このブログを検索

2025年9月29日月曜日

ジャイプル:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


I12 ピンク・シティ-ジャイ・シンⅡ世の王都

ジャイプルJaipur,ラージャスターンRajasthan,インドRepublic of India

 

 ジャイプル,マハラジャ(藩王)であり,政治家であり武人,天文学者・数学者でもあったジャイ・シンⅡ世16881743)によって建設された。ジャイプルとは,「ジャイ・シンの都市(プル)」という意味である。ヒンドゥーのコスモロジーに基づいて、中心に王宮と最も重要な寺院ゴヴィンダデーヴァ、ジャンタル・マンタル(天文台)(図①)を置く、整然としたグリッド街区によって構成される、実にユニークな都市である。時を経て、ラム・シン(18351880年)が大英帝国ヴィクトリア女王の夫君アルバート公の訪問(1853年)に際に「歓迎」を意味するピンク色で建物のファサードを統一して以降、ピンク・シティと呼ばれる。ラージャスターンの州都であり,行政,交易の中心都市として、その建設当初から金融と宝飾、とりわけエメラルドの都市として知られる。

 建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、全体は格子状の街路によって計画され、中央東西には、西のチャンドポール(月)門からスーラジポール(日)門まで幹線街路が一直線に走り、間口2間程の店舗が連なるバザールが両側に並ぶ(図②)。また、東西南北の幹線街路の交差点にはチョウパルと呼ばれる350フィート四方の広場が置かれる。バザールとチョウパルによって予め都市の骨格を定めた上で、個々のハヴェリ(中庭式住居)が建設される。ハヴェリの建設にあたっては、高さなどヴィディヤダールの指示に従うことが求められた。ジャイプルには,多くの行政官や軍人が居住したが、その行政官の俸給として与えられた土地をジャギルといい,ジャイプルに土地を所有する層はジャギルダールと呼ばれる。18世紀後半には,そのジャギルダール のために住居を建設し,年収の一割を徴収する施策が採られた。起工式は、17271129日とされるが、ジャンタル・マンタルは、前もって建設が開始されている。1729年には、現在に残る市壁、市門すなわち外形は完成し、主要な街区は、1734年までには完成している。統一的な都市景観は最初期に形成されるが、現在の形態ができあがるのは19世紀末のことである(図③)。

 ジャイプルの全体は、ナイン・スクエア(3x3=9分割)システムあるいは9x9のプルシャ・マンダラに基づいて街区(チョウクリ)に分割されているが、完全な形をしているわけではない。北西部は、ナハルガル 城砦が築かれた山によって街区が欠け、南東部は東に1街区突出する形になっている。また、全体は正南北ではなく約15°時計回りに傾いている。東南部の突出については、北西の区画が山腹にかかって実現できないため、東南部にその代替を計画したという説がある。また、 グリッドが傾いているのは、ジャイ・シンの星座である獅子座の方向に合わせたという説、また、軸線の傾きは日影をつくり、風の道を考慮したためだという説がある。

 東西南北の幹線街路によって区切られるチョウクリ の大きさは必ずしも一定ではないが、街路寸法にははっきりとしたランクがあり(100フィート(30.48m,50フィート(15.24m,25フィート(7.62m,12.5フィート(3.81m)),ヒエラルキーに従って住区を構成する計画理念があったと考えられる。

 住居は基本的にはハヴェリと呼ばれる中庭式住居であり、中庭式住居を並べることによって街区が構成される。(図④)。当初は平屋もしくは2階建てであったが、現在は、46階建てが一般的である。現在まで残っている歴史的なハヴェリ,ジャイ・シンが招いた有力商人の建設したものである。

 19世紀に入ると,マラータ族の侵入によってジャイプルは衰退するが、ラム・シンの治世になると,再び活況を呈する。水道,ガス灯が設置され,病院,学校,大学,博物館が建設された。マド・シン Ⅲ世(18801922)の治世は再び衰退の時代となる。マン・シンⅡ世(19221940)の治世となると,市の行政は州議会によって執行されるようになる(1926年)。そして、1930年代以降,人口増加が始まる。1931-41年の10年は市壁外,特に南部郊外の人口増加が大きい。大学,病院が建設されるなど市街の開発が行われ、多くの人々が市の南部に住居を建設し始めるのである。

 戦後の変化は著しい。独立(1947)直後には約40万人に膨れ上がっている。第二次世界大戦後に多くの工場が立地し始めたことが人口増加の要因である。そして、その後も人口増加は続き、現在は300万人を超える都市となり、城壁内への地下鉄の敷設など、大きく変容しつつある。



図① ジャンタル・マンタル 撮影:布野修司

図② バザールの景観 撮影:布野修司

図③ ジャイプル 1881年 Roy, Ascim Kumar(1978), “History of the Jaipur City”, Manohar, New Delhi, 1978

図④ ジャイプルの街区 Survey of India 192528

 

 

 


参考文献

 

布野修司(2006)『曼荼羅都市-ヒンドゥー-都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会(「第Ⅲ章 ジャイプル」)。

 Ashim Kumar Roy:History of the Jaipur City Manohar New Delhi 1978

 J. Sarkar:A History of Jaipur Dehli 1984

S.B.Upadhyay: Urban Planning Printwell JaipurIndia1992

JDA: Vidyadhar NagarJaipur 1994

A. Nilsson: Jaipur in the Sign of Leo Magasin Tessin 1987

Aman Nath: JaipurIndia Book House PVT LTD1993 

 


0 件のコメント:

コメントを投稿

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...