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2025年9月22日月曜日

アユタヤ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

K04 東南アジア18世紀の首都

アユタヤ Ayutthaya, 中部タイ、タイThailand


アユタヤは,スコータイに続く、タイ族第二の王朝として1351年から1767年まで416年間首都を経験した。タイ王国の中心、現在の首都バンコクを通る南北軸上に展開された国史においてアユタヤはチャオプラヤ川、パサックPasak川、ロッブリLopburi川に囲われた島状の土地に無数の建造物を構え形成されたが、1767年ビルマの侵攻により歴史に終止符が打たれる。この時の破壊は徹底したものであり、まさしく廃墟と化したことが知られている。また、続く王らの保護政策や、水上居住を主としたタイ人の文化的特性などから王朝が築かれた「島」は、その後100年以上ほぼ未開のまま残される。

アユタヤ王朝はスコータイ王朝の反クメール的性格(=温情主義的)から、反発してクメール文化に大きな影響を受けていたことが一般に言える。すなわち、ヴィシュヌ神を王に重ねる「神なる国王」(テーワ・ラーチャThewaracha)の思想が確認できる。また、そうした宗教理念に基づいて王宮の意義が重要視された。王朝の歴史は、ビルマの占領期(1569-1584年)を境に、「前期アユタヤ」と「後期アユタヤ」に分かれ、それぞれの期間に通用した首都名も異なっていたとされる(アヨータヤー (Ayudhya/Ayothaya)からアユタヤ(Ayudya/Ayudhya/Ayutthaya))前期アユタヤにおいてはサクディナーSakdina 制など中央集権化への足がかりが築かれ、後期において「港市国家」としての性格が開花した。港市国家では多様な民族構成がみられたこと、さらに外国人を支配層に組み入れつつも、ある一国が突出しないよう力の均衡を制御していたことなどが注目される。また交易を重視し、国家の多民族性を許容してきたことはアユタヤ社会の世俗化をもたらし、都市形態もこれに対応していた。王朝時代の都市空間構成に関しては、街路、水路は計画的に配されていた。島の北に王宮等の重要施設が配される一方、南部に外国人居留地が多く存在する。ただし、都市構造の決定は、政治、軍事、貿易、宗教など様々な要因によってなされる。

アユタヤが王朝の首都と見定められると、ウートン王 King U-Thong は神の住まいとして、聖域を定めることを考えた。聖域と世俗の地は、環濠によって区画されることになるが、すでにパサック川、ロッブリ川、チャオプラヤ川によって周囲の10分の9とり囲われた地に、北東の一角約0.5kmを掘削することによりこれを容易になした。また同時に土塁も構築された。この土塁は1549年にビルマのタベンシュウェティー王 King Tabinshwehtiによる侵攻の後、ポルトガルの技術支援を受けレンガ造に改築され、さらに40年後には現在のパーマプラオ通り Thanon Pa Maprow にあった北東のラインを川沿いにまで押し上げ前宮を城壁内に取り込んだ。島の内部には王宮、王宮寺院がヒンドゥーのコスモロジーに従い建設されていたといわれている。王宮は当初現在のワット・プラシーサンペットWat Phra Sri Sanphet の位置に建築されたが、ボロマトライロカナート王 KinBoromma Trailokanat により、北に移動されロッブリ川に接する敷地がとられた。これはさらに、ボロマコート王 King Borommakot により拡張されるが、王朝陥落の際に破壊され、のこった建造物もラーマⅠ世によりバンコクに運ばれた。この際、ポムフェットのみをのこして城壁の大部分も失われた。

アユタヤ島内に現存する主要な遺跡はほとんどが王朝建国来、最初の150年に建設された。すなわち、都市景観の形成は、前期アユタヤのうちに完成されたといってよい。都市の所感は、感嘆と蔑みが混在している。おそらく双方ともに忠実であり、二重の社会性の存在が指摘できる。すなわち、神格化される王権や貿易の利潤で富む高官とトレードオフする形で、集権制度で搾取される社会的身分の低い者達が同時に都市の構成要素であったとういうことである。特に交易都市として世俗化が指摘されるアユタヤにあっては、少なくとも17世紀には、随所で構築される世俗的な秩序の複合性が都市形成の大きな影響力を持っていたと考える。王朝時代の都市構造に関しては、5本の幹線水路が島を南北に縦断し、さらに細かな水路がこれに接続する形で無数に走っている。水上での生活の主体であった当時の状況を考えれば、この5本の水路に面して市街地その他の都市施設が築かれたことはほぼ間違いない。

現代への都市形成は1900年頃に遡ることが限界であり、かつ適当である。立脚点となる王朝時代から継承される都市構造は、川岸に限られた居住区と、島内の空白地帯、そこに北に偏って残された重要遺産であった。これを近代化以前の都市構造として現在のそれと比較すれば、島内の水路が消滅し、代わって陸路が敷設されている。陸路の敷設はバンコクにおいてはラーマⅤ世時代に「道路は弟で運河が兄」という関係が逆転してとらえられたと言われ、アユタヤにおいてもこの頃から陸上インフラが整備されていったと考えられる。ラーマⅤ世によってタイで初めての鉄道が敷設されバンコクと結ばれるころになると、アユタヤは近代化を迎える。島内で最初の道路としてウートン通りが建設され、1902年には遺跡の発掘に着手し博物館が建設される。1904年にラーマⅤ世はこの博物館を訪れ、「アユタヤ博物館」とこれを命名する。また、1908年にはアユタヤを重要文化地区に指定する。これによって島内すべての私有が禁じられた。当時は依然として水上居住が主流であり、住居は河川沿いに建てられることが多く、さらに島内の保護指定により、陸地の開発は島周囲に限られていた。

1932年立憲革命を迎えたタイは、アユタヤを中部で最初の州と制定し、島内のインフラ拡充を開始する。ロッチャナ通り Thanon Rojana、プリディタムロンPridi Thamrong橋がパサック川に建設されると、島内の開発が徐々に進行してくるようになる。1938年に財務省のプリディファノミヨン(Pridi Phanomyong)が島内の土地私有制限を一部解放するが、ピブン(Phibun Songkhram)政権の工業化政策、観光化政策によって、より大きな変化がアユタヤにもたらされる。陸軍元帥ピブン・ソンクラムはアユタヤの観光開発を推進し、州本部の新築、新プリディタムロン橋(1940)の建設などを次々に実行する。1966年に議会が歴史公園の保存を目的として、島内の一部と島の周囲の開発を許可したことは重大な転機であった。1976年には芸術局によって島の20%、1810ライ(1ライ=1.6ha)が歴史保全公園として保存が決定された。そして1991年に世界遺産としてユネスコに登録される。







 

参考文献

ナウィット オンサワンチャイ・桑原正慶・布野修司 「アユタヤ旧市街の居住環境特性とショップハウスの類型に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』第601号、pp. 25-3120063.

Derick GarneirAYUTTHAYA: Venice of the EastRiver Books, Thailand2004

Tri AmatayakulThe Official Guide to Ayutthava & Bang Pa-InFine Arts DepartmentBangkok1972

 

1776  年のアユタヤ by  John Andrews


チャオプロム地区施設分布

1967年 アユタヤの航空写真 (口=チャオプロムChao Phrom 地区 )


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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...