Mohan Pant, Shuji Funo: A Morphological Analysis of Neighborhood Structure ー Toles and the Ritual Artifacts of the Kathmandu Valley Towns – the Case of Thimi,‘Special Issue The Wisdom of Asian Art and Architecture’,“ MANUSIA” Journal of Humanities,No.3 2002
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2024年2月8日木曜日
2023年5月16日火曜日
近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月
近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月
「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてー」
布野修司(滋賀県立大学)
1.1979年1月以来、アジアの諸都市を歩き回っている。当初、東南アジア地域(アセアン諸都市)をフィールドとして、「地域の生態系に基づく住居システム」をテーマとした[i]。ハウジング計画の分野における近代日本のパラダイム(マス・ハウジング、51C、プレファブリケーション)に対する批判的検討がその大きな研究動機である。そして、サイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)事業におけるコアハウス・プロジェクト、そしてセルフヘルプ・ハウジング(フリーダム・トゥー・ビルド、ビルディング・トゥゲザーなど東南アジアのNGOグループ)によるセルフ・エイド系を含んだ参加型のハウジング手法に強い示唆を受けた。
2.「地域の生態系に基づく住居システム」に関する研究は、「近代」以前の、地域に固有な住居集落の空間構成原理を解明する試みであり、その現代的再生への模索である。また、異文化理解の方法を問うことにつながった[ii]。この間、グローバルに、各地域を圧倒してきたのは、近代世界(空間)システムである。
3.以上の研究遂行の過程で、スラバヤの「カンポンkampung(都市内集落)」に出会った[iii]。カンポンの空間構成原理を明らかにし、カンポン・ハウジング・システムを提案した[iv]。
4.カンポンについての調査研究は、「ルーマー・ススン(カンポン・ススン)」というインドネシア型「都市型住宅」の提案に結びついた。また、「スラバヤ・エコ・ハウス」の提案に結びついた。臨地調査―都市組織・街区組織の解明―型・モデルの提案―評価のサイクルは建築計画学研究の前提である。
5.カンポンは、コンパウンドcompoundの語源であるという説(OED)が有力である。大英帝国が世界の陸地の1/4を占めていく過程でその言葉が世界中に広がった。一方、今日の世界中の都市の計画原理の基礎になっているのは、英国を中心として組み立てられた近代都市計画の理念であり、手法である[v]。
6.英国近代植民都市は、ニューデリー、キャンベラ、プレトリアの計画―建設(1910年代~30年代)において完成したと考える。しかし、近代植民都市の系譜には、それに遡るいくつかの系列がある。近代世界システムの形成にあたって最初にヘゲモニーを握ったオランダ植民都市に焦点を当てて植民都市計画を総覧することになった[vi]。さらに、スペイン植民都市もターゲットとなりつつある[vii]。
7.カンポンの調査研究は、「イスラームの都市性」[viii]に関する共同研究によって、もうひとつの展開に導かれることになった。イスラーム都市への関心は、西欧列強による植民都市以前に遡るアジアの都市、集落、住居の構成原理に関する関心に重なり合う。アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜は、大きく、中国都城の系譜、ヒンドゥー都市の系譜、イスラーム都市の系譜に分けられる。
8.アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜に関する研究のきっかけとなったのは、ロンボク島のチャクラヌガラという都市の発見である。以降の展開を集大成したのが『曼荼羅都市』[ix]であり、カトゥマンズ盆地のパタンに焦点を当てた『Stupa & Swastika』[x]である。また、イスラーム都市について、まとめつつあるのが『ムガル都市』[xi]である。
9.以上の広大な研究フィールドをつないで一貫するのが、都市組織urban tissue, urban fabric、街区組織、都市型住居に関する関心である。「アジアの諸都市における都市組織および都市型住宅のあり方に関する研究」[xii]、とりわけ「ショップハウスの世界史」が近年のテーマである。
10.戦後建築計画学の出発においてテーマとされたのは、それぞれの地域における生活空間の全体である。大都市の住宅問題が大きくクローズアップされたのは、それが大きな問題であったからである。公共施設の整備についても同様である。銭湯に関する調査研究も、貸し本屋に関する調査研究も、地域空間のあり方から掘り起こされたテーマであった。
11.しかし、一方、施設=制度=institutionを前提にしてしか自己を実現することのない「計画学」研究のアポリアがある。建築計画学の成立は、近代的な施設の成立、病院、学校、監獄・・・の成立(誕生)と無縁どころか密接不可分である。
12.以上のメモが明快にメッセージとするのは、タウンアーキテクト、コミュニティ・アーキテクトとして、フィールドから、地域から、街の中から、問題を立て、返せということである。コミュニティ・アーキテクト[xiii]については京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)[xiv]、そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」(滋賀県)によって試行しつつある。
13.「建築家」あるいは「都市計画家」、ここでいう「コミュニティ・アーキテクト」の役割とは何か。プロトタイプかプロトコルか、執拗に問う必要がある。
[i] 『地域の生態系の基づく住居システムに関する研究(Ⅰ)(Ⅱ)」(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団, 1981年、1991年
[ii] 『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』,協議会資料, 建築計画委員会,1988年。『 住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989年
[iii] 『カンポンの世界』,パルコ出版,1991年
[iv] 学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学)、1987年 日本建築学会賞受賞(1991年)
[v]
『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British
colonial cities、京都大学学術出版会、2001年
[vi] 『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年
[vii] J.R.ヒメネス・ベルデホ、布野修司、齋木崇人、スペイン植民都市図に見る都市モデル類型に関する考察、Considerations on Typology of City Model described in Spanish Colonial
City Map,日本建築学会計画系論文集,第616号pp91-97, 2007年6月他
[viii] 日本における今日におけるイスラーム研究の基礎を築いたといっていい,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-90)は,まさにイスラームの「都市性」に焦点を当てるものであった。
[ix] 『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006年
[x] Shuji Funo &
M.M.Pant, “Stupa & Swastika”,
[xi] 山根周、布野修司、『ムガル都市-インド・イスラーム都市の空間変容』、京都大学学術出版会、近刊予定
[xii] 科学研究費補助研究、2006年~
[xiii] 『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年
[xiv] 『京都げのむ』01-06、京都CDL
2023年2月17日金曜日
社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603
社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603
雑木林の世界79
社区総体営造・・・台湾の町にいま何が起こっているか
布野修司
毎月第三金曜日はアジア都市建築研究会の日である。昨年四月に準備会(山根周 「ラホールの都市空間構成」)を開いて、この一月の会で七回目になる。小さな会だけれど、研究室を越えた、また大学を超えた集まりに育ちつつある。各回の講師とテーマを列挙すれば以下のようだ。
第一回 宇高雄志 「マレーシアにみた多民族居住の魅力」(一九九五年五月)
第二回 齋木崇人 「台湾・台中の住居集落」(六月)
第三回 韓三建 「韓国における都市空間の変容」(七月)
第四回 沢畑亨 「ひさし・植え込み・水」(一〇月)
第五回 牧紀男・山本直彦 「ロンボク島の都市集落住居とコスモロジー」(一一月)
第六回 青井哲人 「「東洋建築」の発見・・伊東忠太をめぐって」(一二月)
第七回 黄蘭翔 「台湾の「社区総体営造」」(一九九六年一月)
ここでは最新の会の内容を紹介してみよう。
台湾の「社区総体営造」とは何か。なかなかに興味津々の内容であった。
講師の黄蘭翔先生は、昨年まで研究室で一緒であったのであるが、逢甲大学の副教授を経て、現在は台湾中央研究院台湾史研究所の研究員である。都市史、都市計画史の専門であるが、台湾へ帰国してびっくりしたというのが「社区総体営造」である。
「社区」とは地区、コミュニティのことだ。社区という言葉は必ずしも伝統的なものではない。行政の組織ということであれば保甲制度がある。そして、「社区総体営造」とは平たく言うとまちづくりのことだ。台湾ではいま「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったという。「経営大台湾、建立新中原」(偉大な台湾を経営しよう、新しい中国の中心を創り出そう)「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなっているという。
「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。行政機関の役割は考え方の普及、各社区の経験交流、技術の提供、部分的な経費の支援のみである。最初のきっかけとしてモデル事業を行うこともある。
社区毎に中、長期の推進計画が立てられる。社区の役割は住民のコンセンサスを得て、詳細の完備した地区の設計計画を立て、同時に資金の調達計画、経営管理計画を立てることが期待される。
「社区総体営造」の目的は、単なる物理的な環境の整備ではなく、社区のメンバーの参加意識の養成であり、住民生活の美意識を高めることである。「社区総体営造」は社区をつくり出すのみではなく、新しい社会をつくり出し、新しい文化をつくり出し、新しい人をつくり出すことである。
「社区総体営造」を推進しているのは行政院文化建設委員会(略して文建会)である。権限が全く違うから比較にならないけれど、日本でいうと文化庁のような機関である。「社区総体営造」政策が開始されてまだ三年なのであるがすごい盛り上がりである。
具体的に何をするかというと、次のようなことが挙げられる。
●民族的イヴェントの開発
●文化的建造物がもつ特徴の活用
●街並みの景観整備
●地場産業の文化的新興
●特有の演芸イヴェントの推進
●地方の歴史や人物を展示する郷土館の建設
●生活空間の美化計画
●国際小型イヴェントの主催
それぞれの社区は独自の特性を生かしてまずひとつの項目を推進し、徐々に他の項目に広げていくことが期待されている。現在、一二項目のプロジェクトが推奨プロジェクトとしてまとめられている。
黄蘭翔先生は、「社区総体営造」の背景と文建会の施策の概要を説明した後、三つの事例をスライドを交えて報告してくれた。
台中理想国、嘉義新港、宣蘭玉田の三地区の例であるが、それぞれ多様な展開の例であった。政策展開としては三年ということであるが、それ以前からいろいろなまちづくりの試みが自発的に起こっていたのである。
理想国というのは、その名を目指して造られた民間ディベロッパーの計画住宅地であったが、総戸数二〇〇〇戸のうち入居率が三〇パーセントというありさまでスラム化していた。その団地をリニューアルする試みが供給業者の主導のもとにこの十年展開されてきた。ペンキでファサードを塗り直す「芸術街坊」をつくることから、警備体制を整えたり、市場を改装してショッピング・センターをつくったり、幼稚園などの公共施設の整備したり、生き生きとした街に再生していく様がスライドからも伝わってきた。
嘉義新港の場合は、陳錦煌というお医者さんがリーダーである。苦学して台湾大学付属病院の医師となった陳氏が帰郷し、医療活動をしながらまちづくりに取り組むのである。具体的には「新港文教基金」が設立され、息長い文化芸術イヴェントが展開されている。
宣蘭玉田のケースは、文建会主導によるモデルケースである。きっかけは全国文芸祭であったという。全国的な文芸祭を行うに当たり、まず地区を見つめる作業が行われた。具体的には、フィールド・ワークによる地方史の編纂や環境調査である。そしてその過程で、社区の文化を産業化する方法が模索された。そして、文芸祭に当たっては様々なアイディアが出され、実効に移された。お年寄りの伝統技能を用いて竹の東屋が建設されたりしたのである。
詳細には紹介しきれないけれど、台湾の新たなまちづくりはおよそ以上のようだ。誤解を恐れずに言えば、HOPE計画あるいは村おこし、町おこしの台湾版である。事実、「社区総体営造」の立案者は日本の事例に学んだのだという。CBD(コミュニティ・ベースト・ディベロップメント)の理念が基本に置かれているのは間違いない。
「建立新故郷」、「終身学習」を理念とする「社区総体営造」が施策として展開される背景には、台湾の置かれている内外の関係があるであろう。しかし、その方法には相互に学ぶべき多くのことがあるというのが直感である。
2022年8月1日月曜日
パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日
パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日
2022年6月8日水曜日
2021年11月5日金曜日
カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) Kampung and Kampung Improvement Program(KIP) 布野修司 Shuji FUNO
日本建築学会2021年度大会(東海)「都市インフォーマリティから導く実践計画理論」[若手奨励]特別研究
パネルディスカッション資料
【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】
カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)
Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)
布野修司1)
Shuji FUNO
1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com)
Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.
I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements.
カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落
Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), Involution,Urban Village
1. はじめに
建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。
歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条
1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。
2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。
3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。
4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。
5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。
6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。
7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。
2. 『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』
東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(1978~1982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた1979年1月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(2020年1月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。
『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究‐ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン―』(京都大学学術出版会,2021)である。
新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。
1979年1月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。
何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが1882年2月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。
この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。
臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。
3. カンポンとコンパウンド
最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。
「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。
『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』26,2000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。
コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。
4. RTと隣組
そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetangga(RT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。
日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(1940年9月),隣保組織として5~10戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。
日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944年1月11日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。
軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。
5. 開発独裁とカンポン
日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。
1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965年9月30日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。
インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。
6 インヴォリューション
「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。
このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。
アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。
発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,
a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。
7 W.R.スプラットマンKIP
KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。
バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。
20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。
1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。
独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。
カンポンの居住環境改善について,逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。
こうして,自治体ベースで開始されたKIPは ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I ,74~76 年) ,76 年からはスラバヤにおいても行われた ( Urban Ⅱ,77~79 年)。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。
8 リスマとクリーン&グリーンKIP
スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono(2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-2015,2016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。
リスマ市長は,2010年9月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。
とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。
それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。
スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている。
リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。
筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。
[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja(1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。
[2] Silas, Johan(1979), ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya
[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936
[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,・Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution・,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975
2021年10月19日火曜日
ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理
ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジー,住総研研究年報19,住宅総合研究財団,1992
Ⅳ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理
1.ロンボク島のコスモロジー
1-1 プラ・メルとカラン
チャクラヌガラの中央部に位置するプラ・メル(寺院)は北の王宮とともにその中心的施設である。ロンボク島のプラ(図Ⅳー①図① ロンボク島の寺院)の中で最も大きく、最も印象的なのがプラ・メルである。このプラは東西にのびるチャクラヌガラの主要道(スラパラン通り Jl.Selaparang)に面し、周囲を頑丈な壁に囲まれて建っている。 バリのカランガセム王国によって、ロンボク島の当時の全ての小王国を統合する中心として、1720年に建立された。プラ・メルの名が示すように世界の象徴であり、ヒンドゥ教のブラフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神に捧げられている。敷地構成(図Ⅳー②図②)は、東西方向に三つの部分に分けられ、それぞれ天、人、地に対応するといわれる。すなわち、スワ(Swah,ジャワ、バリ、ロンボクでマカラ makara 以下同様)、ブア(Buah,ウカラ Ukara)、ブール(Bur,アカラ Akara)と呼ばれて区別される。一番西側に入口が設けられているが、そこがブールである。
この3つの部分のうち最も重要なものは東端のスワの部分で、ここには3つの塔と33の祠などの建物が配置されている。11の屋根をもつ中心の塔はシヴァ神を、9層の屋根をもつ北側の塔はヴィシュヌ神を、7層の屋根をもつ南側の塔はブラフマ神を象徴している。
またこれらの三つの塔を囲むようにして、北側と東側に33の小さな祠がならべられている。それぞれの祠に固有の名称、さらに対応するプラの名称が併記され、チャクラヌガラと周辺の村を合わせた33のカラン(住区)によって維持管理されている。
祭礼時には各カラン(住区)から数人が訪れ、それぞれの祠に対してお供えをし、祈りを捧げる。
チャクラヌガラは格子状パターンによる住区構成をとっており、現在ではその格子状パターンに従って住区割がなされ、ブロック毎に名称が付けられている。しかし、プラ・メルの33の小祠と対応するプラは必ずしもブロック単位とはなっていない。図3は33のプラをプロットしたものである。
33という数字に注目すれば、宇宙論的数として、それはメール山(須弥山)の頂上に住むとされる33の神々を想起させるものである。
東南アジアでは家臣や高官の定員数として、あるいは王国を構成する地方省の数としてしばしば登場する数であり、例えば、ビルマのカミング王朝時代のジャヴァ、ペグー王国などにそれがみられる。
また東西に走る主要道をはさんで北側に存在するプラ・マユラには33の噴水が設けられ、それぞれがコミュニティーの核となっている。
仏教の体系において須弥山とは宇宙の中心をなす世界山である。この山はそれぞれ7つの環状の海によって互いに隔てられた7つの山脈によって取り囲まれている。これらの山脈のうち最後の山脈を越えると、大洋が広がり、その中には、4方に一つずつの計4つの大陸がある。須弥山の南にある大陸が贍部州で、人間の住むところである。ここでも宇宙は一つの巨大な岩の壁、つまりチャクラヴァーダ(鉄囲山)山脈によって取り囲まれている。須弥山の斜面には、極楽のうち、一番下の極楽、つまり4大王あるいは世界の守護者の極楽がある。その頂上には第二の極楽、つまり33神の極楽があり、そこにはスダルサーナ(善見天)、つまり神々の都市もあるが、そこではインドラが王として君臨している。須弥山の上方にはその他の天空の居住地が積み重なって聳えている。
以上のことから、上述したインドの宇宙像がチャクラヌガラにも反映しているのではないかと考えられる。プラ・メルはチャクラヌガラの住民にとっての信仰の中心でもあり、かつコミュニティ統合のための象徴的な核としても存在しているのである。
1-2 プラの構成とオリエンテーション
(1)プラ・リンサール
プラ・リンサール(図Ⅳー③図③)はチャクラヌガラの北東約15キロメートルに位置するプラで、ロンボク島における最も神聖なプラであるといわれている。このプラは1714年に建立され、ヒンドゥーとイスラームの聖地が明確に隣接するという点において特徴的である。ロンボク島ではイスラーム教徒がワクトゥ・テルとワクトゥ・リマの二つに分けられることは既に繰り返し述べてきたが、プラ・リンサールを信仰対象にしているのは主にワクテゥ・テルである。
敷地の構成は、2つに分割されている。2つの敷地の間には高低差があり、北側の方が高い。北側はヒンドゥーの寺ガドゥであり、南側はワクトゥ・テルの聖地クマリとなっている。毎年、年1回建立の日を記念して祭礼が行われる。信仰対象別に、分かれて礼拝を終わらせたあと、祭礼の終わりに人々はふたてにわかれ、ちまきを投げ合う。よってこの祭礼は別名「ちまき合戦」とも呼ばれている。
ガドゥは、6つの社と2つのパドマサナ Padmasana とよばれる塔によって構成され、礼拝は基本的に北側中央の社に対して行われる。つまり「北向き」に礼拝が行われる。一方南側のワクトゥ・テルの聖地クマリは、神に捧げられた池によって特徴づけられる。その池には神聖なうなぎが住んでいる。神聖なうなぎの池の隣には、白や黄色の布や鏡によって飾られた捧げ物などが置かれている場所がある。ここでの礼拝は「北向き」に行われる。
プラ・リンサールの4~500m東にプラ・リンサール・ウロンがある。このプラはプラ・リンサールよりも建立年代は古いと言われ、プラ・リンサールの原型であると考えられている。
敷地構成はプラ・リンサールと同様に上下2面に分かれ、東側の上段にはガドゥが、西側の下段にはクマリが配置されている。上段での礼拝方向は「北向き」となっており、下段における礼拝は「北向きと東向きの2通り」に行われていた。
(2)プラ・スラナディ、プラ・スガラ、プラ・ナルマダ
ロンボク島で最も神聖なプラの一つであるスラナディ(図Ⅳー④図④)は神聖な湧き水で有名である。このプラにおいては、中央一番奥の一段高くなったところにガドゥが配置され、クマリはガドゥの約10メートル手前の北側に位置している。ガドゥに対する礼拝方向は東北15度、およそ「リンジャニ山」の方向、クマリに対しては「北向き」となっている。
プラ・スガラ(図Ⅳー⑤図⑤)はアンペナンの北2キロメートルの海辺に建てられており、海をはさんで対岸にはバリ島のアグン山を望む。このプラにおいては、イスラームとの混合はみられず、純粋なヒンドゥーのプラで、人々は西側の二つの塔に向かって、つまり、島の向こうにある
「バリ島のアグン山の方」を向いて礼拝する。
ナルマダ(図Ⅳー⑥図⑥)はロンボク島を東西に横断する主要道をチャクラヌガラから東へ約10キロメートル行ったところにある。ナルマダの特徴として人口湖があげられるが、これはリンジャニ山の麓のスガラ・アナク湖に巡礼に行けなくなった当時の王が、それをまねて一八〇五年に造ったものである。また、人造湖の向こうにはリンジャニ山を模して造られた小高い丘があり、その向こうにはリンジャニ山を望む。ここでは人造湖の手前にある宮殿から丘の方をむいて礼拝する。すなわち、「リンジャニ山の方」を向いて礼拝するのである。
西ロンボク地域の主要なプラでは聖地におけるオリエンテーションが、プラの平面構成に関して重要な要素となっている。
基本的に以上のプラは、バリ・ヒンドゥーの影響が強く、オリエンテーションに関してもバリ・ヒンドゥーの概念にしたがう。つまり山は神の住まう場所と考えられ、海は悪魔の住まう場所と考えられた。日の出る方向は聖なる方向と考えられ、日の沈む方向は悪の方向と考えられた。ガドゥの礼拝方向はプラ・スガラのみが西向きで、プラ・スラナディ、ナルマダはリンジャニ山の方向、リンサール、リンサール・ウロンは北の方向である。すなわち、すべて山がオリエンテーション決定の中心的な役割をはたしている。その山がバリ島のアグン山か、ロンボク島のリンジャニ山かによって礼拝方向に違いが生じているものと考察される。また、クマリについては北を向いて礼拝するのが基本である。
2.住居集落とコスモロジー
ロンボク島のササック族(ワクトゥ・テル)の住居集落は、三つの地域類型に分けらるのであるが、何れにおいても、建築物が極めて単純に配される。伝統的住居も基本的に素朴な1室空間の建築物である。
配列は南部の集落のみ他と異なる。つまり他の地域では建築物が平行に配置されるのに対し、南部では丘陵上に等高線に沿って配置される。それぞれ立地と関係している。南部には乾燥した丘陵地帯が多い。耕作地を少しでも多く獲得するために、丘陵上に集落を築かざるを得ない。他の地域の平野部やなだらかな傾斜地では、聖山であるリンジャニ山がオリエンテーションの中心となっているのである。
集落を構成する建築物の種類に焦点を当てると、北部諸集落が特異である。他の地域では住居と穀倉が集落の主な構成要素であるが、北部では住居とブルガによって構成され、穀倉は集落周縁部に配置されている。
バヤンではブルガはサカ・ウナムとも呼ばれる。バリにも同じ名で呼ばれる建築物がある。またブルガはバリに見られるバレ・バンジャールと同様の高床で壁のない建築物である。北部諸集落では、元来他の地域と同様、住居と穀倉とが素朴に平行に並べられていたのだが、バリの影響を受け入れると同時に、ブルガが移入され、現在見られるような配列が作り出されたのではないかと考えられる。
バリ人の住居集落を除くとロンボク島の住居集落とコスモロジーとの間には必ずしも強い関係を見ることはできない。しかし以下の2点を指摘しうる。
①リンジャニ山を中心とした方位観が建築物の配列を大きく規定している。
②ベランダ空間であるサンコには、右・左、大・小、男・女といった双分観が反映している。ブルガと住居にも、男の空間・女の空間といった対応関係が観られる。
バリの住居集落との比較を通して、その特徴をまとめてみると以下のようになる。
知られるように、バリにおいては、住居集落とコスモロジーとの結びつきは密接である。ヒンドゥー教の影響を大きく受けたバリ・マジャパイトの住居集落はヒンドゥーの宇宙観の影響が特に顕著に見られる。バリ・マジャパイトの住居集落では、
①大宇宙のスワ・ブワ・ブールといった三層構造が、集落、住居・屋敷地、ディテール等と関連づけられている。
②アグン山を中心とした方位観および日の昇降に規定される方位観に従って、集落内の施設の配置や住居内の空間構成が決定される。
③男の空間・女の空間というように、建築物内部の空間構成が双分観に支配される。
といった関係を指摘することができる。
ロンボク島の住居集落は、ブルガの存在やアラン(穀倉)の釣り鐘型の形態など、バリの影響を受けたと考えられる点がいくつかある。しかし、バリのようなディテールに到る精緻な体系はなさそうに思われる。バリとの関係という点では、むしろ、バリ・アガの住居集落の構成を規定する原理との近接性を指摘したい。
ヒンドゥー化以前のバリ人であるバリ・アガには、この様な特徴は見ることができない。ごく素朴な、双分観や山を中心とした方位観の影響を指摘できるのみである。
山を中心とするコスモロジーや住居への双分観の反映といった、ロンボク島の住居集落の構成を規定する原理は、極めて素朴である。おそらく、土着的な集落配置の原型をとどめているとみていい。
3.都市・チャクラヌガラとコスモロジー
チャクラヌガラの都市構成原理については、Ⅲ章でまとめた。ここでは、インド、ジャワ、バリの都市と比較して、その特徴をまとめておこう。
チャクラヌガラと都市形態の面から最も類似している『マナサラ』にみえる都市計画は「クブジャカ」と呼ばれるタイプの都市である。共通点としては、①全体構成が東西に長い長方形であること。②メインストリートが形成する四辻に面して王宮があること。③メインストリートの北側に1ブロックの居住地があること。④道路体系がグリッド・パターンであること。⑤東西8ブロックからなること、があげられる。また異なる点としては、①チャクラヌガラは、半八角形の部分を持たない。②王宮の位置がチャクラヌガラの場合、四辻の北東角である。③チャクラヌガラは、南北に5ブロックからなる。④チャクラヌガラには城壁がない、などがあげられる。
全体構成としては、チャクラヌガラに似た構成を持っているが、いずれにせよ、『マナサラ』の都市理念がストレートに移入されたとは考えにくい。ヒンドゥーの都市理念がジャワ化され、さらにバリ化された上で、チャクラヌガラの構成理念は形成されたと考える方が自然であろう。
『ナガラクルタガマ』にみえる都市の都市理念の特質として2つのポイントが挙げられる。1つは、 四辻と王宮を中心とした都市構成である。また、市と広場を持つ事も特質として挙げられる。2つめは都市の全体形を規定せず王宮との距離・方位との関係、すなわち都市形態全体を規定するのではなく王宮との相対関係で都市を規定することである。
都市の四辻と王宮を中心とした都市構成をしているという点で、チャクラヌガラは『ナガラクルタガマ』に従っているといっていい。ただ、都市の具体的形態は明かでない。都市構成原理が『ナガラ・クルタガマ』に直接書かれているわけではない。
具体的な形態としては、バリの都市との関係が深いとみていいだろう。バリの都市(王都)の場合、①王宮は大通りが形成し、都市の中心を形成する四辻に面している。王宮の位置はバリの各都市によって異なっているが、北東角に位置する都市が一番多い。②市場は全ての都市で中心に近接する第1円に位置し、方位は各都市毎に異なる。③墓地は各都市共、その次の第2円に位置する。方位は、タバナンでは西、クルンクンでは北東、バンリでは南、ヌガラでは南東、カランガセムでは南東というように規則性はない。④都市の全体構成に関しては、バリ都市においてもインド・ジャワと同様に入れ子状の都市構成であるということがいえる。すなわち、四辻を中心としてその周りを市場、プラが囲み、最外郭に墓地が位置するという構成である。⑤ギャニャールの一部、カランガセムの一部にはチャクラヌガラと同様の背割りされた宅地配置が見られる。⑥バリ都市には、城壁や壕等の都市の内と外を分ける施設はない。
チャクラヌガラの場合、①王宮の位置:四辻が都市の中心を形成し、四辻に面して王宮がある。また、王宮の位置もバリで最も多い南東角である。②市場の位置:四辻の北に位置し、王宮に接した第一円に属する。③墓地の位置:第2円に位置する。④都市の全体構成:王宮が中心に位置し、それを市場・寺院・墓地が取り囲んでいる、点は共通である。
以上のように、都市の全体構成を決定している理念としてまず考えられるのはインド→ジャワ→バリ→チャクラヌガラとつながるヒンドゥーの都市理念である。すなわち南北・東西に走る大通りが形成する四辻と王宮が都市の中心にある都市構成である。しかし、グリッド・パターンの都市は必ずしもバリには見られない。むしろ、街路パターンとしては、タクタガンをもつバリ・アガの集落(例えばブグブグ)のパターンが持ち込まれていると考える事ができる。ブグブグは、道路体系は南北に走る大通りとそれに直行する路地から構成される。宅地の構成は南北の大通りに対して直行する路地によって長方形の住区が形成され、各住区は背割りされ、最大16筆、最小12筆の宅地に分割される。バリ・アガの集落には、バリ都市に見られないグリッド・パターンの道路体系が見られ、チャクラヌガラがバリの土着の集落パターンの強い影響を受けていることは間違いないところである。
もちろん、他の影響を考えてみることもできる。
もし、古代インドの建築書に見られるグリッド・パターンが伝わったとするのなら、その伝達過程のジャワ、バリでなぜグリッド・パターンの都市計画が為されなかったのかという問題がある。ジャワ化、バリ化が起こっている筈である。また、別の要素としてチャクラヌガラが植民都市であることがある。植民都市において格子状の都市計画が多く見られることは古今東西の事例の示すところである。さらに、中国の影響も考えられなくもない。そして、この当時、ジャワには既にオランダ人が来ており、バタビアを建設している。グリッド・パターンが西洋の計画理念の影響を受けた可能性も高い。
イスラームとヒンドゥーとの棲み分けの問題としてはインドの諸都市との比較が興味深い。最も興味深い都市として、例えば、ジャイプールがある。ジャイプールもチャクラヌガラと同様、18世紀に建設された計画都市である。同じように周辺部にムスリムが居住する。インド文化圏の東西の極がジャイプールとチャクラヌガラである。チャクラヌガラについては、さらに視野を広げて比較検討が必要である。
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