布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
I01 ムガル帝国の古都
ラーホールLahore,パンジャーブ州Punjab,パキスタンPakistan
パンジャーブ州の州都ラーホールは、デリーの北西約400キロの地,インダス川の支流ラーヴィー川の南岸に位置する。
ラーホールのの起源は1~2世紀に遡るとされ、その名は,『ラーマーヤナ』に登場する伝説の英雄,ラム・チャンドラの息子,ラウLav(ローLoh)に由来するとされる。ラーホールという都市は,アフガニスタン,ペシャーワル地方,北インド,ラージャスターン地方にもあり,ラージプートの年代記には「ローの城」を意味するロー・コットとして言及される。ムスリムの著作の中では、ガズナ朝ムハンマドと同時代のアブ・リハーン・アル・バルーニによる,ローハワルLohawarという記述が最も古く、ローハワルあるいはラウハワルが転じてラーホールになったという。
ガズニ朝によって1021年に占領されるまで,ヒンドゥー・ラージプートの支配下にあったが,イスラーム勢力の度重なる侵略によって破壊され、この時期の記録や建築的遺跡は残されていない。
ガズナ朝のスルタン・マフムード(位1014-30)の家臣,マリク・アッヤーズによって城砦が築かれ,当初はマフムードプルと呼ばれた。ガズニ朝が滅んだ後,ラーホールはゴール朝のスルタン・ムハンマド・ゴーリーによって占領され、その後継者のクトゥブ・アッディーン・アイバクは首都をデリーへ移したために,ラーホールは一地方都市となり,大きな繁栄をみなかった。13世紀末のハルジー朝の時代には,多数のモンゴル人が市外に住みつき,その地区はモガルプラと呼ばれていたという。
現在のラーホール旧市街が築かれたのはアクバル(位1556~1605)の時代であり,1566年までには城砦が建設された。市壁の周囲は約4.8㎞,12の市門を備える(図3)。その後,ジャハーンギール(位1605-27),シャー・ジャハーン(位1628~58)によって城砦が整備され,その西に,アウラングゼーブ(位1658~1707)によって,インド亜大陸随一の規模を誇るバードシャー
植民地時代に,英国統治の行政地区として,シヴィル・ラインと呼ばれる道路網および鉄道が整備され,役所,住宅,商店等イギリス人のための総合的な生活環境が整えられていった。モール・ロードと呼ばれる道が道路網の中枢となり,モール・ロード沿いに重要な機関がインド・サラセン様式によって建設された。総督官邸(1849),高等裁判所(1889),電信局(1880),大学(1876),郵便局(1912)などである(図4)。
1947年のインド,パキスタンの分離独立により,パンジャーブ州は分割され,ラーホールはパキスタンのパンジャーブ州都となる。独立後,ラーホールは近代都市
独立後,ラーホールに居住していた多くのヒンドゥー教徒,シク教徒がインドへ移住し,代わりにインドから大量のムスリムがラーホールへと流入した。またその後の都市発展にともなってラーホールの人口は大きく増加した。20世紀末には500万人を超え、現在、周辺を含めると人口は1036万人(2016)に及ぶ。近代化の進展と急激な人口増加により,ラーホールでも都市問題が顕在化している。特に周辺農村から貧民層が流入し,大量のスクォッター集落を生み出している。これらはカッチー・アーバーディーと呼ばれ,放置された土地や川沿い,鉄道沿いに広がっている。ラーホール開発局L.D.Aによってその対策が進められているが,現在では彼らの存在を不可避なものと認め,これらのカッチー・アーバーディーに飲料水や排水設備を供与し,彼らの環境への適応を援助するという解決がはかられている。
【参考文献】
布野修司+山根周,ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容,京都大学学術出版会,2008年5月30日
布野修司+安藤正雄監訳:植えつけられた都市
英国植民都市の形成,ロバ-ト・ホ-ム著:アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities,京都大学学術出版会,2001年7月
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