棲み分けの多様な原理Diverse Principles of Segregation , traverse23,新建築学研究23, 2022
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棲み分けの多様な原理 Diverse Principles of Segregation
Shuji Funo
布野修司
そもそも、建築すること、設計することは、空間を境界づけることである1。建築の起源は、⾃然を⼈⼝環境化すること、⾬⾵を防ぎ、寒暖を制御し、快適な居住空間を維持するために、⾃然との間に境界をつくることにある。そして、空間と空間を仕切ること、すなわち、空間をどう分離しどう結合するかは、設計⾏為の本質である。
名づけること、すなわち、⾔語の成⽴そのものが、「もの」「こと」を区別することである。そして、境界(boundary, border, bound)をつくるということは、聖と俗、公と私、内と外、男と⼥、⽀配と被⽀配 を空間的に区別することである。建築するということは、時として、空間を隔離(segregate)する暴⼒的⾏為となる。都市計画⼿法としてのゾーニングはまさにその象徴である。
究極のセグリゲーション︓アパルトヘイト・シティ
今⽇のアジア、アフリカ、そしてアメリカ⼤陸の数多くの国家を境界づけている国境線は⻄欧列強による植⺠地分割の歴史的遺産である。国⼟のかたちは川や海、⼭や砂漠など⾃然によって境界づけられるのが⼀般的であるが、直線で区切られた国境線はいかにも不⾃然である。植⺠地においては、⽀配-被⽀配、外来-⼟着、富裕層―貧困層の分離は極めてクリティカルである。
1997年に植⺠都市研究2を始めて四半世紀になる。世界中の植⺠都市を歩いてきたが3、最も驚いたのは南アフリカ共和国の諸都市である。「アパルトヘイト・シティApartheit City(⼈種隔離都市)」と呼ばれるが、⽩⼈、インド⼈あるいはカラード、アフリカ⼈という⼈種によって、貧富の差によって都市が完全に分割されているのである。究極のセグリゲーションと⾔ってよい。
アメリカで⽣み出されたゾーニングZoningという⼿法は、⽇本では「⽤途地域制」として、都市を地区に分割し、各地区の建物の⽤途、⾼さ、建蔽率、容積率などを規制するものと考えられているが、そもそもは⼈種隔離を前提とするものであった。最初の⼈種隔離ゾーニング条例が成⽴したのはボルティモアで1910年のことである。しかしそれにしても、「アパルトヘイト・シティ」のすさまじさは想像を絶する。その起源は、1834年の奴隷解放によってケープタウンに⾃由奴隷のための特別な居住区(ロケーション)がつくられたことに遡る。その後の原住⺠(都市地域)法Natives (Urban Areas)Act(1923)から集団地域法Group Area Act(1950)へ⾄る経緯はここでは省くが、 Lemon(1990)の模式図のように(図①)、⽩⼈の中⼼業務地区CBDを中⼼に、インド⼈あるいはカラード、アフリカ⼈という⼈種、収⼊階層などによって居住地は分離されるが、その幅は、場合によると数キロにもなるのである4。
1 「カンポンとコンパウンド」(前号『traverse』22)の末尾に、「<包むもの/取り囲むもの>という⾔葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。……共同体における相互扶助と内部規制という⼆重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。」と書いた。『traverse』という命名が既にその基本的命題を意識しているのであるが、「今、境界をつくるということ」というテーマ設定は、越境traverseすべき「境界」が⾒えなくなっているということなのか︖
2 布野修司︓植⺠都市の形成と⼟着化に関する研究︓科学研究費補助⾦︓国際学術調査1997ー98年/ 布野修司・応地利明・安藤正雄他︓植⺠都市空間の起源・変容・転成・保全に関する研究,科学研究費国際学術研究1999ー2001年。
3 植民都市研究をめぐっては『traverse』に何度か書いている。創刊号の「植民都市の建設者・・・計画理念の移植者たちThe Builders of Colonial Cities・・・Planters of Western Urban Planning 植民都市研究のためのメモ」( traverse01, 新建築学研究01, 2000) はその最初の報告である。「植民都市の特性と類型 Characteristics anTypology of Colonial Cities オランダ植民都市研究 Study on Dutch Colonial Cities」( traverse04, 新建築学研究, 2003) 。「ハトとコラル ⾮グリッドの⼟地分割システム Hatos & Corales AntiーGrid Land Division System」(traverse09, 新建築学研究,2008)、「グリッド都市The Grid City」( traverse13, 新建築学研究,2012)。
パインランズ・ガーデンシティ︓唯⼀実現した⽥園都市︕︖
植⺠都市研究の最初のターゲットとしたのは英国の植⺠都市である。⼤英帝国はその絶頂期(1930年代)に地球上の陸地の4分の1を⽀配した。まず焦点を当てたのは、その絶頂期に建設された⼤英帝国の3⾸都ニューデリー、プレトリア、キャンベラである。また、20世紀の都市計画理念として最も影響⼒をもったE.ハワードの「⽥園都市」5100周年ということも念頭にあり、各地の⽥園都市も視野に⼊れていた6。最初にロンドン経由で南アフリカに向かったのは、プレトリアと共にケープタウン郊外のパインランズPinelands・ガーデンシティの帰趨を確認したかったからである。
E.ハワードの⽥園都市の理念は、極めて単純なダイアグラム(図②ab)によって知られる。⼤都市への⼈⼝集中を衛星都市によって受け⽌め、分散するプログラムと⼀般に理解されるが、その核となるのは、「⾃給⾃⾜ Self-contained」であり、⼟地の公有化であり、職住近接であり、都市と農村の調和・結合である7。この⽥園都市の理念は圧倒的な影響⼒をもち、世界中に「⽥園都市」が建設されることになる。しかし、実際に建設された「⽥園都市」は、その基本理念を実現することのない「⽥園郊外Garden Suburb」にすぎず、失敗に終わったとされる。しかしそうしたなかで、唯⼀成功したのがパインランズではないかという。
その建設を推進したのは、事業家で南アフリカ連邦内閣の⼀員であったリチャード・スタッタフォードである8。設計したのはパーカー・アンウインParker&Unwin事務所の所員であったA.J.トンプソンAlbert Thompsonである。建設トラストは地元の建築家によるコンペを⾏い、ジョン・ペリーの案が選ばれたが、R.アンウインに⽋点を指摘され、替わってA.J.トンプソンが推薦される。A.J.トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年である9。その中⼼地区はレッチワースに似ており、クルドサックも⽤いられている(図③)。1924年6⽉半ばまでに95⼾完成、⼊居さらに翌年2⽉までに12⼾が竣⼯している。パインランズは、アフリカ最初の⽥園都市である。
パインランズ・ガーデンシティは、筆者が訪れた1997年には、まるで陸の孤島のように⽩⼈のみが居住する⽥園都市として、初期の完結した都市のイメージを維持してきたように⾒えた。アパルトヘイト体制が強化されるなかで、パインランズは存続してきたのである。反アパルトヘイト運動で27年投獄されたN.R.マンデラが⼤統領になったのは3年前の1994年であった。
4 佐藤圭一, 布野修司: ボー・カープ( ケープタウン, 南アフリカ) の街区構成と住居類型・・・ケープタウンにおける非白人居住区の空間構成に関する研究 Building Types and Block Patterns
of Bokaap (CapeTown,
South Africa) STUDY ON THE SPATIAL
PATTERNS OF NONーWHITE QUARTERS IN CAPE TOWN, 日本建築学会計画系論文集, 555号, pp239
ー246, 2002年5月。佐藤圭一, 布野修司, 安藤正雄, ディストリクト・シックス( ケープタウン, 南アフリカ) の街区形成とその解体・再開発に関する考察, Considerations on Formation,
Destruction and Redevelopment of District Six(Cape Town, South
Africa), 日本建築学会計画系論文集, 第578号, pp77ー84, 2004年4月。
5 『明⽇-真の改⾰にいたる平和の道To-morrow: A Peaceful Path to
Real Reform』(1898)。『明⽇の⽥園都市Garden Cities of To-morrow』(1902)。
6 布野修司︓⽥園都市計画思想の世界史的展開に関する研究-発展途上地域(東南アジア)におけるその受容と変容︓科学研究費︓基盤(B),1999ー2001年。
7 また、見逃されるけれど、E.ハワードが描いた数葉のダイアグラムには、「Diagram Only」と書かれており、具体的なレイアウトを示唆するものではなかった。実際に、最初の田園都市レッチワースを設計( 1904) したB.パーカーとR.アンウィンは幾何学的配置を呪詛していたことが知られる。
セグリゲーションの諸相:⼈種・防衛・衛⽣・間接統治
植⺠都市研究を企ててロンドンを訪れた最初の⽇に、ホテルの近所にあった本屋で⼀冊の本が眼にとまった。出版されたばかりのRobert Home(1997) “Of Planting and Planning The Making of British colonial cities”である。⼀瞬、ヤラレタ︕と思った。英国植⺠都市の歴史の全貌が既に⼀冊にまとめられているのである。早速、買い求めて翻訳したのが、ロバート・ホーム(2001)『植えつけられた都市 英国植⺠都市の形成』である。研究室での翻訳作業に4年ほどかかるが、その間、ターゲットを英国植⺠都市からオランダ植⺠都市に切り替えた。英国に先⽴って、近代世界システムの最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであり、⽇本は出島を通じて繋がってきた。オランダ植⺠都市について、さらに4年をかけてまとめたのが布野修司編(2005)『近代世界システムと植⺠都市』である。
R.ホームとは、その後、京都に招いたり、ロンドンの⾃宅を訪れたりすることになるが、彼は、植えつけられた都市 英国植⺠都市の形成』の第5章「ヨーロッパ⼈の(感じる)不便―⼈種隔離,その起源と衰退」でセグリゲーションの問題を扱っている。セグリゲーションは、通常⼈種隔離Racial Segregationを意味する。しかし、南アフリカでの⼈種の規定をめぐる議論をみても―⻩⾊⼈種である。
⽇本⼈はカラードではなく名誉⽩⼈とされた―実に曖昧である。極端に⾛ると、ユダヤ⼈のジェノサイドに⾄ったナチス・ドイツの経験を⼈類はもっている。
セグリゲーションにもいくつかのレヴェルがある、R.ホームは、アパルトヘイト・シティを究極のセグリゲーションとしながら、防衛のためのセグリゲーション、公衆衛⽣のためのセグリゲーショ ン、間接統治のためのセグリゲーション挙げている。インドにおけるカントンメント(兵営地)は、既往の都市と⼀定の距離を置いて設けられた。インド⼈の反乱、暴動を警戒してのことである。延焼を恐れての防⽕地帯を設ける意図もあり、伝染病に対する恐怖もあった。細菌理論が出現する以前には、病気は動物や野菜の腐敗などによる空気の汚れによって引き起こされると考えられており、病気を媒介する⾍、ハエ、シラミ、特に蚊の⾶翔距離以上の距離を隔てることが必要だと考えられていたのである。
近代都市計画の成⽴の起源には伝染病の発⽣と衛⽣思想があるが、ロナCovid-19禍で問われるソーシャル・ディスタンスの問題も基本的に同じである。健康、衛⽣、伝染病は、セグリゲーションの問題に深く関わっている。そして、貧富の隔離、「ゲイティド・コミュニティ」/「不良住宅地」のセグリゲーションも、今⽇もいたるところに⾒ることができる。
8 1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会い、その理念に感化される。そして、時の⾸相 F.S.マランに⽥園都市建設を訴え、議会はガーデン・シティ・トラストの設⽴に賛成し、400haの⼟地を寄付することになるのである。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んだという。ただ、⾃給⾃⾜、⼟地の公有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭にはなく、周辺の⼟地の取得を⾃治体に委ねる利益追求型⼟地開発だという評価もなされている。
9 南ケンジントン⼤学の美術学校で建築を学んだA.J.トンプソンがパーカー&アンウイン事務所に⼊ったのは1897年の3⽉である。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。パーカー&アンウイン事務所の番頭、実務家である。彼はパインランズ建設の契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを⼿掛けるが、プランを⾒る限り、今⽇でいう⼀般的な宅地開発である。1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府⼟地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。(John Muller(1995), ‘ Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa's
Garden City’
,Planning History Vol.17
No.3.
シンガポールの実験︓ショップハウス・ラフレシア
S.ラッフルズによって建設されたシンガポールは、セグリゲーションの原初的形態を⽰している。ヨーロッパ⼈地区を中⼼に、チャイニーズ、チュリア(インド・タミル系ムスリム)、マレー、ブギス、アラブなどのカンポンをそれぞれ別の地区に配置するが、各地区を壁で囲むなどの隔離するわけではない。各地区共通に、住居の基本型としてヴェランダ・ウェイ(ファイブ・フット・ウェイ)を前⾯に設けたショップハウスの形式を導⼊する。英国植⺠都市の中では別にユニークである。
トーマス・スタンフォード・ラッセル10がシンガポール島に上陸し、周辺のオラン・ラウトOrang Laut(海洋⺠)を束ねていた⾸⻑に毎年⼀定の額を⽀払う条件で、商館建設の許可を取り付けたのは1819年初頭である。そして、シンガポールと命名、⾃由貿易港とすることを宣⾔する(1820)。各地から広範囲に交易商⼈を集めるために、交易の⾃由と安全を保証することが必要であることをラッフルズは深く認識していたのである。ラッフルズの港市建設の基本理念について、R.ホ-ム(2001)は、その植⺠地管理を間接統治の先取りであり、⼈種隔離計画の先駆とも位置づけるが、「ラッフルズは⾶び抜けた夢想家で有能な帝国主義者」で、「⽀配される⼈々の⽂化、⾔語、習慣を深く研究した英国植⺠地総督の数少ない⼀⼈」であったとも⾔う。S.ラッフルズのいう⾃由貿易港は、しかし、様々な⺠族集団が棲み分けながら共住した(セグリゲーション)、それ以前の港市の基本特性でもある。
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まず、形成されたのはチャイナタウンであり、先住のマレー⼈漁⺠やオラン・ラウトたちは南北の海岸沿いに居住した。また、1830年代半ばにはブギス⼈カンポンが北端部に形成された。そして、中央部のヨーロッパ地区の数多くの施設、住宅の建設に関わったのがアイルランド⼈建築家G.G.コールマンである11
19世紀末の⺠族集団の棲み分け状況をみると、初期のセグリゲーションが分布を⼤きく規定していることを確認することができる(図⑤)12。各⺠族集団についても、⾔語(⽅⾔)、出⾝地などによる下位集団ごとの棲み分けも⾒られる13(図⑥)(Yeoh, B.S. (1991))。
アジア海域世界の越境者たち
シンガポールに移住してきたチャイニーズは、上述のように、中国南部からの移住者たちである。彼らは東南アジア各地にいわゆるチャイナタウンを形成してきた。マニラ、セブのパリアンParian、ハノイ、ホイアン、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)、バンテンなどジャワの諸都市、東南アジアに限らない、博多の唐坊(唐房)、⻑崎の唐⼈屋敷、那覇の久⽶村もある。博多と寧波、福州と那覇、⻑崎とマカオ(澳⾨)の間には⻑らく交易路が維持されてきた。
⼀⽅、中国沿海部の港市には、蕃坊と呼ばれる外国⼈居留地が設けられてきた。泉州の蕃坊に居住したのはペルシア系の渡来者である15。「施那愇」という蕃商がいたことが知られるが、この「施那愇」は,シーラーフであり,9世紀から10世紀にはインド洋交易のファールス地⽅の⼀⼤中⼼港市であった。また、13 世紀中葉になって、蒲寿庚という市舶司があらわれるが、その祖先は元々広州に居住し、蕃⻑の職を務めて⼤きな資産をなし、広州第⼀の富豪となったという16。要するに、アジア海域世界の東⻄の国際交流は盛んであったということである。
11 ラッフルズがシンガポールを訪れたのは1819年の1月から2月にかけての9 日間, 5月から6月にかけての4週間, そして
1822年10月から1823年6月までの8ヶ月の3回だけである。1824年には帰国, 1826年にロンドンで死去している。実際にシンガポール建設を遂行したのは、副総督LieutenantとなったP.ジャクソンJackson( 1822~
5) 、G.D.コールマン( 1826
~ 41) 、J.T.トムソンThomson( 1841~ 53) である。しかし、シンガポールの都市建設についての基本理念を提起し、それを方向づけたのはラッフルズとみていい。
12 チャイニーズは、A,C地区の85% 以上を占めている。また、E,G地区でも過半を占めている。インド人は主としてF,H地区に居住したが、チェティ、チュリアたちタミル商人、グジャラート商人たちの小さな地区は各地に存在した。ユーレイシアンは、シンガポール川の北E,F,G,Hに主に居住している。また、港湾地区Jにはクーリー( 苦力) と呼ばれた中国人労働者、マレー人・インドネシア人が居住した。ヨーロッパ人の居住区は、中心地区から北東の郊外地区に広がっていった。
13 最大のアジア人集団を形成するチャイニーズを見ると、大半はチャイナタウン( チャイニーズ・カンポン) A,B,Cとカンポン・グラムE.Gに居住するが、閩南の泉州・彰州Hokkiens、潮州, 広東、客家、海南、福建、海峡出身などによって居住地は少しずつ異なっている
14 1887年の市政府Municipalitiesの設立以降については、シガポール国立公文書館National Archives
of Singaporeにショップハウスの建設の届出のための図面がアーカイブされている( 1890年から1930年まで263事例) 。
⽇本もまた室町時代から江⼾時代にかけて、⽇明貿易・勘合貿易、御朱印船貿易を展開するが、それに伴い南洋に移住した⽇本⼈は 7,000⼈から1万⼈に及ぶ(岩⽣成⼀(1966))。そして,⽇本⼈のみが集団で居住しまちを形成したいわゆる⽇本町として、呂宋のマニラ近郊のディラオDilaoとサン・ミゲルSan Miguel、交趾のフェフォFaifoとツーランTourane、東埔寨のピニャルーPinhaluとプノンペン、そして暹羅のアユタヤが知られる。⽇本⼈が外⼈と雑居する都市は数多く、マラッカ,パタニから、はるかミャンマー、インドに及んでいたことが分かっている。
シンガポールに移住してきたインド⼈は、⼤きくタミル商⼈とグジャラート商⼈に分かれるが、前者には、コロマンデル地域を拠点としたチェッティ(チェッティヤール)(ヒンドゥー商⼈)、チュリア(タミル系ムスリム、アラブ商⼈の⼦孫、インド・アラブ混⾎の商⼈)、外来ムスリム商⼈、後者には、⼟着のバニアBania(ヴァニヤVaniya)商⼈(ヒンドゥー教・ジャイナ教商⼈)、ムスリム商⼈(シーア派のボーラ商⼈、ホージャ商⼈)、パールスィ(ゾロアスター教)商⼈に加えて、アラビア、イラン、トルコなどからの外来ムスリム商⼈、アルメニア商⼈がいる。
グジャラート地域は、マラバールなどインド⻄岸、ホルムズ、アデン・紅海、アフリカ東海岸の諸港と直接繋がり、さらにマラッカを通じてジャワ、中国へ⾄る交易ルートの要に位置することから、特にカンベイ湾周辺には、古来、港市が数多く形成されてきた。
そうしたなかで、カンベイは、16世紀にはインド洋海域でマラッカ、カリカット、ホルムズ、アデンに⽐肩する主要な港市となり、18世紀前半にその地位をスーラトに譲るまで、ムガル帝国で最も栄えた港市であった。今⽇のカンベイも、宗教コミュニティごとの棲み分けが⾏われており、異なる宗教コミュニティが混住している地区は少ない。⼤きくはヒンドゥー居住区、ジャイナ居住区、スンナ派ムスリム居住区、シーア派ムスリム(ボーラ)居住区に分かれる。街区は,ワドwado、ファディア fadia、カドゥキkhadki、ポルpole、ガリgali、シェリsheri、モハッラmohallaといった名称で呼ばれ る。街区規模は様々であるが、⼀つの街区単位が他の街区単位を包括するようなヒエラルキーは⾒られず、同列である。ヒンドゥー、ジャイナ教徒の居住区では、カドゥキ、ポルなどの街区名称が⼀般的であり、スンナ派ムスリムの居住区はモハッラ、ボーラ地区ではシェリ、ガリといった街区名称が⽤いられている(図Ⅳ4−2⑤)。街区が様々な名称で呼ばれることは、多様な背景をもつ⼈々によって構成されてきたその歴史を⽰している(図⑥)。
グジャラート地域、そしてコロマンデル地域に古来数多くの港市が⽴地したのは、アラビア海そしてベンガル湾を横断する航路が南⻄・北東モンスーンによって規定されてきたからである。『エリュトラー航海記』(紀元1世紀)以降の航海記(マルコ・ポーロ『東⽅⾒聞録』(1290〜1293)イブン・バットゥータ『⼤旅⾏記』(1325〜59)⾺歓(1380〜1460)の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』費信『星槎勝覧』(1436)トメ・ピレス『東⽅諸国記』(c.1515))が⽰すように、アジア海域世界の東⻄は交流を続けてきた。そして、港市は多様な⺠族集団が共住する空間として、様々なもの、⼈、情報が交換される場所として機能してきたのである。
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エンポリア︓多⺠族共住の空間
セグリゲーションの原理は、極端に⾛れば「アパルトヘイト・シティ」に⾏き着く。しかし⼀⽅、多様な⺠族集団が棲み分けながら共住するのは、歴史的にはむしろ⼀般的で珍しいことではなかった。港市Port City、交易港Port of Tradeは、古来、海を隔てた様々な地域から渡来して来る航海者、交易者が居住する場所であった。
古代ギリシャでは,ポリス(都市国家)において対外交易のために⽤いられた場所をエンポリアム(ラテン語 Emporium,英語 Emporia)といった17。エンポリアは、本来、外来の交易者が都市内に⼊らずに交易ができるように都市の他の部分から離され、独⾃の港、埠頭、貯蔵庫、⽔夫の宿舎、⾷糧市場などを備えているものをいった。国内市場がアゴラであり、対外市場がエンポリアである18。アテネのエンポリアはピレウスに置かれていた。ピレウスは、今⽇地中海最多のコンテナ取引量を誇る港市である19。
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17 旅や移動を意味するポレイアporeiaから派生したギリシャ語のエンポリオンemporionに由来する。
港市の本質は、⼀般には、陸域と海域の境界に⽴地すること、その境域性にある(家島彦⼀(1996))。基本的に、海は、無主の場であり、無所有の場であり、⾃由の場であった20。別の⾔い⽅をすれば、陸の⽀配・統治の及ばない無秩序、無法の世界であった。すなわち、陸域と海域の境界は、⽀配(主)と被⽀配(従)の、所有と無所有の、秩序と無秩序の、法と無法の境界である。港市は、陸域と海域を繋ぐと共に、港市と他の港市を繋ぐことによって、陸域と他の陸域を繋ぐのであるが、そのために、港市は、外部から来る多様な⼈々に対して、⾝の安全、滞在の⾃由、⾃治的裁判権、ものの保管。貯蔵と交換の⾃由などを保証する「中⽴的装置」を備えている必要がある。この中⽴性が、さまざまな⼈間を集合させ、もの・情報を交換することを可能にさせ、港市における、交易・契約の⾃由、多様性の許容、多⺠族共住といったルール、原理、システムを⽣むことになる。
⻄欧列強は、こうした港市を、⼀元的な⽀配―被⽀配関係に転換していったのである。
18 アゴラには, カペーロスがいて商売を行ったが, エンポリアムには, 対外交易者エンポロスが居住した。アゴラは主として消費用の食糧販売の小売市場で, カペーロスは, 第1に調理食品の小売人であった。一方, エンポロスは外国交易者であった。プラトンは, カペーロスは「アゴラに居て, 売買してわれわれに奉仕するもの」, エンポロスを「町から町へと放浪するもの」という( 『国家』) 。エンポロスは, その語源通り, もともと旅人を意味した。
19 ピレウスはアテネの⼀部であったが、居住者のほとんどは外国⼈と居留外国⼈であった。アリストテレス(384 BC〜322 BC)は,このピレウス(ペイライエウス)の計画に携わったのは,ミレトス⽣まれで,「碁盤状の道路を設計し」「国を区画することを発明し」さらに「最善の国政について論じることを企てた最初の⼈」であるヒッポダモスHippodamus (498 BC 〜 408 BC)だという(『政治学』第 2卷「最善の国政についての⼈びとの⾒解と評判の⾼い国政の吟味」第8章「ミレトスのヒッポダモスの国制論に対する批判」1267b22
-29)。
20 現在の海洋法でも, 領海( 12海里) , 接続水域( 12海里) , 排他的経済水域( 200海里) は定められるが, それ以外は公海であり, 自由に航行, 生物資源の保護の規定はあるが自由に漁獲ができる。領海も他国船籍の無害通航権は認められている。
引⽤⽂献
Robert Home(1997), “Of Planting and Planning The Making of British colonial cities”, E & FN Spon. ロバート・ホーム(2007)『植えつけられた都市 英国植⺠都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳︓アジア都市建築研究会訳,京都⼤学学術出版会
岩⽣成⼀(1966)『南洋⽇本⼈町の研究』岩波書店
Lemon, A(ed.)(1990), “Homes Apart: South
Africa’s Divided Cities”,
Paul Chapman.
家島彦⼀(2006)『海域から⾒た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋⼤学出版会
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