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2021年5月11日火曜日

 ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性 「ミツハマル」プロジェクト

 進撃の建築家 開拓者たち 第7回 開拓者05 岡部友彦(後編) ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性 「ミツハマル」『建築ジャーナル』 20173(『進撃の建築家たち』所収)


 

 ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性

「ミツハマル」プロジェクト

布野修司


 

「地域を活性化するのに建物や特産物など“モノ”を再生することは第一義的な課題ではないだろう・・・地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすることで、その地域に活力を取り戻すことが大切なのではないか。そして、その“コト”が、継続して行なわれることにより、物質的な“モノ”が築き上げられていく。このように元来の街やコミュニティの形成過程とも考えられる一連の流れを、地域や建築に再投入することによりデザインしていくことが必要なのではないか。」(「影のデザイン」10+1 Ten Plus One No.45 200612

全ての地域が共有すべき指針と言っていい。全く異議なし、である。30歳を前にした岡部友彦の達観に脱帽である(図⓪)。

 


地の人、風の人、火の人

『裸の建築家』(2001年)で「タウンアーキテクト」制を提起し、コミュニティ・アーキテクト制のシミュレーションとして京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動を展開したこと、そしてその運営委員長を務めたのが渡辺菊眞(開拓者01であったことについては既に触れたが(第2回、201610月号)、実はその活動を支援してくれたのはゼロ・コーポレーションという京都を拠点とする地域ビルダー(住宅開発建設会社)であった。『京都げのむ』という機関紙を発行することができ、通常の大学の研究室活動を超える展開ができたのはその支援があったからである。

コミュニティ・アーキテクトの仕事というのは本来自治体の仕事である。当初イメージしていたのは、「タウンアーキテクト」すなわち地域のヴィジョンを計画立案実施していく存在であり、また、その方向をリードしていくマスターアーキテクトのような存在であった。しかし、都市計画審議会とか建築審議会など形式的な審議会システムを前提とする日本で、そのいきなりの実現は望むべくもなく、既存の制度をそれぞれに活用しながら、多様な仕組みができればいい、というのが本音であった。しかし、「コミュニティ・アーキテクト」制といった仕組みを行政システムに組込むことがなんとなく前提とされていた、と振り返って思う。コミッショナーであった広原盛明先生が京都市長選に打って出たのもそうした流れである。山本理顕さんが仕掛けた国交省の「(仮称)建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会[1]2007年度)に期待したが、制度先行ではなかなかうまくはいかない。

京都CDLの後、滋賀県立大学で「近江環人コミュニティ・アーキテクト」という大学院の人材育成プロジェクト(図①②)に関わることでより具体的に問われることになったのは、コミュニティ・アーキテクトというプロフェッションは如何に成立するか、という問題である。要するに、どうやったら食えるか、報酬はどこから得られるのか、という問題である。




そして、もうひとつは、コミュニティ・アーキテクトは、「地の人」(地域に土着し生活する人なのか)、「風の人」(地域を繫ぐ人、伝道師なのか)、「火の人」(焚きつける人、アジテーター)なのか、ということである。

ひとつの答えとして、コミュニティ・アーキテクトの具体像として考えられたのは首長である。嘉田由紀子知事が政治塾(未来塾)を立ち上げたときには連携しようという話もでた。滋賀県には県を含めて20の自治体があるのだが、まずは20人の首長を育成すればいいというわけである。建築学科の同級生の森民夫が長岡市長を務めていることも念頭にあった。

コミュニティ・アーキテクト=自治体の職員ということにはならないであろう。また、自治体の仕事を補助するということならば、各種シンクタンクやコンサルタント会社と同じである。コミュニティ・ビジネスというけれど、どうすればビジネスが成り立つのか。コミュニティ・アーキテクトという理念はいいとしても、現実的には余暇や片手間の、あるいは老後のヴォランティア活動の域を抜けれきれず、突破口が見つからない。とにかく動きながら考えよう、意義が認められれば職能として成り立つであろうというのが結論にならない結論であり続けた。

 

BBBCCGC

「影のデザイン」と題された文章で、岡部は、寿町の生活に関わる医・衣・食・職・住という5つの全ての分野について、複数の企業体がそのミッションを共有しながら連携するNPO法人「さなぎ達」の活動と組織体制を評価した上で、さらに2つの海外グループについて触れている。

ロンドン郊外の難民居住地区ブロムリー・バイ・バウ・センター(BBBC1984年設立:https://en.wikipedia.org/wiki/Bromley_by_Bow_Centre)(図③)のコミュニティ再生の試みとニューヨークのコモングラウンドセンター(CGC1983年設立:http://www.commonground.org http://www.breakingground.org/)のホームレスの社会復帰支援の活動である(図④)。岡部が着目するのは、2つのグループとも活動資金を自ら得る経済的仕組み、すなわち企業活動を前提としていることである。



ブロムリー・バイ・バウは、ロンドンの東部にある、戦争や紛争で、東欧や中東、アフリカなどから逃れてきた難民が暮らしている地域として知られる。多くの民族が住み、失業率も高く、治安の悪化も深刻な地域であったという。この地域の環境改善のために1980年代に組織化されたのがBBBCである。「さなぎ達」と同様、学童保育、セラピーなどの福祉サービスのために複数の企業体、グループが連携する。いずれもビジネスとして行われ、その収益の一部が、センターの運営資金にまわされる仕組みである。

アーティスト・オリエンティッドのBBBCは、デザイン活動で得た資金を基に、子供たちの学童保育や、カルチャー教室、セラピーなどの福祉サービスを行う。地域、街路などのランドスケープデザインやカフェテリアなどの建築デザイン、グラフィックデザイン、遊具のデザインやパブリックアートを手掛ける。センターに併設されたアトリエを廉価に提供するかわりに、カルチャー教室の先生や、デザインなどの指導をしてもらう。さらに、ストリートファニチャーや家具など、質の高い製品を作成、販売を行なう[2]

コモングウランドCGCは、ニューヨークのタイムズスクエアを本拠地とする(図④)。NPO法人であるが、その活動はディヴェロッパー的である。ホームレスの社会復帰のために、タイムズスクエア周辺にあるホテルを購入、宿泊機能、健康管理施設、カウンセリング室などを持つ総合的な施設へと変貌させたのである。そのホテルは、かつては高級ホテルであったが、80年代以降荒廃し、閉鎖された後ホームレスのたまり場となっていたものである。その活動は、行政が区域内の不動産所有者から改善のための負担金を税金として徴収する地域経済改善地区制度BIDBusiness Improvement District)と結びつき、地区の清掃、警備、プロモーション等を地区に委ねる仕組みにつながる。そして、CGCはさらに2軒のホテルを買収、他地域へ活動を展開しつつあった。このBBBCそしてCGCの活動は寿町再生プロジェクトに大きなヒントを与えてきた。 

ミツハマル

  寿町でのまちづくりが多様に拡がりを見せる中で、新たな展開の機会が訪れた。愛媛県松山市の三津浜に呼ばれるのである。三津浜への展開は、寿町再生プロジェクトに関わったスタッフが生まれ故郷に拠点を移したのがきっかけという。古くから松山の玄関口として知られるが、全国の地方都市と同様少子高齢化とシャッター商店街に悩む。昭和初期の民家が残るが、空き家だらけである。

岡部友彦が採ったアプローチは基本的には寿町と同じである。少なくとも、「地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすること」という基本姿勢は変わらない。まず、「ミツハマル」という拠点をつくった(図⑤⑥⑦)。ミツハマルは、コトラボ合同会社が松山市から受託して運営する事務所およびウエブ・サイトの名称で、「三津+ハマル」=三津にハマる人を増やそうという意味が込められているという。そして、ここでもプロモーション・ヴィデオをつくった。コトより始めよ、である。地域住民を主体とすることは原則である。自治体とも連携する。「ミツハマル」の取り組みも「三津浜にぎわい創出事業」や「地域における草の根活動支援事業」といった助成金と連携しながらの展開である。




三津浜再生プロジェクトは、古民家活用のまちづくりによる低炭素社会の実現をうたう。また、里山・里海を含めた地域循環をうたう。古民家を自ら修復、回収するためのDIYワークショップや伝統的な空間の良さを体感する古建築見学ツアーなどのメニューからなるが、中核となるのは三津浜町家バンクである。地域の空間資源としての町家を発掘し、見直し、リノヴェーションし、その空間を利用するユーザーとのマッチングを行う。昭和戦前期に建てられた医院を買い取って自前で改修してテナントに貸し出した(図⑧⑨⑩⑪)。今のところ順調に滑り出したというが、他の地域の同様の試みをみても必ずしも楽観はできない。地方の再生もまた容易ではないのである。

しかし、「ミツハマル」の強みは、自前で拠点となる場所をつくり、自己資金で町家を改修し、テナント収入などで資金を回収する、そして活動を持続する仕組みをつくりあげつつあることである。






 

ソーシャル・ファイナンス・システム

 寿町の抱える問題の位相と地方の少子高齢化に悩む市町村の問題の位相は、考えてみれば、そうかけ離れているわけではない。日本社会の東京一極集中構造の「影」が地方であり、大東京の「影」が寿町(であり山谷)であるとすれば、寿町は日本の「影」の縮図である。ということは、寿町のまちづくりについて考え、実践してきたことは、地方都市のまちづくりについても多大なるヒントになる筈である。三津浜再生プロジェクトの進行がそれを具体的に示していると言えるだろう。

 岡部友彦が今考えているのは、ソーシャル・インパクト・ボンドのような仕組みである。

そうした状況に対して、岡部は、社会的課題に対してきちんと報酬を払って仕事として成立させる仕組みをつくる必要があるという。イギリスのソーシャル・インパクト・ボンドは、財政難に悩む官からの発想である。社会的インパクトある仕事に対して投資を募り、投資家から調達した資金を基に、行政サービスを民間のNPOや「社会的事業者」に委託し、事業が成果を挙げた場合にのみ削減された行政コストに基づいて投資家に報酬を支払うという仕組みである。寿町の場合、行政にとっても大きな課題であるだけに大いに可能性があると言えるだろう。ただ、制度とするのであれば、対象とする社会課題の性質、施策を行う事業者、目標の設定、評価機関など、ややこしい手続きが必要となる。

問題は、そうした仕組みをより一般的に民間ベースで成立させうるかどうかである。コミュニティバンクやソーシャルバンクという発想も欧米にはある。ある限られた地域社会を拠点とし、その地域の企業や事業に融資を行ない、その地域で資金循環を行なうのである。今日では、ネット・ファンディングという方法もある。地域を超えたネットワークによって預金者自らが、融資先を選んで預金をすることができるような仕組みを作り上げるのである。

 

岡部友彦は、われわれがなんとなく前提にしてきた建築家がいる場所とは異なる地平に立ちつつあるようにみえる。「99%社会が建築をつくる」といったのは村野藤吾であり、事実そうなのであるが、建築が社会とともにあるのであれば、建築家が社会的な仕組みを要求することがあってもいい。まだ日本に建築家という概念も職能も成立しない頃、「明治生命保険会社」「大阪中央公会堂」などの傑作で知られるが、市街地建築物法、都市計画法に尽力した建築家でもあった岡田信一郎が書いた「社会改良家としての建築家」という一文を想い起すが、上から社会を改良するのではなく、「影」すなわち「寄せ場」から世界を変えていく、そんな力技に寄り添っていきたいと思う。



[1] 布野修司「タウンア-キテクトの役割とその仕事地区建築士(コミュニティ・ア-キテクト)制の構想」(2007124日、国交省)。イギリスのCABECommittee of Architecture and Build Environment)の仕組の導入を検討した。補助金の仕組が一応できたが、東日本大震災によって霧散した。

[2] ストリート、地域、校庭などのランドスケープデザイン(Green dream)、ストリートファニチャーや家具などの製作販売(the furniture group)、グラフィックデザイン(Lekker Design)。カフェテリア(PIE IN THE SKY)、子供による遊具のデザインやパブリックアート製作(sign of life)、地域ツアーガイド(tour & seminars)の6部門がある。

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