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2025年7月11日金曜日

基調講演「アジアの建築と都市 :日本からの視座ー世界建築史の構築を目指してー」歴史民俗博物館国際シンポジウム「アジア比較建築文化史の構築─東アジアからアジアへ─」,歴史民俗博物館,20081206ー07

 基調講演「アジアの建築と都市 :日本からの視座ー世界建築史の構築を目指してー」歴史民俗博物館国際シンポジウム「アジア比較建築文化史の構築東アジアからアジアへ」,歴史民俗博物館,2008120607



アジア比較建築文化史の構築 ──東アジアからアジアへ──」

アジアの建築と都市 :日本からの視座―世界建築史の構築を目指して―

 

布野修司

 はじめに

「東南アジアの居住問題に関する理論的・実証的研究」(1978-1987)という東洋大学の研究プロジェクト[]に参加して以来,アジアの諸都市を歩いてきた。出自(バックグラウンド)は,「建築計画学」であり,「建築史学」ではない。専ら依拠してきたのはフィールドワークの手法である。膨大な文献資料がある中国や日本と異なって,東南アジアの場合,手掛かりとなる文献は限られている。その場合,「地面に聞く」(地形,土地利用)方法,あるいは「建築類型学」(ティポロジア)の方法が大きな力となる。また,建築の技術そのもののあり方(その起源と変容)を問うことになる。都市研究としては, 一方でというより,「ハウジング計画論」を主として展開しながら,「都市組織Urban Tissue(Urban Fabric)」研究を展開してきた。

最初に出会ったのがカンポンkampungである。10年をかけてその成果を『カンポンの世界:ジャワの庶民住居誌』[]としてまとめた。このカンポン研究を出発点として,一方でヴァナキュラー建築研究の世界へ[],他方,都市研究―イスラーム都市研究,植民都市研究,そしてアジア都市組織研究―[]に赴くことになった。その経験をもとに,アジアの都市と建築に関する概説書[]も書く機会を得た。以下,その過程で考えてきた,アジア都市建築研究の課題について思うところを記してみたい。

 

O カンポンの世界

19791,アジア都市建築研究の第一歩はジャカルタ,その旧市街コタであった。着いた日の夕刻、いきなり歩いたのがグロドックGlodok地区のカンポンであった。すぐさまいくつかのテーマが意識された。コタKoetaとは,サンスクリットで,都市,城塞,城壁で囲われた「マチ」のことである[]。何故,インドネシアでサンスクリット系の言葉が用いられ続けているのか,東南アジアの「インド化」の問題がすぐさま意識された。ジャカルタは,かつてのバタヴィアであり,オランダ東インド会社VOCの拠点であった。海禁政策をとった江戸時代には,出島を通じて日本が唯一西欧世界と繋がっていたのがバタヴィアである。バタヴィアと江戸は,ほぼ同時期に建設されたアジアの二大都市であり,両都市の都市計画の比較は東西の都市計画の伝統に関わる興味深いテーマである。グロドック地区は,チャイナタウン(中国人居住区)であった。チャイナタウンは,世界中の都市に見ることが出来る。華僑(華人)とその移住に伴う居住文化の拡がりも興味深いテーマである。

そして,カンポンは想像以上に大きな拡がりをもっていた。


カンポンとは,マレー語・インドネシア語で,「ムラ」という意味である。今日,マレーシアでカンポンは行政組織の最小単位を指す言葉でとして用いられる。インドネシアではデサdesaが行政村であり,カンポンは一般的にムラ,自然村を指して用いられている。カンポンガンkampunganといえば「田舎者(イナカモン)」というニュアンスである。しかし,都市でもカンポンという。農村(共同体)的特性を維持する都市の居住地は,アーバン・ヴィレッジ(都市集落)と呼ばれるが,まさにカンポンがそうである。

樹木で覆われた屋敷地が集まって,周囲を柵や土塁で囲われた居住区がカンポンである。バントゥンやマラッカのカンポンと呼ばれる居住区は,西欧人の眼には極めて特異に写った。樹木に囲われた景観は都市というより村落のようである。A.リードは,西欧の都市とは異なる都市集落の様子について書き記した旅行者[]や宣教師[]の言葉を引いている[]。都市は小さな屋敷地の集積からなっており,多くの家があるけれど,木々で覆われていて見えないこと,農村的生活が都市においても続けられていることなどである。

インドネシアの村落共同体の名称とその特性をめぐる議論[10]は置くとして,このカンポンという言葉は,英語のコンパウンドcompoundの語源だという(OEDOxford English Dictionary)。人類学で一般的に用いられるコンパウンド,ホームステッド,セトルメント,さらにホーム,ハウスといった言葉を検討する中で,椎野若菜は,カンポンという言葉がコンパウンドに転訛していく過程に西欧諸国の植民地活動があることを指摘する[11]。すなわち,バントゥン,バタヴィアあるいはマラッカにおいて民族集団毎に囲われた居住地の一画を指してそう呼ばれていたのが,インドの同様な都市の区画も同様にそう呼ぶようになり(インド英語Anglo-Indian English,カンポン=コンパウンドはアフリカ大陸の囲われた集落にも用いられるようになったというのである。コンパウンドというのは,①囲われた空間,あるいは②ムラvillage,バタヴィアにおける「中国人カンポン」のような,ある特定の民族によって占められた町の区画を意味する。まさに,カンポンはそういう空間である。カンポンの語源については,ポルトガルのカンパンハcampanha,カンポ campo(キャンプの意)の転訛,フランス語のカンパーニュcampagne(田舎country)の転訛という説[12]もあるがマレー語のカンポンがその由来であるというのがOEDであり,その元になっているのが,ユールとバーネルのインド英語の語彙集[13]である。

カンポンという言葉が西欧人の到来以前から用いられていたかどうかは明らかではない。カンポンの用例について欧文文献を精査した椎野によれば,camponという綴りは1613年のエレディアErediaの著作に見られ,kampongの初出は1844年だという。一般的にムラを意味するマレー語のカンポンは,しかし,以上のように,英語においては,明確なイメージをともなったコンパウンドとして定着する。コンパウンドが全く語源を異にする「混ぜ合わせる」「複合的」という意味を持つのも興味深い。はっきりしているのは,マラッカ,バントゥンで使われていたカンポンが,インド英語を経て17世紀広範に英語に借入されたことである。そして,カンポンという都市集落の形成がおこなわれたのは西欧との接触においてであることである。

1500年頃のマラッカでは,グジャラート人,タミル人,アラブ人,ジャワ人,マレー人が,明確な居住区を形成せずに居住していた[14]。はっきりしないが,民族毎にある程度まとまった居住区を形成していたことは充分考えられる。ただ,バントゥンのような柵で囲われるかたちではなかったということである。マラッカは交易都市であり,一定の力をもつ商人が居住したと考えられる。ポルトガルのマラッカ占領によって,各民族はそれぞれはっきりした居住区を形成するようになる。棲み分け,分離居住(セグリゲーション)の導入である。バタヴィアの場合,1740年の大虐殺までの中国人を除いて,城塞内にジャワ人など現地人を居住させなかった。城塞外に民族毎に囲うかたちでつくった居住区がカンポンと呼ばれる。マラッカにおいても,ジャワ人,中国人などが居住したのは城塞の外,川向こう(右岸)である。

こうして,カンポンの調査研究は,植民都市研究へと導かれることになった。

 

Ⅰ 「アジア都市建築史」のフレームと視座

アジアの都市と建築の歴史を論述するためにはいくつかの前提が必要である。『アジア都市建築史』において考えたのは以下のようなフレームである[15]

1,アジアという地理的空間をどう設定するかという問題がある。大まかな区分として,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカという時のアジア,ボスフォラス海峡以東のユーラシア大陸,そして,東南アジアの海域世界,ウォーレシアを含めた地域がここでの対象地域である。しかし,アジアという空間は必ずしも固定的なものではない。その語源におけるヨーロッパ/アジアの2分法[16]に忠実に従えば,非ヨーロッパ的なるものがアジアである。例えばイスラーム建築の展開を追いかけてイベリア半島もカヴァーし,また,逆に,西欧列強の非ヨーロッパ地域への進出を追いかけてアフリカ,ラテン・アメリカにも目を配ることが必要である。アジアという地域をその概念の起源に遡って伸縮自在に考える必要があると思う。目指すのは,世界建築史,世界都市史を構想する世界史的視野の獲得である。

2,歴史というからには時代区分が必要である。中国,インドのようにある程度確立された時代区分が前提される場合はそれを用いるとしても,各国毎の歴史区分にとらわれるのは煩瑣であるし,建築や都市のあり方は必ずしも歴史学にいう時代区分によって大きく変わるわけではない。いささか大胆であるが,『アジア都市建築史』では,時代区分よりも,強い個性を持った都市文化,建築文化の成立とその影響という視点による区分を考えた[17]。まず,ヴァナキュラーな建築世界を想定する。また,エジプト・メソポタミア,インダス,黄河という都市文明発祥の3つの核心域からの展開を考える。さらに,イスラーム教建築,ヒンドゥー教建築,仏教建築といった,前近代を大きく支配した宗教建築の系譜を考える。そして,西欧列強による西欧建築の強烈なインパクトを考える。東南アジアを例にすると,土着の建築文化の上に,インド化,あるいは中国化,そしてイスラーム化,さらに植民地化の波が順に及ぶ,およその歴史区分とすることができるだろう。また,それぞれの都市はそれらが重層する空間としてイメージできる。

3に前提になるのは,日本における東洋建築史の蓄積と枠組みである[18]。知られるように,村田治郎『東洋建築史』[19]1972)は,.インド建築史,.中国建築史という2本立ての構成にとどまる。1.イーラーン建築史(先史時代よりイスラーム教建築以前まで),.インド建築史(先史時代より中世,すなわちイスラーム教建築以前まで),.中国建築史(先史時代より近世まで),.イスラーム教建築史(第7世紀後半より近世まで),.西洋系建築の伝来と普及の歴史というのがその構想であったが,1,4,5については書かれなかった。日本の建築史学の視点として「日本」に拘るのは当然である。「日本」の住居のルーツはどこか,「日本」の都城の原型はどこか,「日本」の仏堂の起源と原型は何か。可能な限り広い視野において追及したい。そうした関心に突き動かされてユーラシア大陸を横断した伊東忠太のような巨人がいる。少なくともその視野を前提としたい。伊東忠太は,回教建築についても触れ,いくつかの系統図を書いている。しかし,具体的に系統を明らかにする作業は残されたように思われる。まず問題となるのは日本とアジアの関係である。「西洋建築」に対して「日本建築」のアイデンティティを如何に求めるか,あるいは起源をどこに求めるか,というのが東洋建築史成立の発端である。特に仏教建築,都城,民家の起源についての関心がその展開を生んだ。仏塔や大仏様などへの関心に加えて,日本植民地における都市計画や建築もテーマである。すなわち, 日本からの作業として,第一にトレースすべきは,日本における東洋建築史の展開である。

共通に解明すべきは,建築類型あるいは空間形式および都市組織の起源,形成,変容,転生,保全の原理,法則,メカニズムである。地域を超えるものと土着的なもの,理念と実態,受容と選択,共通性と差異などがテーマとなる。そして,この解明は,異文化間の文化衝突,移転,変容に関する研究の一環となる。

目指すべきは,ひとつの体系ではなく,多様な建築文化の系譜である。アジアの都市と建築の多様性を重層的に浮かび上がらせることである。そのためには,まず,それぞれの地域(国)に軸足を置いて,いくつかの系譜を描いてみる作業が必要である。そして,次にそれを重ね合わせてみることが必要である。日中韓の比較研究がその最初のベースとなるのは明らかである。日本の建築にとって,中国建築の影響は圧倒的である。朝鮮半島についても同様である。そうした意味で,中国建築についての深い理解は必須である。そうした意味で,中国建築の「通時的特質」(田中淡)について議論することはひとつの出発点となる。特質のひとつひとつについて比較することで大きな視野を得ることができるであろう。まず,「日本」あるいは「日本的特質」と同じように「中国(中華,中原)」あるいは「漢民族」の建築とは何かが問題となる。例えば,「重層的閉鎖空間」という特質は,南中国では当てはまらない。「中国」といってもヴァナキュラーな建築的伝統は地域によって大きく異なるのである。「方位の原則」にしても,「建築とコスモロジーの関係」にしても,「建築の等級制」「建築の類型」にしても,多くの議論を提出できる。冒頭に指摘したが,建築の古層を中心―周辺のダイナミズムにおいてとらえる見方が大きな手掛かりとなる。

 

Ⅱ 近代以前のアジアと日本―住宅・寺廟・宮殿・都城―

日本の東洋建築史学の発端にある関心は,中国都城(唐朝大内裏の制)と日本都城(本朝大内裏の制)の関係であり[20],仏教建築の起源である[21]。また,日本の民家のルーツへの関心は共有されてきた。戦後,アジアの都市と建築に関する調査研究は後退を余儀なくされるが,1970年代以降,国際関係が大きく転換する中で,臨地調査が可能となった。留学生も増え,グローバルな視野における情報量も比較にならないほど増えている。確認すべきは,伊東忠太,関野禎以下,先達たちの足跡である。そして,その仮説である。仏教建築を追いかければ当然インド・中国が焦点になる。そして東南アジアも射程に入る。インドに軸足を置けば西アジア,イスラーム建築が視野に入る。イスラーム建築と言えば,村田治郎はつとに満州における「回教建築」を問題にしているのである。

1 ヴァナキュラー建築の世界・・・民家研究のグローバルな展開

日本とアジアの関係について,まずテーマになるのは,日本建築,日本民家の起源に関わる問題である。日本の伝統的住居(民家)は地床式の北方系と高床式の南方系に分かれる,北方系は,竪穴式住居につながり庶民住宅の系譜となり,南方系は高倉,神社,そして寝殿造りなど貴族住宅の伝統を形作った,また,主として東北日本が北方系(もしくは西方系),西南日本が南方系の影響を受けた,というように教えられたけれど,もう少し具体的な検討が必要ではないか。例えば,北方にも高倉の伝統がある。また,柱梁構造が日本の主流と思われるけれど,校倉形式の伝統もある。近年,縄文時代に遡って,大型住居の遺構の発掘が相次いでいる。日本の住居史研究,民家研究にも大きな視野が必要とされる。

われわれは既に,村田治郎の『東洋建築系統史論』[22]をもっている。東北アジアからの視点とはいえ,ユーラシアの相当部分をカヴァーする構えがある。そして,例えば,R.ウォータソンの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』[23]がある。「オーストロネシア世界」ということでは,東はイースター島,西はマダガスカルまでの広い範囲が視野に収められる必要がある。ポウル・オリバー編の『世界ヴァナキュラー建築百科事典(EVAW)』全3[24]があるが,日本の視点から再構成する余地は大いにある。

海外の住居集落については,「建築史」分野よりも「建築計画」分野の展開が多いように見受けられるが,高床,井籠組(校倉),移動住居,コートハウス,町家(店屋,街屋)などをめぐって歴史的,理論的パースペクティブが求められている。住居は基本的に地域の条件に拘束される。このテーマは何も東アジアに限定されない。『世界住居誌』(昭和堂,2005年)で総覧したが,建築の起源,その成立を考える絶好のテーマである。通常,住居のかたちを規定すると考えられる要因として挙げられるのは,①気候と地形(微地形と微気候),②建築材料,③生業形態,④家族や社会組織,⑤世界(社会)観や宇宙観,信仰体系などである。地域が社会文化生態力学[25]によって形成されるとすれば,その基礎単位である住居も自然・社会・文化生態の複合体として捉えることが出来る。

 

2 仏教建築の世界史

寺廟をめぐっては,当然,その起源,オリジナルの形態がまずテーマになる。そして,その起源における形態,あるいは原型が,地域の条件(自然・社会・文化生体複合)においてどう変容するかがテーマとなる。例えば,仏教建築について,仏塔(ストゥーパ,あるいは伽藍配置については,その起源に遡って検討すべきテーマである。ストゥーパの形態には,ある原型が想定される。仏教遺跡に描かれた図像に共通の形態があり,実際にその形態と同じサンチーのストゥーパのような例があるからである。しかし,各地に仏教が伝えられる過程で様々な形態をとる。地域の土着の建築文化が,仏塔の形態に大きく作用するのである。インドからはるか日本に至ると,世界最古の木造建築,法隆寺の五重塔となる。ジャワには立体曼陀羅といっていいボロブドゥールのような事例もある。その形態変遷の過程は,仏教建築史のひとつの焦点である。やがて仏像が成立すると仏堂が建てられる。

ストゥーパ,チャイティヤとともに仏教寺院の中心となる。仏教を教え,また,学ぶ場として必要とされるのがヴィハーラである。あるいは,サンガラマである。ヴィハーラは精舎と音訳される。祇園精舎の精舎である。サンガラマは,僧伽藍摩と音訳されるが,僧伽藍摩は訳されて僧伽藍となり,さらに訳されて伽藍となった。仏教寺院には,僧が生活していくために必要な僧坊など諸施設が必要とされる。この諸施設の配置が,各地でどのように展開していくのかもひとつの焦点である。13世紀初めにインドから姿を消すことになる仏教は,それぞれの伝播の系統において今日までその法脈を伝えている。その大きな系統のひとつが日本であり,チベットである。また,タイ,スリランカなど,原始仏教の伝統を重視し,厳格な戒律保持を誇る南方上座部系仏教がある。中国,朝鮮半島と日本の関係のみならず,南アジア,東南アジアを含めた世界史的視野で様々な検討がなされるべきである。

社寺仏閣についての研究は,日本建築の主流をなしてきたように思える。しかし,そもそも仏教の発祥の地であるインド,そして,その伝播の経路のそれぞれの地域の仏教建築についての情報は少ない。仏教学の膨大な蓄積を「建築史」分野からもう少し体系的に整理する試みがあってもいい。例えば,仏塔の形態変容,地域類型などをめぐっては,既にかなりの情報が集まりつつある。各国の文化財保護行政が次第に整えられる中で,図面資料などドキュメントも増えつつある。日本にはそれを集約し,体系化する役割がある。

ガンダーラについては京大西川研グループ,スリランカ,アンコール,ベトナムなどについては早稲田中川研グループ,あるいは日大片桐研グループ,ネパールについては日本工業大学などの調査研究が知られるが,例えば,チベットやブータンなど「建築史」を確立する大きな作業が残されているように思える。カトマンズ盆地におけるM.Pantの研究[26],ひとつの核になると思う。

 

3 中国・朝鮮半島・日本

仏教建築の伝播に絡んで大きな問題となるのは,日本と中国・朝鮮半島との関連である。「大仏(天竺)様」「禅宗(唐)様」といった日本における様式区分は教わるけれど,そのオリジンについては今でも「日本建築史」の授業で講じられることは少ないのではないか。飯田須賀斯著『中国建築の日本建築に及ぼせる影響―特に細部に就いて』[27]以降,さらなる蓄積と議論があるであろうか。「大仏様」をめぐっては,田中淡の作業を中心として1998年に協議会[28]がもたれたが,その後の展開は如何であろうか。朝鮮半島の柱心包式,多包式との関連についても片桐正夫の論文[29]が知られるが,日中韓の学会で密度高い研究を展開する時代になっている。

筆者が『建築雑誌』の編集委員長として,経験したのが「法隆寺移築説」をめぐる議論である。建築雑誌編集委員宛に「日本と中国の最古の木造建築に使われたモジュール『材』」と題する短い論文が送られてきた。中国五台山の南禅寺と仏光寺,日本の法隆寺が,北宋の将作監・李誡の編纂した『営造法式』にみえる「材」(方桁の丈)をモジュールとして設計されており,前者が唐尺(1尺=約29.6),後者が南朝尺(1尺=約24.5㎝)を基準尺とすることを述べた短文である。「掲載すべきでない」という意見も相当強かったのだが,あえて掲載に踏み切ったのは,①法隆寺五重塔心柱最外層年輪年代をいかに解釈すべきか,②『営造法式』の「材分」制度が唐代から南北朝にまで遡りうるのか,③南朝尺が本当に復原可能で,かりに可能ならば,その基準尺により法隆寺の木割が説明できるのか,などの重要な問題を孕んでいることを重視したためである。建築技術の受容をめぐって,議論の種はまだまだ残されている。

 

4 アジアの都城とコスモロジー

宮殿については,中国都城と宮殿の形式とその変化が大きな主題となる。中国(中原,中華)とその周辺地域との比較は第一のテーマである。ここでは,周辺地域の方がかえって中枢の古層を維持保全とするというテーゼ(田中淡の「吹きだまり」論)がまず興味深い。また,中枢より周縁の方が,その正統性を主張するために理念型が保持される場合が多い。このテーマについては,都城をめぐる議論を是非加えたい。都城についても,単に中国都城と日本の都城を問題にするのではなく,インドを含めたアジア全体を視野に収めると,いくつかの興味深いテーマが浮かんでくるのではないか。見取り図は以下のようである。

王権の所産である都城の形成は帝国の成立地,核心域にみられる。しかしアジアの帝国成立地帯がすべて都城を建設したとはいえない。それについては別途検討が必要となる。前近代において都城の形態を規定するのはコスモロジーである。都城とコスモロジーとの関係を視点にアジアを広く見わたすと,「コスモロジー-王権-都城」連関にもとづく都城思想をもつA地帯と,それをもたないB地帯とに二分される。A地帯に属するのは南アジア・東南アジア・東アジアであり,B地帯はその外に広がる西アジア・北方アジアである。両者の境界は,西方では湿潤と乾燥,北方では温暖と寒冷という生態条件の相違とほぼ対応する。A地帯は,都城思想を自ら生みだした核心域とそれを受容した周辺域という<中心―周辺>構造を示す。その核心域は2つ存在する。古代インド(A1)と古代中国(A2)である。両核心域のまわりには,それらから都城思想を受容した周辺域が存在する。A1の古代インド都城思想の受容地帯が,ベトナムをのぞく東南アジアである。A2の古代中国都城思想を受容したのが,朝鮮半島・日本・ベトナムである。それに対して,西アジアのイスラーム地域にはコスモロジーに基づく都城思想はない。イスラームにもコスモロジーは存在するが,個々の都市がコスモロジーを体現するという思想はない。あるのは,諸都市を群として相互に関連づける思想である。つまり都市の最重要施設であるモスクが,すべてメッカ(マッカ)に向けて立つということである。その結果,イスラーム世界のすべてのモスクさらには都市がマッカのカアバ神殿を磁極として方位づけられる。この壮大なモスクと都市の星座的編成が,イスラームのコスモロジーなのである。これは,個々の都城が<王権を介したコスモロジーの縮図>とするA地帯とは,異なった原理である。歴史をつうじてイスラーム世界が帝国と王都を建設してきた点ではA地帯と同じであっても,同世界が都城思想をもたないB地帯とする理由がある。

 

Ⅲ ヒンドゥーの都市と建築

 インドに軸足を移すと,たちまち「仏教建築」は相対化される。インド亜大陸から仏教は13世紀初頭には消えるのである。「インド建築史学史」については,とても総覧するところではないが,我が『東洋建築史図集』(彰国社,1995年)が,ジェームス・ファーガッソンJames Fergusson1809-1886)の「印度及東洋建築史」[30]のインド・アーリア型,ドラヴィダ型を踏襲しているのが現状である。管見の範囲で,最も体系的な概説書は,Christopher Tadgell"The History of Architecture in India", Architecture Design and Technology Press London,1990,EARLY INDIA,1 BUDDISTS PREDOMINANT 4C B.C.-4C A.D.,2 BUDDISTS TRANSFORMED AND ECLIPSED  HINDU PREDOMINANT 5C-13C,3 THE ADVENT OF ISLAM; HINDUS AND JAINAS DEFENSIVE 13C-18C,4 LATE INDIAといったオーソドックスな記述フレームをとっている。「インド建築」についての情報が極めて少ないなかで,特筆すべきは,神谷武雄の英訳版が大きな反響を呼んだ『インド建築案内』他の膨大な作業である。

1 ヴァーストゥ・シャーストラ

インドには,古来,2つの知ヴィドヤVidyaの体系があり,それは,形而上学パラ・ヴィドヤPara Vidyaと自然学アパラ・ヴィドヤApara Vidyaからなる。後者の中に,絵画・彫刻から建築・都市計画までに及ぶ「シルパ(造形芸術)」を主題とする古代サンスクリット語の諸文献があり,それらは,「シルパ・シャーストラSilpa sāstra」と総称されている。インドにおける都市計画・設計の原理を探るためには,1,この一群の書物が参照されるべきである。

シルパ・シャーストラは工学の各分野を網羅するが,建築,都市計画に関わるものは,ヴァーストゥvāstu・シャーストラと呼ばれる。「ヴァーストゥ」とは「居住」,「住宅」,「建築」を意味する。「インド建築」をめぐっては,ヴァーストゥ・シャーストラの体系を明らかにする必要があると思う。このヴァーストゥ・シャーストラには実に様々なものがある。誤解を恐れずに言えば,日本で言うと,『匠明』に代表される,古来,棟梁が建築のノウハウを伝えてきたマニュアル,「木割書」のようなものである。インドでもスタパティstapathiとよばれる棟梁やスートラグラヒsūtragrahiと呼ばれる測量士が活躍してきたが,その知識,技能,技術をまとめたものである。紀元後5世紀から6世紀には集大成されたとされるが,成立年代は確定しているわけではない。

R.ラーズ[31],『マーナサーラ』『マヤマタ』の他に『カーシャパCāsyapa,『ヴァイガーナサVayghānasa,『サカラーディカーラSacalādhicāra,『ヴィスワカルミアViswacarmiya,『サナトクマーラSanatcumāra,『サーラスワトヤムSāraswatyam,『パーンチャラトラムPāncharatram』を挙げている。『マーナサーラ』を英訳したP.K.アチャルヤ[32]によれば類書は約300にも及ぶ。P.V.ベグデ[33],そのリストをいくつかに分類して掲げているが,まず,ヴィスマカルマVismakarmaに属するもの(ナガラNagara建築スクール)21,マヤMayaに属するもの(ドラヴィダDravida建築スクール)12が挙げられている[34]。北インドと南インドの2つのスクール毎にヴァーストゥ・シャーストラは異なるのである。ヴィスマカルマに属すとされる前者には,ヴィスマカルマ・シルパVismakarma-Shilpa,ヴィスマカルマ・プラクサVismakarma-Prakasa,ヴィスマカルマ・ヴァーストゥ・シャストラVismakarma-Vastushastraなどその名を冠した書がある。『マーナサーラ』は後者のスクールの第1,『マヤマタ』は第2に挙げられている。導師(acharya阿闍梨)),棟梁として挙げられるのは,ナガラ・北スクールが7,ドラヴィダ・南スクールが15である。また,ナガラ・北スクールに属する『ヴァーストゥ・ヴィドヤVastu Vidya』の中に19の名前が挙げられているという。さらに『マーナサーラ』は32の名を挙げる。要するに,多くのヴァーストゥ・シャーストラがあり,導師・棟梁がいて,大きくは2つの系統があることが知られる。

数多くのヴァーストゥ・シャーストラの中で最もまとまっているのが『マーナサーラ』である。「マナ mana」は「寸法 Measurement」また「サラ sara」は「基準 essence」を意味し,「マーナサーラ Mānasāra」とは「寸法の基準 Essence of Measurement」を意味するという。また,建築家の名前だという説もある。成立年代は諸説あるが,P.K.アチャルヤ は6世紀から7世紀にかけて南インドで書かれたものだとする。『マーナサーラ』に続いて内容が知られるのが『マヤマタ』である。『マヤマタ』は,『マハーバーラタ』にも素晴らしい宮殿の建設者として登場するマヤが書いたとされるが,内容的には『マーナサーラ』と構成はよく似ている。日本から視座として,こうしたヴァーストゥ・シャーストラを扱う意味は,第一に,建築技術の体系の相互比較にある。『マーナサーラ』がウィトルヴィウスの『建築十書』に似ているという説があるが,ひとつの関心は,それぞれの地域における建築技術体系(建築書)の共通性であり,地域的変化である。

2 曼荼羅都市

 ヒンドゥー都市を巡っては,チャクラヌガラというロンボク島の都市の「発見」をきっかけとして,『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間変容―』(2006年)をまとめることができた。 インドには,上述のヴァーストゥ・シャーストラとともに,都城の理念を表す『アルタシャーストラ(実利論)』がある。著者として,マウリヤ朝を創始したチャンドラグプタ王(紀元前317293年頃)の名宰相としてカウティリヤKautilyaの名が知られる。別名チャーナキアCānakya,あるいはヴィシュヌグプタVisnuguptaという。古来インドでは,ダルマ(法)とアルタ(実利),そしてカーマKāma(享楽)が人生の三大目的とされるが,そのアルタについてのシャーストラ,すなわち,「実利」についての科学,理論の書が『アルタシャーストラ』である。その『アルタシャーストラ』の中に,「城塞」あるいは「城塞都市」に関する詳しい記載がある。古代インドの都市,ひいてはインド世界における都市,すなわちヒンドゥー都市の理念を伺うのに極めて貴重な文献とされている。 『アルタシャーストラ』は,古来知られ,様々に文献に引用されてきたが,一般にその内容が利用可能となったのは,1904年にヤシの葉に書かれた完全原稿が発見され,R.シャマシャストリShamasastryによってサンスクリット原文(1909年)と英訳[35]1915年)が出版されて以降である。その後,様々な注釈書やヒンディー語訳,ロシア語訳,ドイツ語訳などが出されるが,それらを集大成する形で英訳を行ったのがR.P.カングレー[36]である。日本語訳として上村勝彦訳[37]がある。また,近年,L.N.ランガラジャンによる新訳,新編纂書が出されている[38]

 『曼荼羅都市』では,応地利明説[39]にそって読解したが,具体的事例との照合などテーマは数多く残されている。また,インド都城と中国都城の比較が興味深い。その二つの影響を受けた東南アジアについては概観に留まらざるを得なかったが,個々の都市について明らかにすべきことは数多い。例えば,ミャンマー(ビルマ)のヤンゴンYangon,ペグーPegu(バゴーBago,パガンPagan(バガンBagan,インワInwa(アヴァAva,アマラプラAmarapura,マンダレーMandalayといった諸都市がある。かつてのダゴンDagonが首都にまで成長したヤンゴンと最後の王朝の首都であったマンダレーを除くと,いずれも往時の姿はないが,「曼陀羅都市」の系譜がごく最近まで生きてきたことを実感することができる。アマラプラは,チャクラヌガラ,ジャイプルに少し遅れて建設され,マンダレーに引き継がれる。この2つの都市の形態はまるで教科書そのものである。コンバウン朝前期の諸王,とりわけ,アラウンパヤー(在位1752-60,シンビューシン(在位1763-76,ボードーパヤー(在位1782-1819)の各王は,自ら「転輪聖王」であることを標榜し,周辺諸地域との抗争を繰り返した。そして,「転輪聖王」に相応しい王都を建設しようとした。アマラプラを建設したのはボードーパヤーであり,マンダレーに遷都したのはミンドン・ミン王(在位1853-78)である。

そして,マンダレーとは「曼荼羅」という意味である。また,現在もパガンからマンダレーにかけて,エーヤーワディ川流域に見られるカヤインと呼ばれる「四角い村」の伝統がある。南方上座仏教を生活の中心に生き続けている人々の暮らしは「四角い村」という形態に表現され続けているのである。 ミャンマーの諸都市を歩いて,否応なく意識させられたのが,インド的都城と中国的都城の近さである。中央に宮殿を配するアマラプラ,マンダレーは,まるで中国都城の理念そのものである。『周礼』考工記をまるでそのまま実現したかのようである。例えば,ボードーパヤーは,中国皇帝を「東方において傘さす大国の王すべてを支配する朋友であり,黄金宮の主」とし,自らは「西方において傘さす大国の王すべてを支配する王」として,ジャンブ・ドヴィーバ(贍部州)を二分する存在と位置づけていた。応地利明に依れば[40],「中央宮闕」か「中央神域」か,が中国都城とインド都城を分ける大きなポイントである。それに従えば,アマラプラ,マンダレーは中国的都城となる。 アンコールについては,遺跡だけを見て歩いても,居住の形態はピンと来ない。しかし,アマラプラ,マンダレーを見ると,なんとなく想像できるようになる。もっとも,ヒンドゥー教は13世紀以降東南アジアにおいて急速に力を失う。スコータイ,チェンマイ,アユタヤといったタイの王都,ビルマ(ミャンマー)の諸都市の理念を支えたのは上座仏教である。そういう意味で興味深いのが,タイの東北部,かつてアンコールの周辺にあったピマーイPhimaiである。中心寺院はほとんどが東を向く,アンコールの核心域とは異なり,ピマーイの都市軸は南北(20度北西,東南にずれる)となっている。

 

Ⅳ イスラームの都市と建築

 イスラーム建築については,ヒンドゥー建築よりもさらに心許ない。日本では,現在,深見奈緒子[41],山根周のグループが精力的に研究を展開しつつあるぐらいではなかろうか[42]。専ら,基礎になるのは,この間展開されてきたイスラーム研究,「イスラームの都市性」[43]に関わる研究である[44]。 「イスラーム建築」は,誤解を恐れずに言えば,固有の形式をもたない。地域の土着の形式を借用するといった事例がよく見られる。この借用の形式が実に興味深い。西安の清真寺は,格子状の街区にきちっと収まっているのである。日本に今,陸続とモスクが建設されつつある。ディスコを改造したり,必要に応じて融通無碍である。「イスラーム建築」は,日本人にとってこれからのテーマかもしれない。もっとも,ラテン十字の平面形をしたヒンドゥー寺院などもあるから,宗教建築と固有の形式については一般的には語れない。 イスラームが,その誕生直後の遙か以前から,ユーラシア大陸をつないできたことははっきりしている。イスラーム都市のあり方は,中国都城,インド都城とともに一大テーマである。 カンポン研究が契機となって「イスラームの都市性」に関する研究プロジェクトに参加する機会を得たのであるが,実に意外な展開となった。その経緯と「イスラーム都市論」のフレームについては,山根周との共著『ムガル都市 イスラーム都市の空間変容』(2008)に書いた。出発点は,「ヒンドゥー都市論」である。上述のように,インドには,古来,都市の理念型,あるいは都市計画の手法を記した書が伝えられてきた。宇宙の構造を具象化した都市を理想とする「ヒンドゥー都市」をチャクラヌガラという名[45]に因んで「曼荼羅都市」と呼んだ。この「曼荼羅都市」の系譜がアジアの都市の大きな伝統を形成してきたことははっきりしているが,大きく二つの問題が残った。

ひとつは,

A.『曼荼羅都市』でも強調しているが,「ヒンドゥー都市」の理念形をそのまま形にする事例は,インド亜大陸そのものには,マドゥライ,ジャイプルなどを除くとほとんど残されていない,ということである。

そして,もうひとつは,

B.『曼荼羅都市』で,具体的に触れることができなかった「カールムカKārmuka[46]」という類型があることである。

まず,A.については,さしあたり以下のように考えることができる。

①理念は理念であって,実際建設するとなると,立地する土地の形状や地形など様々な条件のためにそのまま実現されるとは限らない。例えば,ジャイプルの場合,北東の山の存在が全体の形状に大きな影響を与えている。

②また,理念通りに実現したとしても,時代を経るに従って,すなわち,人々に生きられることによってその形状も様々に変化していく。マドゥライの場合,「同心方格囲帯」を成すそれぞれの街路は大きく歪んでいる。

③むしろ,そのままの理念が必要とされるのは,その文明の中核よりも周縁においてである。とりわけ,王権の所在地としての都城の場合,支配権力の正統性を表現するために,理念形が必要とされる。「曼荼羅都市」の理念をそのまま実現する都市は,アンコール・トムやマンダレーなど東南アジアの諸都市である。

①②については,都市論における基本的なテーゼにしていいと思う。理念はどうあれ,都市が都市である限り,時間の経過とともに変化していくのは当然である。例えば②について,長安にしても,平安京にしても,極めて理念的に計画され建設されるが,まもなく右京が廃れたことが知られている。③のテーゼは,少なくとも,インド,そして中国における都城理念とその現実形態については成立している。

しかし,インドの都市をめぐっては,もうひとつ根本的な問題がある。すなわち,クシャーナ朝(1世紀半ば~3世紀初め)時代に最も栄えたとされるタクシラTaxilaのシルカップSirkap以降,発掘調査の遅れや文献の偏りもあって,13世紀に始まるムスリム支配期以前に遡って「ヒンドゥー都市」の展開をたどることはできないのである。

インドの諸都市の歴史を考える上で,残されている手掛かりがイスラームのインドへの侵入以前に遡り得ないということは,イスラームこそが「ヒンドゥー都市」の伝統を破壊したということを意味するのか。そうだとすると,「カールムカ」の形態はどう考えればいいのか。イスラームが,イスラーム以前に形成されていた諸都市に何らかの影響を及ぼしたことは間違いない。時代は下るが,ジャイプルにしても,18世紀前半に建設開始された都市の骨格はほとんど変化しないけれど,ムスリムの居住する周辺部の街路パターンは大きく崩れている。だから,インドの諸都市におけるイスラーム侵入以後が当然問題となるが,そもそも,イスラームはどのような都市理念をもつのか,また,どのような都市をインドにおいて建設したのか,あるいは,イスラーム以前のインド土着の都市をどのように改変したのか等々が最初の素朴な問いとなるのである。

『ムガル都市』では,かなり大胆に,前近代アジアの都市について,大きな構図を描いた。視点を置いたのが,「マー・ワラー・アンナフル」である。まず,乾燥沙漠地帯の「オアシス都市」を「イスラーム都市」の原型と見た。イスラームと乾燥沙漠気候とは,もちろん,環境決定論的に結びつくものではない。湿潤熱帯にあるインドネシアが,今日世界最大のムスリム人口を誇ることを想起するまでもなく,それは自明である。地域の環境生態学的条件を超えるのが世界宗教である。しかし,具体的な都市の形態は,地域の生態学的条件に強く拘束される。イスラームが成立したのは,メッカ,メディナというアラビア半島のヒジャーズ地域の「オアシス都市」であった。最古の都市文明を育んだのは,ナイル川,ティグリス,ユーフラテス河流域,インダス川,黄河という大河川の流域である。いずれも,灌漑によって文明の基礎が築かれている。注目すべきは,四大都市文明がユーラシアのオアシス―草原地帯の南に発生していることである。例えば,ティグリス,ユーフラテスの両河のほとりには,数多くのオアシスが形成され,それぞれにオアシスを単位とするオアシス国家を成立させた。オアシスはその宿命として隊商交易を発達させ,多くの人々が集住することによって「オアシス都市」(都市国家)となる。メソポタミアの都市文明も,その起源にはオアシスがあり,「オアシス都市」がある。

イスラームが誕生してまもなくイスラーム世界の中心に位置することになるメソポタミア(両河の間)は,北部のほとんどが平原,南部が大沖積平野である。大文明を産んだ大規模灌漑による農耕システムと「オアシス都市」と遊牧民のネットワーク・システムは,システムの規模と質を異にしている。大文明を繋いだのが「オアシス都市」と遊牧民のネットワークである。「オアシス都市」は,それ自体で自立しない。遊牧と農業,定住と移動(交易)の相互関係において,「オアシス都市」は成立する。そうした意味では,「オアシス都市」は,都市成立の原初に遡る一形態であるといってもいい。イスラームの成立は,定住と移動,都市と農村の根元的関わりの原点に関わっているのである。

われわれは,こうして,「オアシス都市」を原型とするユーラシア全体を視野に入れた(世界)都市史の骨格を手にすることが出来る。まず,「オアシス都市」が遊牧=農耕の境界領域に発生する。一般には,「シルクロード」を意識しながら,敦煌を楔の頂点とし,アラビア半島西側,紅海を底辺とする三角形の領域が「オアシス世界」と考えられるが,カナート灌漑の拡がりが示すように,オアシス世界はもう少し一般的に考えられていい。要は,利水と治水の問題である。ナイル,チグリス・ユーフラテス,インダス,黄河という大河川沿いに形成された「オアシス都市」(国家)は,大きく連合して都市文明の華を開かせた。一方,ユーラシアの乾燥・半乾燥地域,草原とステップに成立した「オアシス都市」は,「遊牧国家」によって翻弄されながらも,長らく,今日に至るまでといってもいい程の間存続する。

 そこで焦点,要となるのが,マー・ワラー・アンナフルである。インダス文明を生んだ諸都市が,未だに完全には解明されない理由で衰退した後,インド,そしてイランへ侵入してきたのが,インド・アーリヤ民族である。そして,遥かに時を経てイスラームがインドに侵入してくる。いずれもマー・ワラー・アンナフルを通じてである。この生態学的に一定の循環系にあったマー・ワラー・アンナフルを大きく揺るがしたのがモンゴルである。モンゴル・ウルスは,内陸世界の東西をつないで,「世界」を同時代のものとした。「世界史の誕生」,いわゆる「モンゴル・インパクト」である。時代を制したのは,騎馬による戦闘技術であり,遊牧国家のネットワーク技術であった。マー・ワラー・アンナフルは,モンゴル時代,ティムール時代を通じて,「遊牧国家」と「「オアシス都市」」の興亡の伝統の中で生きてきた。この伝統を捨て,大河川の流域に下って,「野の世界」[47]に成立したのが「ムガル都市」である。「ムガル都市」=「インド・イスラーム都市」の成立は,遊牧国家の移動するオルド(宮廷)の大河川(インダス川,ガンジス川)支流域への定着,「オアシス都市」から農耕定着型の生産基盤を背景とする都市への転換と捉えることができる。また,その過程は,内陸の交易ネットワークから海のネットワークへの転換でもあった。遊牧社会から農耕定住社会への移行を体現しているのがバーブルで,アクバルの時代にムガル都市の基礎はできあがる。そして,シャージャーハーナーバードにその完成を見る。

 ユーラシアを大きく移動し,雄大な世界を構築してきたテュルク・モンゴル系の遊牧民たちがインドに定着して築いたのがデリーである。それは丁度,東方において,およそ1世紀半先立って,「大元ウルス」が大都を建設したのと並行する過程と見ることができるだろう。すなわち,遊牧国家から農耕定住社会への転換であり,海のネットワーク世界が優位となる展開でもある。遊牧民の世界は歴史の表舞台から後退し,世界を制し始めたのはヨーロッパ諸国であった。こうして,中央ユーラシアをひとつの世界としていた「オアシス都市」と遊牧国家のネットワークは,16世紀初頭以降,大きく変容していくことになる。海域世界の交易ネットワークを西欧列強が制し,全く新たな枠組み「近代世界システム」をつくりあげることになるのである。時代を制したのは,火器であり,航海術であり,造船技術であり,築城術であり,・・・すなわち,近代科学技術であった。「ムガル都市」とは,すなわち,内陸都市の交易ネットワークと海域世界のネットワークを結びつける役割を担った都市である。大元ウルスの大都がその原型である。元朝が崩壊し,明朝が海禁政策を採る中で,ムガル朝が成立することになる。その首都,あるいはその拠点都市,すなわち「ムガル都市」は,明らかに新たな都市の類型である。「ムガル都市」と平行して,沿海部には,西欧列強による都市が植えつけられていく。近代植民都市のグローバルな建設過程は,17世紀のオランダ植民都市を横断面として,『近代世界システムと植民都市』(2005)で明らかにしたところである。

 

Ⅴ 世界システムの形成と都市・建築

16世紀以降,アジアの都市と建築は,西欧世界との接触によって大きな影響を受け始める。このウエスタン・インパクトによる建築類型あるいは空間形式の起源,形成,変容,転生は,今日における諸問題に繋がるテーマである。時代区分として,I.ウォーラーステインを先駆けとする「世界システム論」を借りれば,以下のような区分がわかりやすい。

15世紀半ばから16世紀半ばにかけて「ヨーロッパ世界経済」が出現する。そして,さらに1640年ぐらいまでに新たなヨーロッパ分業体制が確立する。このいわゆる「長期の16世紀」(14501640)を第Ⅰ期として書かれたのが,『近代世界システム(16世紀における)農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』である[48]。続いて,重商主義の時代(16401815)を第Ⅱ期,産業化の時代(18151917)を第Ⅲ期,そしてロシア革命(1917)以降現代までを第Ⅳ期として,「近代世界システム」の展開を捉えようというのが当初のI.ウォーラーステインの構想であった。ところが,その後『近代世界システムⅡ』[49]『近代世界システムⅢ』[50]という形で書き継がれた著作は,当初の構想とは時代区分を異にし,16001750,17301840sが画期とされている。各期の閾については多くの議論があるが,およそⅠ~Ⅳの時代区分を前提にできるであろう。都市史という観点からは,西欧列強による海外進出と植民都市建設,そして産業化段階,すなわち蒸気船,蒸気機関車による交通手段とその体系の転換が決定的である。自動車の出現が次に大展開となる。「近代」あるいは「資本主義」,そして「世界システム」がいつ成立したのか,その起源はどこなのかをめぐっては長い議論の歴史がある。「長期の16世紀」以前,13世紀(1250-1350)に,その先駆けとなる世界システムが成立していたというのがアブー=ルゴドである[51]。そしてそれを受けて,A.G.フランクなどは,「近代世界システム」の成立をめぐって,さらに歴史を遡行する構えをとる[52]I.ウォーラーステインの西欧中心史観に一撃を加えたアブー=ルゴドは,13世紀世界システム」をひとつのヘゲモニー(覇権)によらない多核システムとして図11のように描いた。Ⅲが,モンゴルが繋いだユーラシア世界である。そのネットワークの残滓の上に西欧列強がどう建築や都市を植えつけていったのかが焦点となる。以下,日本に視座を置いたテーマを列挙してみたい。

 

1 西欧との接触

日本と近代世界システムとの関係を伺う上では,まず,平戸,出島などを通じたオランダとの接触がテーマとなる。日本が西欧世界と初めて接触したのは,中国のジャンク船に乗船した3人のポルトガル人が種子島に漂着した1543923日のことである。種子島の領主時堯は,この招かれざる来訪者を手厚くもてなし,火縄銃と火薬の製造法を学んだ。この火器の伝来が日本の天下統一に大きな作用を及ぼしたことはよく知られるところである。同じ年,コペルニクスの地動説が発表されるのであるが,日本社会のコペルニクス転回もまさに1543年に始まる。翌年にはスペイン人ペロ・ディエスが訪れ,1546年にはジョルジェ・アルヴァレスの商船が来日する。そして,マラッカで,このアルヴァレスとアンジロー(ヤジロー)から日本についての情報を得たフランシスコ・ザヴィエルFrancisco de Xavier(1502-52),アンジロー,コスメ・デ・トレス,ジョアン・フェルナンデスを伴って鹿児島に着いたのが1549815日である。このときにザヴィエルが乗っていた船は中国人倭寇のジャンク船である。ザヴィエルは半年鹿児島に滞在した後,京都に赴く(1550)ものの国王謁見を果たさず,平戸,山口などに23ケ月滞在した後,豊後を出帆(1551,中国へ向かうがマカオ付近に上陸直前,三州(上川)島で病没する。このいくつかの偶然を経緯とする世界史に残る出来事以降,イエズス会による日本布教が始まる。北九州の有馬,大村,大友など多くの大名が洗礼を受けてキリシタンとなった。

ポルトガルは,種子島漂着以降,頻繁に九州各地の港に出入りする。1550年にドゥアルテ・ダ・ガマDuarte da Gamaが平戸を訪れて以来,定期的に日本に交易船を送るカピタン・モーロ制が開始される。同時に日本人の海外渡航も本格化しようとした。ザヴィエルとともに出発し,中国からインドに渡った日本人ベルナルドは,日本人として初めて1553年リスボンに着いている。1557年に居住権が認められると,マカオがポルトガルの交易,布教の拠点となった。ガスバル・ヴィレーラが将軍から布教許可を得たのは1560年(1571年離日),ルイス・フロイス[53]来日が1563,フランシスコ・カブラル,オルガンティーノ来日が1570,さらにアレッサンドロ・ヴァリニャーノ来日が1579年である。彼らは当時の日本の状況について貴重な記録を残している。ヴァリニャーノは1582年に九州の3人のキリシタン大名の青年代表を組織してローマに送った(天正少年使節団。帰国は1590年)。彼らはリスボンに上陸,サン・ロケ教会に1ヶ月滞在した後,エル・エスコリアルでフェリペⅡ世に謁見している。マラッカの司教区(1557年設置)から中国,日本司教区が独立したのは1575年である。初代司教ドン・ベルシオール・カルネイロ(1576-1580年),後を引き継いだドン・リオナルド・デ・サー(1581-97)以降,中国,日本司教区の司教たちの継承順については,ジョアン・ロドリーゲスの『日本教会史』[54]が書いている。

ポルトガル船によって来日した中には他の外国人も含まれていた。ザヴィエルはそもそもスペイン人であり,ヴァリャニーノはイタリア人である。しかしもちろん,彼らの来日はポルトガル王国を後ろ盾としたものであった。一方,スペインは,マニラに拠点を築き,中国日本への進出を企てつつあった。マニラからマカオへ向かうポルトガル船が流されて,乗船していたスペイン人修道士が平戸に到達したのは1584年のことである。翌年,グレゴリオⅩⅢ世の教令が発布され,日本への布教は東回りのポルトガルのイエズス会士に限られることになる。日本布教における混乱を避けるためにヴァリャニーノが教皇に要請した結果である。その結果,スペインはマニラに待機せざるを得なくなるが,1587年に秀吉のキリスト教禁止令が出て,日本布教の可能性を探ることになった。折しも,交易のためにマニラを訪れた原田喜右衛門がマニラのスペインについての情報をもたらしたことから,秀吉はマニラ総督に日本入貢の威嚇的勧告状を送る(1592)。日本とスペインとの正式な交渉が始まるのはこれを契機にしてのことである。マニラから3回送られた使節団の第3回目(1594)に宣教師に混じって日本を訪れ,『日本王国記』[55]を書いたのがアビラ・ヒロンである。こうして,マカオとマニラを拠点として日本をねらうポルトガル,スペインに割って入ったのがオランダであり,そのきっかけとなったのが1600年のリーフデ号の漂着であった。

以上のような経緯が日本の都市や建築にどういうインパクトを与えたのかについては,必ずしも総括されていないのではないか。いわゆる「鎖国」体制においても,建築,都市に関する様々な情報は出島を通じてもたらされていた筈であるが,それを明らかにする作業が残されている。マテオ・リッチなど,イエズス会宣教師が西欧の科学技術を中国にもたらしたことが知られるが日本にはどうか。

 

2 オランダ植民都市ネットワーク

平戸のオランダ商館は,VOCの商館の原初的なあり方と見なせるかもしれない。平戸商館の復原にあたっては,バタヴィアの建築などが参照されている[56]。しかし,オランダの平戸における活動は,海禁政策に向かう日本型華夷秩序の中の活動であり,その命脈も短かった。また,出島は,オランダにとってまさに「監獄」のような空間であり,極めて特殊であった。

この時期,逆にアジア眼を向けるとすると,オランダ植民都市のネットワークが研究対象になる。台湾に建設されたゼーランジャー城は,マカオとマニラの間に打ち込まれた楔であり,日本との関係も深かった。また,バタヴィアには日本人も送られている。出島-ゼーランジャー城-バタヴィア-マラッカ-コロンボ・ゴール-ケープタウンというネットワークに興味がある。大きくは,植民都市の形成とその後の土着化,変容,転成に関する研究の一環を形成する。ひとつの視点は,西欧における都市計画理念,技術の導入とその受容である。植民都市研究は,第1に〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の2つを拮抗基軸とする都市の文化変容の研究である。植民都市は,非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配をその本質としている。西欧化,そして近代化を推し進めるメディアとして機能してきたのが植民都市である。また,オランダ植民都市については,都市型住居の展開もひとつのテーマとなる。オランダは極めて高密度の都市居住の形態を発達させてきた。そのオランダがどのような都市居住の形式をそれぞれの植民地において導入したのかがひとつの視点である。また,「低地」であるが故に,水利,治水技術のみならず,宅地の創出,計画管理の技術を発達させてきたオランダの都市技術の移植も大きな関心である。

さらに,現代的な課題として,旧植民都市空間の保全あるいは再開発の問題がある。西欧列強によってつくられた植民都市空間,植民都市の中核域をどうするのか,解体するのか,すでに自らの伝統として継承するのか,これは,植民都市と地域社会との関係が,在地的な都市=地域関係へと発展・変容していく過程の中で現出する問題である。歴史的な都市核としての旧植民都市の現況記録と保全の問題は,現下の急激な都市化,再開発の進行のなかで緊急を要する問題でもある。オランダ植民都市研究が南北アメリカ大陸を含めた拡がりを与えてくれることは,『近代世界システムと植民都市』(2005年)において示すところである。

 

3 コロニアル建築としての明治建築

 西欧から見れば,日本のいわゆる「明治建築」はコロニアル建築ということになるであろう。直接的に支配されるということがなかったにせよ,西欧の建築文化,建築技術を支配的なものとして受け容れ点については同じ力学が作用したと考えていいであろう。問題は,西欧建築との接触の期間,時期,浸透の深度,土着の建築文化の特性,技術水準,受容の主体などの差異である。

西欧の築城術,建築技術を各地にもたらしたのは各種技術者である。オランダの場合,軍事技術者,植民拠点建設のための土木建築技術者の養成のために,マウリッツ王子とシモン・ステヴィンによって設立されたのがライデン大学の技術学校(ネーデル)ダッチ・マテマティーク(1600年)である。フェリペⅡ世によって設立されたスペインのアカデミア・デ・マテマティカ(1582年)やマドリッドのコレギオ・インペリアルColegio Imperialや各地の軍事学校に触発されたとされる。

 ライデン大学に続いて1585年に創設されたフラネッカー大学でも,アドリアン・メティウスAdriaan Metiusによって航海術,測量術,要塞建築術が教授された(1598年)。スネリウスに学んだメティウスが教授であった。さらに,1614年にフロニンゲン大学,1636年にユトレヒト大学,1648年にハーダーワイク大学が設立されるが,船員と測量士については,実際的な養成機関として他に私学があった。有名なのがアムステルダムのカーディネールSybrandt Hansz Cardinael(160547) である。また,実際には,植民地において実践教育が行われた。当初,助手などをつとめ,徒弟制で学ぶのである。台湾でドイツ人兵士シュマルカルデンCaspar Schmalkalden がプロックホイCornelis Jansz Plockhoy(164754)の測量助手として雇われた(164850)事例がある。17世紀後半には現地生まれの測量士が育っていた。オランダ共和国16001700で勅許資格を与えられた測量士,軍事技術者は計1,406人という統計がある。オランダの「黄金の世紀(17世紀)」が去ると彼らは主として北欧で働くことになった。

 英国植民地の場合の「植民都市景観の形成者たち」,すなわち,植民地で活躍した土地測量士,エンジニア,そして建築家,都市計画家については,Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”,E & FN Spon, London, 1997[57]が詳しく触れるところである。

 明治に入って,J.デ・レイケ,G.A.エッシャーなど,オランダ人土木技術者が来日し,日本の河川改修事業,治水事業に大きな貢献をなしたことはよく知られるところである。建築については,J.コンドルがいる。J.コンドルについては多くの論考があるが,アジアの広がりの中での興味は,彼にとっての先輩たちが格闘した「インド・サラセン様式」をどう昇華しようとしたかである。

 蘭領インド場合,オランダ人たちは,当初,建築材料も全て本国等から運び本国の様式をそのまま導入しようとした。1世紀以上も衣服も本国そのままのものを用いている。しかし,熱帯の気候にその建築様式が合わないのは明らかであった。そこでオランダ人たちは,土着の民家のスタイルを導入し始めた。気積の大きな屋根を用いるのが暑さには有利であり,真似をし出すのである。また,構法も,例えば,ジャワの4本柱の骨組みをそのまま用いたりするのである。また,そうした折衷の試みが土着の建築様式に影響し始める。

 西欧建築の移入,土着化,土着建築の変容といったプロセスは,それぞれの地域でみることができる。

 

4 世界近代建築史再考

 近代建築の移植・受容という局面において,無視されているのが,アジア各地における展開である。東アジアについては,藤森研究室を中心とするグループが精力的なインヴェントリーづくりを展開してきたが,東南アジア,南アジアを考えると未だ不十分である。 例えば,ベルラーエはインドネシアを訪れ,珠玉のようなスケッチ集を残しているし,また,スラバヤに小さな作品を設計している。また,T.カールステン,M.ポントというデルフト工科大学出身の建築家を始めとして,多くの若い建築家が活躍している。アムステルダム・スクール,ロッテルダム・スクールの展開もインドネシアの方が早く,質も遜色ないように見える。近代都市計画,近代建築の実験場としての日本植民地の問題にも通底するテーマがあるように思う。T.カールステンは,都市計画法制やカンポン改善事業,さらには地方分権化などにも指導力を発揮したことで知られる。M.ポントは,バンドン工科大学やポサランの教会などすぐれた作品で知られるが,土着建築と新たな技術の統合をテーマとした建築家である。晩年は,民俗学,考古学に主関心を移し,ジャワの歴史の古層を探っている。T.カールステン,M.ポントのような建築家の仕事をそれぞれの地域で「発見」する作業が残されている。彼らが考えようとしたことは,日本の建築家が近代建築の受容に際して考えようとした問題とそう位相の差はないのではないか。

 

おわりに

 最後に,個人的に興味をもつテーマをいくつか挙げておきたい。

 1.建築(技術・理論)書の比較研究

オリエンテーションあるいはコスモロジーと都市,建築のあり方をめぐるテーマは,実際に都市,建築を設計計画を行うためにも興味深い。中国文化圏の「風水」説は,広く検討に値する。中国・台湾・朝鮮半島のみならず,インドには各種「ヴァーストゥ・シャーストラ」がある。また,フィリピンにはパマヒインがあり,ジャワにはプリンボンがある。また,バリには,アスタ・コサラ・コサリ,アスタ・ブミ,シワ・カルマがある。各地に残された「建築書」の発掘と相互比較は基礎作業である。

2.    建築類型の比較研究

建築類型のあり方はひとつの焦点になりうる。何故,「中国」ではかくもワンパターンなのか。もちろん,四合院という形式にも地域差はあるけれど,この形式主義は特に問題としうる。清真寺が中国的なグリッド都市に整然と収まっているのは実に興味深いことである。個人的な興味の中心は,都市組織,そして都市住宅のあり方である。各地で成立してきた住居集合のあり方を比較することは大きなテーマだと思う。「東アジアから日本の都市住宅(町家)を捉える」(日本建築学会大会,2007年度建築歴史・意匠部門パネルディスカッション)といった視点のみならず,逆に,グローバルに視野を拡大することが必要である。目指すべきは,「店屋(ショップハウス)の世界史」である。そこでは,西欧におけるタウンハウス,コートヤードハウスの展開も視野に含まれることになる。また,「イスラーム都市」におけるスーク(バーザール,チョルス)との違いとその圏域の境界を浮かび上がらせることになる。

3.    都市組織研究

個々の都市の街区組織に関する臨地調査が全ての基礎になると考えている。チャクラヌガラージャイプルーマドゥライ=「曼陀羅都市」,デリー-ラーホールーアフマダーバード=「ムガル都市」といった三都市比較(三角測量)を基にして,それぞれテーマを立ててまとめたいと考えている。

4.    大元都市の系譜

前近代アジア都市の系譜論として,中国都城の系譜を周辺諸国を含めてまとめてみたい。タンロンが発掘中だし,朝鮮半島の発掘の進展もある。北京,西安,台北などについての臨地調査の蓄積がある。少なくとも,これまで得られた知見を集大成しておく意味はあると思う。

5.植民都市研究

アジアについては,ポルトガル,スペインの植民都市について概要を把握する必要がある。マラッカ,ヴィガンなどについて臨地調査があるが,体系的なアプローチが必要だろう。スペイン植民都市については,共同研究者を得て,セビージャSevillaのインディアス古文書館El Archivo General De IndiasAGI)に収蔵された植民都市関連地図資料全7152枚をマイクロフィルムの形で入手することができたこともあって,少し手をつけつつあるが,フィリピンの諸都市が焦点になる。また,韓国の日本人移住漁村,鉄道町についてもまとめを考えている。

 2008.11.20 2009.05.07修整



[] 太田勇 大坪省三 前田尚美編,『東南アジアの地域社会,』東洋大学創立百周年記念論文集編纂委員会,東洋大学, 1987

[] 拙著,『カンポンの世界』,パルコ出版,1991年。学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学),1987年。

[] 布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997年など

[] 布野修司編,『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会,2005年。布野修司,『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006年。M.M.Pant & Shuji Funo, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007布野修司・山根周,『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』,京都大学学術出版会,2008年。布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,2001年など

[] 布野修司+アジア都市建築研究会,『アジア都市建築史』,昭和堂,2003年。布野修司編,『世界住居誌』,昭和堂,2005

[] ヌガリ,コタ,バヌアといった言葉は,地域を遥かに超えた言葉である。ヌガリ,ヌガラはむしろクニといった意味で東南アジア大陸部からバリまで用いられるし,コバヌアになると,オーストロネシア世界全域で,「大陸,土地,集落,,,国」といった意味で使われている(ロクサーナ・ウオータソン,『生きている住まいー東南アジア建築人類学』,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997)の「5 コスモロジー」参照。)。

[] Markham, A. (ed.),  “Voyages and Works of John Davis, the Navigator (水先案内人ジョン・デイビスの航海と仕事), London, 1880.

[] De Querbeuf, Y.M.H. (ed.), “Lectres Edifantes et Crieuses ecreites des missions etrangeres(de la Compagnie de Jesus)(教訓的な奇妙な本:イエズス会の外国人宣教師の文章)”, Paris, 1780-83.

[] A. Read, ‘The Structure of Cities in South-East Asia, 15th to 17 centuries’, Journal of South-East Asian Studies11 (2).アンソニー・リード『大航海時代の東南アジアⅡ』,平野秀秋・田中優子訳,法政大学出版会,2002

[10] インドネシアの各民族,各地域の伝統的な村落は様々な呼び方をされてきた。ミナンカバウのヌガリnegariーコタkota,バタック・トバのフタhuta- ビウスbius,ニアスのバヌアbanua ,マンタウェイのラゲイlaggaj ,フローレスのベオbeo ,アチェのガンボンgampong ,ブギスのワヌアwanua ,バリのバンジャールbanjar,・・・ など様々である。C.ファン・フォレンホーヘンは,今日のインドネシア全体を19の慣習法圏に分けている(C, van Voollenhoven, “Het adatrecht van Ned-Indio”,1881-1931)。アチェ法域,バタック法域,ミナンカバウ法域,南スマトラ法域,マレー法域,カリマンタン法域・,南スラウェシ法域,バリ・ロンボク法域およびジャワ島の3 つの法域が主なものである(インドネシアの村落組織についての詳細な議論は,布野修司,『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』,-2 ジャワの村落 pp.106-119,パルコ出版,1991)。アチェのガンポン,スンダのルンボールというのがカンポンという響きに近い。

[11] 椎野若菜,「「コンパウンド」と「カンポン」---居住に関する人類学用語の歴史的考察---,『社会人類学年報』,Vol.26,2000

[12] 例えば,斯波義信は,外国人商人がそれぞれ分かれて住む集住区をポルトガル語のカンポンとしている(『華僑』,岩波新書,1995年)。

[13] Yule, H. and Burnel, A.C., “Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Works and Phrases, and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi: Munshiram Manoharalal, 1903(1968)”

[14] MacGee, T.G., The Southeast Asian City: A Social Geography of the Primate Cities of Southeast Asia, G.Bell and Sons ltd,London, 1967

[15]  『アジア都市建築史』の目次構成:はじめに/序章 アジアの都市と建築01 「アジア」と「ヨーロッパ」02亜細亜と東洋03「アジアはひとつ」04法隆寺のルーツ探し05日本建築の起源・・・東洋建築史の発端06東洋芸術の系統07東洋建築系統史論/Ⅰヴァナキュラー建築の世界 01アジアの伝統的住居02オーストロネシア世界・・・日本建築の原像03原始入母屋造・・・構造発達論04移動住居・・・ゲル(包)テント 円錐形住居05井篭組・・・校倉造り06磚・煉瓦造・・・ドーム,ヴォールト,ペンデンティーフの起源07高床式住居08中庭式住居・・・コートハウス09家族形態と住居形式10コスモスとしての家/Ⅱ 仏教建築の世界史 --- 仏塔の来た道01仏教の聖地・・・釈迦の一生と仏跡02仏教の系譜03ストゥーパの原型  :仏陀の姿 仏像の誕生04チャイティアとヴィハーラ・・・石窟寺院と伽藍05 仏塔の諸形態:五輪塔06仏教寺院:中国仏教の展開07 仏教の宇宙観-神々のパンテオン/Ⅲ〈中華〉の建築世界01紫禁城-王権の空間02四合院03 <明堂>と礼制の建築0 陵寝の建築05木造建築の確立へ06木造架構の改革:大仏様の特異性07儒教の建築08道教の建築09中国庭園の世界Ⅳヒンドゥの建築世界--- 神々の宇宙01ヒンドゥ教の神々02ヒンドゥ建築03最初期のヒンドゥ寺院・・北方型寺院の成立04石窟寺院と石彫寺院05 5つのラタ…南方型寺院の原型06チャルキヤの実験07華開くシカラ…北方型寺院の発展08聳え立つゴープラ…南方型寺院の発展:白亜の宇宙…ジャイナ教寺院の発達09ヒンドゥー・ヴァナキュラー…土着化するヒンドゥー建築0 海を渡った神々…東南アジアのヒンドゥー建築Ⅴアジアの都城とコスモロジー01アジアの都城02古代インドの都城03 古代中国の都城04古代インドと古代中国の都城思想比較05インド世界と中国世界における都市の原初形態06インド都城のバロック的展開07中国都城のバロック的展開08日本の都城Ⅵイスラーム世界の都市と建築01都市国家の誕生・・・イスラーム以前の西アジア02最初のモスク03岩のドーム・・・メッカ,メディナ,エルサレム04ワリード一世と3つのモスク・・・ダマスクス05バグダードとサーマッラー06西方イスラーム世界 マグリブ・イベリア半島07チュニス・・・アラブ・イスラーム都市の原理08 カイロ09イーワーン-イスファハン:墓廟10シナン・・・イスタンブール11アクバル・・・デリー・アグラ・ラフォール12中国  清真寺Ⅶ 植民都市と植民地建築01大航海時代と植民都市02植民都市の類型     03マニラ,ヴィガン・・・・スペイン04マラッカ・シンガポール・ジョージタウン・ヤンゴン05ハノイ ポンディシェリー:・フランス植民地06 バタヴィア,スラバヤ:蘭領東インド07ボンベイ・マドラス・カルカッタ:英領インド08大英帝国の首都・・ニューデリー09ロシアの植民都市10中国と西欧列強・・・香港・上海・広州11日本植民地:満州・朝鮮・台湾 終章 現代アジアの都市と建築01カンポンの世界02 都市遺産の継承と活用03エコーアーキテクチャー おわりに

[16] アジアという言葉はアッシリア起源である。アッシリアの碑文にasuereb(irib)の対応,すなわち,「日いづる所」(東)と「日没する所」(西)の対比があり,asuasiaに転訛したとされる。また,これがギリシャに伝わって,AsiaEuropaになった。さらに,ラテン語におけるOriensあるいはOrient-em(昇る太陽,東)とOccident-em(沈む太陽,西)にも継承された。

[17] 以下を基本方針としたが,なしえたかどうかは疑問である。1 アジアの都市,建築の多様性を重層的に浮かび上がらせる。必ずしも時代順の記述はとらない(とれない)。より大きな地域区分,世界単位を下敷きにしたい。すなわち,ある程度のまとまりは意識したい。また,章立てにあたっては,地域,都市,建築の相互関連についてのテーマを重要視したい。2 アジアの都市,建築についての基礎的事項は網羅したい。また,主要な都市,主要な建築についての情報は盛り込みたい。重要な都市,建築を各章にうまく配置したい。3 単に建築をリストアップ(網羅)するに終始することを避け,めりはりをつける。ひとつの節ではひとつの建築(都市)を重点的に記述する。様々な切り口から記述が可能な都市,建築を選定する。4 モニュメンタルな建築のみの記述に終始しない。都市と建築を密接な関係において記述する。建築については都市を,都市に焦点を当てながら主要な建築は記述する。    5 建築については基礎的データの他は,その空間構成,設計原理を中心に記述する。6 都市については,主要な建築の配置,都市構成原理を中心に記述する。7 以下の章立てから漏れるものについてはコラムをたてる。

[18] 東洋建築史学史:『近代日本建築学発達史』(丸善)「10編 建築史学史」「3章 東洋建築の展開・明治期」(平井聖)「8章 東洋建築史研究の展開」(西川幸治)

[19]  建築学大系4,彰国社,1972年。

[20] 片山東熊,漢土大内裏ノ制」『建築雑誌』No.43 189007

[21] 伊東忠太,「法隆寺建築論」(189311月)『建築雑誌』No.83

[22]  村田治郎,「東洋建築系統史論 13,建築雑誌,19314月~6

[23]  布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会訳,学芸出版社,1997年。

[24]  P. Oliver (ed.) Encyclopedia of Vernacular Architecture of the World, Cambridge University Press, 1997

[25] 立本成文,『地域研究の問題と方法 社会文化生態力学の試み』,京都大学学術出版会,1996

[26] “Stupa & Swastika”の他,Pant, Mohan, 1990. Bahal Mandal—A study of Traditional Settlement Pattern of Patan City,  Kathmandu Valley. Thesis submitted in partial fulfillment of Master’s degree program, Tongji University, Shanghai, 1990. 2002. A Study on the Spatial Formation of Kathmandu Valley Towns—The Case of Thimi. PhD dissertation submitted to Kyoto University, 2002.

[27]  相模書房,1953年。

[28]  「大仏様の源流をもとめて」,日本建築学会大会研究協議会,1998年。

[29] 片桐正夫,『朝鮮木造建築の架構技術発展と様式成立に関する史的研究遺構にみる軒組形式の分析,1994

[30] History of Indian and Eastern Architecture", London,1876のフレーム(BOOK I BUDDIST ARCHITECTURE STAMBHAS/STUPA/RAIL/CHAITYA/VIHARA,BOOK II   ARCHITECTURE IN THE HIMALAYAS  BOOK III  DRAVIDIAN STYLE BOOK IV   CHALUKYAN STYLE

[31] Rāz, Rām,”Essay on the Architecture of the Hindūs”, John William Parker, London, 1834.

[32] Acharya,P.K. “Architecture of Manasara”, Oxford University Press, 1934.

[33] Begde, P. V.: Ancient and Medieval Town Planning in India, Sagar Publications, New Delhi,1978

[34] ナガラは都市を意味し,ドラヴィダは民族名で,『マーナサーラ』などは建築様式の類型として言及する。すなわち,ナガラ式は北インドの,ドラヴィダ式は南インドの様式を指す。ヴェサラvesala式というのが中間系とされ,3類型がセットで示されるのが常である。ヴェサラというのは,馬とロバとの雑種ラバのことである。

[35] Shamasastry, R., “Arthasastra of Kautilya”, University of Mysore, Oriental Library Publications, 1915.

[36] Kangle, R.P., “The Kautilia Artaśāstra”Part 1 Sanskrit Text with a Glossary, Part 2 An English Translation with Critical and Explanatory Notes, Part3 A Study, Bombay University, 1965. Reprint, Delhi, Motilal Banarsidass Publisher, 1986, 1988, 1992.

[37] カウティリヤ,『実利論』上下,上村勝彦訳,岩波文庫,1984年。上村訳は,適宜,R.P.カングレー訳を参照している。

[38] Rangarajan, L.N., “Kautilya The Arthashastra”, Edited, Rearranged, Translated and Introduced, Penguin Books India, 1992. R.シャマシャーストリ訳の最後の版(1929年)から時間が経ってこの間新たな知見も加えられたこと,またその訳がいささか古めかしいこと,また,R.P.カングレー訳などが専ら正確さを期すために多くの細かな註が付けられていて,全体がわかりづらいことから,思い切って,全体を再編集するかたちをとっている。文献学的には問題かもしれないが,先行訳があるからこその大胆な試みである。読解を助ける図表も多く,全体を見通すためにはありがたい。全体は,11部に再編集され,1部 序」,[2部 国家と構成要素],3 王」,4 国家組織」,5 宝物・財源・会計監査」,6 市民奉仕・規則」,7 政府部門」,8 法・裁判」,9 秘密作戦」,10 外交」,11 防衛・戦闘」からなる。

[39] 「アジアの都城とコスモロジー」『アジア都市建築史』(2003年)所収

[40] 応地利明,前掲論文。

[41]深見奈緒子(2003,『イスラーム建築の見方―聖なる意匠の歴史』,東京堂出版 。深見奈緒子(2005,『世界のイスラーム建築』,講談社

[42] Stierlin, H.1979, “Architecture de L'Islam, Office du Livre”, Fribourg,(アンリ・スチルラン 1987『イスラームの建築文化』神谷武夫訳,原書房)が貴重である。

[43] 日本における今日におけるイスラーム研究の基礎を築いたといっていいのが,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-90)である。

[44] そのひとつの成果である羽田正(1994,『モスクが語るイスラーム史 ― 建築と政治権力』中公新書 が有り難い。

[45] サンスクリット語のチャクラcakraとは,一般には,インドの神秘的身体論において,脊椎に沿っていくつかある生命エネルギーともいうべきものの集積所をいうが,文字通りには「円」,「輪」,「円輪」を意味する。ヌガラ(ナガラ)negara/nagaraとは,「町」,「都市」あるいは「国」のことである。チャクラヌガラとは,直訳すれば「円輪都市」ということになる。

[46]  「カールムカ」についての『マーナサーラ』の記述は以下のようである(()内はAcharyaの章節項)。正方形もしくは長方形(Ⅸ-454)。この類型は,さらにパタナPattana,ケタカKhetaka,カルヴァタKharvataの三つからなる。パタナは主としてヴァイシャが,ケタカは主としてスードラが,カルヴァタは主としてクシャトリヤが住む(Ⅸ-455-457)。川岸や海岸に立地する(Ⅸ-458)・通りの起点(頭部)に交差(合流)点がある。西と北,南と東,北と東,南と西を繋ぐ通りをつくる(Ⅸ-459-461)。・外周部は弓(カールムカ)のような形となる。各区画は15の通りからなる(Ⅸ-462-463)。全ての車道は二つの歩道を持ち,ジグザグの小交差路は1つ以上の歩道を持つ(Ⅸ-464)。・四つの居住区を前述のように区画する(Ⅸ-465)。・シヴァなど神々は前述のように配される(Ⅸ-467)。・多くの門が造られる。塁壁をもつ(持たなくてもいい)(Ⅸ-468)。・ヴィシュヌ寺院は交差点に建ち,門から見えるのが望ましい。シヴァ寺院も交差点に建つ。そうでなければ,両寺院とも通りのない場所に建てられる(Ⅸ-469-472)。

[47] 高谷好一のアジアの生態区分による。アジア大陸の景観を概観すると,大きく,,沙漠,草原,,海の五つの区域を区別できる。大陸の中央部を横断して沙漠と草原があり,その北と南に森が広がる。東西端そして南に,中国,ヨーロッパ,インドの野が位置する。そして,大陸全体を取り巻く海がある。

[48]  I.ウォーラーステイン,『近代世界システム Ⅰ,Ⅱ 農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』,川北稔訳,岩波現代選書,1981

[49]  I.ウォーラーステイン,『近代世界システム 重商主義と「ヨーロッパ世界経済」の凝集 16001750,川北稔訳,名古屋大学出版会,1993

[50]  I.ウォーラーステイン,『近代世界システム 大西洋革命の時代 17301840s』,川北稔訳,名古屋大学出版会,1997

[51]  Janet L. Abu-Lughod,”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”,Oxford University Press,1989.ジャネット・L.アブー=ルゴド,『ヨーロッパ覇権以前 もうひとつの世界システム』,岩波書店,2001年。

[52] アンドレ・グンター・フランク,『リオリエント-アジア時代のグローバル・エコノミー』(山下範久訳),藤原書店,2000年。

[53]  ルイス・フロイス,『日欧文化比較』,大航海時代叢書ⅩⅠ,岡田章雄訳注,岩波書店,1965

[54] ジョアン・ロドリーゲス,「司教伝」,『日本教会史』下,大航海時代叢書Ⅹ,伊東隆夫,土井忠夫訳,岩波書店,1970

[55]  アビラ・ヒロン,『日本王国論』,大航海時代叢書ⅩⅠ,佐久間正・会田由訳,岩生誠一注,岩波書店,1965

[56] 平戸のオランダ商館は徳川幕府の命によって1640年以降次々と破壊され,現在,オランダ塀,井戸,階段とわずかな石垣が残るのみである。平戸市は,幕府による破壊命令直前の164010月時点の復元を目指している。洋風石造倉庫2棟の復元図がオランダ,ハーグのデ・カット&フィス建築設計事務所によって作製されている。手掛かりとなったのは,商館の会計帳簿に記載された,各種建設資材の寸法・数量・仕様・購入価格,大工・石工・瓦葺職人の作業内容・賃金である。また,商館長日記や書簡に書かれた建設や破壊の状況である。戸口・窓の位置,破風の形状などの外観や,屋根裏小屋組・巻揚機などの詳細といった不明確な部分に関しては,オランダに残された17世紀初頭の建物やジャカルタに残る東インド会社の建設した建物(ジャカルタ海洋博物館)を参照している。

[57] 『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,20017月。


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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...