シンポジウム:主旨説明,司会:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
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西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学の展開 内田雄造: シンポジウム:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
シンポジウム:主旨説明,司会:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
2008/01/15
西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学の展開
東洋大学 内田雄造
1.西山夘三の研究領域とその立場
(1)
研究領域の大きな広がり
* 建築論 ⇔ 川喜田煉七郎 他多数
* 住宅計画学
* 住宅問題・住宅政策・住宅供給論
* 地域生活論・地域空間論・都市論 ⇔ 石川栄耀
(2)
戦前には建築家が取り組むことの少なかった庶民住宅を研究対象とし、住み手の発展プロセスを重視した
また、都市計画においても一貫して住民主体を強調した
(3)
西山自身の主観的な意図とは別に、結果的には近代化路線を担った側面が存在する
* 西山を単純な近代化論者とは言い難いが、当時のマルキストには近代化推進、生産力重視という点で結果的に近代化路線を担った者が多かった
2.西山夘三の建築計画学
(1)
システム科学、方法論としてはシステム分析である
* 西山は 1930 年代後半から 1940 年代前半に独力でシステム分析の方法論を確立し、住宅計画の分野で住宅計画学を定立した
西山夘三「都市住宅の建築学研究」第一編『建築学研究』所収、1937 年 4 月、西山は同論文に若干手を加え、1944年発行の「国民住居論攷」に収録している
* 椅子の寸法をめぐる「転換」の主張
* 型によるアプローチ-マックス・ウェバーの影響があったのか?
* システム分析がアメリカやヨーロッパで発展したのは第二次世界大戦後であり、西山の住宅計画学は世界的にも評価されよう
(2)
西山は氏の住宅計画学の各パートを自らの研究対象とし、成果を挙げた
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(シミュレーション)
研究分野 住宅問題 |
住階層 |
住要求 |
住戸型と |
規格化 |
住宅政策 |
家族型 |
食寝分離論性別就寝論 |
すまい方 8・3 型住戸 6・4 型住戸 |
プレファブ化型別供給 |
図.西山夘三による建築計画のフローチャートと計画学研究
内田雄造「東大闘争と建築学計画研究」より引用
(3)
食寝分離論、就寝分離論の「発見」
(4)
特定の居住者(住階層・家族型)に小住宅を供給する場合、住宅特に住戸型によってどのようなすまい方が行われるか(特に食寝分離や就寝分離の可否)を予想する技法を整備した
(5)
西山は住宅計画学の有効性を巧みに演出し、「これからのすまい」の出版など社会的に影響力を発揮した
(6)
高度成長期における西山の展開
* 住階層、住要求
* 構想計画-地獄絵と極楽図
* 都市問題
3.吉武・鈴木研究室の建築計画学
(1)
システム分析の方法論を多くの公共建築分野に適用-使われ方研究と称された
① 建築計画研究
病院計画
学校計画 施設計画の世界図書館計画
規模計画
空間計画
より抽象化された世界
② 一定の成功とその理由
* 戦後の価値観の変化という時代的背景-管理より使い手・利用者の生活を重視
* アメリカやヨーロッパの建築という先進事例の存在
(2) 住宅計画
① 西山の住み方調査・研究(吉武・鈴木研究室では住まい方調査・研究と称された)をより計画寄りに展開
② 鈴木には新しい生活にむけて建築から働きかけていくという志向が強かった
③ その成果(精華)としての 51C 型(2DK)計画
* 35 ㎡の住宅において、食寝分離と就寝分離を確保
④ 公私室型の追求
⑤ 住宅地計画研究へ展開
(3)
建築計画学の限界-西山研に比べ、吉武・鈴木研のメンバーの方が問題が良く見えていたと思われる
① 近代化・合理化こそ資本の要求(利潤の拡大)であり、建築計画学はこの役割を担っている
* 吉武・鈴木研究室では公共建築を研究対象としていたので上記の構造が見えにくかった
* 規模計画、商業施設計画の分野では問題はより明らかだったと思われる
② 2DK も労働者のより廉価な再生産費を保証したという側面が存在する
③ 個々の建築で近代化・合理化が進んでも、都市スケールといったより大きなところでの混乱が発生している
④ 建築計画学をめぐって-1960 年代後半の状況
* 新しいモノが見えてこないとの焦燥感
* 生活者・使い手が計画者の操作・管理の対象となっている現実
* 科学技術の中立性や生産力理論への批判
(4)
新しい建築計画学への模索-60 年代後半から学園闘争の中で
① 建築計画学や都市計画学が果たしてきた、あるいは果たしている役割を
きちんと検証したい
② 生活者(住み手、利用者)との連携を必要と考え、連携を模索
③ アドボカシープランニング-専門家として社会活動への参加
④ 空間を研究対象として扱いたい
* 空間心理学を乗り越え、K.Lynch の「都市のイメージ」といった方法論を評価-「生活領域に関する研究」への取り組み
⑤ システム分析からモノづくり、空間づくりにどう関わっていくか-
C.Alexand er
の方法論「形の合成に関するノート」を評価
補 遺
(1)
内田自身は都市計画批判からまちづくりへ
* 特に住民参加、参加のまちづくりを追求した
(2)
西山夘三先生のこと
* 『建築計画学の足跡』所収「東大闘争と建築計画学研究」へのコメント-西山書翰参照
* 内田の学位論文「同和地区のまちづくり計画・事業に関する研究」
(1990 年)への評価
明石書店から 1992
年に同書を出版した際には「同和地区のまちづくり論」と改題
添付資料
1)
原科幸彦「改訂版 環境アセスメント」放送大学教材、2003 年 3 月
2)
内田雄造「東大闘争と建築計画学研究」『建築計画学の足跡-東京大学建築計画研究室
1942 ~1988』所収、1988 年 11 月
表「『北病棟の計画』に関する検討資料」を省略している
なお、『建築計画学の足跡』に収録している鈴木成文「東大紛争と計画研究」を併せて読まれることを希望したい
3) 西山夘三先生の内田宛書翰、1989 年 6 月-「東大闘争と建築計画学研究」他のレポート送付に対して
2025年7月7日月曜日
西山夘三の都市・住宅理論 住田昌二:シンポジウム:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
シンポジウム:主旨説明,司会:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
建築学会シンポジウム 1/15/08
西山夘三の都市・住宅理論
住 田 昌 二
1.研究活動の輪郭
①戦前・戦中期(1933~44)住宅計画学とマスハウジング・システムの体系化
○33年卒業後、設計事務所、大学院、兵役、住宅営団
―建築論の展開…『建築史ノート』ほか
―住宅計画学の確立…都市住宅諸調査→食寝分離論
―マスハウジング・システムの体系化…『国民住居論攷』→型計画、標準住居、住
宅生産システム
―『住宅問題』の刊行
②戦後復興期(1944~61)住宅問題・住宅政策論から住宅階層論へ
○京大営繕課長、建築学科助教授
―『これからのすまい』の刊行
―農村住宅調査の展開
―住宅階層論の提起…公団住宅の政策的位置づけ
③高度成長期(1961~74)都市論の展開
○京大教授時代…新設の地域生活空間計画講座担当
―都市論…リクリエーション論、モータリゼーション論など
―「構想計画」の提唱→「京都計画」「奈良計画」など
―『21世紀の設計』
④低成長期(1974~94)『日本のすまい』(3巻)の完成、まちづくり運動
―『日本のすまい』による西山住宅論の集大成
―景観保全運動、まちづくり運動
【注】西山の主な社会活動
・大阪府地方計画委員はじめ地方自治体委員、万国博会場計画委員など
・学術会議(第5期から10期):「学問思想の自由」委員長など
・自治体運動:京都自治体問題研究所所長
・建築運動:「建築科学研究会」「青年建築家クラブ」「NAU」「NAC」
・まちづくり運動:市電を守る会、奈良・京都・鎌倉の古都保存の連携など
・国際平和運動:中国、キューバ、ソ連訪問など
・労働運動:京大職員組合初代委員長
○西山の研究活動の特徴
―時代の転回、研究上の地位変化、研究テーマのシフトが見事に一致している
―研究を建築論から住宅論、都市論へと発展させた「ジェネラリスト」「啓蒙家」
―1911年生~1994年没、20世紀をほぼ駆け抜けた象徴的な「20世紀人」
―常に時代の先頭に立ち、≪近代化≫の「大きな物語」を描き続けた「モダニスト」
―研究スタンスは、体制の外側にあって体制批判したのでなく、批判しつつ体制に
参加提案し改革をはかろうとした。Revolutionistでなく“Reformer”であった。
(西山は、「計画」と「設計」は峻別したが、研究=政策とみていたのでないか)
―卒論の序文に掲げた「史的唯物論」が生涯通じて研究の倫理的規範であった。
2.西山計画学の成果
1)住宅の型計画の展開
―「住み方調査」という科学的方法論を基礎に、「食寝分離」則を把握し、住宅の「型
計画」を展開させていった。
―吉武・鈴木の就寝分離論につなぎ、2DK型集合住宅平面に結実。
2)マスハウジング・システムの構築
―「型計画論」「近隣住区論」「生活圏段階構成論」により積み上げたマスハウジン
グ・システム論の構築→『新日本の住宅建設』の提案
―戦後の住宅地計画理論へ発展、「団地・ニュータウン計画」の展開
3)住様式論の提起
―『これからのすまい』を基礎に戦後の住まいの発展の筋道を示し、高度成長期に
台頭した中間ファミリー層の住まいニーズに対応した「公私室型」の住宅を住様
式論から論理づけた
―清家清、池辺陽に代表される住宅作家の活動の肯定的批判
4)住宅階層論による分析
―「階層」の概念をキーワードに、住宅の供給過程、テニュアの分化、居住者の社
会的成層過程を一体的にとらえ、タイポロジー的に分析解釈することにより、近
代日本の住宅の発展プロセスを示した→『日本のすまい』の集大成
―住宅階層論は、公団住宅の政策的位置づけの理論的根拠を与える
5)構想計画論の提唱
―西山は、都市論の分野ではさまざまなテーマに取り組むが、いずれも啓蒙論レベ
ルのもの。唯一注目されるのは、「構想計画」(西山はこれをImage
planning
と呼んでいる)。都市の理想像を「極楽図」と「地獄絵」の対比で描き、ワークシ
ョップ的にアウフヘーベンしていく方法論。「京都計画」「奈良計画」で提示
6)総括
―西山の研究が目標としたのは、①住まいの封建制を打破し、②低位な庶民住宅の
状態の改善向上をはかり、③前近代的な住宅生産方法を改めていく、の3点であ
った。政治的には民主化、経済的には産業化、社会的には階層平準化の同時進行
を近代化と規定するなら、西山の研究は、「近代化論」であった。
―西山の学問は、徹底して「問題解決学」的性格をもち、計画学としての体系は、
空間を機能性・合理性基準によって解析し、社会をシステム論的に構築すること
で一貫していた。
3.西山計画学の歴史的考察
1)西山計画学の原点――15年戦争との対峙
―西山の思想・研究の原点は、15年戦争と真正面から対峙し、非常時体制を逆手に
とって国民の住宅、生活の水準を一挙に押し上げようと狙ったこと
―山之内靖は「総力戦とシステム的統合」(『総力戦と現代化』柏書房,1995)におい
て、第2次世界大戦期の日本の総力戦体制が、戦争遂行への人的資源の全面的動
員を通じて社会の機能的再編成を促し、戦後の国民社会は、この軌道の上に生活
世界を復元したと述べている。総力戦体制の下では「強制的均質化」が非日常的
で非合理的な状況で促されると指摘している。
―西山は、総力戦下における「生活基地の総合的建設」を謳い文句に強制的均質化
として要素還元された「国民住宅」を論じ、社会を「機能」と「システム」によ
って構築する方法論を体得した。
2)西山計画学の発展の背景――国際的に50年続いた住宅飢餓時代
―現役時代に西山がマスハウジングの計画思想を一貫して発展させることができた
のは、関東大震災とそれに続く世界恐慌、満州事変から太平洋戦争の15年に及
ぶ戦時期、戦後の混乱と復興、その後の経済急成長と大都市圏への民族大移動が
続き、約50余年にわたり、住宅の大量供給が国民的課題として存在したからだ。
―国際的にみても、第一次世界大戦後の戦間期から第二次世界大戦を経て、戦後復
興、そして高度経済成長が二度の石油危機に至るまでの50年間は、戦災と住宅
焼失、帰還兵の住宅難、世界恐慌によるスラムの顕在化、好況期には人口の大都
市集中などがが生起し、住宅の大量供給が常に大きな社会的要請となった。この
ような社会的背景のもと、イギリスの田園都市運動、ドイツのジードルング政策、
ロシアの新都市建設論、アメリカにおける近隣住区論の展開、ヨーロッパ全体に
ひろがったCIAMの運動など、マスハウジング理論が国際的に花開いた。西山は
これら建築・都市思潮に大きく刺激され、理論の精緻化を図っていった。
3)西山計画学のフェード・アウト――1973年の歴史転回
―戦後住宅史からみて、1973年は歴史的転換点となる。①2つの世界的経済ショッ
クが日本を直撃した。71年のニクソンのドル防衛政策の発表に加え、73年のオ
イルショックによって、日本の経済成長は急速にスローダウンし、成長の陰に隠
れていた公害や環境破壊が噴出した。②1972年の田中内閣の『日本列島改造論』
で全国的に展開し始めた開発に急ブレーキがかかり、地価も住宅建設量も急落し、
以後都市開発は、経済優先から生活優先にスタンスを変えていく。③戦後地方か
ら大都市圏への人口大移動の流れは、1973年を境に、それまでの3大都市圏へ
の集中から東京圏への一極集中に転じた。また1973年の住宅センサスは、すべ
ての都道府県で住宅数が世帯数を上回っていることを示した。
―つまり、1973年をもって日本の住宅問題は「量」の問題から「質」の問題へ移
行し、それによってマスハウジング論は転換を迫られることになる。
―西山が京大を退官した1974年以降、世界経済の不安化が進み、資源問題、南北
問題が激化する。東欧やソ連邦の社会主義国の解体が起こり、福祉国家の行き詰
まりが露呈する。国内的には、産業構造、雇用市場の再編で情報社会化が一気に
進むとともに、「一億総中流化」の二極分解が起こりはじめた。少子高齢社会化の
影響も随所に現れ始める。建築・都市面ではポスト・モダン思潮が拡がる。この
ような状況下で、西山が依拠してきた「近代性」の公準は有効性を失う。
4.「小さな物語」としての西山理論の超克
21世紀を展望したグランド・セオリーが求めれるが、ジェネラリストとしての西山が
構想した「大きな物語」は、もう描けないのも確か。私としては、「小さな物語」を愚
直に試行していくしかない。敢えて私は、西山の超克として3点を提起したい。
①マスハウジングからマルチハウジングへ
②階層から地域へ
③計画から文化へ
―以 上―
2025年7月5日土曜日
広原盛明:西山夘三が目指したもの ~20世紀における計画学研究と社会の相克のなかで~:シンポジウム:主旨説明,司会:「西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」,住田昌二,広原盛明,内田雄三:五十嵐太郎,中谷礼仁,五十日本建築学会建築計画本委員会,建築会館ホール,2008年1月15日
西山夘三が目指したもの
~20世紀における計画学研究と社会の相克のなかで~
2008年1月15日
日本建築学会計画委員会シンポジウム
広原盛明(龍谷大学)
1. 西山の生涯を通底するキーワード
➊ イギリスのマルクス主義歴史学者エリック・ホブズボームは、1914年の第1次世界大戦勃発およびそれに引き続くソ連の誕生から1991年のソ連崩壊に至るまでの期間を『極端の時代、短い20世紀』と名付けた。西山夘三の生涯(1911~94年)は、奇しくもこの「短い20世紀」とほぼ重なり合っている。西山の生涯を通底するキーワードのひとつは、20世紀の実践的思想であり、かつ社会運動の座標となった「社会主義」(マルクス主義)である。
➋ 20世紀はまた「総力戦の時代」ともいわれる。総力戦体制とは第1次大戦に始まり、20世紀末の東西冷戦終焉で終るグローバルな政治体制をさす(小林英夫)。第1次大戦時にヨーロッパに登場し、両大戦間期に日独伊ではファッシズム型、英米ではニューディール型の総力戦体制を生み出し、戦後は東西両陣営の各国を巻き込む形で米ソ対立のグローバルな冷戦型体制を作り上げた。日本における総力戦体制は、第1次大戦後に構想され始め、日中戦争のなかで日本経済の軍事統制化(総力戦化)を生み出した。この時期に作られた経済の総力戦化は戦後の高度成長に大きな影響を与え、ソ連崩壊による東西冷戦の終焉の時期まで継続したとされる。西山の生涯は「総力戦体制」の時代と重なり合うことによって、第2のキーワードである「体制型思考」ともいうべき国家体制のあり方を重視する思考・行動様式を刻印された。
➌ 国際的な歴史認識と体制型思考を行動基準としながらも、「大阪西九条」をキーワードとする西山のハビトゥス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)は鮮烈である。それは「東京」に対する「関西」、「山の手」に対する「下町」、「お上」に対する「下々」、「臣民」に対する「庶民」等々の対立図式を通して、西山の終生変わらぬ反中央権力精神の源泉となった。西山が日本住宅の分析手法においてクラインの動線分析理論を乗り越え、「住み方調査」というオリジナルな方法論を生み出していく思想的土壌となったのは、まさしく大阪の西九条が育てたこのハビトゥスであった。
2. 西山のライフコースとライフスタイル
➊ 西山のライフコースを概観するとき、大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分けられる。戦前・戦中の「前期」は、ファッシズム体制下にありながら学生時代に国際的な近代建築運動の洗礼を受け、国家機関である住宅営団の研究・技術官僚として、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期である。戦後の「後期」は、戦後改革の主舞台である民主化運動とジャーナリズム活動に軸足を移して、住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期である。
➋ 一般的に言って、知識人や研究者が時代や体制と向き合うとき、そのライフスタイルは「体制協力」「逃避傍観」「改良主義」「批判対抗」といった複数のタイプに分岐するように思われる(もっとも、同じ人間でも転向したり変節したりするので分類は容易でないが)。この分類からすれば、西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だといえるだろう。戦前のファッシズム体制が批判分子の社会的存在を許さなかった状況の下では(ごく少数の例外は別として)、体制協力や傍観者的立場に立つことを拒んだ多くの良心的知識人は、程度の差はあれ、必然的に(小さな)改良主義の道を選んだ。また選ばざるを得なかった。これに対して戦後は、ファッシズム国家体制が消滅したことによって選択の幅は著しく拡大した。
➌ 戦後日本の国家体制の際立った特徴は、経済成長を目指して長期的視点から系統的な介入を行う「開発主義国家体制」が確立され、90年代のバブル経済の崩壊まで継続したことである。工学系学会や研究者の間では、経済成長に連なる技術開発研究を推進することが当然視され、時代や体制に向き合うことが次第に少なくなった。とりわけ「開発」に直結する建築学・都市計画学の計画系分野においては、地域開発・都市開発・住宅地開発研究が一大ブームとなり、「体制協力」を超える「体制推進」タイプの研究者・建築家がマスメディアに華やかに登場するようになった。「開発」や「計画」をめぐる論争はもはや学会の域を超え、マスメディアやジャーナリズムの世界での「トピックス」あるいは「イベント」として展開されるようになった。このような時代状況のなかでの西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった。
3. 西山にとっての計画学研究の意味
➊ 「計画的思考」はもともと人間に固有の思考様式であって(マルクス)、計画的思考の体系である「計画学」の成立と発展は、人類の理性の発展と軌を一にしてきたといってよい。20世紀は建築学のみならず各分野に「計画的概念」や「計画システム」が生まれた時代であって、その背景には産業革命の深化にともなう飛躍的な技術開発の発展があった。テイラーの『科学的経営の原理』の出版(1911年)およびフォードによるT型車組み立てラインの導入(1913年)は、それを象徴する出来事であった。テイラーの科学的経営の原理に基づくフォードシステムの成立は、生産過程における連続的な技術革新(イノベーション:シュンペーター)を可能とし、計画的大量生産を機軸とする近代工業化システムを誕生させた。西山が生を受けた20世紀初頭の時代は、このような計画的大量生産技術の誕生期であり、CIAMなど国際近代建築運動もまた近代工業化イデオロギーを受け継ぐものであった。
➋ 「計画システム」は近代工場のなかだけではなく、総力戦体制を通して「戦時統制経済」(戦時計画経済)として社会と国民生活の隅々まで浸透していった。ヨーロッパでは、戦時計画経済によって労働者階級の労働条件・生活条件を向上させる社会改革と帝国主義政策を併せ主張する「社会帝国主義」(ゾンバルト)が主流となり、社会民主党や労働運動の側から「戦時社会主義」として積極的に容認された。日本では遅れて第2次大戦時に「戦時社会政策」(大河内一男)として展開され、近衛内閣の「新体制運動」の理論的支柱となった。西山の住宅営団時代はまさにその渦中にあったといってよい。
➌ 総力戦体制下での経済への国家の大規模な介入経験、総力戦の結果としての大規模な市街地破壊と住宅焼失からの戦災復興、そして国民の人心掌握の必要性は、世界各国の戦後体制を強く規定し、戦後再建計画において社会保障と社会改革の拡充が重視された。住宅政策はそのシンボルとなり、第1次大戦を通じて社会国家・福祉国家への道程が開かれ、第2次大戦後に福祉国家体制が成立した。「歴史にイフはない」といわれるが、もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない。しかし基幹産業の傾斜生産体制を機軸とする日本の戦後復興計画とそれに引き続く産業優先の高度経済成長政策は、『これからのすまい』に込められた西山の期待とは逆コースを辿った。
4. 学会・建築界に対して西山の果たした役割
➊ 建築学会は工学技術系学会でありながら、歴史やデザイン、住宅問題や都市問題など社会問題までを研究対象に包含する異色の学会である。にもかかわらず、研究の流れは時代潮流によって大きく規定され、時代動向を正確に反映する。また学会内部では研究領域の細分化と専門化が進み、それとともに「体制型思考」が馴染まない空気も広がってくる。それが学会内部の論争によって認識され、研究の偏りや歪みを自発的に是正できている間はよいが、やがては制御装置が利かなくなり、方向感覚も怪しくなってくるときがやってくる。西山の学会や建築界に向けられた批判の多くは、そのような状態に対する危険信号ではなかったか。
➋ 研究は学会の独占物ではない。学会の外でも、プロの研究者でなくとも(広義の)研究活動はできる。学会が「裸の王様」にならないためには、社会との関連で研究をチエックする「外部評価機能」を必要とする。また「学会研究を研究する」ことも自らの足元を確認する上での重要な研究テーマであろう。しかしその場合、自らの専門研究を相対的に評価できるだけの広い視野と深い蓄積がなければならず、それは一朝一夕に獲得できるものではない。西山が日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトをとりわけ重視したのはこのためである。また社会運動への参加によって研究と社会の接点を確保しようとしたのもそのためである。研究者が個人的努力によってこのような関係をトータルに把握することは難しいが、それを集団の力で獲得することが不可能でないことを実証しようとしたのが西山ではなかったか。
➌ 戦後の西山の研究活動への評価は、学会内外の両面からのものでなければならないだろう。しかしそれを妨げるのが建築学会の巨大化であり、建築界のギルド的体質である。巨大学会や業界組織の内部にいれば安泰であり、評価視点も内部化する。研究と社会の関係が定常的に保たれておる場合はそれでもよいが、社会が変動期に突入したときにそんな研究は壁に突き当たる。戦後期の西山のライフスタイルが「学会の外」における「批判対抗」型の活動に重点が置かれたのは、本人がそれを自覚していたかどうかは別にして、圧倒的多数の研究者が「内部化」するなかでのバランス行動であったかもしれない。20世紀末において、開発主義国家体制が新自由主義国家体制に劇的に移行した日本の現実は、いま西山に対する歴史的評価の時代かもしれないのである。
布野修司 履歴 2025年1月1日
布野修司 20241101 履歴 住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14 1949 年 8 月 10 日 島根県出雲市知井宮生まれ 学歴 196...
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