蘇州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
J09 水網都市
蘇州 Suzhou,江蘇省 Jiangsu,中国 China
蘇州は古くから長江の南側にあり、長江デルタの中心部、太湖の東岸に位置する。江南の主要都市として栄えてきて、春秋時代に呉の都が置かれた。呉闔閭元(紀元前514)年、呉国筆頭家臣の伍子胥は元の都城を改築し、今の蘇州の原型である闔閭大城を建設された。都城は「郭城、大城、宮城」の三重城の配置を使い、宮城は中心から少し東南方向の場所に建設された。大城は八つの水陸城門を配置し、街と川が城門を通って、城外と繋がる。計画について。都城も機能によって、町を配置することを考えた。城内は官署を建てて、呉市と多種類の工房を建設された。その時、蘇州は呉国の政治と経済の中心にとして、存在している。紀元前221年(221BC)に始皇帝を中国統一して、秦漢六朝時期に入った。この時期で中国の中心は西の漢中地区に移動し、呉都城の蘇州は会稽郡となった。そして、人口は減少になり、経済の発展が低速状態になった。当時の会稽郡の都市構造は元の空間と位置をそのまま使って、建設は主に官署の再建設と改築を行わった。その中に漢王朝の諸侯王劉賈は諸侯国の都城が蘇州に配置し、諸侯国と地方二つの官署を収容するために、子城の隣にもう一つの小城を建設され、「定錯城」と呼ばれた。そして、元の呉市から、東市と西市となり、専門的な商業地区を配置された。まだ、道教と仏教の繁栄によって、大量の宗教建築を建てられ、今蘇州残している塔はほぼ六朝時代に建てられたものである。個人庭園の建設もその時期から始め、その後、有名な蘇州園林の基礎となった。紀元581年(581AD)隋王朝が中国を再統一して、隋唐五代十国時代に入った。その時期で、紀元591年(591AD)軍事の原因で、蘇州西南の横山に城を引越して、まだ、35年後の唐武徳9年(626AD)にまだ元の場所に戻った。この引越は蘇州歴史の中に唯一の引越である。紀元610年(610AD)隋大業3年京杭大運河の開通によって、蘇州は江南の水運中心となった。都市全体は城内に水路が脈絡と河道が骨架の水陸両立の双碁盤式になった。古城中心の子城はまだ全城の中心にして、町は坊市制を継続して、東市と西市の
図.1 唐王朝時代の蘇州(城市空間:形態、類型与意義 陳泳 2006年)
他に城門の辺りにも商業活動が初めった。そして、城内の水路網骨架の形成によって、蘇州の水城景観が形成した(図.1)。紀元922年(922AD)軍事防衛のため、城壁は前の土塁と土塀から磚製城壁に改築せれ、古城の保存に対して、重要な影響を与えた。紀元960年(960AD) 宋王朝を建立し、蘇州の名前が「平江」となった。宋の蘇州は唐の経済開発の上に発展し継き、城壁は不規則な長方形となり、子城が中心とする。東南に行政区域を配置し、北西に商業区域とする。南部が園林区域と倉庫区域にして、西南が教育区域となった。そして、蘇州の水路脈絡と河道骨架の水陸両立の双碁盤式都市計画は宋の時期でもっと順調に発展した。町は坊市制から坊巷制に変更し、都市の商業網が形成した(図.2)。紀元1271年(1271AD) 宋王朝の代わりに
図.2 宋王朝時代の蘇州(城市空間:形態、類型与意義 陳泳 2006年)
元王朝を建てられ、元明清時期には、戦争によって、城壁が何回の改修をされて、今残しているのは清王朝時代のものである。古城中心にある子城が戦争で壊され、再築されなかった。まだ、明成化年以降、蘇州商業が高速で発展によって、蘇州の商業区域は城壁を超えて、北西の虎丘辺りに拡張した。そして、経済の成長と共に、都市の園林化も始め、最後、園林都市を形成された。水路も整理して、景観だけじゃなく、水質の管理も初め、中国最初の水質管理法が作られた。町にも系统的な交通網を形成され、これで完全版の園林都市蘇州の形を完成した。
【参考文献】
陳泳(2006)『城市空間:形態、類型与意義』東南大学出版社
中国古建築叢書ー江蘇古建築 雍振華 2015 中国建築工業出版社


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