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2021年5月31日月曜日

建築のポストモダンと「間」,KAWASHIMA 17,198506

 建築のポストモダンと「間」,KAWASHIMA  17198506(布野修司建築論集Ⅰ収録)


 

建築のポストモダンと「間」[i]

 



 

現代建築の中の「間」

 建築の「ポストモダン」と「間」。いささか唐突な取合せに思えるかもしれない。第一、「ポストモダン」という概念にしろ、「間」という概念にしろ、実に曖昧であり広い。概念規定を明確にしないでいきなりつき合わせても話にならない。それに、全く別の脈絡において使われている概念であり言葉である。一九七〇年代末、建築やデザインの領域において実に素朴な形で不用意に使われ始めたポストモダンなりポストモダニズムという言葉は、八〇年代を通じて、あらゆる領域に拡散し、知の最前線における最もファッショナブルな概念となった。ポストモダン現象とかポストモダンの気分とかいった形で、最先端の風俗や現代消費社会における新しい感性を言い表す言葉として用いられた。しかし一方、「間」は専ら日本の伝統文化とのかかわりにおいて、その特性として論じられるのが一般的である。二つの言葉の用いられる脈絡の間には一見なんのつながりもなさそうに思える。

 しかし、少なくとも現代建築の動向にかかわって、「ポストモダン」と「間」の概念の、それこそ間(あいだ)を問うことは、それなりに大きな意味をもっていると言わねばならない。なぜなら、建築やデザインの領域においては、「ポストモダン」と「間」をめぐって明らかに共通の一つの問いが存在しているからである。それは近代建築の理念や規範に対する批判の根底にかかわる問いである。

 建築における「ポストモダン」という概念が、単に新たなファッションとしての様式にかかわる概念であり、それも近代建築の絶対的様式としてのインターナショナル・スタイルに対する批判として提示されてきた諸様式を包括し、総称するものでしかないとすれば、何も「間」という概念を引合いに出す必要はないであろう。

 しかし、建築における「ポストモダン」をより根底的に、近代建築を支える時空間のあり方や概念に即して問題にしようとすれば、当然「間」の概念は大きな問題となる。「間」の概念は、少なくとも、近代的な時空概念をとらえ直す一つのモメントを与えてくれるはずだからである。

 「間」の概念が、今ひとり建築の領域に限らず、むしろ一般的に問われつつあるのは、現代社会の時間空間のあり方にかかわっているからである。そこには明らかに共通の問題意識があるはずである。しかし、それにもかかわらず建築のポストモダンをめぐる議論において、「間」の問題が必ずしも掘り下げられていないように思えるのはなぜか。何もここで「ポストモダン」という言葉自体にこだわる必要はないのかもしれない。問題は「間」のとらえ方である。しかも、「間」のとらえ方自体に、建築のボストモダンをめぐる議論のアポリアが示されていることは指摘できるはずである。

 日本の建築家の中で、最も意識的に近代建築批判を展開してきたのは磯崎新である。その七〇年代における、手法論、引用論、記号論を軸とする建築論[ii]2を集大成するのが「つくばセンタービル」図①(一九八三年)である。「つくばセンタービル」は、そしてわが国において初めて大規模な公共建築において実現されたポストモダンの建築であるとされる。「つくばセンタービル」[iii]3をめぐって論ずることは多い[iv]4。

 一つのテーマは、まさに古典主義建築、近代建築の原理がそうであるような、透明な一つの原理によって全体が支配されるのではない方法である。磯崎はそれを新たに分裂症的折衷主義(スキゾ・エクレクティック)[v]5などというのであるが、例えば、ケネス・フランプトン[vi]6の「ディスジャンクション」[vii]7という概念によりながら、「一個一個の構成要素は、別な系に所属しているような断片で、その断片が不連続に連続しているようなものとして」建築を組みたてるという言い方をする。この「物と物とが接続されているんだけれども、それは連続していない」という方法意識は、おそらく「間」の概念とかかわりをもつ。磯崎のこれまでの理論展開における切断の手法、引用という方法自体もおそらくそうである。

 ルーブル装飾美術館で開かれた展覧会[viii]8(一九七九年)のチーフ・プランナーとして〈日本の時空間-間〉というテーマを磯崎新が選定したとき、必ずしも、そのそれまでの方法概念と「間」の概念が結びついていたとは思えない。ジャパネスク[ix]9といった言葉がもてはやされる中で、磯崎自身、〈日本的なるもの〉としての「間」を具体的なものとして意識していた節がある。そして、その後も、「間」の概念は彼の中で必ずしもウェイトを占めてはいない。知られるように、彼が引用するのは徹底して西欧建築のコンテクストにおける断片である。ルドゥー、ジュリオ・ロマーノ[x]10、ミケランジェロ[xi]11と「つくばセンタービル」においても、彼のいう「様式の廃墟」[xii]12からさまざまなディテールや手法が寄せ集められているのであるが、日本的な様式、表現はむしろ意識的にしりぞけられている。〈日本的なるもの〉の表現のステレオタイプ(例えば和風といえば屋根のスタイル)に直接的に結びつけられ、全体構成を支配されることを嫌うからである。彼が「間」という概念を無意識的に避けているのは、同じようにそれが直接的に〈日本的なるもの〉のコンテクストに結びつけられてしまうからであろう。

 しかし、磯崎が個の感性において、歴史的社会的コンテクストを無化して、異質なものを並べるとき、そこにあるのは「間」の感覚である。磯崎新について、ありとあらゆるものからの距離を測ることによって自らの位置を定めるそういうタイプの作家であると評した[xiii]13ことがあるのであるが、彼の引用を支えるのもその距離感である。

 「間」の概念を日本独自のものとしてとらえ、伝統芸術の流れの中に芸道の成立とともに「間」の概念の成立をみる西山松之助[xiv]14は、「間」を「時空を切断したところに生じる距離感」であると定義する。もしそうだとすれば、自分自身が意識すると否とにかかわらず、「間」の概念は磯崎新にとって重要な意味をもっていると言えるはずである。

 伝統的な茶室や数寄屋における手法を現代建築に生かす形で「間」の概念を意識する建築家は決して少なくない。しかし、「間」の問題を〈日本的なるもの〉をめぐってこれまで歴史的に積み重ねられてきた脈絡から解き放って、より広大なコスモロジーにおいてとらえようとする試みもないわけではない。「相の間」「鏡の間」、「幣の間」というタイトルで作品を発表し続ける毛綱毅曠[xv]15がそうである。松岡正剛もまた、独自の宇宙論に基づきながら、「間」についての大胆な仮説を提示する[xvi]16。おそらく、「間」の概念は現代建築にとって大きな可能性をもった概念である。

 

 「間」とは何か

 

 ・間は一つの全体性を持つ

 日本語の間という言葉は実に多様に用いられる。しかし、必ずしも、それが多義的であるとか、多くのコノテーションをもつということではない。多様な用法を統一するものとして間の概念が存在する。すなわち、間の概念はさまざまな用法の総和によって規定されるのでも、分析的に規定されるものでもない。他の概念で置換え不可能な全体性を持った概念としてとらえられるべきである。

 

 ・間は時空間を一体化する

 間はまず空間的隔たりあるいは広がりを示す概念として用いられる。物理的な隔たりの尺度(一間〈けん〉、二間〈けん〉…)あるいは特定の境界づけられた空間的広がり、場所、室、部屋(居間、茶の間、土間、床の間、間を借りる…)を示す言葉として用いられもするが、一般にはあるものとあるものとのあいだの隔たり(柱間…)あるいは広がり(すきま)を意味する。

 間はまた同様に時間的な隔たりあるいは持続を示す概念としても用いられる。一定の時間的間隔や特定の持続的時間(寝ている間、留守の間…)にも用いられもするが、一般にある時(刻)とある時(刻)の合い間(少し間を置いて…)あるいは目的化されない時間、暇(~する間もない、間をみて)、さらに持続的時間の休止(間を置く、…)といった意味で使われる。

 間の空間的な用法と時間的用法のあいだには以上のようにアナロジカルな関係がある。一般的には、空間的な間の概念が時間についてもアナロジーとして用いられると理解される。しかし、間の概念は必ずしもその空間的用法と時間的用法をあらかじめ分けて、そのあいだにアナロジカルな関係を明らかにすることによってとらえられるわけではない。そこでは、時間的な間もまた空間化されており、空間的な間のみが問題とされているにすぎない。間に合う、間が悪い、間がもつというとき、明らかにどちらかの用法と特定することはできない。双方を一つにした用いられ方である。

 
 ・間は、意味(イメージ)の構造にかかわる

 時間的空間的な隔たりや広がりにかかわる間の概念は、それを基礎として、心理的な隔たりや広がり、意識の流れ(持続)と切断についても同じように用いられる。ものとものが接している場合にも間が意識されるように、間は必ずしもフィジカルな意味での時間、空間の隔たりや広がりにかかわるのではない。あくまでも距離の感覚、隔たりの意識にかかわっている。

 そうした意味では、間の概念はものそのものにかかわるよりも、ものの意味やイメージにかかわり意味空間あるいはイメージ空間における差異、距離の感覚により深くかかわっていると言っていい。現象学的精神病理学の立場から「間の哲学」を明らかにしようとする木村敏[xvii]17は、「もの」と「こと」を区別し、それぞれの存在する場所を問う中で、「もの」が具体的な空間、時間の座標においてとらえられるのに対して、「こと」という意味は、ものとものとの「あいだ」、ものと私の「あいだ」といった「あいだ」にこそ存在することを明らかにする。そして「あいだ」に存在する「こと」を伴わない「もの」などというものは存在し得ないことを主張する。そうした脈絡において、「こと」という意味の存在するのが間である。

 

 ・間は関係性にかかわる

 間はそれ自体では間ではあり得ない。あるものとのあいだであり、ある出来事とある出来事とのあいだである。広がりや持続といっても、始めと終わり、端(境界)と端(境界)によって初めて規定される。そうした意味ではあらかじめ関係性を含んだ概念である。

 世間(よのなか)、人間という日本語の用法が示すのは、間の概念が社会的関係においても大きな意味を持っているということである。そこには、人や世の中をあらかじめ関係性、間柄の論理においてとらえる日本人に特有な人間観、世界(社会)観が示されていると言ってもいいのであるが、しかしより一般的にそこにあるのは相互主観性をめぐる哲学的な課題である。

 
 ・間の感覚は世界内存在の本質にかかわる

 間と存在は不可分であり、われわれは間そのものを生きていると言うべきである。間の感覚がなければ、離人症や分裂病の症例が示すように、存在は存在たることが不安定となり困難となる。時空の認識や自他の認識は失われてしまう。

 こうした理解のレヴェルにおける間は、すなわち世界内存在の本質にかかわる間は、知覚や認識の基礎として一般的で共通なものである。言うならば、存在たらしめる「共通感覚」が間の感覚、「あいだ感覚」(木村敏)なのである。

 

 ・間は、世界観、宇宙観に密接にかかわる

 間の感覚が人間存在にとって共通に本質的なものであるとしても、間のあり方、間のとり方は、文化的、歴史的背景を異にすることにおいて多様でありうる。間のあり方、間のとり方は、世界とのかかわり方そのものにかかわっており、そうした意味でわれわれの世界観、宇宙観、社会観、自然観、時空間観に密接に結びついていると考えることができる。

 

 ・間の感覚は身体性を基礎とする

 間のあり方、間のとり方は、それは具体的な身体に根ざしたものであり、抽象的一般的にとらえられるものではない。間の感覚は身体感覚である。

 

 手法としての八つの「間」

 間そのものの存在を強く意識化すること自体が日本文化を特徴づけ、そして、そのこと自体が日本人の世界観、自然観と密接にかかわっている。そうしたことを、さまざまな「間」を通して次に考えてみたい。

 

 ・抒情の間--イメージ空間

 間そのものが日本人にとって極めて大きな意味をもっていることを示すのは日本語そのもののもつ「間」の構造である。剣持武彦[xviii]18によれば、日本語においては、語と語、文と文、表記と音のそれぞれの間、また音節構造における間が決定的な意味をもっている。つまり間はことばとことば、イメージとイメージのあいだに存在する抒情空間であり感覚空間である。こうした空間(言語外的空間)を豊かにもっていることが日本語の特徴であり、そうした意味で、日本語はイメージ言語であり抒情的な言語であるというのが剣持の主張である。

 日本語における間は一つにはことばとことば、文と文の関係を明示しないで〈省略する〉ことにおいて示される。そこでの間は、単なる音と音、形象と形象のあいだの空白ではなく、イメージとイメージが連想によって〈無尽化〉していく場所である。また、日本語の間は、それぞれのレヴェルの、そして様々な感覚(聴覚、視覚)が複雑に絡まり合う間である。意味、イメージの伝達される場所が間であるとすれば、日本語の間の構造はそれを裏づけているといえよう。

 

 ・空白の間--余白の美、沈黙の美、無音の美

 間そのものに特別な価値を置く日本人の意識は間についての独自の美意識を育てあげた。空白そのものを美とし、余情、余韻を楽しむ美意識である。「せぬところが面白き」(『花鏡』[xix]19)、「打たぬ所に聞くなり」(『禅鳳雑談』[xx]20)、「白紙も模様の内なれば」(『本朝画法大伝』[xxi]21)と言われるように、日本の伝統芸術における美意識として、共通に指摘されるのが空白そのものを美とする意識である。空白の間は基本的には抒情の間と密接にかかわりをもつ。しかし、そこに精神的な意味合いが込められ、日本的な宗教意識と結びつけられることにおいて独特である[xxii]22。

 

 ・緩衝の間、調整の間、余裕の間

 間の概念は抒情空間や余白の美と結びつけられる一方、日常生活における具体的な機能をもっている。関係を明言したりせず、曖昧なまま空白とすることによって、対立的、競合的関係を調整する間の感覚がそうである。ここでもまた、曖昧さの美徳あるいは義理、人情、甘えや控えめの感覚といった日本人の心性とのかかわりで間の感覚がとらえられるのが一般的である。異質なものと異質なものとのぶつかり合いを回避する緩衝の間は、俗に余裕(ゆとり)の間としても意識される。

 

 ・閾(敷居)の間--結界の間

 床の間において床が場を規定する例が示すように、閾は決してフィジカルなものではない。注連縄一本で聖と俗を分けるそうした感覚が閾の間である。具体的な行動を物理的に制御する閾ではなく、象徴空間における閾である。

 日本にはそうした意味で、境界にかかわる多くのデザイン要素がある。商家の帳場における結界、密教寺院の内陣を分ける格子、門や鳥居、盛り塩、茶席における蹲踞、手水、青竹、簾、几帳、衝立、襖、障子、そこには、共通に閾についての美意識、結界の美をさまざまにみることができよう。日本の結界は、決して二つのものを完全に分離するのではない。二つのものを分けながら、例えば視覚的には結び合わせるものである。切断の概念が切り離すと同時に関係づけるものであるとすれば、閾の間はそうしたものである。

 

 ・ずれの間 不即不離の間

 間は、一般に、「微妙なタイミング(間隔)」、「何ともいいようのない距離感覚」を言い表す言葉として用いられる。そこでの間は、通常、基準となる感覚(常間、定間)とのずれの意識にかかわっている。日本舞踊においては、三味線による曲の間を基準として、舞踊がそれにぴったりと合いすぎることは定間としてしりぞけられる。しかし、だからといって、全く合わない度外れな間では芸にならない。定間との不即不離の微妙な感覚が間とされる。

 
 ・基調の間、定(常)間

 ずれの間の前提となるのは基準となる間である。しかし、基準となる間は決して部分の間ではない。

 歌舞伎が、複雑に異なった種類の間を内に抱え込んでいるというとき、その間は様式、リズム、型の概念に近い。対話を基調とする狂言の間は、日常的な行動の間を規範とし、能の間は一方で音曲的な間でありながら、能面の微妙な変化をみせるゆったりとした動きを基調とする能面の間でもあるという間は、全体的な動きのリズム、調子、型を意味する。

 

 ・構成の間

 基調の間は諸要素の全体的構成について漠然と言われるのであるが、諸要素の時間的空間的配列の全体を細かく規定するものとしての間の概念がある。そこでの間は、時間的あるいは空間的に特定でき。明確な構成概念としてとらえることができる。

 能楽あるいは近世邦楽は、そうした間の概念を精緻に発達させてきた例である。二拍子の拍節における第一拍と第二拍を意味する表間、裏間、一拍の単位の設定にかかわる大間・小間、記譜上の概念としての半間、三ツ間、常間、テンポにかかわる遅間・早間そして元の間、転け間、さらに本間、ヤノ間ヤヲハノ間など実に豊富な間の区別をもっている。蒲生郷昭[xxiii]23によれば、「音楽のリズムを拍の頭と頭のあいだの時間的距離という観点から演奏の次元で把えた概念」が間である。

 空間的な構成概念としての間の例として、西山松之助の挙げるのが茶道の秘伝書『南方録』[xxiv]24におけるカネワリの法である。お茶の道具の並べ方を細かく規定したのがカネワリの法である。カネとは曲尺であり、空間的寸法体系としての間であれば、さらにいくらでも挙げることができる。木割り、畳によるモデュール、殊に、茶室、数寄屋において、日本建築は精緻な寸法体系を発達させてきたと言っていい。

 

 ・身体の間 パフォーマンスとしての間

 間が決して時間的空間的配列そのものとして、すなわち客観化しうる形で理論的にとらえられないとされるのは、それが理論と実践という言い方をすれば、より実践にかかわる概念だからである。間は楽曲と演奏という例で言えば、楽曲のリズム構造や型にかかわるのではなく、明らかに演奏上の概念である。ラングとパロールという比喩を用いれば、パロールであり、間は、具体的なプラクシス、言うなればパフォーマンス(演技、演じられ方)にかかわる概念と言ってもいい。

 そうした意味で、間は具体的な身体にその基礎を置く。そしてまた、それ故、本来個別的なものである。「間は持って生まれたものだ」とよく言われるのはそのことを示していよう。日本の礼法、あるいは動作特性にかかわって間が問題とされるのはそれ故にである。雅楽、能楽、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、日本舞踊といった舞台芸術、邦楽や大衆芸能、武道や茶道など日本の文化のあらゆる領域において、共通に用いられる間の概念が究極的には身体の間を基礎としていることは容易に理解されるはずである。

 
 デザイン・ヴォキャブラリーとしての「間」

 以上の脈絡において、いきなり間の表現、間のデザインを問題とするにはかなりの落差がある。既に間の手法にかかわるいくつかの概念は提示されていると言ってもいいのであるが、そもそも間を手法として扱うこと自体、また間を実体化し、その表現問題とすること自体、間の概念のもつ全体性からみれば大きな歪曲である。しかし、あくまで、空間的な配列の問題をその思惟の出発点にする建築家にとってそれは宿命であり、本質でもある。その歪曲、限界を以上において確認した上で建築家にとっての間の概念、間のデザインについて以上から導かれる範囲で思うところを列挙してみよう。現代建築の具体的な作品についての分析は後の作業とせざるを得ないのであるが、以下は、そのためのとりあえずのメモである。

 

 a 間のデザイン(間の概念に基づくデザインの意、以下同様)は、(まさに磯崎新が「つくばセンタービル」において意図したように)、全体が単一で透明な構成原理によって支配されるデザインではない。

 

 b 間のデザインは、しかし、分裂症的でも単なる折衷主義でもない。一つの全体性をもつ。その全体性は、単一の様式や形態によって部分が支配されるようなものではなく、構成概念としての間を基礎として、それを重層化させた上に成り立つものである。

 

 c 間のデザインは、意味やイメージが重層化される空間をもつ(建設のポストモダン論はおおむねこのレヴェルでのみ展開される。C・ジェンクスのポストモダニズム建築の定義(条件)としての二重のコード化も、意味の重層化にかかわっている)。しかし、それは単に様々なイコンや装飾がちりばめられた空間なのではない。要素し要素がレヴェルに応じた間をもちそれに五感の間がクロスする空間である。

 

 d 間のデザインは、時間の概念を内包することにおいて、歴史感覚をその基礎とする。また、世界観、宇宙観が当然その基礎となる。そして、それが間のデザインの全体性を支える。

 

 e 間のデザインは、その重要な要素としてずれの間をもつ。また、ずれを含むための前提として基準の間をもっていなければならない。

f間のデザインにとって境界のデザインは決定的な意味をもっている。あるいは、手法としての切断の概念は、間のデザインにとって重要な意味をもっている。

 

 g 間そのものの表現手法としては、様々なものを考えることができよう。〈省略〉、〈緩衝〉、〈調整〉、〈媒介〉といった概念も具体的な空間構成にかかわる手法としてとらえ直すことができるはずである。基準としての二つのもの(A、B)によって間を示す手法も、A、Bが空間的に離れている場合、ABが接する場合、ABの間に特定の関係(順序やルート)がある場合によって様々である。ABが同質であるか異質であるかによって異なる。そこには多様な手法、多様なデザイン・ヴォキャブラリーがあり、また発見される必要がある。ただ、そこでも問題は、単に部分としてのデザインではなく全体の間である。

h間のデザインはもちろん個の身体性に基礎を置く。数寄屋における微妙な寸法感覚が○○流という形で建築家名を冠して評されるのは身体の間にかかわっている。間のデザインにおいては、具体的な制作(設計施工)のプロセスにおけるつくり手の身体の介在の有り様は大きな意味をもっている。また、リアライズされた空間についても、受け手の身体感覚を第一の基礎として評価される。そうした意味では、相互身体性を基礎におくのが間のデザインである。

 









[i]1 拙稿、『        』 七、一八八五年五月

[ii]2 『手法が』(一九七九年)、『建築の修辞』(一九七九年)、いずれも美術出版社。

[iii]   筑波研究学園都市における最初の都心施設。一九八三年竣工。日本初のプロポーザル・コンペ方式によって選出された建築家磯崎新が設計を担当。ローマのカンピドリオ広場のパターンや古典建築の様式など、西欧の歴史的モチーフの不完全な形での引用による様式の相対化が試みられている。また斜めの壁など様々な仕掛けで、ヒエラルキーの欠如、喪失感を感じさせることに成功している。日本のポストモダニズムの初期の代表的建築として位置づけられる。

[iv]4 磯崎新、『建築のパーフォーマンス』、パルコ出版、一九八五年

[v]5 磯崎新、『ポストモダン原論』、朝日出版社

[vi]  ケネス・フランプトン

[vii]7 ディスジャンクション

[viii]  ルーブル装飾美術館で開かれた展覧会

[ix]9 ジャパネスク

[x]10 ジュリオ・ロマーノ             。一四九九頃ローマ~一五四六。本名            。イタリアの建築家、画家。ラファエロの弟子、助手としてヴァティカン宮殿の壁画装飾やヴィラ マダマの建造に参加。フェデリゴ ゴンザーガに招かれてマントヴァ公の宮廷美術家となり(一五二四)、壮大な離宮パラッツォ・デル・テ(二五~三五)を建てた。

[xi]11 ブオナローティ ミケランジェロ                        。一四七五~一五六四年。イタリアルネサンスの彫刻家、画家、建築家。フィレンツェでメディチの保護を受けた。一五〇五年ローマに赴き、教皇ユリウス二世の墓廟(未完成)やシスティナ礼拝堂天井画(〇八~一二)の制作に当たる。その後フィレンツェに戻り、サンロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂(新聖具室)を建設(二一~二四)。三四年以後再びローマに住み、システィーナ礼拝堂に最後の審判の大壁画(三五~四一)を完成、サンピエトロ大聖堂の建築主任(四七~六四)として大ドームを計画した。フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館の階段室(二三~三四)、ローマのカピトリーノ広場の設計(四六)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂の改造(六三~六六)、ポルタ・ピア(六一~六五)など。

[xii]12 様式の廃墟

[xiii]13  拙稿、「磯崎新論・・・ラディカル・エクレクティシズムの位相」、『現代思想』、七八年一二月。

[xiv]14 一九一二兵庫県生~。日本史学者。一九四〇年東京文理大(のちの束京教育大)国史学科卒。四四年東京高等師範助教授、四九年教授、五〇年束京教育大助教授、六四、七六年教授、七六年成城大教授。日本文化の展開に深いかかわりをもつ家元制度を、はじめて実証的に解明した。江戸町人研究会を主宰。このほか芸能。絵画、花などをテーマに幅広く近世文化史を究明。学位論文『家元の研究』(五九)『江戸ッ子』(八〇)『市川団十郎』(八六)『西山松之助著作集』八巻(八二~八五年)。

[xv]15  一九四一年~。建築家。北海道釧路市生まれ。一九六五年神戸大建築学科卒。毛綱モン太の名前で設計活動を開始。七二年に母親のための住まい「反住器」を発表して、反モダニズムの設計者としてデビュー。七六年毛綱毅曠建築事務所を設立。以後、建築学会賞を受けた釧路市立博物館(八四年)、釧路市湿原展望資料館(同)をはじめ、釧路市立東中学佼(八六年)、釧路フィッシャーマンズ・ワーフ(八九年)など釧路の作品でその地位を確立した。

[xvi]16  レオ・レオーニ、松岡正剛、『間の本』、工作社、一九八〇年

[xvii]17  木村敏、「「間」と個人」、『日本人と「間」』、講談社ゼミナール選書、一九八一年所収、他に『自覚の精神病理』『人と人の間』『分裂病の現象学』など

[xviii]18 剣持武彦、『「間」の日本文化』、講談社新書、一九七八年

[xix]19  世阿弥、『花鏡』

[xx]20  金春禅鳳、『禅鳳雑談』

[xxi]21  『本朝画法大伝』

[xxii]22 南博編、『間の研究 日本人の美的表現』、講談社、一九八三年

[xxiii]23  蒲生郷昭、「日本音楽の間」、南博編前掲書

[xxiv]24  南坊宗啓、『南方録』

2021年5月30日日曜日

公共建築に哲学をー挑戦し続けるコンペ 「サイエンスヒルズこまつ」 進撃の建築家 開拓者たち 第23回 伊藤麻理(開拓者28)

 進撃の建築家 開拓者たち 第23回 伊藤麻理(開拓者28) 公共建築に哲学をー挑戦し続けるコンペ「サイエンスヒルズこまつ」201807(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第23回 開拓者28 伊藤麻理(UAO)                    建J  201807

 

 公共建築に哲学をー挑戦し続けるコンペ

「サイエンスヒルズこまつ」

布野修司

 

 


 伊藤麻理(図⓪a[1]の名を初めて知ったのは、鋸南町(千葉県)の「道の駅-保田小学校(都市交流施設整備事業設計業務プロポーザル)」コンペ(201312月)[2]の時である。このコンペは、広田直行先生(日本大学)から、2段階のオープンヒヤリング方式に経験が豊富だからということで声をかけて頂いたのであるが、ファイナリストの中に紅一点で入っていたのである。審査委員の一人であった宇野求先生(東京理科大学)によると「サイエンスヒルズこまつ」(201310月竣工)の設計者で、東洋大出身の優秀な女性建築家ということであった。その応募案は、「サイエンスヒルズこまつ」を思わせるような帯状の局面を組み合わせる構成案(図①abc)で、既存部分への提案が希薄で、いささか荒削りに思え、僕自身はそう強くは推さなかった記憶がある[3]




 その伊藤麻理さんに、鋸南町のコンペに応募しましたよ、と挨拶されたのは「元倉真琴さんとのお別れの会」(2018120日)である。審査委員は幾度となくやったけれど、勝者には喜ばれるけれど、それ以外の全ての応募者には残念がられる。結果には納得したということでほっとしたが、応募案はありありと蘇った。太田邦夫研究室の出身で、元倉さんが東洋大学の大学院に教えに来ていた縁で「スタジオ建築計画」に1年ばかり務めた(19992000年)という。ああそういうことか(「サイエンスヒルズこまつ」は元倉真琴(スタジオ建築計画)+伊藤麻理(UAO)の共同応募)と合点した。そして、ラッキーガールというか、才能があるというか、「那須塩原市駅前図書館」(20163月)のコンペにも勝ったという。コンペには挑み続けている[4]。今や所員は10人にもなる。

 

  那須塩原市駅前図書館

 A-ForumAB研究会[5]で最近よく会う長谷部勉君に聞くと、東洋大で一緒に非常勤講師をしていてよく知っているから、一緒に事務所を覗こうという。事務所は、渋谷駅から歩いてもほどないところにある。近所には設計事務所が少なくない。かつて、原広司先生のアトリエ・ファイがあり、北川フラム(アートフロント)の「傘屋」があって、しばしば通ったなつかしい場所に事務所はあった。

 事務所には、那須塩原市駅前図書館の模型がバーンと置かれてあった(図②ab)。コンペ[6]で勝った後、施工業者も決まって着工直前であったが、猶、図書館の運営をめぐって調整が続いている状況であった。那須塩原は生まれ故郷である。設計にはひときわ思いを込める。図書館は一階を広く市民に開放する意欲的な構成である(図②de)。市内の美術館や学校、老人施設など様々な場所をマラソンでめぐる「アーバントレイル」構想、他地域からも広く講師を呼んで議論する「ラーニング」企画など意欲的な提案がある。しかし、公共建築の実現過程には様々な問題があることを実感してきているようだった。僕も、隈研吾建築設計事務所が勝った守山市立図書館(20187月オープン)のコンペで委員長を務めたばかりで、図書館をめぐる行政内部の調整の難しさを含めていろいろ話した。A-Forumで最近市町村の公共建築をめぐって議論をしていると言うと、その後、顔を出してくれるようになった。東洋大学の卒業生の中で、華々しくコンペに勝って公共建築を手掛けるアトリエ派の建築家は初めてじゃないか、コンペで勝ったときにはうれしかった、と長谷部君はいうが、長谷部君も「進撃の建築家」として期待の星である(図③左八巻秀房(開拓者03)右長谷部勉)[7]。(註欄 図Xab








 

 パラダイス

 東洋大学理工学部(川越キャンパス)の建築学科は、2011年に創立50周年を迎えた。僕は、1978年5月に講師となり、1991年8月まで13年余り教員として過ごした。その縁で50周年記念のシンポジウムにパネリストとして招かれた(20111029日)。藤村竜至(開拓者13)が司会を務め、設立時教員として原広司(基調講演)、一期生の武部實(日本都市設計)[8]、現役教員の工藤和美(シーラカンスK&H)、そして80年代を知る僕が加わって歴史を振り返ったけれど、国公私立と5大学を渡り歩いた僕の経験から振り返っても、80年代から90年代にかけての東洋大学建築学科は、実に自由な「天国」のような学科であった。研究費は学科全体で共有、どんぶり勘定で、若い先生は勝手に使いなさい、という。若手にとっては夢のようなパラダイスである。前田尚美先生他教授陣の盾のもと、太田邦夫、安岡正人、上杉啓、内田雄造と錚々たる助教授陣が活き活きと活動していた。

 学科の創設者は環境工学の平山嵩[9]先生で、東大閥で編成されていたけれど、アンチ「本郷」の雰囲気もあった。僕を東洋大に招いてくれた内田雄造[10]さんは安田講堂に立て籠もって逮捕された闘士であったし、東京理科大で全共闘運動を支援したとして解雇されて裁判中の宮内康[11]さんを非常勤として採用していたのである。僕は、東洋大建築学科でいうと7期生と同期となる。後にライフサイエンス学部長となる高橋義平さんが同い年の7期生である。東洋大学建築学科の布野研究室出身者は、1980年卒業の15期生から1992年卒業の27期生まで、本連載で触れた八巻秀房(開拓者03)が17期生、飯島昌之(開拓者04)が25期生である。長谷部勉君は1991年卒業の26期生、伊藤麻理さんは1997年卒業、32期生である。

 

 コールハースのオランダ

 太田邦夫(故浅井賢治)研究室で「オープンプラン」をテーマとする修論を書いた。そして、元倉さんのスタジオ建築計画に一年務めた。しかし、元倉さんが東北芸術工科大学の教授に就任(19982008)したこともあって、海外の設計事務所へ眼をむける。学生時代からレム・コールハースが大好きで、その下で働いてみたかったという。ロッテルダムのクンスト・ハル美術館Kunsthal Rotterdam1989)が好きだったという。空間の流動性という意味では、「サイエンスヒルズこまつ」「ブタペスト美術館」に通じる。

 ポートフォリオ持参してOMAOffice for Metropolitan Architecture)の扉を叩いたけれどうまくいかない。当時、伊東豊雄がOMAに事務スペースを借りていた。同時期に、後に中国中央電視台(CCTV)新社屋を手掛け、OMAのパートナーとしてニューヨーク事務所代表となる重松象平[12]OMAに入所している。

 結局、アンドレ・ケンプAndré Kempe (1968年生)とオリヴァー・ディルOliver Thill1971年生)というドレスデン工科大学出身の同級生のドイツ人二人がコンペ(Kop van Zuid, Rotterdam (1999)に勝って立ち上げたばかりのAKT(Atelier Kempe Thill architects and planners)2000年設立)の仕事を手伝うことになる。ネットでその後のアトリエの進展をみると、2人で始めたアトリエ(「ツーマンバンド」)が中規模(20人程度)の組織事務所になっている。端正なカチッとしたいかにもドイツ人建築家らしい作風である(図④aダッチ・パヴィリオン2003bロッテルダム野外劇場)。また、仕事もオランダ、ドイツからベルギー、フランス、オーストリア、さらにモロッコ、エジプトに拡がっている。



 同世代の邂逅がコールハウスのオランダにあった。ソ連邦の崩壊、ベルリンの壁解体以降のヨーロッパには、何かを生む梁山泊がいくつも発生していた。その一つはコールハウスのオランダである。1992年に欧州連合条約が調印され、翌年欧州連合が発足した。通貨統合が進められ、1998年に欧州中央銀行が発足、翌年には単一通貨ユーロが導入される。伊藤麻理は、そうしたヨーロッパの激動の雰囲気を呼吸しながら出発したのである。

 

 UAO

  帰国するきっかけとなったのは、姉の住宅の設計だという。デビュー作にはその片鱗が現れる。どんな設計なの、図面は、と聞いたが、すぐには出てこない。あまり拘りはないらしい。2006年にアトリエインクを立ち上げたが、仕事はないから、「塩尻市図書館複合施設」(2006)(審査委員長:山本理顕。関谷小百合案で第一次選考(5案)通過)など、とにかくがむしゃらにコンペに取り組んだという(『KJ20168)。そして、幸運にも、群馬県の東京ショールーム(銀座)(群馬総合情報センターGIS)のコンペ(2008)(審査委員:古谷誠章、小内進、佐野紀子)に勝った。仕掛け人は、群馬県で数々の2段階公開ヒヤリング方式のコンペの実施を支えてきた新井久敏さんである。テナントビルの1,2階27202㎡のインテリア設計であり、大きな実績は必要ない。全国から107の応募があったなかでの最優秀賞である。デビュー作品となる。34歳だから決して早いデビューとは言えないけれど自信も得た。残念ながらこのショールームは群馬県が撤退して今はない。しかし、つくづく思うのは、こうした小さなコンペの力である。残念なことに、行政手間がかかるからであろう、日本ではこうしたコンペは実に少ない。

  続いて挑んだのが「サイエンスヒルズこまつ」(2011)だ。この仕事でUAOを株式会社とし(2013年)、建築家の基盤を確立することになる。ただ、このコンペの場合は応募資格に欠けた。そこで元倉真琴さんの「スタジオ建築計画」とのJVでの応募のかたちを採った。元倉さんは応募内容に一切口を出さなかったという。竣工まで自力でやりきった。作品も明らかに元倉さんのセンスではない。伊藤麻理にとっては、元倉さんからの優しいすばらしい贈り物となった。若くして大規模な公共建築を設計する機会を得るとともに、今後、ほとんどの公共建築のコンペに応募する資格を得たのである。

 UAOUrban Architecture Office)という命名には、念頭にコールハウスのOMAがあるのだろう。「建築士ではなく、いわゆる建築家でもなく、いうなれば、都市計画を描く「アーバンアーキテクト」という概念」で仕事に取り組みたいという(『KJ20168


 

 サイエンスヒルズこまつ

 一方で、IWM House(2010), SUI House(2011), FKI House(2011), ABE House(2011), KMB House(2012)など、不思議な雰囲気の住宅作品がある。「不思議な」というのは、日本ではみかけない、あるいは、あまり一貫するようにみえない、さらに「サイエンスヒルズこまつ」や「ブタペスト美術館」(2014)(図⑤)の流麗な曲線に対していささか武骨な、といった印象であるが、一味違った感性の持ち主のように見える。いくつか見たいと思ったけれど、個人住宅は難しい、という。いささか遠出になるけれど、1泊2日で北陸での花見を兼ねて小松まで出かけてきた(4月3~4日)。施工の完成度が気になっていたのである。

  「サイエンスヒルズこまつ」(図⑥abcd)は小松駅のすぐ南に丘のように盛り上がっている。ものづくりを基盤とする産業拠点をうたう絶好の敷地である。駅の直近に人目を引かんと置かれた真黄色の巨大なトラクターにまず驚くが、少し離れて、折り重なった屋根が古墳のように見える。その敷地は、北陸随一の弥生時代の大規模環濠集落の遺跡跡地(「八日市地方遺跡」)であった。北陸は前方後円墳ではなくて四隅突出型古墳だ、などと頭に浮かんだけれど、シンボル性が要求された建築であることはすぐさま理解できた。「建築とランドスケープの融合」を一貫するテーマとするが、加賀平野の南に遠望できる白山連峰が意識されている。

  入館して宇宙科学を中心に展示を楽しんだ。よくできている。デッドスペースが気にならないかことさら隅々までみたけれど、スケールに余裕があるからであろう、大きな破綻はない。4つのウェーブと名づける鉄筋コンクリートの曲面体を「ほどよくずらして」並べたのが基本構成である。ウェーブの屋上は全て緑化され、歩けるようにする。室内で行われる多様なアクティビティを機能的には分離しながら視覚的にはつなげる。本人の説明であるが、プランやセクションをみているだけではなかなか空間がイメージできない。平田晃久の「太田市美術館・図書館」でも感じたけれど、この空間感覚は明らかに新たな道具を手にした新世代のものである。「ほどよくずらして」並べるためには、模型で考える必要があるが、3D-CADによるチェックが不可欠である。伊藤麻理の場合、驚いたことに、全て自ら細部まで設計するのだという。学生時代からCADは自在に使ってきたのである[13]。 






 

 公共哲学

 アトリエ派の未来のひとつの姿がここにある。すなわち、基本的に一人のアーキテクトがCAD-CAMさらにBIMによって、建築の設計を統括出来るのである。コンピューター技術はそれを可能にする。アトリエ派の建築家こそ武器として様々な道具を身につけるべきである。

 伊藤麻理は、最近の「新香川県体育館」のコンペも含めて公共建築のコンペに応募し続けている。今後もそうするだろう。コンペを基本にするのはヨーロッパ体験が大きいと思う。東欧出身のAKTの二人もコンペでチャンスを得たのである。彼女のコンペ参加は権利であり義務でもある。

 3つのコンペに勝って公共建築の設計施工の現場を体験するなかで、「公共」とは何か、「公共建築とは何をつくることなのか」を考えるようになった、という。

 「公共建築は“公共哲学に基づく”はずだ・・・公共哲学とは、「わたし」と「あなた」という対立と調整ではなく、「わたしたち」で一緒に物語を描くことだと考えている。・・・しかしながら要綱には「公共哲学」に及ぶ考えが示されていないことが多い。・・・」(『KJ20168

 この問題はもとより伊藤麻理ひとりのものではない。A-ForumAB研究会でも、彼女も加わってこのところ議論を積み重ねているところである[14]。しかし、全てのコンペに勝つことはありえないであろう。事務所の経済的基盤について、UAOはしたたかに考えている。大手の建設不動産業者と組みながら、集合住宅のモデル開発(図⑦)にも取り組んでいるのである。

 

 伊藤麻理とAUOには、前途遼遠たるものがある。もしかすると、とてつもない大組織に成長するかもしれない。しかし、「公共哲学」を問う、初心忘るべからず、である。一作品一作品を自ら位置づけながら、設計方法を鍛えながら伸びていって欲しいと思う。



[1] 1974年 栃木県那須塩原市生まれ。1997年 東洋大学工学科建築学科卒業。1999年 東洋大学大学院工学科建築学専攻修士課程修了。1999年 株式会社 スタジオ建築計画(日本)(〜2000年)。2001 Atelier Kempe Thill architects and planners (オランダ)2006年 アトリエインク設立。2009年 一級建築士事務所Urban Architecture Office.合同会社に改名。2013 UAO株式会社に変更。2006年~ 東洋大学非常勤講師。

[2] 委員長 滋賀県立大学 副学長 布野 修司/委 員 東京理科大学 教 授 宇野 求/日本大学 名誉教授 斎藤 公男 先生 / 日本大学 教 授 広田 直行/川名副町長(副委員長)ほか3名の町側審査委員計8名。

[3] 審査評は以下である。「提案番号8番:意匠がアイディアに満ちて、かつ、詳細まで検討されている。既存のものをほとんどいじらないことに徹し、ひとつだけ大きなことをやる点は価格低減にも効果のある面白い提案である。一方で、対象がスポーツに限定されており、さまざまな地域住民へのサービスを提供する施設としての機能が不十分であるとの懸念があり、上位3者に提案力が及ばなかったといえる。」。

[4] 20118小松駅東「広域活用ゾーン」利活用施設「サイエンスヒルズこまつ」新築工事公募型プロポーザル設計競技 1等第35回石川県建築賞優秀賞・第46 回中部建築賞・第56 BCS 賞受賞・石川景観賞受賞・第16回 公共建築賞 優秀賞/2008 3月群馬県総合情報センター設計者選定競技 1(銀座)201312月鋸南町都市交流施設整備事業設計業務委託公募型プロポーザル最終選考/20131225年度事業可能性評価事業認定/20141H26年度連携イノベーション促進プログラム 認定/20141H26年度地域資源活用イノベーション創出助成事業 認定/2014 1 月ハンガリー美術館& 写真美術館設計競技4 位入賞/20145American Society of Landscape Architects Awards 2014 Finalist2015 5The Plan Award 受賞( イタリア)20158月 H27年度経済産業省 新連携認定/2015 11World Architecture Festival ファイナリスト( シンガポール)2015 11BUILD Award 2015 受賞( イギリス)20163仮称駅前図書館等基本設計・実施設計業務委託公募型プロポーザル設計競技 1等/20172月八戸市新美術館プロポーザルコンペ 最終選考/20178月 静岡市歴史文化施設プロポーザルコンペ最終選考/20178月龍ヶ崎市道の駅プロポーザルコンペ 最終選考

[5] アーキニアリング・デザイン フォーラムArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)」。「建築の設計と生産(アーキテクト/ビルダー)AB研究会」。

[6] 委員長 三橋 伸夫(宇都宮大学教授)【専門家】委員:古谷誠章(有限会社NASCA代表取締役、早稲田大学教授)【専門家】委員 小嶋 一浩(株式会社シーラカンスアンドアソシエイツ代表取締役、横浜国立大学教授)【専門家】委員 花井 裕一郎(hanajukuNPO法人オブセリズム 演出家)【専門家】委員 松木 隆雄(那須塩原市図書館協議会委員、アイサポート那須代表)【市民代表】委員 三川 伸明(えきっぷくろいそ図書館部会、一般社団法人黒磯那須青年会議所2015年度理事長)【市民代表】委員 人見 寛敏(那須塩原市副市長)【行政】委員 大宮司 敏夫(那須塩原市教育委員会教育長)【教育】

[7] 1968年 山梨県生まれ。1991年 東洋大学工学部建築学科卒業。1991 堀池秀人都市・建築研究所勤務。2000年 服部建築計画研究所勤務。2002 H.A.S.Market設立。2005年~総合資格学院非常勤講師。2006年~東洋大学非常勤講師。

[8] 北海道を拠点に一大組織事務所を育て上げた一期生の武部實さんは出世頭ということであろう。1969東京都練馬区桜台に、武部實一級建築士事務所設立、1972年株式会社に改組、株式会社武部建築事務所と称し、東京都中野区東中野を本社とする1973年株式会社武部建築設計事務所は日本都市開発設計株式会社を吸収合併し、社名を日本都市開発設計株式会社と称す1975年本社を札幌に移転1979年道東事務所開設1998年商号変更し、日本都市設計株式会社と称す2007年代表取締役に武部幸紀就任。

[9] 1903年東京生まれ~1986年。1926年東京帝国大学卒業MIT大学院修了。大蔵省入省、営繕局にて国会議事堂建設担当。1930年東京帝大工学部講師、1931年助教授、公衆衛生院建築衛生部長兼任。1940年東大教授。1963年退官、東洋大学工学部教授に就任。1983日本建築学会大賞。

[10] 1942年大邱生まれ~2011年。1961年東京大学理科Ⅰ類入学。1970年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻単位取得満期退学。東洋大学助手。1990年工学博士『同和地区の住環境整備計画・事業に関する研究』。1999年東洋大学工学部学部長。2006年東洋大学ライフデザイン学部人間環境デザイン学科教授。2010年東洋大学大学院福祉社会デザイン研究科委員長。『同和地区のまちづくり論』(1993)他。内田雄造追悼文集刊行委員会『ゆっくりとラジカルに 内田雄造追悼文集』私家本、2012年。

[11] 1937年飯田市生まれ~1992年。1961年東京大学建築学科卒業。1967年大学院数物系研究科博士課程(吉武・鈴木研究室修了。1968年、東京理科大学講師1969年設計工房を開設。東京大学時代から学生運動に加わった経験から、当時の全共闘運動に共感し、行動する。69年、宮内嘉久編集『建築年鑑』の編集にかかわり、70年反万博運動にもかかわる。1971年には東京理科大学闘争で学生を支援したことにより、大学当局から免職の通告を受けるが4年間に渡る裁判により勝訴する。著作に、『怨恨のユートピア』(井上書院、71年)、『風景を撃て 1970-75』(相模書房、76年)がある。状況劇場稽古場、山谷労働者福祉会館、青森県七戸町美術館(現、鷹山宇一記念美術館)などの建築作品があるが、設計だけでなく建設も利用者と共に、ものつくりを行うことが重要という主張を身をもって示した。『怨恨のユ-トピア』刊行委員会編:怨恨のユ-トピア・・・宮内康の居る場所,れんが書房新社,2000630

[12] 1973年久留米生まれ。1996、九州大学工学部建築学科卒業。ベルラーエ・インスティチュートを経て、1998よりOMAに所属。2008OMAニューヨーク事務所代表就任。ハーヴァード大学デザイン学部大学院、コーネル建築学部大学院の非常勤講師。ハーヴァード大学では、2013年よりデザイン学部大学院GSDにおいてAlimentary Design Studioを担当。建築家。建築設計集団OMAのパートナーおよびニューヨーク事務所代表。主な作品は中国中央電視台(CCTV)新社屋、コーネル大学建築芸術学部新校舎、 コーチ表参道フラッグシップストア、ケベック国立新美術館新館、マイアミビーチの複合商業施設ファエナ・フォーラムなど。ボストンのウォーターフロント再開発、オルブライト・ノックス美術館の拡張計画、サンタモニカの複合用途施設計画、コロンビア・ボゴタの新都心マスタープラン、シリコンヴァレーのFacebook新キャンパスマスタープランなど、世界各地で多岐にわたるプロジェクトが進行中。2013年より3年間、ハーヴァード大学デザイン学部大学院GSDにおいて「Alimentary Design Studio」を率いた。

[13] 施工が大変だったことはいうまでもない。熊谷組の山村芳裕統括所長以下、サイエンスヒルズこまつ・西村章課長・君島康之作業所長がその苦労を語っているが(熊谷組Webサイト76 2014)、一方でやりがいがあった仕事であったことがわかる。伊藤麻理さんも現場は楽しかったという。

[14] 89回公共建築の設計者選定問題を考える01守山中学校(滋賀)の2段階公開ヒヤリング方式と選定委員会=建設委員会方式をめぐって(201823)、02-群馬県の設計者選定(2018331日)。