地域再生の人材育成,東京人,201107
被災地の最も深い現場から、無数のコミュニティ・アーキテクトたちを育てよ。
地域再生の人材育成,東京人,201107
布野修司
三月一一日一四時四六分、たまたま自宅にいて国会中継をみていた。国会が揺れて大騒ぎになって少し間を置いて彦根も揺れた。続いて流れた仙台の若林区を襲う津波の映像に釘付けになった。迫りくる津波に気づかず走る車に息を飲んだ。
シュルシュルと 獲物を狙う蛇のよう 運河を登る 津波の早さよ
大車 横転後転 繰り返す 押し流されて 皆スクラップ
二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありと思い出した。気がつくとバスや車、そして船が転がっていた。自分が居た周辺で五〇〇人が亡くなった。悪夢の再現である、否、これはもう全てを超えて言葉もない。加えて、一度起これば全てを失う原発の致命的問題が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。
震災直後から、京都大学の布野研究室出身で、仙台に住む宮城大学の竹内泰准教授から次々に報告があがってきた。都市別、建物種別、地区別に被災状況が実に的確でよくわかった。この状況に対して何ができるのか。レポートを受けとり続ける誰もが考えた。
どこか具体的に支援する場所を決めよう、というと、南三陸町の志津川地区をやるという。竹内研究室の工藤君の出身地で漁港をいち早く復興したい、漁を再開するためには仮設でも、漁師が集まる番屋が欲しいという。「生活の復興と産業の復興は同時。仮設住宅だけでなく、仮設産業施設も必要」と「番屋プロジェクト」が始まった。すぐさま呼応したのが東京理科大学の宇野求先生であり、千葉大学の安藤先生と僕は20年続けている「木匠塾」の本拠地、加子母(中津川市)に資材提供を頼み込んだ。中島工務店の中島紀于社長に快く引き受けていただいて、五月の連休中に、学生たちがかけつけて、とりあえず組み立てあげることができた。
求められているのは単なる提案ではない。アクションプランである。しかし、こうして個人でできることは限られている。実に無数の動きがある中で、それらを長期にわたるサステイナブルな仕組みに作り上げることが問われているのではないか、と強く思う。復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、地域社会再生のためのシステム構築でなければならない。
阪神淡路大震災の後、建築家の責任を強く感じて『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(2000年)をまとめて、地域診断からまちづくりまで一貫して担う職能の必要性を提起した。その後、インド洋大津波に巻き込まれ、復興支援に通う中で、その感をますます強くした。安心・安全のためのまちづくりの主体は地域社会である。地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そう考えて、京都コミュニティ・デザインリーグの活動、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座による人材育成の活動をささやかに展開してきた。
東日本大震災の復興計画の現場から無数のコミュニティ・アーキテクトを育てること、まちづくりの仕組みの大転換を起すこと、そのことをずっと考え続けている。
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