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2025年11月4日火曜日

リオ・デ・ジャネイロ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 リオ・デ・ジャネイロ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L29 カーニヴァルのメガ・シティ

リオ・デ・ジャネイロ Rio de Janairo,リオ・デ・ジャネイロ州,ブラジルBrazil

 リオのカーニヴァル(謝肉祭)で世界的に知られるリオ・デ・ジャネイロは、ブラジルを代表する最古の都市のひとつであり、サンパウロに次ぐ第2位、南米でもブエノスアイレスに次ぐ第3位の大都市圏人口が1200万人を超えるメガ・シティである。世界的に名の知られる保養地コパカバーナ海岸通りをはじめとして、グアナバラ湾口と人工的な海岸線 、ニテロイの歴史的要塞群などが「リオ・デ・ジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、世界文化遺産に登録(2012年)されている。

ブラジルの植民地化は、P.A.カブラル艦隊の漂着(陸地発見)(1500年)に始まるが、初期の主要産品は、染料の原料パウ・ブラジル(ブラジル蘇芳)である。ポルトガル王室は、アマゾン川河口域からラプラタ川河口域までの長い海岸線を15の地区に分割して、それぞれに受託統治者(ドナトリオ)を置くカピタニア制を採るが、拠点とした主要な港市は、北部アマゾン川流域の入口となるベレンとサン・ルイス、そして、後に砂糖プランテーションの中心となるレシフェとサルヴァドル、そして、内陸部につながるリオ・デ・ジャネイロ、サントス(サンパウロの外港)である。

リオ・デ・ジャネイロの地にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスが到達したのは15021月であった。グアナバラ湾の奥が狭まっていたのを大きな川と誤認し、発見した月に因んで命名した名がリオ・デ・ジャネイロ(「一月の川」)である。

1555年にフランスが進出して拠点(南極フランス)を建設したが、ポルトガルはそれを撃退し(1567年)、都市建設を本格化する。ポルトガル人たちは沿岸部に壁を白く塗った住居を建てて住んだ。先住民が白人を「カリオカ」(白い家)と呼ぶのはそのことに由来する。

16世紀に入って、ポルトガル領ブラジルは、1621年に設立されたオランダ西インド会社WICの標的となる。ブラジル木と砂糖が目的であった。サルヴァドルの占領はすぐさま奪還するが(1625)、オリンダを奪取され(1630)、レシフェを拠点に1654年までペルナンブコ地域はオランダによって支配されている。ポルトガルの植民地経営が本格化するのは17世紀後半以降である。17世紀までのリオ・デ・ジャネイロは、砂糖栽培を中心とする製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。

18世紀前半、内陸のミナスジェライス州で金鉱が発見されてその集散地であるサンパウロが発展し始めるが、1725年にミナスジェライスとつながる陸路が開通すると、リオ・デ・ジャネイロは、その積出港としても発展し始める。そして、1760年には、ブラジル植民地の首府となる。この時点での人口はサンパウロが約36000人、リオ・デ・ジャネイロは約30000人とされるが、1780年には約39000人となり、サンパウロを上回っている。最古の地図をみると、四隅に四方突出型の要塞を置いたグリッド街区が描かれている(図1)。カリオカ水道橋は18世紀前半に建設されたものである。カーニヴァルは1723年に遡るという。

1808年に半島戦争(スペイン独立戦争)が勃発すると、ポルトガル王国は、ナポレオン軍の侵入を逃れて、宮廷をリスボンからリオ・デ・ジャネイロに移す。すなわち、リオ・デ・ジャネイロは、ポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。1821年にリスボンに再遷都されるが、ブラジルの独立派が王太子ドン・ペドロを擁立してブラジル帝国の独立を宣言(1822年)、リオ・デ・ジャネイロはブラジル帝国の首都となる。

帝国の首都として行政機能の集中したリオ・デ・ジャネイロは順調に発展していくことになる。1840年の地図には、現在のセントロ地区の街路パターンがより詳細に描かれ、海沿いに、また、現在の共和国広場の西にも市街地が拡がっていることがわかる(図2)。

19世紀後半になるとブラジル初の鉄道が敷設され、ガス燈や電信、上下水道といった近代都市としてのインフラが整備されていく。1899年に帝政が廃止され、共和制に移行するが、ブラジル連邦共和国の首都として、急速に人口が増加し、市街地も拡大していった。1900年には80万人を超える大都市となる。

20世紀初頭、第5代大統領ロドリゲス・アルヴェスの下で都市改造にあたったのは都市計画家のフランシスコ・ペレイラ・パソスである。東西南北の幹線道路が整備され、コパカバーナやイパネマへと通じる直通トンネルが建設されたのはこの時期である。市街地は南に大きく延びていくことになる。第二次世界大戦後も、内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入し、人口増加は続いた。経済活動の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移り、1960年には、首都はブラジリアに移されるが、多くの観光客を集める都市として発展してきている。2016年には南米で初めてオリンピックが開催された。

一方、周辺の丘の斜面には、中心部の超高層が林立する現代都市の景観とは対比的な、ラテンアメリカ最大のロシーニャ地区などファベーラと呼ばれる不法占拠地区が拡がっている。


【参考文献】

伊藤秋仁・住田育法・冨野幹雄(2015)『ブラジル国家の形成―その歴史・民族・政治』晃洋書房

住田育法編(2009)『ブラジルの都市問題―貧困と格差を越えて』春風社


【図写真】

1 リオ・デ・ジャネイロ 1780年(Rio de Janeiro Library of Congress

2 リオ・デ・ジャネイロ 1840年(DUFOUR, A.H.. House of Bernard, Paris.  

3 ファベーラの景観 撮影 伊藤宏


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