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2025年2月10日月曜日

美和絵里奈、 2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告、建築計画委員会、建築雑誌、2008

 2008年度建築計画委員会春季学術研究会報告

建築計画委員会

 

台湾において「台湾版まちづくり」ともいうべき「社区総体営造」が開始されて14年になる。その帰趨を問い、まちづくりが抱える問題を突き合わせる研究集会「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」を668日台北―台中で開催した。また、この開催に先駆けて台湾大学・建築與城郷研究所+芸術史研究所主催による国際シンポジウム「日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)」(台湾大学総合図書館B1国際会議庁、65日)が開催された。合わせて以下に報告したい。2つのプログラムを企画・組織頂いたのは、黄蘭翔先生(台湾大学芸術史研究所)と研究室の若い学生、院生のみなさんである。

 

日本與台灣社區營造的對話:地震災後重建、社區營造與地域建築師(Town Architects)

 台湾大学芸術史研究所所長・謝明良先生の開会の辞(通訳:宗田昌人)で始まったシンポジウムは、9:30から18:00までたっぷり行われた。プログラムは以下の通り。9:30-11:30 「淡路震災とその後の街づくり」―台湾921大震災との比較― 講演:小林郁雄。コメント:喩肇青(中原大学)12:20-14:20:「日本の街づくりのこれからの課題」講演:宇野求。コメント:曾旭正(台南芸術大学)/14:30-1630 「日本におけるタウンアーキテクトの可能性」講演:布野修司。コメント:黄聲遠(建築家)16:30-18:00総合討論夏鑄九(城郷與建築研究所)、布野修司

地域をベースにした日本のまちづくりが本格的に始まるのは1995年の阪神淡路大震災以降である。ヴォランティアの出現、NPOの法制化がその方向を示している。一方、台湾で社区総体営造が開始されるのは1994年のことである。そして、921集集大地震(1998年)を経験している。震災復興については、相互に経験を交流してきた。折しも、中国四川大地震が起こった直後である。議論は熱の籠もったものとなった。小林郁雄先生の復興まちづくり、宇野求先生の日本橋でのまちづくりは、台湾の聴衆を大いに刺激した。台湾の自治体や建築家の取り組みにも同じような流れがあり、共感するところが多かった。とりわけ、若手建築家、黄聲遠さんの宜欄での活動はまさにタウンアーキテクトの仕事と呼びうるものであった。現地に住み込み、現場で考え、自らの手作りでまちづくりを続ける黄聲遠とその仲間たちの活動は台湾で大きな関心を集めている。建築、都市計画分野における台湾屈指の理論家、夏鑄九の総括も含めて相互に多くを学ぶことが出来たように思う。黄蘭翔先生、伊東豊雄の台中オペラハウスの設計を協働する、京都大学布野研究室出身の張瑞娟さん、夏鑄九研究室の博士後期課程に在籍する宗田昌人さんのすばらしい通訳に感謝したい。

 

 「社区総体営造(台湾まちづくり)の課題」

第一日(66日)、春季学術研究会のプログラムは以下の通りであった。司会を山根周先生(滋賀県立大学)が勤め、台湾大学城郷與建築研究所の博士課程に留学中の五十嵐祐紀子さんに通訳をお願いした。

社区総体営造の現状と課題」講師:社区営造学会、陳其南(国立台北芸術大学教授・元文化建設委員会主任)、「台湾現代建築の動向---李祖源、姚仁喜、謝英俊三人建築家を例として--- 講師:阮慶岳(実践大学副教授・建築評論家)、「店屋の保存と再生」講師:徐裕健(華梵大学教授・建築家)

 陳其南先生は社区総体営造の仕掛人である。阮慶岳先生は小説家でもあり(邦訳もある)、若手の建築評論家である。徐裕健先生は、老街の再生に取組む。黄蘭翔先生のすばらしい人選であった。短い時間であったが、台湾における新たな動きとその背景を実によく理解することが出来た。

 続いて、懇親会を開いたが、今年も国士舘からの18名を含めて多くの学生の参加があった。全く意図しなかったことであるが、若い学生たちの眼をアジアに開くいい機会になっている。参加者は58名、日本を離れて、議論をするのはいつも新鮮である。(布野修司、建築計画委員会委員長)

 

 台北視察

2日目(6月7日)は台北の現代建築や歴史的建築、下町の視察見学ツアーを行った。大陸工程ビル→台北101→中山公会堂(昼食) →板橋林家邸宅と庭園→台北廸化街→台北保安宮の順にバス2台で巡回した。

 大陸工程ビルの設計は姚仁喜(大元建築及設計事務所主宰)Exoskelton(外骨格)という構造設計手法による外観と、それによって可能となる内部の26m×26mの無柱空間が特徴的である。台北101は台北市信義計画區の南部、台北世界貿易センターに隣接する李祖原設計の101階建ての超高層ビルである。現在、世界一の高さの「使用中」ビルである(現在ドバイに建設中のビルがこの高さを凌いでいる)。世界最大の揺動式チューンド・マス・ダンパーがとてつもなく大きかった。構造体の大部分を内部に納め、ガラス壁に7度の傾斜をもたせることで得られる鳥瞰的な視界は圧巻。 台北市中心の延平南路に位置する中山公会堂は、辰野金吾に師事し台湾建築学会を創設した井出薫によって日本統治時代に建てられた。建築的には折衷主義であり、平面の対称性や正面の破風のような表現に見られる様式建築的なものと、水平線や垂直線の多用などの現代的な影響も見られる。林本源園邸は林本源一家により1893年に造園された歴史的名園で、台湾に現存する最も完全な園林建築である。中国庭園の伝統を受け継いだものであるが、三角形、平行四辺形の建物などやりたい放題の印象である。廸化街1850年代に建設され店屋街である。連棟式店屋(ショップハウス)の建築形式は、閩南式・洋楼式・バロック式・モダニズム式の4種類に分類される。保安宮は淡水河と基隆河の合流点に位置し、龍山寺、清水巌祖師廟と並び台北の三大廟と称せられる。建築形式としては、前殿、正殿、後殿という清朝末期の典型である三殿式である。精微で色彩豊かな装飾や彫刻からは台湾の文化が伝わってきた。

台北はとても湿度が高く、ゴキブリが大きく、南国気候だった。歴史的街並みと建造物、そしてそのすぐ背後にある都市化した市街地との対比が印象的だった。日本統治期の建物や古い街並みが保存されながら、活気に満ち溢れていた。(鮫島拓、滋賀県立大学大学院)

 

南投県視察

3日目(6月8日)は自由参加のバスツアーによる南投県(台湾唯一の内陸県)視察。今回の焦点となった1999年の集集地震の復興まちづくりの事例を見学した。参加者は先生・学生35名。このツアーのコーディネートをして頂いたのは台湾大学の学生である。

 南投県へは、まず20071月に開通した台湾高速鉄道(新幹線)にて台中へ向かう。台北と高雄を最速96分でつなぐというから驚きだ。建築家・伊東豊雄による話題の「台中メトロポリタンオペラハウス」や「高雄スタジアム」が進行プロジェクトとして挙げられるが、南へのアクセスは大分楽になった。

台中県霧峰郷林家屋敷(地震後の再建)(文化財)は、18世紀中ごろ大陸より渡り一代を築いた台湾屈指の旧家である。19世紀後半に建てられた邸宅群は、1945年日本敗戦後、国民党によって破壊され、1990年からようやく母屋を中心とした最も古い建物群を対象にした復元工事が行われ、99年にほぼ完成、その矢先、大地震に見舞われ、建物群は全壊した。「三落大宅院式」という建築形態をとるが、結婚式や劇などに使われ、舞台を囲む三方が観覧席となる。住宅内の欄間や戸には木の彫刻細工が施されていたが、元のまま残っている部分と新たに継ぎ足した部分が木の色合いらみてとれた。伝統的な職人技術の継承が困難になっている中で、当時の繊細な彫刻を残していく意味は大きい。邵族は、10数余の台湾原住民のうちのひとつであり、山間部の台湾最大の淡水湖、日月潭沿いに居住している。邵族はかつて半農半漁で生計を立てていたが、日拠時代や国民党時代を経て居住地移転や漢化政策による生活困窮など、徐々に離散していった。震源地から10kmほどの日月潭は壊滅的な被害を受けた。邵族の住居も80%が全半壊した。建築家・謝英俊は「部族コミュニティ再生」を基本方針に、震災復興住宅を計画した((サオ)(台湾原住民)の復興村)。邵族にとって重要な伝統的に行われている祭事のために、広場を計画している。また、軒を深めに出すことで、半屋外の軒下空間が隣近所との相互交流を生むきっかけとなっている。構造は軽量鉄骨のフレームをベースとし、セルフビルドで行われた。南投県信義郷潭南小学校女性建築家・姜楽静の設計である。伝統的な家屋が設計の発想であり、学校を「家」のように捉えていた。敷地が45m×70mと普通の1/3程度しかないため、建物を敷地に対して真ん中に据え、建物の周りがトラックとなっている。

台湾は、もともと地形や土壌、気候上、お茶の栽培が適していて、小葉のウーロンや大葉のアッサムまで数多くの茶葉が生産できる。日月老茶場では店舗や飲食店を併せ持つ茶葉の工場を見学した。倉庫のような外観とは対照的に現代的な店舗空間、2階に上がると食事ができるスペースになっている。

 19951月阪神淡路大震災直後、神戸市長田区に建てられた坂茂設計による仮設の教会が、2005、台湾南投県埔里鎮桃米村に多くのボランティアの協力の下移設された。はるばる日本からやってきたペイパードーム(南投県埔里鎮新故郷文教基金会)がまちづくりの拠点となって、食之坊工之坊などと共にまちを活気づけていければと思う。

この日は農暦55日で、「端午の節句」子供の日であった。台湾では都会に出た者も田舎へ帰り、家族でお祝いし、粽(チマキ)を食べることが習慣である。今回、視察のラストは粽を中心としたおもてなしをして頂いた。20種類近く存在するというを観光資源としているこの地域ということで、蛙の様々なトーンの鳴声がわたしたちを迎えてくれた。(美和絵里奈、滋賀県立大学大学院)

2025年1月30日木曜日

建築計画学批判のためのメモ,日本建築学会

建築計画学批判のためのメモ

布野修司

京都大学大学院工学研究科

生活空間学専攻

 

 0.学が学であり得るためには、それなりの条件が必要である。少なくとも、学の対象とする領域、学の目的が明らかでなければならない。また、その体系性、その方法の固有性、その実践性は常に問われている。建築計画学をめぐって繰り返し、その領域や方法が問われるのは、その根拠がそもそも危ういか、その前提がしばしば見失われているからである。もちろん、学の成立根拠をめぐる前提は固定的に考える必要はない。対象領域や目的をある集団が共有しているかどうか、ある制度的な枠組みにおいてそれが認められているかどうかが本質的である。繰り返し根拠(パラダイム)を問うことは自らの制度の再生産(確認)のためのポーズ(パーフォーマンス)として常に要請されるのである。

 1 建築計画学というからには、「建築」あるいは「計画」という行為との関係が常に問われる。ここで建築計画学の関わる領域を、大きく建築の全過程(企画、計画、設計、施工、維持管理)に関わる「広義の建築計画」と「平面計画」を機軸とする、構造計画、設備計画、施工計画等と併置される専門分野としての「狭義の建築計画」とに分けておく必要がある。もちろん、「狭義の建築計画」が「広義の建築計画」を離れて自律的に成立し得ないということを繰り返し確認するためである。

 2 「建築計画学」は、「建築」「計画」の過程を論理的に組み立てることを目的(成立根拠)にしている。しかし、その全ての過程を論理的に体系化できるわけではない。建築は一方で社会経済的生産物である。もちろん、単に経済的合理性や工学的合理性あるいは産業的合理性がその論理体系の根拠になるわけではない。誤解を恐れずに言えば、建築計画学は社会体系を支える真の合理性を自らの成立根拠として仮構することで成り立っている。いずれにせよ、建築の生産(計画設計施工)は、社会文化生態力学(Socio-Cultural Eco-Dynamics)において行われるのであって、その力学を論理的に解くことは必ずしも容易ではない。

 3 (それ故)建築計画学の出発点(であり帰着点)は常にはフィールド(現場)にあると考える。要するに現場から、「臨池経験」をもとに「建築計画」の方法を組み立てるのが基本である。フィールドはどんな「現場」でもいい。例えば、一日中、小学校に立っている、一日全く何も知らない町を歩く、何が発見できるか、何が組み立てられるか、それが出発点である。現実の様々な現象に多くの矛盾、問題点がある、それをどう解決するのか、実に素朴な原点である。

 4 フィールドからどのような方法で何を引き出すのかこそがディシプリンの存在基盤に関わる。建築計画学は、基本的には、「もの」あるいは空間の配列に関わる。すなわち、多様で錯綜する現実から何らかの「計画(設計)言語」を抽出することを目的とする。従って、空間に関わる諸分野とあるディシプリンを共有するが、極めて現実的な生きられた空間、物理的な空間の組立を第一に問題にする点に予め限界と可能性がある。 

 5 どのような「計画(設計))言語」を抽出(提出)するのかが建築計画学の生命である。建築計画学が予め以上のような限定を前提しているとすれば、抽出された「計画(設計)言語」と現実とのずれは常にチェックされる必要がある。最終的にその生命を評価するのは社会(文化生態力学)である。抽出された「計画(設計)言語」は現実に返されてはじめて意味をもつ。また、建築計画学はこの実践の過程を自らの内に取り込まない限り完結しない。その全体性、体系性は保証されない。

 6 建築計画学が最低限果たすべきは、何処まで論理化できて、どこに論理の飛躍があるかを明確にすることである。設計計画のプロセスを透明化することによって、社会(文化生態力学的)に開くことが出来る。

 7 トゥールはトゥールであって方法そのものではない。トゥールのみを方法として問題とするのは本末転倒である。調査研究も一個の美しい作品として社会化されるべきである。 

2024年7月21日日曜日

建築現象の全的把握を目指して: 吉武計画学の過去・現在・未来?, 建築雑誌、2003

 建築現象の全的把握を目指して:

吉武計画学の過去・現在・未来?

 

布野修司(京都大学大学院)

 

吉武計画学とはいったい何か、その成果は如何に継承され、また、今後どう展開しようとしているのか。ありきたりの追悼文ではなく、その総括を、というのが編集部の依頼である。筆者は、東京大学吉武研究室最後の大学院生であった。ともにその学の成立を担った青木正夫・鈴木成文両先生以下綺羅星のごとく並ぶ諸先輩ではなく指名をうけたのは世代的に距離があるからである。また、ともに建築計画学の成立に大きな役割を果たした西山(夘三)スクールの拠点であった京都大学に奉職していることもある。とてもその任にあらずとは思うけれど、吉武計画学の継承発展は日々のテーマである。その総括をめぐっては筆者も編集に携わった『建築計画学の軌跡』(東京大学建築計画研究室編、1988年)があり、それ以上の新たな資料を得たわけではないが、以下は、いずれ書かれるべき吉武泰水論のためのメモである。

吉武計画学がスローガンとしたのは「使われ方の研究」である。ベースには西山夘三の「住まい方の研究」がある。西山の住宅調査の手法を不特定多数の利用する公共的空間に拡大しようとしたのが吉武計画学である。使用者(労働者)の立場に立って、という視点は戦後民主主義の流れに沿ったものであった。

第2に、吉武計画学を特徴づけるとされるのは「施設縦割り研究」である。また、「標準設計」である。吉武計画学の成立を中心で支えた研究会LV(エル・ブイ)のごく初期に、住宅、学校、病院、図書館といった公共施設毎に情報を集め、それぞれに集中する専門家を育てる方針が出されている。「標準設計」は、「型計画」の帰着でもあるが、戦後復興のために要請される公共建築建設の需要に応えるためにとられた研究戦略であった。また、各施設について多くの専門家が育つことによって一大スクールが形成されることとなった。

第3に、吉武計画学には「平面計画論」というベースがある。つけ加えるとするともうひとつ「生活と空間の対応」に着目し平面を重視した。素朴機能主義といってもいいが、その平面計画論には、人体にたとえて、骨格として建築構造、循環系としての環境工学に対して、その他の隙間を支える空間の論理を組立てたいという、すなわち建築計画という分野を学として成立させたいという意図があった。吉武先生の学位論文は知られるように規模計画論である。数理に明るいという資質もあるが、まずは論理化しやすい規模算定が選択されたのであった。しかし、その最初の調査が銭湯の利用客に関する調査であったことは記憶されていい。

以上のような吉武計画学の成果はやがて「建築設計資料集成」という形でまとめられる。体系化以前の段階では、フール・プルーフ(チェックリスト)にとどまるのもやむを得ない、というのがその立場であった。

吉武計画学の展開に対して批判が出される。ひとつは「作家主義」か「調査主義」か、という問いに要約されるが、創造の論理に展開しうるのかという丹下研究室による批判である。また、あくまでも「設計」に結びつく研究であることを主張する吉武研究室に対して、性急に設計に結びつける以前に、縦割り研究には地域計画が抜けているという西山研究室の批判である。そして、研究室内部からの空間論の提出である。さらに、吉武計画学には建築を組み立てる建築構法さらには建築生産に関わる論理展開が欠けている。いずれも調査、研究、設計、計画の全体性に関わる吉武計画学の限界の指摘である。筆者が研究室に在籍した1970年代初頭に既に、上記のような限界は明らかであった。オープンスクールの出現や様々な複合施設の登場に対して縦割り研究や制度を前提にしての使われ方研究の限界は充分意識されていた。

まず確認したいのは、戦後の出発点で行われた調査が、銭湯調査を含めて今日でいう都市調査を含んでいることである。都市のあり方を明らかにする中で公共施設のあり方が探られようとしたのであって、逆ではない。縦割り、標準設計、資料収集は時代の産物であり、少なくとも最終目的ではなかった。

また、当初から求められたのは単なるチェックリストではなく、空間と人間の深い次元における関わりである。読まされたのは専ら文化人類学や精神分析、現存在分析に関する書物であった。読書会を組織するように命じられたのだが、わずかな人数の会に毎週熱心に出席された。後に夢の分析に繋がる関心は既にあり、文学作品による空間分析もわれわれに既に課されていた。建築に関わる諸現象の本質をどう捕まえるかという関心は当初から一貫していたという強い印象がある。

調査はどうやるんですか?といういかにもうぶな質問に、「とにかく一日中現場にいなさい、そして気のついたことは何でもメモしなさい。あらゆるデータは捨てては駄目です」、という言葉が今でも耳に残っている。 

 

京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 

2023年7月22日土曜日

西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804

 西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804 


建築計画委員会「「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」報告

 

 建築計画本委員会主催の「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」(日時:2008115日(火)17時開演(16時開場)、場所:建築会館ホール)について、以下にその概要を報告したい。

 

 建築計画本委員会では、年に一度は、建築計画学、建築計画研究の全体に関わるその時々のテーマをもとにしたシンポジウムを行うことにしているが、昨年2月の「公共事業と設計者選定のあり方―「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として」に続く今年のテーマ設定の鍵になったのは、住田昌二+西山文庫編『西山夘三の都市・住宅理論』(日本経済評論社、2007年)である。西山夘三は、吉武泰水とともに建築計画学の祖とされる。その大きな足跡のもとに建築計画学は成立し、発展してきた。建築計画委員会の「隆盛」もその業績の基礎の上にある。

しかし、一方、建築計画学研究の限界も様々に指摘されてきた。施設毎の縦割り研究、専門分化、研究のための研究、・・・・等々の研究と実践との乖離の問題、また建築計画固有の手法、方法などをめぐる諸問題はこの間一貫して議論されてきている。

『西山夘三の都市・住宅理論』の上梓を機会に、建築計画学の原点に立ち戻って検討するのは必然である。建築計画委員会では、『建築計画学史』(仮)をまとめる構想をあたためている。その大きな柱となると考えた。かねてから不思議に思ってきたが、西山スクールによる西山夘三論が無かったことである。吉武研究室出身であり、西山夘三が開いた「地域生活空間計画講座」に招かれたかたちの報告者(布野修司)は、その戦前期の活動のみに焦点を当てるにすぎないが、「西山論」を書いたことがある(「西山夘三論序説」『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年)。建築計画委員長という立場ではあるが、西山夘三の計画理論を広く検討したいという個人的な思いもあった。実際に、西山文庫との協賛、展覧会との併催など全てを切り盛りしたのは田島喜美恵委員であり、ポスターデザインは滋賀県立大学の学生諸君(高橋渓)、受付など事務作業を担ったのは日本大学生産学部の学生諸君である。また、パネル展示については西山文庫の松本滋(兵庫県立大学)先生に大変ご尽力を頂いた。プログラムは以下であった。

主旨説明:布野修司(建築計画本委員会委員長・滋賀県立大学教授)

問題提起:西山夘三の都市住宅理論 住田昌二(大阪市立大学名誉教授・現代ハウジング研究室)/西山夘三の目指したもの 広原盛明(龍谷大学教授、京都府立大学名誉教授)/西山夘三と吉武計画学 内田雄三(東洋大学教授)

ディスカッション:五十嵐太郎(建築雑誌編集長・東北大学准教授)・中谷礼仁(早稲田大学准教授)・司会:布野修司

 

住田昌二の問題提起は、ほぼ『西山夘三の都市・住宅理論』の総論「西山住宅学論考」に沿ったものであった。まず、「1.研究活動の輪郭」を①戦前・戦中期(193344)住宅計画学とマスハウジング・システムの体系化②戦後復興期(194461)住宅問題・住宅政策論から住宅階層論へ③高度成長期(196174)都市論の展開④低成長期(197494)『日本のすまい』(3巻)の完成、まちづくり運動に分けて振り返った上で、西山夘三の研究活動の特徴として、時代の転回、研究上の地位変化、研究テーマのシフトが見事に一致していること、研究を建築論から住宅論、都市論へと発展させた「ジェネラリスト」「啓蒙家」であること、20世紀をほぼ駆け抜けた象徴的な「20世紀人」であること、常に時代の先頭に立ち、≪近代化≫の「大きな物語」を描き続けた「モダニスト」であること、研究スタンスは、体制の外側にあって体制批判したのでなく、批判しつつ体制に参加提案し改革をはかろうとした。Revolutionistでなく“Reformer”であったことを指摘する。そして、西山は、「計画」と「設計」は峻別したが、研究=政策とみていたのでないか、卒論の序文に掲げた「史的唯物論」が生涯通じて研究の倫理的規範であった、という。続いて、「2.西山計画学の成果」として、1)住宅の型計画の展開、2)マスハウジング・システムの構築、3)住様式論の提起、4)住宅階層論による分析、5)構想計画論の提唱を挙げる。西山の研究が目標としたのは、①住まいの封建制を打破し、②低位な庶民住宅の状態の改善向上をはかり、③前近代的な住宅生産方法を改めていく、の3点であった。政治的には民主化、経済的には産業化、社会的には階層平準化の同時進行を近代化と規定するなら、西山の研究は、「近代化論」であった。西山の学問は、徹底して「問題解決学」的性格をもち、計画学としての体系は、空間を機能性・合理性基準によって解析し、社会をシステム論的に構築することで一貫していた、というのが評価である。さらに「3.西山計画学の歴史的考察」として、1)西山計画学の原点――15年戦争との対峙、2)西山計画学の発展の背景――国際的に50年続いた住宅飢餓時代、3)西山計画学のフェード・アウト――1973年の歴史転回をそれぞれ位置づけた上で、「4.「小さな物語」としての西山理論の超克」の方向として、①マスハウジングからマルチハウジングへ②階層から地域へ③計画から文化へ、を強く示唆した。

 実に明快であった。西山理論の歴史性を明確化し、そのフェード・アウト確認したこと、西山夘三を近代的システム論者と規定したことは大きな指摘である。

 広原盛明の問題提起もまた西山夘三を歴史的に位置づけるものであった。ただ、その限界についての評価は異なる。まず、「西山の生涯を通底するキーワード」として①「20世紀の実践的思」「社会主義」(マルクス主義)②「体制型思考」③「反中央権力精神」の源泉となった「大阪の西九条が育てたハビトゥス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)」を挙げる。そして「1.西山のライフコースとライフスタイル」について、①大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分け、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期と住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期をわける。また、②西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だとする。さらに、③西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった、とする。続いて「2.西山にとっての計画学研究の意味」として、①「計画的思考」、「近代工業化システム」、②「戦時統制経済」「戦時社会主義」との密接な関係を指摘した上で、戦後については、③「もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない」という。全体としては、西山と時代、体制が密接不可分であったという確認である。「3.学会・建築界に対して西山の果たした役割」として、研究領域の細分化と専門化をめぐる学会批判や建築界批判の意義、「外部評価機能」「日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトの重視」「社会運動への参加」の意義を強調する。歴史的限界、その歴史的位置づけの中で、「学」「学会」への批判的機能・役割を大きく評価するという構えである。

 内田雄三は、西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学を対比する。まず、「1.西山夘三の研究領域とその立場」、その幅広さ、庶民住宅の対象化と住み手の発展プロセスの重視などを確認した上で、「西山夘三の建築計画学」を「システム科学」「方法論としてはシステム分析である」と言い切る。この点、ほぼ住田先生の西山評価に沿っている。そして、吉武・鈴木研究室の建築計画学を西山の「システム分析の方法論を多くの公共建築の分野に適用」したものと位置づけ、より計画よりに展開したとする。すなわち、「新しい生活に向けて建築から働きかけていく志向」が強かったのが吉武・鈴木計画学だとする。そうした規定の上で、建築計画学の限界として、①近代化・合理化こそ資本の要求(利潤の拡大)であり、建築計画学はこの役割を担ってきたこと、②2DKも労働者のより廉価な再生産費を保証したという側面があること、③個々の建築の近代化・合理化にもかかわらず都市スケールで混乱が発生している点などをあげる。そして新しい建築計画学の方向として、生活者との連携、アドボカシー・プランニングを挙げ、C.アレグザンダーに触れ、空間づくり、モノづくりへの展望を述べた。

 きちんとレジュメを用意した3人の問題提起は議論の土俵を見事に用意したのであるが、如何せん、時間が足りない。早速議論に入った。コメンテーターとして期待したのは若手の論客としての中谷、五十嵐の両建築史家・批評家である。

 どちらが先に発言するか壇上でジャンケンするといったノリであったが、ジャンケンに負けて最初に発言した中谷礼仁のコメントは、場を張りつめたものにするに十分であったように思う。まず、自分の名前は、左翼(マルキスト)であった親が、時代がどう転んでもいいように「レーニン」とも「アヤヒト」読めるようにつけたそうだ、と冗談めかしながら、自分はだから「・・・すべし」「・・・すべき」という扇動家、啓蒙家の立場はとらないという。戦後まもなく「これからの時代は民主主義の時代だ」と板書した東京大学教授の例を引いて、そうしたプロパガンディストにならないことを肝に銘じているという。そして続いて、西山理論、その食寝分離論には「性」と「死」がないという。対比的に提起するのは、今和次郎との比較である。

五十嵐は、直接西山理論に切り込むことをせず、大きくは1936年の東京オリンピックを用意した戦前の過程と大阪万博に行き着く戦後の過程には同じサイクルがあるのではないかという。そして、西山の設計をみてみたいという。また、景観論の立場から見直してみたいという。

 西山理論をもっぱら歴史的、社会的なフレームにおいて位置づけて見せた3人に対して、中谷の提起はより内在的に西山理論を評価する契機を含んでいるように思えた。中谷の西山批判は、豊かな世代の時代の実相を知らない批判だ、その時代を踏まえて歴史的評価を行うべきだと、時代の制約、社会の貧困と西山の限界を説明しようとした広原に対して、一定程度それを認めながら、必ずしも、時代の問題だけではない、と中谷は切り返す。

 西山の軌跡における転換をめぐっては、1970年の大阪万博か、1973年のオイルショックか、あるいはそれ以前か、という議論がまず浮かび上がった。また、戦前と戦後の連続非連続の問題が指摘された。そして、西山夘三個人の資質、ハビトゥス(大阪下町気質)の問題が指摘された。西山は「食」にも興味がなかった、コンパクトな空間とその集合システムに興味があった、明治気質で、細かくて、資料マニアであったといった発言も飛び出した。

 建築計画という土俵を設定していたから当然であるが、西山夘三の全体像については留保せざるを得なかった。また、都市論、都市計画論についても同様である。まず、フロアから、『西山夘三の都市・住宅理論』の共著者である中林浩(地域生活空間計画論と景観計画論)、海道清信(大阪万博と西山夘三)の両先生に発言を求めた。西山スクールにおいても西山評価は様々であり、批判的距離のとり方の全体が西山夘三の大きさを物語っている。

延藤安弘先生は全体を延藤流に総括して「西山夘三の計画学」の精髄を「「構想計画」を新しい状況のもとにブラッシュアップする」「「住み方調査」から「フィールドワークショップ」へ」「「小さな物語」づくりの計画学」という三つの方向に結びつけようという。

限られた時間はあっという間に過ぎた。最後に鈴木成文先生に「面白かった」と総括頂いたけれど、手前みそだけれど、司会しながらも面白かった。問題を掘り下げる時間はなかったけれど、掘り下げるべき問題のいくつかは明らかになったと思う。主催者として、いささか驚いたことは、この地味なシンポジウムに百人を超える聴衆の参加があったことである。かなりの数の若い世代も見えた。このシンポジウムをひとつのきっかけとして「建築計画」をめぐる議論がさらに広がることを期待したい。布野修司(建築計画委員会委員長、滋賀県立大学)








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布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...