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2023年2月14日火曜日

80年代とは何だったのか、雑木林の世界77,199601

 80年代とは何だったのか、雑木林の世界77,199601

雑木林の世界77 

80年代とは何だったのか

布野修司

 

 第3回かしも木匠塾が開かれた(一九九五年一一月二五日 岐阜県加子母村 雑木林の世界     参照)。今回は、エコ・ミュージアム構想、森林研修センターの全体計画、バンガローの設計案を持ち寄って、地域のまちづくりを考えるのがテーマであった。東洋大学、千葉大学、芝浦工業大学、京都造形大学、大阪芸術大学、京都大学の学生たちがそれぞれの案を模型やパネルにして参加し、村の人々の意見を求めた。「木匠塾」とは一体何か、何をやろうとしているのか、地域にとってどんなメリットがあるのか、どういう交流が考えられるのか等々、素朴かつ本質的な疑問も出され、議論は前二回以上に白熱したものとなった。村の事情も具体的に説明され、いくつかの困難な事情も明らかになった。相互の理解は深められたと思う。議論は積み重ねるものである。イヴェント的関係から、より粘り強い関係への一歩が踏み出されようとしている、そんな感想をもった。学生たちの大半は、村営のバンガローに泊まり込み、一晩、特にバンガローの設計についてお互いの案の相互批評を行い、実現への夢を膨らませることになった。学生主体にプロジェクトを運営できたらユニークなものができるのではないか、と思い始めている。

 

 昨年暮れ、相次いで、インタージャンルにテーマをつなぐシンポジウムに出席する機会があった。ひとつは、BESETO(ベセト)演劇祭のシンポジウムで「リアルとは何か・・・同時代の表現をめぐって」と題されたシンポジウムである。もうひとつは、「一九八〇年代の表現領域ーーー八〇年代とはなんだったのか?」と題された武蔵野美術大学の「武蔵野美術」創刊一〇〇号記念シンポジウムと銘打たれたものである。ベセトとは北京(       )、ソウル(     )、東京(     )の頭文字を連ねたもので、東アジアの三つの首都の演劇関係者が集う第二回目のお祭りが東京のグローブ座を中心に開かれたものである。日本側実行委員長は鈴木忠志氏で、僕が出席したシンポジウムのコーディネーターは菅隆行氏、パネラーは、佐伯隆幸(フランス近代演劇)、小森陽一(日本近代文学)、高橋康也(英文学)の諸氏であった。武蔵野美術大学の方は、司会が高島直之(美術評論)、パネラーは、柏木博(デザイン評論)、島田雅彦(作家)、上野俊也(政治思想)の諸氏であった。何故、筆者が演劇なのかというと、その昔、少しだけ、芝居のプロデュースをしたことがあるからである。これでも、シェイクスピア学会のシンポジウムに出たこともあるのである。

 二つのシンポジウムに共通していたのが、「八〇年代の表現とは何か」というテーマである。建築表現における八〇年代とは何か、改めて考えさせられることになった。また、他のジャンルと比較しながら問いつめられることになった。

  二つのシンポジウムを機会にいくつかの作品を思い起こしてみた。

1980 生闘学舎

1981 名護市庁舎

1982 新高輪プリンス

1983 つくばセンタービル ARK 国立能楽堂 土門拳記念館

1984 TIMES シルバーハット 伊豆の長八 釧路湿原展望資料館 眉山ホール 球磨洞森林館

1985 盈進学園 SPIRAL

1986 RISE ノマド 六甲の教会 ヤマトインターナショナル

1987 ROTUNDA 東京工大 龍神村 キリンPLAZA 

1988 水の教会 下町唐座 ノアの箱船          飯田市美術博物館

1989 TEPIA 幕張メッセ 藤沢市湘南台文化センター 光の教会 ホテル・イル・パラッゾ  スーパー・ドライホール 兵庫県立こども館

1990 青山製図専門学校 水戸芸術館 コイズミ・ライティング・シアター 国際花と緑の博物館 東京武道館 東京芸術劇場 熊本北警察署

1991 ネクサスワールド 再春館 センチュリー・タワー 八代市美術館 東京都新都庁舎  保田窪団地

1992 ハウステンボス

 建築家の名がすらすら浮かべば相当の通というところであるが、いくつか気がつくことがあるであろうか。

 ひとつは外国人建築家の作品が目立つということだ。日本建築もボーダレスの時代になった。日本人建築家の海外での仕事も一気に増えたのである。もうひとつは「建築の解体」(近代建築批判以降の)世代の活躍が目立つことだ。近代建築批判をスローガンに七〇年代にデビューした建築家たちは八〇年代を通じて次々にエスタブリッシュされていくことになる。要するに「ポストモダンの建築」の時代が八〇年代である。

 建築の八〇年代は何であったのかという問いは、ポストモダンの建築とは一体何であったのか、という問いと同じである。

 また、年表の裏面には、前川国男(一九八六年逝去)をはじめとする戦後建築を担ってきた建築家の相次ぐ死がある。そうした意味では、戦後建築が終わりを告げた時代が八〇年代である。

  一言でいうと、「ポストモダンの建築が全面開花した時代」が八〇年代ということになるのであるが、別の言い方をすると、「近代建築批判の試みがコマーシャリズムに回収されていった時代」が八〇年代である。近代建築批判という課題は先延ばしにされ、宙吊りにされ続けたことになる。それどころか、建築そのものがバブル(泡)化する、そんな事態がクローズアップされたのが八〇年代である。建築は空間を包む包装紙であり、その包装紙のデザインの差異が競われた、そんな時代が八〇年代である。

  建築表現の舞台としての都市のありかたそのものがバブルであった。スクラップ・アンド・ビルドの博覧会都市が日本の都市である。

 そして、そうした日本の都市を舞台として展開された様々な表現ジャンルは、どうやら似たような展開をしてきたらしい。島田雅彦氏は、それを村上春樹的なものという。

 八〇年代に露呈したものは、戦後建築の最も悪しき循環ではないか。そんなことを思いながら、阪神淡路大震災のショックもあって、『戦後建築の終焉』(れんが書房新社)を上梓したのであった。

 


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