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2025年12月27日土曜日

日本建築学会大会の研究協議会「日本における近世・近代の建築観」アジア都市建築研究の課題:アジア建築研究の視点から見た日本における西洋建築受容,中部大学2003年9月6日(土)

 日本建築学会大会の研究協議会「日本における近世・近代の建築観」アジア都市建築研究の課題:アジア建築研究の視点から見た日本における西洋建築受容,中部大学200396(土)


2003年度日本建築学会大会の研究協議会「日本における近世・近代の建築観」

アジア都市建築研究の課題:アジア建築研究の視点から見た日本における西洋建築受容

布野修司(京都大学)

 

 はじめに

 「日本における近世・近代の建築観」という表題(テーマ)については、筆者はほとんど発言の根拠となる作業、実績をもたない。日本における近代住宅の形成、日本における住宅の近世と近代の連続・非連続の問題、あるいは和風住宅の形成、成立の問題ということであれば、テーマは絞られるように思うけれど、筆者はそれを論ずる材料を提供する任には相応しくない。中央と地方(周縁)で近代建築、近代住宅の受容とその評価が異なるという点は問題にすべきと思われるが、「建築観」と言われると、正直、問題とされている核心をよく理解できない。

ただ、「日本の建築史を顧みると、折々に諸外国からの情報・技術を受けながら、それを自国のものとして洗練・発展させてきた。古くは隋・唐、中世の宋からの受容、近世初頭の南蛮文化の知見など、さまざまな画期があるが、とりわけ明治以前と以後における社会と価値観の断絶による受容の変動は日本建築史学の最大の特徴の1つである。」という点については多少考えてきたことがある。また、この間、京都大学において「世界建築史Ⅱ(非西欧)」を講ずることを命ぜられており、その一端を、不遜にも、また無謀にも『アジア都市建築史』[1]としてまとめるに至った。その叙述において、当然、大きな関心となるのは、アジアと日本の関係である。また、建築、都市についてのそれなりの見方が要請される。『アジア都市建築史』というテキストのフレームをあつかましくも紹介させて頂いて、パネリストとしてご指名の任に代えさせて頂ければと思う。以下のメモは、「アジア建築研究の視点から見た日本における西洋建築受容の問題」というヴェクトルより、「建築史におけるアジアと日本の関係」、「アジア都市建築研究の課題」、「アジアにおける西洋建築受容の問題」へのヴェクトルをもっていることを予めお断りしておきたい。

 

 Ⅰ 「アジア都市建築史」のフレーム

アジアの都市と建築の歴史を論述するためにはいくつかの前提が必要である。まずは、アジアという地理的空間をどう設定するかという問題がある。大まかな区分として、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカという時のアジア、ボスフォラス海峡以東のユーラシア大陸、そして、東南アジアの海域世界、ウォーレシアを含めた地域がここでの対象地域である。しかし、アジアという空間は必ずしも固定的なものではない。その語源におけるヨーロッパ/アジアの2分法に忠実に従えば、非ヨーロッパ的なるものがアジアである。例えばイスラーム建築の展開を追いかけてイベリア半島もカヴァーし、また、逆に、西欧列強の非ヨーロッパ地域への進出を追いかけてアフリカ、ラテン・アメリカにも目を配ることが必要である。アジアという地域をその概念の起源に遡って伸縮自在に考える必要があると思う。目指すのは、世界建築史、世界都市史を構想する世界史的視野の獲得である。

2に、歴史というからには時代区分が必要である。中国、インドのようにある程度確立された時代区分が前提される場合はそれを用いるとしても、各国毎の歴史区分にとらわれるのは煩瑣であるし、建築や都市のあり方は必ずしも歴史学にいう時代区分によって大きく変わるわけではない。いささか大胆であるが、時代区分よりも、強い個性を持った都市文化、建築文化の成立とその影響という視点による区分を考える。

まず、ヴァナキュラーな建築世界を想定する。また、エジプト・メソポタミア、インダス、黄河という都市文明発祥の3つの核心域からの展開を考える。さらに、イスラーム教建築、ヒンドゥー教建築、仏教建築といった、前近代を大きく支配した宗教建築の系譜を考える。そして、西欧列強による西欧建築の強烈なインパクトを考える。東南アジアを例にすると、土着の建築文化の上に、インド化、あるいは中国化、そしてイスラーム化、さらに植民地化の波が順に及ぶ、およその歴史区分とすることができるだろう。また、それぞれの都市はそれらが重層する空間としてイメージできる。

3に前提になるのは、日本における東洋建築史の蓄積と枠組みである。知られるように、村田治郎『東洋建築史』[2]1972)は、Ⅰインド建築史、Ⅱ中国建築史という2本立ての構成にとどまる。1イーラーン建築史(先史時代よりイスラーム教建築以前まで)、2インド建築史(先史時代より中世、すなわちイスラーム教建築以前まで)、3中国建築史(先史時代より近世まで)、4イスラーム教建築史(第7世紀後半より近世まで)、5西洋系建築の伝来と普及の歴史というのがその構想であったが、1,4,5については書かれなかった。伊東忠太は、回教建築についても触れ、いくつかの系統図を書いている。しかし、具体的に系統を明らかにする作業は残されたように思われる。まず問題となるのは日本とアジアの関係である。「西洋建築」に対して「日本建築」のアイデンティティを如何に求めるか、あるいは起源をどこに求めるか、というのが東洋建築史成立の発端である。特に仏教建築、都城、民家の起源についての関心がその展開を生んだ。仏塔や大仏様などへの関心に加えて、日本植民地における都市計画や建築もテーマである。

目指すべきは、1つの体系ではなく、多様な建築文化の系譜である。アジアの都市と建築の多様性を重層的に浮かび上がらせることである。

 

Ⅱ 近代以前のアジアと日本建築・都城

1 ヴァナキュラー建築の世界・・・民家研究のグローバルな展開

日本とアジアの関係について、まずテーマになるのは、日本建築、日本民家の起源に関わる問題である。日本の住居は、果たして独自のものなのか、あるいは、どこかに起源があって、その影響をうけたものなのか、日本の住居の原型というものはあるのか、といった関心である。

日本の伝統的住居(民家)は地床式の北方系と高床式の南方系に分かれる、北方系は、竪穴式住居につながり庶民住宅の系譜となり、南方系は高倉、神社、そして寝殿造りなど貴族住宅の伝統を形作った、また、主として東北日本が北方系(もしくは西方系)、西南日本が南方系の影響を受けた、というように教えられたけれど、もう少し具体的な検討が必要ではないか。例えば、北方にも高倉の伝統がある。また、柱梁構造が日本の主流と思われるけれど、校倉形式の伝統もある。近年、縄文時代に遡って、大型住居の遺構の発掘が相次いでいる。日本の住居史研究、民家研究にも大きな視野が必要とされるのではないか。

われわれは既に、村田治郎の『東洋建築系統史論』[3]をもっている。東北アジアからの視点とはいえ、ユーラシアの相当部分をカヴァーする構えがある。そして、例えば、R.ウォータソンの『:生きている住まいー東南アジア建築人類学The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia[4]がある。「オーストロネシア世界」ということでは、東はイースター島、西はマダガスカルまでの広い範囲が視野に収められる必要がある。そんなことを言えば、ポウル・オリバー編の『世界ヴァナキュラー建築百科事典(EVAW)』全3[5]があるが、日本の視点から再構成する余地は大いにあるだろう。

海外の住居集落については、「建築史」分野よりも「建築計画」分野の展開が多いように見受けられるが、高床、井籠組(校倉)、移動住居、コートハウス、町家(店屋、街屋)などをめぐって歴史的、理論的パースペクティブが求められている。

 

2 仏教建築の世界史

社寺仏閣についての研究は、日本建築の主流をなしてきたように思える。しかし、そもそも仏教の発祥の地であるインド、そして、その伝播の経路のそれぞれの地域の仏教建築についての情報は少ない。単に筆者が不勉強であるに過ぎないのかもしれないけれど、仏教学の膨大な蓄積を「建築史」分野からもう少し体系的に整理する試みがあってもいいと思う。

例えば、仏塔の形態変容、地域類型などをめぐっては、既にかなりの情報が集まりつつあるのではないか。各国の文化財保護行政が次第に整えられる中で、図面資料などドキュメントも増えつつある。日本はそれを集約し、体系化する役割をもつべきではないか。

ガンダーラについては京大西川研グループ、スリ・ランカ、アンコール、ヴェトナムなどについては早稲田中川研グループ、あるいは日大片桐研グループ、ネパールについては日本工業大学などの調査研究が知られるが、例えば、チベットやブータンなど「建築史」を確立する大きな作業が残されているように思える。

 

3 中国・朝鮮半島・日本

仏教建築の伝播に絡んで大きな問題となるのは、日本と中国・朝鮮半島との関連である。「大仏(天竺)様」「禅宗(唐)様」といった日本における様式区分は教わるけれど、そのオリジンについては今でも「日本建築史」の授業で講じられることは少ないのではないか。飯田須賀斯著『中国建築の日本建築に及ぼせる影響―特に細部に就いて』[6]以降、さらなる蓄積と議論があるであろうか。

「大仏様」をめぐっては、田中淡博士の作業を中心として1998年に協議会[7]がもたれたが、その後の展開は如何であろうか。朝鮮半島の柱心包式、多包式との関連についても片桐正夫博士の論文[8]が知られるが、日中韓の学会で密度高い研究を展開する時代になっていると思う。

筆者が『建築雑誌』の編集委員長として、経験したのが「法隆寺移築説」をめぐる議論である。建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺、日本の法隆寺が、北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の)をモジュールとして設計されており、前者が唐尺(1尺=約29.6)、後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが、あえて掲載に踏み切ったのは、①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか、②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか、③南朝尺が本当に復原可能で、かりに可能ならば、その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか、などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。

建築技術の受容をめぐって、議論の種はまだまだ残されているというのが実感である。

 

4 アジアの都城とコスモロジー

アジアの都城についても、単に中国都城と日本の都城を問題にするのではなく、インドを含めたアジア全体を視野に収めると、いくつかの興味深いテーマが浮かんでくるのではないか。見取り図は以下のようである。

都城が王権の所産とすると、その形成は帝国の成立地に限られる。しかしアジアの帝国成立地帯がすべて都城を建設したとはいえない。アジアは、<コスモロジー-王権-都城>連関にもとづく都城思想をもつA地帯と、それをもたないB地帯とに二分される。A地帯に属するのは南アジア・東南アジア・東アジアであり、B地帯はその外に広がる西アジア・北方アジアである。両者の境界は、西方では湿潤と乾燥、北方では温暖と寒冷という生態条件の相違とほぼ対応する。

A地帯は、都城思想を自ら生みだした核心域とそれを受容した周辺域という<中心―周辺>構造を示す。その核心域は、2つ存在する。古代インド(A1)と古代中国(A2)である。両核心域のまわりには、それらから都城思想を受容した周辺域が存在する。A1の古代インド都城思想の受容地帯が、ヴェトナムをのぞく東南アジアである。A2の古代中国都城思想を受容したのが、朝鮮半島・日本・ヴェトナムである。

それに対して、西アジアのイスラーム地域にはコスモロジーに基づく都城思想はない。イスラームにもコスモロジーは存在するが、個々の都市がコスモロジーを体現するという思想はない。あるのは、諸都市を群として相互に関連づける思想である。つまり都市の最重要施設であるモスクが、すべてメッカ(マッカ)に向けて立つということである。その結果、イスラーム世界のすべてのモスクさらには都市がマッカのカアバ神殿を磁極として方位づけられる。この壮大なモスクと都市の星座的編成が、イスラームのコスモロジーなのである。これは、個々の都城が<王権を介したコスモロジーの縮図>とするA地帯とは、異なった原理である。歴史をつうじてイスラーム世界が帝国と王都を建設してきた点ではA地帯と同じであっても、同世界が都城思想をもたないB地帯とする理由がある。

 

Ⅲ 近世/近代・・・・近代世界システムの形成と都市・建築

冒頭に述べたように、アジア全体を共通に輪切りにする時代区分は考えにくい。問題とされるのは「西欧近代」の受容と言うことであろう。おそらく、I.ウォーラーステインを先駆けとする「世界システム論」による区分がわかりやすい。

15世紀半ばから16世紀半ばにかけて「ヨーロッパ世界経済」が出現する。そして、さらに1640年ぐらいまでに新たなヨーロッパ分業体制が確立する。このいわゆる「長期の16世紀」(14501640)を第Ⅰ期として書かれたのが、『近代世界システム(16世紀における)農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』である[9]。続いて、重商主義の時代(16401815)を第Ⅱ期、産業化の時代(18151917)を第Ⅲ期、そしてロシア革命(1917)以降現代までを第Ⅳ期として、「近代世界システム」の展開を捉えようというのが当初のI.ウォーラーステインの構想であった。ところが、その後『近代世界システムⅡ』[10]『近代世界システムⅢ』[11]という形で書き継がれた著作は、当初の構想とは時代区分を異にし、1600175017301840sが画期とされている。各期の閾については多くの議論があるが、およそⅠ~Ⅳの時代区分を前提にできるであろう。都市史という観点からは、西欧列強による海外進出と植民都市建設、そして産業化段階、すなわち蒸気船、蒸気機関車による交通手段とその体系の転換が決定的である。自動車の出現が次に大展開となる。

「近代」あるいは「資本主義」、そして「世界システム」がいつ成立したのか、その起源はどこなのかをめぐっては長い議論の歴史がある。「長期の16世紀」以前、13世紀(1250-1350)に、その先駆けとなる世界システムが成立していたというのがアブー=ルゴドである[12]。そしてそれを受けて、A.G.フランクなどは、「近代世界システム」の成立をめぐって、さらに歴史を遡行する構えをとる[13]I.ウォーラーステインの西欧中心史観に一撃を加えたアブー=ルゴドは、「13世紀世界システム」をひとつのヘゲモニー(覇権)によらない多核システムとして図1のように描いた。そのネットワークの残滓の上に西欧列強がどう建築や都市を植えつけていったのかが焦点となる。

 

1 西欧との接触

 日本と近代世界システムとの関係を伺う上では、まず、平戸、出島などを通じたオランダとの接触がテーマとなるであろう。

 日本が西欧世界と初めて接触したのは、中国のジャンク船に乗船した3人のポルトガル人が種子島に漂着した1543923日のことである。種子島の領主時堯は、この招かれざる来訪者を手厚くもてなし、火縄銃と火薬の製造法を学んだ。この火器の伝来が日本の天下統一に大きな作用を及ぼしたことはよく知られるところである。同じ年、コペルニクスの地動説が発表されるのであるが、日本社会のコペルニクス転回もまさに1543年に始まる。

翌年にはスペイン人ペロ・ディエスが訪れ、1546年にはジョルジェ・アルヴァレスの商船が来日する。そして、マラッカで、このアルヴァレスとアンジロー(ヤジロー)から日本についての情報を得たフランシスコ・ザヴィエルFrancisco de Xavier(1502-52)が、アンジロー、コスメ・デ・トレス、ジョアン・フェルナンデスを伴って鹿児島に着いたのが1549815日である。このときにザヴィエルが乗っていた船は中国人倭寇のジャンク船である。ザヴィエルは半年鹿児島に滞在した後、京都に赴く(1550)ものの国王謁見を果たさず、平戸、山口などに23ケ月滞在した後、豊後を出帆(1551)、中国へ向かうがマカオ付近に上陸直前、三州(上川)島で病没する。このいくつかの偶然を経緯とする世界史に残る出来事以降、イエズス会による日本布教が始まる。北九州の有馬、大村、大友など多くの大名が洗礼を受けてキリシタンとなった。

ポルトガルは、種子島漂着以降、頻繁に九州各地の港に出入りする。1550年にドゥアルテ・ダ・ガマDuarte da Gamaが平戸を訪れて以来、定期的に日本に交易船を送るカピタン・モーロ制が開始される。同時に日本人の海外渡航も本格化しようとした。ザヴィエルとともに出発し、中国からインドに渡った日本人ベルナルドは、日本人として初めて1553年リスボンに着いている。1557年に居住権が認められると、マカオがポルトガルの交易、布教の拠点となった。ガスバル・ヴィレーラが将軍から布教許可を得たのは1560年(1571年離日)、ルイス・フロイス[14]来日が1563年、フランシスコ・カブラル、オルガンティーノ来日が1570年、さらにアレッサンドロ・ヴァリニャーノ来日が1579年である。彼らは当時の日本の状況について貴重な記録を残している。ヴァリニャーノは1582年に九州の3人のキリシタン大名の青年代表を組織してローマに送った(天正少年使節団。帰国は1590年)。彼らはリスボンに上陸、サン・ロケ教会に1ヶ月滞在した後、エル・エスコリアルでフェリペⅡ世に謁見している。

マラッカの司教区(1557年設置)から中国、日本司教区が独立したのは1575年である。初代司教ドン・ベルシオール・カルネイロ(1576-1580年)、後を引き継いだドン・リオナルド・デ・サー(1581-97)以降、中国、日本司教区の司教たちの継承順については、ジョアン・ロドリーゲスの『日本教会史』[15]が書いている。

ポルトガル船によって来日した中には他の外国人も含まれていた。ザヴィエルはそもそもスペイン人であり、ヴァリャニーノはイタリア人である。しかしもちろん、彼らの来日ははポルトガル王国を後ろ盾としたものであった。一方、スペインは、マニラに拠点を築き、中国日本への進出を企てつつあった。マニラからマカオへ向かうポルトガル船が流されて、乗船していたスペイン人修道士が平戸に到達したのは1584年のことである。翌年、グレゴリオⅩⅢ世の教令が発布され、日本への布教は東回りのポルトガルのイエズス会士に限られることになる。日本布教における混乱を避けるためにヴァリャニーノが教皇に要請した結果である。その結果、スペインはマニラに待機せざるを得なくなるが、1587年に秀吉のキリスト教禁止令が出て、日本布教の可能性を探ることになった。折しも、交易のためにマニラを訪れた原田喜右衛門がマニラのスペインについての情報をもたらしたことから、秀吉はマニラ総督に日本入貢の威嚇的勧告状を送る(1592)。日本とスペインとの正式な交渉が始まるのはこれを契機にしてのことである。マニラから3回送られた使節団の第3回目(1594)に宣教師に混じって日本を訪れ、『日本王国記』[16]を書いたのがアビラ・ヒロンである。

こうして、マカオとマニラを拠点として日本をねらうポルトガル、スペインに割って入ったのがオランダであり、そのきっかけとなったのが1600年のリーフデ号の漂着であった。

以上のような経緯が日本の都市や建築にどういうインパクトを与えたのかについては、必ずしも総括されていないのではないか。いわゆる「鎖国」体制においても、建築、都市に関する様々な情報は出島を通じてもたらされていた筈であるが、それを明らかにする作業も残されている。

 

2 オランダ植民都市ネットワーク

平戸のオランダ商館は、VOCの商館の原初的なあり方と見なせるかもしれない。平戸商館の復原にあたっては、バタヴィアの建築などが参照されている[17]。しかし、オランダの平戸における活動は、海禁政策に向かう日本型華夷秩序の中の活動であり、その命脈も短かった。また、出島は、オランダにとってまさに「監獄」のような空間であり、極めて特殊であった。

オランダ平戸商館 復元案

 

この時期、逆にアジア眼を向けるとすると、オランダ植民都市のネットワークが研究対象になる。台湾に建設されたゼーランジャー城は、マカオとマニラの間に打ち込まれた楔であり、日本との関係も深かった。また、バタヴィアには日本人も送られている。出島-ゼーランジャー城-バタヴィア-マラッカ-コロンボ・ゴール-ケープタウンというネットワークに興味がある。大きくは、植民都市の形成とその後の土着化、変容、転成に関する研究の一環を形成する。ひとつの視点は、西欧における都市計画理念、技術の導入とその受容である。植民都市研究は、第1に〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の2つを拮抗基軸とする都市の文化変容の研究である。植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配をその本質としている。西欧化、そして近代化を推し進めるメディアとして機能してきたのが植民都市である。また、オランダ植民都市については、都市型住居の展開もひとつのテーマとなる。オランダは極めて高密度の都市居住の形態を発達させてきた。そのオランダがどのような都市居住の形式をそれぞれの植民地において導入したのかがひとつの視点である。また、「低地」であるが故に、水利、治水技術のみならず、宅地の創出、計画管理の技術を発達させてきたオランダの都市技術の移植も大きな関心である。

さらに、現代的な課題として、旧植民都市空間の保全あるいは再開発の問題がある。西欧列強によってつくられた植民都市空間、植民都市の中核域をどうするのか、解体するのか、すでに自らの伝統として継承するのか、これは、植民都市と地域社会との関係が、在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する問題である。歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全の問題は、現下の急激な都市化、再開発の進行のなかで緊急を要する問題でもある。

 

3 コロニアル建築としての明治建築

 西欧から見れば、日本のいわゆる「明治建築」はコロニアル建築ということになるであろう。直接的に支配されるということがなかったにせよ、西欧の建築文化、建築技術を支配的なものとして受け容れ点については同じ力学が作用したと考えていいであろう。問題は、西欧建築との接触の期間、時期、浸透の深度、土着の建築文化の特性、技術水準、受容の主体などの差異である。

西欧の築城術、建築技術を各地にもたらしたのは各種技術者である。オランダの場合、軍事技術者、植民拠点建設のための土木建築技術者の養成のために、マウリッツ王子とシモン・ステヴィンによって設立されたのがライデン大学の技術学校(ネーデル)ダッチ・マテマティーク(1600年)である。フェリペⅡ世によって設立されたスペインのアカデミア・デ・マテマティカ(1582年)やマドリッドのコレギオ・インペリアルColegio Imperialや各地の軍事学校に触発されたとされる。

 ライデン大学に続いて1585年に創設されたフラネッカー大学でも、アドリアン・メティウスAdriaan Metiusによって航海術、測量術、要塞建築術が教授された(1598年)。スネリウスに学んだメティウスが教授であった。さらに、1614年にフロニンゲン大学、1636年にユトレヒト大学、1648年にハーダーワイク大学が設立されるが、船員と測量士については、実際的な養成機関として他に私学があった。有名なのがアムステルダムのカーディネールSybrandt Hansz Cardinael(160547) である。また、実際には、植民地において実践教育が行われた。当初、助手などをつとめ、徒弟制で学ぶのである。台湾でドイツ人兵士シュマルカルデンCaspar Schmalkalden がプロックホイCornelis Jansz Plockhoy(164754)の測量助手として雇われた(164850)事例がある。17世紀後半には現地生まれの測量士が育っていた。オランダ共和国16001700で勅許資格を与えられた測量士、軍事技術者は計1406人という統計がある。オランダの「黄金の世紀(17世紀)」が去ると彼らは主として北欧で働くことになった。

 英国植民地の場合の「植民都市景観の形成者たち」、すなわち、植民地で活躍した土地測量士、エンジニア、そして建築家、都市計画家については、Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”,E & FN Spon, London, 1997[18]が詳しく触れるところである。

 明治に入って、J.デ・レイケ、G.A.エッシャーなど、オランダ人土木技術者が来日し、日本の河川改修事業、治水事業に大きな貢献をなしたことはよく知られるところである。建築については、J.コンドルがいる。J.コンドルについては多くの論考があるが、アジアの広がりの中での興味は、彼にとっての先輩たちが格闘した「インド・サラセン様式」をどう昇華しようとしたかである。

 蘭領インド場合、オランダ人たちは、当初、建築材料も全て本国等から運び本国の様式をそのまま導入しようとした。1世紀以上も衣服も本国そのままのものを用いている。しかし、熱帯の気候にその建築様式が合わないのは明らかであった。そこでオランダ人たちは、土着の民家のスタイルを導入し始めた。気積の大きな屋根を用いるのが暑さには有利であり、真似をし出すのである。また、構法も、例えば、ジャワの4本柱の骨組みをそのまま用いたりするのである。また、そうした折衷の試みが土着の建築様式に影響し始める。

 西欧建築の移入、土着化、土着建築の変容といったプロセスは、それぞれの地域でみることができる。

 

4 世界近代建築史再考

 近代建築の移植・受容という局面において、無視されているのが、アジア各地における展開である。東アジアについては、藤森研究室を中心とするグループが精力的なインヴェントリーづくりを展開してきたが、東南アジア、南アジアを考えると未だ不十分である。


図2 バンドン工科大学

 

 例えば、ベルラーエはインドネシアを訪れ、珠玉のようなスケッチ集を残しているし、また、スラバヤに小さな作品を設計している。また、T.カールステン、M.ポントというデルフト工科大学出身の建築家を始めとして、多くの若い建築家が活躍している。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクールの展開もインドネシアの方が早く、質も遜色ないように見える。近代都市計画、近代建築の実験場としての日本植民地の問題にも通底するテーマがあるように思う。 

図3 ジョグロの形式を導入したコロニアル・ハウス

 

T.カールステンは、都市計画法制やカンポン改善事業、さらには地方分権化などにも指導力を発揮したことで知られる。M.ポントは、バンドン工科大学やポサランの教会などすぐれた作品で知られるが、土着建築と新たな技術の統合をテーマとした建築家である。晩年は、民俗学、考古学に主関心を移し、ジャワの歴史の古層を探っている。T.カールステン、M.ポントのような建築家の仕事をそれぞれの地域で「発見」する作業が残されている。

彼らが考えようとしたことは、日本の建築家が近代建築の受容に際して考えようとした問題とそう位相の差はないのではないか、というのが、何の根拠もない直感である。



[1]  布野修司編、アジア都市建築研究会執筆、昭和堂、2003年。

[2]  建築学大系4、彰国社、1972年。

[3]  村田治郎、「東洋建築系統史論 13」、建築雑誌、19314月~6

[4]  布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会訳、学芸出版社,1997年。

[5]  P. Oliver (ed.) :”Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World, Cambridge University Press, 1997

[6]  相模書房、1953年。

[7]  「大仏様の源流をもとめて」、日本建築学会大会研究協議会、1998年。

[8]  片桐正夫、『朝鮮木造建築の架構技術発展と様式成立に関する史的研究―遺構にみる軒組形式の分析―』、1994

[9]  I.ウォーラーステイン、『近代世界システム Ⅰ、Ⅱ 農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』、川北稔訳、岩波現代選書、1981

[10]  I.ウォーラーステイン、『近代世界システム 重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 16001750』、川北稔訳、名古屋大学出版会、1993

[11]  I.ウォーラーステイン、『近代世界システム 大西洋革命の時代 17301840s』、川北稔訳、名古屋大学出版会、1997

[12]  Janet L. Abu-Lughod,”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”,Oxford University Press,1989.ジャネット・L.アブー=ルゴド、『ヨーロッパ覇権以前 もうひとつの世界システム』、岩波書店、2001年。

[13] アンドレ・グンター・フランク、『リオリエント-アジア時代のグローバル・エコノミー』(山下範久訳)、藤原書店、2000年。

[14]  ルイス・フロイス、『日欧文化比較』、大航海時代叢書ⅩⅠ、岡田章雄訳注、岩波書店、1965

[15] ジョアン・ロドリーゲス、「司教伝」、『日本教会史』下、大航海時代叢書Ⅹ、伊東隆夫、土井忠夫訳、岩波書店、1970

[16]  アビラ・ヒロン、『日本王国論』、大航海時代叢書ⅩⅠ、佐久間正・会田由訳、岩生誠一注、岩波書店、1965

[17] 平戸のオランダ商館は徳川幕府の命によって1640年以降次々と破壊され、現在、オランダ塀、井戸、階段とわずかな石垣が残るのみである。平戸市は、幕府による破壊命令直前の164010月時点の復元を目指している。洋風石造倉庫2棟の復元図がオランダ、ハーグのデ・カット&フィス建築設計事務所によって作製されている。手掛かりとなったのは、商館の会計帳簿に記載された、各種建設資材の寸法・数量・仕様・購入価格、大工・石工・瓦葺職人の作業内容・賃金である。また、商館長日記や書簡に書かれた建設や破壊の状況である。戸口・窓の位置、破風の形状などの外観や、屋根裏小屋組・巻揚機などの詳細といった不明確な部分に関しては、オランダに残された17世紀初頭の建物やジャカルタに残る東インド会社の建設した建物(ジャカルタ海洋博物館)を参照している。

[18]  『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』、ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳、アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,20017月。






2023年4月4日火曜日

ポストモダンの日本の住まい:日本建築学会大会研究協議会プレシンポジウム:すまいの近代化論ー学際的議論から,青木正夫・鈴木成文・竹下輝和他,由布院,19890801ー02

ポストモダンの日本の住まい:日本建築学会大会研究協議会プレシンポジウム:すまいの近代化論ー学際的議論から,青木正夫・鈴木成文・竹下輝和他,由布院,19890801ー02












 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...