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2024年12月21日土曜日

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,解説、而立書房,1996年10月

前川國男文集編集委員会編:建築の前夜ー前川國男文集,而立書房,199610



解説

         

 一九三〇年四月、コルビュジェのアトリエでの満二年の留学を終えて帰国した前川國男は、八月、A・レーモンド設計事務所に入所する。二五歳であった。入所前、「明治製菓」の公開設計競技(コンペ)に一等当選。建築家としてのデビューを果たす。一二月、「第2回新建築思潮講演会」に招かれ、「3+3+3=3×3」と題した講演を行う(『国際建築』 一九三〇年一二月)。前川國男の最初の公的発言の記録である。そして、次の年、「東京帝室博物館」公開コンペに敗れ、最初の文章「敗ければ賊軍」(『国際建築』 一九三一年六月号)が書かれる。「日本趣味」、「東洋趣味」を基調とすることを規定した戦前期の数々のコンペに敢然と近代建築の理念を掲げて戦いを挑み続けた前川國男の「華麗な」軌跡の出発を象徴する文章である。

 前川國男が本格的に建築家としての活動を開始する一九三〇年は日本の近代建築の歴史にとって記憶さるべき年である。まず、近代建築運動史に記憶される、新興建築家連盟の結成、即崩壊という事件がある。また、鉄筋コンクリート造、鉄骨造の構造基準及び共通仕様書が整備されるのが一九三〇年である。近代建築展開の技術的基盤は既に用意されていた。一九三〇年代後半には、「白い家」と呼ばれるフラットルーフの四角い箱型の住宅作品が現れ、日本への近代建築理念の定着が確認されるのであるが、まさにその過程とともに前川は活動を開始したのであった。そしてまた、それは、新興建築家連盟の結成、即崩壊という日本の近代建築運動の挫折あるいは屈折を出発時点において予めはらんだ過程でもあった。

 日本の近代建築運動は、一九二〇年の日本分離派建築会(堀口捨己、石本喜久治、山田守、森田慶一、滝沢真弓)の結成に始まるとされる。前川國男が一五歳の年だ。逓信省の下級技師を中心とする創宇社(山口文象、海老原一郎、竹村新太郎ら)の結成(一九二三年)が続き、メテオール(今井兼二ら)、ラトー(岸田日出刀ら)といった小会派が相次いで結成された。その様々な運動グループの流れを一括して、いわば大同団結しようとしたのが新興建築家連盟である。

  新興建築家連盟の結成の中核となったのは創宇社のグループである。分離派のいわば弟分として出発した創宇社は、当初、展覧会など分離派と同じスタイルで活動を展開するのであるが、やがて、その方向を転換させる。いわゆる、「創宇社の左旋回」である。分離派のメンバーが東京帝国大学出身のエリートであったのに対して、逓信省の下級技師を中心とした創宇社メンバーは、「階級意識に目覚め」、社会主義運動への傾斜を強めるのである。無料診療所、労働者住宅といったテーマのプロジェクトにその意識変化を見ることができるとされる。

 前川國男が東京帝国大学工学部建築学科に入学した一九二五年、治安維持法が公布され、卒業してシベリア鉄道経由でパリへ向かった一九二八年三月、共産党員の大量検挙、三・一五事件が起こっている。騒然とする時代の雰囲気の中で、創宇社は第一回新建築思潮講演会を開く(一九二八年一〇月)。創宇社は、分離派に対して距離をとり、その芸術至上主義を批判する。それを明確に示すのが、谷口吉郎の「分離派建築批判」(一九二八年)である。谷口吉郎は、市浦健、横山不学らとともに前川國男のクラスメイトであった。

 しかし、時代は必ずしも若い世代のものとはならない。一九三〇年一〇月結成された新興建築家連盟は、わずか二ケ月で活動を停止したのである。読売新聞の「建築で「赤宣伝」」の記事(一二月一四日)がきっかけである。こうして、戦前期における日本の建築運動はあえなく幕を閉じたのであった。デザム、建築科学研究会、青年建築家連盟等々小会派の運動は続けられるのであるが、建築界の大きな流れとはならない。また、日本建築工作連盟も組織されるのであるが、翼賛体制のなかで全く質を異にする団体であった。

 そうした過程で、前川國男は、A.レーモンド事務所での仕事の傍ら、設計競技を表現のメディアとして選択する。既に、パリのコルビュジェのもとから、「名古屋市庁舎」のコンペ(一九二九年)に応募していたのであるが、全てのコンペに応募するというのが選びとった方針である。「執務に縛られた」建築家にとって「設計競技は今日のところ唯一の壇場であり時には邪道建築に対する唯一の戦場である筈」という認識が前川にはあった。

 「東京帝室博物館」以降も、「明治製菓銀座店」(一等入選 一九三二年)、「第一相互生命館」(落選 一九三三年)、「東京市庁舎」(三等入選 一九三四年)と続いたコンペへの参加は、A.レーモンドと衝突して独立した一九三五年以降も初志一貫して続けられる。そして、「在盤谷日本文化会館」公開コンペ(一九四三年)において、前川國男ははじめて寝殿造の伝統様式を汲む大屋根を採用するに到る。「東京帝室博物館」以降、日本的な表現、いわゆる「帝冠併合様式」に抵抗し続けてきて、ついに前川は挫折した。「在盤谷日本文化会館」案は、前川國男の転向声明である、というのが一般的な評価である。

 こうして、戦前期における日本の近代建築の歴史は、「日本的なるもの」あるいは日本の伝統様式、「帝冠併合様式」あるいは様式折衷主義に対する果敢な闘争そして挫折という前川國男のコンペの歴史を軸にして、わかりやすい見取り図として既に書かれている。ひとつの神話となっているといってもいい。しかし、その挫折の様相は、前川國男のテキストに即して掘り下げられる必要がある。

 前川國男の二五歳から四〇歳に当たる一五年戦争期は、激動の時代である。前川國男建築設計事務所の設立以降、日中戦争の全面化とともにとともに仕事は大陸で展開されるようになる。「大連市公会堂」公開コンペ(一等、三等入選)が一九三八年、一九三八年八月には上海分室が、一九四二年には奉天分室が開設される。

 一方、この間、丹下健三、浜口ミホ、浜口隆一が入所、戦後建築の出発を用意する人材が入所する。前川國男の引力圏の中で、「大東亜建設記念営造計画」(一九四二年)、「在盤谷日本文化会館」に相次いで一等当選した丹下健三の鮮烈なデビューがあり、浜口隆一の大論文「日本国民建築様式の問題」(一九四四年)書かれた。

 一九四五年、五月二五日、空襲で事務所も自宅も焼失する。設計図や写真等一切の記録を失って前川國男は敗戦を迎えることになる。

 

         

 敗戦直後、結婚。新しい日本の出発とともにプライベートにも新生活が開始された。しかし、とても新婚生活とはいかない。目黒の自宅は、四谷に現事務所ビルが竣工する一九五四年まで、十年、事務所兼用であった。

 戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、建築家としても敗戦に打ちひしがれる余裕など無かった。まずは、戦時中(一九四四年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」(工場生産の木造組立住宅のことであり、プレファブのPRE、前川のM、構造担当の小野薫のO、供給主体であった山陰工業のSをとって、命名された)に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの戦後の先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品のひとつと目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは一九四七年のことである。

 一九四七年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の六月である。

 戦後復興期から一九五〇年代にかけての戦後建築の流れについては、いくつかの見取り図が描かれている。わかりやすいのはここでも建築運動の歴史である。戦後まもなく、国土会、日本建築文化連盟、日本民主建築界等のグループが結成され、NAUへと大同団結が行われる。しかし、NAUがレッドパージによって活動を停止すると、小会派に分裂していく・・・。そして、一九六〇年の安保を契機とする「民主主義を守る建築会議」を最後に建築運動の流れは質を変えてしまう。

  興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場は基本に置かれるのである。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった一九四七年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド                             )同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。MID同人は、翌年、雑誌『PLAN』を1号、2号と発行している。創刊の言葉にはその意気込みが示されている。そして、『PLAN』=計画という命名が近代建築家としての計画的理性への期待を示していた。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。一九四七年から一九五一年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(一九四八年 前川三等入選)の不明瞭さ(一等当選を出さず審査員が設計する)が示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(一九五六年)の住民の建設参加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、五期会結成(一九五六年六月)に参加することになる。NAU崩壊以後の建築運動のひとつの核は前川の周辺に置かれていたのである。

 しかし、敗戦から五〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 一九五二年には、「日本相互銀行本店」が完成する(一九五三年度日本建築学会受賞)。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、一九五四年に竣工する(一九五五年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。この戦後モダニズム建築の傑作の保存をめぐって、建築界を二分する大きな議論が巻き怒ったのは一九九三年から九五年のことである。また、一九五五年、坂倉準三、吉村順三とともに「国際文化会館」を設計する(一九五六年度日本建築学会賞受賞)。さらに、「京都文化会館」(一九六一年度日本建築学会賞受賞)、「東京文化会館」(一九六二年度日本建築学会賞受賞)と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然なのである。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(一九五五年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、一九五九年には、日本建築家協会会長(~一九六二年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 

Ⅲ         

 一九六〇年代、前川國男は堂々たるエスタブリッシュメントであった。一九六〇年、前川國男は五五歳である。

 しかし、一方、時代は若い世代のものとなりつつあったとみていい。一九六〇年代、日本の建築界の大きな軸になったのは、丹下健三であり、メタボリズム・グループの建築家たち(菊竹清訓、大高正人、槙文彦、黒川紀章)であった。

 丹下健三の場合、一九四〇年代の二つのコンペ(「大東亜建設記念営造計画」「在盤谷日本文化会館」)に相次いで一等入選し、戦前期に既に鮮烈なデビューを果たしていたのであるが、実質上のデビューは戦後である。「広島ピースセンター」公開コンペ(一九四九年)の一等当選、そして「東京都庁舎」指名コンペ(一九五三年)の一等当選がそのスタートであった。とりわけ、「広島ピースセンター」は戦後建築の出発を象徴する。「大東亜建設記念営造計画」のコンペからわずか七年の年月を経ていないこともその出発の位相を繰り返し考えさせる。A.ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアーが戦後二度と建築の仕事をする機会を与えられなかったことに比べると、彼我の違いは大きい。大東亜共栄圏の建設を記念する建造物と平和を希求する建造物のコンペに同じ建築家が当選するのである。一人の建築家の問題というより、日本建築界全体の脆弱性が指摘されてきたところだ。

 それはともかく、戦後建築をリードしていく役割は若い丹下に移行していったとみていい。建築ジャーナリズムの流れをみると、一九五〇年代後半からは丹下を軸にして展開していく様子がよくわかる。例えば、伝統論争において、縄文か弥生か、民家か数寄屋か、作家主義か調査主義かといった様々なレヴェルのテーマが交錯するのであるが、丹下  白井、丹下  西山、丹下  吉武といった構図のように丹下は常に中心に位置するのである。

 丹下にとって、日本の伝統は決して後ろ向きのものではない。創造すべきものである。日本の伝統建築でも、民家は問題ではない。伊勢や桂のもつ近代的な構成、プロポーションを鉄筋コンクリートで表現すること、新しい技術で近代的な構成原理を表現し、新しい伝統を創り出していくことが丹下の関心である。

 それに対して、前川國男の場合、日本建築の伝統そのものについての意識は薄い。伝統と創造をめぐる普遍原理に関心があり、究極的に日本に近代建築を実現することが最後まで課題であったように見える。ただ、「京都文化会館」、「東京文化会館」から「紀伊国屋書店」、「埼玉会館」(一九六六年)かけて、その作風の変化が見られる。いわゆる「構造の明快性から空間へ」という変化だ。技術的には「打ち込みタイル」の時代が始まる。

 ここでも、丹下が東京都庁舎、香川県庁舎を経て、「代々木国際競技場」や「山梨文化会館」など構造表現主義へと向かうのと対比的である。打ち放しコンクリートの仕上げが難しい。そこで技術的な検討が積み重ねられてきて生み出されたのが「打ち込みタイル」である。技術に対する感覚は全く異なっていると言っていい。

 六〇年代の前川にとって、また、日本の建築界にとって大きなテーマとなったのが、「東京海上火災本社ビル」をめぐる「美観問題」である。一九六五年初頭に依頼を受けた「東京海上火災本社ビル」の設計は、都庁の高度制限によって難航する。そして、当初計画案を変更して(高さを低くして)ようやく竣工したのはようやく一九七四年のことである。

 この「美観論争」には、様々な要素が複雑に絡んでいる。第一に、「東京海上火災本社ビル」が皇居前の丸の内に位置することだ。暗黙の「皇居を覗かれては困る」というコードがあった。第二に、行政指導についての法的な根拠の問題があった。第三に、今日に言う景観問題、高さや色をめぐる問題があった。すなわち、基本的には都市と建築の問題である。建設の、あるいは表現の自由と権力、規制の問題を象徴的に明るみに出したのである。

 この「美観論争」は必ずしも明快な総括がなされているわけではない。今日同じような景観問題が繰り返されているからである。

 近年の京都におけるJR京都駅や京都ホテルの問題のように、景観問題は建築の高さをめぐって争われる。あるいは、超高層建築の是非をめぐって争われる。その原型が「東京海上火災本社ビル」をめぐる問題にある。「高層ビルこそ資本の恣意に対する最大の抑制、そして社会公共に対する最大の配慮にもとづいて計画されたものだ」、なぜなら、「あえて工費上、またいわゆる事業採算上の利点を抑制して」、「敷地面積の三分の二を自由空間として社会公共に役立てる」からである。

 今日の公開空地論である。ここでも、前川國男ははるかに先駆的であったといっていい。しかし、景観問題とはもとより公開空地をとればいいという問題ではない。前川國男の反論にはさらに多くの論点が含まれていた。それにも関わらず、「東京海上火災本社ビル」におけるこの高さに関わるロジックのみが高層ビル擁護の根拠として再生産され続けているのである。

 一九六八年、六三才、前川國男は、日本建築学会大賞の第一回受賞者に選ばれる。「近代建築の発展への貢献」が受賞理由である。戦後建築のリーダーとして当然の評価であった。

 しかし、この頃から、前川の口調にはどこかとまどいや苛立ちが感じられるようになる。受賞の際に書かれた文章は「もう黙っていられない」と題される。「近代建築の発展への貢献」というけれど怪しい、人間環境は悪化の一途をたどっている、よい建築が生まれることはますます難しくなる、建築界には連帯意識が欠如している、といった悲観的なトーンが全体に漂う。基調は、「自由な立場の建築家」の堅持であり、その不易性である。

 前川國男には職能確立のための状況は六〇年代末において厳しくなりつつあるという認識があった。知られるように、六〇年代を通じて建築界で大きな論争が展開される。設計施工分離か一貫かという問題である。建築士法における兼業の禁止規定に関わる歴史的問題だ。その大きな問題が、審査委員長として関わった「箱根国際観光センター」のコンペでも問われた。「設計施工分離」の方針が受け入れられないのである。しかし、興味深いことに、前川は「本来設計施工一貫がよいはず」と書く。今日に至るまで、この問題も掘り下げられていない。

  

Ⅳ         

 一九六八年から一九七〇年代初期にかけて、「戦後」を支えてきた様々な価値が根底から問われる。ひとことでいえば「近代合理主義」批判の様々な運動が展開されたのであった。世界的に巻き起こった学生運動がその象徴だ。前川國男は、日大闘争渦中の自主講座に参加し、理解と共感を示したという。

 その前川國男の「いま最もすぐれた建築家とは、何もつくらない建築家である」(『建築家』 一九七一年春)という名言は時代を象徴する。精神の自由を失った建築家が如何に多いことか。「自由な立場の建築家」の理念を失ってつくることは、前川國男にとって耐え難いことであった。

 苛立ちから絶望へ、文章には悲観的なトーンが目立ち始める。前川國男自身が様々な事件に巻き込まれたことも大きいのであろう。ひとつは一〇年にも及んだ「東京海上火災本社ビル」の問題があった。自発的に高さを削るということで決着したのが一九七〇年九月、竣工は一九七二年である。また、「箱根国立国際会議場」が結局は実現しないという結末も大きなダメージであった。

 しかし、前川國男は、近代建築家としての基本的姿勢を変えることはなかったように思う。「合理主義の幻滅ー近代建築への反省と批判」(一九七四年)は、タイトルだけを読むと、前川の転換を示すように思える。しかし、合理主義を捨てたわけではない。むしろ、「捨てられない合理主義」の立場がそこで宣言されていることは見逃されてはならない。「近代の経済的合理主義よりも次元の一段高い合理主義の論理を見出す「直感力」を鍛えることが一番大切なことだと思われます」という合理主義の位相の理解がポイントである。「直感力」といっても、合理主義に対して「非合理」性を対置しようと言うのではない。「科学的思考」に対する「神話的思考」という言葉も提出されるのであるが、「直感の中にある合理性」を日常的な合理性の感覚というと平たく解釈しすぎるであろうか。少なくとも、産業社会を支える経済合理主義の論理ではなく、社会生活を支える正当性の問題として、合理主義の論理は考えられ続けてきたように見える。

 一九六〇年代末から一九七〇年代にかけて、建築ジャーナリズムは近代建築批判のトーンを強める。『日本近代建築史再考ー虚構の崩壊』(新建築臨時増刊 一九七四年一〇月)、『日本の様式建築』(一九七六年六月)に代表されるような、近代建築史の再読、様式建築の再評価の試みが盛んに展開され出すのである。すぐさま現れてきたのは、装飾や様式を復活しようという流れだ。今振り返れば、皮相なリアクションであった。しかし、そうした趨勢とともに日本の近代建築をリードしてきた前川國男の影は薄くなっていったことは否めない。

 日本における近代建築批判の急先鋒となったのは、例えば、長谷川尭である。その『神殿か獄舎か』(一九七二年)は、建築家の思惟を「神殿志向」と「獄舎志向」に二分し、「神殿志向」の近代建築家を徹底批判する。主要なターゲットは、前川國男であり、丹下健三であった。長谷川尭が評価するのは、豊多摩監獄の設計者である後藤慶二のような建築家である。あるいは商業建築に徹してきた村野藤吾のような建築家である。掬い取ろうとするのは「昭和建築」=近代合理主義の建築に対する「大正建築」である。

人民のために、大衆のために、あるいは人類のためにというスローガンを唱えながら、常に自らを高みにおいて、何ものかのため、究極には国家のために「神殿」をつくり続けるのは欺瞞だ。その舌鋒は、当然のように建築家という理念そのものにも向けられる。プロフェッションとしての、すなわち、神にプロフェス(告白)するものとしての建築家、あるいはフリーランスのアーキテクト、あらゆる権力や資本から自由で自律的な建築家のイメージは幻想ではないか。何処にそんな建築家が存在しているのか。口先だけで綺麗ごとをいう。建築家はそもそも獄舎づくりではないか。

 「獄舎づくり」と「自由な立場の建築家」の間には深く考え続けるべきテーマがある。「獄舎づくり」であることを自覚することは、現実を支配する諸価値をアプリオリに前提することなのか。一方で、「獄舎づくり」の論理はコマーシャリズムの世界に一定の根拠を与えて行ったようにみえるからである。装飾や様式の復活といった、後に、ポストモダン・ヒストリシズムと呼ばれた諸傾向を支持したのはコマーシャリズムなのである。

 一方、七〇年代に入って、日本において近代建築批判を理論的にリードすることになったのは、『建築の解体』(一九七五年)を書いた磯崎新であった。その近代建築批判としての、引用論、手法論、修辞論の展開は、建築を自立した平面に仮構することによって組み立てられている。すなわち、近代建築が前提としてきたテクノロジーとの関係、社会との関係を一旦は切断しようとしたのであった。建築をテクノロジーや社会などあらゆるコンテクストから切り離すことに置いて、古今東西あらゆる建築は等価となる。思い切って単純化して言えば、あらゆる地域のあらゆる時代の建築の断片、建築的記号やイコン、様式や装飾を集めてきて組み合わせる、そうした「分裂症的折衷主義」に理論的根拠を与えたのが磯崎新であった。これまたポストモダン・デザインの跳梁ばっこに根拠を与えたことは否定できないのである。 

 こうして、前川國男は、『神殿か獄舎か』と『建築の解体』という全く対極的な近代建築批判に挟撃されることになる。ただ、『神殿か獄舎か』が上梓された同じ年に、「中絶の建築」が書かれていることは想起されていい。「今日の建築家は新製品新技術の情報洪水の中から取捨選択に忙殺され、しかもその最終選択に確信をもち得ず、ついに一箇の「デザイナー」になり下がって現代の芸術とともに「中絶」の建築への急坂を馳せ下ろうとしている。・・・・「中絶」の建築は「中絶」の都市を生み、「中絶」の都市は、「流民のちまた」として廃棄物としての「人生」の堆積に埋もれていく他はないであろう。」。

 一九八六年六月二六日、前川國男は逝った。享年八一歳。その後まもなく、バブル経済がポストモダニズム建築の徒花が狂い咲こうとは夢にも思えなかったにちがいない。前川國男の死の意味が冷静に問えるようになったのはバブルが弾け散ってしまってからである。

    

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