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2021年5月9日日曜日

京都論の現在,新建築,199711

京都論の現在,新建築,199711

 

 

京都論の現在

布野修司

 

 

 JR京都駅の複合ビルが全面開業した(9月11日)直後の休日、昼食でも、と出かけて驚いた。大階段広場は、鈴なりといおうかなんと形容していいのか、ものすごい人出であった。レストランは軒並み一時間半から二時間待ち。駅周辺のレストランも同様の状況であった。まずは物見高い一般の関心は高いと見た。

 屋上広場に佇んでいると、いろんな声が聞こえてくる。「年寄り連中はえらい怒っとるんやけど、若いもんはそうでもないんや」。「こないなってたんかあ。これがえらい不評なんやて」。・・・JR京都駅の評価は、単に高さ(壁)をめぐった攻防から、具体的な空間体験を踏まえたものへ、また具体的なインパクトを計る段階へと移行しつつある。

 開業の日、四条周辺の百貨店も多くの客を集め、相乗効果があったと伝えられている。10月には御池通りに地下商店街が、地下鉄東西線の開業に先立ってオープンした。建都1200年を超えた京都が、確実にひとつの変化を経験しつつあることは間違いない。

 もちろん、JR京都駅周辺の商圏、人の流れがどうかわるのか、JR京都駅の大空間がどう使われていくのかはこれからの問題である。大空間は大道芸人の蝟集する活き活きとしたパーフォーマンス空間であり続けるかもしれないし、ホームレスが屯(たむろ)し、ダンボール住居が立ち並ぶ空間と化すかもしれない。24時間解放された空間でありうるかどうか、クライアントのプログラム次第といえ、建築家の提案した空間の構想力の問題でもある。

 「とにかくどう使われるか見て欲しい」「子ども達の反応に期待したい」といった建築家原広司の言い方にはいささかがっかりしながら、村野藤吾の「赤い光、青い光」というエッセイを思い出していた。新興(近代)建築家諸君へ向けて、理念を振り回してもネオンの店の集客にかなわなければ負けだよ、とつぶやくように自らを納得させる内容だったと思う。ほとんど使われない公共建築が多いなかで、単純に利用者の数によって(究極的にはプログラムの質によって)公共建築が評価されるのは当然である。商業建築であればより現実的にそれが問われる。

 しかし、建築家には空間の論理(言説)で説明すべきことがある。まして、鋭い理論家と目されてきた原のJR京都駅についての沈黙はいかにも不自然だったと言わざるを得ない。彼はこれまでの京都にないヴァーティカルな空間を挿入することを戦略化したのであり、単に高さだけの議論にとどまるレヴェルでは話にならない。京都は常に新しい空間を導入してきたのであり、そうだとすればどこにもないその空間の質をめぐって議論はなされるべきなのである。

 安藤案の「門」に対して、原案は「山」(あるいは壁)、というのが、一般の、少し訳知りの受け止め方だろう。原は、三山に対して南山を構想したのだ、というのに対して、それは全く風水を理解しない案だ、などという議論がある。「京都は歴史への門である」と原案もまた「門」をコンセプトとしていることなど誰も知らない。このレヴェルでは、「羅生門」ー「朱雀門」をイメージさせる「門」のシンボリズムの方が圧倒的にわかりやすく支持が多いだろう。

 しかし、そうした議論はそれ以上に拡がらない。現実の諸条件が何事か考慮され、コンペの審査が行われた経緯がある。そして、当選案が公表されてから今日に至るまで、巨大な山(壁)ができるというひとつの事実に対して反射的な反撥が大きな声となってきた。また、その反撥を増幅させたのが七条口の「ゴテゴテした」「ポストモダン風」のファサードである。足場がとれた瞬間、さらに「評判は悪くなった」ようなのだ。

 正直、まだ、新幹線側のファサードがおとなしくていい。壁のようでありながら、烏丸通りなど主要な通りの突き当たる地点には穴(小門)が開けてある。烏丸小路、室町小路、町尻小路に対応する。だから、門といっても小路への入口にすぎない。「京の七口」など都の入口を象徴するのではなく、町屋街区の写しがそこにある。原のいう「地理学的コンコース」なるものはそういうことではないか。新幹線側からは従って路地の奥を覗き見る風情がある。京都タワーもくっきり見える仕掛けがある。空中歩廊や大吹き抜け空間も透けて見え、新しい空間を予感させていた。それに対して正面ファサードは大きく破綻しているように見える。「北面のファサードは、いわば門の表層であるが、広場から見れば暗い陰の面になりがちである。提案では明るく輝く立面を実現すべく、ほとんどガラス面として、建築はかつ消えかつ浮かんで、輸送された北の空と重なり、人びとは二度と同じ形象を見ることがない」というのが設計意図であるが、完全な失敗である。建築は消えもしないし、浮かびもしない。重苦しい壁に駅前の雑然とした景観を醜く歪めて映し出しているだけである。「巨大な壁」と「不格好なファサード」、JR京都駅批判はいまなおこの二点を根拠にしているといっていい。

 ヴァーティカルな空間という時、それは単に垂直的空間ということではない。単に空間の規模や配置が目新しいというのではなく、その空間を身体で直接甘受するレヴェルで、より深度をもった原理を提出しえているかどうか、が問題なのだ*1。西谷啓治が、戦後まもなく、「京都感想」と題して、「高い歴史的文化の伝統を担った古都としての品格は、ほとんど見られない。よく植民地的と言われるが、植民地でも気の利いた都市はもっとましである。いちばん悪いのは浮ついた新しさのうちに妙に垢の抜けない古くささが混じっていることである」と痛烈な京都批判*2を展開していることを最近知った。京都の景観を考える上で繰り返し反芻すべき文章だろう。

 深度をもった空間原理の提出、そんなことはもちろん容易なことではない。しかし、原広司の「均質空間」(批判)論はそれをこそ問題にしてきた筈だ。「均質空間」論はどこへいったのか、が問われるべきなのである。*3

 原のこの間の沈黙にはそれなりに理由がある。まず、京都という政治風土におけるリアル・ポリティックスがある。また、京都をめぐる独特の言説の構造がある。要するに、内外からの視線、愛憎が半ばし、議論がオープンになっていかないブラックボックスのような京都論を支える構造がある。さらに、「集落への愛」を語り続けてきた理論家原広司が梅田スカイビル、JR京都駅、サッポロドームと立て続けに巨大建築を手掛ける違和感がある。嫌悪感と言っていいかもしれない。匿名の大手組織事務所がJR京都駅のデザインを手掛けていたら、問題の質は同じであるにしろ、建築界の反応は異なっていたであろう。しかし、そうした脈絡とは別の次元で空間の構想力と質が終始問われていることは言うまでもないことである。

  JR京都駅をめぐって問題にすべきことはさらにある。原がドンキホーテとなることにおいて、建築の設計施工、生産の仕組みそのものの問題がクローズアップされる。巨大な組織による巨大な複合構築物をつくる場合に、建築家に何ができるか、あるいは建築家はどういう役割を果たすべきかを否応なく考えさせる筈である。施工の過程や建築生産システムについては『施工』がよくフォローしている。「みんなよく頑張った」というトーンは拭えないにしろ、どれだけ多くのエネルギーと時間がどのような決定システムにおいて積み重ねられたかを窺うことが出来る。京都で不評の原の擁護を敢えてすれば、原(その構想力に、コンペの勝利者、東大教授という肩書きも加えてもいい)でなければ出来なかったことがあると思う。例えば、原でなければあれだけの公共空間を確保できたかという気がしないでもない。原の不幸なのは、そうした決定を自ら市民に公開する場を持ち得なかったことである。いずれにせよ、「高さ」と「壁」と「ポストモダン」風デザインということでファッショ的に断罪する風土は困ったものである。

 

 

 しかし、それにしても、JR京都駅をめぐって、京都をめぐって問題にすべきことは依然として多い。例えば、総合設計制度の導入に先だってコンペが実施されたという事実は消えない。京都がまちづくりに対して積極的でないというわけではないけれど、他の日本の都市に比して、その決定プロセスが閉鎖的で不透明であることは常々感じるところである。

 いま京都ではセーヌ川に架かる橋(ポン・デ・ザール 芸術橋)を模した3.5条大橋のデザインがまたしても「景観問題」(第三次景観論争?)として騒がれ始めている。そこにも同じような紋切り型の反応と議論の構造が既に透けて見える。なぜ、京都にパリの橋のデザインをコピーしなければならないのか。どうもこの国の建築デザインに対する一般の理解のレヴェルは低い。もちろん、その責任の大半は建築家にあると思っておいたほうがいい。深度のある空間の原理を提示できていないのである。

 事態はこういうことだ(らしい)。もともとから先斗町と祇園を歩行者路でつなごうという構想が「地元」あった。一度ならず耳にしたことがある。繁華街を交流させたい、ということである。そうした潜在するニーズを背景に、京都市は、京都・パリ友好都市提携40周年(1998年)の記念に格好の事業として、歩道橋建設を行うことにした、ということである。ややこしいのは、その事業が昨年京都を訪れたフランス大統領ジャック・シラクの提案を受けて決定された、とされることである。

 既に、市当局はイメージ・パースを公表、都市計画審議会の縦覧手続きを採った。マスコミの論調は、まず、反対が基調である。JR京都駅の時と同じである。

 「ポン・デ・ザールはポント町の風情台無しに」「鴨川には似合いまへんな」「世界遺産の一部 調和が乱れる」「フランス模倣友好にあらず」「国際文化交流への誤解」

 「ポン・デ・ザール」という具体的なイメージがあるから反対の論拠はわかりやすいかもしれない。川幅も流量も違い、周囲の景観も全く異なるところに「同じ」橋というのはいくらなんでもというのがまともだろう。もちろん、「フランス」「パリ」の橋、しかも、「芸術橋」ならいいじゃないか、という意見もある。キッチュの精神は、どこにも潜んでいるのである。

 歌舞伎好きのシラク大統領と個人的な縁があった志明院の田中真澄住職が手紙を書いた。その返信にはこうある。

 「京都のように長い伝統をもつ都市では、こういう大規模なプロジェクトが必ず議論を起こすはずです。それは当然のことで、また、のぞましいことです。私は、お国の民主的なルールを深く尊重しますので、お手紙の内容に直接に返事することによって、その議論に関与することを是非とも避けたいと存じます。」

 もっともな返答というべきか。問題はまず「お国の民主的なルール」の方である。しかし、シラク大統領も議論の巻き込まれざるを得ない。ル・モンドが一面(9月10日)で、「シラク大統領のアイディアで京都に変貌の危機が」という東京発の批判的記事を扱っているのである。

 しかし、事態はどんどん進む。縦覧期間中に提出された意見書は1400通を超えたという。JR京都駅の時の10倍以上である。わかりやすいからであろうか。必ずしもそうではない。

 1420通のうち、賛成が1027通、反対が373通。賛成意見の大半は歩道橋建設推進の区議の後援会が集めたという。これを受けて市は都市計画審議会の審議を年内に終え、来年度内に着工する構えだ。これが「お国の民主的ルール」の実態である。外部の権威に発案を委ね(た形をとり)、「地域」に潜在する利害関係を覆い隠す。デザインの問題や必要性をめぐる議論を骨抜きにする周到なプロセスである。

 「この橋をつくることに決まったらば、その実現に参加することを、フランスは名誉と見なします」とシラク大統領の田中真澄住職への返信の最後には書かれている。

 

 3

 その京都がいま21世紀へむけてのそのグランドヴィジョンを問う国際コンペを実施中である(10月末締め切り)。7月末に、応募登録数は2000を超えた。海外からも50を超える国・地域から登録があったという。果たして最終的にどれだけの応募があるかは不明であるが、極めて大きな関心を集めているといっていい。そして、おそらく、応募案の中には多くの建設的提案が含まれているに違いない。

 しかし、決定的問題は多くの提案を具体的に実施していく仕組みがオープンに設定されていないことである。3.5条大橋をめぐる決定プロセスが現実である。

 多くの建設的提案を受けて、具体的な事業を誰が決定し、誰が実施するのか、集団無責任体制である。何も担保されていない。これでは絵に描いた餅に終わりかねない、という不安が当初からある。そこで、何(提案内容)よりも、「権威ある」「グランドヴィジョン委員会」あるいは「アーバン・デザイン・コミッティー」といったボードの恒常的設置を、というのが僕の主張なのであるが、なかなか大きな声にならない。小さなアイディアのバラバラの動きがあるだけでまとまった動きにならない。まことに京都的である。

 京都グランドヴィジョンをめぐっては日本建築学会建築計画委員会の1997年度の春季学術研究会*4で議論する機会があった。「一極集中の都市構造」「京都の二重構造・・・南北問題、都市と農村の問題」「京都らしさをめぐる呪縛の構造」「京都をめぐる虚と実」等々をめぐって京都の抱える諸問題が出された。また、様々な具体的な提案もなされた。その詳細は学会の記録に委ねたいが、それなりの密度の議論が展開できたように思う。

 まず強調すべきは、京都がはっきりと「停滞」の症候を示していることである。人口減少、高齢化、地域社会の弱体化、女性と高齢者の就業問題、都心の空洞化。京都の地域構造、人口構造に歴史的な変化が起こっている。拡大と成長の時代は去ったのであり、縮小と均衡の時代が始まる。京都はこれまで全く違う発想で都市計画を考える必要があると力説するのが広原盛明である。京都は、ある意味で京都は日本の都市の未来を先取りしている。京都こそひとつのモデルとなるべきだと思う。

 これからの京都をめぐってはまず虚心坦懐に現実をみる必要がある。京都は大都市として、日本の大都市固有の問題を抱えている、ところがしばしば語られるのは、京都の町の特殊性である。大都市固有の問題と、京都固有の問題、お互いに相互に影響しあいながら、お互いを見えにくくしているという状況がある、というのが橋爪伸也である。

 京都の着倒れ、というけれど家計に占める衣服費の割合は決して多くはない。観光産業はGNPは1割にすぎず、有数(全国第9位)の工業都市である。京都は物づくりの町である。日本最大の内陸型の工業都市である。西陣織とか清水焼のような伝統的な産業だけではなくて、京セラ、オムロン、任天堂、ワコールがある。重工業では、島津製作所、三菱自工があり、重たい物から軽い物、最先端から伝統工業までありとあらゆる工業、物づくりでこの町は成り立ってきた。

 実際、京都市明治以降の政策を見ると、ひたすら近代化、ひたすら工業都市化を果たそうとしてきた。いわゆる三代事業と呼ばれる事業が、明治維新以降衰えた京都の町を再生させる。明治以降の京都策というのは、京都固有の町づくりの方針であるが、その根幹にあるのは工業化なのである。ところが一方でこの本質を覆い隠すように、例えば歴史の町であるとか古都であるとか、あるいは大学の町であるとか、観光で町は成り立っているとかいう風な言説で、この都市が対外的なイメージを醸造してきた。実質と外から見たときの京都像は全くちがう。北部保存、南部開発と言うけれど、南部に開発の余地はない。外部の視線は往々にして京都のイメージにとらわれすぎている。いささか無責任である。

 

 4

 そうした出発点を確認した上で、京都が依拠すべきはその特権性ではないかと思う。日本の他の都市にないアイデンティティに徹底して拘るべきだ、というのが僕の主張である。既に、『建都1200年の京都 日本の都市の伝統と未来』*5を編んだときに思いついたのであるが、そう揺らいではいない。その後、京都グランドヴィジョン策定の研究会においても同じような主張をしている*6

 京都の特権性とは何か。ひとことで言うと「世界都市としての京都」という理念である。要するに、世界の中心としての都市という「フィクション」にもう少し徹底してこだわるべきではないか、ということである。具体的に言うと、「京都」の特権性として、センター機能をどう維持し続けるかが問題ではないか、ということである。事実、京都市の掲げるスローガンにはそうした理念が忍び込んでいるのである。

 日本文化の中心としての「文化首都」、学術の中心としての「学問の首都」(ノーベル賞、京都学派)、「修学旅行のメッカ」、国際文化観光都市、「世界文化遺産都市」(歴史都市(古都)としての景観資源)、「小京都連合のセンター」、・・・・

 実は、「天皇の所在地としての京都」という「都(みやこ)」の虚体化という大テーマが京都の特権性の主張の背後にには隠されている。また、政治首都が移転した、という首都喪失の事実がある。しかし、政治首都としての機能を失って久しいし、「虚」の中心として京都は成り立ってきた筈である。

 こうして、京都の特権性に拘るべきだ、という主張は混乱してくる。「世界都市としての京都」が実は「虚」でしかないことをうすうす皆が感じているからである。従って、その他所者の主張は嫌みに聞こえる。

 しかし、京都のアイデンティティに関わる「世界都市としての京都」という理念を失うと、京都はただの「地方都市としての京都」でしかない。全国で何番目かの大都市にすぎないのである。上位計画に縛られ、他の大都市をはるかに凌ぐ施策など展開できるわけがない。それ故、その特権性に拘るべきだ、というのは極めて論理的な主張である。

 京都の実態を冷静に見つめ、なおかつ「フィクション」としての「世界都市」理念に拘る時、何が構想しうるかが、京都に固有の問題なのである。

 ではどうすればいいか。繰り返しになるけれど、その鍵  になるのは「世界都市理念」を常に議論し続ける仕組みの構築である。世界都市文化センター、世界木の文化センター・・・等々既に多くのヴィジョンがある。今回の京都グランドヴィジョン・コンペへの応募案のなかにも数多くの提案が含まれている。問題は、それをどう持続的に実現していくか、その現実化のプロセスと仕組みである。

 京都グランドヴィジョン・コミッティ、京都賢人会議、あるいは京都百年委員会。百年後の京都を想定しながら、持続的に京都像を提示し続けるそうした仕組みがどうしても必要なのである。

 こうして、京都について考えていることは、決して日本の他の都市の抱える問題と無関係なのではない。実際、京都で問われていることの大半は日本の全ての都市において問われていることだ。

 それを問わずして、京都にのみ過剰に期待するのはアンフェアである。自らの依って立つ根拠を問え。「地域」の現実に眼をつむり、結論を他に委ねて先送りするある種の怠慢がそこにありはしないか。

 

*1 田中喬+布野修司 「京都という場所」、GA97「特集 景観としての京都」、1997AUTUMN。ここでいうヴァーティカルは、田中喬のいう意味にも繋げたい。

*2 西谷啓治、「京都感想」、『風のこころ』(新潮社、1980年)、『宗教と非宗教の間』(岩波書店、1996年)。

*3 拙著、『戦後建築の終演 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995年の最終章「Ⅲ 世紀末建築論ノート・・・デミウルゴスとゲニウス・ロキ」は、原の「均質空間論」の行方を問うたつもりである。

*4 1997年6月24日。「京都の未来と都市景観」、コーディネーター、布野修司、パネラー樋口忠彦、陣内秀信、松政貞治、広原盛明、古山正雄、橋爪伸也。

*5 拙稿、「京都というプロブレマテーク」、1994年2月号

*6 拙稿「」京都百年計画委員会の設立を」、『「21世紀・京都のグランドヴィジョン」策定に向けて 中間報告』、京都市総合企画局、1997年4月

 

 

 

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