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2026年8月9日日曜日

チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2,GLASS LIFE,セントラル硝子,199006

 チャンディ・スク チャンディ・チョト,東南アジアの建築世界2GLASS  LIFE,セントラル硝子,199006



東南アジアの建築世界2

チャンディー・スク    

チャンディー・チョト          

布野修司

 

 東南アジアの建築というとまず想い浮かぶのはアンコールワットやボロブドゥールのような巨大遺跡の建築であろう。東南アジア地域は古くから中国文明とインド文明という二つの大きな文明のインパクトを受けてきたのであるが、とりわけ、インド(ヒンドゥー)文明は東南アジア世界に深く及んでいる。その後、イスラム化の波が東南アジア全体を襲う。現在ではヒンドゥー教が支配的なのはバリ島のような特定の地域にすぎなくなった。しかし、一皮めくった基層文化として共通なのはやはりヒンドゥー文化である。その伝統は様々な形で今日でもみることができるのである。東南アジアのインド化の歴史を示すのが各地に残されたヒンドゥー(・仏教)建築である。そうしたヒンドゥー建築のなかにちょっと変わったチャンディーがある。チャンディー・スクとチャンディー・チョトである。

 

 チャンディー(     )とは、ジャワのヒンドゥー・仏教寺院の総称である。寺院といっても様々な建造物からなるのであるが、チャンディーというとストゥーパ(卒塔婆      )と違って内部空間をもつものをいう。礼拝供養の対象物(仏像、神像、リンガなど)を納めた祠堂である。一般的には、チャイティア・グリハ(              「礼拝物の家」の意)といわれる建造物に当たる。実際に僧侶が住む僧院はヴィハーラ(      )である。しかし、内部空間をもたない立体曼陀羅であるボロブドゥールもチャンディー・ボロブドゥールと呼ばれるし、いくつかのチャンディー群のコンプレックス全体もチャンディーと呼ばれる。ジャワでチャンディーというと、タイのワット(   )と同じように、日本語の「お寺」という感じで一般的に使われているのである。  

 建築物としてのチャンディーは、大きく三つの部分からなる。すなわち、屋蓋、身舎、基壇の三つである。その三層の構成は宇宙の三界(さんがい)を表現しているといわれる。すなわち、ヒンドゥーのチャンディーでは、マハーメールのそびえる神の領域であるスヴァルローカ(天界)、地下世界であるブール・ローカ(地界)、その間に広がるブヴァル・ローカ(空界)の三つをそれぞれが象徴する。また、仏教のチャンディーでも、須弥山を中心とする三界観(大乗の場合は、アルーパダーツ(無色界)、ルーパダーツ(色界)、カーマダーツ(浴界)の三界、南方上座部(小乗)仏教の場合、アルーパローカ(無色界)、ルーパローカ(色界)、カーマローカ(浴界)の三界)に対応してチャンディーも三つにわけられるのである。

 もちろん、ヒンドゥー教の宇宙観はそう簡単に図式化できるわけではない。以上は大まかな構成原理であって、細部は様々である。また、地域によって異なる。チャンディーも中部ジャワと東部ジャワとで違う。ヒンドゥー・ジャワとヒンドゥー・バリの建築も少しずつ違う。中部ジャワから東部ジャワへ、そして、バリへ、ヒンドゥー王国の中心は移動して行くのであるが、チャンディーの様式も地域地域で異なっていくのである。

 大まかにいうと、中部ジャワのチャンディーは、ずんぐりと太めである。それに対して、東部ジャワのチャンディーはスレンダーである。バリにはグヌン・カウィに石窟のチャンディーがあるのであるが、細身で東部ジャワに近い。プロポーションが一見して違うのである。また、チャンディーの向きについても違いがある。中部ジャワではいくつかの例外を除いて、東か西を向くのが原則であるが、東部ジャワではその原則が崩れることが多いのである。東部ジャワでは、東西南北より、ローカルなオリエンテーションの方が重視されるのである。メール山(須弥山)となる山の方向を向くことが一般的なのである。

 また、西部ジャワのチャンディーは装飾が過剰である。東南アジアのヒンドゥー・仏教建築に関する研究の先達であり、第一人者である千原大五郎氏は以下の三つの点をあげる(  )。

 (1)開口部や壁がんがカーラ・マカラ・オーナメントによって縁どりされていること

 (2)階段の両翼の耳石がS字形をなし、その上下端がカーラとマカラで装飾されていること

 (3)主堂の前面に突出して設けられている前房の屋根が日本建築の唐破風に似た曲版屋根であること

  カーラ(    )あるいはマカラ(      )というのは、ヒンドゥー教の宗教的表徴である。半神的性格をもち、動植物をモチーフとする彫刻や文様として表現される。カーラは鬼面のようにみえる。面白いことに中部ジャワでは、上顎までしかないのであるが、東部ジャワでは下顎さらに腕を含めて表現される。カーラとは、「時」あるいは「黒」を意味する。カーリーがカーラの女性形で、カーリー女神は、人の頭蓋骨を綴った飾りを首から垂らし、人の腕を綴った帯を腰につけている。おどろおどろしい。マカラはもともとは山羊だろうか、口の中にライオンがいる。学問の神様ガネシャ(       )は 象である。

 全体的に中部ジャワ期のチャンディーは、インド的祖型を強く残し、その理念型を忠実に実現しようとしているようにみえる。それに対して、東部ジャワ期のチャンディーは、より土着化し、変容を受けているようにみえる。

 

 ところで、そうした中でちょっと珍しいのがチャンディー・スクである。いささか謎めいている。以上に触れたチャンディーとは全く異なったチャンディーのようにみえるのだ。みた瞬間、想起したのはマヤのピラミッドである。よく似ている。きれいな四角錘台の形態をしているのである。

 チャンディー・スクというのは、中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)ーーブンガワンソロのソローーの東方、ラウ山(      )の山腹に位置する。ソロから車で一時間ほどであろうか、中部ジャワといっても、もう東部ジャワとの境界である。昨年、ソロのマンクヌガラ宮で開かれたユネスコの国際会議に出席した際、初めて訪れる機会があった。近くに変わったチャンディーがあるというのでふとでかけてみたのである。チャンディー・スクへ行くというとみんなにやにやする。エロティックなチャンディーというのだ。確かに、性のシンボルがところどころにおおらかに置かれたチャンディーであった。

 チャンディー・スクは15世紀の建造だとされるのであるがわかっていないことが多い。中部ジャワ期のチャンディーは、7世紀後半から10世紀後半の建造とされるから、中部ジャワに位置するといっても、チャンディー・スクが建てられたのは、ヒンドゥー王国の中心が既にクディリ、シンゴサリを経て、モジョパイトへと移ったころである。不思議なのはその形態だけではない。ピラミッドの階段を上がってみると、中央に穴がうがたれていた。そこには巨大なリンガが置かれてあったという。リンガとは男根である。チャンディーの多くはリンガを奉る。しかし、それを覆う建造物が残されていないのは何故か。そこには、バリに見られるような、何層かの木造の塔状の建築があったのではないか。実際、レリーフには、そうした建物が描かれているではないか。

 また、子宮のなかにマハーバーラタの英雄ビマ(    )を描いた巨大なレリーフは一体何に使われたのか。また、無造作に、甲が平らな大きな亀が投げ出されている。これは何を意味するのか。日本で亀の上に墓石を載せるように何かを載せていたのであろうか。亀というと、蛇の上に亀の載ったインドの宇宙図を思い出すのであるが、それであろうか。沢山のレリーフが方々に置かれているのであるが、意味のわからないものが実に多い。

 チャンディー・スクは、実に抜群の見晴らし台にある。軸線は一直線にとられ、下界を見おろしている。何故こんなところにという気がしてくる。立地も他のチャンディーと違っているのである。千原大五郎氏は、ジャワにも、インド化以前の土着固有の巨石文化が生きており、この巨石文化の名残と消え行くヒンドゥー文化が融合して造られたのがチャンディー・スクだという。果してそうだろうか。巨石文化というほどスケールはなさそうなのだ。

 チャンディー・スクで不思議な気分にさせられたあと山を降りようとすると、近くにもうひとつチャンディーがあるという。また、にやにやである。見逃す手はない。好奇心にかられて行ってみた。チャンディー・スクからさらに登ったところになるほど不思議なチャンディーがもうひとつあった。それがチャンディー・チョトである。

 チャンディー・チョトについてはほとんど情報がなかった。ジャワで出された『中部ジャワのチャンディー』(  )という本には記述がないのである。後で調べると丁寧なガイドブックにはちゃんと場所が示されていたのであるが、名のみで何の記述もない、そんなチャンディーである。まずは木造の建物の方形の屋根が目につく。バリのプラ(     寺院)に似ている。第一感はこれは新しいだろうということであった。イジュク(     やしの繊維)で葺かれた屋根や木造が新しいのである。しかし、もちろん、木造の建造物は何度も建て替えてきたはずだ。急な階段を上がると最初の広場に変なものがある。海亀の大きな姿が石のモザイクで描かれている。よくみると、魚や蟹がいる。そしてリンガもある。さらに、チャンディー・スクにあった甲の平らな亀がある。明らかに、チャンンディー・スクの親戚である。ここでは亀は階段の踏石として使われている。とすると、チャンディー・スクの亀石も踏石だったのではないか。

 スケールはチャンディー・チョトの方がはるかに大きい。ここでも軸線は一直線にとられ、はるかに下界をみおろしている。構成原理は同じだ。階段状の構成は、急でダイナミックである。最上部には同じようにピラミッド状のチャンディーがある。何故か、ここも上屋がない。

 チャンディーの前に二対の祠があり、そこにリンガが奉られていた。随分と具象的である。にやにやの理由である。男根崇拝は至るところにあるということか。ところが、その直後にみたものには、いささか度肝を抜かれてしまった。

 最上部のチャンディーのさらに上に建物の陰がみえる。木造の塔のようである。近づいてみると三重の塔である。イジュクに苔が生えているけれど、新しい。木造の技術も稚拙だ。しかし、かってはこうした塔がピラミッドの上に建っていたのではないか、その代わりに近くのカンポン(ムラ)の人たちが建てたのではないか。そう推測した瞬間、異様なものが眼に入った。なんと、塔の上に巨大なリンガがそびえたっていたのである。

 リンガを最重要の崇拝物とするのはシヴァ派である。あるいはシヴァ派と結び付いたタントラ教である。チャンディー・スク、チャンディー・チョトはその流れを汲むのかもしれない。タントラ教は、宇宙の生成、発展を男女の性的結合になぞらえて理解する。そのシンボルがリンガであり、女性性器ヨーニである。ヨーニはリンガを受ける台座として表現される。リンガ、ヨーニに対する崇拝はもちろんタントリズムに固有というより、ヒンドゥー教全体のものである。チャンディー・スクとチョトは、ヒンドゥー・ジャワ文化のデカダンスの姿だという説がある。怪奇的で独特な表現だという。また、イスラムによる偶像崇拝を禁ずるイスラムに対するはかない抵抗だという。しかし、俗っぽい感じはするけど、教義には素直ではないか。抵抗というより大らかな感じが強い。ジャワのチャンディーは、ずいぶんと見て歩いた。リンガもずいぶんみた。チャンディー・チョトの三重の塔の上の、こんなあっけらかんなのは初めてであった。

 

 

 

  *1 千原大五郎:『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』 鹿島出版界 1983年

    千原大五郎:『インドネシア社寺建築史』 1975年 

 *2                                                                             

 

 

 

写真リスト

 

①チャンディー・スク

②チャンディー・チョト 最上部のピラミッド

③チャンディー・チョト  軸線上の階段

④チャンディー・チョト  下から見上げる

⑤子宮のなかのビマ マハーバーラタの物語 :チャンディー・スク

⑥チャンディー・スクのレリーフ

⑦チャンディー・スクのレリーフ

⑧チャンディー・チョト  リンゴ(御神体)

⑨チャンディー・チョト 三重の塔

⑩チャンディー・チョト  三重の塔のリンガ

⑪チャンディー・スク    亀石

⑫チャンディー・チョト  海亀

⑬チャンディー・スクのレリーフ 三重の塔がある

⑭カーラ

⑮マカラ

⑯ガネシャ

⑰チャンディー・カラサン:中部ジャワ

⑱チャンディー・シンゴサリ:東部ジャワ

⑲ボロブドゥール

⑳ロロジョングラン(プランバナン)












2026年8月1日土曜日

宮崎恒二・伊藤真・山下真司編:インドネシア (暮らしがわかるアジア読本) ,河出書房新社, 1993年:「住居」執筆

 宮崎恒二・伊藤真・山下真司編:インドネシア (暮らしがわかるアジア読本) ,河出書房新社, 1993:「住居」執筆

インドネシア読本 日々の暮し 住居

                                                     布野修司

 

 インドネシアの住居もまた実に多様である。民族によって、地域によって、ヒンドゥー、イスラーム、中国、西欧列強の様々な影響が混ざり合うことによって、住居の様相は異なる。しかし、一方、ある程度共通に語れる側面もある。例えば、木造住居の伝統が支配的であることがそうだ。インドネシアの住居を総覧しながら、いくつかの局面を浮かびあがらせてみよう。

 

 ベタウィ(ジャカルタ原住民)の住居

 人口800万人を超える大都市ジャカルタ、そのジャカルタの南西部にチョンデットCondetと呼ばれる地区がある。現在の行政区域でいうとバレカンバン Balekambang、カンポン・テンガ Kampung Tengah、バトゥ・アンパル Batu Ampar という三つのクルラハン Kelurahan(行政単位 連合町内会) からなるチリウン Ciliwung 川沿いのかなり広大な地区である。ジャカルタは、スンダ・カラパ Sunda Kelapa と呼ばれた頃からチリウン川とともに発達してきたのであるが、その遥か以前、先史時代からこのチョンデットには人々が居住してきた。様々な出土品がそれを物語っている。

 住民の八割は、ベタウィ Betawi と呼ばれる。ジャカルタ・アスリ(原住民)である。五〇万人と推定されるベタウィは、もちろん、他の地区にも分散して住むのであるが、その中心はこのチョンデットである。今猶独自の文化を保持していることで知られる。

 今、訪れてみると、チリウン川は、汚染され淀んで強烈な臭いを放つ河口の様子からは想像できないほど豊かな樹木に覆われ、美しい。辺りには、果樹園が多く、のどかな農村の風景が広がる。家々が密集し、車が走り回る、騒々しいジャカルタにもこんなところが残っているのかと思う。

 ベタウィの住居をみてみよう。ベタウィの伝統的住居といっても、その原型をとどめるのは極めて少ない。また、イスラム化、植民地化の過程で様々な要素が混じり合ってきたし、時代と共に変化もしてきている。図は、原型と思われるベタウィの住居である。屋根の形態は、寄棟、切妻などいくつかタイプがあるが、テラス、ルアン・タム(客間)、ルアン・ティドゥール(寝室)、ダプール(厨房)、カマール・マンディー(浴室・トイレ)、スムール(井戸)が前から後ろへ一列に配置されるのが基本的パターンである。

 

 カンポンの住居

 考えてみればチョンデットの今日の風景はかってのジャカルタの姿である。急速な都市化の波はあっという間にジャカルタを襲い、人家の海にしてしまったのであるがもともと周辺部は農村であった。インドネシアに限らず東南アジアでは、都市の伝統は希薄である。今日の都市の住居も農村の住居が基本になっているとみていい。都市村落(アーバン・ヴィレッジ)の特性をもっているから、都市の居住地もカンポン Kampung(ムラ)と呼ばれるのである。

 事実、ベタウィの住居の基本パターンは、今日、都市のカンポンでもよくみることができる。平面の構成(間取り)は地域によって多少異なるが、こうした住居が密集するのが都市である。インドネシアの都市人口の割合は今のところ二割を超える程度であるが、都市に住む一般庶民はおよそ以下のような住居に住んでいるのである。

 図は、スラバヤの事例であるが、どのように都市カンポンの住居ができあがっていくかを示している。まず、一室ないし二室の空間がつくられ、やがて、寝室や客間が付加され、分化していく。そして、井戸やカマール・マンディーの部分が室内化されていく。住居はひとつのプロセスとしてつくられていくのである。

 カンポンの住居といっても多様である。上述したのは、カンポン住居の標準型ともいうべきパターンであるが、規模が小さいものももちろん多い。一室、二室に数人が居住するパターンも少なくない。平屋建てで人口密度ヘクタール当たり千人、二千人といったカンポンもジャカルタ、スラバヤといった大都市にはある。都市の居住問題は極めて厳しいのである。

 どうやって暮らすのか。幸い、インドネシアの場合、気候がいい。日常生活のほとんどは戸外である。炊事、調理、洗濯、水浴び(マンディー)、そして就寝ですら戸外で行われる事があるくらいである。

 一方、大規模な住居ももちろんある。その場合、カンポンの住居の標準パターンを横につなげていく形で住居がつくられる。場合によると、その付加した部分を地縁血縁の家族に賃貸したりする。長男が都会に出て、やがて家族を呼ぶパターン、同じ村の出身者が巡回的に移住するパターンと様々あるが、カンポンには強い人的ネットワークが存在する場合がある。一般的にもコミュニティー組織はしっかりしており、アリサン arisan(頼母子講)、ゴトンロヨン gotong royong(相互扶助)といった活動がカンポンの日常生活を支えているのである。

 

 インドネシア住居の原像

  西スマトラの一帯にミナンカバウ族が居住する。世界最大の母系制社会を形成することで知られる。また、ムランタウ merantau (出稼ぎ)慣行が著名だ。そのミナンカバウ族の住居が極めて特徴的である。棟が空へ向かって弓なりに反り返り、妻側が尖塔になっている。ミナンカバウとは、「勇敢なる水牛」(menang(勇敢な) kerbau(水牛))を意味し、水牛の角をシンボライズしたものともいわれるが、大きな家になると三対、六本の尖塔を持つものもある。

 多様なインドネシアの住居のなかでも、代表的な例とされるのがこのミナンカバウの例である。あるいは、サダン・トラジャ族(スラウェシ)やバタック・トバ族(北スマトラ)の住居の例である。この屋根が反り返った、また妻側の破風が前に転んだ屋根形態をした高床式住居は確かに世界の他の地域には見られないインドネシア(東南アジア)に特徴的なものといっていい。

 実は、こうした住居がかってインドネシア(東南アジア)一帯に存在していたのではないかという推測がある。根拠とされるのが、中国は雲南、石寨山出土の貯貝器や家屋模型である。実に、ミナンカバウの住居によく似ている。

 あるいは、東南アジア各地で発見されたドンソン銅鼓の家屋紋やボロブドゥールなど、中部ジャワ、東部ジャワのチャンディーのレリーフに描かれた住居がある。特に、スンバワのサンゲアン Sangean で発見された銅鼓の家屋紋をみると、古くから、ミナンカバウやバタック・トバやトラジャのような住居が存在してきたのは間違いないようである。

 

 高床式住居

 インドネシアの住居の特徴のひとつとして、高床式であることをまずあげねばならない。形態は様々であるが、スマトラのアチェから西イリアンまで、高床式住居は今日猶広範にみることができるのである。しかし、例外がある。ジャワ、バリ、ロンボクの一部の住居がそうである。

 ジャワといっても、スンダは別である。スンダ地方のナガ Naga やバドゥイ Baduiといった古くからの集落は高床式であり、ベタウィにしても海岸部では現在でも高床式である。ジャワにしても、もともとは地床(土間)式であったと考えられるのであるが、何故、地床式になったのか。政治的な理由から高床が禁じられたとか、土の感覚を大事にするヒンドゥーの影響が根強いとか、諸説あって決着しがたいが興味深いことである。

 もともと、高床式住居は、水上や湿地などで湿気を防ぐため、また、猛獣や害虫から身をまもるため、さらに通風をとったり、床下利用をするためなど様々な事由から成立したと考えられるのであるが、床の高さや床利用の形態は地域によって様々である。

 地床式といっても、全ての生活行為が地面で行われるわけではない。就寝にはベットが用いられる。地床式であるジャワ、バリ、ロンボクにしても、床を使いわけている点ではそれぞれに独自性がある。バリの場合、基壇を持つし、床から三〇~四〇センチのところに床(腰掛け、あるいはベッド)をもつ棟もある。ロンボクの場合、地床(土間)が二段に分かれる形が多くみられる。また、穀倉やブルガ Berugaq と呼ばれる露台、晒し台は高床式である。生活様式に応じた床面の選択がなされているのである。

 ロンボク島の場合、床は土と馬糞を固めてつくられる。寝るとひんやりと気持ちがいい。高床式住居が支配的である中で、地面に直接寝たり、座ったりする文化が維持されていることは、インドネシアの多様な住文化の一面である。

 

 住居とコスモロジー

 高床式住居の場合、その屋根裏、床上、床下という三つの空間の区分は、世界観、宇宙観としての、天井界、地上界、地下界という三界観念に結びつけられることが多い。もちろん、それだけでは極めて図式的な理解にすぎないともいえるのであるが、住居とコスモロジーの深い結びつきをみることができるのがインドネシアである。とりわけ、ジャワ、バリ、東インドネシアにはそうした事例が多く報告されているのであるが、一般によく知られているのはバリの住居とコスモロジーであろう。

 バリの場合、宇宙、バリ島、集落、屋敷地、建物、柱、身体と、マクロコスモスとミクロコスモスの間の各レヴェルにコスモロジカルな秩序が貫かれていることが意識されている。集落には、カヤンガン・ティガ Kahyangan tiga と呼ばれる、プラ・プセ pura puseh(起源の寺)、プラ・デサ pura desa(村の寺)、プラ・ダレム pura dalem(死の寺)という三つのプラがセットで置かれ、それぞれ、頭、胴体、足に擬せられるし、屋敷地は、ナワ・サンガ Nawa Sanga と呼ばれる方位観に基づいて個々の建物の配列が決定される。カジャ kaja(聖なる山の方向)ークロッド kelod(汚れた海の方向)、カンギン kangin(日の登る東の方向)ーカウ kauh(日の沈む西の方向)といった方向によってスペースの重みが違う。東西南北それぞれにウタマ utama、マディア madia、ニスタnistaの三つの領域が区別される。例えば、バリ島の南だと北東のカジャ・カンギンの方向が最も聖なる場所として屋敷神が置かれるサンガのスペースとなる。各建物も九分割されたサンガ・マンダラに従って場所が決められ、建物の隣棟間隔は身体寸法に基づいて決定される。屋敷内で様々な儀礼が行われるのであるが、礼拝の方向、祭祀のプロセスなどが住棟の配置に深く関わっているのである。 

  各建物は屋根、柱・壁、基壇の三つに分けられる。また、柱は柱頭、柱心、柱脚に分けて装飾がなされる。その一貫性は驚く程である。

 

 米倉   

 インドネシアの住居をざっとみてみると一棟だけで完結するケースはほとんどない。当然のことであるが、様々な付属屋や共用施設が一緒になって一つの屋敷地が構成され、集落が構成されるのが一般的である。いくつかの棟からなる分棟式のバリの住居はその典型である。

 付属施設として、インドネシアの住居を特徴づけるのはなんといっても米倉である。稲作文化の建築的表現が米倉である。各地に、実にヴァラエティーに富んだ形の米倉をみることができる。

 ミナンカバウの場合、家の前に一対の米倉が置かれるのがフォーマルな形式である。母屋と同じように尖塔をもっている。バタック・トバやトラジャの場合は、家の形と同じである。東インドネシアにいくと、円形の米倉が多くなる。極めて面白いのは、ロンボク島の米倉である。竹で編んで篭状の構造をしているのであるが、実に独特の形である。

 その形のヴァラエティーの面白さは別として、米倉が興味深いのは、それが高床式住居の原型になったのではないかという点である。建築技術的には、住居と倉は同じである。実際、インドネシアにも、米倉(と同じ構造物)を住居とする例があるのである。

 

 ロングハウス

 住居と米倉など付属施設がどのように配置されるかは様々である。先のバリの住居はかなりユニークである。しかし、以上は、バリ島の南部、ゲルゲル、ギャニャール、クルンクンといったバリ・マジャパイトの中心域において高度に形式化された例であって、バリでも住居は多様である。階層の低い人々の住居は様子が異なるし、他に、バリ・アガと呼ばれるバリ原住民の住居がある。例えば、東部のタガナン Tenganan がそうである。タガナンの場合、住居棟と共用施設が平行に並ぶ極めてきれいな集落パターンをしているのである。

 住居棟と他の付属施設が平行に並ぶ集落パターンは他でも多い。極めて原初的なパターンといえるかもしれない。バタック・トバやトラジャは、米倉と住居棟が平行に並ぶ。マドゥラ島でも、住居棟と作業小屋や家畜小屋が並列される。いずれも間のオープン・スペースが共用スペースとなる。マドゥラの場合、その西端にランガー langgar(礼拝所)が置かれる。スンバワ島の集落のように、もちろん、地形に沿って、円形に建物が配置される例も少なくない。しかし、ニアス島の場合、ロンボク島のワクトゥ・テル waktu telu(敬虔なイスラーム教徒であるワクトゥ・リマ waktu lima に対して、ヒンドゥー教や土着の宗教的伝統を保持する集団をいう。)の集落の場合など、他にも、こうした素朴な配列パターンは多いのである。

 住居の集合という意味で興味深いのは、カリマンタンから西イリアンにかけてみられるロングハウス(長屋)である。インドネシアの場合、集合住宅の伝統はほとんどないのであるが、このロングハウスは数少ない例とみていい。イバン族、ダヤク族など民族や地域によって少しずつその形態は異なるが、大家族居住ではなく、それぞれ自立した家族が単位となって結合する形態といっていいからである。

 

2026年4月15日水曜日

2026年3月26日木曜日

アジア海域世界の港市ー異文化共生の原理ー店屋と四合院, 日時:2023年10月5日(木)19:30~21:00, 第4回環インド洋世界史研究会, 20231005

 20231005 第4回環インド洋世界史研究会でしゃべる。

随時、質問を受ける形式を提案。21:30まで、楽しい議論。
日時:2023年10月5日(木)19:30~21:00
開催方法:オンラインのみ
報告者:布野修司(日本大学生産工学部特任教授、滋賀県立大学名誉教授)
報告題目:アジア海域世界の港市ー異文化共生の原理ー店屋と四合院
環インド洋世界史研究会とは?
環インド洋世界史研究会についてですが、おおよそ以下の通りです。
① 近年、環インド洋史の日本人研究者が増えてきたのですが、バラバラに研究を行っている状況なので、情報の共有を図ることを第一目的として立ち上げました。海外での出版情報や国際会議の情報の共有、日本人研究者間での自己の研究紹介などを行います。
② 会員といった形でメンバーを固定することはしていません。幹事として小生と鈴木英明さんをはじめ、数名がいますが、そのほかに固定メンバーを持たず、開放型で進めることにしています。MLなどで開催案内を送り、各回、関心のある人だけが自由に参加するという形式です。
③ いわゆる「大先生」を主力の幹事などとしておりません。どちらかというと、「大先生」にはゲストスピーカーをお願いする考えです。もちろん毎回出席いただける「大先生」は大歓迎です。ともあれ、特定の学派の研究会の形をとっていないということになります。
④ 研究会は年に数回、対面ないしはオンラインの形で行います。対面の場合は東京ないしは関西です。対面での研究会の際に旅費を支給するということは原則として考えておりません。現職の専門家の参加をメインに考えているからです。ただし、名誉教授と院生などに報告していただく場合は旅費を工面するように努力します。
⑤ 「環インド洋世界」の定義ですが、アラビア海やベンガル湾をこえて、東南アジアや東アジアも含めることにしています。
⑥ 研究会での報告は、未発表のものに限るということにはしていません。情報共有が主目的なので、最近、出版した図書や論文について語っていただくことなども念頭に入れています。
⑦ 対面での研究会では、2名ほどの報告を想定していますが、それらの報告前に、長めの自己紹介の時間をとることにしています。洋書新刊や近年の自著・論文を紹介する時間としています。
⑧ 実際、今年1月に第1回研究会(報告者:鈴木英明)をオンラインで開催しました。約40名の参加者でした。一般市民の参加は期待していないので、連続講演会「都市の世界史」と比べると少数となります。今年4月には東大で対面のみで第2回目の研究会を開催しました(報告者:栗山保之;さらに弘末雅士の新刊図書についての書評会)。




布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...