布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日
水上村から陸上都市へ
バンコクBangkok、中部平地 Central Plain、タイ Thailand
バンコクはチャオ・プラヤーChaophraya・デルタ流域の湿地に立地し、1782年にラーマⅠ世はこの地を王都とし、現在のラッタナコシンRatanakosin地区に最初の市街地が建設された。現在のバンコクの発展はラッタナコシン地区からはじまった。地区全体の面積は4.1km²である。現在50の行政区から構成されておるバンコクの面積に比べると、380倍に大きくなった。ラッタナコシン地区は、西側をチャオ・プラヤー川、東側をロープ・クルンRob Krung運河に囲まれた島のような形状をしている。そのためラッタナコシン地区はラッタナコシン島とも呼ばれている。区内中央にはクー・ムアン・ダームKu Muang Derm運河が南北方向に走り、運河の西側がインナー・ラッタナコシン、東側がアウター・ラッタナコシンと呼ばれた。現在インナー・ラッタナコシンには王宮、宮殿、寺院、政府機関、学校が多くあるが、一般市民の住居、学校、市場、ショップハウスなどがアウター・ラッタナコシンに位置している。
ラーマ1世は即位後すぐに王都をトンブリーThonburiからチャオ・プラヤー川対岸の地に移し、ここをクルン・テープKrung Thepと命名した。ここにはすでにトンブリー王朝期に運河が建設されており、運河とチャオ・プラヤー川によって島状の土地が形成されていた。運河西側には城壁が設けられていた。ラーマ1世はバンコクを Krung Thep Pra-Maha-Nakorn, Amorn-Ratanakosindra, Mahindra-Yudha,
Maha-Dilokpop, Noparatana-Radhani, Burirom, Ubom-Rajnivet-Mahastan,
Amorn-Pimarn-Avatarn-Satit, Sakkatuttiya-Vishnukarm-prasit と命名した。タイ人はクルン・テープと短く呼び、しかし、西洋人はバンコクBangkokで、小川の意味のBangまたは村落の意味のBanとオリーブ木の意味のMakokのkokの複合語と言う名で呼ぶ。17世紀にポルトガルが初めて用いた名という説がある。バンコクはアユタヤ時代 (1350年-1767年) には水辺の小集落で、ここに王都アユタヤを防衛するポルトガル傭兵隊の砦が立地していた。そのあとバンコクは税関都市として位置づけられており、2つの砦がチャオ・プラヤー川の両側に建設されていた。 バンコクがアユタヤ時代には既に重要な都市であったことがわかる。
創立したから19世紀半ばまでの間はバンコクは水上都市の時代で、宮殿と寺院から離れた所には一般市民の水上住居群が数多く存在していた。川は多数の運河で結ばれ、川の両側には竹でつくられた筏住居と高床式住居が密集しており、陸上には道が非常に少なく、建物はまばらであった。この時代にも、ラッタナコシン地区と周辺地域とを結ぶ多くの運河が掘られた。アユタヤと同じく島のような形をしたバンコクは、アユタヤの王宮と寺院をモデルとして王宮とエメラルドブッダ寺院が建設され、王宮の外にある他の寺院にもアユタヤにある寺院の名前が付けられた。
初期のバンコクでは水路が交通網に重要な役割を果たしていた。狭い歩道は水路で行けない場所への補助的な交通手段として建設された。市民は水上で生活していた。運河や河川には水上住居群があり、水路の両側岸には高床住居と筏住居が並んでいた。市民の住宅は木造であった。ラッタナコシン地区の中心に王宮があり、それを囲う寺院と王室の宮殿とによって都市は構成されていた。当時バンコクは東洋のヴェニスThe Venice of the Far Eastと呼ばれていた。
ラーマ4世時代 (1851-1868 AD)にはラッタナコシン地区の市街地の範囲は城壁を越えて拡張し、1851年から1854年にかけて城壁の外側につくられたパヅン・クンカセムPadung Krung Kasem運河に到達した。建設時には4.1km²だったラッタナコシンの面積は約2倍の8.8km²となった。1855年にはイギリスとの間にボーリングBowring条約が締結される。この条約によって、ラッタナコシン地区では外国との貿易が盛んになり、市街地が拡張、発達していった。当時はビルマ、カンボジア、マレーシアをはじめとする周辺諸国に西洋の帝国主義が広がっていたので、国王は国を植民地化から救うために西洋との貿易をおこなうとともに、国を近代化しなければならないと考えた。そのためラーマ4世時代以降西洋との交流が進められ、西洋の技術と学問が積極的に取り入れられ、国の近代化がおこなわれた。そのためこの時代には、以前に建設された道路が舗装されるとともに、新たな舗装道路が多数建設された。新しい政府機関と貴族の住宅がヨーロッパの様式で建設されたが、その頃多くの市民はまだ水上で生活していた。しかし、道路建設により時代が下るにつれて陸上交通がだんだん便利になり、ショップハウスの導入によって陸上居住地が徐々に形成されていった。この時代はまた、市民が水上生活を離れた。また道路が水路に代わって重要な交通手段としての性格を強めていったことにより、新しい水路の建設は全くおこなわれなくなった。これらの要因によって水上都市ラッタナコシンは徐々に陸上都市へと変化していった。結局この変容過程が進行した結果、ラッタンコシン地区は完全な陸上都市に変容し、多くの施設が密集した状態となった。そのため19世紀の終わり頃から多くの施設は城壁の外側に建設された。新しい道路建設のほとんどは城壁外部の東側地域でおこなわれた。都市の発達も道路新設につれて東の方で進んでいき、ほとんどチャオ・プラヤー川の東岸だけでおこった。この時代には新しい道路の建設のため、運河は次第に埋め立てられていった。
1932年に政治改革がおこなわれ、タイは専制君主政治から民主政治へと変化した。それによって多数の宮殿と貴族邸宅の所有権が私有から国有に変化した。国家の所有物となった宮殿や邸宅は多くが公共施設に転用された。現在ラッタナコシン地区にある政府機関はほとんどがかつての宮殿と邸宅である。第2次世界大戦終了後、都市化された地域が非常に広くなり、1960年以後バンコクは大都市へと成長した。バンコクの副都心が周辺の新しい市街地に広がっても、ラッタナコシン地区は現在でも昔からのオールド・センターとしての役割を維持している。ラッタナコシン地区は芸術局によって現在バンコクの歴史的地区として登録されている。
水上村から陸上都市に発展していったバンコクは、現在タイの首都として800万人以上の人口が住んでいる。タイの首位都市となった。
1932年ラッタナコシン地区:最初のバンコクの市街地 |
1950年代初期のバンコクの中華街の風景
参考文献
ナウィット オンサワンチャイ ・ 布野修司 「ラッタナコシン地区(バンコク)のショップハウスの形成と類型に関する考察」『 日本建築学会計画系論文集』第577号, pp.9-15, 2004年3月。
Naengnoi Saksri(1991), Physical Components of Ratanakosin,
Chulalongkorn University Press, Bangkok
Kamthon Kulchon and Songsan Nilkamhaeng(1982), Physical Evolution of Eastern Ratanakosin: from the early establishment to political reformation, Silpakorn UniversityJournal, Special Issue Vol.4-5, Dec.1980-Dec1982, Bangkok
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