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2025年2月15日土曜日

死者の家:トバ・バタックの家,at,デルファイ研究所,199311

 死者の家:トバ・バタックの家,at,デルファイ研究所,199311A


死者の家  トバ・バタックの墓 スマトラ

                布野修司

 

 東南アジアを歩いていて、興味深いのが墓である。実に様々な形態の墓がみられるのである。

 インドネシア、マレーシアはムスリムが多いから、イスラームの墓を頻繁に眼にするのだが、これが実にそっけない。土葬なのであるが、極端な場合、土を盛って木を一本立てただけのものがある。普通、四角く囲って、頭に低い石柱もしくは木杭が立てられる。足の所にも立てられ一対となるケースも多い。もちろん、立派なものになると墓石がつくられ、墓の上にシェルターがつくられたりするのであるが、一般的に単純なものが多い。東南アジアの場合、頭をメッカの方に向けるのが多い印象だけれど、てんでバラバラの場合もある。

 イスラームの死生観は、ヒンドゥー教や仏教とは随分異なっているようだ。イスラーム各派で埋葬の形は異なるのだが、サウジアラビアなどでは、特別な葬儀や墓参を全く行わず、埋葬のあとにも墓標を立てないのだという。

 ムスリムにとって、現世の死はそのまま全ての終わりを意味しない。それは束の間の眠りの期間にすぎず、ほどなく審判をうけた後、天国なり地獄で永遠の来世を送る一ステップに過ぎない。人によっては、死は一〇日、あるいは一日か半日の出来事にしか感じられないものだという。墓はあんまり意味がないのである。

 スラバヤのカンポン(都市内集落)を歩いていて、そこが墓地だと気づいてぞっとしたことがあるのであるが、ムスリムにとっては墓地に住むことはそう違和感がないのである。

 それに対して、イスラーム化以前の墓や墓地には様々なものがある。東南アジアには入念な葬送儀礼を行なう地域が多かったのである。死者の記念として、石を工作したり、巨石を建てたりすることは、ニアス、トバ、トラジャ、中央スラウェシ、フローレス島、スンバを含む島嶼部の他の多くの地域社会の特徴である。

  墓は「死者の家」である。家の形をした墓もよく見かける。サラワク、低地バラム地方のブラワン族は、死者の骨を洗い、サロンと呼ばれる見事な彫刻が施された共同霊廟にそれを安置する。バロック的な棟飾りを持った同様の霊廟は、サラワクのケンヤ族、カヤン族、カジャン族、プナン・バ族などでも一つの特徴となっている。また、イバン族は、優雅に彫刻されたスンカップと呼ばれる小さな「埋葬小屋」を作る。

 北スマトラのトバ・バタック族は、住居を模した霊廟を建てた。ほとんどがキリスト教に改宗したのであるが、今日でもその伝統が残っている。その霊廟はかつては石造であったが、今日では、一般的にペンキを塗ったコンクリートで作られており、伝統的な住居の形を模した精巧な複製となっている。住居型の墓は、トバのいたるところに点在しており、巨大なトバ湖の中央にあるサモシル島には、特に多くみられる。また、同じバタックでも、カロ高原のカロ・バタックは、特異な形態をした納骨堂をもつ。

 土着宗教において、先祖との実り多い関係を維持することは極めて重要であった。そのための施設である、墓や廟や納骨堂は、先祖のための家であり、生きている者と先祖との交流のための空間なのである。

 

2025年2月14日金曜日

石窟寺院トゥガリンガ,at,デルファイ研究所,199304

石窟寺院トゥガリンガ,at,デルファイ研究所,199304 

石窟寺院 トゥガリンガ   バリーギャニャール              布野修司

 


 アジャンタ、エローラ、エレファンタ、カーリなどインドの石窟寺院には及ぶべくもないのだが、ジャワやバリでも石窟のチャンディー(ヒンドゥー寺院)がつくられている。

 バリ島の石窟寺院というとゴア・ガジャ           である。バリを訪れる人であればこの「象の洞窟」は誰でも知っているのではないか。洞窟そのものはTの字形の平面をした小さなものだが、何よりも、異形の怪物が口をあんぐりと開けたそのエントランスが強烈だ。バリの芝居に出てくる魔女ランダの顔を思わせる。あるいは、バロック的石窟寺院といってもいいかもしれない。

 全体としてこじんまりと谷になった境内は実にいい雰囲気である。豊かな水が流れ落ちる沐浴場もいい。その沐浴場が発見されたのは戦後のことだというから、ちょっと驚く。

 しかし、シチュエーションの妙といったらグヌン・カウィ             だろう。ゴア・ガジャよりはるかにダイナミックなスケールがある。すり鉢状に棚田が囲む谷を降りていくと、谷底を流れる川を挟んで石窟のチャンディー(ヒンドゥー寺院)が建ち並ぶのであるが、そこへ至るアプローチがすばらしいのである。

 王と女王の墓地にはそれぞれ数基のチャンディーが掘り出されようとして中断したままになっている。プロポーションをみると、縦に細長い東部ジャワのチャンディーに近い。一一世紀後半とみられるから、東部ジャワのヒンドゥー王国の影響が既に及んでいたということだろうか


2025年2月13日木曜日

スクオッターのいる風景,at,デルファイ研究所,199206

 

スクオッターのいる風景

                布野修司

 

 東南アジアの大都市を特徴づけるのが河沿いのこうした風景である。スクオッター(不法占拠者)たちの織りなす風景だ。

 農村から流入してきた人々は、空いている土地をみつけて住みついた。大抵は居住に適さないために放置されていた土地である。湿地帯が多い。あるいは未利用の公共用地が選定される。中でも目立つのが、鉄道沿線沿いの空間である。そして、スクオッターたちの居住地を最も象徴する風景がこうした河沿いの風景なのである。

 スクオッターたちのこうした居住区は、しばしば、マージナル・セツルメント(境界的(周縁的)居住地)と呼ばれる。考えてみれば、古来、河川敷は河原者たちの空間であった。境界線(所有関係)が曖昧だということもあろう、異人、他所者、乞食(ほがい)人、流れ者、流浪の民が集まってくるのが河原だったのである。

 写真はインドネシアのスラバヤのあるカリ(川)である。物理的な居住環境の条件として、もっと劣悪な場所ももちろん多いのであるが、ここだけは印象深い場所である。十年見続けてきたからである。幾たびに訪れる場所である。

 このカリの近くに大きな市場があって、ここの住人たちは、パサール(市場)に関わる仕事に携わっていた。パサールには人が集まる。人が集まれば、色々なサービスが必要になる。例えば、人々が食事をとるから、各種の屋台が集まってくる。ラーメンや雑炊、焼き鳥に野菜サラダ(ガドガド)、実に種類は多い。仕事を分けあって、みんなで稼ぐのである。

 このカリに住んでいたのは、東ジャワの農村から出てきた人々であった。同じ村から来たというグループも住んでいた。意外かもしれないけれど、こうした不法占拠地区にも、きちんとした住民組織がある。インドネシアの場合、隣組(ルクン・タタンガ)、町内会(ルクン・ワルガ)というコミュニティー組織の秩序は徹底しているのである。

 住居の一方の壁は、表通りの邸宅の裏壁である。ちゃっかり借用している。河の両側とも、奥へ至る通路が真ん中を通っている。河に迫り出した部分が洗濯したりする作業スペースである。驚いた事に中程には井戸が掘られてあった。

 彼らは、税金を納めているのだと主張していた。何がしかのお金を支払って、居住を認めてもらっていたのである。行政当局も追い立てても、すぐ舞い戻って来るのだから目をつぶらざるを得なかったのである。

 ところが、二年ぶりに訪れてみて驚いた。住居が跡形もなく撤去され、鉄格子がはめられているのである。ついに命運つきたか、と感慨に浸りながらよくみると、なにやら、小屋掛けのようなものが見える。再び不法占拠が始まっているのだ。

 また来るときには、果たしてもとのように雑然とした風景が蘇っているのであろうか。

 

  


2025年2月12日水曜日

ランシット・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所,199309

  ランシット・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所,199309


ランシット・ハウジング・プロジェクト                バンコク

                布野修司

 

 バンコクの近郊、ランシットのコア・ハウス・プロジェクトである。このプロジェクトは、C.アレグザンダーがリマのコンペで提案したものによく似ている。それもそのはず、このプロジェクトのアイディアは、C.アレグザンダーの共同者であり、『パターン・ランゲージ』の共著者でもあるS.エンジェル(当時アジア工科大学教授)によって提案されたものなのである。

 模型で分かるように、敷地が細長く短冊状に分けられている。そして、コア・ハウスが長屋建てで一列に建てられる。リマの場合、コア・ハウスは二階建てであるが、ここでは平屋だ。各入居者は、それぞれの資力と要求に応じて、自分の敷地に増築していくわけである。模型は居住者用につくられたもので、八つの増築パターンが示されていた。

 ここも何年か時間を置いて二度ほど訪れてみた。二度目にいってみると様々な増築がなされていた。すぐにペンキを塗る。絵を描く。日本にはないセンスである。一室増築したものがある。緑がすぐ育つから一年もあれば町らしくなる。敷地一杯に増築した例さえ見られたのであった。

 バンコクでも、他にいくつかのコア・ハウス・プロジェクトがある。PCパネルによるプレファブのコア・ハウスも試みられた。トゥン・ソン・ホンのハウジング・プロジェクトがそうである。

 コア・ハウス・プロジェクトには色々のタイプがある。インドネシアの例では、敷地を田の字型に分割し、その中央に四軒分のコア・ハウスを建てるものがある。材料も乾燥地域に行けば、当然、日干し煉瓦によるコア・ハウスがつくられている。

 ところが、こうして様々な建築的アイディアにみちたプロジェクトも、必ずしも成功したとはいえない限界があった。第一の理由は、コア・ハウス・プロジェクトが、リセツルメント(再定住)・プロジェクトの一環として行われてきたことである。リセツルメントとは、「スラム」居住者を都市近郊に移住させるプロジェクトのことである。インドネシアやフィリピンの場合、他の島へ移住させる場合もある。その場合、トランスマイグレーションとかイミグレーションと言われる。

 とにかくそうした場合、移住したのはいいが、生計をたてる手段が用意されていないのである。工場などが設置され、雇用を吸収する、そうした計画はなされても現実には困難が多かった。農業をやるにも条件の悪いことが多かったのである。

 いくら居住条件が多少よくなっても、生計を立てれないのであれば都心に戻るしかない。都心に住む事によって様々な収入が得られる。商売のネットワークも都心だから存在する。「スラム・クリアランス」が問題なのは、そうしたネットワークや経済基盤をずたずたにするからである。かくして、コア・ハウスの居住者も、それを放棄して都心へユーターンする、そんな現象が広範に見られたのである。

 

 

2025年2月1日土曜日

マレー半島のミナンカバウ,at,デルファイ研究所,199212

 マレー半島のミナンカバウ,at,デルファイ研究所,199212

マレー半島のミナンカバウ

                布野修司

 

 ミナンカバウ             族と言えば、西スマトラである。パダンからブキッティンギにかけて三百万人が居住する。現存する世界最大の母系制社会を形成することで知られている。

 そのミナンカバウ族の住居もまたよく知られている。多様なインドネシアの住居の中でも代表的なものとしてしばしばとりあげられるところだ。

 棟が弓のように曲線を描く。両端はゴンジョング         と呼ばれる尖塔である。屋根は切妻もしくは入母屋で、地域によって異なるのであるが、横から見ると水牛の角に見えるというので、水牛の角をシンボライズしたという説がある。ミナンカバウとは、マレー(インドネシア)語で、「勇敢な水牛」(勇敢な        水牛       )という意味なのだがどうか。

 平面構成は規模によって異なる。日本のゴンジョングを持つ、九本柱の家、あるいは十二本柱の家が原型であるが、大きい家になるとゴンジョングを四本、さらに六本持つものがある。

 ただ、基本的な構成原理は同じで明快である。平入りで中央に入り口が設けられ、前面は家族のための共用スペースとして用いられる。後ろ側がスパン毎に壁で区切られ、それぞれ既婚女性の家族に割り当てられる。大規模な住居では五十室(スパン)に及ぶものもあったという。また、家の前には一対の米倉が置かれるのがフォーマルである。

 ところで、ミナンカバウ族というと、もうひとつムランタウ          (出稼ぎ、広義には知識、富、名声を求めての出村)慣行で知られる。ジャカルタなど西スマトラ以外に多くが移り住むのであるが、マレーシアのマラッカ近郊、ヌガリ・スンビラン(九つの国の意)州にも出かけている。

 興味深いのがその住居である。一見、西スマトラの住居とは全く違うのである。同じ民族でありながら住居形態が違う。地域的な条件が異なれば、住居の形態も異なるのは当然なのであるが、一方、出身地域の住居形態をそのまま建てるということもよくある。ジャカルタやスラバヤへ出てきた地方出身者が田舎と同じ様な住居を建てるのがその例である。

 しかし、ミナンカバウの住居が横へ伸びていくパターンであるのに対して、ヌガリ・スンビランのミナンカバウの住居は、前から奥へ縦方向へ伸びていく。いくつかの棟を前から後ろへ並べて行くのである。みるところ、この形式は必ずしもマラッカ周辺の伝統的民家ではなさそうだ。この差異は何によるのか、このへんが面白いところである。

 さらに面白いことがある。前面の建物の棟の左右を注意して見て欲しい。少し、斜めに上がっている。本家ように優美な曲線ではなく、ぎこちない直線であるが端部が沿っている。これをどう解釈するか。マレー半島へ移住していったミナンカバウ族はそこに自らのアイデンティティを表そうとしたのではないのか。


2025年1月31日金曜日

マンクヌガラ宮殿のプンドポ,at,デルファイ研究所,199211

マンクヌガラ宮殿のプンドポ,at,デルファイ研究所,199211


マンクヌガラ宮殿のプンドポ

                布野修司

 

 プンドポ         というとジャワの伝統的住居に固有な建物、スペースである。壁のない屋根だけのオープンなパヴィリオンとして、主屋の前に置かれ、フォーマルな集いや儀礼に使われる。このプンドポは、ソロ(スラカルタ)のクラトン(王宮)、マンクヌガラ宮殿                      の小プンドポである。ここはダイニング・ホールとして使われる。

 設計者は、オランダの建築家、H.T.カールステンである。蘭領東インドでH.M.ポントと並び称せられる建築家であった。H.T.カールステンは、ポントに比べるとはるかに多くの作品を手掛けている。    年に、H.M.ポントから事務所を譲り受けると、まず、依頼を受けたのが、このマンクヌガラ宮殿の増築である(         年)。プンドポ・アグン(主殿)の改修より、この小さなプンドポがこじんまりといい。気に入られたのであろう。    年から    年にかけてもマンクヌガラ宮殿の仕事をしている。

 スマランの保険会社のオフィス(    年)、ソボカルティー劇場          年 を始めとして、ソロの中央駅(    年)、ジョクジャカルタのソノブドヨ博物館(    年)などが、H.T.カールステンの代表作である。

 H.T.カールステンにとって、伝統建築と近代技術をどう調和するかが大きなテーマであった。彼が力説したのは、ヨーロッパのスタイルをそのままジャワへ持ち込むことが誤りである、ということである。あくまで、生きているジャワのスタイルを出発点にすべきことである。また、彼は、伝統的な建築技術を新しい材料や建築に適用しようとしている。このプンドポの軽快な構造もその試みのひとつである。

 H.T.カールステンの仕事は、さらに広い。住宅問題や都市計画の分野の仕事である。社会への関心を失わなかったのがH.T.カールステンである。その都市計画思想について詳述する余裕はないのであるが、前提として予め退けられていたのは、ここでも西欧の理論をそのまま適用すればいいという態度である。スタティックなマスタープランではなく、ダイナミックな計画、有機的な全体性の必要も彼の強調するところである。

 こうしたH.T.カールステンの仕事は、一方で、都市計画法の制定につながっていくのであるが、戦前期のインドネシアで注目すべきなのがカンポン・フェアベタリング(                   カンポン改善事業)である。このオランダによるカンポン・フェアベタリングは、今日のカンポン・インプルーブメント・プログラム(                             )の先駆とも見なされる。カンポンの居住環境にも意を注いだのがH.T.カールステンである。

 H.T.カールステンは、    年、日本軍の収容所で死んだ。  才であった。

 

 

2025年1月29日水曜日

書評 鶴見良行著『ナマコの眼』, 日本図書新聞、1990

 書評 鶴見良行著『ナマコの眼』

               布野修司

 

 

 「ナマコを最初に食べたやつは偉い」なんてよくいう。面食いの食わず嫌いはそういって決して箸をつけようとしないのだけれど、ナマコ(にお酒)というとすぐにもよだれが出そうになるものは、「ナマコをグロテスクで気味が悪いと思うなんて全くの偏見だ」とかなんとかいいながら、秘かにそう思っている。ほんとに最初に食べたやつは偉い。しかし、ほんとに最初に食べたのは誰だろうなんて思ってみたことなどはない。大抵は、ナマコなんて昔から自然に食してきたのだろう、と考えてなんの疑問もないのである。

 ところがびっくり仰天である。本書を読んで心底驚いた。ナマコを最初に食したのが誰か、ということがどうやら解きあかされようとしているのである。というより、ナマコをめぐって思いもかけない壮大な歴史の物語が語られているのである。たかがナマコではない。ナマコをめぐって五百頁にも及ぶ本が書かれたのである。ナマコもすごいし著者もすごい。

 壮大な歴史の物語と思わず書いた。「ナマコのマナコ」と語呂合わせのようなタイトルを冠したこの大著をどういえばいいのだろう。この壮大な作品は、単なるドキュメンタリーではない。また、単なる歴史書ではない。すなわち、単なる産業史や経済史の書物ではない。アジア史、東南アジア史といった地域史の試みでも、植民地化の歴史を追っかけた本でもない。また、単なる民俗学、文化人類学の本でもない。そしてまた、ナマコの料理法の本でも生態学の本でもない。この壮大な作品は、それらを合わせた全部であり、それらを超えた何物かである。既存のディシプリンには収まりきらない。かといって単なる学際的な本といってすますわけにもいかない。「ナマコ学」の大著といえばいいのかもしれないのだが、好事家の暇にまかせた書物などでは決してない。

 ナマコにマナコなどありはしない。「これは仮空に視線を合わせ事実を追った一片の物語である」と著者は最後の一行でいう。少なくとも、僕には惑々するような物語であった。『バナナと日本人』、『エビと日本人』(村井吉敬)といった書物でとられた視点と構えがここでもとられている。すなわち、日本人の生活に欠くことのできない「もの」の生産・流通・消費の構造を明らかにすることによって、日本人の生活そのものを根底的に問う姿勢がある。また、西欧中心史観や国家史観、常識やこれまで支配的となってきた眼差しを常に疑ってかかる精神が息づいている。本書は、もはや「鶴見良行」学とでもいうべき「学問」のありようがはっきりと形をとりはじめたことを示す作品である。

 フィジーでホシナマコ加工が始まったのは一八一〇年代、採集加工にあたったのはアメリカ船であった。ナマコの加工法を伝授したのは「マニラメン」であり、ホシナマコはマニラを中継基地として中国市場に送られた。メラネシア一帯で、ナマコの採集、加工に従事する実に多様な人々の間に「ナマコ語」なる合成言語が生みだされていた。

 一七世紀後半から南スラウェシの漁民(マカサーン)が、オーストラリア北岸アーネムランドへ毎年ナマコを採りに出漁していた。彼らは浜に小屋掛けしてアボリジニーとともにナマコを煮干しにして持ち帰った。オーストラリア北岸のナマコ産業は今世紀初頭まで続き、そして廃れた。

 マルク圏は香料交易で知られるが、ナマコなど特殊海産物の生産、交易を行ってきた海域でもある。マカサーンがアーネムランドへ至る中継基地「踊り場」になったのがこの海域である。また、ミンダナオの南西に連なるスルー群島は、マカッサルと並ぶナマコの産地である。一八世紀後半から一九世紀前半にかけてスルーのナマコ産業は最盛期に達した。

 ナマコは、既に『古事記』、『風土記』に登場する。古代から調(みつき)、 (にえ)として宮廷、神社へ納められていた。北九州、瀬戸内海、能登、伊勢・志摩、北海道と五つのナマコ文化圏が古くから日本列島には存在してきた。

 本書は、四部からなる。「太平洋の島々」、「アボリジニーの浜辺」、「〈東インド諸島〉の人びと」、「漢人の北から」、と題され、四つの地域に焦点があてられている。そのそれぞれからほんの断片を抜きだしたのが例えば以上のようだ。一見脈絡のない以上の事実がどのようにひとつの壮大な物語へと組みたてられるか、ナマコを最初に食べたのは誰かという謎とともに読んでのお楽しみである。本書は下手な要約を許さないのだ。

 国境という見えない線によって僕らの眼が如何に曇らされているか、見慣れた世界地図の盲点が繰り返し告発される。海の遊牧民(シー・ノマド)たちの自前の世界が生き生きと描かれる。そして、全体を通じて、手前勝手なヒトの視点に対してナマコのマナコが鋭くもひょうひょうと対置されている。  

 

 

  

 

 

 

 

2025年1月27日月曜日

ジープニー,at,デルファイ研究所,199210

ジープニー,at,デルファイ研究所,199210 


ジープニー

                                 布野修司


 

 マニラを初めて訪れたのは一九七九年のことだけど、いきなり度肝を抜かれたのがジープニーのデザインであった。ジープニーというのは、フィリピンを訪れたことがある人であれば誰でもご存知であろう、ジープを改造した乗合自動車のことである。それぞれが実に派手派手しく、思い思いに飾りたてられている。過剰なデザインの競演。日本のトラック野郎も真っ青である。

 マニラの町を無数のジープニーが騒々しく走り回る。マニラといえばジープニーというのが僕のイメージである。マニラの都市景観の一部にジープニーはなっている。

 しかし、それにしても人は何故車を飾りたてようとするのであろうか。日本でもトラックに限らず、改造車ブームがある。日本では、一部マニアの趣味にみえるのであるが、ジープニーをみると、車を飾りたてたいという欲望はもう少し一般的なようである。他の国では、アフガニスタンの派手な乗合バスも有名である。人目を引きたい、自分のものであることを誇示したい、キッチュの原理がそこにもあるといえるであろうか。

 僕が興味をもったのは、ジープニーのデザインを支える部品のシステムである。勝手気ままにデザインされているようでいて、実はその自由さを支えるシステムがあるのである。そして、ジープニーの装飾システムは、身近な生活に想像以上に侵入しているのである。

 そこここのバランガイ(住区)を歩く。そこら中でジープニーの修理が行われている。そして思い思いの装飾品が手作りで作られている。大抵中古品だ。そして、屋台のようなオートショップでは、各種の装飾部品が売られているのである。

 ジープニーの工場もいくつか行ってみた。裸のままのジープが並んでいた。もちろん、新品(?)のジープニーもあるけれど、多くは裸のままで売られ、それぞれで仕上げを行うのが一般的なのである。

 裸の躯体、エンジンなどの内燃機関、装飾・仕上げ、三つの部分系はある意味で明快である。そして、少なくとも仕上げの段階は誰にも開かれている。好き勝手にデザインができる、そうした余地がそこに生み出されるのである。

 ジープニーに余程魅せられたのだろう。一冊の写真集をものしたのが、E.トーレスとE.サンチアゴである(註1)。出たばかりのその本を手に入れて、これはR.ヴェンチューリの『ラスベガス』に匹敵すると、何となくにんまりしたことを思い出す。その本によると、六〇年代は、ペンキで絵を画く程度であったという。馬やミラーや旗など矢鱈に装飾部品がつけられるようになったのは七〇年代のことである。

 九〇年代に入って、石油資源の節約、交通問題を理由として、ジープニーは次第に少なくなりつつあるという。そうだとすると、ジープニーを飾りたてたいという欲望は、果して、どこに向かうのであろうか。

2025年1月26日日曜日

台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告、 上 未だに残る傷跡 ようやく仮設住宅が完成 多様な社区営造(まちづくり)への模索、下 歴史的環境の復興、日刊建設工業新聞、20000413、0414

台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告

未だに残る傷跡

ようやく仮設住宅が完成

多様な社区営造(まちづくり)への模索

布野修司

 

 中央研究院でこの九月に開く植民都市に関するシンポジウムの打ち合わせと震災復興の調査を兼ねて台湾を訪れた(三月一六日~二四日)。三月一八日は総統選投票日である。二一日は大地震から丁度半年に当たり、全ての法律の運用を柔軟に適用する緊急命令の期限(二四日)が来る。投票日直前、李遠哲中央研究院院長が民進党陳水扁候補を支持して辞任、中国からミサイルが発射された一九九六年の最初の総統選の際ほどではないにせよ、異様な政治的緊張の中での訪台となった。結果は民進党が辛勝。国民党の分裂選挙による敗北が李登輝の退陣につながったことはご承知の通りである。

 台風の目となったノーベル化学賞受賞者、李遠哲氏は、実は、中華民国社区営造学会会長でもある。この間の社区総体営造(まちづくり)運動をリードしてきた。九二一集集大地震後は、全国民間災後重建連盟の理事長をつとめる。台湾の未来の方向を握る文字通りのキーパースンである。社区営造学会の秘書(事務局)長は、早稲田大学で学んだ台湾大学城郷研究所の陳亮全氏、震災以前より機関誌『新故郷』を刊行し、震災後の復興計画のために二九チームに助成を行っている。以下は、社区営造学会を通じた震災復興活動の最前線についてのレポートである。

 

①社区総体営造の拠点-埔里 

 難航する権利調整-東勢

 総統選投票日前日の四〇万人近く集めた台北サッカー場での民進党の集会はものすごい盛り上がりであった。その大集会が最高潮に達する頃マイクを握ったのが陳其南交通大学教授である。いささか興奮した。前々日の夜再会し、親しく語らったばかりだったからである。陳其南教授は四年前には行政院の文化建設委員会にあり、まさに社区総体営造運動を創始(九四年)した人物である。社区とはコミュニティ(近隣社会)を意味する。移民社会で、基本的に中国人特有の家族主義の強い台湾では、戦後も国民党の強権政治が続いたこともあって、コミュニティの力が弱い。外省人(大陸系)と内省人(台湾人)の対立も根深い。だから、社区営造こそがこれからの重要テーマなのだ、と彼は力説する。

 社区営造学会秘書長の陳亮全、『新故郷』編集委員の曽旭光淡交大学副教授に合ったのは投票日当日であった。震災後の様々な取組みを取材する中で、ひとつの焦点として浮かび上がったのが埔里(南投県)である。一八一人が亡くなった埔里は都市部では東勢(台中県)についで死者の多かった街である。その埔里に新故郷文教基金会が設立され、雑誌『新故郷』が創刊されたのは、震災半年前であった。すなわち、社区営造学会のひとつの拠点は埔里に置かれていたのだ。中心人物は、総編集長廖嘉展氏である。彼は社区総体営造運動に関わるなかで李遠哲氏から雑誌編集の責任者に指名されたのである。

 震災後、「埔里家園重建工作站」がすぐさま組織された。重建とは再建の意である。続いて「婆婆媽媽工作隊」が結成(一〇月一五日)された。婆婆媽媽、おばあさん、おかあさんパワーの結集である。埔里の事務所では十数人の女性がきびきびと飛び回っている。様々な基金を得ながら、住民の要求がまとめられた。まず、緊急の課題になったのが小中学校の復旧である。阪神淡路大震災と違って、学校の被害が致命的であった。各地区の将来像も描かれた段階だ。しかし、物理的再建のみが問題にされているわけではない。「身心安住」「各有其位」(従前の場所に住み続ける)「経済復甦」「人文発展」があって「空間改造」である。そして、「計画的可行性」(実現性)「人力資源的在地化」(地域性)「計画効果的延続性」(持続性)が計画原則とされる。

 全てが順調にいっているわけではない。県政府との関係で対立点も出てきている。全てを失い目標を失って虚脱状態になっている人も多いという。東勢の本街でも権利関係の調整が難航している。こうした社区総体営造の草の根活動は開始されたばかりである。再建も具体的にはこれからだ。三月二四日東勢本街を新総統陳水扁氏が訪れた。本街南平里重建委員会の中心、王昌敏氏が後輩で強力な支援者であるという縁である。李遠哲氏がはっきり支持を表明した民進党の勝利は社区総体営造運動を加速することになろう。

 

②歴史的環境の復興

 仮設住宅の創意工夫

 集集ー日月潭

 震源地集集では三八人が亡くなった。集集鎮全体で全壊一七三六戸、半壊七九二人、合わせて六九パーセントが被害を受けた。中心の街、集集里でも全壊一四三戸、半壊六四戸六一パーセントがダメージを受けた。鉄道は波打つように切断され木造の集集駅は大きく傾いた。工事現場用鉄板で囲われていた。隣の鉄路博物館は傾いたまま放置されている。

 鎮公所(町役場)で鎮長林明水(さんずい)秦に短い時間会った。すこぶる元気でこの震災をむしろ好機と考えて街づくりを展開しようとしていると聞いたからである。倒壊した廟「武昌宮」もそのまま保存して観光資源にするのだという。また、歴史的町並みを復元するのだという。

 一体どういうルールで町並み復興をするのか、と問うと、すぐさま仮設住宅の建ち並ぶ中にある一室へ案内された。建築確認申請の事務所と考えていい。「集集鎮災後住屋重建補助方法」(二月一日公告)によって、施工費(坪当たり三〇〇〇元(約一〇万円)、最高額一五万元)と設計料(平米当たり四〇〇元、最高額五万円)の補助を行うのである。規定は、二メートルのセットバック、勾配瓦屋根(斜屋)の採用などであり、色彩の規定はない。最終的には委員会によって決定される。事務所には、模型の街屋街区が置かれ、三層のモデル住戸プランが示されている。これまで申請があったものは基本的にモデル提案に沿ったものだという。

 震災直後から集集鎮に救援に入ったのは、忠原大学の室内設計系、特教(特別教育)系を中心としたチーム(集集民間重建工作站)である。彼らは現在も月一度訪れ、半壊建物の指導や学童との交流を行っている。彼らはすぐさま文化資産として歴史的建造物の調査を行う(「集集受災歴史建築物調査複勘報告」)。そして、集集歴史建築導覧地図が作られた(二月一九日)。歴史的街区の復元は、その作業に基づいている。

 伝統的文化の継承という意味で興味深いのは原住民集落の復興である。なかでも興味深い試みとして日月潭のタオ族の仮設住宅地建設がある。設計を担当するのは建築家謝英俊氏。現場に事務所を移して陣頭指揮を執る。軽量鉄骨の骨組みに竹で屋根、壁を組むシンプルな構法である。これだと建設に原住民が参加でき、日当も手に入れることが出来る。近接して神戸から送られた仮設住宅が建てられていたが、その思想の違いは明らかである。原住民にとっては単に住空間があればいいというわけではない。具体的には祭祀のための空間が必要である。慈済二村(埔里鎮)という仏教系慈善団体が寄付をした原住民のための仮設住宅地も見たけれど、共通の広場がきちんと設けられていた。仮設住宅地と言えども多様な創意工夫がある。

 

③すっかり禿げた山肌 

 過疎化に悩む農村 

 中寮郷龍安ー魚池郷長寮尾

  台湾では、区域計画法に基づいて、都市区域と非都市区域が分けられている。また農村地区について、郷村区(200人以上)、農村聚落(200人未満)、原住民社区が区別される。今回の大地震の特徴は、多くの農村が被災したことである。全域が都市化していたら、死者二〇〇〇人ではすまず、阪神淡路大震災の死者を遙かに超えたことは間違いない。

 農村部を回るとところどころに傷跡が残っている。道路はがたがたしで、放置されている被災建物も少なくない。仮設居住のためのコンテナがやたらに目立つ。そして、異様なのは山の樹木がずり落ちて黄色い山肌がむき出しになっていることである。大地震は自然の景観もすっかり変えてしまった。

 一七八人がなくなった中寮郷の龍安里、内城里、清水里を東海建築工作隊の徐明松氏の案内で訪れた。彼はイタリアから帰国して台中で事務所を開いたばかりで震災に遭い、以後中寮郷の復興計画に取り組んでいる。週に一、二回は通うという。東海大学では寮郷の他、大里の復興計画に取り組む。また、関華山副教授が原住民集落の復興を担当する。

 龍安でチームはまず全体計画を立てた。村の共同作業場に大きな模型が置かれている。復興住宅のモデルも街家型、農家型がすぐさま用意された。標準設計に従えば設計料を補助するというが、住宅復興はこれからである。半年を経てようやく仮設住宅が竣工した段階だ。また、高齢者のための共同厨房が着工したところであった。

 注目すべきは龍安八景の整備計画である。共同水場の整備をはじめとして、景観的に維持されるべき八景が設定されている。村長とともに村を見下ろす丘に登ったのであるが、彼もまた震災復興を村おこしにつなげる視点をしっかりもっていた。過疎化、高齢化が共通の悩みである。農水路、道路の復旧は第一であるが、農業振興、頭打ちになりつつある檳榔(びんろう)栽培に加えてパイナップル・ワインの開発など熱っぽく語ってくれた。

 農村集落の場合、建築家にとってどう集落景観をつくるのかがテーマだろうと社区総体営造運動の創始者陳其南交通大学教授はいう。七四の農村集落が重点復興村とされているが、そのひとつ陳其南氏が関わる長寮尾(魚池郷)に行ってみた。村の中心に廟があり、その前の集落はほとんど倒壊したままだ。復興支援の県政府のバスが図書館に変わってポツンと取り残されている。まず復興されたのは村の中心となる廟だ。全て顔見知りだったから、誰が居ないかすぐ分かった、全員無事救出できたという。鍵となったのはしっかりしたコミュニティの存在であった。そして、興味深いのは都市と農村との里親-里子制度である。廟の再建に当たって新竹市の全面支援を受けたという。各都市が被災農村を支援するかたちが出来上がっているのである。


  


2025年1月25日土曜日

地上の楽園(ジャワ・バリ)で地球環境の21世紀を考える -布野修司の20年のフィールドを歩く-,<旅行企画>日本建築学会アジア建築交流委員会 <旅行主催>株式会社日本交通公社 旅行期間 2001年3月3日(土)~13日(火)

 インドネシア建築・居住視察団参加募集

 

地上の楽園(ジャワ・バリ)で地球環境の21世紀を考える

-布野修司の20年のフィールドを歩く-

 

 インドネシアは、文化的、資源的にとても豊かな国です。ボロブドゥールに代表さ

れる、ジャワ・バリのヒンドゥー・仏教建築、今なお生き生きとしたバリ島の集落、

オランダの植民地遺産など、ジャワ・バリ文化の粋●に触れる旅をご案内します。

 21世紀の主役は、おそらく熱帯地域です。人口増加の圧倒的多数は熱帯地域に集

中すると考えられているからです。既に、資源問題、食糧問題、エネルギー問題など

地球環境全体に関わる問題が意識されだしています。熱帯地域が一斉にクーラーを使

い出したらどうなるのか。このツアーを通じて考えたいと思います。交流を考えてい

るのは、ガジャマダ大学(ジョクジャカルタ)、スラバヤ工科大学、トリサクティ大

学(ジャカルタ)、インドネシア建築史学会などです。

 インドネシアは、人口2億5千万人、世界でも有数の人口を誇ります。この間、厳

しい都市問題、住宅問題に対して、ユニークな試みがなされてきました。イスラーム

圏のすぐれた建築を表彰するアガ・カーン賞や国連の居住環境賞を得たカンポン・イ

ンプルーブメント・プログラム(KIP)と呼ばれる居住環境整備の手法やインドネ

シア版コレクティブハウス、ルーマー・ススンが着目されます。

 世界的にも著名なJ.シラス教授(スラバヤ工科大学、建築家)をカウンターパート

として20年フィールド活動を行ってきたのですが、この度、小玉祐一郎先生(神戸

芸術工科大学)らの指導を得て、スラバヤ・エコ・ハウスという実験集合住宅を建て

る機会を得ました。是非、ご紹介し、ご意見を頂きたいと思っています。

 

<旅行企画>日本建築学会アジア建築交流委員会

<旅行主催>株式会社日本交通公社

旅行期間  200133日(土)~13日(火) 1011

旅行コース-成田または関空(午前)→デンパサール(チャンディ・シンゴサリ,キンタマニ,ゴザ・ガジャ,ウブド,ブサキ寺院,タガナン,ウルワツ寺院など)→スラパヤ(カンポン・サワハン,トロウラン(マジャパイト),カンポン・サワプロ,ルマー・ススン,ソンボ,デュパック(インドネシア型コレクティブハウス),スラバヤ・エコハウス,スラバヤ工科大学訪問など)→ジョグジャカルタ(ボロブドール,プランバナン,チャンディ・カラサン,ジョグジャカルタ市内,マリオボロ地区(歴史的地区),ガジャマダ大学訪問など)→ジャカルタ(ジャカルタ市内,インドネシア建築史学会訪問,ジャカルタ国立博物館,●コタ(バタヴィア)地区,トリサクティ大学訪問,●タルマヌガラ大学訪問など)→成田または関空(朝)

 

(*地図が入る)

 

参加費用-280,000

コーディネーター-布野修司(京都大学)

募集人員-12名(最小催行人数12名,現地ガイド1名)

申込締切-200122日(金)

申込方法-下記主催旅行社に募集要項を請求のうえ,申込書に記入し,直接旅行社にご送付願います。

問合せ-株式会社 日本交通公社(JTB)

105-0001 東京都港区虎ノ門1-26-5

Tel 03-5512-0536 Fax 03-5512-0528

担当 阿曽,小野

日本建築学会事務局

108*8414 東京都港区芝5-26-20

Tel 03-3456-2051 Fax 03-3456-2058 担当栗原

 

 

2025年1月17日金曜日

四本柱のモスク,at,デルファイ研究所,199207

 四本柱のモスク,at,デルファイ研究所,199207


四本柱のモスク

                布野修司

 

 モスクといえば、玉葱坊主である。中近東の壮麗なモスクがすぐ頭に浮かぶ。しかし、東南アジアになるとだいぶ様子が違う。

 東南アジアのイスラーム国家というとマレーシアとインドネシアであるが、どうも未だにモスクのスタイルを確立しかねているようにみえる。多様なスタイルが並存しているのである。もちろん、モデルはイスラームの中枢地域に求められ、玉葱形のドームが木造でつくられたりしているのであるが、何故かしっくりこないようなのだ。というより、偶像崇拝禁止の宗旨からであろう、キブラ(メッカの方向)にミフラーブ(ニッチ、窪み)をもうけるだけで、あっけらかんとした空間だけがあればいいというのが一般的態度なのである。

 そこで興味深いのは、土着の建築形態や様式がまず借用されることである。インドネシアの場合、例えば、ヒンドゥー教の寺院であるチャンディがモスクとして利用された。残っている例では、東ジャワのクドゥスのモスクがよく知られている。

 また、ジャワの場合でいうと、ジョグロと呼ばれる伝統的民家の架構形式が用いられた。ジャワで最初にイスラーム化されたというデマのモスクやマタラム王国の王都であるジョクジャカルタやスラカルタ(ソロ)のクラトン(王宮)やモスクもそうである。もっとも、土着の木造建築の技術をベースにするのは極く自然のことであろう。

 そうした中で、インドネシアのモスクの初期形態と思われるのが、この四本柱のモスクである。これは、ロンボク島の北部山地、バヤンという村のモスクであるが、この形態のモスクは南部のスンコルという村にもある。そして今建設されるRC造のモスクの多くもこうした形態を採っているところをみると、少なくともロンボク島のモスクは木造の四本柱のものが原型になっていると考えていいのではないか。

 この四本柱のモスクの形態はどこから来たのか。まったくの推測であるが、ジャワ、バリで見られるタジュクという方形(ほうぎょう)の形式からではないか。ハイサイド(高窓)から光を採る形式は、三重、五重のバリ島の寺院の塔の形式によく似ている。しかし、よく見るとプロポーションが違う。形態と規模だけでみると、北スマトラのバタック・カロの住居によく似たものがあるが、その住居には明かり窓がない。

 バヤンは、イスラーム化されたにもかかわらず、土着の文化を保持するワクトゥー・トゥル(正統派ムスリムは、ワクトゥー・リマ(一日に五回お祈りするという意味)という)と呼ばれる人々の集落である。中には梁から吊るされた太鼓がある。また、ミフラブの前には水の神ナーガを象徴する装飾を施されたミンバール(聖書台)がある。イスラームと土着の文化が接合する状況においてこうしたモスクが生み出されたことは間違いないのであるが、果たしてどうか。

2025年1月7日火曜日

 アジアの都市と集落,第七期神楽坂建築塾,20051217

 2005年12月17

 神楽坂建築塾

                                      SF.

 

 1979年1月、何かの縁に導かれて、アジアへ向かうことになった。最初の旅は、インドネシア(ジャワ、スマトラ)、タイである。以降、四半世紀、アジア各地を歩き回っている。最初にターゲットにしたのは、東ジャワのスラバヤという都市で、もう何度も通って、第二の故郷のようだ。スラバヤには定点観測しているカンポンkampungがある。カンポンというのは日本語で言うとカタカナでいう「ムラ」という感じである。都市なのに「ムラ」という。このカンポン、英語のコンパウンドの語源だと言うことをしばらくして知った。カンポンでの経験を『カンポンの世界』(パルコ出版、1991年)にまとめた後、しばらくはロンボク島に通った。チャクラヌガラという都市を発見して、何故か、インド大陸に足を伸ばすことになった。そして、また都市の世界が蘇った。経緯は省くが、・・・・・・・次々とテーマが押し寄せてきて、毎年何度もアジアに出掛けることになり、挙げ句の果てには、「オランダ植民都市」の歴史を追いかけて世界一周の旅を二度まですることになった。この間の成果が、『アジア都市建築史』(昭和堂)であり、『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』(朝日新聞社)、『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会)、『:生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会)、『植えつけられた都市 英国植民都市の形成,』(京都大学学術出版会)、そして、最新刊『世界住居誌』(昭和堂)である。

 まず、アジア都市建築研究の課題を議論した上で(座学)、アジアのヴァナキュラー建築の世界の魅力を覗いてみたい。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...