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2025年6月26日木曜日

韓国近代都市景観の形成、段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社,2021年4月

 韓国近代都市景観の形成布野修司中日韓建築文化会議論文集

韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」は,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」は,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」(1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。


 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。

 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 

「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(図3③)。

①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。 

 朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。

朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。



2025年6月22日日曜日

座談会:北京四合院の新しいかたち-改修しながら住むこと-,建築討論06号、201510

建築討論web | WEB版「建築討論」レポーター報告書12 (aij.or.jp)

座談会:北京四合院の新しいかたち-改修しながら住むこと-

「北京四合院を改修する、住む」

 日時:2015年8月20日(木)16:00〜18:00

場所:zarah cafe(北京市東城区鼓楼東大街46)

 

司会:川井操(滋賀県立大学助教)

参加者:青山周平(建築家/Blue Architecture)、岡本慶三(建築家/ODD)、松本大輔(建築家/FESCH)、方(ZAO 標準営造StandardArchitecture)、ミンミン(ZAO 標準営造StandardArchitecture)、山本雄介(建築家/フリーランス)、京智健(建築家/京智健建築設計事務所)、布野修司(日本大学特任教授)

 

雑院化した四合院を改修する

川井:

まずは一般的な日本的状況として、住宅ストックが満たされるなかで、中古物件を購入し、リノベーションするという事例が益々増えてきています。若手建築家もこれらの改修に関わる機会が多い状況です。北京で建築家として活動される皆さんも、話を伺っているとリノベーションで仕事をしている方々が多い。中でも特徴的なのが北京旧城エリアに残る伝統住宅「四合院」です。さらにいえば四合院内部を増改築し複数世帯が雑居するいわゆる「大雑院」をリノベーションしておられます。あるいは自分たちで雑院を改修して住まわれている方々もおられます。そこで、今回の座談会は、そのあたりをテーマにして進めていきたいと思います。

実際、それぞれの改修プロジェクトを今日一日見学させていただき、各々が全然違うアプローチで設計に取り組んでいることを実感しました。まずは皆さんに改修プロジェクトの概要を紹介していただきたいと思います。

はじめに、最初に物件を拝見したZAO標準営造Standard Architecture(以下、ZAO)による「Micro Hutong 微胡同」(以下、「微胡同」)、「No.8 Cha’er Hutong 微雑院」(以下、「微雑院」)の2つのプロジェクトについて、ZAOスタッフの方さんからプロジェクトの紹介をお願いします。

方:このプロジェクトは、元々四合院に住んでいた住民を全部移住させるのではなく、一部分を保存して、その上で新しいものを取り入れて共存するスペースをつくる、というコンセプトがありました。

用途としては、「微胡同」では、雑院の一画を子供のための図書館に改修し、中庭を子供や住民のための開放的な共有スペースをつくりだすことを目指しました。それに対して、「微雑院」は極端に間口が狭いため、その特性を最大限に生かすことために、子供達のための居住空間を計画しました。

川井:ZAOは2つの異なる敷地を関連づけながら、主に子供を対象にした空間構築をおこない、公共性の獲得を目指しています。

一方で、その他の皆さんのプロジェクトは雑院住宅のリノベーションに特化しています。まずは、同じ四合院の敷地で、2件の改修に取り組まれた青山さんの「景陽胡同の住宅リノベーション」「胡同の最小限住宅」について、プロジェクトのきっかけからお話していただけますか?

青山:プロジェクトのきっかけとしては、『夢想改造家』というテレビ番組の関係者からの依頼でした(『梦想改造家』「首位外籍花美男設計師改造6.8平学区房与奇葩居同吃同住」第二季第四期2015811日放送、放映局:東方工視放映動画 URL:https://www.youtube.com/watch?v=SFTAHDrHHHA&list=PL1OG5YATWAbBp4427_ko3DwvFUf2rIHrb)。プロジェクトの進め方は、まずはテレビ局側が2つの雑院の候補敷地を探してきました。いずれもボロボロで悪列な居住環境の雑院でしたが、そこから1つ選ぶようなかたちで始まりました。家族設定は「二家族のための三つの家」という特殊な条件でした。設計費もなく、施工費のほとんどはテレビ局のスポンサーから出るので、家族自身が出すお金は総工費のほんの一部です。これは一般的なプロジェクトからいうとかなり特殊です。テレビ番組向けに編集された感はありますが、中国でも人気の番組とあって、多くの一般人の目に触れる機会でした。したがって、胡同でもこういうふうに住んでいけるんだ、ということを認知されるきっかけとして考えました。

川井:テレビ局やメディアそのものもこういったリノベーションに関心がある、あるいは四合院、胡同といったものへの価値認識が高まっているということでしょうか?

青山:はい、このテレビ番組は上海のテレビ局ですけど、全国各地の特徴的な物件から選んでいます。例えば、北京だと四合院、上海だと石庫門、重慶だと高層ビルといったように、それぞれの都市環境の中で特徴のあるものを選んでいます。それぞれかなり違う都市状況の中で、個別にどういうリノベーションをしていくのかが番組のテーマです。

布野:その番組はすでに何回放送されたのですか?

青山:去年1年間で13か14回くらい放映されました。今年はすでに4回放送しています。おそらく今年も去年と同様の回数をやるとおもいます。

川井:月1回くらいですか?

青山:週1回です。3、4ヶ月1クール、日本のドラマみたいな感じで。

布野:今日見せていただいたのは何回目くらいのやつなの?

青山:今年の第1回目です。

布野:もう少し情報として聞きたいのが、テレビ局はクライアントをどういうふうに見つけるんですか?クライアントがこういうのを建て替えてほしいと応募してくるんですか?それともテレビ局側が見つけてくるんですか?

青山:この番組をみて、全国から我が家を改修してほしい、という応募が大量にテレビ局に行くそうです。その中からテレビ局としては特徴のある家族だったりとか特徴のある家だったりを選んでいくそうです。

 

雑院を改修して住むこと

川井:青山さんは、テレビ局発信による改修プロジェクトであったのに対し、

岡本さん、松本さんのお2人は実際に雑院を改修して住まわれています。どういった動機だったのか、まずは既存の雑院を「keizo house」として改修された岡本さん、よろしくお願いします。

岡本:僕は2006年に北京に来ました。はじめは、建外SOHOにある設計事務所で働いていて、その近くの外国人が住むようなマンションに住んでいました。その後GRAFTというドイツ系の会社に勤めました。その会社が胡同[1]の中に四合院を改修して事務所をつくったんですね。初めて事務所移転先の胡同に行った時に、こんなところがあるのかと驚きました。四合院内の事務所生活では、中庭で一緒にご飯を食べたりして、すごく楽しいというかリラックスできたんですね。そのころから、ずっと胡同エリアに住んでみたいなと思っていました。ある日、住んでいたマンションの家賃が急に上がって、月々の家賃が5000元から7500元になったんです。2500元を上乗せしてこのまま住み続けるのではなくて、ちょっと思考を変えて、2年間住めばもとが取れると計算して、雑院に先に改修費を投資すれば、綺麗かつマンションと同じ価格で住めるんじゃないかと考えました。

川井:ちなみに家賃が上がったのは何年くらいですか?

岡本:ちょうど2年前の2013年です。もともと北京の家賃はずっと上がり続けていたんですけど、そのマンションの大家さんと仲が良くてずっと定額のままで5年位住んでいました。ところが、ある日突然、大家さんがちょっと女房に申し訳ないということで来月から家賃を上げなければならい、と言われました。じゃあ出て行きますと。そこから不動産会社を回って、雑院を改修出来るところを探しました。

探した雑院の中には、外国人用に綺麗にやっているところもいっぱいありました。しかし、どれも高くて改修できないものでした。今日見ていただいたところは、もうボロボロで、あまり住み手もつかないし、家賃もそれなりにするから、好きに変えていいよっていう許可を頂きました。

川井:ちなみに今の家賃はいくらですか?

岡本:元々は5000元ですが、当初はボロボロだったので交渉して4000元と安くしてもらいました。

松本:僕の自宅は2300元です。1階の面積は18平米しかないので、その分安いんです。

川井:青山さんも雑院にお住まいですが、家賃はいくらですか?

青山:4700元です。

川井:私自身もかつて、北京市内の環状線でいう3環4環あたりに住んでいました。毎年家賃が上がっていくという状況で、引越しを繰り返しながら、だんだん中心エリアから郊外に追いやられていきました。最後は5環にある望京エリアに住む状況になっていました。北京の家賃高騰は2環から外側に関してはものすごい勢いだったんです。今もまだその状況ですよね。一方で中心エリアは割と固定価格ですよね。岡本さんのように、大家との交渉次第とか、松本さんのように平米数がすごい狭いからとか、ある程度安くできる状況が続いている。したがって、この中心に改修して住むというのは、賃貸価格からみて必然的ですよね。

岡本:あと、住環境というところで、トイレは公共のものを使う点です。多くの家が外の公共トイレを使うという点で家賃を高くできないというか、高ければあって当たり前でしょという。それを自分でお金出して、トイレを付けたいというのは、結構お金がかかる、

川井:松本さんも雑院を「WZM56」として改修して住まわれているのですが、そのきっかけをお聞かせください。

松本:僕の場合は、もともと今の雑院に住んでいました。結婚をきっかけに奥さんが北京に来るということで改修したのが大きなきっかけです。岡本さんの改修物件もちょっとお手伝いさせていただいたので、そういう話を色々聞いて、改修しようと決断しました。

改修するにあたって、四合院の中でなにか良いことが出来ないかと思いました。先ほど話にあったように、院内の住宅は、排水管の径が小さいために、トイレを設置することが出来ません。また、老年の方が多くて、僕の隣の家はおじいちゃんと寝たきりのおばあちゃんが住んでいます。毎朝、足の悪いおじいちゃんが、おばあちゃんの排泄物を公共のトイレまで運んでいる。加えて、僕の住む四合院は、北京人と外から来た人が半々なんですね。外から来た人に関しては、やっぱり周囲に対して警戒するじゃないですか。やはり自宅で完結する設備が欲しいわけですよね。

そういう状況を見ていると、共有のトイレ配管設備を変えられるんだったら変えた方が良いんじゃないかと思い、その方法を考え始めました。

川井:住み続ける状況の中で、周りの声を聞いたり、状況を把握する中で、インフラも改修したい、という動機が生まれたわけですね。

皆さんの中で雑院に住んでおられる方で一番長いのは青山さんですよね?いつごろからお住まいですか?

青山:20078年くらいから四合院に住み始めました。ずっと今の所に住んでいるわけではなくて、いくつか色々なタイプのところに住んできました。

川井:住み始めるにあたって、何かきっかけがあったんですか?

青山:それは、岡本くんにちょっと似ているけども、マンションに住んでいると日本と同じ生活感じゃないですか。せっかくなので、旧城エリアで北京らしい生活を感じてみたかった。

川井:山本さんはこの中で一番最近に雑院に住み始めたと伺っています。どういったきっかけだったのですか?

山本:僕は元々望京エリアにあるマンションに松本さんと一緒に住んでいました。でも一人暮らしもしてみたいと思っていました。先ほど家賃の話しがありましたけど、旧城エリアはひとり暮らしも割と安い値段でできるという話を聞いて、引越しする決断をしました。

北京に来た当初は、綺麗好きな僕には雑院は住めないなと思っていました。それから何年かして、住んでみたいなと思い始めました。僕の家はみなさんのようにあまり居住環境が良くないです。公共のトイレを利用していますし、リビングとベッドルームは路地を介して分かれています(写真)。当初はとても住む想像が出来なかったんですよ。これってどういうふうに住むんだろうと思っていた。実際住みはじめたら、皆さんのように改修することによって、清潔になったり住みやすくなったりしたと思うんですけど、僕の場合は、自分自身の心境を変えるように努めました。

川井:岡本さんや青山さんのように「せっかく北京に来たんだから、そういうところに住みたい」という好奇心に加えて、自分自身の心境を変えたのですね。

山本:そうですね。生まれた時から「公共トイレを使っていた」「シャワーをあびるときは外に出ていた」、そのくらい自分に言い聞かせました。今はもう全然抵抗ないですね。

川井:先ほど言ったように、ひとり暮らしできる北京にはマンションがあんまりないんですよね。ワンルームで探そうと思うと、実は雑院が手頃な価格で貸し出されているという状況もあると思います。

中国人の方さんも雑院に住んでいると伺いました。日本人の皆さんは、外から来ているという心境も含めて、雑院に住む大きな動機があります。中国人、特に一人の女性が雑院に住むことには困難もあると思います。どういうきっかけがあったのかを教えていただけますか?

方:私は1年前にスイス留学から中国に戻って来ました。生まれは寧波なので、北京は古い街並みが残る新鮮な街に映りました。一般のマンションとかアパートよりは北京らしい四合院に住みたかったというのがきっかけでした。その中でも自分で床とか壁、天井を自分で雑院を改修できる物件を探しました。そこでは前門から運んできた木柱も使っています。四合院をただ改修するだけじゃなく、身直な材料をアレンジして使いながら、愛着を持って暮らすという気持ちも非常に大切だと思っています。

布野:チョウさんはどういうところに住んでるのですか?

チョウ:今はマンションに住んでいます。ですけど、私もいずれは四合院に住んでみたいです。

布野:そういう発言が欲しかった。

 

「雑院に対する設計解答」

川井:ここで、かつて隈研吾建築設計事務所北京事務所に3年半勤めておられた建築家の京智健さんに、今日一日皆さんのプロジェクトを拝見して、率直な感想を聞いてみたいと思います。よろしくお願いします。

京: 各プロジェクトについて、皆さんがそれぞれ空間の考え方、どういった処置でどういった表現をしたかったのか、自分なりに考えながら拝見していました。松本さんの「WZM56」は、18㎡の極小空間を、ロフトとキッチンリビングのつながり方というのが印象的だなと思いました。単にロフトで繋げるのではなく、手すりを使わずそのまま壁に対して、フィレットをかけて、空間を柔らかくしているところに家具のような役割を持っていて、日本人らしい細かな配慮ができている設計になっているなと思いました。青山さんの「景陽胡同の住宅リノベーショ」「胡同の最小限住宅」は、建築に仕掛けがあふれていて、家具を動かしたりすることで空間を拡張させてながら、拡がりを持たせていると思いました。岡本さんの「Keizo house」に関しては、白いボックスを斜めにふることで空間の通気性を拡張している。それぞれに共通する点として、狭い敷地の中で空間の拡げ方に工夫がされていると思いました。

布野:皆さん設計がうまいよ。それぞれに解答をきちんと出している。

戦後の建築家は最小限住宅でデビューしていったんですよ。みんな、大体そうです。そこでうまく回答を出せない人は大きいのをやってもだめ。そういう建築家の初心みたいな感じで取り組んだのだと思う。だから、この特集は間違いない!

一同:笑

川井:一方でそれぞれに難しい問題はあると思うんです。コミュニティの問題、特に所有関係が非常に複雑な状況だと思うんです。北京の四合院は、政治の動きとともに所有の制度が幾度も変わっています。そういった複雑な状況をいかに設計によって解答したのか教えてもらえますか? まずは、ZAOスタッフの方さん、チョウさんからお聞かせください。

方:私たちは、住む空間、生活する空間の質をあげる目的だけではなくて、胡同、社区全体にどういう貢献ができるか、どういうふうな影響をあたえることができるかについて考えながら設計を始めました。

川井:実際にそれは設計の中でどういう解答によって、胡同や社区すなわち公共性を獲得しましたか。

チョウ:特に増築した部分については、取り壊すという解答ではなくて、そのまま残して、どういうふうに改善していかせるかというのを第一に考えました。

川井:それが中庭部分の共有スペースでは、繰り返されてきた増築そのものの意味をきちんと継続させていってあげたということがあったのですね。

方:新しいものをつくるだけではなくて、もともとあった部分を改善しながらどういうふうにこれから活かせるかについては、大事だと思います。

チョウ:既存の増築した部分もスケールとかは、みんなが交渉しながら、作られたものなので。

川井:住民たちが交渉した中のつくられた「公共性」ということですね。

チョウ:だから残す意味はあるんじゃないかと。

布野:日本人の皆さんは自分のスペース、自分の住居の確保で精一杯なんだよね。よそ者として入ってきて、その中で折り合いつけながらやっている。その点、ZAOはやっぱり攻めているよ。

日本人の皆さんは、胡同との関係みたいなものを、奥まったところで自邸をやるんじゃなくて、多分もう少し外に対してもうちょっと色々と出来ないかというのは問われる。だけど、日本人が勝手にそんなことを北京でやったら大変だよね。

チョウ:土地所有の問題について、中庭は共有のスペースなので、勝手に増築したら自分のものになる。日本の場合は、法律的に規制されているから、中国のようには出来ないですよね。

川井:青山さんのプロジェクトでは、同じ四合院の中に中庭空間を含めた2つの雑院を改修されています。1つは中庭を介した分棟形式、もう1つは房屋一帯。それぞれに設計で工夫された点を教えていただけますか?

青山:それぞれにコンセプトが少し違っています。「胡同の最小限住宅」は、3㎡という極限的に小さいスペースなので、それをどういう風に、使う時だけ大きく使えるかということを考えたプロジェクトです。一方で高さ方向には余裕がある。別棟の中庭キッチンは、高さはいじれないけど水平方向は使う時だけは大きくできる。でも使わない特に大きくしてしまうと、みんなから文句が出ちゃうからそれは出来ない。つまり、ひとつは高さ方向に余裕があって、ひとつは水平方向に余裕がある。それぞれに垂直方向と水平方向の変化というのをどういう風に生活の中で必要な変化で出来るのか、というのを考えました。

「貴陽胡同の住宅」は、もともと3世代5人がすごく仲良く暮らしていて、ほぼワンルームみたいな中に、みんなで寝て、みんなでご飯食べて、みんなでくつろいでいるような生活でした。すごい良い家族の暮らしをしていたから、リノベーションした後に無くしたくないっていうのがありました。リノベーションした後も1階と2階は色んなところで視線的にも空気もつながっていたりとか、色んなとこから見えたりとか、改造した後もマンションの3LDKとか2LDKみたいなことにはならないように気を配りました。

2つのプロジェクトをつなげるコンセプトとして、今回二つの家族の共有する空間どう改修するのか、キッチンを拡張した時に外の空間と一体になって、ご飯を食べるときにはちょうど隣の家のキッチンのところに窓があって、そこから食事が出てくるみたいな、2つの家族がひとつの庭の中でどういうふうに暮らすかということを考えました。

つまり、今回は、住宅にそれぞれコンセプトを持たせながら、どういう風に全体として考えるか、というの考えました。

川井:一つ質問ですが、「胡同の最小限住宅」は日常的には使われですか?

青山:日常的には使わないです。将来、子供が北京の学校に通えるように、最小限あそこで暮らせる感じの場所をつくる。今はまだ夫婦に子供がいないから使われていません。使うとしても、時々来て、あそこで友達とご飯食べたりとか、くつろいだりとかするぐらいです。

方:ちなみに今回の改修費は合計でいくらですか?

青山:50万元です。

川井:青山さんのプロジェクトは、日本的な環境では絶対生まれないですよね。2つの住宅を同時にリノベートしながら、共用空間が非常に曖昧な所有関係にあったなかで生まれた作品ですね。

続いて、岡本さんの「keizo house」 はボックスを振るという操作で、限られた空間を非常に有効的に使っています。改修するにあたって、その発想に至った経緯を教えていただけますか?

岡本:最初に物件を見た時に、部屋の真ん中に壁があって、仕切られた各個室がすごく狭く、奥側のベッドルームは日当たりがまったくなかったんですね。そこで寝たくない。日当たりを全体に入れたい。あとワンルームで使いたいということで。切妻屋根で、高さは結構あるので、ロフトを作りたい。ロフトをつくって、上にスペースがあると色々使えるかなと。壁に対して水平にボリュームを入れてしまうと、そのボリュームの圧迫感を、壁と同じ感じで受けてしまうので、どうにか出来ないのか考えました。そこで、少し斜めに降るということで、少し視覚的に抜けるというのか、空間の抜けができるというのを利用しました。実際に使用してみると、ボリュームを振ることで生まれた三角形の空間はどこに座るか規定しないし、そこまで窮屈に感じない。

自分で新しく組み込んだ機能、お風呂場とかトイレとかキッチンというのは、白く塗ることによって、既存の壁に対してコントラストを付けて見せたらどうか、と考えて設計をしました。

川井:既存壁の表面は削ったんですか。

岡本:そうです。

京:これ、日本でこんなことをしようと思うと、かなり高くつきますよね

岡本:職人いわく、この壁は作ることは出来ないから残すなら残したほうが良いと提案がありました。

僕ももちろん残すつもりでいたんですけど。こういうのはもう作ろうと思っても作れない。ちなみに総工費は200万円程度です。

川井:岡本さんは大家や職人との関係が非常に蜜で、丁寧にコミュニケーションを取りながら、素晴らしい空間が出来ているというのもありますよね。

続いて、松本さん、「WZM56」の改修について、お願いします。

松本:まず、目的が2つあります。まず1つ目は必要最低限の機能を18㎡に入れないといけないということ、2つ目は先ほども言ったようにインフラを整備することで共有空間の使い方が、少しでも良くなるようになにか考えられないかということ。

全体をダイアグラムで示すと、2階にプライベートな空間を持ってきて1階に外部に開放できるような空間を持たせることで、人との関わりがまた違ってくるんじゃないか考えました。(写真)

一般的な雑院に入っても家の中が見えなかったりして、本当に閉ざされた狭い空間だと思います。その中で家の向こうの木が見えるとか、光が入ってくるとか、雑院全体に貢献できるのではと考えました。実際に改修後、隣の家のおじちゃんが、僕が料理をつくってる時に、中を覗いて勝手に入ってきたりして、ちょっとおしゃべりしたりしています。だから雑院の一部分の改修なんですけど、みんなの生活がちょっと良くなったかなと感じています。

布野:家の奥からの隣の雑院の壁が見えて、「ああこれを見せたいんだ」と思った。隣の家と不思議な関係が出来る可能性がある。ここで、是非チョウさんとファンさんにも各々の改修物件の感想が聞きたい。

チョウ:岡本さんの設計手法は、現在進めている雑院プロジェクトと非常に似ています。岡本さんの家のような斜めのボックスを入れることによっていくつかの空間を生むことができる。もともとの大枠は崩さずに、中に小さい部分を生み出すということを試みています。

方:私や山本さんが住んでいる雑院の屋根は、切妻ではなくて、水平なのでそういう高さを活かすことは難しい。やはり松本さんや青山さんの家の様な切妻屋根があって、ロフトをつくったりとか高さで工夫をすることに関心を持っています。

大抵の北京の雑院は、屋根を陸屋根にして改修するのですけど、やっぱり切妻のほうがいろんな工夫が出来るから、今後のテーマとして考えてみたいです。

川井:僕も実測調査で四合院をいくつか描いてきたのですが、断面が非常に面白いですよね。みなさんの改修のアプローチをみても、断面を非常に有効的に使われていると感じました。

山本:一方で周りの公共通路との関係性というか、水平方向にも関心があります。例えば、僕の家は路地を介して向かい合う分棟形式なので、カーテンを全開にしてもよくて、光もたくさん入ってきます。一般的に雑院ではみんなカーテンを閉めていています。理由としてはやっぱり部屋の中を見られたくないから。でもやっぱり勿体無いじゃないですか。だからどういうふうに、その辺をどうやって改修できるのか。そこで全体が変化すればもう少し環境が変わってくるように思う。

川井:これはプライバシーの問題が大きく関わってくると思うんですけど、水平方向に対する設計の工夫をされた点があれば教えてください。

岡本:我が家は実際にカーテンがないです。部屋の中は公共に面しているというよりは大家さんにしかみられることはない。ベッドルームをロフトの上に持っていっているので、窓からみえるキッチンはそれほどプライバシーを必要としません。したがって、プライバシーをあまり気にしていないです。

川井:これは松本さんにも共通しますよね。1階をオープンに見せることで、水平的な抜けを作っていますよね。

松本:そうですね。それと、窓の外にちょうど隣の家の窓がないことも大きいですね。

 

四合院の未来像

布野:ここで皆さんにお願いしたいのは、雑院単体だけじゃなくて四合院全体のモデルでやって見せないといけないんじゃないですか。僕が知っているのは、1990年に、北京清華大学の呉良鏞先生設計の『菊池胡同新四合院』という四合院型集合住宅のモデルが作られたんですね。その後、みんなそっちがいいよという話になっていって、今ではエリア全体に規制がかかっている。次は自分の家ではなくて、仕事としてチャレンジしてほしい。

青山:その時に、今の北京の問題として、例えば四合院全体でプロジェクトをやろうとすると、再開発するために、今住んでいる人たちの家を潰すことにすごいお金がかかってしまいます。そこに建築家が入って再開発して売りだした時に、その値段がすでに一般の人が買える値段ではない、超高給住宅にしかなりえない。それが原因で北京の不動産の市場を個人はもちろんディベロッパーもそれを動かせないし、政府も動かせない。その時に、ひとりひとりが自分で少しずつお金をだして、改造していくというアプローチが今後もっと重要になっていくのではないかなと思います。

布野:それは賛成。すごく賛成なんだけど、建築家としては仮にでも四合院モデルをやって見せたら、実現しなくてもいいかもしれないけど、計画図を介して生活の新しい姿を見せる必要があるかなと思う。

岡本:先ほどの不動産屋の話ですが、借りて自分たちで改修して別の人に貸し出すと、不動産屋は入って来ることができない。そういうところで別の仕組みをつくっていくと大きい規模も出来るんじゃないかと思う。

川井:それでは最後に胡同、四合院、雑院に対する皆さんの展望を聞かせてください。

ファン:現在、私たちは内城の西エリアでもうひとつの四合院プロジェクトを進めています。クライアントは投資会社、用途は住宅です。当然高く売り出すために当初から居住空間を改善しなくてはいけません。今施行期間中なので、9月末に完成する予定です。個人的なものなので、そこでは四合院の新しい空間体験というところを工夫したいと思っています。

川井:続いて青山さんにお伺いします。日本人建築家として中国でやっていく上で胡同、四合院、雑院に対する展望をお聞かせください。

青山:今回のプロジェクトに関しては、典型的な雑院の改造なので、ここでやったことをもう少し普遍的な経験としてまとめたほうがいいかなと思っています。ここでの問題は、胡同ないしは雑院でもほとんど同じ状況が起こっています。例えば、先ほど話にも出たように、四合院の多くは雑院化の影響で水平方向にはほぼ拡張する余裕がないので、垂直方向にしか拡張できない。高さ方向なら屋根を少し上げることもできるし、地下を少し掘る事もできる。そういったところでどういう空間が作っていけるのか考える必要があります。続いて、「採光」の問題があります。雑院の壁については四周がいろんなところに接していて、あまり採光が取れない。だからほとんどの壁は収納とかキッチンに使われてしまう。したがって、どうしても天窓を使わないといけない。天窓をどういう風に使うのか考える必要があります。さらに、「狭い」という問題があります。ひとつの空間をどういう風にして複合的に使うのか。例えば、日本の四畳一間では時間を区切っていろんな使われ方をしていました。その中国版あるいは北京版を考えてみたいです。また、旧城エリアにある四合院の木柱はほとんどが腐っている。実際は構造的な役割を果たしていなかったりしている。それもどういう風に変えていくか。ほとんど同じ形式や構造で作られて、同じ時間が経っているから、同じような問題が同時にいろんなところで起こっています。こういったいろんな小さい問題や知識を積み上げていくと、北京のリノベーションというのは、もう少し体系的に整理できるんじゃないかと考えています。

川井:青山さんは、旧城エリアでの居住経験が長く、実務経験も豊富です。実体験としてこれらの問題に対して、非常に説得力のあるコメントをお話いただきました。

続いて、岡本さんは、四合院の改修物件も多く、さらにはインスタレーションの試みも実践されています。そのあたりを踏まえて今後の展望をお聞かせください。

岡本:現在、僕は日本人パートナーと、ODDという事務所をやっています。これまでに四合院では、2件の住宅と1件のレストランを設計しました。最近では、北京デザインウィーク[2]にも参加し始めて、去年は大柵欄地区で『猫の家』(http://www.designboom.com/architecture/odd-cat-houses-hutong-roofs-beijing-10-09-2014/)というのを設計しました。胡同のもう一人の住民である猫を視覚化するという試みです。道路だけでなくて、屋根の上もどんどん歩いていくということを見せることで、胡同の新たな一面に気づくこともあるんじゃないかなということをインスタレーション的におこないました。

今年の北京デザインウィークでも新しい提案行う予定です。北京の旧城エリアは、マンション地区に比べてマナーはまだまだよくありません。タバコのポイ捨てをする人や立ち小便する人もいる。さらに、北京市内は、今年の6月に室内が禁煙になって、みんな外でタバコを吸うようになったんですけど、胡同に面する壁で火を消したりしている状況です。この人達の喫煙の行動特性を生かせないかと考えています。一つの行動パターンとして排水口にタバコを捨てるというのがあって、「排水口を灰皿にすればいいんじゃない」というプロジェクトを計画中です。設計をすることで行動を変えるのではなくて、すでにある行動に添わせて設計をする、ということを考えています。

川井:行動特性を設計に活かすという試みは非常に面白いですね。これも北京生活が長く、人々の行動をよく知る岡本さんならではの設計手法のように感じました。最後に、松本さんは雑院のインフラを改善するという居住環境整備を自らの発信でチャレンジされました。そのあたりを踏まえて展望をお聞かせください。

松本:まず、北京の人たちというか若い人たちが胡同や雑院にもっと興味を持ってもらいたいと考えています。ただ、知り合いの北京人に聞くと、汚いとか、そういう嫌な印象しかもっていない。だから、まずはトイレや排水環境といったインフラの改善をしていかないといけないと思っています。改修するにあたって、周りの住民たちのの独占的な考え方を体験しました。それが北京人の特徴の一つだと思うんですけど、そういうのを踏まえながらその中でインフラを変えられる一つのビジネスモデルをつくっていけたらなと思っています。今回インフラを整備することが理想だったんですけど、雑院内のある住民の反対を受けてだめになりました。今後は、改修した雑院を長期的に安く借りて、出来るだけ安い費用で整備をおこなう。そして雑院の中でひとつの住宅を改修するだけで全体が良くなるようなモデルケースをつくりたい。それによって中国人が率先して真似をしていけば、国に頼らずに民間さらには個人で、インフラが積極的に整備していけるんじゃないかなと考えています。

川井:末端からのインフラ整備というのは、非常に興味深いですよね。それを日本人が扱うということに面白さがあり、この国でロールモデルをつくる意義や可能性を感じます。

それでは、布野先生から今日一日の感想を一言いただけますか?

布野:僕、今日は想定以上に喋った。黙って聞いておくつもりだったけど、大変面白かったし、ほんといいものを見せていただいた。これをちゃんと日本の建築学会に伝えたいし、そして皆さんの刺激にしていただきたい。

川井:今日は、北京特有の環境下で生まれるリノベーション現象とそのあり方を問いながら、各作品では大変魅力的なものを拝見させていただき、その経緯をきっかけ、設計方法、今後の展望からお聞きすることができました。長時間にわたりお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 

(プロフィール)

青山周平

岡本慶三

松本大輔

山本雄介

京智健

チェン

 

布野修司 ふの・しゅうじ

1949年島根県生まれ。日本大学特任教授

東京大学工学研究科博士課程中途退学、京都大学大学院工学研究科助教授、滋賀県立大学大学院環境科学研究科教授、副学長・理事を経て現職

 

川井操 かわい・みさお

1980年島根県生まれ。滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科助教。滋賀県立大学卒業。同大学大学院修了。博士(環境科学)。都市計画・建築計画。北京新領域創成城市建築設計諮詢有限責任公司、東京理科大学工学部一部建築学科助教を経て、現職。

 



[1] 胡同hutongとは、元王朝時代に計画された首都北京市の旧城内を中心に点在する細い路地のこと。その語源は、モンゴル語で井戸を意味するxuttuxの音訳が起源とされる。

 

[2] 北京デザインウィーク( 以下、BJDW )は、2011年より毎年国慶節に北京市で開催される国際デザインイベントである。BJDWには、毎年2000人以上のデザイナー、機関運営者、各種専門家が参加し、 500万の来場者がある。これまでに主会場となったのは、大柵欄地区、798芸術区、751芸術家区、三里屯地区の4地区である。

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...