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2025年11月2日日曜日

ポトシ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ポトシ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L21 銀の帝都

ポトシPotosi , トマス・アリアス郡Tomás Frías Province、ボリビアBolivia

 

 ポトシはボリビアの南部、首都ラパスLa Pazから南東に約440km離れたアンデス山脈中の盆地に位置する。

メキシコでいくつかの銀鉱山が相次いで発見されたのち、ペルー副王領が設置されてまもなくポトシ(1545)、サカステス(1546)などの大鉱山が発見された。スペイン植民地帝国の鍵を握ったのは銀であり、スペイン植民地を支える最大の資源,財貨となった。ヨーロッパに大量に流入することによって,世界史の構造を変える大きな契機になる。そうした意味では,ポトシは,スペイン植民都市のひとつの典型ということができる。実際,「銀なくしてペルーなし」と言われ,16世紀半ばには人口16万人を擁すインディアス最大の都市となったのがポトシである 。ポトシの銀はリマの外港カジャオからパナマに向かい、そこから大西洋側のポルトベロ港(ノンブレ・デ、ディオス)へ上陸輸送され、セヴィージャに送られた。さらに、アカプルコ-マニラ-漳州のガレオン行路がアジアへ銀を運んだ。

ポトシ銀山が発見されてすぐに近くのチュキサカ(ラプラタ)からスペイン人が移住し,3000人のインディオが採掘に当たった。水銀アマルガム法自体は,セヴィージャ生まれのバルトレメ・デ・メディーナが1555年にメキシコのパチュカ鉱山で完成させていたものであるが,副王トレドは,その情報を得て,銀の溶解職人ペデロ・フェルナンデス・デ・ベラスコに命じて実験させ,ウアンカベリカ水銀鉱山を接収し,水銀の専売化を実現した上で本格導入をはかるのである。水銀アマルガム法はポトシ銀山の発展と不可分である。

各地の要塞を強化し,海軍も増強した上で,ビルカバンバのインカ軍を制圧,インカ帝国を滅亡させると,副王領内の巡察(ヴィシタ・ヘネラル)を行い(15701575,インディオ人口を把握し,領内の再編,統合を行う。年貢,徴税の基礎を築くとともに,インディオへの布教体制を再構築し,スペイン人に対しても異端審問所を設置,徹底化するなど教会体制を一新した。そして,ポトシPotosí 銀山へミタ労働制と水銀アマルガム法 を導入(1573)したことが,とりわけその名を歴史に残すことになる。


ペドロ・シエサ・デ・ペロンの『ペルー誌』(1553)の挿画(木版)(図Ⅰ)「ポトシ山Cerro de Potosi」を見ると,山の南側を流れる川を挟んで,川の北側に2つの教会らしき建物の他,比較的しっかりした建物が並んで描かれ,南側はより小さな建物が並んでいるように見える。スペイン人の住居とインディオの小屋を分けられていたのであろう。ただ,南側には広場と教会があるから町の中心は既に南側に設定されていたと考えられる。

 グリッド状の街区が形成され,さらに当初のグリッド街区を越えて都市が拡張していることが分かる(図Ⅱ)。このオリジナル・グリッドは,今日まで維持されている。

ポトシはスペイン植民都市の理念モデルの原型によって形成され、さらにグリットに従って拡張が行われたものだと考えられる。ポトシで精錬された銀は,ポトシ財務局を通じて,5分の1はスペインに運ばれ,王室の歳入に組み込まれた。残りの5分の4はポトシ財務局が捕捉しなかったものも少なくないとされるが,ペルー副王領に留まったわけではない。インディオにポトシを中心とする銀経済圏が成立することになった。ポトシ銀山における銀を精錬抽出するための原材料や資材(水銀,鉛,錫,銅,石炭,木材,・・・)は,ほとんど現地で調達することができた。ウアンカベリカ水銀鉱山にだぶつく水銀をメキシコに送る一方,ペルー副王領に対して様々なかたちで増税をはかり,資金調達に務めるのである。結果として,ポトシの銀はメキシコに流れることになった。当初は,ノンブレ・デ・ディオスからヴェラクルスに向かい,ハバナも中継点としながら,スペインとの交易ネットワークは強固に成立することになるのである(図Ⅲ、Ⅳ)。ポトシの銀は,一方で,アンデスを越えて黒人奴隷の交易拠点であったブエノス・アイレスに流れるのであるが,ブエノス・アイレスから直接セヴィージャへの直接移送は認められておらず,ポトシへの経済物資を供給するのが主目的であった。ポトシ銀山に水銀アマルガム法が導入された1573年は,アカプルコとマニラを結ぶガレオン船交易が開始された年でもある。中国の絹製品などが「新世界」に流れ出ることになると,銀も「東洋」に流れ出すことになった。

 19世紀になると、銀はすっかり枯渇し、独立に伴う戦乱も起こり、荒廃していった。19世紀末までは錫が大量に採掘されたが、これも現在ではほぼ枯渇している。

現在ではポトシ市内の造幣局の跡が博物館となっているなど、建物を含めた街全体が世界文化遺産となり、スペイン植民地時代の名残がある観光地になっている。赤茶色に染まる山「セロ・リコ」の裾野に広がるポトシの街は、赤い瓦屋根をもった家々が立ち並ぶ。また、街の中心地は、植民地時代を物語るような赤や黄色、水色に塗られた外壁と、出窓を有する住居が多くみられる。 


参考文献

布野 修司,「グリッド都市 スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生」,京都大学学術出版会pp145-183,pp388-392

布野 修司,「近代世界システムと植民都市」,京都大学学術出版会,pp86-92




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