このブログを検索

2025年10月3日金曜日

サマルカンド:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 :布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


H04 青の都―ティムールの帝都

ウズベキスタン,サマルカンド州,

Samarkand, Uzbekistan

 

 


古くはギリシア語でトランス・オクシアナそしてアラビア語でマー・ワラー・アンナフル,そしてソグド商人の原郷としてソグディアナと呼ばれてきた,パミール高原の氷河を水源とするアム河とシル河で囲われた一大オアシス地域の中心都市がサマルカンドである。

 

①ab サマルカンドとアフラシアブ

アーリヤ(イラン)民族が南下していき,また,910世紀にテュルク民族が西進し,イスラームが東進する要となったのがこの地域であり,ティムールが本拠を置いたのがサマルカンドであり, バーブルがここからインドに向かい建てたのがムガル帝国である。

その起源は,紀元前6~7世紀のマラカンダMarakandaに遡る。そして,アフラシアブAfrasiabという城塞都市が栄えてきた。しかし,1220年にチンギス・カンに徹底的に破壊され,現在,城壁跡とラクダ草が生えるだけの荒涼たる丘が残る(図①)。

ティムール(13361405)は, 1397年に新たな庭園と宮殿の建設を命じて以降,サマルカンドをイスラーム世界の中心に見立てて整備する。4イーワーン形式の中庭をもつビビ・ハヌム・モスク,ティムール自身も眠るムハンマド・ブン・マフムード設

 レギスタン広場

計のグール・アミール(1404)など,ティムール朝はすぐれた建築文化を開花させた。方形平面の高い胴部の上に球根形の二重殻ドームを頂く形態はティムール朝様式である。続くシャー・ルフ(14051447),天文台を建設したウルグ・ベク(14471449)も、すぐれたティムール建築を残している。

サマルカンドの全体は不整形であり、

 ティムールのサマルカンド

城郭二重構造を採る。「青の宮殿」と呼ばれる城塞部は西部に配されている。都市核となるレギスタン地区にはウルグ・ベク・マドラサ(1420),シェル・ドール・マドラサ(1636),ティラー・カーリー・モスク(1660)の3つが広場を中心に配される(図②)。庭園は,ブルデイの園、よろこびの園、世界の像、すずかけの園、北の園、楽園の6つ造営されている。建設の多くは,ヒンドゥスターンの石工の手になる。「青の都」と呼ばれるのは青いカーシャン・タイル(サマルカンド・ブルー)が用いられたからである。

 バーブルは,一時奪取したサマルカンドについて詳細に記するが、各モハッラは1つの市場を持っていたという((図③))。レギスタンの北東にドームで覆われたチョルス(市場)が唯一残っているが、タキ(ターク)TaqiTok)と呼ばれる市場が辻々に配され、モハッラ(あるいはクッチャ)毎に独特な蝋燭形の列柱をテラスにもつモスクがつくられていた。タキあるいはチョルス,モスクは,ティムールの都市の基礎単位を構成する都市施設である。

 ティムール朝の後,ブハラを首都とする3つのイスラーム王朝が20世紀初頭まで続く。そして,クリミア戦争に敗れたロシアが進出してくる。トルキスタン総督府の下にロシア領に編入され(1868),ロシア革命によって,ソ連邦の一部となって以降,社会主義的都市計画が展開される。西郊外部の整然とした扇状のグリッド区画がその象徴である。そして、ソ連時代の灌漑による綿花栽培はアラル海を消滅させるほどの激変をもたらすことになった。

【参考文献】

布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008

Golombek, Lisa and Wilber, Donald1988, “The Timurid Architecture of Iran and Turan”Vol.I, II, Princeton University Press

間野英二『バーブル・ナーマの研究』全4巻,松香堂、19952001

間野英二編『アジアの歴史と文化8 中央アジア史』同朋舎、2000

 











0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...