか3つの理工かれたんですが、自立しなかったんだ。

布野一応今学部になったんじゃないですか。

尾島いや、工学院建築学部作ったけど、早稲田先進理工学部建築学科

布野分野ってる?

尾島そうです。土木機械のロボットと一緒になってる。

布野完全文科省枠組みですか。

尾島学部長辞めたらすぐそんなふうになっちゃったんだけど、やっぱり建築学というのは理工学部にあっちゃいけない。理工学部建築学科がつくられた背景は、理学真理つだけど、工学はエンジニアリングだから量産する、と。だから理工学部建築学科のディシプリンは、真理つで、それにけて量産する、理工学部建築学科はそういう仕組みになっちゃうんですよ、その結果日本建築からまでおんなじやビルがち、おんなじをつくっちゃった。地域によってふさわしいものをつくるのが本来建築文化であり、そういう常識必要であった認識科学てで、認識科学法則性づいて画一的量産しましょうと、それが理工学部だしね。認識科学てであるサイエンスフォー・サイエンスの分野。ところが建築設計科学であるべきあるものの探求でサイエンスフォー・ソサエティである。

布野設計科学ったんでちた。工学系ではどこでもそうですよね。設計がいるっていうのは。内田祥哉先生なんかはそれを東大におられるときには、工学部内んに議論されてらっしゃいましたね、ただ、ほかの学科はそういう方向かなかった印象があります。

八束ヴァリュ問題ってくるということですよね。

尾島そう、価値認識多様価値認識のなかで、そのあるべきものをっかけることで設計をしていくようなね、あるべきものの探求としての設計科学本来建築ではないかということでね。そして僕自身人生が、その必要なもの、ソサエティがめるものを一生懸命やっていただけであって、そういう分野を、もっともっと忠実対応させるのが建築学科役目であって、あるべきものというのは所々全部違うし、するに真理つでも真実つじゃなくていっぱいありますと。そのえていくのが本来建築家なのかなとう。そうすると多様建築まれてくるし。

布野さっきもいましたが、戦後我々っている体制ができて、そうしているうちに、専門分化し、技術的進展がスピアップするで、原点えなくなった。はもうリタイアですけど、今我々がどういうフレムでえていくのか、尾島先生のお非常にわかりやすかった。最先端技術をどうやってめていくのか、そういうことですよね、に。

尾島様々要求性能対応する多様能力・技術我々十分もっているにもわらず、企業・産業界一律ものをつくってばらいているだけだと。それにかうというのは必要であるといますよね。

布野我々もう一回勉強しなおさないといけない。

尾島布野先生八束先生にはこれからですよといたい、これでわったなんてとんでもない、大学終わったなんて、これから本当探求でまだ20ね、頑張らないと、日本多様風土火山があり地震があり津波があり、原発危機感をしょってね、この国土我々生活環境である安全安心るためにはものすごい勉強をしさないと、その地域地域においてね。それが日本建築文化であり、いつかは日本建築文明となり世界文明一端をと期待しています。

安全安心

布野安全・安心をしていただけますか。阪神淡路大震災ですよね、先生直後建築学会会長で、まだ京都にいましたけど議論にはずいぶん参加させていただいたんです。

尾島安全・安心といっても安全安心いますということですね。安全工学部結構やれるんですよね。安心う。安心一人一人価値観問題です。一人一人安心できるような。これからいちばんきなテマで、工学的安全ということよりも、本当安心できるような環境をいかにつくるか、そのためにはどういう研究必要かというね、工学というよりもひょっとしたら文系のテマになるのかも。

八束価値問題必然的文系問題みますね。えばさっきの『サステナビリティ』のなんかをんでいても、半分位するに、経済環境がどう両立するのかしないのかっていうになって、そこに哲学的から政治的まで全部からんでくるんです。経済学といっても、開発経済学とかいうのができて結構いろんなたちがやっているけど、あれは文系でも理系でもない。相当大規模なシミュレションをやりながら環境問題めた議論をやりだすことが出来れば素晴らしいとおもうんだけど、先生のおっていると、あるレオナルド環境論環境学がっていくっていうじでそこは面白いですね。

えば丹下さんが都市工をつくろうとしたときにもそういう発想があったんですね。経済とか文系れもれた学科ろうと。ただ結局工学部えられなかった。それのらないところをうために地域開発センタをつくったんだけど、ああいうものは最初10くらいは機能するにしても、しばらくしないうちに、方向ってしまう。モデルになったはずのハヴァドとMITのジョイントセンター・フォー・バニズムも、そのうちジョイントセンター・フォー・ハウジングかなんかになっちゃう。途上国支援のプログラムならおしましょう、ということで、結局政府産業界期待ったはなしになっちゃうんですけど。そういう根底的な、をすると「国家百年大計」みたいなことを議論けるのが、非常にしづらい環境になっている。

尾島くそのりでね。やっぱり、最初はサイエンスの方向皆動いていくし。今朝ISというセコム中央研究所ってね-ISというのはインテリジェントサイエンスのことで、120先端研究者が、映像とかセンサ研究をやっている-、いまどきISを「インテリジェントサイエンス」とはまないで、「イスラムステツ」と若者えるよとってた。

 サイエンスというのも大事だけど、セコムもここまで大企業になって多方面でやってこれだけかって財団株収入だけで何億っている、それのえるなら、もうちょっと倫理制度論えなくちゃいけない。なんでISまれるの?と。テロのイスラミックとサイエンスのインテリジェント、ISでも、あっちでは、精神的なものに若者たちが身体げうってまでね、あそこにまでくことをどこかでえないと、安心っていう出来ない。そうしたららも「いや、えていました」と。じゃあ、もうすこしそういう勉強をしましょう、ということでね。

 日本えている、本当にこれからの未来日本えたときにね、中国世界のことをえ、中東のことをえて…。えたこといですね、日本若者我々は。この国土しい国土っていくためには、自分たち自身のあるべきみたいなものから議論していかないといけない。とくに建築分野っていうのは、最先端最末端だよね。建築家っていうのは最先端でやっていくべきだとうし、また、最末端もまたフォロしなきゃけないわけだから。授業でもそういうことをやってもらいたいし、やっぱりたちはその分野えていくべきだとうしね。そういうをしかけると、ってくるんですよね、みなさん。ですから、八束先生もこれからまるということで、いといますよ。やらないとね。現職後任早稲田先生なんかをていると、しすぎるよね。しくてをなくしているわけですよ。だって、明日アメリカで、あさってまたヨロッパで国際会議のために日帰りするという馬鹿なことをやっているわけでね。しかもおしかたは、そういうでしかていないから、したらられるんだ、とかね。こんなことをやっているわけですね。で、論文はいくつだして、学生にはいくつして、とか。これはね、現職せておくのは可哀想だよね。

布野先生しいですからね。

八束どんどんしくなっていく。大学11いたけど、最初最後ではしさが全然違いますね。

尾島だったら大学務まらなかっただろうな。勝手なこと出来時代とね、休講たりだった時代なんて、じゃないでしょう。

八束事務方から、あれだしてください、これだしてください、とうのをやるわけですよね。そのには文科省が、あれやれ、これやれ、というのがあるから。

布野も、休講してたりとか、適当にコー飲みながら授業するとか、いう世代です。

尾島東大はそれでかったんでしょ。

布野いや、東大えたことないですけど。助手で、設計製図はみましたけど。

八束いや、公立大学はまだ全然楽よ、私大べたら。


バベルと大深度地下

八束でも私大教員のルサンチマンやっても仕方ないので、ちょっと軌道修正しましょう。研究室では「Hyper den-City」として、時流とは逆行するのですが、超高密度都市研究をしていました。早稲田にも、菊竹ismなのかどうかはかりませんが、とそういう傾向があるようながします。それでしばらくですが先生にインタビュさせていて、丹下さんの「東京計画1960」の住居メガストラクチャすからいいとかいうおかせていて、そういう評価もありか、といた記憶があり、そういう研究をしていた学生先生の「バベル」のことを調べたりしていたのですが、そののこともおけますか?

尾島1000m超高層ビルをてるとか10000mのバベルタワをつくるとか大深度地下をどうしても必要だというとか、それは建築家がどこまで本当にやるのと。1000mタワをつくります、昨日TBSからっかけられているんですよね、バベルタワ10000mタワ模型をつくったんですよね。のためにあんなものをつくったのかというで、10000mのバベルタワをバベルという名前をつけたこと自体は、そんなもの本来はつくってはいけないと、10000mのタワなんて建築家はつくってはいけないという意味でバベルという名前をつけたんですね。それをつくった模型を、菊竹さんが92のリオのサミットにっていって、菊竹さん自身説明してくれた。92のリオのサミットの頃日本はバブルで、東京土地だけでアメリカ全土えるという、そういうときがありましたよね。バベルは山手内側10km建物てて、そしてテレビのアンテナみたいなものを10000mにすると、その骨格みたいなものの3000万人むような空間まれますという模型をつくった。それで、東京はつくる技術ももってますと。材料日本ももっているからつくれますと。でも首都圏3000万人人間10kmれたら、骨組みのところの空間3000万人住居があって、そののところにオフィスがあって、その工場があってとか、10000m上空から飛行機ばすのは簡単だからですね、飛行場があってとか。そういう建物をつくる技術日本っていますと、だけどできたらこんなになるんだからとか、これ、やめたほうがいいんじゃないのとか。するに究極のところを、あの1000m建物本当にハイパビルで建築げてつくろうとしたのですね。学会めて、200くらいの。1000mビルをつくるための知識日本はもっていたから、ドバイの建物日本技術大量使われてできた。でも1000mのビルをつくれる技術はあるのだけれども、でもそれいくところまでったら、やめたほうがいいですよと。もっといい知恵があるんじゃないですかという意味で。

くなると今度必要なんですよね。だから20世紀えると本当20世紀初頭3m建物10m30m100m300m21世紀には1000m3000m10000mと、半対数30ごとに一桁ずつがっていく。21世紀10000mきますと。のほうにがっていくと、にはずインフラが必要です。3mだと30cm10mだと1mとかね。1/10地下に、っこではないけれど、そこからとかエネルギとかいは交通とか、そういうものの供給がないと、地下系がないと地上きてこない。だから大深度地下大深度いところに居住環境をつくろうと馬鹿なことをっているのではなくて、1000m生活空間をつくろうとすると、100m地下にインフラとか交通とかエネルギとか供給しないと空間維持できませんということで、だから大深度地下は、超高層建築とバランスしている。はこうなりますとっているだけ。それから空中高くやろうとすれば、地下をどうしてもつくらなければならない。しかし地下居住空間ではなくて、インフラまります。むなら空中じゃないと。というのはやはり太陽のある空間につくった居室は、地下につくる居室べて環境工学的にはものすごく安上がりです。空中にある居室地下にある居室は、から空気からエネルギからいろいろなものを計算すると10くらい安上がりです、維持費として。 

 地下系はインフラで、地下鉄電力、ガス、通信上下水道冷温水もそうだし、連続してやっぱり地下系供給するほうが地上でのたうち配管より、地下れてしまったほうがきれいです。だから大深度地下空間は、地上1000m建物をつくるならば、地下100mくらいのところにインフラをつくらないとダメです。東京安全えると、都庁千代田区から新宿区った。阪神でもそうだったけれども、からのアプロチがないと東京のバックアップはできない。から物資をもってきて、自衛隊米軍援護からると。自衛隊災害本部都庁つくるんですよね。都庁災害対策本部で、自衛隊がそこに無線機てて、東京支援体制をやるのだけれど、それが千代田区いところから新宿たときに、都庁にそれだけの機能ってきたときに、大深度地下情報系からインフラをつくって、海側とつながないと、都庁機能維持できない。それで、どうしても大深度地下トンネルをもって、ライフラインをつくり、海側内陸をつながないとダメですよと。 

1997のちょうど学会長のときにアキテクトオブイヤで、三宅さんにそそのかされて、大模型をつくった。する環七周辺木密地がどんどんえていって、都庁孤立し、自衛隊朝霞から救護るときに環七まってしまうんですよ。本当道路啓開するのかというでもきている。

布野首相官邸朝霞自衛隊駐屯地はつながっているんじゃないですか。

尾島いや、まったくつながっていない。

八束あれは、たぶん都市伝説ですよ。

尾島まったくつながっていません。地下鉄十二号線活用話題になりますが、特別訓練仕掛けはされていません。

布野10000mバベルの、そんなのありえないとおっしゃったんですか。ちょっと新鮮

尾島10kmさのものはできますと、しかしそのための維持費計算すると…

布野ありえる、という意味ですね。大深度地下派だったんですか、当時は。

尾島大深度地下も、色々なことに利用出来れば維持できませんと。あれから20、その当時自衛隊げた資料でも自衛隊使っている。先月自衛隊朝霞訓練会場にいったら、中央防災会議資料をベスに20年前都市タしかってないんですよ。自衛隊学者しい資料供給していない。東京直下型地震のときに、東京がどうなるかという資料自衛隊まっていない。あのときにつくった模型とか資料自衛隊げたんですよ。んでもっていってね、だに使っているとか。

八束この問題は、オディエンスのさんも共通かれた疑問ではないかとうのだけれど、対論四回目羽藤さんという都市基盤工学研究者てもらっていろいろ議論していたときに、東京はよくできたメガストラクチャであるというのですね。はそれをさらにアップグレドしていくにはどうするかというやっているようですけれども、土木なので当然そこで大深度地下もやっています。それにして、3.11以降首都圏機能分散させろという議論がある。それは10000mとは対極にある、正反対なものなわけですね

         私研究室ではずっと国土計画研究もやってきましたが、日本国土計画では、効率衡平か、するに分散集中かというで、にあっちいったりこっちいったりしているわけです。きいのとさいのという二分法のヴァリエションですけれども、だいたい世論的には衡平のほうが圧倒的がいい。だから首都圏分散させろというのはけいられやすくて、でかいものやろう、集中させろというのには、だいたい反発がある。自民党だって共産党だって集中反対でしょう? 羽藤さんとは、そういうしに歯止めをかけるような議論をやると悪役(ヒル)になるよねというをしていたんです。でも議論としては両方睨んでいく必要があるとう。東京全部分散させてしまえば、災害被害分散させることにはなるけれども、それがもっときな社会的経済的政治的問題一番良解答かどうかというきな問題回避されてしまいがちなのではないかと。

            先生が、10000mのおだと反面教師であるとおえのようにこえるんですけれども、ずしも反面教師ではなくて、大深度地下問題めて、10000mがベストかどうかはいろいろな観点から検討されなければいけないわけだし、そういうバランスシトがきれいにできて一番というえはないかもしれないけれども、そういう議論は、、どちらかというと最初からけてしまっている。それは、非常危険方向なんじゃないかとうのですけど、それをうとだいたい高度成長期でしょとなってしまったり、これから日本人口減少していくんだから、なんでそんなをするんだよとわれるんだけれども、実際には首都圏はまだっていないわけですし…  

   布野ちょっとりだしたんじゃないの。

   八束ちょっとね。あれもたぶん社会的には、っていくという予想ってほしいという予想両方がある。その微妙問題だけれど。そのしては先生どうおえですか。つまり、バベルは完全反面教師としておえでしたか、いは大深度地下はそういうふうにもちろんこういう条件であればということなのだけれど、本当はそういうふうにしないほうがいいとおえなのですか。

   尾島いや、それだけの技術はありますよということをっているだけなんです。そのためのおとか、本当にやりますかとったときに、やらないでしょうと、っているだけなんです。なぜならば、東京土地代が、アメリカえるだけの価値があるとすれば、そのおをもし建築えていったら、それだけのものができてと、ただっているだけで、我々はその技術っていたとしても、それを本当にそこに使う、そしてそれを使うことによって、生活するかかどうかということをえたときに、それをやらないでしょうということをいたいだけなんです。どれだけのレベルの選択肢があるのかというときに10000mではなくて、本当1000mですか300mですかというふうになっていくわけです。それだけのことなんです。

   八束そうですね。それはできるだけくしてしまって、人間10mよりむのは不健康だからというにはならない。

   尾島はやっぱりいところもあり、いところもあり多様選択のかたちがあるんじゃなかということでクラスター構想新宿やなんかいところがあってもいいけれど、そうじゃないところはくあってほしいし、クラスタですよね、連続していところがつながると、将棋倒しみたいになってしまうので、いところがあったら、りがであればい。東京はドミノみたいになっている。環七周辺木密でつながっているから、全部になって。それを分散する、れていくというね。そういうことをもうちょっと計画的にやれないかと。

   八束れていくためにはやっぱり、部分的高密度化いは高度化必要だということですよね。らが研究室でやっていたモデルに「東京計画2010」という、するに丹下さんのヴァジョンを50年後規模拡大するという計画があります。バベルよりはずっといのですが、超・超高層部分hyper den-Cityなんです。それが本当ましい、みたい環境だとはわないのですが、安易限界けないで理論的チャレンジしてみることは重要だとえて、そういうことを「思考実験」とんでいます。いるのでここで詳述はしませんが、尾島先生のお仕事多分に「思考実験」のようながしています。これにして、設計学生たちの傾向ていると、らがいなビルディングタイプが2つあって、ひとつはショッピングセンタで、もうひとつは超高層なんです。ってらが大好きなのが木密なんですね。そういうのを卒業設計でやりたいというのがい。最初問題設定でいうと「」はいで「」が感覚的き。あれはとっても違和感があるんですね、想像力衰退れではないかと。木密にいいがあるのは否定しないけれども、それを卒計めてつくってどうするの、もっと将来いてほしいとうのです。それにして、先生がいろいろな条件がありるけれども、それをトタルでまとめていかなければならない、早稲田尾島研はそういうことでまってくるとおっしゃったわけで。あれは、さすがに早稲田はレベルがいとっていていたけれど。

   尾島木密地まいにとっては、月島のああいう木密したところもあれはあれでひとつのコミュニティがあり、まいがあるわけで、それはそれで、いいんじゃないのという意味で。

   八束部分的にはね。それはそうだといます。月島否定するもりはありません。

   尾島部分的にはというよりも、多様価値観、でもそれは連続していくと将棋倒しみたいになってしまう、ドミノがこりうるので、木密地連続していくというのが問題であって、あるまいとしてそういうものもというよりも、それがりに迷惑をかける。連続的に、それこそ原発じゃないけれど、めることができない。消防力とか組織力ではめることができない状況にはしてはいけない。抑止力をもっての許容であるべきだと。環境工学的にはだから、制御できる範囲でそれをすことはいいけれど、自由だけれど、制御できないところまでそういうものをしていいかというと、は、それはありえないんじゃないかと。安心安全から。

   八束ただ制御可能性というのも変化るわけですね、それはもう環境工学というだけではなくて、防災っているし、都市計画っているし、建築計画っているだろうし、交通工学っている。やはりトタルな視座なんですね。

   尾島そう、建築まいのあるべき姿か、分野学問かというのではなくてね。あるべき姿

   八束やはり尾島先生いただけのことはあったといます。最近そういう議論がだんだんなされなくなっているようながするものですから。布野さん、そのどういますか?

地球環境について

布野地球全体をどういうにおえですか? 気候変動パネルとか、温暖化問題とか。この、ずっと世界中議論しているわけですけど。

尾島わたしたちの日常生活地球環境は、密接わっている。これほど、日々環境地球環境がつながっている時代はないんじゃないですか、本当にね。70が、で。とくにアジアの目覚ましい発展というんですかね。それがそのまま、本当地球む。むというと問題だけどそのまま直結するほどのをやっているわけで。原単位がちょっとがるだけで、×70とかね、環境へのインパクトをえれば、地球環境がどれくらいむかということが、即計算できちゃうんですよね、デジタルに。だからGNPGDPで、中国6%8%成長率維持していきます、とったら、間違いなくそのだけ地球大気なり環境がインパクトをける。それから、消費量にしてもね、化石燃料消費量にしても、GNPGDP比例するのはCO2発生量ですよね。そういう意味で、気候変動直結する。

布野アジア、するに熱帯地域30億人増えるという予測なんですけどね。

尾島熱帯たちも冷房めるからね。冷房がないとかないから、IT作業者は、冷房がないとかないでしょ。

八束だけど、シンガポルとか台湾とか、いところにけばいくほど、冷房がキツいんだよな。設定温度18とかになってますよ。地球環境にという以前身体い。

尾島コンピュタも冷房しないとかないんだよね。

布野インドネシアにってた初期は、「アップルのコンピュタはすぐれる」とってました。

尾島精度のいいやつほどすぐれた、っていう時代ですね。でも、知的生産っていうのはものくエネルギ使っているんですね。そのもののエネルギじゃなくって、それを維持するためのエネルギっていうのは膨大でね。

八束このサスティナビリティのんでいてちょっとショックだったのは、建築てこないのね。とか、IT関係維持費維持うエネルギ問題というのは相当やられているんだけど、建築環境というのはあんまり相手にされていないというので、ちょっとショックをえた。

尾島都市というのはIT工場であってね。

八束全体としてね。

尾島そうなんですよ。建築空間のなかにITっているわけでね。ITへの電力供給めて全部建築っていて。それは都市にあるんですよね。工場というと田舎にあったんですけどね、大気汚染のためとかね。でも人間付随してITがくっついているわけですね。だからそういう意味で、ほとんど、途上国めて都市ITがあり、そこがガンガンエネルギ要求していて、という状態だから。それが競争しているわけですよね。だから、インドなんて一番暑いところでITんでね、そういうところがバンバンエネルギ要求しているわけですよね。そのままCO2発生量がり、途上国だからカウントしませんということになっているんだけど、最近ようやくカウントするようになってきましたよね。それをえる方法って、だにいわけでしょ。だから、どこまでいくかっていうのは…

布野スマホの充電なんていうのは、相当電力量でしょう。リチウム電池開発するだけですごい価値があった。

尾島維持するのにね。そういうものを維持けながら、それよりも一桁ずつがるくらいの性能をね、世界中要求して競争けているわけでしょう。ネットでもって。クラウドもんでね。そのためのコンピュタのデタセンタ設計すればわかるけれども、デタセンタそのものよりも、デタセンタまったとき、エネルギ電源喪失したときのバックアップがどうなるか、大変負荷必要なんですよね。もっとたい、しいところにデタセンタこうとしていろんなことをやってみたんだけど、やっぱりそうもかないんですね。エンドユいところにくから。だから、雪崩をうったように、地球環境へのインパクトはえていきますよね。そこで、原子力がどうしても必要だということで…

原発将来

布野最近出されたご日本世界のまほろば2』をいたんですが4、「原発立地周辺」をられたということですが、紹介頂けますか。

尾島「まほろばシリズ」という、全国都市811都市のうち620いてね、7のシリズを出版したんですけど。これをまとめて一冊で『日本(やまと)の都市世界(くに)のまほろば』として出版しました53.11津波よりも原発ですよね。1454原発立地しているへ、この2年間全部行ったんです。そこの電力会社専務常務びだして原発せてもらって、全部停止していますからね、5km30kmいたんですよ。もちろんでだけどね。 で、なぜそんなことをやったかというと、原発はまた再稼働しますよね。それから廃炉にしますよね。それがどうなるのか。原発そのものの安全のために2とか5兆円とかいう投下しているんですよ。でも周辺住民対策もないんですよね。原発守るために最後はベントするわけですね。5kmにすぐれていくんだけど、自宅待機しなさいといっても、ガンマなんか、自宅をスー通っていくわけね。だから、原発からげられるはずないわけね。東京だって、柏崎原発浜岡原発東海原発から250kmなんだよね。でも東京で、だれ原発対策のための建築っていないよね。再稼働して本来は、5km自宅待機出来るように、30km自宅から何時間後げて、地域防災計画原発対策編で、どこがか…、だけど、もそれやっていないんですよ。プラントは本当におかけてやっているんだけど、周辺してはにもやっていない。石油コンビナトもみんなそうなんですよ。コンビナトは石災法周辺地域防災計画という法律でやっているわけ。原発法律住民する法律むと、安全安心られていないんですよ。環境省三条委員会をつくってね、規制委員会でもって「世界一安全原発ります」といっているけど、5km30kmんでいる安心法律はひとつも出来ていない。棄民なんですよ。

布野避難しかしてませんよね。

尾島あるべきものをえるとすれば、放射線かられるようなシェルター的建築を、5km圏内はちゃんとつくらないとね。あるのは、原発エネルギをつかった温水ルとか、立派図書館とか、地域にいろんなものが出来てるんですよ。ところが全部今クロズなんだよ。原発PRのためのショムがいっぱいあるんだけど、全部クロズ。原発まっていて維持費ないから。これは間違っているんじゃないか、建築は。地震にはだいぶ建物りましたね。えるもね、一生懸命やったけど。54原発使用済燃料というのがそれぞれにあるわけですよ。だから、原発稼働していなくたって、そこの冷却水まれば事件になる。するにそういうことさえね、らないよね、みんな。

日本は「まほろば」だとったんだけど、原発立地は、縄文時代一番栄えたところなんです。一万年前から日本人がこの国土からまで100万人住んでいて、そのほとんどが原発立地のところなんだよね。なぜならそこは一番まれたところだったから。原発立地はほとんど国立公園であり、半島であり、われる、れて、があるところの、半島先端。そこがれがいいから、原発立地には一番良いと。だからそこにってみるとね、原発るためにいろんな民宿出来たり、でも5000くらいいているんですよ、まっていても。原発維持するために、やしけないと。そこの使用電力10%は、ポンプで冷却けている。だから、でも、常時、ピクのときの40%20003000たちがいる。そのたちのいろんな施設があって、そして、宿舎もね、素晴らしい宿舎が。水洗便所と、しかも食事がおいしくて、いところが一杯ありますから。みなさんも原発立地きなさいよ()。

布野こうかな()。

尾島原発立地くことが、地域にとってすごく刺激になるし。ったところは全部線引いてあります。やることは日本はまだ一杯あって、原発放射線からる。東京だってそうですよ、250kmにありますからね。プリウム(放射能のある)がんでくるわけですよ。東京でも原発放射線からるための建築れと。でもだれもやってないよね。そういうことさえらないで、環境学ったってですね。なるSOx硫黄酸化物)とかNOx窒素酸化物)もさることながら、原発放射線からも建築はどうるのかとかね、そういうことも真面目えないといけないですね。公共建築避難所になるわけですね。そして、何分で、何時間げなさい、というのがシミュレションであるわけですよ。スクリニングしてね、そういうところを研究していない、建築はね。だからなくとも、って、そこで議論すると。津波のために22mが、浜岡原発にしてもね。あなたがた原発行くと全部ウェルカムだからね。必死になって案内してくれますからね。反対されるのいからね。電話一本でどうぞどうぞ、なんてね。だから状況理解してもらって、けるわけにはいかなくて。ということで、その、日本はまほろばの土地であるにもかかわらず、そこに54原発ね、あと65までろうとしているけれども、それは全然死んでないからね。これから10010001万年するに縄文時代から現代までとじだけの1万年はまだ使用済燃料めてえていかなければならない。どこにもっていけませんよ、所村だってね、全部オフリミットだからね。廃炉にするだけで100200かかるんですからね。だからね、建築たちも、その場所、その周辺5kmはこういうことで、って法律まで出来ていて、まで。そのがどこにげるかまで、本来はアテンドされているんですよ。島根原発対策一番良出来ているですよ。

布野出身島根松江ですけど…

尾島中国地方で、松江だけが唯一県庁所在地原発があるわけですよ。

布野市内にあるようなものです。鹿島町体育館のコンペの審査やったんですが、温水きで随分リッチな予算でした。

尾島そこに、放射能対策はやっていないでしょう? えもしなかったでしょう? 5km間違いなくベントしたら危険ですよ、とってるわけですね。で、ベントする条件前提で、再稼働許しているわけだからね。だったら建築家対策えていないことは異常ですよね。広島原発放射線にうるさい。広島中国電力本社があるから、地域原発対策編で、5km30km人々がどこにげて、どこに退避するかがまっていて、中国五県協力してこのたちが、この場所げますとか訓練までって、げる協定ができている。そして、訓練までやっている。

布野まず、防波堤をすごいいでてました。ダンプが渋滞起こすくらいの。

尾島しかもあのりは縄文宝庫だった。

布野そこまでないんですよ。出雲だけど…

尾島いや、今行ってください。あなたは地元らないんだよ。だって島根大学構内縄文遺跡でしょ? むちゃくちゃにあそこは縄文巣窟なの。

布野荒神谷とか。

尾島それは刀剣古墳時代でしょ? それはせいぜい2000年前なんだよ。島根原発のあたりは1万年前生活空間がすごくっている。

布野勉強します。SOxとかNOxというがありましたが、中国から大気降下物として水銀ってくる問題はいかがですか。

尾島そりゃでしょ。中国から黄砂だけじゃなくてものすごいんでくるんだから、あれはもう30年前から、蘭州黄砂にはSOxとかじっている。だからそういうこともふくめて、地球、アジアがつながっている。それから一番怖いのは中国原発だよね。韓国原発台湾原発。そちらの日本がいくら安全にしてんでくるんだからね。

布野韓国26、これは全部蔚山周辺日本海側なんですよね。

尾島原発調査日本がやめましたということで、政府がコントロルできないからやめるとかやめますということ。日本原発規制現場とは感覚う。福島のときはモニタリングポストの2524までれてしまってつかえなかった。でもだにそれを使ってげる場所めますとかやっている。するに政府ったとおりげてくれないとこまるから。現場ったらわかりますよ。現場たち、福島たちが一番詳しいですよ。放射能れとかね。そんじょそこらの学者よりは、地元住民自分子供のためだから、真剣勉強していますからね。福島のおさんたちの原発する学力たるやすごいですよ。だからそういう現場きながら、建築家としてどういう避難場所をつくるとか、せめてそういうことしかできない。せいぜい、その状況ぶことからめる。だから3.11以降教材全部書きなおそうと卒業生めた勉強会をやっているわけ。いいしたじいがやっているわけだからさ。えてくださいよ。

4. 日本世界のまほろば2-原発立地周辺中央公論新書 2015

5. 日本世界のまほろば-えるもの、すもの、そしてること』中央公論新書 2015

質問

八束一応ここまでとして、会場からご質問を。

古瀬敏静岡文化芸術大学名誉教授):セコムのたので最後つだけおきしたいのですが、セコムというのは、日本橋問屋さんイイダさんという御兄弟戦争野原になったときに、耐火建築をつくってと復興のときに耐火建築をみんなつくりめた。そして、高度成長になって近代建築高層建築街になっていく。それまでコミュニティのおいのいていたのだけどそれがかなくなってきて、そのうちの息子さんの一人が、防犯のベルをおいにつけたらいいんじゃないかと、自分えてつけてください、とこされた企業なんですね。今日のお最初近代建築が、エネルギ一緒使うというところからめたというとか、戦争のときにないから、もう一度環境制御するえられたというのは、じようなじでおをうかがっていた。かったというのは、商人ですから、どうやってそれをビジネスモデルにして商売けるかというのを熱心えられたようです。そこでおねしたいのは、今日学識んだ、とても素晴らしいおなんですけどそれを現実にしていくのは、らかのビジネスモデルにしていく作戦といいますか、そういうのが必要かとうのですが、かおえのことありますか?

尾島セコムの飯田=まこと)さんと30年前くらいにずいぶしたんですよ。はその大学先生嫌でね。辞表したんですよ。事務所実際持っていたしね。実学をやりたかった。でも、飯田さんと議論したにね。ま、建築はひどいよなと、あんなない建物平気でつくってさ、というからめてね。もっといい学者要求をきちんとせる学者建築学科にいてくれないとるよね、おれは実践者行為をやる、おまえ、しゃべれ、問題指摘しろ、学者はそれでいい、やれるかどうかは実業者のおれたちの仕事で、おまえは一生懸命建築問題点してしゃべれよというをして、それからはセコム財団研究費選考委員になったわけです。でもやはり学者研究して提案けなければいけないとう。行為をやれるような実業家はたくさんいる。もうかるからね。問題はやっぱり、必要なのか、あるべき姿はどうなのかをクリア指摘して、要求条件ける学者なり、研究者なり、仲間をもっとてていかないといけない。

   古瀬大学ないし、学会ないし、人間けろと。めるはいるだろうからして、局面でやることはたくさんあるからと、そういうかと。

尾島そうなんです。だから飯田さんとの関係でもそういう関係。それでまた、どういう研究者におったらいいか。飯田さん、ぐのも大変だけど、るのはもっと大変本当えているに、ちゃんとしたおれるかどうかは大変だよ。文科省のおって、民間一生懸命稼いでくれたおをね。最近年齢はずして、そして理工系っていたのを文系にもろうという提案をつい先月飯田さんにした。原発までタブだったけど、原発立地ってて、そういう分野でも、社会的なことをえているにおってもいいかねというをしたら、けてはれない問題だから是非やれよというになった、そういうです。

   古瀬わかりました。どうもありがとうございました。

   八束に、もいらっしゃるけれど。

   小幡敏信本田技研工業):どちらかというと後半えばソとか環境工学のコンセプトのしが一番印象っているのですが、大震災けてから環境わってそれにわせてやっている。本当はやりたいことと建築学とふたつがあるようながするのですが、本当歴史とか建築のコンセプトについてやりたい。しかし、実際には、おとか価値観とかどうしても利益だけ追求ることがめられる。テクノロジとか経済学とかが優先えられてきたのは、ピュアな建築学としての歴史、コンセプト、そのがれてきた建築学理論いでめてそれを発表することですね。建築分化していったものをまとめなければならないということはあたりまえです。ただ、いろいろなものをて、文学とか経済学とかいろんなことを必要がある。本当建築学科一辺倒にするならあらゆる学問える必要があるのではないかといます。建築家必要学問だけ、設計するだけ、技術だけべばそれで充分だということではいけないといます。ジャンルにこだわらないで、いろいろな学問俯瞰して必要なものをセレクトしてしいルルをつくるということですね。学問総合化学問のリベラルアツというのか、そういったやわらかい学問やすことによって、建築というまることなく、いろいろな学問修業していくことが、しい建築学としての展望があるとえています。

八束質問というよりは、ご意見ということですかね。には?

川島範久東工大助教 安田研究室):今日のおで、サイエンスフォー・サイエンスではなくサイエンスフォー・ソサエティだというだったとうんですね。その制度設計というのがとても大事だというになっていたとうのですが、尾島先生としては、実際環境政策というのはどうなっていくべきだとえているのでしょうか。えば、日本でいろんな人々議論できないのも、ある一定前提条件ができていない、これは当然やるべきだよねということも整備されていないと、となくっているのですが、そういった環境政策して尾島先生はどうなっていくべきだとえていますか?

    尾島排熱都市をあっためて、最後公害熱公害だということで、すべてのエネルギになりますよね、熱力学法則で。で、てくるのはヒトアイランド現象問題で、『くなる大都市』を1975いたんですよね6。それは、1970大阪万博地域冷房をしたのはいいんだけど、そのはどうなるの、と関西学者にたたかれたんだよね。そののインパクト人間生産行為のすべてのインパクトえないといけない。えば、地表から建物建ててえたときに、太陽からの熱吸収う。これが一次破壊系。そこに化石燃料使ったら二次破壊系やしたら三次破壊系完全量化できますよね。すべてのエネルギ大気めますよね。ということでヒトアイランド問題をずっと40年続けているんですよ。熱公害というのはSOxとかNOxとか大気汚染は、フィルタ除去できる。でも、エネルギ除去できないんだよね、どうしても。だから最後公害は、熱汚染だとって、それをライフワクにしていた。そこに、原発がでてきた。までは放射能えなくてよかった。原子力エネルギ太陽エネルギなんだよね。太陽からも放射能はたくさんているんですよね。たまたま地球はバリアしているだけで。その太陽のもとのエネルギ原発で、地球場再現して利用している。原始から原子へとったのはそういうことなんですよ。その放射能いしていて、制御できない放射能んできたので、原子力放射能をいかにめるのか。それはCO2問題めて、ヒトアイランド現象原子力による放射能汚染をどうバリアするかというと、時間減衰するのをつか、空間距離でもってバリアするかどちらかの方法しかない。原発一万年廃棄物使用済燃料めて原発立地のところでらなければならない。放射能から我々るためには、距離をおくか、一万年らなければいけない。その方法はなんなのかというと、原発鎮守でもって、しい神様るとかそれを氏子つくるとかいうことしかない。それほどきな問題だった。環境汚染熱汚染をやってきて、のライフワわったとっていたら3.11以降放射能汚染てきて、もうちょっとき、わなきゃいけないのかなめている。

   川島それはつまり、原子力のことはある意味れたうえで、それにして、どうかうのかということですか?

   尾島れたくなくたってやらなきゃいけない。戦争廃墟になった自分をなんとかしないといけなかったのとじ。原発賛成しているわけではない。

   川島そうですよね。ほどの一万トルタワじですよね? それがいいとかとかいうに、そういったものが…

   尾島そうです。問題真正面からかってみないとわからないよね。だって学者ってかってみないと。

   布野キャスビーCASBEEとかそういう評価基準制度問題きたかったのではないですか? 村上周三先生がやられている世界みたいな。

   尾島は、村上先生尊敬していますよ。ああいう真面目すぎるほどに…、ただあえてうならば、アカデミックなレベルのところでめてしかったのだけど、行政レベルの基準をつくっているから。本来学者だから、本当学会基準くらいを環境面でつくってしかった。行政基準をやるとぎてしまう。だから、から本人にもっていますが、やはりアカデミックな分野でもっといろいろなことをってもらったがいい。行政基準としていろいろな基準法をつくっていくのは社会問題もあるんですよね。それはそれとして、民度からしたら性善説じゃなくて、性悪説って基準をつくらねばという立場もなきにしもあらず。でも、ああいうがいるから勝手なことをやっていられるともえますね。そういう意味では、との関係はいい関係で。

   八束毎度もう時間しいなというところでわってしまいますが、今日一応ワンコわったということで、できればそのうちにしたいという布野さんとしています。最終回尾島先生をおえして、予想通りというよりは予想えてきな課題布野さんにまでげかけられたといました。

   尾島それをってもたんです。秀才・奇才しいままにしておられるお二人にもっと頑張れと、いうつもりでたんです。

   八束発破をかけられてしまいましたね。うございました。

6. くな大都市NHKブックス 1975

文責八束はじめ)

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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...