このブログを検索

ラベル アジア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル アジア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年4月30日火曜日

植民地支配と建築家、書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』、SD,199704

書評 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家』
植民地支配と建築家 

布野修司

 

 間違いなく労作である。そして、一見ハンディな本のようでていて、とてつもなく重い本である。

 本書のもとになったのは『二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動に関する研究』という学位請求論文(東京大学 一九九二年)である。そこで時間をかけて丹念に掘り起こされた圧倒的な事実が本書を大きく重みづけている。そして、「二〇世紀前半の中国東北地方における日本人の建築活動」が「日本による中国東北地方への侵略・支配に対して、大なり小なり貢献していたのは確かである」という、全体として扱うテーマの大きさが本書をさらに重いものとしている。

 全体は7章からなる。大連軍政署および関東都督府()、満鉄()、満州国政府()、ゼネコンとフリー・アーキテクト()の前半においては、それぞれ「建築組織」と「建築家」群像が克明に調べられ列挙(リストアップ)された上で、主要な建築(活動)が紹介される。そして後半の3章は、建築様式(Ⅴ アール・ヌーヴォーvs中華バロック)、自然条件と建築材料あるいは都市防火と美観(Ⅵ 異境での建築活動)についての考察を踏まえて、総合的考察(Ⅶ 中国東北地方支配と建築)がなされている。

 最初の建築家、前田松韻が東京帝国大学建築学科を卒業直後にダルニー(大連 ダーリニー)に渡ったのが1904年。そして、池田賢太郎、岡田時太郎が続いた。日露戦争とともに中国東北地方における「建築家」の活動が開始される。以後、15年戦争期にかけて、日本人建築家たちがどのような建築を建てたのか、様々なエピソードとともに記述されている。京都府技師であった松室重光が大連市役所を建てる経緯、大連医院の設計をめぐる米国フラー社の途中解約事件、内地に先駆けた集合住宅、大連近江町住宅を設計した太田毅、安井武雄の満鉄時代、遠藤新と土浦亀城の中国東北地方での活動。かって薄暗い書庫で『満州建築協会雑誌』の頁をめくったことを思い出した。とても書かれたものだけからはわからない興味深い事実が随所に記されていて実に刺激的である。

 日本帝国主義の満州支配の拠点であったといっていい大連の南山地区には今猶1910年代から20年代にかけて日本人によって建てられた住宅が今も猶残っている。大連理工学院の陸偉先生と一緒に調査する機会があった。内地に先駆けてアパートメントハウス関東館(1919年)が建てられている。ゾーニング(用途地域性)も内地京都(1924年)に先駆けている。満州が日本の実験場であったという評価も一方でそれなりに了解できた。大連市はこの南山地区を「保存的開発地区」に指定したのであるが、何を保存し、何を開発すればいいのか、僕自身考え続けている。本書全体がそうした問いに関わっている。

 一個の建物ならもう少し簡単かも知れない。朝鮮総督府(韓国中央博物館)のように如何に傑作であろうともPC(ポリティカリー・コレクトネス)問題として、壊されるべき建築はあるのである。しかし、町そのものは生きられることによって自らのものとなるプロセスがある。南山地区は既に半世紀を超えるそうした歴史がある。本書に微かな不満が残るとすれば、究極的にタイトルが示すように日本の「建築家」からの視点が全体として強調され、建設され残された集団としての住宅地や町の方からの視座が隠されてしまっていることである。

 



 

2024年3月3日日曜日

布野修司:「古代インドの都市理念」The Idea of the City in Ancient India,Bob Hudson (University of Sydney) Bagan, Myanmar 11"' to 14th Century. History and Architecture, Jacques Gaucher ( EFEO) Urban Historical Problematics About a City Wall, Angkor Thom (Cambodia) 東京文化財研究所主催 東南アジア古代都市・建築研究会「東南アジアの古代都市を考える」東京文化財研究所・セミナー室,20180119(「東京文化財研究所」報告書2019年)。

  本日の発表では、まず簡単にアジア都市研究を紹介したいと思います。それから、いささか大風呂敷になりますが、ユーラシア全体に視野を広げて、古代都城、王権の所在地としての首都の在り方について見取り図の話をいたします。次に、少し横道にそれますが、古代インドの都城と比較ができる中国の都城について簡単に紹介します。最後に、「曼荼羅都市」とタイトルをつけましたが、古代インド都市の話をさせていただければと思っています。

 私は都市計画を専門としておりまして、初めはインドネシアの都市の専門家でしたが、色々ないきさつの中でアジア全体に足を伸ばすことになりました。例えば現在、エジプトで日本式教育を行う学校を100校建てるという仕事に携わっています。

 私は自分の研究を「都市組織研究」と位置付けています。つまり、都市を捉えるときに、人体に例えると遺伝子からひとつの骨がでる、というように、例えばひとつの家具が集まってひとつの住居ができて、それが集まって街区ができる、というプロセスに興味をおいて比較研究をしています。

 具体的には、中国の北京がどういう形で成り立ったのかについて分析を行いました(1.1)

 これから私の仕事を紹介しますが、ひとつは『グリッド都市』という本を書いています。寸法の単位を基にヨーロッパ、インド、アジアも含めて比較を行っています。図1.2はバリの事例です。このように尺度の単位というのは、世界中どこでも人体寸法に基づいて決められているわけです。

 寸法については中国の井田制と日本の条里制が関係していることがはっきりわかります(図1.3)。

 古代ギリシャ、古代ローマにもグリッド都市の事例があります(図1.4)。

 ヨーロッパの世界では、スペインがイベロアメリカでつくった都市について、1573年にフェリペ二世の勅令により「レイエス・デ・インディアス」が定められ、同じモデルで25ほどの都市が作られます(1.5)

 また、キューバには「アト・コラル」という円形に都市を分割するシステムがあります(1.6)。これは1リーグ、一時間に歩ける距離でその範囲はあなたのものですよ、という区別をしたものらしいです。もし他にこのようなシステムがあるのなら教えていただきたいです。驚くことに、今キューバにいくと市町村の境界は円形をしているのです。古今東西グリッドは見られますが、グリッドだけではない土地分割もある。

 それでは本題に入ります。最初に私の仮説をご紹介いたします。

 ユーラシア全体を見渡した時に、コスモロジーと具体的な都城の形態との関係に着目すると、まずそういった都城思想を持つ地域(A)と持たない地域(B)の大きく2つに分かれます。

 A地域がインドと中国です。この都城思想を持つ地域は核心地域と周辺地域に分けられます(1.7)

 中国の場合は韓国・ベトナム・日本が周辺地域です。インドの場合は東南アジアが周辺地域です。2つの地域とも都城思想を表す書物があり、都城の理念が空間的なモデル、図式に表現されます。

 アイデアは幾何学的なモデルで表現されますが、それがそのまま実現するとは限りません。立地の条件など様々なことによってそのモデルはいろいろな形に変形されます。

 理念形がそのまま表現されるのはむしろコア地域よりも周辺地域です。何故かというと、自分の支配の正当性を表現することがより必要とされるからです。

 ですからインドの場合は、理念形はむしろ周辺地域のほうが表現されやすい。もちろんその理念形が実現した場合でも、時間の経過によってそれは変形していきます。

 以上が私の仮説となります。

 もう一つのB地域は、主に現在イスラム圏域です。ではイスラム圏域にコスモロジーがないかというと、そういうことではなく、ひとつの都市でひとつのコスモスを表現するという考え方がないということです。

 イスラムの場合は、メッカ、メディナ、エルサレムも入れて都市のネットワーク全体がひとつのコスモスであるという思想です。

 また、イスラムには、イスラム研究の先生方といろいろ議論したり調べたりしたのですが、都城理念を示す書物はありません。

 古代中国の都城の課題に入ります。A地域のひとつのコアである中国都城について、昨年11月に日本学士院の学会誌に論文を発表しました(Shuji Funo, 2017, "Ancient Chinese capital modelsMeasurement system in urban planning", Proceedings of the Japan Academy Series B, Vol. 93 N.9, 724-745)。世界で7番目くらいの引用率の学会誌で、建築分野の論文が載るのが恐らく初めてです。

 図1.8は中国の古い書物、『周礼考工記』に書かれたモデルを図にしたものです。マンダレーのプランがそれに従って図面を描いたのではないかというのは、私の論文のひとつの主張です(図1.9)。これは提起ですので、是非議論していただきたいことです。恐らく今日一日では決着がつかないと思いますが。

 今まで中国の都城は『周礼』に基づいてつくられたということでしたが、そのモデルに従った都城は実は一個もなく、考古学的には発見されていません。強いて言えば、明の時代、清の時代の北京が一番近いと言われています。

 中国の都市には3つのモデルがあるのではないかというのが、私の論文の主張です(図1.10)。すなわち、『周礼』のモデル、宮殿が北側にある長安のモデル、そしてモンゴルが作った大都のモデルです。それを寸法体系で説いたというのが、論文の主な内容です。

 論文より以前に『大元都市』という本を書きましたが、そこに具体的な都市組織、街区の図面まで復元しました(図1.11)。アンコールについても私はこのレベルで復元したいと思っていますので、今日のシンポジウムを大変期待しております。

 本題に入りますが、『曼荼羅都市』という本を書いていますが、そこにインド世界の都市のモデルと、3つの都市を取り上げています。

 まずはモデルですが、一般には、ヒンドゥー教や仏教の経典などに書かれているものから世界をどのように考えていたかについて復元がされています(1.12)

 また、マウリア朝のチャンドラグプタの宰相だったカウティリヤが、王国を治めるための書物、『アルタシャーストラ』を書いています。それのあるチャプターに都市建設について書かれていて、古代インドの都市を考える際にはそれが参照されます(上村勝彦翻訳、『実利論 ―古代インドの帝王学』岩波文庫、1984)。図1.13に、『アルタシャーストラ』の内容を図化したいくつかの例を表しています。

 古来研究者は『アルタシャーストラ』に基づいた古代インド都市モデルの復元図を作っています(図1.14)。不思議なことに坊三門といった各辺3つの門によるつくりで、中国都城のモデルと同じなのです。さらに天上のエルサレムとうユダヤ教のアイデアルシティも坊三門です。私は、これは天文学に関係があると考えていますが、なぜ共通かということについて後ほどご意見をいただきたいと思います。

 図1.15は『アルタシャーストラ』に基づいた復元図のうち一番いいのではないかと思っているモデルです。中心の黒く塗られている1番が神殿領域、2番が宮殿、15番がブラフマン領域、東側がクシャトリア、南側がバイシャ、西がスートラになります。

 もうひとつ我々が建築や都市計画を研究する際に参照するのが「ヴァーストゥ・シャーストラ」です。「シャーストラ」というのは恐らく「論」という意味で、「ヴァーストゥ」は建造物を意味します。30種類ほどの、日本の木割のようなものです。

 その中に一番完璧に残っているのが『マーナサーラ』と言われています。「マーナサーラ」は「尺度」という意味で、最初の章に寸法の話が書いてあります。小さな粒子の単位から人体寸法から歩測のような寸法の話があります。

 その次には空間の分割の話が書いてあります(図1.16)。2×2の分割、3×3の分割、8×8の分割や9×9の分割がありますが、それら全部に名前がつけられています。

 基本的に分割した中に、ヒンドゥーの神々を配置していきます。要するに、曼荼羅図の形に、位置を与えていきます。

 『マーナサーラ』には都市と村のパターンが8つあります(図1.17)。カールムカという弓型のもの、スワスティカという卍形のものなど、いくつかパターンが示されています。

 『マーナサーラ』から復元したものの中に、都市の規模が示された図があります(1.18)。都市の規模によって名前がついています。1.8 mくらいの単位で割れば、分割できるということがわかりました。

 では、インドではこのようなモデルを実現した実例があるのでしょうか。先程周辺部の方が理念形が実現しやすいという仮説をお話ししましたが、インドではすでに11世紀にイスラムが入り、考古学的な調査が遅れていることもあり、そういった事例が見つかってありません。

 南インドにある、スリランガムという寺院都市が理念形に近いものです(1.19)。真ん中に神殿があり、プラカーラという何重の境界があるというような形です。

 また、マドゥライという都市も調査しました(1.20)

 形を見ると、ぐちゃぐちゃに見えます。歴史を経てモデルは崩れています。ただし、月ごとに行われる都市祭礼があって、それの後を追っていくと、やはりある理念形によってつくられた都市だということが分かりました。

 都市に流れる川によって変形したり、途中で宮殿が建って道路が変形したりしています。歴史的な変形をしていますが、モデルを基に計画された都市だと思っています。中心にミーナークシー寺院という神殿があります。

 都市型の住宅としては、コートハウスという、古今東西共通の都市的な住形状があります(1.21)。カーストごとの居住地といった住みわけも今でも見られます。

 次に、ジャイプルという、18世紀にジャイ・シン2世がつくった都市です(1.22)

 これはまた別のタイプに見えますが、『マーナサーラ』に書いてあるひとつの型をモデルに設計したのではないかという説があります。

 基本的には三分割されて、中心に宮殿とジャンタルマンタルという天文観測装置があります。地形の制約がありますが、このような形の設計だったと思われます。グリッド自体が十数度か傾いていて、正南北ではないという、モデルからの逸脱があります。

 次は都市組織、街区についてお話しします(1.23)。その寸法も明らかに計画的に設計されていまして、中に埋まってくる住居はハヴェリというコートハウスが基本です。元々は2階建てくらいでしたが、今は4~5階建ての高層階になっており、100人くらいの合同家族が住んでいます。

 18世紀のヒンドゥー世界では、西の端にジャイプルがあり、東の端にインドネシア・ロンボク島にチャクラヌガラという計画的につくられた都市があります(図1.24)。サンスクリットで、「チャクラ」は「円輪」という意味もありますし、体の急所の意味もあります。「ヌガラ」は「国」とか「都市」という意味です。バリのカランガスム王国の植民都市としてつくられました。

 非常に変わった形をしていて、南北にはモデルにはない、飛び出たところが見られます。実はバリ島の集落は大きく3つの部分からできています。カヤンガン・ティガという起源の寺が北にあって、死の寺と墓地は南にあって、真ん中はみんなが住むところです。

 それからグリッドでできていますが、不思議なことにグリッドは平安京にそっくりなのです。インドネシアはインド側でもありますが、中国にも属します。1290年代にクビライが攻めていますし、当然中国の商人も出入りしていますので、中国的な理念が入っていてもおかしくないです。

 今日私が短い時間で大まかな風呂敷を説明させていただきました。最初にお話ししたのが、大きくユーラシア全体で都城の考え方が中国・インドに二分割されていて、2つの圏域でコアがあって、そこから考え方が周辺に広がっていきました。モデルがそのまま実現した例は両方ともどうもなさそうですが、それを実現しようとしたかに見える、いくつかの事例があります。

 ですから、バガンあるいはアンコール・トムは、どういった設計思想で都市を形成できたのかということについて、議論できればと思っています。