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2025年11月12日水曜日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J20 ポルトガル最後の植民都市―東アジア布教の拠点

マカオMacau澳門特別行政區Macao Special Administrative Region,中華人民共和国People's Republic of China

 

 

 

 


ヨーロッパの海外進出の先鞭をつけたのはポルトガルである。1488年にバロトロメウ・ディアス(?~1500)が喜望峰に到達し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマ(c.14691524)がインド、カリカットに至る。以降、ゴア占領(1510)、マラッカ占領(1511)、とポルトガルはアジアに次々と植民拠点を築いた。そして、南シナ海に回りこんでマカオに到達するのは1513年、広州到達が1517年である。明朝との交渉役に指名されたのが『東方諸国記』を書き記すトメ・ピレス(1466頃~1524頃)である。知られるように、種子島漂着が1543年、中国、日本を最初に訪れたのもポルトガルである。

ポルトガルは植民拠点をシダードcidades(都市)と呼んだ。コーチンとゴアには早くから市参事会が設けられ、本国と同様の権利が与えられている。インディア領最大の都市はゴアであり、いち早く周辺地域も含めた領土支配を確立している。そして続いてシダードとなったのが、1557年に永久居住権を明朝から与えられ、1579年に司教区が設けられていたマカオである(1582年)。17世紀初頭にはコロンボとマラッカにも市参事会が置かれるが、この5つの都市以外は、商館や要塞を核とする居住地あるいは集落規模の拠点にすぎない。

 シダードとなるとともに都市建設が開始される。また、日本布教はマカオを拠点に行われることになる。イエズス会士フランシスコ・ザビエル(15021552)がゴアを訪れるのは1541年であり、1548年に宣教監督となって、翌年、洗礼を受けたばかりのヤジロウとともに薩摩半島の坊津に上陸、以降2年間滞在したが「日本国王」との謁見を果たせず、帰途、広州沖の上川島で死去している。そして、続いて日本布教に向かったのが、マニラに赴任し(1578)アジア全域を統括したA.ヴァリニャーノである。

 中国布教に当たったのは、M.ルッジェーリ(15431608)であり、『坤輿万国絵図』を日本にも伝えるマテオ・リッチ(利瑪竇)(15521610)である。マテオ・リッチによる西欧の書物の漢訳出版は中国に大きな影響を与えることになるが、明王朝そして清王朝の「天主教」への対応は厳しく、ポルトガル人の居住はマカオに限定され続ける。清朝初期には、台湾の鄭氏政権との関係を断つためにポルトガル船は閉め出され、マカオは一時期衰退する。鄭氏が清朝に降伏すると、貿易は再開されるが、日本の海禁政策もあり、ポルトガルがスペイン王の支配下に置かれることによって、交易は太平洋経由のガレオン船によるルート、すなわち、アカプルコーセブ・マニラそしてマカオ・彰州へというルートに変わる。17世紀初頭の絵地図(図1)が残されているが、小高い丘にギア要塞と城壁を建設、沿岸に城壁をめぐらすポルトガル流のシダ-ドである。ギアの聖母礼拝堂は1622年の建設とされる。

 ポルトガルがマカオの行政権を中国人官吏から奪取し、ここを完全に植民地化するのは1849年のことである。清朝が統治権を認めるのは1862年、友好通商条約を締結してマカオを永久的に占有することを承認したのは1887年である。

 第二次世界大戦中は、ポルトガルは中立を宣言、マカオ港は中立港として繁栄するが、日中戦争の激化とともに中国人難民の大量流入を受け入れている。戦後、ポルトガルはマカオを海外県とするが、マカオ暴動(1966年)など中国の反ポルトガル闘争による返還の圧力が高まり、1979年に、中華人民共和国とポルトガルの国交が樹立され、マカオの本来の主権が中華人民共和国にあることが確認された。そして、中華人民共和国が英国との香港返還交渉と平行してマカオ返還交渉が行われ、1999年に行政権が中華人民共和国に譲渡されることが決定、マカオには一国二制度が適用され、中華人民共和国の特別行政区となった。これによってアジアから欧米の植民地は完全に姿を消すことになる。

 マカオ歴史地区は、2005年に世界文化真に登録される(図2)。数多くの建築物や広場が構成遺産とされるが、中心となるのは1784年に建設され1874年に改修された民政総署(旧マカオ政庁)(図3)のあるセナド広場である。周辺には、1569年にマカオ初代司教が創設した聖母慈善会の仁慈堂(現博物館)(図4)、メキシコのドメニコ会によって1587年に建設された聖ドメニコ教会などがある。そして、ハイライトとなっているのは1602年から1640年にかけて建設され、1835年の大火で焼失、ファサードのみが残っている聖天主堂跡(図5)である。ここには聖母教会、聖ポール大学も建てられていた。聖母教会には長崎で殉教した26聖人も埋葬されている。(布野修司)


【参考文献】

Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635, ”Livro das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India oriental (Book of the Plans of fortresses, cities and boroughs in the State of Eastern India)”.

布野修司編:近代世界システムと植民都市,京都大学学術出版会,20052


1 マカオ 1635  Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635

2 マカオ歴史地区 2005

 

3 民政総署(旧マカオ政庁)


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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...