ライデン:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
C21 レンブラントの生地-
ライデンLeiden,イル・ド・フランス地域圏 Ile-de-France Region,首都Capital、フランス共和国 French
Republic
ライデンアムステルダムの南西36kmに位置する。オランダ最古の大学都市であり、画家レンブラントの生地である。日本ではシーボルトコレクションを所蔵する日本博物館シーボルトハウスや国立民族学博物館があることでも有名である。
現在のライデン近郊にある、ローマ時代の定住地の名はマティロ (Matilo) といった。しかし、ライデンにあるローマ時代の要塞は4世紀からのものである。
新旧のライン川の合流地点にあたる地に人工的な丘がつくられ、そこにライデンができた。この場所についての記載は860年頃からで、定住地の名はレイトン
(Leithon) といった。丘の上を本拠地にするライデンの領主は、最初はユトレヒト司教に従属したが、1100年頃に世襲城主がホラント伯領へ従属するようになった。この伯領は近くの要塞ホルトラント
(Holtland) またはホラント
(Holland) 領から1101年に名付けられたものである。
ライデンは、1047年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世によって略奪にあった。13世紀初頭、ホラント女伯アダが叔父ウィレム1世との内戦を戦い、ライデンへ逃げ込んできた。ウィレムは要塞を包囲し、アダを捕らえた。
ライデンは、1266年に市の特権を授けられた。1389年の人口は4000人程度に増えていた。
アムステルダムを含め、デルフト、ライデン、ハーレムといった北海沿岸の「低地」地方の諸都市は、運河都市kanaal stedenと呼ばれる。「低地」地方の住人は、古来、テルプterpと呼ばれる人工的なマウンドを築造し、堤防=ダイクdijkによって干拓を行い、ポルダーpolderと呼ばれる干拓地をつくって居住してきた。ライデンは、スペインのライデン包囲(1573~74)に耐えた砦ブルフトburchtのある小高い丘を中心に発展してきた町である。ダイクによってポルダーをつくることによって居住地がつくられ、同時に運河が張り巡らされる建設方法は各都市共通である。ダムdam=堰、スライスsluis=水門の設置は、ポルダー建設に不可欠であり、アムステルダム、ロッテルダムという名称はまさにダム建設がその町の起源となっていることを示している。
オランダの都市形成は、以上のように、ポルダー形成と排水のシステムによって理解することができる。まず、河川(運河、排水路)の堤防沿いの帯状の片面ポルダー型集落がその原型である。続いて両面ポルダー型の集落が発展する。そして、ダム、水門、水路(運河)の配置によってヴァリエーションが生まれる[1]。ロドヴィコ・グッチアルディニが絶賛した[2]というデルフトについてその形成過程を見ると以下のようである。
「低地」地方に残る中世の要塞としては、11世紀後期や12世紀のライデン、エンクハウゼン、テイリンヘンTeilingenなど中心部に楼閣をもった円形のものがある[3]。市壁が建設され始めるのは14世紀初頭ぐらいからであるが、オランダの要塞エンジニアたちは、いわゆるオールド・ダッチ・システムによって多くの要塞を建てている。火器の登場によって、そうした築城術の伝統は大きく変化していくことになる。上述したように、16世紀初頭には、デューラー、シュペクルというドイツの理論家の影響がまずあり、続いてイタリア人エンジニアが雇われて活躍し始める。
また、1567年に派遣されたアルヴァ公のスペイン軍のもとで多くのイタリア人エンジニアが働いた。一方、80年戦争の初期には、オランダ人も、イタリア式の五角形を安上がりで実戦的な囲い込みの方法として採用している。オランダはスペインに対して明らかに有利とは言えず、守備隊も少なく、お金も不足していた。緊急に防御する必要があったが、組積造の壁を造るのに必要な石が国内にはなかった。オランダ人が利用したのは、無数の川や水路であり、長い海岸線である。豊富な水は、平坦な湿地帯や泥地や水路のある田園地帯で戦うことに不慣れな敵軍に対する障害物となる。オランダ人エンジニアたちは、イタリアの平面計画を引き継ぎながら、自立式の半月堡(濠に囲まれたV字型の外堡)などを完備した要塞を築いた。土製の城壁の表面や側面を支える塁壁は、鉄棒の束で支えている。オランダのスペインに対する反乱は、こうして、ヨーロッパにおける要塞の新しい概念を生み出す触媒となった。そして、戦争は連合州の軍事防衛を発展させるのに大きな役割を果たした。町は新しく強大な要塞に囲まれ、侵略者を撃退するために堤防を決壊させるという装置も備えることになった。洪水を、溝を開いて水を引き込むことによって解決する方法などは、1574年のライデン包囲の際に大いに役立ったのである。水溝を備えたオールド・ダッチ式の要塞や幅の広い土製の工作物や、木製の補強は、熟達した敵の工作兵やエンジニアたちに対して非常に効果が高かったのである。
1600年には、上述したように、ライデン大学にダッチ・マテマティカというエンジニア養成機関がつくられ、多くの軍事エンジニア、土木エンジニアが育てられて国外で仕事をしていくことになる。教育に当たったのは、ルドルフ・ファン・セウレンLudolph van Ceulenとシモン・フランツ・ファン・メルウェン Symon Franszoon van Merwenである。学生となったのは、主として石工、大工などの職人である。F.ウェストラ[4]が挙げる1573~1604年の間に活躍した50人のエンジニアのうち、11人が軍隊に、4人は諸都市に雇用されたが、もともと11人は職人、6人は測量士であった。アドリアン・アントニスは測量士、ヤコブ・ケンプは土地管理士、ヨハン・ファン・レイスウェイクは貴族、ヨースト・マテウスは南ネーデルランドからの難民である。建築家で数学者であったシモン・ステヴィンやハンス・フレーデマン・デ・フリースは極めて特別である。
その活躍の場は、以上のように、フランスやイングランド、ドイツやスカンジナビア半島まで広がっていった。そしてさらに、海外植民地に広がっていく。要塞技術は、すなわち、軍事技術、土木建設技術は、貿易の航路を支配するだけでなく商業のための倉庫などを建設し運営するのにも必要不可欠だったのである。戦争と貿易は相伴しており、要塞を移植することは単に防御と攻撃のことを考えて設計されたわけではない。オランダが倣ったのはポルトガルの要塞移植の技術と商館建設のシステムである。豊富な商品の保管能力を持つ倉庫だけでなく、居住施設、貯水池、作業場、兵器庫、教会、刑務所、病院、行政施設や家畜場などもそろった都市の建設が必要とされたのである。
オランダの建築家の名前が知られるようになって地位を得るのは、ルネサンスの影響を受け入れてからである。ほとんどが、アムステルダム、ライデン、ハーレム、ハーグといった都市、あるいはバルト海沿岸の諸都市で、特に公共の仕事に携わった建築家である。
16世紀末から17世紀初めにかけて、まず、二人の才能ある建築家が知られる。一人がフレミング・リーベン・デ・キイFleming Lieven de Key(c.1550~1627)で、彼はヘントに生まれ、石工として教育を受けた。フランドル地方での宗教的迫害にあい難民となり、1580年にロンドンに逃れる。約10年後、オランダへ戻りハーレム市の建築家となる。ライデン市庁舎(1597)、ハーレムの肉市場(1602/3)やニーウ・ケルクNieuwe Kerk(新教会)のための新しい塔(1613)など、ハーレム、ライデンで数多くの建築を監督している。オランダ・マニエリスムの指導的人物とされる。
もう一人は、ヘンドリック・デ・ケイゼルHendrik de Keyser(1565~1621)である。彼はユトレヒトで生まれ、アムステルダム公認の建築家、彫刻家となった。アムステルダムの3つの教会は全て彼の手になる。また、イースト・インディア・ハウス(1606)、取引所(1608~11)、ハーレム・ゲイト(1615~18)などがある。さらに、数多くのタウンハウス(運河住宅)をデザインしている。
【参考文献】
·
Edwards, Henry Sutherland. Old
and new Paris: its history, its people, and its places (2 vol
1894)
·
Fierro, Alfred. Historical
Dictionary of Paris (1998) 392pp, an abridged translation of his Histoire
et dictionnaire de Paris (1996), 1580pp
·
Horne, Alistair. Seven
Ages of Paris (2002), emphasis on ruling elites excerpt and text search
·
Jones, Colin. Paris:
Biography of a City (2004), 592pp; comprehensive history by a leading
British scholar excerpt and text search
·
Lawrence, Rachel; Gondrand,
Fabienne (2010). Paris (City Guide) (12th ed.). London:
Insight Guides. ISBN 9789812820792.
· Sutcliffe, Anthony. Paris: An Architectural History (1996)
[1] 石田壽一、『低地オランダ 帯状発展する建築・都市・ランドスケープ』、丸善株式会社、1998年
[2] ミヒール・C・プロンプ、「17世紀デルフトの町を訪ねて」、『フェルメールとその時代』、毎日新聞社、2000年
[3] オランダの要塞の大部分は19世紀後半に法律によって破壊された。第2次世界大戦後に復元されたものとしてナールデンNaarden、ホイスデン Heusden、ブルタング Bourtangeなどのものがある。
[4] ibid. Frans Westra,“Nederlandse
ingenieurs en de fortificatiewerken in het eerste tijdperk van de Tachtigjarige
Oorlog, 1573~1604”, Canaletto, 1992

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