布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
K22 円輪都市-最果てのヒンドゥー都市
チャクラヌガラCakranegara、ロンボクLombok、インドネシアIndonesia
バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。西は,稲と水牛の世界であり,東は芋と豚の世界である。ロンボク島の地形はバリ島によく似ている(図1)。中央にインドネシア第二の活火山,リンジャニ山Gunung Rinjani (3726m,1901年に噴火した記録がある)が聳え,大きく3つの地域に分けられる。すなわち,荒れたサバンナのような風景の見られる,リンジャニ山を中心とする北部山間部,豊かな水田地帯の広がる中央部,それに乾いた丘陵地帯の南部である。チャクラヌガラ位置するのは中央平野部西部である。
西ロンボクにはバリ人が住み,東ロンボクにはササック族が住んできた。ロンボク島の主要な民族であるササック族は,北西インドあるいはビルマから移動してきたとされる。マジャパイヒト王国がイスラームの侵攻によってバリに拠点を移した15世紀以降、その影響を受けてきた。
チャクラヌガラの中心にはプラ・メル(1720年建立)が位置する(図2)。メル(メール山,須弥山)の名が示すように,世界の中心であり,ロンボクのプラ(ヒンドゥー寺院)のうち最大のものである。チャクラヌガラの西端にはプラ・ダレムpura
dalem(死の寺)が,東端にはプラ・スウェタが位置する。プラ・プセpura
puseh(起源の寺),プラ・デサ,プラ・ダレム の3つの寺のセットはカヤンガン・ティガKayangan tigaと呼ばれ,バリの集落には原則として設けられている。ただ、バリでは南北軸上に配置されるのに対して、チャクラヌガラでは東西軸上に配置されるのが異なっている。
街路は,マルガ・サンガ(中心四辻 東西約36m 南北約45m),マルガ・ダサ(大路 約18m),マルガ(小路 約8m)の3つのレヴェルからなり,マルガ・ダサで囲まれたブロックを街区単位としている。ブロックは南北に走る3本のマルガで4つのサブ・ブロックに分けられ,それぞれのサブ・ブロックは,背割りの形で南北10づつ計20の屋敷地プカランガン (屋敷地)に区画される。マルガを挟んで計20のプカランガンのまとまりを同じくマルガといい,2マルガで1クリアン ,さらに2クリアン をカランという(図3)。マルガは,サンスクリット語で「通り」を意味する。街区の構成は,むしろ,中国都城の理念が持ち込まれた日本の都城に近い。実にユニークなヒンドゥー都市がチャクラヌガラである。
チャクラヌガラの各カランは基本的にそれぞれ対応するプラを持っている。プラを持たないカランも見られ,カランとプラの対応関係は崩れているが,基本的にはカランがプラを中心としたまとまりであることは現在も変わらない。バリの地名、集落名をカラン名とするものが少なくない。
興味深いのは,南のアンガン・トゥル
Pura Anggan Telu である。この地域は中心部と同様の町割りがなされている。当初から計画されたとみていい。北には,プラ・ジェロがあり,東にはプラ・スラヤがあり,プラ・スウェタがある。チャクラヌガラはオランダとの戦争で一度大きく破壊されており,必ずしも現状からは当初の計画理念を決定することはできないが,プラ・メルに属するプラの分布域がおよそ当初の計画域を示していると考えていいと思われる。
ヒンドゥー教徒は,基本的にカースト毎に棲み分けを行ってきた。僧侶階層としてのブラーフマンは,北および東に居住する。この分布から見て,南北の突出部は当初から計画されていたと考えられる。いくつかの称号のうちサトリア(クシャトリア)は西部に,グスティは東部に厚く分布する。アグン,ラトゥといった王家に関わる称号は,王宮の周辺に分布する。
また、ムスリム、チャイニーズとの間にも棲み分けが見られる。ヒンドゥー教徒は,中心街区を占め,イスラーム教徒は周辺部に居住する。また,屋敷地,街路の形態には明確な違いがある。カラン毎にプラ,モスクが設けられるが,市の中心部にもモスクが設置されている。チャイニーズは,全域に居住するが,基本的には商業活動に従事し,幹線道路沿いに居住する。
ヒンドゥー地区とイスラーム地区の空間構成の差は一目瞭然である。ヒンドゥー地区の屋敷地の構成は、基本的にバリの集落と同じである。分棟式で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づくオリエンテーションに基づいて配置される。ヒンドゥー地区は極めて整然としているのに対して,イスラーム地区に入ると雑然としてくる。街路は曲がり,細くなる。果ては袋小路になったりする。住宅もてんでバラバラの向きに建てられる。居住密度は高く,コミュニティーの質も明らかに異なっている。
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