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2021年5月4日火曜日

アジア・アフリカの大地から-土・石・木・竹・鉄 虹の学校「天翔ける箱舟」  渡辺菊真

進撃の建築家 開拓者たち 第2回 開拓者01 渡辺菊眞(前編)「アジア・アフリカの大地からー土・木・竹・鉄:「天翔ける箱舟」虹の学校」『建築ジャーナル』201610

 進撃の建築家 X人の開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 02

 


 アジア・アフリカの大地から-土・石・木・竹・鉄

虹の学校「天翔ける箱舟」     渡辺菊真

布野修司




渡辺菊真(図①)は1971年生まれである[1]1971年、僕は、「東大闘争」の渦中にあって、「雛芥子」の仲間と「建築とは何か」を問うていた(前号「進撃の建築家」01)。それから20年、渡辺菊真に出会った。それから四半世紀も傍にいてその活動を見てきた。「進撃の建築家」として最も気になる存在である。


高知建築文化大賞の審査委員会(布野修司・高橋晶子・渡辺菊真)で、最近も(2013年、2015年)会って親しく話す機会もあったが、最新作「宙地の間(そらちのま)」(奈良県生駒郡平群町)見せてもらうのを口実に出掛けてきた。D環境造形システム研究所のパートナーで構造担当の高橋俊也(1979~)[2]も来てくれ楽しい建築談議に花が咲いた(図②)。その軌跡は実に多彩であり、底知れぬパワーとエネルギーが迸(ほとばし)り始めている。


アジア・アフリカの大地に建ち上げられたプリミティブな建築群は、土(土嚢)、木、竹そして鉄(鋼管足場)という生の素材による建築の原型の持つ力強さを想い起させてくれる。その今のところの到達点である「虹の学校 天翔ける箱舟」(タイ、2012~)(図⓷)は実に傑作だと思う。数々の受賞がそれを示している[3]







 

鴨川フォリー

 渡辺菊真に最初に会ったのは19919月である。東洋大学から京都大学に移って(92日赴任)、2回生後期の設計演習をいきなり担当したのだけれど、その受講者であった。この時出会った京都大学建築学科の学生には、平田晃久(平田晃久建築設計事務所、京都大学准教授)、森田一弥(森田一弥建築設計事務所)、竹口健太郎・山本麻子(アルファヴィル)など、既に一線で活躍中の建築家たちがいる[4]

課題は「鴨川フォリー」。鴨川の遊歩道にフォリーを造れ、というただそれだけであるが、思いもかけない課題だったのか、刺激的だったらしい。随分面白い案が出てきた。中でも、変わった案を提出したのが渡辺菊真である。場所を読むのか、テンポラリーな架構を選択する案が一般的ななかで、菊真の案は分厚い壁体にドームを載せるマッシブな東屋であり、模型もスチレン・ペーパーを重ねて刳り貫き入念に鑢で滑らかに磨き上げたものだった。渡辺豊和の息子だなあ、血筋かなあ、となんとなく思った。

渡辺豊和については、『建築少年たちの夢』「第6章「建築の遺伝子」(2011)で書いたが、「相田建築ゼミナール」での出会い(1978)から、『群居』『建築思潮』の編集同人として長年つき合ってきた。一回りも違う、そして二回りも下のその息子と教師と学生として出会う、縁である。豊和さんは、僕の京大赴任を喜んでくれて、安藤忠雄、高松伸など関西の建築家を集めて歓迎パーティを賑々しく開いてくれた(19911018日、ホテル大阪ガーデンパレス)。豊和さんは京都造形大学の教授になって、早速、僕を大学院の非常勤に指名、10年近く一緒に講義を受け持つことになる。吉田キャンパスの布野研究室と豊和さんの研究室は歩いて行ける距離にあった。

ともあれ、菊真は、その縁に導かれるように大学院の布野研究室に進学する(1995年)。平田晃久もそうだけれど院試に一度失敗している[5]。一足先に布野研究室に入ったのが森田一弥であり、山本麻子であった。

修士論文を書いて、当然のように博士課程に進学する(1997年)。卒業設計は、東尋坊を敷地とするものであった。地形が喚起するものへの鋭い感性を産まれながら身につけている(図④)。森田一弥も山本麻子もそうであったが、修士論文を書くのは大変であった。エンジニア系の先生の批判が厳しく、指導教官も含めて、発表会は常にバトルであった。菊真の場合もテーマ・セッティングに苦労した。修士論文の題名は『京都における「余白」の発見と、その構成手法に関する考察1997である。京都という空間については、その後、今日に至るまで格闘することになる。京都についての論文がまとまり出すのは博士後期課程を満期退学するころである[6]


 

京都からアジア・アフリカへ

 僕らの時代は、博士課程に入ると大学院に席を置きながら設計活動を開始するのが常道であった。博士課程というと後には引けない。住宅設計を手掛かりに、建築家としてのデビューを夢見て修行する。しかし、今では、出来るだけ短期間(3年)で学位論文を書けとプレッシャーをかけられる。プロフェッサー・アーキテクトになるためには学位が求められるから、菊真の論文については、指導教官として、それなりに悩んだ。建築家としての思考は基本的に工学的な論文にはなじまない。しかし、これは僕の持論なのだけど、設計をロジカルにまとめていくことと、論文をまとめることは基本的には同じである。論文をまとめることは設計をロジカルに説明するトレーニングにはなる。問題はテーマである。

 菊真の場合、博士課程に入って、渡辺菊真個展「「風景」建築→建築」を開催する。竹山聖、鈴木隆之、大島哲蔵、布野修司、田中禎彦などが参加するシンポジウムが開かれた(199834日)。菊真としては、溢れ出る建築への思いを修士論文にまとめきれないフラストレーションがあったのだと思う。

 布野研究室は、その頃、アジアのフィールドを駆け回っていた[7]。渡辺菊真と唯一アジアのフィールドを共にしたのは、1999年のインド・イラン調査(720日~817日)である。とりわけ、想い出深いのは、二人だけで行ったコルカタ(カルカッタ)のチョウリンギー地区調査とバンダル・アッバースから小船で渡ったオルムズ島調査である。オルムズ島のポルトガル要塞(図⑤)の実測はとにかく暑かった。後にも先にも経験したことのない灼熱地獄である。チョウリンギー地区は歩きに歩いた。クルバンというホームレスの少年との交流は二人の共通の思い出である。


 設計演習や個展の作風を見ていて、ユーラシア・スケールの仕事が合うのではないか、コスモロジー派の渡辺豊和、毛綱毅曠、六角鬼丈の系譜が細くなりつつあるのが寂しくもあり、特にヒンドゥーのコスモロジーと建築の関係は菊真に相応しいテーマではないかと秘かに思っていた。本人も、おそらくそう考えていたのであろう。

 30才になって建築家としての活動を開始すると、国際的な難民支援、貧困者支援を展開するNGOグループとの出会いもあって、インド震災復興モデル住居2001)(図⑥) 、アフガニスタン(2004)、ヨルダン南シューナ地区コミュニティセンター20072009)(図⑦)、東アフリカ・エコビレッジプロジェクト20072011年)(図⑧)と、むしろフィールドは、アジア・アフリカに設定された。そして、その今のところの到達点が、タイ・ミャンマー国境の孤児院兼学校「虹の学校」(学舎「天翔る方舟」)(2013)である。





 

太陽の家

 2001年に京都大学院博士課程を満期退学すると、2007年にD環境造形システム研究所を立ち上げるまで、渡辺豊和建築工房に籍を置くことになるが、2002年から2003年にかけて、井山武司(19382014[8]の太陽建築研究所(山形県酒田市)に出向している。渡辺豊和の強い意向だったという。菊真本人によれば師事したのであり、その没後、太陽建築研究会を引継いでいる。70年代末から「太陽建築」(ソラキスSolachis)に取組んできたその軌跡は知る人ぞ知るである。パッシブ建築技術の開拓者という意味では恐るべき先駆者であり、丹下健三研究室出身というのには驚く。豊和さんと井山さんは昔から親しく[9]、僕も何度か酒席を共にしたことがある。アジアを歩き始めて(1979年)間もなく、井山さんがバリ島に建てたエコハウスを見に行っている。同じ山形出身の小玉祐一郎先生の指導でスラバヤ・エコハウスを建設した際にもお世話になった。渡辺菊真は、並行してアジア・アフリカの見知らぬ地域で、地域の生態系に基づく建築を目指して格闘することになるが、その基本は井山さんに仕込まれたことになる。デビュー作となる「角館の町家 」(秋田県仙北市)にも当然生かされることになる。その今のところの日本における到達点が「宙地の間」である。

アジア・アフリカの見知らぬ地域に出掛けることになったのには、もうひとつ土嚢建築との出会いがある。渡辺豊和建築工房に入った直後に、天理大学の井上昭夫教授の率いる国際参加プロジェクトへの参加要請があり、土嚢建築の開発拠点、N.ハリーリNader Khaliliに率いられるカルアース研究所Cal-EarthTHE CALIFORNIA INSTITUTE OF EARTH ART AND ARCHITECTURE(アメリカ、カリフォルニア州)に赴くのである。そして、すぐさま、インドへ、アフガニスタンへ、ヨルダンへ、そしてウガンダへ、土嚢建築を携えて出かけることになった。 

  

京都CDL

 長い京都大学での「修行」を終えるころ、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)という運動体を立ち上げることになった。その構想については『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2000)、活動の詳細は『京都げのむ』(0106)(図⑨)他に譲るが、建築家(集団)が地域の環境を日常的にウォッチングし、ケアしていく仕組みの構築が目的であった。今日次第に定着している言葉で言えば、「コミュニティ・アーキテクト」制のシミュレーションである。コミッショナーが広原盛明先生僕が事務局長となったが、運営は全て若い諸君に委ねた。運営委員長を務めたのが渡辺菊真であり、その補佐役として事務局に住み込んだのが高橋俊也である。


 「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」という概念の提示は、新たな建築家像のあり方に関わっている。正直に言えば、こうした「まちづくり活動」に菊真は興味がないのではないか、むしろ、集団的な作業は合わないのではないかと思っていた。しかし、京都CDLの活動について渡辺菊真は実に熱心であった。とりわけ、むしろ、眼を開かされたのは、地区を徹底的に読んで具体的な建築型の提示を求めるワークショップ「ミテキテツクッテ」の執拗な開催である。

 「コミュニティ・アーキテクト」とは何者か、それは職能として成り立つのか、その武器は何か。広原盛明先生の京都市長選立候補そして落選(惜敗)によって京都CDLが終息を余儀なくされた後、僕は滋賀県立大学に異動することになる。「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」という人材育成プログラムを立ち上げるなかで考え続けてきたけれど、「コミュニティ・アーキテクト」とは、単なるコーディネーターでも、イネイブラーでも、アジテーターでもない。その中心的イメージとなるのは、やはり「建築家(アーキテクト)であり、地域に相応しい空間を提示していく能力を持った京都CDLにおける渡辺菊真のような姿である。

 

高知へ

 21世紀の初頭を疾風のごとく走り続けた菊真が高知の大学に呼ばれることになった(2006)。京都CDLが尻切れトンボのようになったので気になっていたのであるが、うまく、縁のネットワークが繋がった。高知と言えば、亡くなった内田雄造先生が同和地区の居住環境整備の拠点として設立した若竹まちづくり研究所の大谷英人さん(高知工科大学名誉教授)がいて東洋大学時代から縁があった。坂本龍馬記念館のコンペの時には多少のお手伝いをした。また、渡辺豊和さん、石山修武さん、大野勝彦さんとハウジング計画ユニオンHPU設立の頃から何度か通ったことがある。山本長水さん、細木さんとも若い頃からの知合いである。

 驚いたのは、赴任まもなく、菊真が、高知新聞への連載を始めたことである。



[1] 1971年 奈良県生まれ/1994年 京都大学工学部建築学第二学科卒業/1997年 京都大学院工学研究科生活空間学修士課程修了/2001年 同大学院博士課程満期退学/1998年~2006年 京都造形芸術大学非常勤講師/2001年~2006年 京都コミュニティデザインリーグ運営委員長/2001年~2007年 渡辺豊和建築工房勤務/2002年~2003年 太陽建築研究所(井山武司氏に師事)/2004年~2009年 大阪市立大学非常勤講師/2007年~D環境造形システム研究所 主宰/2009年~高知工科大学准教授

[2] 1979年栃木県宇都宮市生まれ/2002年 京都大学工学部建築学科卒業/2005年 京都大学院工学研究科生活空間学修士課程修了/2009年 滋賀県立大学院環境科学研究科環境計画学専攻博士課程修了/2007年~D環境造形システム研究所研究員/2014年 高橋俊也構造建築研究所設立

[3] Architecture Asia Awards FINALIST /2014年 AZ AWARD 2014 (Best Architecture Under 1,000) 最優秀賞/2014年 Blueprint Awards2014 優秀賞 /2014年 architectural review2014/2014年 designboom TOP 10 reader submissions of 2014 architecture /2014年 FAITH&FORM 2014International Awards Program/for Religious Art & Archtecture 優秀賞/2015年 Architizer A+Awards (Kindergartens category) Winner /2015年 World Architecture Community Awards 19th cycle

[4] 他に、妹島和世建築設計事務所(SANAA)を経て独立した桑田豪(桑田豪建築設計事務所)、久米建築設計事務所を経て独立した丹羽哲矢(Clublab)、黒川賢一(竹中工務店)、小平弥史(昭和設計)らがいる。

[5] 大学院の入試問題については、毎年問題にしてきたけれど、多分、日本で一番難しい問題であった。増田友也について述べよ、といった問題が出るのである。

[6] 渡辺菊眞,布野修司:「鳥辺野」(京都阿弥陀ケ峰山麓)の空間的特質に関する考察 A Consideration on Spatial Quality of Toribeno Area (Mountainside of MtAmidagamine) in Kyoto,日本建築学会計画系論文集,第543号,p18719420015月。魚谷繁礼,丹羽哲矢,渡辺菊真,布野修司:京都の都心部における大規模集合住宅の成立過程に関する考察Considerations on Formation Process of Large Scale Housing in Urban Area of Kyoto, 日本建築学会計画系論文集,第585号,pp879420054月。魚谷繁礼,丹羽哲矢,渡辺菊真,布野修司:京都都心部の街区類型とその特性に関する考察 Considerations on Block Typology and the Characteristics in Urban Area of Kyoto,日本建築学会計画系論文集,第598pp123128 200512月。高橋俊也,渡辺菊真,布野修司:京都における墓地の立地と市街地の変遷に関する考察, 日本建築学会計画系論文集,第619pp133139 20079. Considerations on Distribution of Cemetaries and Transformation of Urban Area in Kyoto J. Archit. Plann. AIJ No.617 pp133139 Sep 2007。高橋俊也,渡辺菊真,布野修司:「蓮台野」(京都市大文字山麓)の空間的特質に関する考察 Considerations on  Spatial Quality of RENDAINO Area (Hillside of  Mt. HIDARIDAIMONJI) in Kyoto日本建築学会計画系論文集,第74巻,第637号,pp.63564220093月。

[7] 大連調査 (山本麻子 修士論文)マドゥラ島調査:蔚山調査(山本直彦・三井所隆史・韓三建・青井哲人)、台北・萬華地区調査銘宗・田中禎彦)、ネパール・ハディガオン調査(黒川賢一修士論文)、アフマダバ-ド調査(沼田典久修士論文),ジャイプル調査(布野修司・山根周)など。

[8] 1961年、東京大学建築学科卒業、1963年、東京大学大学院修士課程建築学専攻、博士課程都市工学専攻、丹下研究室において、東京計画、東京オリンピック室内競技場、スコピエ市都市計画などに参加。1966年井山武司アトリエ開設。1976年酒田市大火復興専門員。1993年太陽建築研究所建設。建築フォーラム賞受賞(1999)、環境やまがた大賞受賞(2002)。太陽建築<ソラキス>を50棟設計。

[9] 東京大学の同級生に林泰義、近澤可也、宮内康がいる。

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