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2025年1月5日日曜日

書評:21世紀の資本と建築の未来〜飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社,2014年)〜,布野 修司,建築討論004,日本建築学会,201504

https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html 

書評001

21世紀の資本と建築の未来

飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)

 

布野修司(日本大学特任教授)

 

力の入った現代建築批判である。

執筆の大きな動機となっているのは、新国立競技場計画設計競技の問題であり、最優秀賞を獲得したザハ・ハディド案(写真1abc)だという。

「らしい」建築とは、ハディド「らしい」建築という場合の「らしい」建築である。確かに、広州大劇院(写真2ab)、北京・銀河SOHO(写真3abなどこの間の一連の作品[1]をみると、ハディド「らしい」建築とはどのようなものかはおよそ理解できる。著者によれば、「そのどれもが、グニャグニャしていたり、壁が反りあがっていたりするものばかりである」。「敷地の条件や、その土地の歴史や風土、周辺環境や気候、予算、あるいは実際にそれを使う人たちのことよりも、彼女自身の建築美学とダイナミズムの方を常に最優先する」建築である。著者は、フランク・O・ゲーリーのルバオ・グッゲンハイム美術館1997年)、 ナショナル・ネーデルランデン・ビル (通称「Dancing Building - "踊るビル"プラハ1995年、写真4)などの一連の作品[2]、レム・コールハウスのCCTV中国中央電視台新本社屋など一連の作品も「らしい」建築とする。

すなわち、世界的に著名な建築家たちの名前がブランドとなった建築が「らしい」建築であり、世界的建築家(アーキスター、スターキテクト)のブランド作品ということだけで選ばれる事態、「資本主義の欲望」の「マーケット」で「建築」が消費されていく「暴走」への危機感が本書の基底にあるという。

問題は、「何者も国家と資本の論理から逃れられない絶望の只中で、未来の建築をいかに構想できるのか」(本書「帯」「誰のための建築か?」)である。

 

 「らしい」建築批判

著者の主張は極めて明快である。

「建築」は「建築家」の自己表現としての「作品」ではない、すなわち「芸術」ではない、故に、「自立した建築」、「美学としての建築」は認められず、「らしい」建築は否定されねばならない、建築は、その場所の歴史性、地域性を踏まえて、使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になってつくるものである、というのが著者の基本的な視点、立場である。

全体は1~9の章(節)に分けられているが、その主張のポイントをまず要約しよう。

新国立競技場のコンペをめぐっては、東京開催も含むプログラムそのものの問題、敷地選定の問題、応募者の選定の問題、技術的問題など様々な問題が指摘されるが、著者が批判の中核に据えるのは、「ブランド建築家」の「圧倒的な造形性」をアピールする作品が極めて政治的な戦略として選定されたという点である(1 新国立競技場計画設計競技、2 ザハ・ハディド案)。

「らしい」建築は、一方「アイコン建築」と呼ばれる。「アイコン建築」は、C.ジェンクスの“Iconic Building(アイコン的建築物)”(2005)に由来するが、「1990年代以降に世界各地で相次いでいるグローバル資本と結びついたスター建築家(スターキテクト)の設計による建築物を総称」するのが「アイコン建築」である。「アイコン的建築物とは、相矛盾するイメージが圧縮された、人目をひく得体の知れない形態を持つ建築物をさす」(3 ブランドとしての建築家)。

著者は、建築がアイコンと化し、建築家がブランドとなり、ともにグローバル資本の商品となりつつあることを確認しながら、一方、建築がアート(美術品)として、美術館に展示される事態をも指摘している。具体的に取り上げられているのは石上純也(「空気のような建築」)である。

如何にこうした事態に立ち至ったのか、著者は大きく歴史を振り返る(4 革命の終焉)。「らしい」建築がとくに顕著になったのは1970年代以降である。著者によれば、1789年のフランス革命が近代の起点であり、それとともに始まった近代化プロジェクトは1968年のパリ五月革命によって終焉を迎える。以降、資本の論理が優位となり、建築はそれに準じていくことになる。ポスト・モダニズム建築はその先駆けであり、建築はイデオロギーではなくスタイルとなり、革命抜きの趣味的なものとなり、スノビズムによって支配されることになった。

そこで著者は、70年代初頭に活動を始めた安藤忠雄と伊東豊雄に焦点を当てながら、日本建築の70年代以降を問う(5 「社会性」からの撤退)。まず取り上げられて批判されるのは、1960年代初頭に「住宅は芸術である」と宣言し、「社会から隔絶された小さな住宅内部にのみユートピアが宿る」とし、「他者性を一切無視して、自閉的で、自己だけが満足できる抽象性の美学」に浸った篠原一男である。そして、その自己閉塞性を離れて、バブル経済とともに本格的に資本主義社会(建築的ブランド社会)へと没入した、安藤・伊東の世代の試みも、近代以降の「大きな物語」(J.F.リオタール)が砕け散った後の「小さな物語」の散乱にすぎないという。詳細は省略するが、それぞれ丁寧に言説と作品が追いかけられている。結論は、それぞれ「らしい」建築を再生産し続けるブランド建築家となったということである。安藤忠雄の作品について、「確かに一般的には、安藤はこれまで地域性を考えている建築家として評価されてきた。地域性を普遍性と融和させ、コンクリート打ち放しの建築なのに温かみがあると評価されてきた。社会と建築との関係性を考える建築家だと評価されてきた。」、だがしかし、安藤の作品は、世界のどの土地に建築を計画しても、そのどれもが同じような、コンクリート打ち放しの箱ばかりである。」K.フランプトンが「批判的地域主義(クリティカル・リージョナリズム)」と評したのは「事実誤認」であり、安藤は自己の定番商品を再生産し続けているだけである、という。

では、どこを目指すべきなのか。著者は、ポスト・モダニズムの潮流の中から現れてきたネオ・モダニズムの動向に眼を向ける(6 ポスト・モダニズムからネオ・モダニズムへ)。ネオ・モダニズムの建築は、1995年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された“Light Construction”展を淵源するというが、具体的には、1990年代後半以降に現れてきた、1910年代から1920年代に出現したモダニズムの建築を踏襲するかのような一群の建築をいう。SANAAの一連の作品にひとつの焦点が当てられるが、ザハ・ハディドが「ザハ・ハディドとシュプレマティズム」展を開催し(2012年)、マレーヴィチやエル・リシツキーの作品と自らの作品を比較するように、モダニズムの建築の出自に眼が向けられ始めるのである。

しかし、ネオ・モダニズム建築に著者が期待するところはない。何故なら、「「社会革命」や「政治性」が不在だからである」。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築のヴォキャブラリーをリサイクルしたり、リバイバルするのみであり、美学の建築であることはポスト・モダニズム建築と変わるところはない。「美学としての装飾性」が「美学としての抽象性」に置き換わっただけであり、引用の対象の違いに過ぎないとする。いずれも「革命的」でなく、「趣味的」である。ネオ・モダニズム建築は、モダニズム建築の「パスティシュ」(模倣、物真似)であり、ジャンク(ゴミ)である。

以降、著者のターゲットは伊東豊雄あるいは石上純也に向けられ、とりわけ、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」をめぐって批判が展開される。まず、仙台メディアテーク(2000年)以降の作品における伊東の方法をトレースしながら、伊東「らしい」建築を明らかにする(7 建築は芸術か?)。そして、「らしい」建築に対して、世界中に散りばめられた無名の建築、B.ルドフスキーのいう「建築家なしの建築」を「らしくない」建築として対置した上で、建築と芸術の概念の成立を振り返ったうえで「建築は芸術ではない」ことが確認される。

続いて、東日本大震災以後の「みんなの家」(写真5abc)に関わる伊東豊雄の言説をとりあげて、その「転向」、「自己批判」、すなわち、「作品」「個の表現」を否定し「社会性」を重視する方向をよしとする(8 誰のための建築か?)。すなわち、「場所の歴史性や地域性をよく考え」「使い手のことを第一に考え、素朴で地味な建築を、使い手と一緒になってつくる」ことが建築家の役割だとする。一方、石上純也については、「社会改革」の意識が著しく欠落しており、「高度資本主義システムを、ただ黙って追認しているだけである」と厳しい。

そして最後に、東日本大震災以後、「社会性」の方へと大きく舵を切ったかに見える伊東豊雄について、3.11以後の「被災地の中」と「被災地の外」の仕事を比較しながら、その「作品主義」、「ブランド建築家」の本質は変わらないとする(9 東日本大震災)。「「みんなの家」は、それまでの伊東の「作品」と、その見せ方を少し変えただけのものに過ぎない」、「「みんなの家」と称して、東日本大震災という悲劇の物語を、自分自身の建築家としての「業績」に、都合よく取り込んだ」如何にも伊東「らしい」建築であるとする。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の新国立競技場への態度についても、一貫性がないと批判する。

最後の結論は、いささか投げやりである。

「したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは―これは絶望的な事実であるが―ただ、それだけなのである」

 

「らしくない」建築とは?

 さて、いくつか議論のポイントを抜き出してみよう。

 第一に、以上の結論のみであれば、なんでもあり、ということになりかねないのではないか。本書が鋭く批判する伊東豊雄、安藤忠雄、ザハ・ハディド、レム・コールハウス、フランク・O・ゲーリー、SANAA,石上純也なども、「資本主義システムの論理の中で、実にうまく立ち回っている」ということですんでしまうのではないか。

 第二に、本書は、「らしい」建築批判ということで、一般的に、建築を建築家の個の表現、すなわち作品ととらえる立場、建築を芸術と考える立場を、表現主義、作品主義、建築至上主義・・・として予め排除するとするのであれば、それ以上議論は進展しないのではないか。本書は、芸術の成立をめぐってかなりの頁を割くが、建築とは何か、建築家とは何か、表現とは何か、作品とは何か、芸術とは何か、ということであれば、それぞれ多くの論考があり、議論の歴史がある。

 第三に、著者は、建築の「社会性」を「らしい」建築、「自立した建築」に対置するけれど、「社会性」とは何か、その具体的なありかたは必ずしも明快に論じられていない。

「建築家が「自律した建築」を追求していると仮定したとしても、それは、わずか200年ほど前からの話である」というが、目指すべき建築のあり方は200年前以前の建築のあり方であろうか。

著者は、「らしい」建築に「らしくない」建築を対置して、「建築家なしの建築」に言及する。ヴァナキュラーな建築世界を支える原理に着目するということであれば、その方向性については、評者も含めて、共感し共有する建築家は少なくないと思う。しかし、そうした建築世界を現代においてどう実現していくかについては掘り下げられていない。もちろん、その課題は、著者のみならず、現代建築のあり方を批判する全てが共有すべき課題であるが、建築家など要らない、「使い手のことを第一に考え、使い手と一緒になって」つくればいいといって済むほど単純ではないだろう。使い手とは誰か、誰がプロジェクトをオルガナイズするのか、誰がつくるのか、建築の主体、建築をつくる方法、仕組みと過程をめぐって様々な問題を議論する必要があるのではないか。

第四に、わかりにくいのが著者の近代建築とその歴史についての評価である。フランス革命を近代の開始と捉え、「市民革命」とともに歩んできた近代建築あるいはモダニズム建築を著者は高く?評価しているように思える。少なくとも近代建築批判の視点は希薄なように思える。近代建築の初心に戻れ!ということであろうか。

著者は、1968年に「革命は終わった」といい、以降、資本の論理が建築を支配するようになったとする。そして、以降に現れたポスト・モダニズムの建築、ネオ・モダニズムの建築などを全否定する。それらには「社会革命」や「政治性」が不在だからだという。であるとすれば、何故「革命が終わったのか」についてのさらなる分析が必要ではないか。そして、未来の建築を構想するためには、現在において「社会革命」がどのように展望されるかを示す必要があるのではないか。

第五に、1968年以降、資本の論理が建築を支配するようになったというが、資本の論理はむしろ一貫しているとみるべきではないか。H.ルフェーブルが社会的総空間の商品化と規定する、不動産が動産化し、土地のみならず建築空間そのものが売買される事態は1960年代に世界中で顕在化していた。今や、空気や水まで商品として売買されるところまで至りつつあるけれど、1970年代以降に建築をめぐって顕在化していったのは、計量可能な空間のみならず、そのイメージすら商品化される事態である。プレファブ住宅もただの箱では売れず、そのスタイル、デザインが売られるようになる。著者が指摘する通り、ポスト・モダニズムの建築の跋扈はまさにそうした資本主義の新たな位相に照応するものであった。指摘したいのは、ヴァナキュラー建築の世界を解体してきたのは、むしろ、近代建築の理念であり、産業化の論理ではないか、ということである。世界中どこでも同じような建築(インターナショナル・スタイル)を建てるという理念は、場所の歴史性や地域性を無視すること前提としており、工業化工法(プレファブ建築)は建築を土地と切り離すことを前提としているのである。

  問題は、産業的空間編成の問題であって、単に建築デザインの問題ではない。著者がいう「社会変革」が空間編成のレヴェルで構想されているとすれば全く異議はない。ポスト・モダニズム建築が、単に空間を覆う表層デザインのレヴェルにおけるスタイルの選択に終始したという指摘もその通りである。

ただ、未来の建築を構想する可能性があるとすれば、原理的には近代建築の根源的批判の上にしかないことははっきりしているのではないかと思う。そして、様々な近代建築批判の具体的な試みの中から可能性を見出すしかないのではないか。多様な試みが、好み、趣味、スタイルのレヴェルにとどまる限り、資本主義システムのうちに回収され続けるであろうことは、著者の指摘する通りである。もしかすると、著者は、個我、オリジナリティ、作品、芸術といった近代的諸概念を廃棄し、超越した地平に建築の未来をみようとしているのかもしれないけれど、「らしくない」建築で覆われた世界がどのようなものか、どのような空間システムによって可能なのか、少なくとも本書において示されているわけではない。

  

「アイコン建築」と21世紀の資本

議論の発端は、「アイコン建築」の出現である。そして、「ブランド建築家」の出現である。

第一に、「アイコン建築」を可能にしたのはCAD,CGなどコンピューター情報技術ICTである。自由自在に形、アイコンを操るトゥールの発達があり、それを実現する施工技術、建築生産技術(BIM)の発達がある。「アイコン建築」は、だからCADBIM)表現主義とも言える新たな動向とみることができる。

第二に、「アイコン建築」が出現する背景にあるのは、四角い箱型のジャングルジムのような超高層がヴァナキュラー化するほど林立する大都市の状況である。経済的合理性の追求が生み出した、画一的で、均質化する都市景観の中で、それを異化する個性的な形態、スタイルが求められるのである。そこに作動するのは資本主義の差異化のメカニズムである。

第三に、クライアントの出現がある。「アイコン建築」を欲求し、実現させたのは、とてつもない富を蓄積した富裕層である。

すなわち、「アイコン建築」はひとり「ブランド」建築家によるものではない。グローバル資本主義の大きな流れの中で生み出されたのが「アイコン建築」である。ただ、「アイコン建築」の「楽園」と言われる中国については、今後の動向を含めて別個の分析が必要であろう。資本統制が敷かれており、世界富裕ランキングに多くが名を連ねているといえ、富を自由に移動できるかどうかは疑問であり、グローバル資本主義の自動運動というわけにはいかないからである。市川紘司がレポート(「21世紀中国建築論とアイコン建築の終焉について」『建築討論』003号)するように、「アイコン建築」統制の動きもある。このこと自体、建築表現と政治の問題として議論すべきであろう。

本書が焦点を当てるのは、いわゆる建築家、それも世界的建築家(スターキテクト、アーキスター)である。著者は、加熱する資本主義システムに加担すると「世界的建築家」を批判するが、「世界的建築家」の相対的地位の下落は明らかである。

近代建築の英雄時代の巨匠たちは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」として理念化される存在であった。近代建築の歴史の過程で国境を越えて活躍する「世界的建築家」が生まれるが、近代建築の理念とそれを実現する建築家の理念は共有されてきたといっていい。しかし、世界資本主義のグローバルなさらなる展開において、建築家は、最早「世界建築家」ではありえないし、その理念も成立しない。問題は、それどころか、「スターキテクト」「アーキスター」と呼ばれる世界的著名な建築家が「ブランド建築家」として資本に使われる事態が出現しているのである。

確かに、ありとあらゆるものを差異化し、商品と化していく資本主義の底知れぬ潜在力をまず認めるべきであろう。しかし、一方、その行く末も見極める必要もある。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)は、18世紀以降今日に至る世界の富の蓄積と分配の歴史を明らかにするが、1970年代以降、資本と労働の格差、持てるものと持たざる者との格差は大幅に増大する。ポスト・モダニズム建築の百花繚乱とますます富を蓄積する富裕層の増大とは照応している。「アイコン建築」の勃興もマクロには富のかなりの比率を所有すると予測されるトップ10%の富裕層の動向と不可分とみることができるであろう。トマ・ピケティの指摘で興味深いのは、20世紀前半の革命と戦争の時代、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代に格差がもっとも縮まっていることである。皮肉なことに、産業革命以降に蓄積されてきた富のストックが破壊されたからだという。

トマ・ピケティの予測によれば、グローバル資本主義の自己運動に委ねられることになれば世界は大きく二分化されていくことになる。そうなると、建築家の世界も「ブランド建築家」と「アーキテクト・ビルダー」(あるいは「セルフ・ビルダー」)に二分化されていくのかもしれない。

 

本書で、最も厳しい批評が加えられているのは伊東豊雄である。その言説のぶれについては、評者も論評したことがあるが[3]、著者が執拗に問うように、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との落差、分裂はこれまでにないもののように思える。この分裂は、磯崎新が1968年に「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見てしまった」という、その裂け目に通じる分裂かもしれないとも思う。磯崎はこう書いていた(『建築の解体』)。

「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは,その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば,そのデザインの行使過程,ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい」「デザインを放棄する,あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」

建築家に一貫するものとは何か、何がそれを要求するのか、何がそれを担保するのか、ということを否応なく考えさせられる。先の評論で「建築の永久革命」と書いたが、伊東豊雄という建築家は、常に新たな建築空間を追い求めてきた建築家だと思う。一貫するもの(例えば様式)が内にある建築家と外にある建築家がいる。後者であれば、「作品」毎に自在に様式を選択、折衷することが一貫する方法である。引用論、記号論、手法論などで理論武装するポスト・モダニズムの建築がまさにそうであった。前者の例としては、著者が挙げるようにコンクリートの箱をつくり続ける安藤忠雄がまさにそうである。伊東豊雄の場合、様式選択主義とは無縁である。造形主義でも、表現のための表現を追求しているわけではない。著者は、方法論の再生産といって非難するが、そうだとすれば、伊東豊雄に一貫するのは方法論である。方法、理論は議論の前提である。何も伊東を弁護しようというわけではない。伊東の「転向」「分裂」は、まずは方法論に行き詰った、理論的に破綻したのではないか、とみるべきではないかということである。「らしい」建築と一括するけれど、個々の方法の差異はみる必要があるということである。方法論には方法論を対置する必要がある。「みんなの家」の方向をよしとするのであれば、それが世界を覆う方法論を鍛えて提示すべきということである。

致命的問題は、建築の方法論なるものが、また、建築を語る言語が、建築界の内部で、建築家の仲間内で閉じていることである。本書が全体として告発するのは、建築専門雑誌などの媒体を含めて、一般的に開かれていないということである。全くその通りである。敢えて言えば、本書における議論も一般には難しいだろう。次元は異なるが、少なくとも、一般にわかりやすい写真や図が欲しかったように思う。閉じていると言えば、この書評もそうなのである。












 



[1] 1998 - ローゼンタール現代美術センター(シンシナティオハイオ州2003年竣工)、2010 - 国立21世紀美術館MAXXI)(ローマ)、2012 - ヘイダル・アリエフ文化センターバクーアゼルバイジャン)等々。

[2] 1989 ヴィトラ・デザイン・ミュージアム(ドイヴァイル・アム・ライン)、1999 メディア・ハーバー・ビル(デュッセルドルフ)、2000 エクスペリエンス・ミュージック・プロジェクトなど。

 

[3] 「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」『現代建築水滸伝 建築少年たちの夢』彰国社、2011年。


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