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2024年1月1日月曜日

テクノクラシーと自主管理ーTQCとAT,KB Freeway,『建築文化』,198005

テクノクラシーと自主管理:TQCとAT

 

  大手の建設業を中心として建設業界では総合的品質管理運動=TQC(Total Quality Control)運動が、極めて精力的に展開されつつある。山留めの崩壊、生コンクリートの強度不足といった事故の発生を契機として、一九六七年からZD(Zero Defect 無欠陥)運動を展開し、いち早く、「企業の体質改善と作品の品質を向上させ業績を高めること」を目標としてTQCを導入(一九七六年)、一九七九年一〇月には、建設業界では初めて、すぐれた品質管理体制を実施する企業に与えられるデミング賞*[i]実施賞を受賞した竹中工務店をはじめとして、各企業において膨大なエネルギーと時間がTQC導入のために注ぎ込まれているという。

 一般の製造業においては、統計的品質管理(SQC)の限界を克服すべく六〇年代初めに提唱され、その成功が高度成長を支えたとされるTQC運動が、建設業においては、オイル・ショックを経て、本格的に取り組まれつつあることは、さまざまな意味で興味深いと言える。

  六〇年代を通じて、一貫して近代化、合理化を推し進めてきた建設業がTQCの導入に至らなかったのは、一つには、建設業の歴史的な体質、その産業としての特異性によると言える。大辻眞喜夫は、品質管理に対する認識を建設業が欠いてきた要因を、生産現場、生産条件、生産組織がプロジェクトごとに異なること、重層下請構造の生産形態をとり、それが流動的であること、建物の評価尺度が多様であることなど五点にわたって列挙している*[ii]が、それらはすべて一品受注の現場生産を基本とする建築生産の固有の特質、ひいては建築そのものの本質にかかわるものである。またその特異性は一般には、建設業における近代化を阻む要因としてとらえられてきたものだ。

 そうした意味で、TQCの導入は、建築における規格化、標準化、部品化、そして工業化の進行によって、建築の生産、流動の形態が一般の工業生産品のそれへより近づきつつあること、また、建設業における近代化、合理化がさらに着実に進められつつあり、新たな段階を迎えつつあることを示しているとみることができる。

 また一方では、六〇年代には圧倒的な量の建設に追われて、必ずしも建築の質を問題とする余裕が建設業にはなかったことを、TQC導入のタイム・ラグは示していよう。スクラップ・アンド・ビルドの狂宴が終息するにつれ、それが必然的にもたらした建物の質の低下が、欠陥工事、手抜き工事の問題として指摘され始め、直接的にはそれが引き金となって、建設業においてもようやく品質管理の問題が主題化され始めたのである。

  需要の伸びがかつてのように期待できない状況のなかで、量から質へという転換が意識され、企業戦略の主要なターゲットが品質保証の問題へ移行していくのはある意味で必然である。しかし、品質管理、品質保証は、あくまで一つのスローガンにすぎない。TQCは、品質管理と労務管理を結合し、むしろ、組織全体の合理化を目標とするところにその本質がある。それは中岡哲郎によれば「一つの製品が計画され、市場に出てゆくまでのコースの全体、マーケティング、開発、設計、資材購入、製造工程技術、工程の操業と管理、検査、出荷、販売とアフターサービスといった一連の基幹的な流れを軸に、その周辺に無数に存在する補助労働、事務所のお茶くみから雑役にいたるまで、「品質」をキィワードとしながら、三つの目標、製品の性能、コスト、信頼性、という三つの指標に向かって求心的に組織してゆく技法」*[iii]である。「組織化のすすみすぎた職場で必然的に失われてゆく、全体への関心、職務意識、働くことの意味づけを、品質への関心として、かきたててやること」、小集団の間に連帯意識を生み出し、それをシステムの全体を上向的に貫く求心力に転化させていくこと、自発性を喚起し、しかもそれを一定の枠内に収斂させることがその最大のねらいなのである。

 そうした意味では、建設業は、より高度な管理体制を整備することをこそ大きな目的としていると言える。高度成長の末期に、大手建設業は、付加価値の低い工事請負一本やりから、不動産・住宅部分に手を広げ、オイル・ショックによって一つの挫折を経験した。建築生産を支える構造の変化、低成長期への移行に直面し、それを乗り切るために、現在建設業は新たな対応を迫られつつある。そのために、企業としての組織の強化、整備は不可欠であり、その一貫として、TQC運動が展開されつつあるのである。

  日本の建設請負業は、日本の資本主義の形成、発展の過程と即応する形で、その組織形態を整備し、発展を遂げてきた。三浦忠夫が明らかにするように*[iv]、建設産業の発展と国内資本の形成との間には正確な対応関係がある。また日本の資本主義の構造が生み出す建設需要の内容に対応して、建設業は、それを消化するのに必要な建設技術や施工システムを開発発展させてきていることがわかる。そして、ことに大手の建設業社は、建設の総需要に占めるウェイト、建設技術の開発能力、それを支える組織力によって、近代日本における建築のあり方を大きく規定してきた。

  建設業がテクノクラシーとしての体制を整備しながら、外部環境の変化に着実に対応しつつあるなかで、建築家の存在基盤はますます希薄になりつつある。建設業は、その金融力、技術力、調整能力、責任能力をますます誇り、その総合力において、建築のあり方に対する支配力を強めつつあるのである。

  振り返れば、日本における建築家と建設請負業との関係を支える構造は、すでに昭和の戦前期において成立していた。それを象徴的に示すのが、一九三〇年に第五〇帝国議会に提出された「建築士法」案の不成立である。それは、昭和の初頭、一九三七年までに九回にわたって提出され続けるのであるが、ついに成立をみることはない。

 明治末から大正期にかけて西欧の建築家の理念を掲げながら、次第に定着しつつあった民間の設計事務所は、日本建築士会の結成(一九一七年)に示されるように、その社会的な基盤を拡大しつつあった。そして、大正末には、その存在基盤の法的根拠を求めるまでに至る。しかし、同じように、それまでの個人経営から合名会社、合資会社、株式会社等へ組織形態を変え、近代的企業へと脱皮しつつあった建築請負業との力関係において、それに拮抗しえなかったのである。

  関東大震災から昭和の初めにかけて、ちょうど、大正から昭和への年号の転換を挟んで前後数年の時期は、建築の技術や生産体制が大きく飛躍を遂げる革新期である。鉄筋コンクリート造が本格的に導入され初め、一九二九年には鉄筋コンクリート工事標準仕様書が決定されている。耐震構造理論が全面的に展開され始める。また、建造物の高層化に伴い、施工方法が一変し、戦後における形態とはほぼ近いものとなるのがこの頃である。

 こうした、建築の技術や生産体制のドラマティックな転換に対して、建築家、民間の設計事務所は、すでに対応しきれなかった。新興建築運動が華々しく展開される背景において、日本の建築家の行方は決定的に方向づけられつつあったのである。

  鹿島組が株式会社となるのが一九三〇年のことである。同じく、佐藤工業一九三一年、銭高組一九三一年、島藤組一九三二年、戸田組一九三六年、清水組一九三七年、西松組一九三七年、浅沼組一九三七年、広島藤田組一九三七年と、建設量が戦前においてピークを迎える頃までには、日本の建設業はそれぞれ、その基盤を確立するに至った。

 建設業界は、昭和恐慌時の大淘汰を経て、満州の建設市場を干天の慈雨とし、また、内地の軍需産業への投資ブームを梃子としながら、施工能力を一挙に拡大し、その力を蓄えたのである。強力な戦時統制下において、総合建設業のもつ、その組織形態、職種別企業系列や技能工制度による施工システムは一度は、完全に解体される。しかし、すでに蓄積されていた、施工設計計画、工程計画、技術管理などにおける経験、総合的建設システムを支える管理運営能力は、戦後まもなく、脅威的な復元力を示すのである。

  こうした歴史的パースペクティブにおいて、しかも、テクノクラシーとしての建設業の支配力がますます強まるなかで、建築家のあり方を展望することはますます厳しい。近代建築批判が顕在化してくるにつれて、確かに、一方で、テクノクラシーによる建築に対する疑念もまた拡大しつつある。しかし、テクノクラシーとしての建設業を前提としない建築のあり方を構想することは容易ではないのである。

  建築家に必要なのは、それにもかかわらず、現実の諸条件のなかにその可能性を見いだすことである。例えばTQCの矛盾、問題点はすでにさまざまな形で指摘されている。自主管理のあり方がテクノクラシー化に対して鋭く対置されつつあるのはその一つである。建築技術のあり方、建築の生産を支える構造のレベルにおいて、根源的なパラダイムの転換が行われなければならない。そのためには、テクノクラシーのヘゲモニー下に置かれている建築の技術、建築の生産、流通の仕組みを、個々の建築家、設計者の手の届く、ある意味ではプリミティブなレベルから組み立て直すことが必要である。

  そうした試みは、すでにさまざまな形で追及されつつあると言ってよい。工業化のイデオロギーに対する批判、テクノロジーに対する批判は、新たな技術のあり方を模索するさまざまな運動を生み出しつつあるのである。そうした運動を大きく方向づけているとされるのが、E.F.シュマッハーやI.イリイチらの一連の活動である。日本においても、昨年末には、イギリスのAT(Alternative Technology)運動の理論的支柱の一人となったD.ディクソンの『オルターナティブ・テクノロジー、技術革新の政治学』*[v]が翻訳されており、そうした海外における新たな技術運動については、高木仁三郎、宮川中民、里深文彦、中山茂などによって、精力的に紹介されつつある。

  『二一世紀の建設業・・・その課題と展望を探る』*[vi]は、「文明の発祥と同時に発生した・建設活動の担い手・建設業が、・文化の世紀・二一世紀にクライマックスを迎える日本社会のなかで、次第にその地位を高め、その主役、誇り高き文化のクリエーターとして堂々と登場する舞台装置は十分整っている」と、システム・オーガナイザーの旗主として建設業を位置づけながら、適正技術や中間技術についても触れている。

 しかし、建築におけるATの展開にとって、テクノクラシーとしての建設業は必ずしも必要ない。むしろ、根本的に相容れないと言ってもよい。システム・オーガナイザーとしての役割を果たすために克服すべき課題として、建設労働者の不足の問題、品質保証の問題、建設組織とコミュニケーションの問題、情報収集力や金融調達力の問題とともに建設技術の頭打ちの問題がそこでは挙げられている。確かに、TQCの導入に示されるように、建設業の技術への関心が計画や管理の技術、またシステムの技術へ、ハードテクノロジーからソフトテクノロジーへ向けられつつある裏には、そうした背景があると言えるだろう。しかし、建設技術の頭打ちの問題がATを要求するわけではない。また、高度に発達したテクノロジーのもつネガティブな側面を補完するために、ATが必要とされるわけでもない。ATが目指すのは、全く異なった体系をもった技術のあり方なのである。

  バンコクのAIT(Asian Institute of Technology)では、竹筋コンクリートの実験が行われている。建築にとって、そもそも高度な技術は必要ない、地域の生態系に基づいた身近な素材を用い、それをその地域の固有の表現に結びつけていこうというのが彼らの問題意識である。竹は乏しい鉄の代替物として位置づけられているというより、むしろ、はるかに積極的に位置づけられている。

  確かに、AT運動の大きな二つの流れの一つは、第三世界において、より現実性をもって展開されつつある。しかし、はるかに興味深いのは、先進諸国におけるその展開である。ことに、日本の場合、鉄筋コンクリートや鉄骨に関する技術をはじめ施工機械にしろ、仮設の技術にしろ、何から何まで輸入に頼ってきた。そうした過程で、日本に固有な建築の技術のあり方についての視点は、常にネガティブなものとして位置づけられてきたと言える。少なくとも、新たな視角において建築を支える技術のあり方、その生産の仕組みについて、とらえ直すことが必要であろう。建築におけるATの展開のために見直されているのは、日本で言えば、昭和戦前期の水準の技術である。特に住宅のスケールの技術について、戦後どれだけの展開がなされてきたか見直される必要がある。

  実は、日本においても、戦時中、竹筋コンクリートの研究がさなれている。それは、日本の近代建築の流れのなかでは、位置づけようのないものとして、必ずしも知られていない。「白い家」と呼ばれた住宅作品をはじめとする国際様式を標榜する作品の出現を指標として、日本の近代建築は一九三〇年代に確立したとされている。定着しつつあった近代建築の理念に照らすとき、竹筋コンクリートはアナクロ以外の何ものでもない。ちょうど、帝冠様式が、デザインの側面において、ファシズム体制戦時体制の歪みを示したとされるように、建築の技術の面においてそれを集約的に示したというのが竹筋コンクリートに対する一般的な評価である。

  しかし、そもそも、日本における近代建築の出自には一つの大きな転倒があった。一九三〇年代において、近代建築を標榜した作品の多くは「木造モルタルによって白い壁面の効果をだし、木造建具をペンキで色揚げし、そして無理してでも陸屋根とすることによって少なくとも写真に撮ってスタイルとして見る限りは一応近代建築らしいとみられる作品」(浜口隆一)にすぎない。近代建築の理念が外からもたらされたこと、しかも、スタイルの問題としてまず受け入れられたことをそれは象徴的に物語っている。もちろん、近代建築の理念を支える現実的な基盤が希薄であるという建築家の意識が、スタイルの問題のみを性急に主題化させたと言ってよいであろう。しかし、その転倒に大きな問題が潜んでいたことは言うまでもない。建築における一九三〇年代が近代建築の理念が現実の諸条件との間で葛藤を繰り広げる過程であったことは、例えば、日本的なるものにかかわる議論が示している。しかし、単にスタイルの問題として、そうした問題が争われる限りにおいて、その限界は明らかであったのである。建築の技術、その生産体制のはらむ問題は、建築家によって鋭く指摘され続ける。しかし、それを具体的に担い続けたのは一貫して建設業のほうである。建築家がそれをリードするという形が、理念の上で信じられたのは一九五〇年代までであった。

  問題は、繰り返せば、建築を支える技術のあり方、その生産を支える構造を根底的にとらえ直し、身近で具体的な回路を構想し、その構想のなかで表現の問題を提出することである。テクノクラシーの建築と芸術としての建築の二分法がとてつもなく不毛であることは明らかだ。われわれは、一九三〇年代においてすでにそうした構造を確認することができるのである。


*[i]

*[ii]  「建設業における品質管理の考え方」、『建築文化』・建築経済・〇〇一、一九八〇年一月号

*[iii]  『工場の哲学』、平凡社、一九七一年

*[iv]  『日本の建設産業』、『日本の建築生産』、彰国社、一九七七年

*[v]  田窪雅文訳、時事通信社、一九七九

*[vi]  清水建設、一九八〇




 

2023年12月11日月曜日

PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010年

  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010


PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式

布野修司

「世界貿易機構(WTO)」案件はもとより、国の事業は、既に「PFIPrivate Finance Initiative)」事業が主流となっており、公共事業の事業者選定におけるPFI方式は着実に定着しつつある。国あるいは地方公共団体が、事業コストを削減し、より質の高い公共サービス提供する(安くていいものをつくるという「説明責任」を果たす上で極めて都合がいいからである。第一に、PFI事業は、事業者選定の過程について一定の公開性、透明性を担保する仕組みをもっているとされる。第二に、国あるいは地方公共団体にとって、設計から施工、そして維持管理まで一貫して事業者に委ねることで、事務作業を大幅に縮減できる、第三に、効率的な施設管理(ファシリティ・マネージメント(FM))が期待される、そして第四に、何よりも、設計施工(デザイン・ビルド)を実質化することで、コスト削減が容易となる、とされる。しかし、「説明責任」が果たせるからといって、「いい建築(空間、施設)」が、実際に創り出されるかどうかは別問題である。

 

日本のPFIPrivate Finance Initiative)法は、欧米PFIでは禁止されている施設整備費の割賦払を禁止していないばかりかむしろ割賦払いによる施設整備を促進しており、財政悪化の歯止めをはずした悪法となっていることなど[i]、その事業方式そのものの問題はここでは問わない。事業者(特別目的会社SPC)および設計者の選定に関わる評価方式を問題にしたい。決定的なのは、地域の要求とその変化に柔軟に、また動態的に対応する仕組みになっていないことである。

 

BOTBTO

 公共施設整備としてのPFI事業が、BOT(建設Build→管理運営Operate→所有権移転Transfer)か、BTO(建設→所有権移転→管理運営)かは、建築(空間)の評価以前の問題である。

PFI事業がBTOに限定されるとすれば、設計施工(デザイン・ビルド)とほとんど変わらなくなることは容易に予想される。すなわち、設計施工の分離をうたう会計法の規定?をすり抜ける手段となりかねない。

SPCは、民間企業として、事業資金の調達および建築物の設計・施工・管理を行い、さらに、その運営のための多くのサービスを提供するのに対して、公共団体は、その対価を一定期間にわたって分割して支払うのがPFI事業の基本である。地方公共団体にとって、財源確保や管理リスクを回避できることに加え、契約期間中に固定資産税収入があることで、メリットが大きい手法となるはずである。問題は、民間企業にとって、どういうメリットがあるかである。PFI事業の基本的問題は、すなわち、公民の間の、所有権、税、補助金などをめぐる法的、経済的関係、さらにリスク分担ということになる。

公には「施設所有の原則」があり、「施設を保有していないのに補助金は出せない」という見解、主張があった。公的施設の永続性を担保するためには公による所有が前提とされてきたからである。実際は、BTO方式によるPFI事業にも補助金を出すという決定(補助金交付要項の一部改正)がなされることになる。SPCにとっては、補助金がないとすれば、メリットは多くはない。BOT方式のPFI事業では、所有権移転を受けるまでの30年間(最近では10年~20年のケースが増えつつある)は、SPCの所有ということになる。従って、SPCは税金を払う必要がある。これではSPCにはさらに魅力がないことになる。

実際上の問題は、公共施設のプログラム毎にケース・バイ・ケースの契約とならざるを得ない。「利益が出た場合にどうするか」というのも問題であるが、決定的なのは「事業が破綻した場合に、その責任をどのようにとるか」である。契約をめぐっては、社会的状況の変化をどう考えるかによって多様な選択肢があるからである。公共団体、SPC、金融団等の間に「秘密保持の合意」がなされる実態がある。破綻した際の責任をだれが取るのか、建築(空間)の質の「評価」の問題も同じ位相の問題を孕んでいる。

 

責任主体 

PFI事業によって整備される公共施設の「評価」を行い、SPCの選定に関わる審査機能をもつ委員会は基本的に法的な権限を与えられない。従って、責任もない。これは、PFI事業に限らず、様々な方式の設計競技においても同様である。また、審査員がどのような能力、経験、資格を有すべきかどうかについても一般的に規定があるわけではない。

地域コミュニティや自治体に属する権限を持った「コミュニティ・アーキテクト」あるいは「タウンアーキテクト」、また法的根拠をもってレビューを行う英国のCAVE(Committee of Architecture and Built Environment)のような新たな仕組みを考えるのであれば別だが、決定権は常に国、自治体にある。都市計画審議会にしろ、建築審議会にしろ、諮問に対して答申が求められるだけである。

日本の審議会システム一般についてここで議論するつもりはないが、PFIをうたいながら、すなわち民間の活力、資金やノウハウを導入するといいながら、審査員には「有識者」として意見を言わせるだけで、予め設定した枠組みを全く動かさないという場合がほとんどである。

「安くていいものを」というのが総合評価方式であり、一見オープンで公平なプロセスであるように見えるが、プロジェクトの枠組みそのものを議論しない仕掛けが「審査委員会」であり、国、自治体の説明責任のために盾となるのが「審査委員会」である。

予め指摘すべきは、地域住民の真のニーズを汲み上げる形での公的施設の整備手法は他にも様々に考えられるということである。

 

プログラムと要求水準

公共施設整備の中心はプログラムの設定である。しかし、公共施設は様々な法制度によって様々に規定されている。施設=制度institutionの本質である。

民間の資金やノウハウを活用することをうたうPFI事業であるが、予め施設のプログラムは、ほとんどが「要求水準書」によって決定されている。この「要求水準書」なるものは、多くの場合、様々な前例や基準を踏襲してつくられる。例えば、その規模や設備は現状と変わらない形で決められてしまっている。また、容積率や建蔽率ぎりぎりいっぱいの内容が既に決定されており、様々な工夫を行う余地がない。極端に言えば、あらたな質をもった建築空間が生まれる可能性ほとんどないのである。

「要求水準書」は、一方で契約の前提となる。提案の内容を大きく規定するとともに、審査における評価のフレームを大きく規定することになる。すなわち、公共施設の空間構成や管理運営に地域住民のニーズを的確に反映させる仕組みを予めPFI事業は欠いているといっていい。参加型のワークショップなど手間隙はかかるけれどもすぐれた方法は他にある。

 

総合評価

公共施設整備の核心であるプログラムとして、設計計画のコンセプト、基本的指針が本来うたわれ、建築的提案として競われるべきである。そして、公的な空間のあり方をめぐってコンセプトそのものが評価基準の柱とされるべきである。あるいは、コンセプトそのものの提案が評価の中心に置くべきである。しかし、コンセプトはしばしば明示されることはない。PFI事業においては、「総合評価」方式が用いられるが、「総合評価」といっても、あくまで入札方式としての手続きのみが問題にされるだけである。

問題は、「総合評価」とは一体何か、ということになる。

A 評価項目とそのフレーム

多くの場合、審査員が参加するのは評価項目とその配点の決定からである。予め「先例」あるいは「先進事例」などに倣った評価項目案が示され、それを踏襲する場合も少なくない。すなわち、国あるいは地方公共団体の「意向」が反映されるものとなりやすい。

問題は、建築(空間)の質をどう評価するか、であって、そのフレームがまず審査員の間で議論されることになる。ここで、審査員によって構成される委員会におけるパラダイムに問題は移行することになる。例えば、建築を計画、構造、設備(環境工学)、生産といった分野、側面から考えるのが日本の建築学のパラダイムであるが、一般の施設利用者や地域住民にそのフレームが理解されることは稀である。「要求水準書」を満たすことは、そもそも前提であり、しばしば絶対条件とされる。審査委員会の評価として「プラス・アルファ」(それはしばしば外観、あるいは街並みとの調和といった項目として考慮されようとする)を求めるといった形でフレームが設定されるケースがほとんどである。

B ポイント制

フレームはフレームとして、提案の全体をどう評価するかについては、各評価項目のウエイトが問題となる。各評価項目を得点化して足し合わせることがごく自然に行われる。複数の提案から実現案1案を選ぶのであるから、審査員が徹底的に議論して合意形成に至ればいい(文学賞などの決定プロセス)のであるが、手続きとしてごく自然にこうしたポイント制が採られる。審査員(専門家)が多数決によって決定する、またその過程と理由を公開する(説明責任を果たす)のであればいいのであるが、ポイント・システムは、例え0.1ポイント差でも決定理由となる。建築の評価の本質(プログラムとコンセプト)とはかけ離れた結論に導かれる可能性を含むし、実際しばしばそうしたことが起こる。

各評価項目もまた、客観的な数値によって評価されるとは限らないから、多くの場合、相対評価が点数による尺度によって示される。個々の審査員の評価は主観的であるから、評価項目ごとに平均値が用いられることになる。わかりやすく言えば、平均的な建築が高い得点を得るのがポイント制である。

建築の評価をめぐる部分と全体フレームをめぐる以上の問題は「建築」を専門とする専門家の間でのパラダイムあるいはピア・レビューの問題であるといってもいい。

C 建築の質と事業費

「安くていいものがいい」というのは、誰にも異を唱えることができない評価理念であるが、「いい」という評価が、Bでの議論を留保して、点数で表現されるとして、事業費と合わせて、総合的にどう評価するかが次の問題である。

建築の質に関わる評価と事業費といった全く次元の違う評価項目を比較するとなると、点数化、数値化は全く形式的なものとならざるを得ない。そこで持ち出されるのが実に単純な数式である。

事業費を点数化して、建築の質の評価に関わる点数と単純に合わせて評価する加算法と、質は質として評価した点数を事業費で割って比べる除算法が用いられているが、数学的根拠はない。極めて操作的で、加算法を採る場合、質の評価と事業費の評価を5:5としたり、4:6にしたり、3:7にしたり様々である。除算法を採る場合、予め、基本事項(要求水準)に60%あるいは70%の得点を与える、いわゆる下駄が履かされる。基本的には、質より事業費の方のウエイトを高くする操作と考えられても仕方がない。

単純に事業費のみとは限らない。SPCの組織形態や資金調達能力などが数値化され、係数を加えたりして数式が工夫される。

事例を積み重ねなければ数式の妥当性はわからないというのが経営学の基本的立場というが、建築の質の評価の問題とはかけ離れているといわざるを得ない。

地方公共団体の施策方針と財務内容に基づいて設定された事業費に従って、施設内容、プログラムを工夫するやり方の方がごく自然である。

D 時間的変化の予測と評価

事業費そのものも、実は明快ではない。いわゆる設計見積を評価するしかないが、設計・施工のための組織形態によって大きな差異がある。そして何よりも問題なのは、時間の変化に伴う項目については誰にも評価できないことである。維持管理費やランニング・コストについては、提案書を信じるしかない。

結局は、予測不可能な事態に対処しうる組織力と柔軟性をもったSPCに期待せざるを得ない、ということになる。

事後評価

PFI事業の事業者選定委員会は、設計競技の審査委員会も同様であるが、多くて数回の委員会によってその役割を終える。当初から事業に責任がないことは上述の通りであるが、事後についても全く責任はなく、なんらの関係もない。そもそも、PFI事業は一定の期間を対象にしているにも関わらず、事後評価の仕組みを全く持っていない。

事業の進展に従ってチェックしながら修正することが当然考えられていいけれど、そうしたフレキシビリティをもったダイナミックな計画の手法は全く想定されていない。

 

以上、PFI事業による公共施設整備の問題点について指摘してきた。透明性の高い手法として評価されるPFI事業であるが、実は、建築(空間)の評価と必ずしも関わらない形式的手続きによって事業者が決定されていることは以上の通りである。PFI事業の制度は、結局は事業費削減を自己目的化する制度に他ならないということになる。「いい」建築を生み出す契機がそのプロセスにないからである。少なくとも、地域住民のニーズに即した公共建築のあり方を評価し、決定する仕組みを持っていないことは致命的である。

問題点を指摘する中でいくつかのオールタナティブに触れたが、「コミュニティ・アーキテクト」制の導入など、安くていい、地域社会の真のニーズに答える仕組みはいくらでも提案できる。要は、真に「民間活力」を導入できる制度である。

4800字 4p



[i] 割賦払いの契約を締結すると公共には施設整備費を全額支払う義務が生じ、施設の瑕疵担保リスクを超えた不具合リスクを民間に移転することが出来なくなるというデメリットが生じる。そして、公債よりも資金調達コストの高い民間資金を利用して施設を整備する合理的な理由がなくなる。


2023年7月10日月曜日

座談会「建設産業の明日へ生かすこと」,松村秀一・中城康彦・赤沼聖吾・布野修司・和田章建築雑誌特集「建築産業は何を経験するか」,2012年5月号

座談会「建設産業の明日へ生かすこと」,松村秀一・中城康彦・赤沼聖吾・布野修司・和田章建築雑誌特集「建築産業は何を経験するか」,2012年5月号

建設産業の明日へ生かすこと

 

松村秀一

Shuichi Matsumura

東京大学教授/1957年生まれ。東京大学卒業。同大学院修了。建築構法計画・建築生産。工学博士。著書に『住に纏わる建築の夢―ダイマキシオン居住機械からガンツ構法まで』『宇宙で暮らす道具学』ほか。2005年日本建築学会賞(論文)受賞

 

中城康彦

Yasuhiko Nakajo

明海大学教授/1954年生まれ。名古屋工業大学卒業。同大学大学院修士課程修了。建築経済。共著に『コモンでつくる住まい・まち・人―住環境デザインとマネジメントの鍵』『住まい・建築のための不動産学入門』ほか

 

赤沼聖吾

Seigo Akanuma  

鹿島建設専務執行役員東北支店長、日本建設業連合会東北支部支部長/1946年生まれ、東北大学工学部建築学科卒業。東北支店青森営業所長、東北支店営業部長・営業部統括部長・副支店長を経て現職

 

布野修司

Shuji Funo

日本建築学会副会長、滋賀県立大学教授

 

和田章

Akira Wada

日本建築学会会長、東京工業大学名誉教授

 

 

聞き手

 

安藤正雄

Masao Ando

千葉大学教授

会誌編集委員幹事

 

竹内泰

Yasushi Takeuchi

宮城大学准教授

会誌編集委員

 

東淳子

Junko Azuma

大林組

会誌編集委員

 

小田嶋暢之

Nobuyuki Odajima

竹中工務店

会誌編集委員

 

野田郁子

Ikuko Noda

三菱地所設計

会誌編集委員

 

青井哲人

Akihito Aoi

明治大学准教授

会誌編集委員長

 

◆前半本文(3ページ) 17×276L程度。最大322

 

安藤――本特集の第4部では展望編として建築産業に詳しく、被災地の状況にもよく通じている方々にお集まりいただき、今後の復興に向けての課題を明らかにしたいと思います。前半では住宅、ゼネコン、不動産という立場から3名の方にプレゼンテーションいただきます。

 

●岩手県沿岸部の被災状況と

仮設住宅の建設について

 

松村――今回の震災では、5万戸強の応急仮設住宅(以下、仮設住宅)が建設されました。仮設住宅はプレハブ建築協会が独占的にメーカー各社への発注を決める、という見立てがしばしばなされますが、そこには誤解も含まれています。半数以上がプレハブ建築協会の規格建築部会に属するメーカーが建設しています。しかし彼らは工事現場の仮設建築物などを建てるメーカーで、住宅産業ではありません。リース方式のため自社在庫を持っており、災害への即時対応が期待されているのです。ただし今回は仮設メーカーが供給できる数をはるかに上回る発注があったため、足りない分をプレハブ建築協会の住宅系の部門に属するハウスメーカーが担いました。プレハブ建築協会以外にも日本ツーバイフォー建築協会、日本木造住宅産業協会といった団体に属するメーカーも建てています。したがって今回は在来木造や、普通の住宅の仕様に仮設住宅の共通仕様を利用した仮設住宅が結構な数できました(図1)。福島県と岩手県では地場の工務店にも発注がなされたほか、国の予算によらない仮設住宅もできています(図2)。そして今回、仮設住宅の代わりに空き室を活用する仕組みが登場しました。昨年4月中旬に発表された、被災者が仮設住宅の代わりに空き室に暮らし家賃を国が肩代わりする「みなし仮設」という制度です。災害救助法に明記されていない方法に予算をつける道が、仮設住宅の建設が間に合わない状況から開けたわけです。

 ところで仮設住宅建設の議論でしばしば聞かれるのが、地場の工務店に建設を依頼しないと地域にお金が落ちない、ということです。しかし短期間で一定数の仮設住宅の建設に対応できる工務店は限られています。さらに仮設住宅の建設のために地元の技能労働者がフル活用され、足りない分は応援がきていた、というのが実態です。地域にお金は落ちていたのです。岩手県の新設住宅着工数は年間約5,000戸。しかし仮設住宅は約5ヶ月で14,000戸建てる必要がありました。岩手県の年間予算は約5,000億円です。14,000戸の仮設住宅建設には、概算で700億円ほどかかるでしょう。県下だけでは対応できない上に、仮設住宅は瞬間的な需要のため、日常的な住宅建設に影響を及ぼすわけではありません。

 いま被災地の工務店はフル稼働しています。国の予算による復興事業はこれからですが、民間住宅の建て替え・修復需要が出てきているからです。しかし現地の工務店が心配しているのは、復興予算がつく時期が終わった後のことです。そこで新しい地域生活産業を興すパイロットプロジェクトとして、2つのアイデアを紹介します。1つは既存建物のリノベーションやリユースを通じ、ビジネスに転換するきっかけをつくることです。今回空き家活用のアイデアとして面白く思ったのが「仮住まいの輪」という試みです。空き物件と被災者をネット上で結びつけるアイデアは、全く新しい別のビジネスに展開する可能性を秘めています。2つ目は、高齢者向け施設の建設や、暮らし支援ビジネスです。在来工法の建物ならば地元の工務店でも対応できます。復興とともに需要が出てくるさまざまな建物の建設を地場の工務店が引き受けられるよう、在来工法でつくるのです。そして仮設住宅では孤独死など、さまざまな問題があります。コミュニティ活性化のために、外部空間に屋根をかける、新聞をつくって配布するなど、さまざまな支援活動がなされています。単なるハコを暮らしの場に仕立てる仕事は仮設住宅のみならず、社会全体で求められています。

 今回の災害で被災後の切実なニーズに基づく支援などのノウハウが貯まりました。整理すればビジネスにも結びつく可能性があると思います。

 

●復興まちづくりと

プロパティ・マネジメント

 

中城――復興とプロパティ・マネジメント上の課題を千葉県浦安市を事例として紹介します。地域の3/4程度が埋立地の浦安市では、9,000戸ほどの住宅で液状化被害がありました。従来の被災認定の基準では液状化被害を受けた家屋が認定されないので、浦安市は国にアピールし新基準を獲得しました。被災の程度ごとに多くの生活支援金がもらえるようになりました。行政によるマネジメントの成果です。しかし負の影響もありました。浦安は危ないという価値観を広め、民有地の資産価値が落ちたのです。経済的価値におけるマネジメントの失敗です。広義のプロパティ・マネジメントが欠けていたのです。この状況を解決するために「浦安環境未来都市コンソーシアム」を結成しました。これは落ちたブランド回復と、安心・安全・持続可能・未来型のまちづくりを提唱し、官産学共同で都市間競争に負けない地域づくりを行おうというものです。

 では、地域の資産価値を維持向上させるものはなんでしょうか。土地建物に対する需要、つまり利用者の存在です。復興まちづくりでは官の特需だけに頼らず、市場を通じて利用を促進・誘導することが大切です。建設市場には大きく分けて、生産、所有、利用、マネジメントという4つのプレイヤーがいます。そのうち建築産業が大きく関わるのは生産の立場です。これまで請負いの立場にありましたが、今後は生産者の強みを活かしながら利用市場を誘導し取り込む必要があるのではないかと考えます。

 しかし利用市場を阻害する要因があります。たとえば一建築物一敷地の原則。これにより複合的な空間利用を立体・水平的に拡大したくてもできないというケースが生まれます。そして権利の硬直化。建物が所有権、借地権、借家権といったものに区分されているため、実効性のある利用権設定ができません。共同体による土地の共有と利用を認める入会権という権利があります。現在は排除される傾向にありますが、いまこそ見直すべきではないでしょうか。建築産業も発注者の土地のみにとどまらず広域を視野に、時間的な長さや利用権の広さなど、権利の中身まで踏み込み、たとえば入会権のようなものをアレンジする視点を持つべきではないでしょうか。

 土地の利用権を整理し、建物の敷地の外側を活用しながら不動産価値を高めた事例を紹介します。こちらはロンドンの事例です。民有地を遊歩道が通っています(図3)。遊歩道の敷地は公的な買収によるものではなく、ある種の入会権のようなものを活用しています。日本でも、優良賃貸住宅の建設とともに隣接の使っていない民有地を市民農園として、エリアの価値を高めた事例があります(図4)。また、イギリスのレッチワース(図5)ではディベロッパーの継続的管理が行われています。規範を守る主体による緑豊かな住環境の保全により、高い経済的価値を認められている住宅地です。小規模でも、たとえば路地状敷地の効率の悪い敷地に小公園をつくることで価値を高める方法があります(図6)。こうしたアイデアを建築業界主導で進めることも十分可能と考えられます。復興事業にも活用できる方法ではないでしょうか。

 建築業界は地域市場をにらみ、生産者の立ち位置だけにこだわらない多面性を備えることが結果的に自分たちのためになるのではないでしょうか。建築への深い洞察をベースに、ブルドーザーとダンプカーを操り、緊急時にはセーフティネットに、平常時には公共の新たなコアメンバーとして社会貢献する、というのがプロパティ・マネジメントから見た建築業のあり方ではないかと思います。

 

●復興に向けた課題と解決策

 

赤沼――まずは復興予算とその対象となる都市の面積から、今回の震災がいかに大変なものかお話します。政府系投資額は、全国のピークが平成10年、東北のピークが平成11年です。平成21年にはピーク時に比べ、全国が51.1%、東北が43.9%まで落ち込んでいます(図7)。震災復旧復興関連予算は10年総額23兆円、必要に応じて上乗せすると発表されています(図8)。ピークが平成26年の6.9兆円で、平成21年の東北に対する政府系投資額の約4倍、同年の全国に対する政府系投資額の約40%が東北に投下されるわけです。東北における被災(津波浸水)市町村の割合は15.3%。平成21年の4倍の工事を東北の約15%の面積で行うということです。

 次に復興計画です。各自治体の復興計画策定は平成2312月末に完了ということになってはいますが「土地利用計画」「イメージ図」レベルで本格復興に向けての作業量は膨大です。被災土地の扱いが未解決なこと、南の平野部と北のリアス式沿岸部で復興計画に大きな違いがあること、産業の復興が遅れ人口流出が始まっていること、といった問題も復興計画の具体化を妨げています。一方で地元建設業界では、10年で建設投資が半分以下になり、各社は体制を縮小しています。そこに震災が起き、マンパワーが不足しています。瓦礫処理や復旧工事で手一杯な状況です。地元向け公共工事で入札の不調・不落が続いています。早期の復旧・復興より長期の経営安定を、というのが地元の本音です。

 復興計画の主体は、現行法規では基礎自治体です。首長の判断力や組織力により大きな差が出ます。各職員のほとんどは未曾有の災害対応に現法規を当てはめるのが精一杯で、復興を射程に動くのは困難な状況です。復興計画には防災・減災・インフラ整備に重点がおかれ、アーバンデザイナーやランドスケープデザイナーが入っていけていません。復興まちづくりの全体像が見えていないことが問題です。

 宮城県の震災復興会議の委員である岡田新一さんは「グランドデザインアーキテクト(以下、GDA)を各自治体に置くべき」という提言(図9)を昨年7月に発表しました。ここで言うアーキテクトとは、幅広い要素を統合し、パブリックに対する深いコンセプトを持ち、それらをシステムとして結び付けられる能力を持つ人を意味します。自治体首長と同格のGDAを置き、専門家集団を束ねる、というイメージです。この案は復興会議の小宮山委員長などが押していたのですが、最終的には盛り込まれませんでした。

 現状の状況では、まちづくりがバラバラになるのではないかと思います。そこで私の復興支援案を紹介します。産官学から選ばれた人たちがGDAの代わりになり、専門家チームを組織する、というものです。復興事業には建設産業を総動員する必要があります。膨大な工事量をこなすために、短期間で事業者を決定できるように発注方法を工夫する必要があります。そこでマスタープランをつくり、それを元に被災市町村をいくつかのエリアに分割し、事業者を決定するのです。事業者決定は、コンサルタント、設計事務所、建設会社による土木・建築を横断する異業種JVによるデザインビルド方式のコンペによるものとします。実施にはスピードを重視し、復興を発信し続け被災地に希望と勇気を与えること。これが人口流出を最小限に防ぎ、かつ災害を忘れさせないことにもつながります。建設産業は裾野が広く、波及効果が大きい産業です。やり方によっては、景気回復に大きく貢献できるはずです。

 

図版キャプション(それぞれ撮影or図版提供or出典を明記する)

図1)住宅メーカーの仮設住宅(屋根・基礎以外一般住宅仕様)。宮古近郊。職人は岩泉泊、監督は盛岡泊で遠距離を通う。(撮影:松村秀一)

 

図2)地元産材と地域の技術を活用してつくられた住田町の仮設住宅。国の予算によらず、町長の独断から仮設住宅の建設に踏み切った。(撮影:松村秀一)

 

図3)ロンドンにある、遊歩道のために地表部分を公開した建築物。(撮影:中城康彦)

 

図4)農住組合事業と市民農園の一体化。(撮影:中城康彦)

 

図5)イギリス、レッチワースの住宅地。一貫したマネジメントにより変わらない外観。(撮影:中城康彦)

 

図6)ある住宅地の共用地および協定用地。(撮影:中城康彦)

 

図7)政府系投資の全国と東北の比較。(出典:●●●●)

 

図8)震災復旧復興関連予算。(出典:●●●●)

 

図9)グランドデザインアーキテクトの定義。建築家・岡田新一氏の提言(平成23713日)より。

 

////ディスカッション4ページ、17×450525行または25×300350行)

 

●地元建設業のポテンシャル

 

安藤――ここから和田会長と布野副会長にも参加いただき、ディスカッションに移ります。建設産業が復興事業に向けて果たす建築的・都市的役割、そして来たる新たな災害への対策について議論を深めて参りたいと思います。まずは震災後、建築業に何ができ、何をすべきだったか、ということを和田会長からコメントいただきます。

和田――明治以降、日本の地域は全体に西洋文明を当てはめていくような発展の仕方をしてきました。国土の70%以上が森、100本以上の川が流れている地域にまったく違う場所で育った文明を持ってきていました。いま、建設業そのものが社会からあまり信用されていない中で、強いイニチアシブを発揮するのは難しいのではないでしょうか。まずは自然の営みを活かし地域ごとにうまく循環していたシステムを壊してきたことを、ひとたび振り返る必要があるかと思います。

 米田雅子慶応義塾大学特任教授による『大震災からの復旧 ~知られざる地域建設業の闘い~』という書籍があります。実際に被害を受けた地元建設業の方や、他地域からタンクローリーを運転して来られた方など、思いの強い建設従事者たちに焦点を当てて復旧の取り組みを紹介している本です。地元建設業の方はこの林道がどこにつながっている、あるいはこの崖は崩れやすい、といったことを熟知しています。瓦礫を処理し、車が通れるように整備する中で、こうした知恵が生かされていたのです。しかし仮に数年後に地震が起きていたら、地場の建築産業の体力は今よりさらに失われているため、今回のような対応はできなかっただろうと指摘されています。日本の風土を大事にする上でも、地場の建築産業の取り組みは、見捨てるわけにはいかないと思います。

赤沼――「くしの歯作戦」を支えたのは地元建設業の方たちの目覚しい努力でした。おかげで物資輸送も早期に復旧しました。

布野――消防団と同じように災害時には地元の建築従事者が何をすべきか契約しておく必要があり、さらに地域メンテナンスの主体は地域にいてもらわないと困る、ということですね。

 

●グランドデザインアーキテクトの是非を問う。

 

竹内――これまでのお話から「担い手」というキーワードが浮かびます。建築産業の誰がどういう立場で復旧・復興に関わっていくのか、という論点です。

布野――グランドデザインアーキテクト(以下GDAについて、阪神・淡路大震災後、かつて私が提起したタウンアーキテクトに近い役割かもしれませんが、タウンアーキテクトの役割は、あくまで、自治体と地域住民のまちづくりを媒介することです。欧米で先行する制度ですが、その立場はさまざまのようですです。副市長格で日本における都市計画局長的な立場の人をつけるタウンアーキテクトにする例もあります。また、この役割の担い手は赤沼先生がおっしゃるとおり、一人でなくてもよいと思います。ただ現在の制度ではアーバンデザイナータウンアーキテクト的な人材が復興計画の提案に関与できない仕組みとなっているのが問題なのです

赤沼――仮にGDAの制度を実行するとした場合、現在の法律では誰をどう選ぶかが難しいですね。競争原理を入れずに自治体が任命できるのは都市再生機構(以下UR)だけです。しかしURは近年、新しい計画を担うことが少なく、大きな計画をできる人材が減ってきています。そこでURを軸に大学の先生などが加わっていく、という方法もありえるのではないでしょうか。

布野――システムはそれでよいのですが、危惧しているのは地形や配置の問題です。復興計画にランドスケープを読むセンスが欠けてしまう可能性があるような気がします。

中城――浦安では、あるエリアについて産官学が知恵を結集する、ということに市役所もゴーサインを出しています。これは小ぶりな地域でのGDA制度のようなものといえるかもしれません。

赤沼――実際の計画はエリアごとに行えばいいのですが、隣の自治体と全然違う、ということも起こりうるので統一ルールは必要です。

中城――復興のデザインを描く、という意味では統一ルールは必要です。しかしエリア同士の食い合いにならないよう、エリアごとに特徴や価値を出していくことも大事なのではないでしょうか。

 

●仮設住宅を地場産業に

いかに結びつけるか。

 

布野――松村先生の応急仮設住宅に関する話についてですが、状況分析については、その通りだと思いました。しかし違和感があるのは、仮設住宅の建設と地場産業との関わり方についての見解です。陸前高田市で気仙大工の方々に会ったときに言われたのは、大工集団が湾ごとに違うので、仮設住宅建設の仕事がまったく落ちて降りてこないということでした。阪神・淡路大震災などの経験から、今回は抽選の方式や集会所、コモンのつくり方などに工夫がなされている事例も若干見られますが、それでもほとんどの仮設住宅は地域特性に十分配慮できず、断熱対応などが後対応になりました。仮設住宅の段階から地域産業を捉える視点はあっていいと思います。たとえば仮設住宅の再利用を考える、木造で仮設住宅をつくり公営に切り替える、といった方法も考えられます。そこでの担い手は、地場の大工・工務店ではないでしょうか。

松村――少し補足します。仮設住宅は、復興住宅と避難所の間をつなぐものです。仮設住宅にはその段階に必要なものがあり、それを吟味する必要があると考えます。また、非常に集中的な生産であるため、地域の産業振興に結びつきにくい性質があることは否めません。

布野――阪神・淡路大震災を機に仮設市街地研究会というものができました。そこで生まれた提案とは仮設住宅を元の住宅とは別の場所に供給するのではなく、瓦礫を処理し、元の住宅があったエリアにそのまま仮設市街地をつくるというものです。そのような柔軟なあり方があってもいい。また、建築産業は自治体からの発注を受け、即座に仮設住宅の建設へと向かいましたが、制度的対応の時間を待てば「みなし仮設」のようなストック活用のへの道も開け、建設のみの対応に翻弄されることもなかった可能性があります。現在の災害救助法の枠を完ぺきに見直し、今後に向けて準備する必要があるのではないでしょうか。

松村――仮設住宅を地域の新産業や復興につなげる導き方はありえますね。今後整理していきたい課題です。ところでこれから気を付けたいのは“引き波”です。典型的なのが住宅産業。宮古にはかつて大手住宅メーカーの拠点がかつて5つあったのですが、震災前には1つだけになっていたそうです。ところがここ半年ですべてのメーカーが戻ってきました。復興の需要に対応する際に大手が活躍するのは問題ないと思います。しかし5年後には、またいなくなるでしょう。地域で“業”を営む者だけが残るんです。地域の工務店は後継者不足です。なくなるのも市場原理だから仕方ない、という考え方もできますが、各大学の建築学科が卒業生を送り出しているのに、その先には仕事が何もない、というわけにはいかないと思います。

赤沼――農業と建設産業は今までセットで捉えられてきました。国の予算が常に入り続けて地域を守る、大きな仕組みとなっています。別の方向へとシフトする時代の流れはわかるのですが、そこが主流となることを思うと絶望的な気持ちになることもあります。

布野――水産業など別の産業にはシフトできないのでしょうか。たとえば法的な枠があるので現実的には難しいのですが、被災地の湾をひとつ買いたいとシンガポールから打診があった、という話を聞いたことがあります。別の産業と協力しながら建築産業のノウハウを活かし、地域振興に取り組んでいくこともできるのではないでしょうか。

 

●次世代に向けて何ができるか。

 

安藤――今の議論にあったように、課題は復興特需が終わった後です。建設・生産から関連産業へと、どう広げていけばいいのでしょうか。

中城――地元の建設業には元々後継者の問題があり、工務店も設計事務所も社長が60歳を超えていることが多くあります。こうした組織が復興特需後も事業を継続している可能性は高くないため、次世代には異なるフィールドが必要です。復興し、立ち上がろうという時には60歳前後の方に仕事を与えられるか、ということではなく、35歳くらいの人ができることにどう投資を振り向けられるかが重要ではないでしょうか。

和田――仕事がない建設従事者の受け皿は、かつては農業でした。日本には森も耕作放棄地もある。たとえば木を切ったり機械をオペレートしたりすることに違和感のない建設業が農業・林業も担う、ということもあるのではないでしょうか。元々の産業の担い手に対して継続的に仕事を生み出しながら、若い方々に機会を与えることを両立させるような方程式を解いていかないとなりません。

中城――地元の建築産業はこのままでは、復興特需に対応することで手一杯になる可能性も高いです。お金が出ているうちに、次世代型のビジネスモデルを考えられる人材を育成する必要があります。

松村――被災地には、いま地域以外の人がたくさん入り込んでいます。さまざまな仮設住宅地の運営にも、大学など多彩なチームが入っています。たとえばアーティストとシナリオライター、建築家などの異業種混合チームで仮設住宅地の生活を支援する「わわプロジェクト」というものがあります。こうした地域外の人々と出会うことは、発想の多様な発展につながり被災地の産業機会にとってもよい影響があると思うんです。異業種のメンバーが寄り集まって何かを成し遂げる経験は、地元の建築関係の方にとってもよい経験になるかもしれません。建築分野に閉じこもっていては、ニーズに総合的に答えられません。従来の建築の役割とは異なることをし始めた人を勢い付ける方法はないものでしょうか。東北で出てきた芽が経済的な枠組みに組み込まれ、産業として成立する職能へとシフトして日本の新しい仕事のモデルになるといいんですが。

布野――いま、復興住宅に対する組織的な取り組みが出てきています。岩手県のある職員による先導で、県ごとに「地域型復興住宅連絡会議」(注1)という組織が設立されました。イメージとしてはかつてのHOPE計画に近いものです。「地域型復興住宅 設計と生産システムガイドライン」という手引書もできています。これについては、学会からもモデルを出して欲しいと言われています。

赤沼――市町村によっては、地元の建築家と地場産材による取り組みも数多くはありませんが登場していますよね。

布野――昨年5月に当選した北上市の市長が以前は建築家で、NPOの活動を10年されてから市長になった方です。まさに地域活動から市長に、という方が現れました。本誌2月号でも紹介(注2)されていますが、緊急雇用対策事業費で大船渡市の仮設住宅地の生活支援の取り組みを主導している方です。大船渡でのサポートシステムがうまくいったので、大槌町でも進めるそうです。仮設住宅の支援システムは、岩手県が進んでいるという印象があります。

 

●復旧・復興の時間をどう経験するか

 

青井――復興特需を含むこの先10年、20年をどう経験するかという問題を、地元の建設業界はどう捉えているのでしょうか。

赤沼――予算がつけば仕事は間違いなく来ます。しかし防潮堤や港湾整備は進んでも、そこにまちづくりがうまく絡まないと大変なことになります。計画をまとめないとうまく復興ができず、しかし急がないと人口が減っていきます。大手建設会社には復興に向けて全体を統合する力はあるので、そこに地元の皆さんが入っていただけるといいと思うのですが。

安藤――マスタープランがなくとも、あるいは公的資金が後付けでも、地元の建築産業を巻き込み、たとえば住宅地の自力造成などを民間ベースで動かすようなことはできないのでしょうか。

赤沼――集落によっては自分たちで山を開き、インターネットで状況を発信している事例があります。全国から届いた砂利を、自分たちで敷いていくというような作業をされています。

青井――復興はチャンスにもなりえますが、負の経験を残す可能性もあります。不安要素と、それを乗り切る方法をそれぞれの立場からお話ください。

赤沼――正確な人口予想。それが復興に向けた一番の課題です。そして人口を引き止める職場の整備が必要です。

松村――いま、自発的に被災地に通い、仮設住宅地運営の支援などに奔走している若い方がたくさん、それこそ数千人単位でいます。やりがいを感じ、地元からもありがたがられていますが、お金にはなっていません。そうした活動が、どうにか市場に乗るよう仕組みをつくる必要があるのではないでしょうか。これほど自発的な動きが組織化され、どんどん動く状態というのは見たことがありません。このポテンシャルを何とか産業に結びつけられないものでしょうか。

中城――もともと震災直後には自発的で多様な対応をしていた地域の建設業にも、あまるような仕事が来てしまい受け身な“請負い”になってしまいます。すると瓦礫の処理のようなごくシンプルな仕事に戻ってしまい、せっかくの芽生えていたエネルギーの元が途絶えてしまうことが心配です。

布野――復興を担うNPONGOにはお金が結構集まります。基金を積めるような仕組みを用意し、学会などがサポートする、ということはできるかもしれません。また、国土エネルギー計画や産業政策は再編される方向で動いて欲しいという希望はありますが、そうは進まない予感もしています。震災特需をなかなかうまく使えない仕組みが前提としてすでにあるためです。そのような状況で言い続けているのが、とにかく若者は被災地に行け、そこで体験しろ、ということです。いいことも、悪いことも経験して考えるのはプラスにもマイナスにとにかく出発点になります。大人は彼らの経験を増やす仕掛けをつくる義務があります。

和田――先日、土木と建築の業界団体が融合し、日本建設業団体連合会(日建連)となりました。同じように建築学会と土木学会も一体化してはどうか、と言われたこともあり、私も土木学会に顔を出す機会が増えています。交流は盛んになりつつありますが、オフィシャルな場では率直な議論を交わすシビアな交流になかなかならないのです。そこが課題だと感じています。

布野――自治体レベルでは、復興計画に対し建築土木で横断的に議論できているところもあります。たとえば名古屋市が陸前高田市に職員を長期的に派遣しているように、自治体同士の連携も行われています。また日本の国土・社会・産業基盤に関わる24学会の合同と日本学術会議での、分野をまたがる議論もはじまっています。実務レベルでの連携を通して経験を蓄積していくことが将来につながるのではないでしょうか。

竹内――震災とこれまでの復旧・復興の経験から、今後の可能性の芽が出てきつつあります。建築産業、そして学会はその芽を見出し、積極的に捉え、どう活かすか、その方法を見つけることが必要と考えます。本日はありがとうございました。

201224日、建築会館にて)

  

注1)被災者向けに、地場産材を活用した在来工法による、長期優良住宅の性能を持つ住宅の建設を想定したモデルプランを民間で検討しよう、という組織。201111月設立。

 

注2)本誌20122月号 東日本大震災 連続ルポ1 動き出す被災地「自治体間連携による仮設住宅支援員配置事業―大船渡市と北上市による新しい連携のかたち」菊池広人