セヴィージャ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
B46 アル・アンダルスの都―スペイン植民地帝国の中枢
セヴィージャ Sevilla,アンダルシア州 Andalcia,スペイン Spain
セヴィージャは、イベリア半島の重層的な都市形成の歴史をそのまま示す代表的な都市である。地中海の西端にあって古来メソポタミア、地中海文明とつながりをもち、西ゴート、ローマ、イスラームの支配を受けた。そして、スペイン植民地帝国を束ねた中枢となった。
グアダルキビル川の河口近くに位置するセヴィージャは、肥沃な平野と水利水運に恵まれ,港市としての起源は有史以前に遡る。伝説上ヘラクレスが建設者とされ,また古代タルテソス王国の首都とも考えられている。その後、カディスを拠点とするフェニキアとの交易拠点となり、紀元前6世紀にフェニキアが衰亡するとイビサ島およびカルタゴ・ノヴァ(カルタヘナ)を拠点とするカルタゴの支配下に入る(紀元前348年)が、ポエニ戦争(第2次)時にユリウス・カエサルよって破壊され、焼失する(紀元前216年)。
そして、イスラームが半島を襲う。711年以降,わずか数年でイスラーム軍はほぼ全半島を占領する。ウマイヤ朝のカリフは,支配した領域をアル・アンダルスAl-Andalusと呼び最初の拠点をセヴィージャ(イスビリヤIsbiliya)に置く。ローマ時代、西ゴート時代のバジリカの敷地にモスクが建設され、都市は大きく改変される。すなわち、中庭式住居が密集する袋小路を内包するアラブ・イスラーム風の街区が形成されていった(図②)。
アル・アンダルスの首都はまもなくコルドバに移されるが、首都コルドバと経済的繁栄を競い,後ウマイヤ朝が崩壊し,群小王朝が分裂割拠する時代になると,セヴィージャ王国(1023~93)の首都として,コルドバを凌ぐまでになる。そして,セヴィージャの繁栄は,マグリブ王朝であるムワッヒド朝(1130~1269)の時代に頂点に達する。人口は8万人に達したとされる。市域は拡張し、新たな市壁が建設された。黄金の塔(13世紀),ヒラルダの塔はムワッヒド朝下の建設であり,アルカサル(王宮)は,レコンキスタReconquita(国土回復)後の14世紀にモサラベmozárabe(言語・文化的にはアラブ化したキリスト教徒)職人によって建てられたものである。セヴィージャの今日に至る都市の骨格は、イスラーム時代に形成されたものである。
レコンキスタが完了する1492年に遡ること2世紀半、フェルナンドⅢ世が1248年にセヴィージャを奪回するが,セヴィージャは,カスティリアCastilla王国でも重要な都市として存続する。そして、コンキスタの時代が開始される。
1503年通商院が設置されてセヴィージャは植民地貿易を独占する。結果として,スペイン最大の商業都市に発展し,スペインの「黄金の世紀」の中心都市となる。すなわち、スペイン植民地帝国の帝都として君臨する。
18世紀初頭のスペイン継承戦争によって、度重なる洪水や飢饉によって、セヴィージャは、その地位をカディスに譲ることになる(1717年)。それとともにセヴィージャの衰退が始まる。18世紀にはパブロ・デ・オラヴィデによって、下水道、清掃システム、街頭の設置、直線道路の建設などの改造が行われる。また、遊歩道や堤防の整備が行われた。 黄金の塔(Torre del Oro)の最頂部が増築され、王立煙草工場、サンテルモ大学なども建設される。パブロ・デ・オラヴィデは、1771年にセヴィージャ最初の地形図を作製したことでも知られる(図③)。
1820年のスペイン立憲革命の際にセヴィージャは自由主義者の拠点となるが、19世紀を通じて人口は緩やかに増加し世紀末には14万人に達する。20世紀に入って、人口増加はさらに加速し、農村部からの流入によって20万人の都市になる。1929年にはラテンアメリカ展覧会を開催している。これをきっかけにセヴィージャの市域は約2倍となる。
スペイン内戦ではフランコ軍に逸早く占領されたが、その後、アンダルシアの州都として、スペイン南部の中心都市として今日に至る。1992年にはセビリア万博が開催された(図④)。
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