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2025年9月24日水曜日

チェンマイ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,20191130

K03 四角い古都

チェンマイChiang Mai,ラーンナー地方Lanna,タイThailand タイ

 



チェンマイは、バンコクの北方700kmに位置する、ランナータイの古都である。雲南を拠点にしていたタイ系諸族は、モンゴルの侵攻に対して,各地にムン連合国家を建て対抗することになるが、タイ北部に下ってきたタイ・ユアン族は、チェンマイを拠点に、マンラーイ王の下にランナー(百万・田)王国を建てる(1296412日)。正式の国名は「ノパブリ・スリ・ナコン・ピン・チェンマイ」、チェンマイは「新しい都市」を意味する。


図① チェンマイ 航空写真

チェンマイは,東を流れるピン川と西のドイ・ステープ丘陵の間に位置し,土地は東に向かって傾斜している。都市は一辺約1.6 kmの正方形に計画され,2重に煉瓦の城壁によって囲われていた。内側の城壁には5つの門があり,南にのみ2門設けられていた。南の西に設けられた門は,死体を城外に持ち出す際にのみ用いられた。外側の壁は北東の角から南西の角へ向けてつくられ,城壁に添って濠が掘られた(図①)。

城壁で囲われた「四角い村」はウィアンViang(ウェインWeing)と呼ばれるが,チェンマイ近郊に重要なウィハンが2つある。ウィアン・スアン・ドークとウィアン・チェット・リンである(図②)。それぞれ1371年と1411年に建設されている。ウィハン・スアン・ドークは,王家の庭園として建設され,ワット・スアン・ドークを中心とする寺院都市とする計画であり, ウィアン・チェット・リンは戦争時の終結場所となることが想定されていた。

正方形の都市は,天文学的な配置を占うマハ・タクサ碑文に基づいて計画されたと信じられている。マハ・タクサによって,都市の中心は,ワット・サドゥエ・ムアンWat Sadue Muang(中心(臍)寺院)の都市柱(ラック・ムアン)の場所に定められ、都市の北部は,王と王家の家族の居住地および行政機関の場所とされ,南部は臣下,兵士,職人の場所とされた。このウィハンという「四角い村」の伝統が今日にまで維持されている例は珍しい。



図④ チェンマイ、タ・パエ通り


図③ チェンマイ、1893 年

この四角い王都を大きく変えていったのは商業活動であり,交通体系である。鉄道が敷設される以前,チェンマイの交易を支えたのはピン川による水運である。19世紀末の地図(図③)をみると,ピン川沿いに立地する問屋や商店街に依存したチェンマイの都市のあり方がよくわかる。

そのチェンマイとバンコクが鉄道によって結ばれるのは1910年であり,さらに自動車による陸上輸送が一般的になると,チェンマイは大きく変わる。その変容は商店街の移動に見ることが出来る。

そして,1980年代以降,市街地の拡張が本格的に始まる。

図⑤ チェンマイ、ショップハウス

チェンマイの商業地区は東門の外側,タ・パエ通り(図④)とピン川に沿ってある。最も賑やかなのは中央市場のカド・ルアンの周辺である。旧城内とピン川に挟まれて,郊外からの商人にとって交通の便がいいのがその理由である。かつても,市場が開かれ,ピン川利用の商人や旅行者で賑わう場所であった。

商店街はピン川の東西に形成され,西側はター・ワット・ケートの寺院集団やチャイニーズ移民や外国人が経営する店舗,東側は一般の近郊農民が占め,新たな移住者も東側に商業コミュニティを形成し,川の両側に商品を供給する役割を担った。また,バンコクとの交易が次第に盛んになる。ター・ワット・ケートはピー川の分極点にあり絶好の荷上場となった。ここには伝統的な長屋の店舗が建てられ,今日までその景観の一端が残されている(図⑤)。中国寺院,キリスト教会,シーク教会が当時の状況を伝えている。

チャイニーズ居住地区は,ピン川の西岸に沿って拡がり,さらにチャン・モイ道路に繋がって北のタ・パエ地区に達した。現在,ラオ・ジョウ通りはチェンマイのチャイナタウンとして知られる。中国寺院の存在はそのコミュニティが安定していることを示している。インド人商人はカード・ルアン地区で商売を始め,ヒンドゥー寺院を建設している。

1910年に,木造のナラワート橋が建設され,タ・ワット・ケート,カード・ルアン,タ・パエの各地区を結びつける役割を果たし,新たに鉄橋が建設される1921年までに,チェンマイ最大の商業地区が形成された。以降,水運から鉄道輸送に切り替わっていくことになる。 そして,ピン川の東,ナラワート橋と鉄道駅の間に新しい商店街が形成される。しかし,チェンマイとバンコクを結ぶ幹線道路が建設されると,鉄道輸送より陸上輸送が一般的になっていく。

市街地の西の丘陵部への拡大は,チェンマイ大学が建設された1964年頃に始まる。本格化するのは1980年代で、大きなきっかけになったのは観光産業の急速な成長である。

20世紀から21世紀にかけて西部の大学教育機関,政府機関が立地した地区は,徐々に近代的なゾーンに変容していき,城壁で囲われた旧市街は,100万人が居住するチェンマイ大都市圏の象徴的都市核として歴史的保存地区に指定されることになる。

チェンマイは,タイ第二の都市と言われるが,人口規模でいえば,チェンマイが23.42万人 (2014)174,2352015)で,ノンタブリー27609の方が多い。第二の都市というのは歴史的重要度においてである。バンコクのプライマシー(首座度)は,タイの国土編成の奇形的一極集中を示しているが,そうした中で,かつての歴史的都市核を保存しながら,郊外への発展をはかるというのが,チェンマイの変容パターンである(図⑥)。


図⑥東のピンー川 Ping River から西のステープ山 Doi Suthepへの間にある正方形のチェンマイ旧市街が見える航空写真

 

参考文献

Nawit Ongsavangchai, 2009, Spatial Planning of Thai Northern Cities and their Urban Architecture, Proceeding of the 2009 NRL+BK21 International Symposium: Tradition and Modernity of Architecture and Urbanism in Historic Area, Cheongju, Korea, June.  

Nawit Ongsavangchai, Takashi Kuramata and Tadayoshi Oshima, 2008, An Impact of Housing Development Projects on Land Use Pattern in Chiang Mai City Planning Control Area, Proceeding the 4th International Symposium on Architecture and Culture in Suvarnabhumi (ISACS) 18 22 October.         

 

 

 

 

 

  

 

 

 

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