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2024年2月8日木曜日

Mohan Pant, Shuji Funo: A Morphological Analysis of Neighborhood Structure ー Toles and the Ritual Artifacts of the Kathmandu Valley Towns – the Case of Thimi,‘Special Issue The Wisdom of Asian Art and Architecture’,“ MANUSIA” Journal of Humanities,No.3 2002

 Mohan Pant Shuji Funo A Morphological Analysis of Neighborhood Structure Toles and the Ritual Artifacts of the Kathmandu Valley Towns – the Case of Thimi‘Special Issue The Wisdom of Asian Art and Architecture’“ MANUSIA” Journal of HumanitiesNo.3 2002































2023年5月16日火曜日

近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

 近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてー」

                               布野修司(滋賀県立大学)

1.19791月以来、アジアの諸都市を歩き回っている。当初、東南アジア地域(アセアン諸都市)をフィールドとして、「地域の生態系に基づく住居システム」をテーマとした[i]。ハウジング計画の分野における近代日本のパラダイム(マス・ハウジング、51C、プレファブリケーション)に対する批判的検討がその大きな研究動機である。そして、サイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)事業におけるコアハウス・プロジェクト、そしてセルフヘルプ・ハウジング(フリーダム・トゥー・ビルド、ビルディング・トゥゲザーなど東南アジアのNGOグループ)によるセルフ・エイド系を含んだ参加型のハウジング手法に強い示唆を受けた。

2.「地域の生態系に基づく住居システム」に関する研究は、「近代」以前の、地域に固有な住居集落の空間構成原理を解明する試みであり、その現代的再生への模索である。また、異文化理解の方法を問うことにつながった[ii]。この間、グローバルに、各地域を圧倒してきたのは、近代世界(空間)システムである。

 3.以上の研究遂行の過程で、スラバヤの「カンポンkampung(都市内集落)」に出会った[iii]。カンポンの空間構成原理を明らかにし、カンポン・ハウジング・システムを提案した[iv]

 4.カンポンについての調査研究は、「ルーマー・ススン(カンポン・ススン)」というインドネシア型「都市型住宅」の提案に結びついた。また、「スラバヤ・エコ・ハウス」の提案に結びついた。臨地調査―都市組織・街区組織の解明―型・モデルの提案―評価のサイクルは建築計画学研究の前提である。

 5.カンポンは、コンパウンドcompoundの語源であるという説(OED)が有力である。大英帝国が世界の陸地の1/4を占めていく過程でその言葉が世界中に広がった。一方、今日の世界中の都市の計画原理の基礎になっているのは、英国を中心として組み立てられた近代都市計画の理念であり、手法である[v]

 6.英国近代植民都市は、ニューデリー、キャンベラ、プレトリアの計画―建設(1910年代~30年代)において完成したと考える。しかし、近代植民都市の系譜には、それに遡るいくつかの系列がある。近代世界システムの形成にあたって最初にヘゲモニーを握ったオランダ植民都市に焦点を当てて植民都市計画を総覧することになった[vi]。さらに、スペイン植民都市もターゲットとなりつつある[vii]

 7.カンポンの調査研究は、「イスラームの都市性」[viii]に関する共同研究によって、もうひとつの展開に導かれることになった。イスラーム都市への関心は、西欧列強による植民都市以前に遡るアジアの都市、集落、住居の構成原理に関する関心に重なり合う。アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜は、大きく、中国都城の系譜、ヒンドゥー都市の系譜、イスラーム都市の系譜に分けられる。

8.アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜に関する研究のきっかけとなったのは、ロンボク島のチャクラヌガラという都市の発見である。以降の展開を集大成したのが『曼荼羅都市』[ix]であり、カトゥマンズ盆地のパタンに焦点を当てた『Stupa & Swastika[x]である。また、イスラーム都市について、まとめつつあるのが『ムガル都市』[xi]である。

 9.以上の広大な研究フィールドをつないで一貫するのが、都市組織urban tissue, urban fabric、街区組織、都市型住居に関する関心である。「アジアの諸都市における都市組織および都市型住宅のあり方に関する研究」[xii]、とりわけ「ショップハウスの世界史」が近年のテーマである。

10.戦後建築計画学の出発においてテーマとされたのは、それぞれの地域における生活空間の全体である。大都市の住宅問題が大きくクローズアップされたのは、それが大きな問題であったからである。公共施設の整備についても同様である。銭湯に関する調査研究も、貸し本屋に関する調査研究も、地域空間のあり方から掘り起こされたテーマであった。

11.しかし、一方、施設=制度=institutionを前提にしてしか自己を実現することのない「計画学」研究のアポリアがある。建築計画学の成立は、近代的な施設の成立、病院、学校、監獄・・・の成立(誕生)と無縁どころか密接不可分である。

12.以上のメモが明快にメッセージとするのは、タウンアーキテクト、コミュニティ・アーキテクトとして、フィールドから、地域から、街の中から、問題を立て、返せということである。コミュニティ・アーキテクト[xiii]については京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)[xiv]、そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」(滋賀県)によって試行しつつある。

13.「建築家」あるいは「都市計画家」、ここでいう「コミュニティ・アーキテクト」の役割とは何か。プロトタイプかプロトコルか、執拗に問う必要がある。



[i] 『地域の生態系の基づく住居システムに関する研究(Ⅰ)()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団, 1981年、1991

[ii] 『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』,協議会資料, 建築計画委員会,1988年。『 住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989

[iii] 『カンポンの世界』,パルコ出版,1991

[iv] 学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学)1987  日本建築学会賞受賞(1991)

[v]  『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、2001

[vi] 『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005

[vii] J.R.ヒメネス・ベルデホ、布野修司、齋木崇人、スペイン植民都市図に見る都市モデル類型に関する考察、Considerations on Typology of City Model described in Spanish Colonial City Map,日本建築学会計画系論文集,616pp91-97, 20076月他

[viii] 日本における今日におけるイスラーム研究の基礎を築いたといっていい,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-90)は,まさにイスラームの「都市性」に焦点を当てるものであった。

[ix] 『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006

[x] Shuji Funo & M.M.Pant, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

[xi] 山根周、布野修司、『ムガル都市-インド・イスラーム都市の空間変容』、京都大学学術出版会、近刊予定

[xii] 科学研究費補助研究、2006年~

[xiii] 『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000

[xiv]  『京都げのむ』01-06、京都CDL

 


2023年2月17日金曜日

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603 

雑木林の世界79

社区総体営造・・・台湾の町にいま何が起こっているか

布野修司

 

 毎月第三金曜日はアジア都市建築研究会の日である。昨年四月に準備会(山根周 「ラホールの都市空間構成」)を開いて、この一月の会で七回目になる。小さな会だけれど、研究室を越えた、また大学を超えた集まりに育ちつつある。各回の講師とテーマを列挙すれば以下のようだ。

 第一回 宇高雄志 「マレーシアにみた多民族居住の魅力」(一九九五年五月)

 第二回 齋木崇人 「台湾・台中の住居集落」(六月)

 第三回 韓三建 「韓国における都市空間の変容」(七月)

 第四回 沢畑亨 「ひさし・植え込み・水」(一〇月)

 第五回 牧紀男・山本直彦 「ロンボク島の都市集落住居とコスモロジー」(一一月)

 第六回 青井哲人 「「東洋建築」の発見・・伊東忠太をめぐって」(一二月)

 第七回 黄蘭翔 「台湾の「社区総体営造」」(一九九六年一月)

 ここでは最新の会の内容を紹介してみよう。

 台湾の「社区総体営造」とは何か。なかなかに興味津々の内容であった。

 講師の黄蘭翔先生は、昨年まで研究室で一緒であったのであるが、逢甲大学の副教授を経て、現在は台湾中央研究院台湾史研究所の研究員である。都市史、都市計画史の専門であるが、台湾へ帰国してびっくりしたというのが「社区総体営造」である。

 「社区」とは地区、コミュニティのことだ。社区という言葉は必ずしも伝統的なものではない。行政の組織ということであれば保甲制度がある。そして、「社区総体営造」とは平たく言うとまちづくりのことだ。台湾ではいま「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったという。「経営大台湾、建立新中原」(偉大な台湾を経営しよう、新しい中国の中心を創り出そう)「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなっているという。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。行政機関の役割は考え方の普及、各社区の経験交流、技術の提供、部分的な経費の支援のみである。最初のきっかけとしてモデル事業を行うこともある。

 社区毎に中、長期の推進計画が立てられる。社区の役割は住民のコンセンサスを得て、詳細の完備した地区の設計計画を立て、同時に資金の調達計画、経営管理計画を立てることが期待される。

 「社区総体営造」の目的は、単なる物理的な環境の整備ではなく、社区のメンバーの参加意識の養成であり、住民生活の美意識を高めることである。「社区総体営造」は社区をつくり出すのみではなく、新しい社会をつくり出し、新しい文化をつくり出し、新しい人をつくり出すことである。

 「社区総体営造」を推進しているのは行政院文化建設委員会(略して文建会)である。権限が全く違うから比較にならないけれど、日本でいうと文化庁のような機関である。「社区総体営造」政策が開始されてまだ三年なのであるがすごい盛り上がりである。

 具体的に何をするかというと、次のようなことが挙げられる。

●民族的イヴェントの開発

●文化的建造物がもつ特徴の活用

●街並みの景観整備

●地場産業の文化的新興

●特有の演芸イヴェントの推進

●地方の歴史や人物を展示する郷土館の建設

●生活空間の美化計画

●国際小型イヴェントの主催

 それぞれの社区は独自の特性を生かしてまずひとつの項目を推進し、徐々に他の項目に広げていくことが期待されている。現在、一二項目のプロジェクトが推奨プロジェクトとしてまとめられている。

 黄蘭翔先生は、「社区総体営造」の背景と文建会の施策の概要を説明した後、三つの事例をスライドを交えて報告してくれた。

 台中理想国、嘉義新港、宣蘭玉田の三地区の例であるが、それぞれ多様な展開の例であった。政策展開としては三年ということであるが、それ以前からいろいろなまちづくりの試みが自発的に起こっていたのである。

 理想国というのは、その名を目指して造られた民間ディベロッパーの計画住宅地であったが、総戸数二〇〇〇戸のうち入居率が三〇パーセントというありさまでスラム化していた。その団地をリニューアルする試みが供給業者の主導のもとにこの十年展開されてきた。ペンキでファサードを塗り直す「芸術街坊」をつくることから、警備体制を整えたり、市場を改装してショッピング・センターをつくったり、幼稚園などの公共施設の整備したり、生き生きとした街に再生していく様がスライドからも伝わってきた。

 嘉義新港の場合は、陳錦煌というお医者さんがリーダーである。苦学して台湾大学付属病院の医師となった陳氏が帰郷し、医療活動をしながらまちづくりに取り組むのである。具体的には「新港文教基金」が設立され、息長い文化芸術イヴェントが展開されている。

 宣蘭玉田のケースは、文建会主導によるモデルケースである。きっかけは全国文芸祭であったという。全国的な文芸祭を行うに当たり、まず地区を見つめる作業が行われた。具体的には、フィールド・ワークによる地方史の編纂や環境調査である。そしてその過程で、社区の文化を産業化する方法が模索された。そして、文芸祭に当たっては様々なアイディアが出され、実効に移された。お年寄りの伝統技能を用いて竹の東屋が建設されたりしたのである。 

 詳細には紹介しきれないけれど、台湾の新たなまちづくりはおよそ以上のようだ。誤解を恐れずに言えば、HOPE計画あるいは村おこし、町おこしの台湾版である。事実、「社区総体営造」の立案者は日本の事例に学んだのだという。CBD(コミュニティ・ベースト・ディベロップメント)の理念が基本に置かれているのは間違いない。 

 「建立新故郷」、「終身学習」を理念とする「社区総体営造」が施策として展開される背景には、台湾の置かれている内外の関係があるであろう。しかし、その方法には相互に学ぶべき多くのことがあるというのが直感である。 




2022年8月1日月曜日

パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日

 パネリスト:2007年度日本建築学会大会(九州)特別研究委員会研究協議会「近代の空間システムと日本の空間システムの形成と評価」,「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えて」,福岡大学8月29日





2022年6月8日水曜日

日本都市計画学会論文賞:2006年 『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,2005年)

日本都市計画学会論文賞2006年 『近代世界システムと植民都市』(京都大学学術出版会,2005年)

 



平成17年度 日本都市計画学会賞論文賞 受賞にあたって

植民都市計画研究のための基礎作業

布野修司

 

 研究経緯

 赴任したばかりの東洋大学で磯村英一先生(当時学長)から、いきなり「東洋における居住問題に関する理論的、実証的研究」という課題を与えられて、アジアの地を歩き始めたのは1979年初頭のことである。振り返れば、最初に向かったのがインドネシアであったことが運命であった。インドネシア、殊に、スラバヤという東部ジャワの州都には以降度々通うようになった。経緯は省かざるを得ないが、10年の研究成果を『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』という論文にまとめて、学位(東京大学)を得た(1987年)。そのエッセンスを一般向けにまとめたのが『カンポンの世界』(パルコ出版,1991年)で、光栄なことに日本建築学会賞論文賞を受賞することができた(1991)

 このカンポンkampungというのが曲者であった。OED(オクスフォード英語辞典)によると、コンパウンドcompoundの語源だという。バタヴィアやマラッカの都市内居住地がカンポンと呼ばれていたことから、インドでも用いられだし、アフリカなどひろく大英帝国の植民地で使われるようになったという。大英帝国は、最大時(1930年代)、世界の陸地の1/4を支配した。英国の近代都市計画制度が世界中で多大な影響力をもった理由の大きな部分をこの事実が占める。

 インドネシアの宗主国はオランダである。オランダは、出島を通じて日本とも関係が深い。オランダ植民都市研究を思い立ったのは、インドネシア、カンポン、出島という縁に導かれてのことである。

 

 受賞論文:近代世界システムと植民都市」(京都大学学術出版会、20052月刊行)

受賞論文が対象とするのは、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市である。オランダ東インド会社(VOC)、西インド会社(WIC)による植民都市の中で、出島は、長崎の有力商人によって建設されたことといい、オランダ人たちの生活が、江戸参府の機会を除いて、監獄のような小さな空間に封じ込められていたことといい、唯一の例外といっていい。論文は、オランダ植民都市の空間編成を復元しながら、17世紀から18世紀にかけての、世界の都市、交易拠点のつながりと、それぞれの都市が現代の都市へ至る、その変容、転生の過程を活き活きと想起する試みである。

 まず、アフリカ、アジア、南北アメリカの各地につくられたオランダの商館、要塞など植民拠点の全てをリスト・アップした。そして、主として都市形態について類型化を試みた。さらに、臨地調査(フィールド・サーヴェイ)を行った都市を中心にいくつかの都市をとりあげ比較した。比較の視点としているのは、都市建設理念の起源と原型(モデル)、地域空間の固有性によるモデルの変容、近代化過程による転生、<支配―被支配>関係の転移による土着化過程(保全)植民都市空間の現代都市計画上の位置づけ、などである。

 オランダ植民都市を起源とする諸都市はインドネシアなどを除いて、イギリス支配下に入ることによって変容する。そして同様に19世紀末以降、産業化の波を受けてきた。また、独立以降(ポスト・コロニアル)の変容も大きい。論文は、英国植民都市計画そして近代都市計画の系譜以前に、オランダ植民都市の系譜を措定して、その原型、系譜、変容、転生の全過程を明らかにしている。

 まず広く、西欧列強の海外進出を概観(第Ⅰ章)した上で、オランダ植民地拠点の全容を明らかにした(第Ⅱ章)。続いて、植民地建設の技術的基礎となったオランダにおける都市計画および建築のあり方をまとめた上で、オランダ植民都市計画理念と手法を考察し(第Ⅲ章)、オランダ植民都市誌として各都市のモノグラフをもとに、植民都市の変容、転生、保全の様相について考察する(第Ⅳ章)構成をとっている。巻末には、詳細な植民都市関連年表、オランダ植民都市分布図をまとめている。

 

 アジアからの視点

近代植民都市研究は、基本的には<支配←→被支配><ヨーロッパ文明←→土着文化>の二つを拮抗軸とする都市の文化変容の研究である。近代植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配を本質としており、西欧化、近代化を推し進めるメディアとして機能してきた。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念がどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程はどのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったか等々を明らかにする作業は、これまでほとんど手つかずの状況であった。本論文は、飯塚キヨ氏の『植民都市の空間形成』(1985年)以降の空白を一挙に埋め、ロバート・ホームの『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、20017月)に呼応するアジア(日本)からの作業として位置づけることができる。

 植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けては通れない。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えているが、その大きな要因は、植民都市としての歴史的形成にあるからである。また、西欧列強によってつくられた植民都市空間、植民都市の中核域をどうするのか、解体するのか、既に自らの伝統として継承するのか、これは、植民都市と地域社会の関係が、在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する共通の問題でもある。具体的に、歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全は、現下の急激な都市化、再開発が進行するなかで緊急を要する問題である。本論文は、現代都市の問題を大きな問題意識として出発しており、それぞれの都市の現況を記録することにおいて大きな意義を有している。都市問題、住宅問題の解決の方向に向かって歴史的パースペクティブを与える役割を果たし、さらに加えて、世界遺産としての植民都市の位置づけに関しても多大な貢献をなすと確信するところである。

 

アジア都市建築研究

17世紀をオランダ植民都市という切口で輪切りにしてみて、残された作業は少なくない。スペイン、ポルトガルと植民都市計画の歴史を遡行する作業ももちろんであるが、アジアからの作業として、前近代の都市計画の伝統を明らかにする必要がある。大きく、インド、イスラーム、中国の都市計画の伝統が想起されるが、ヒンドゥー都市についてその理念と変容を篤かったのが、『曼荼羅都市』(京都大学学術出版会、2006年)である。また、カトゥマンズ盆地の都市について“Stupa & Swastika”をまとめつつある(2007年出版予定)

この度の受賞は、さらなる作業のために大きな励みとなるものである。心より感謝したい。

 

アジア都市建築研究会は、布野修司を中心として1995年に発足したゆるやかな研究組織体で、20055月までで69回の研究を積み重ねて来た(研究会の内容は、http://agken.com/index.htm)。その主要な成果として、*『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会、学芸出版社,19973月、*『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年 中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 1998)、*『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』(ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会、2001)、*『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会,昭和堂,2003年)*『世界住居誌』(布野修司編著、昭和堂、2005)などがある。

受賞論文の元になっているのは、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した共同研究(文部科学省・科学研究費助成・基盤研究(A)2)(19992001年度)・課題番号(11691078)・研究代表者(布野修司))である。布野が、報告書をもとに全体を通じて筆を加えて受賞論文の原型となる予稿をつくった。それを各執筆者に回覧し、確認を受けたものを再度布野がまとめたのが受賞論文である。共著者は、魚谷繁礼、青井哲人、R.Van Oers、松本玲子、山根周、応地利明、宇高雄志、山田協太、佐藤圭一、山本直彦である。また、共同研究参加者は、以上に加えて、安藤正雄、杉浦和子、脇田祥尚、黄蘭翔、高橋俊也、高松健一郎、佃真輔、Bambang Farid Feriant、池尻隆史他である。




2021年11月5日金曜日

カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) Kampung and Kampung Improvement Program(KIP) 布野修司 Shuji FUNO

  日本建築学会2021年度大会(東海)「都市インフォーマリティから導く実践計画理論」[若手奨励]特別研究

パネルディスカッション資料


【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】

 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)

Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 

布野修司1)

Shuji FUNO

 1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com

 Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.

 

I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements. 

カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落

Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), InvolutionUrban Village

1. はじめに 

建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。 

歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条

1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。

 

『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』

東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた19791月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(20201月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。

『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生コスモスとしてのカンポン』(京都大学学術出版会,2021)である。

新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。

19791月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。

何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが18822月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。

この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。

臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。

 

3. カンポンとコンパウンド

最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。

「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。

『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』262000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。

コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。

 

4. RTと隣組

 そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetanggaRT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。

日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(19409月),隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。

日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。

 

5. 開発独裁とカンポン

日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。

1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

6 インヴォリューション

「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。

このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。

アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。

発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,

 a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。

 

7 W.R.スプラットマンKIP

KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。

 バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。

20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。

1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。

独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。

カンポンの居住環境改善について逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。

こうして,自治体ベースで開始されたKIP ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I 7476  ,76 年からはスラバヤにおいても行われた Urban 7779 )。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。

 

8 リスマとクリーン&グリーンKIP

スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。

 リスマ市長は,20109月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。

 とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。

それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。

 スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている 

リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。

筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。

 



[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。

[2] Silas, Johan1979, ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya

[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936

[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...