進撃の建築家 開拓者たち 第9回 開拓者06・07 魚谷繁礼・魚谷みわ子(後編) アーバン・ディレクターと持続可能な街区システム 「嶋原のシェアハウス」『建築ジャーナル』 2017年5月(『進撃の建築家たち』所収)
アーバン・ディレクターと持続可能な街区システム
住宅リノベーションの作法
魚谷繁礼(開拓者06)+魚谷みわ子(開拓者07)
布野修司
「京都の旧市街ともいえるようなエリアをくまなく歩き廻った。建物に囲まれた街区の中央のようす窺うため、ありとあらゆる路地や建物間の隙間、建物の非常階段などから侵入を試みた。アスファルトの上を車が行き交う街路からは想像もしえないような、植物が生い茂り、猫が走り回り、低層町家の屋根の上にテラスが架けられ洗濯物が干された混沌とした風景を街区の中央に見出したとき、心が躍った。」(魚谷繁礼「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」)。
心が躍った、というのは、何となくわかる。カンポンにシンパシーを抱く僕も同じタイプなんだと思う。1990年代前半の京都には、まだまだ甲斐扶佐義[1]さんの撮るような京都(図①)は残っていたし、今でも、路地の奥の奥、いわゆる「アンコ」の部分にかつての「京都」は残っている。
街区中央の空閑地を塀で取り囲み市中の山居を見出した「近世の京町家」よりも、街区中央の空閑地に公衆便所や共同の物干し場などが設置された「中世の京町家」を参照する視点が有効ではないかと魚谷君はいう。問題は、それはいかに可能なのか、である。その後の数多くのリノベーションの作品群をみると、必ずしも「京都型住宅モデル」が前提とされているようには思えない。京都といっても、場所によって敷地の条件が異なるから当然と言えば当然である。そして、そもそもいわゆる「京町家」のみがターゲットにされているわけではない。日本の都市における在来木造住宅(広義の町屋)の再生、そして都市の更新システムを視野に収めることにおいて、もしかすると、その仕事の射程はより広く長いと言えるのではないか。
「田の字」地区―巨大マンションの出現
修士論文の成果は、今のところ2本の論文[2]として発表されている。
20世紀末から21世紀にかけて、京都の都心「田の字」地区ではとんでもない事態が進行していくことになった。京都都心部の在来の木造住宅はこの間一貫して減少してきた。木造住宅の建設を許さない法的規定のもとではそれは当然の流れであり、日本中どんな都市でも同様である。少子高齢化が進行する多くの地方都市の木造住宅は空き家として放置され朽ち果てる運命にある。地価が上昇する場合、収益を求めて、あるいは相続税が払えず、売却するか土地を一部分割せざるを得なくなるというのが一般的なパターンである。すなわち、土地は細分化、分筆されるのが普通であるが、「田の字」地区では、土地が合筆され、巨大なマンションが林立し始めたのである。論文はその過程に焦点を当てるものであった(図②a)。
同じ巨大マンションの居住者の学区が異なる事態は異常である。この変化は、京都の歴史始まって以来の大変化といっていい。その歴史において、戦乱や火災で大きく変容を遂げてきた京都であるが、曲がりなりにも維持してきたグリッドの街区パターンが大きく変わる事態だからである。魚谷・池井・正岡チームによる「京都型住宅モデル」の提案は、この事態に対する解答であった。すなわち、京都を京都として成り立たせてきたものは、街区パターンであり、町割りのパターンである、という提起である。「京町家」の意匠、デザイン・ヴォキャブラリーではない、少なくとも、拘りはない。むしろ、危機感に駆り立てられているのは、街区中央(「アンコ」)の「心が躍る」「混沌とした風景」の喪失である。
住宅リノベーションの作法
「京都型住宅モデル」が構法システムの提案を含んでいることは前述のとおりである。その後「型」としての展開はない。むしろ、個別事例に対する実践的解答が試みられてきた。といっても、ただ単に個別的条件における個別的対応(作品)が積み重ねられてきたわけではない。常に「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」が念頭に置かれている。『住宅リノベーション図集』には26の事例(図③)が収められているが、プランニング、構造、諸室展開、ディテールについて一般化可能な作法が見事に整理されている。残すところと変えるところを定める。当然の作法であるが、洗面、風呂場など近年になって手を入れた水回りが痛み、モルタルで包んだ柱が腐食したり、蟻にやられたりというのは現代の建築技術そのものが全体的なシステムを失っていることを示す。全事例を通じて、白いバスタブをそのまま開放的に見せているのが印象的であるが、水の流れ、溜まりを可視化する意図がある。場合によっては、減築し、通風、日差しの確保のために、中庭、坪庭を設ける。これも当然の作法であるが、「京町家」の基本構成を無視する形で増改築がなされてきたことを示している。さらに、原型を留めない場合、一旦裸(スケルトン)にした上で、組み立てなおす。「壬生東檜町の住宅」(図④)や「森中町」は小住宅を構成しなおした例である。また、「元本満寺の住宅」の場合、柱が細く補強することになり、「町家らしからぬ」分厚い壁が生まれることになった。もとの町家をそのまま復元するのではなく、新たな空間を提起することもリノベーションの作法のひとつである。
「晒屋町の長屋群」、袋路に沿って建てられた4軒の住宅を3軒の住宅にする「深草開土町の住宅群」、路地奥の平屋と2軒長屋を1軒の住宅にする「頭町の住宅」、同様に3軒を1軒にする「永倉町の住宅」(図⑤ab)、2軒の連棟町家を1軒にする「新釜座町の町家」などの他、大規模の町家やお茶屋、長屋をシェアハウスや宿泊所にする「東福寺のシェアハウス」「嶋原のシェアハウス」(図⑥abc)「十四軒町のシェアハウス」「宮川町の宿」「御所西の宿群」など、住居集合の単位が様々に生み出されているのである。
在来木造構法の自由
数多くのリノベーションの事例をみながら、第一に思うのは、在来木造建築の自在さである。先頃、A-Forum(http://a-forum.info/)の「アーキテクト/ビルダー研究会」[3]で、日本の在来木造がほぼ解体の危機に瀕しているという衝撃な報告を聞いた。プレカットが90%を超えるというのはともかく、構法がガタガタで、ツー・バイ・フォーとさして変わらない実態なのである。京都の場合、古都ということもあって、数多くの木造住宅が残されてきたのであるが、東京のような大都市圏では、在来の軸組工法は最早絶滅危惧種という。ということは、在来木造住宅のリノベーションの取組は、間違いなく歴史的な意義をもっていることになる。そして興味深いのは、それを必要とする歴史的条件がとりわけ京都において出現したということである。
ひとつは、制度の隙間が突破口になった。1950年の建築基準法制定以前の木造住宅は既存不適格であるが、大規模な修繕や増改築、特殊な建物へ用途変更を伴わなければ、改悪がない限り、現行法の遡及はない。すなわち、新築では建設できない建築もリノベーションだと可能になるのである。例えば、防火規定のかかる地区でも現状の開口部が木製であれば、引続き木製建具を用いることができるのである。この突破口については、かつて「京町家」再生の制度手法や防火手法を検討した時には、全く視野外に置かれていたものである。1990年代半ばには、必ずしも木造住宅一般をリノベーションする発想はなかった。「京町家」再生という場合、良質の町家をレストランやカフェ、ホテル、ブティークなどに用途転用するという発想が主であった。
そして、時代の要求がある。外国人観光客の増加に対応するための宿泊施設の需要がすさまじい(旅館業法の許可申請は2012年には3件であったが、2015年には260件を超えたという)。また、学生の街として、また、少子高齢化社会に対応するシェアハウスの需要もある。1995年の阪神淡路大震災以降は、耐震補強が課題になりこそすれ、再利用の需要の流れがないから改修も大きな流れにならなかったし、それどころか、巨大なマンションが出現したのである。
都市をリノベートする
「都市をリノベートする」のだと魚谷君はいう。既存のストックの有効利用は、伝統的な環境を維持しながら空家対策にもなる。既存不適格であれ、その空間を住み継いでいくことが、都市そのもののリノベーションにつながる、というのが魚谷君の戦略である。京都の地割のシステムと在来木造の軸組構造システムがそれを支える。魚谷君をはじめとする若い建築家諸君の京都における住宅リノベーションの試みは、ぎりぎりのタイミングで、その2つのシステムを再生することの有効性を示していると思う。
もちろん、2つのシステムの存続も、京都の将来についても、楽観的予断は許されない。宿泊施設の増加は京町家街区の攪乱要因にもなりつつあるからである。古都京都のグローバル観光化については、「町家改修のように外見は残しながら、中の人はグローバルに流動する。表層としては持続しているように見えて、そこで暮らしを営んできた人が抜けていくことで社会や地域を持続させてきた文化やスキルがどんどん失われている。」といった指摘もなされるのである(「古都のグローバル化と建築家の展開」森田一弥、魚谷繁礼、木村吉成、文山達昭、阿部大輔。司会:川勝真一http://touron.aij.or.jp/2016/12/3110)。
しかし、投資を目的とした町家やビルの買い上げ、グローバル観光地化による宿泊施設の増加、それによる土地価格の上昇といった新たな状況への対応ということであれば、京都は一貫してそうした経済(景気)動向に左右されてきたのであって、失われていくものを嘆いているだけでは力にならない。問題は、大きな需要と投資の流れを捉えて、持続可能な街区更新の仕組みを構築できるかどうかということである。
京都で巨大なマンションが建ち始めた頃、ライデンで開かれた「都市変化のディレクター」をめぐる国際シンポジウム(2002年)での議論を思い出す。「果てしない東京プロジェクト:破滅か再生か:コミュニティ・デザインの時代をめざして」[4](「東京:投機家と建設業者の楽園」[5])と題してしゃべったのだが、比較としてアムステルダムが取り上げられた。アムステルダムは、ここ何十年来、人口も一定、観光客も一定で、ボアリングだ、東京はエクサイティングというので、アムステルダムにはサステイナブルな仕組みがある、都市に必要なのはその仕組みではないか、と返したのである。京都が目指すべき方向は間違いなく後者であろう。
アーバン・ディレクター
都市変化、すなわち都市をリノベートするディレクターは誰か(というのが上記のシンポジウムのテーマであり、実は、発展途上国の開発独裁の国の大統領ファミリーなどにも焦点を当てるものであったのだが)。魚谷君の頭にあるのは、「アンコ」の部分を共有地とする街区居住者たちである。
少し前になるけれど、魚谷君の事務所近くの五条楽園を案内してもらったことがある。観光客のみならず投資目的の外国人が急速に増えていることについて、この土地はどうでこの建物はこうでと実に詳しい。歩いていると、そこら中の喫茶店やレストランのオーナーやスタッフから声をかけられる。「地回りやくざ」みたいだねと笑ったのであるが、そのネットワーク力はすごい。みわ子さんに聞くと、ちょっと出かけてくる、といって事務所を出ると、いつ帰ってくるかわからないという。
魚谷君は、デビュー以前から都市居住推進研究会、そして現代京都都市型住居研究会を活動の核にしてきた。そして今や「経済産業省中心市街地商業等活性化支援業務有識者検討会」の委員をはじめとして、国、自治体の数々の委員会の委員を務める。一方で、街歩きを続けながら街区居住者とのネットワークを拡大し続けている。魚谷君の人当たりの良さ、組織力は、問題点ばかり指摘する僕にはとてもまねのできない天性のものだろう。かと思うと、「アンコ」の部分の共有性を担保するためには公的なガイドラインは必要だからという一方で、だけど制度対応には限界があるでしょ、といったりする。したたかでもある。
建築表現の力
今回は、「京町家」そして京都における住宅のリノベーションの仕事に焦点を絞らざるを得なかったけれど、その仕事は住宅以外、京都以外へと広がりつつある。海外からの声もかかる。魚谷君が今回見せたがった(ように思えた)のはを「日本建築家協会関西建築家新人賞」(2012)を受賞した「京都西都教会」である(図⑦)。たまたま夕刻になったのだけれど、自然の光の扱いに意を巧んだ賞に値する作品と思ったけれど、住宅リノベーションの仕事とのつながりについては、ピントはこなかった。気になったのは、京都では「地の建築に拘る」(すなわち京都の地割とリノベーションに徹する)という言い方である。「地」とは「図」に対する「地」であるが、見るところ魚谷君には「図」としての建築への思いが捨てがたくあるように見える。加子母木匠塾の神社の拝殿、そして町家をスケルトンにして箱を入れ子に貫入させるいくつかの作品にそれを感じる。「彦根の基地」「守山中学校設計競技応募案」などもそうである。
魚谷君の精密な住宅リノベーションの個々の解答を確認しながら、山本理顕さんを思い浮かべていた。理顕さんの計画学には若い頃から寄り添ってきた。しかし、不遜にも山本理顕には表現論がない、と書いたことがある(『建築少年たちの夢』第四章「家族と地域のかたち」)。正確には、表現論として理顕さんが書いたものがないということであるが、理詰めのその建築方法論が受け入れられる背景には、表現の力があるからであり、それが必要だということである。そして、僕がさらに見たいのは、京都を拠点にしながら、世界を股に掛ける魚谷君の展開である。欲張りであろうか。
[1] 1949年大分生まれ。写真家、エッセイスト、翻訳家、ほんやら洞(京都市上京区、2015年1月21日閉店)、八文字屋(京都市中京区)の経営者。「地図のない京都」径書房,
1992、「美女365日」東方出版, 1994、「Kids」京都書院, 1998、「京都猫町さがし」中公文庫, 2000、「路地裏の京都」道出版, 2008、「ほんやら洞日乗」風媒社, 2015など。
[2] 魚谷繁礼・丹羽哲矢・渡辺菊眞・布野修司「京都都心部の街区類型とその特性に関する考察」、日本建築学会計画系論文集
第598号、2005年。魚谷繁礼・丹羽哲矢・渡辺菊眞・布野修司「京都の都心部における大規模集合住宅の成立過程に関する考察」『日本建築学会計画系論文集、第591号、2005年。
[3] ◎A=Forum アーキテクト/ビルダー(「建築の設計と生産」)研究会 日本建築学会『建築討論』共催第4回 建築職人の現在―木造住宅の設計は誰の責任なのか?コーディネーター:安藤正雄+布野修司+斎藤公男。(a) 木造住宅設計の問題:直下率と安全性 村上淳史(村上木構造デザイン室)。 (b) 工務店と大工育成問題:蟹沢宏剛(芝浦工業大学)。日時:平成29年1月13日)。
[4] Never Ending Tokyo Projects: Catastrophe? or Rebirth?: Towards the Age of Community Design, :International IIAS workshop: Mega-Urbanization in Asia: Directors of Urban Change in a Comparative
Perspective, International
Institute for Asian Studies (IIAS), Leiden University, Leiden, 12-14 December 2002。
[5] Shuji Funo:Tokyo:Paradise of Speculators and Builders,in Peter J.M. Nas(ed.),“Directors of Urban Change in
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