テクノクラシーと自主管理:TQCとAT
大手の建設業を中心として建設業界では総合的品質管理運動=TQC(Total Quality Control)運動が、極めて精力的に展開されつつある。山留めの崩壊、生コンクリートの強度不足といった事故の発生を契機として、一九六七年からZD(Zero Defect 無欠陥)運動を展開し、いち早く、「企業の体質改善と作品の品質を向上させ業績を高めること」を目標としてTQCを導入(一九七六年)、一九七九年一〇月には、建設業界では初めて、すぐれた品質管理体制を実施する企業に与えられるデミング賞*[i]実施賞を受賞した竹中工務店をはじめとして、各企業において膨大なエネルギーと時間がTQC導入のために注ぎ込まれているという。
一般の製造業においては、統計的品質管理(SQC)の限界を克服すべく六〇年代初めに提唱され、その成功が高度成長を支えたとされるTQC運動が、建設業においては、オイル・ショックを経て、本格的に取り組まれつつあることは、さまざまな意味で興味深いと言える。
六〇年代を通じて、一貫して近代化、合理化を推し進めてきた建設業がTQCの導入に至らなかったのは、一つには、建設業の歴史的な体質、その産業としての特異性によると言える。大辻眞喜夫は、品質管理に対する認識を建設業が欠いてきた要因を、生産現場、生産条件、生産組織がプロジェクトごとに異なること、重層下請構造の生産形態をとり、それが流動的であること、建物の評価尺度が多様であることなど五点にわたって列挙している*[ii]が、それらはすべて一品受注の現場生産を基本とする建築生産の固有の特質、ひいては建築そのものの本質にかかわるものである。またその特異性は一般には、建設業における近代化を阻む要因としてとらえられてきたものだ。
そうした意味で、TQCの導入は、建築における規格化、標準化、部品化、そして工業化の進行によって、建築の生産、流動の形態が一般の工業生産品のそれへより近づきつつあること、また、建設業における近代化、合理化がさらに着実に進められつつあり、新たな段階を迎えつつあることを示しているとみることができる。
また一方では、六〇年代には圧倒的な量の建設に追われて、必ずしも建築の質を問題とする余裕が建設業にはなかったことを、TQC導入のタイム・ラグは示していよう。スクラップ・アンド・ビルドの狂宴が終息するにつれ、それが必然的にもたらした建物の質の低下が、欠陥工事、手抜き工事の問題として指摘され始め、直接的にはそれが引き金となって、建設業においてもようやく品質管理の問題が主題化され始めたのである。
需要の伸びがかつてのように期待できない状況のなかで、量から質へという転換が意識され、企業戦略の主要なターゲットが品質保証の問題へ移行していくのはある意味で必然である。しかし、品質管理、品質保証は、あくまで一つのスローガンにすぎない。TQCは、品質管理と労務管理を結合し、むしろ、組織全体の合理化を目標とするところにその本質がある。それは中岡哲郎によれば「一つの製品が計画され、市場に出てゆくまでのコースの全体、マーケティング、開発、設計、資材購入、製造工程技術、工程の操業と管理、検査、出荷、販売とアフターサービスといった一連の基幹的な流れを軸に、その周辺に無数に存在する補助労働、事務所のお茶くみから雑役にいたるまで、「品質」をキィワードとしながら、三つの目標、製品の性能、コスト、信頼性、という三つの指標に向かって求心的に組織してゆく技法」*[iii]である。「組織化のすすみすぎた職場で必然的に失われてゆく、全体への関心、職務意識、働くことの意味づけを、品質への関心として、かきたててやること」、小集団の間に連帯意識を生み出し、それをシステムの全体を上向的に貫く求心力に転化させていくこと、自発性を喚起し、しかもそれを一定の枠内に収斂させることがその最大のねらいなのである。
そうした意味では、建設業は、より高度な管理体制を整備することをこそ大きな目的としていると言える。高度成長の末期に、大手建設業は、付加価値の低い工事請負一本やりから、不動産・住宅部分に手を広げ、オイル・ショックによって一つの挫折を経験した。建築生産を支える構造の変化、低成長期への移行に直面し、それを乗り切るために、現在建設業は新たな対応を迫られつつある。そのために、企業としての組織の強化、整備は不可欠であり、その一貫として、TQC運動が展開されつつあるのである。
日本の建設請負業は、日本の資本主義の形成、発展の過程と即応する形で、その組織形態を整備し、発展を遂げてきた。三浦忠夫が明らかにするように*[iv]、建設産業の発展と国内資本の形成との間には正確な対応関係がある。また日本の資本主義の構造が生み出す建設需要の内容に対応して、建設業は、それを消化するのに必要な建設技術や施工システムを開発発展させてきていることがわかる。そして、ことに大手の建設業社は、建設の総需要に占めるウェイト、建設技術の開発能力、それを支える組織力によって、近代日本における建築のあり方を大きく規定してきた。
建設業がテクノクラシーとしての体制を整備しながら、外部環境の変化に着実に対応しつつあるなかで、建築家の存在基盤はますます希薄になりつつある。建設業は、その金融力、技術力、調整能力、責任能力をますます誇り、その総合力において、建築のあり方に対する支配力を強めつつあるのである。
振り返れば、日本における建築家と建設請負業との関係を支える構造は、すでに昭和の戦前期において成立していた。それを象徴的に示すのが、一九三〇年に第五〇帝国議会に提出された「建築士法」案の不成立である。それは、昭和の初頭、一九三七年までに九回にわたって提出され続けるのであるが、ついに成立をみることはない。
明治末から大正期にかけて西欧の建築家の理念を掲げながら、次第に定着しつつあった民間の設計事務所は、日本建築士会の結成(一九一七年)に示されるように、その社会的な基盤を拡大しつつあった。そして、大正末には、その存在基盤の法的根拠を求めるまでに至る。しかし、同じように、それまでの個人経営から合名会社、合資会社、株式会社等へ組織形態を変え、近代的企業へと脱皮しつつあった建築請負業との力関係において、それに拮抗しえなかったのである。
関東大震災から昭和の初めにかけて、ちょうど、大正から昭和への年号の転換を挟んで前後数年の時期は、建築の技術や生産体制が大きく飛躍を遂げる革新期である。鉄筋コンクリート造が本格的に導入され初め、一九二九年には鉄筋コンクリート工事標準仕様書が決定されている。耐震構造理論が全面的に展開され始める。また、建造物の高層化に伴い、施工方法が一変し、戦後における形態とはほぼ近いものとなるのがこの頃である。
こうした、建築の技術や生産体制のドラマティックな転換に対して、建築家、民間の設計事務所は、すでに対応しきれなかった。新興建築運動が華々しく展開される背景において、日本の建築家の行方は決定的に方向づけられつつあったのである。
鹿島組が株式会社となるのが一九三〇年のことである。同じく、佐藤工業一九三一年、銭高組一九三一年、島藤組一九三二年、戸田組一九三六年、清水組一九三七年、西松組一九三七年、浅沼組一九三七年、広島藤田組一九三七年と、建設量が戦前においてピークを迎える頃までには、日本の建設業はそれぞれ、その基盤を確立するに至った。
建設業界は、昭和恐慌時の大淘汰を経て、満州の建設市場を干天の慈雨とし、また、内地の軍需産業への投資ブームを梃子としながら、施工能力を一挙に拡大し、その力を蓄えたのである。強力な戦時統制下において、総合建設業のもつ、その組織形態、職種別企業系列や技能工制度による施工システムは一度は、完全に解体される。しかし、すでに蓄積されていた、施工設計計画、工程計画、技術管理などにおける経験、総合的建設システムを支える管理運営能力は、戦後まもなく、脅威的な復元力を示すのである。
こうした歴史的パースペクティブにおいて、しかも、テクノクラシーとしての建設業の支配力がますます強まるなかで、建築家のあり方を展望することはますます厳しい。近代建築批判が顕在化してくるにつれて、確かに、一方で、テクノクラシーによる建築に対する疑念もまた拡大しつつある。しかし、テクノクラシーとしての建設業を前提としない建築のあり方を構想することは容易ではないのである。
建築家に必要なのは、それにもかかわらず、現実の諸条件のなかにその可能性を見いだすことである。例えばTQCの矛盾、問題点はすでにさまざまな形で指摘されている。自主管理のあり方がテクノクラシー化に対して鋭く対置されつつあるのはその一つである。建築技術のあり方、建築の生産を支える構造のレベルにおいて、根源的なパラダイムの転換が行われなければならない。そのためには、テクノクラシーのヘゲモニー下に置かれている建築の技術、建築の生産、流通の仕組みを、個々の建築家、設計者の手の届く、ある意味ではプリミティブなレベルから組み立て直すことが必要である。
そうした試みは、すでにさまざまな形で追及されつつあると言ってよい。工業化のイデオロギーに対する批判、テクノロジーに対する批判は、新たな技術のあり方を模索するさまざまな運動を生み出しつつあるのである。そうした運動を大きく方向づけているとされるのが、E.F.シュマッハーやI.イリイチらの一連の活動である。日本においても、昨年末には、イギリスのAT(Alternative Technology)運動の理論的支柱の一人となったD.ディクソンの『オルターナティブ・テクノロジー、技術革新の政治学』*[v]が翻訳されており、そうした海外における新たな技術運動については、高木仁三郎、宮川中民、里深文彦、中山茂などによって、精力的に紹介されつつある。
『二一世紀の建設業・・・その課題と展望を探る』*[vi]は、「文明の発祥と同時に発生した・建設活動の担い手・建設業が、・文化の世紀・二一世紀にクライマックスを迎える日本社会のなかで、次第にその地位を高め、その主役、誇り高き文化のクリエーターとして堂々と登場する舞台装置は十分整っている」と、システム・オーガナイザーの旗主として建設業を位置づけながら、適正技術や中間技術についても触れている。
しかし、建築におけるATの展開にとって、テクノクラシーとしての建設業は必ずしも必要ない。むしろ、根本的に相容れないと言ってもよい。システム・オーガナイザーとしての役割を果たすために克服すべき課題として、建設労働者の不足の問題、品質保証の問題、建設組織とコミュニケーションの問題、情報収集力や金融調達力の問題とともに建設技術の頭打ちの問題がそこでは挙げられている。確かに、TQCの導入に示されるように、建設業の技術への関心が計画や管理の技術、またシステムの技術へ、ハードテクノロジーからソフトテクノロジーへ向けられつつある裏には、そうした背景があると言えるだろう。しかし、建設技術の頭打ちの問題がATを要求するわけではない。また、高度に発達したテクノロジーのもつネガティブな側面を補完するために、ATが必要とされるわけでもない。ATが目指すのは、全く異なった体系をもった技術のあり方なのである。
バンコクのAIT(Asian Institute of Technology)では、竹筋コンクリートの実験が行われている。建築にとって、そもそも高度な技術は必要ない、地域の生態系に基づいた身近な素材を用い、それをその地域の固有の表現に結びつけていこうというのが彼らの問題意識である。竹は乏しい鉄の代替物として位置づけられているというより、むしろ、はるかに積極的に位置づけられている。
確かに、AT運動の大きな二つの流れの一つは、第三世界において、より現実性をもって展開されつつある。しかし、はるかに興味深いのは、先進諸国におけるその展開である。ことに、日本の場合、鉄筋コンクリートや鉄骨に関する技術をはじめ施工機械にしろ、仮設の技術にしろ、何から何まで輸入に頼ってきた。そうした過程で、日本に固有な建築の技術のあり方についての視点は、常にネガティブなものとして位置づけられてきたと言える。少なくとも、新たな視角において建築を支える技術のあり方、その生産の仕組みについて、とらえ直すことが必要であろう。建築におけるATの展開のために見直されているのは、日本で言えば、昭和戦前期の水準の技術である。特に住宅のスケールの技術について、戦後どれだけの展開がなされてきたか見直される必要がある。
実は、日本においても、戦時中、竹筋コンクリートの研究がさなれている。それは、日本の近代建築の流れのなかでは、位置づけようのないものとして、必ずしも知られていない。「白い家」と呼ばれた住宅作品をはじめとする国際様式を標榜する作品の出現を指標として、日本の近代建築は一九三〇年代に確立したとされている。定着しつつあった近代建築の理念に照らすとき、竹筋コンクリートはアナクロ以外の何ものでもない。ちょうど、帝冠様式が、デザインの側面において、ファシズム体制戦時体制の歪みを示したとされるように、建築の技術の面においてそれを集約的に示したというのが竹筋コンクリートに対する一般的な評価である。
しかし、そもそも、日本における近代建築の出自には一つの大きな転倒があった。一九三〇年代において、近代建築を標榜した作品の多くは「木造モルタルによって白い壁面の効果をだし、木造建具をペンキで色揚げし、そして無理してでも陸屋根とすることによって少なくとも写真に撮ってスタイルとして見る限りは一応近代建築らしいとみられる作品」(浜口隆一)にすぎない。近代建築の理念が外からもたらされたこと、しかも、スタイルの問題としてまず受け入れられたことをそれは象徴的に物語っている。もちろん、近代建築の理念を支える現実的な基盤が希薄であるという建築家の意識が、スタイルの問題のみを性急に主題化させたと言ってよいであろう。しかし、その転倒に大きな問題が潜んでいたことは言うまでもない。建築における一九三〇年代が近代建築の理念が現実の諸条件との間で葛藤を繰り広げる過程であったことは、例えば、日本的なるものにかかわる議論が示している。しかし、単にスタイルの問題として、そうした問題が争われる限りにおいて、その限界は明らかであったのである。建築の技術、その生産体制のはらむ問題は、建築家によって鋭く指摘され続ける。しかし、それを具体的に担い続けたのは一貫して建設業のほうである。建築家がそれをリードするという形が、理念の上で信じられたのは一九五〇年代までであった。
問題は、繰り返せば、建築を支える技術のあり方、その生産を支える構造を根底的にとらえ直し、身近で具体的な回路を構想し、その構想のなかで表現の問題を提出することである。テクノクラシーの建築と芸術としての建築の二分法がとてつもなく不毛であることは明らかだ。われわれは、一九三〇年代においてすでにそうした構造を確認することができるのである。