ロッテルダム:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
C20 ヨーロッパの玄関-
ロッテルダム Rotterdams,南ホラント州 South Holland,オランダ共和国 Netherland Republic
ロッテルダムは、アムステルダムに次ぐオランダ第2の都市(人口約64万人)であるが、欧州最大の貿易量を誇るロッテルダム港を擁する。上海港、シンガポール港にその座を奪われるまで1960年代半ばから40年間世界第1の貿易港であり、「ヨーロッパの玄関」「世界への門」と呼ばれた。
ロッテルダムは、ラインーマースースヘルデの河口デルタに位置する。ロッテルダムは、ネーデルランドの他の都市同様、ダイク(堤防)によって干拓を行い、ポルダーと呼ばれる干拓地をつくって都市を形成してきた。ダム(堰)、スライス(水門)の設置は、ポルダー建設に不可欠であり、ダムの名前はまさにダム建設がその町の起源となっていることを示している。
港湾都市であるロッテルダムは,ネーデルランドの中で最低地の都市であり,その標高はNAP(アムステルダム水準) マイナス6.7mである。
Its history goes back to 1270, when a dam was constructed in the Rotte river, after which people settled around it for safety. In 1340, Rotterdam was granted city rights by the Count of Holland.[10]
Rotterdam is known for the Erasmus University, its riverside setting, lively cultural life, and maritime heritage. The near-complete destruction of the city centre in the World War II Rotterdam Blitz has resulted in a varied architectural landscape, including sky-scrapers (an uncommon sight in other Dutch cities) designed by renowned architects such as Rem Koolhaas, Piet Blom, and Ben van Berkel.[12][13]
Rotterdam's logistic success is based on its strategic location by the North Sea, at the mouth of the Nieuwe Maas channel leading into the Rhine–Meuse–Scheldt delta. The rivers Rhine, Meuse, and Scheldt give waterway access into the heart of Western Europe, including the highly industrialized Ruhr.
1250年頃,ロッテルダムは海水面の上昇による内陸への塩水の浸入を防ぐために,南北を流れるロッテ川を新マース川から仕切るダイクが作られたことで,ポルダーが形成され漁港として人々が定着し小さな集落として誕生した。
1328年にはロッテルダムに都市権が与えられ,ロッテ川沿いの集落は次第に東西に拡張して行き,16世紀には歪んだ三角形状の市街地が形成され,その周りには都市を守るように市壁と環濠が築かれた(図1)。
16 世紀初頭のロッテルダムは,●カナ表記(Sint-Laurenskerk)●教会と堤防を中心とした軸に沿って市街が形成されており,市街の中央を東西に通る大通り●カナ表記(Hoog-Street)●に沿う市街は整形な区画割の街区が並んでいる。市街の中心を南北に貫くようにロッテ川の名残である●カナ表記(Binnen-Rotte)●を挟むように2本の水路が引かれ,これに東西に直行する形で2本の水路が引かれている。●Binnen-Rotte ●と新マース川の間には内港● Kolk ●が造られ,外海からの船舶の玄関口の役割を担っていた。●Binnen-Rotte●と● Kolk ●はダイクによって仕切られていることから両方の川を船で行き来することができず,荷物の積み替えが必要とされ,これが結果的に交易の場として発展するきっかけとなる。
16世紀後期になると80年戦争が始まり,アントワープ港やアムステルダム港が封鎖されていたため,ロッテルダム港の重要性が高まり,17 世紀に入るとタバコやスパイスを積んだ南米や西インド諸島からの商船が行きかう都市として発展し始める。
17世紀中ごろになると市域は拡大され,町並みは規則正しく並べられ,用途によって分けられた区画割によって形成される(図2)。港の拡大・開発によって大型の商船の入港が可能となり,商船が停泊することのできる港が大幅に増加した。
19世紀に入るとロッテルダムは工業港としての活況を呈し始める。産業革命の影響によ り大規模製品の運搬が必要になり人口港が造成された。ドイツのルール地方の工業化とともに,鉱石や石炭がライン川を遡上し,ルール地方で生産された工業製品がライン川を下り海外へ向かうようになると,ロッテルダム は重要な工業製品の運搬拠点の役割を担うようになる。1868年にはマンハイム条約で各国の船舶が自由にライン川を航行できるようになると,港湾都市としてロッテルダムの発展の拍車をかけた。この時の発展により,ロッテルダムの人口は急激に増加し劣悪な都市・住宅環境の発生の原因となってしまう。
これを解消するために制定された1902 年の住宅法により,住宅不足は解消されるが住居空間は狭く,住宅供給の量的問題の解決が優先されていた。1930年代に入るとオランダの集合住宅の住戸プランの一部には,この狭さを解消するために部屋の間仕切りを柔軟に し,部屋を異なる用途で重複利用する工夫が行われていた事例が多くあった。
その一例は,ミシエル・ブリンクマンがロッテルダムに設計したスパンゲン集合住宅である(図3)。1階と2階は各階にそれぞれ住戸が配置され,両住戸の玄関は住棟に囲われた屋外空間に面しており,2 階の住戸へは専用の階段を用いてアプローチする。1~2階の住居は幅8.4m,奥行き6.9mなっており,住居の一方は玄関,台所,居間食事室,トイレなどの生活ゾーンとなっており,もう一方は寝 室ゾーンとなっている。
上部の3 階,4 階は2 戸のメゾネット式の住戸が配置され,玄関は住棟を一周するギャラリーに面している。メゾネット式の住居は幅4.2m,奥行き6.9m が2層になっており,下層には生活ゾーン,上層には寝室ゾーンが配置されている。ギャラリーは,閉鎖型住棟の内側に設けられ,2 層下の街路面といくつかの階段室と貨物用エレベーターによって連絡されている。ここで用いられているギャラリー形式の理念は,複合性に基づく豊穣さをも醸し出している。これは,内部と外部,表と裏,公的要素(動線)と私的要素(プランターボックス)と いった対立的な要素が同時に存在するためである。十分な幅が確保されたギャラリーは, 共有のバルコニーや屋外の居間としても機能しており,すべての居住者にとって住居の前面のギャラリー空間は単なる動線以上の機能を果たしている。1 つの空間が私的領域化しつつも動線のための公的空間として機能している稀な例である。 (古谷侑・布野修司)
【参考文献(分量外)】
• Edwards, Henry Sutherland. Old and new Paris: its history, its people, and its places (2 vol 1894)
• Fierro, Alfred. Historical Dictionary of Paris (1998) 392pp, an abridged translation of his Histoire et dictionnaire de Paris (1996), 1580pp
• Horne, Alistair. Seven Ages of Paris (2002), emphasis on ruling elites excerpt and text search
• Jones, Colin. Paris: Biography of a City (2004), 592pp; comprehensive history by a leading British scholar excerpt and text search
• Lawrence, Rachel; Gondrand, Fabienne (2010). Paris (City Guide) (12th ed.). London: Insight Guides. ISBN 9789812820792.





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