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2023年2月7日火曜日

マスタ-・ア-キテクト制,雑木林の世界61,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199409

 マスタ-・ア-キテクト制,雑木林の世界61,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199409

雑木林の世界61

 マスター・アーキテクト制

 

                布野修司

 

 マスター・アーキテクト制というのを御存知であろうか。耳慣れない造語だから、おそらく一般には知られていないであろう。また、その概念も今のところ明快ではない。

 ところで、その耳慣れないマスター・アーキテクト制についての懇談会が開かれて議論する機会があった。財団法人、建築教育普及センターの主催で講師が磯崎新氏である。建設省住宅局の羽生建築指導課長、青木専門官など少人数の会であり、何故か、僕と芦原太郎氏が加わった(7月13日 於:アークヒルズ)。何故かといっても、多少の理由はある。建築教育普及センターでは、この間、景観をめぐる懇談会をもってきたのであるが、その議論のなかで度々、マスター・アーキテクト制もしくは現行の建築指導システムに変わる新たな仕組みについて議論してきていたからである。

 ところで、マスター・アーキテクト制とは何か。ある建築あるいは都市計画のプロジェクトを、全体デザインを統括するひとりの建築家(マスター・アーキテクト)を指名し、複数の建築家の参加のもとに遂行する。マスター・アーキテクトは、予め、共通のガイドラインを設定し、デザインを方向づけるとともに、各建築家のデザインを指導し、調整する。一般的には以上のように言えばいいであろうか。

 複数の建築家が参加するのであるから、ある程度大規模なプロジェクトであることが前提である。具体的には、住宅都市整備公団の多摩ニュータウン、ベルコリーヌ南大沢で内井昭蔵氏をマスター・アーキテクトとして行われた例がある。また、同じく、内井昭蔵氏をマスター・アーキテクトとする滋賀県立大学のキャンパス計画の例がある。その場合、予め、全体の配置計画と用いる素材や色調などが与えられるといったやり方である。

 こうしたマスター・アーキテクト制は、もう少し一般的に広げて考えてみると、個々の建築と町並みの形成、個々のデザインとアーバン・デザインの関係に適応可能ではないか。先の懇談会は、マスター・アーキテクト制を建築行政の手法として、あるいは都市計画の手法として採用できないか、ということをテーマにしていたのである。

 磯崎新氏は、熊本アートポリスのコミッショナー・システムの提案者である。続いて、富山県でも「町の顔づくり」プロジェクトを仕掛けてきた。また、博多のネクサス・ワールドでは、マスター・アーキテクトに近い役割を果たした。ところで、上で説明したマスター・アーキテクト制と磯崎流のコミッショナーシステムはかなり異なる。懇談会では、マスター・アーキテクトの役割について議論となった。マスター・アーキテクトは何をするのか。

 熊本アートポリスの場合、コミッショナーは、建築家を指名、もしくは選定するのみで、全体をコントロールするマスター・プランを持たない。それに対して、いわゆるマスター・アーキテクト制は、形態や材料、色彩などを規定するガイドラインもしくはマニュアルをもつ。あるいは、マスター・アーキテクトが直接調整の役割をもつ。

 どちらがいいのか。単純には結論がでるわけではない。磯崎の場合、コミッショナーおよび建築家の能力に全幅の信頼がなければ成立しない。下手をすれば、ボス建築家が仕事を配る仕組みとなんらかわりはなくなるのである。その点には大いに危惧がある。一方、マニュアルでデザインのガイドラインを設定する問題点も気になる。懇談会では、デザインの自由、不自由、地(グラウンド)のデザインと図(フィギュア)のデザイン等々をめぐって、議論は大いに広がりを見せた。

 もうひとつの理念として話題になったのが、シティ・アーキテクトあるいはタウン・アーキテクトである。ヨーロッパの場合、各都市にシティ・アーキテクトが居て、強力な権限のもとに建築のデザインをコントロールしている。特に、ドイツにはシュタット・アルキテクトの伝統があるという。磯崎氏の、自らがベルリン、フランクフルト、デュッセルドルフなどで経験した事例は極めて参考になる。ベルリンには、一九世紀のベルリンを理想とするシュタット・アーキテクトがいて、建築家は苦労しているといった事実の一方、B-プラン(地区詳細計画)など極めて厳密に思えるけれど、シュタット・アルキテクトによってはかなりの自由があるのだという。

 シティ・アーキテクトの制度は考えられないか。日本の場合、建築確認に携わる建築主事さんは現在一七〇〇名におよぶという。自治体の数は三千数百であるけれど、どの程度シティ・アーキテクトが存在すればいいのか。大きな自治体では地区毎にマスター・アーキテクトがいるのではないか。任期はどの程度でいいのか。議論はどんどん膨らんでいくのである。

 ひとりの建築家ではなく、デザイン・コミッティのような委員会制の方がいいのではないか。人数が多いと思い切った町の整備ができない恐れがありはしないか。信頼すべき建築にまかした方が面白い町ができるんではないか。しかし、とんでもない町ができた場合だれが責任を取るのか。・・・

 都市計画というのは、実に多様な主体の建築行為によって実践される。その調和を計りながら、個性のある町をつくっていくことは容易なことではない。日本の町の場合、縦割り行政のせいもあって、施策の一貫性がない。

 例えば、ある駅の周辺をとってみる。駅舎は、鉄道会社によってデザインされる。経済性のみで設計されるとすると、どの駅も同じようなデザインになる。駅ビルにデパートが進出すると地元のあるいは駅前の商店街との調整がデザイン的にも要請されるが、調整機構がない。広場や公園、歩道のデザインと駅舎のデザインは無関係に行われる。

 議論は議論として、アーバン・デザインの新たな仕組みを模索しながら、具体的な試みが積み重ねられねばならない。建設省としても、建築教育普及センターを拠点に新しい取り組みを企画中という。

 具体的な地域についてのケーススタディをしたい、そう考えているところで、ささやかなチャンスが得られそうだ。何人かの建築家と一緒に、出雲市の駅前まちづくりを全体的に考え、取り組んでみようというプログラムである。うまく行けば、システムとして、マスター・アーキテクト制を考える大きな手がかりとなる筈である。


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