広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
J17 中国世界の海の窓口 ‐西洋と東洋を繋いだ交易都市
広州Guangzhou,広東省Guangdong,中華人民共和国People’s Republic of China
珠江の三角州地帯に位置する広州は、古来、海外交易の港市として知られる。
秦代以前の広東は南越(粤)と称したが、秦の始皇帝は、南越を征服(紀元前224年)すると、この地を桂林、南海(広州市近郊)、象(南寧)の三郡に分け、行政地を番禺(広州市近郊)に置いた。
南越と中原との間には武夷山脈が立ちはだかり、物資の運搬・調達や軍の往来に不便なため、広州から灕水、湘水を経て長江に通じ、長江の武漢から伸びる漢水、丹水を北上して長安に達する運河(霊渠)を築く。この霊渠は南方と北方間の貴重な内陸交通路となり、広州の都市発展の基盤となる。始皇帝の死後、趙佗が独立国を宣言し南越城(趙佗城)を築く。後漢になると西域との交易も盛んになり、物資はインド洋を通り越南(ヴェトナム)に上陸したのち番禺に運ばれていた。
唐朝が崩壊すると、その混乱に乗じて「南漢」が成立する(917年)。その官庁区は現在の財政庁の位置にあり、隋代には刺史署、唐代には都府が置かれていた。大食街(現在の恵福路)以南に主要な商業区があった。現在の紙行路、米市路、白米巷、木排頭、絨線街、梳箆街である。これらの商業区では、米、天秤、丸太、竹細工、紙、絹糸、伝統手工芸品などが取り扱われていた。
唐代にアラブやペルシャの商人が城の西側に寓居の建設を許されると「蕃坊」と呼ばれる居住地が形成される。現在の中山路の南、人民路の東、大徳路の北、開放路の西である。「蕃坊」の居住者の大半はイスラム教徒であった。「蕃坊」にはモスク懐聖寺と光塔(627年)が築かれた
(図①)。
宋朝になると外国貿易を管理する市舶司が置かれる(971年)。沿江および西部地区に商業居住区ができ、広州は物産が集積流通する一大拠点となった。広州城は子城(中城)、東城、西城と拡張が繰り返されていった。1044年に拡大建設が始まり、完成するのは1208年である。
元代の広州は、交易港としての地位を継承するが、その繁栄の一部は福建の泉州港に奪われるようになる。
明朝は海禁政策を採る(1370年)が、寧波、泉州、広州の3港に限って朝貢貿易を許可する。広州には市舶司が置かれ(1403年)「蕃商」が建設される。この「蕃商」は清代の「広東十三夷館」の前身である。 明代の広州城は、北の山麓(現在の越秀山の一部)に城壁を拡大し、宋代の東、中(南城)、西の三城は連接された。これを「旧城」または「老城」という。1564年に、現在の越秀南路から万福路を通り、泰康路、一徳路を経て、西の人民路の太平門にいたる新城が増築される。そして、東の「清水豪」から南の「城南豪畔街」にかけて、外国商船が常時停泊する時代となる。1517年のポルトガルの来航以降、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが相次いで中国貿易を求めてくる。解禁が解かれるのは清代の1684年で、広州、漳州、寧波、雲台山(江蘇・浙江・福建・広東にそれぞれ江海関・浙海関・閩海関・粤海関の4港)を
開き、広州には現在の文化公園あたりに粤海関(税関)が置かれた。
対外貿易を仕切ったのが「官商」と呼ばれる特許商人で、その商店を「牙行」「官行」などと称した。解禁直後の1686年に、外国商人と十三の行商からなる「十三行」と称される中国特許商人は、広州城の南西に位置する十三行通りの南側、文化公園から珠江までの一帯に外国人商館「広東十三夷館」と十三行舎を建設する(図③)。 広東十三夷館は2階建てで連続長屋の形態をなし、1階が事務所室と倉庫、2階がベランダである住居となっている。当時の東南アジアで流行したバンガロー形式の建物である。
18世紀半ば、乾隆帝は、西洋人の頻繁な来訪を制限するため鎖国令を発布し(1759年)、アヘン戦争が終焉する1847年まで、海外貿易の権利を広州の貿易商のみに与えた。広州はますます特権的な都市となる。
海外交易のための港や商館は、広州城の正門外側すなわち西関に置かれるようになり、西関では徐々に下町が形成されていった。西関は宋代より商業の町として徐々に発展し、海禁政策とともに急激な発達をみせた。19世紀後半になると、もともと湿地であった西関の西部が開拓され、そこで富裕層が豪邸を築き始めた。伝統的な四合院住宅は西関大屋と呼ばれる。
しかし、西欧列強の進出によって広州は激動の時代を迎えることになった。アロー戦争(1856~1860)の際に焼失した夷館に代わって、広州の西側の珠江に面する楕円形の砂州を租借し、租界を建設する。この砂州を沙面という。1852年までは中国最大の輸出港として君臨してきたものの、それ以降は上海や香港にトップの座を譲り渡すことになる。
1911年に中華民国が成立すると、広州都督は城壁を解体して近代道路の建設と既存道路の拡幅を実施するため工務司を置く。城壁解体の土砂や磚石は、道路の路盤として利用し、残った瓦礫は東の東岡一帯、西の広三鉄道の黄沙駅から西村駅にかけての新開拓地の埋め立てに利用した。1938年に日本軍が広州を占領、西堤商業区、海珠工場一帯の民居を破壊し、広州の経済は一時期停滞する。
中華人民共和国が成立すると、第一次五カ年計画(1953~1957年)でその方針が示され、広州は工業都市に転じて急速に発展を遂げた。1980年になると、造船、機械、電子、化学工業といった重化学工業へ転換がなされる。1985年に「長江三角州」と「閩南三角州」とともに「珠江三角州」が経済特区に指定され、広州は上海に並ぶ一大メトロポリスとなる。
広州には、西関大屋区中心に、西関大屋、竹筒屋(図④)、騎楼の3種類の伝統住居が存在してきたが、いずれも大きく変容しつつある。

図④
主要参考文献
河合洋尚『景観人類学の課題 中国広州における都市環境の表象と再生』風響社、2013
田中重光『近代・中国の都市と建築 広州・黄埔・上海・南京・武漢・重慶・台北』相模書房、2005
周霞『広州城市形態演進』中国建築工業出版社、2005
三橋伸夫、小西敏正、黎庶施、本庄宏行『中国広州市騎楼街区における保全的再生策の動向と住民意識』日本建築学会技術報告集 18(39)、639-644、2012.6
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